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昭和家族の年末年始

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明日はもう新年。 いつもより少しだけ台所をきれいにし、スーパーへの買い物も行ってきました。 今年最後のチラシ配りも何とかできて、ほっとしています。 大晦日の夜から元旦にかけての街の静けさ、とてもいいですね。 そして、正月と言えば、餅。 今年もくるみをすって、くるみ餅にして食べることをすごく楽しみにしています。 あと、食材としては、いくらとセリがあると私の中では、ぐっとお正月気分あがります。 年越しそばやお雑煮にのっけて食べたいなあ 自分が小さかった頃、大晦日は決まったルーティンがありました。 夕方になると、父からお風呂に入るようにと促されるのですが、そのとき必ず 「一年の垢を落としてきなさい」と毎年の決まり文句が・・・ どうやって一年分の垢を落とせるんだ?と、こちらも毎年思うのでした。 父と母は着物に着替え、母は着物の上に白い割着を着ていました。 私はその母の姿がとても好きでした(美しかったし、誇らしかった)。 そして、神棚に二礼二拍手一礼をし、 待ちに待った夕飯では、父がはりきって今年の我が家の10大ニュースの話をする(これが年頃になると、面倒くさかった)。 その後は、紅白歌合戦を見て、途中こたつでうたた寝しながら(後半、演歌歌手だと寝る)0時を回って正座して、新年の挨拶。 こうして振り返ると、結構、厳格な昭和の家族だったのかもしれません。 両親の大晦日、正月とはこうであるべき・・・ というものに何の疑問もなく暮らしてきたんだなあと感じます。 幸いにも?夫にはそのこだわりが全くなかったので、小さい頃からの習慣は、ほとんど自分が楽なように変えてしまいました(餅を食べる以外は)。 今年一年、ブログを読んでくださり本当にありがとうございました。 どうぞ、皆さま、良いお年をお迎えください。

やすらぎのポーズ

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昨日は今年最後のヨガ教室でした。 たくさん汗をかいた後は、少し長めのやすらぎのポーズで休息をします(ポーズ名はヨガによって違うらしい)。 仰向けに寝て、足を少し開き、手も体から離し、目を閉じ、完全な脱力状態。 このやすらぎのポーズが楽しみで頑張る一時間、といっても過言ではないくらい、 まさにやすらぎのひとときなのです(必死で寝てしまわないようにしている人、多いと思う)。 インストラクターの先生が、体の名称を言いながら力がちゃんと抜けるように誘導してくれるのですが、 「眉間の力身を手放し・・・」 と言ったときのこの部分、パターンの語りかけをしている時の自分の体の状態と、とてもよく似ているなあっていつも思うのです。 「そんなあなたのことを・・・」 と語りかけワークの中で、本当の「私」がパターンへ理解しているということを伝えていくところがあるのですが、 そのときの自分の眉間が、なぜかとても広がっていくのを感じます。 やすらぎのポーズのときの、この眉間が広がる感覚は、 考え事から放されて、体と心が一つになっていくような大地に沈んでいく心地良さ。 語りかけワークのときは、 少し目の前が柔らかく、明るく開けていって(まぶしさはない)、とても落ち着いた感じがあります。 こうして詳細に表現してみると、ちょっと違うところもありました・・・ 共通しているのは、インストラクターの先生から発せられる言葉と、自分が発する言葉、どちらも言葉が体を変化させていくということ。 言葉の持つ力が五感を通して体に影響を与えている。 すごいなあと思います。 眉間からはじまる(広がる)世界。 感じ取る私の体も、すごい・・・偉い・・・ちゃんと機能していることに感謝。 来年も汗をかきかき体を動かしていきたいです。

ひとりで生きる

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江原啓之さんの本を、本屋さんで立ち読みしました。 どの本に書かれていたか忘れてしまいましたが、 子どもが巣立った後に生じる、ぽっかり心に穴があく『空の巣症候群』の相談話。 外国では、往々にして、夫婦の絆の元に子どもが存在しているという考えに対し、 日本では、夫婦関係をおろそかにして子どもへ愛情を注ぐ、ということがあるので(一概には言えないとは思うが)、結果としてそうなってしまうということ。 子離れできない親にとっての、子どもの自律は、 子育てを終えたという安心感よりも、喪失感や虚無感、その後の孤独感というものに悩まされてしまうようです。 江原さんが言っていたのは、その孤独感を手放しなさい、というものでした。 自分が作り上げたものは、自分で責任を持ちなさいという意味なのでしょう。 そして、もう子育ては終了したんだという自覚と誇りをもって、自分のための人生を生きていくということ。 振りかえってみれば、 毎日食事を作り、お弁当を作り、洗濯をし、PTA行事に参加し、部活の送迎をし、子どもを通して人間関係もそれなりに培ってきた・・・ コミュニケーション力、社会性、同時に2つ以上のことを行うスキル、忙しさの中で楽しむ力、体力気力、など、 ひとりで生きていく力は、充分に養われてきたことに気づかされるのではないかと思います。 子どもの自律が、孤独へつながり、自分を苦しめるもの(悩ませるもの)ではないことが分かります。 そしてまた、それをきっかけに、これまで見ないようにしてきたものに目を向ける生活が始まるかもしれません。 こうした『空の巣症候群』は、夫婦、自分と親、仕事、社会など対象となるものは、さまざまあると思いました。 対象となることへの期待が強ければ、落胆も大きく失望も深いかもしれません。 人と関わりながら生きることは避けられませんし、そういったつながりがあって豊かな人生になることも知っている。 だからこそ、人と共に生きる中で、ひとりでも幸せに生きられる術を得ていなければならないのだと感じました。 相手がいて幸せになれる人生ではなく、 ひとりで向かう先はどこなのか、どうありたいのか、 少しずつ、志なるものを確立させていきたい、そうなっていきたいです。 クリスマス、お正月と、家族や自分が出会った人たちのことを思う機会が

クリスマスプレゼントの論文

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思いがけず、卒論の協力をさせていただく機会がありました。 発達障害における職場定着についてです。 発達障害でありながら定着して働いている方たちと、その企業担当者へも協力していただきました。 ヒアリングやアンケートを元に、とても素晴らしくまとめていただき、ご本人たちや企業側の自分が知らなかった一面を見聞きする機会となりました。 とてもありがたいことでした。 普段、インタビューを受けるなんてこと、滅多にありませんので、 密かに、これは楽しいかも・・・と思っていたら(興味本位で申し訳ないが)、ご本人たちもやはり楽しそうでした。 「もし話したくないことがあったら、無理に答えなくてもいいですよ」 と言われても、皆さんデリケートな問題ほど、詳細に丁寧に答えていたように思います。 他人に話すことで、過去の自分が客観的に見えたこともあったかもしれません。 後から振り返って感想を聞くと、 「自分の経験が、世の中の役にたつのかもしれない、と思うと嬉しかった」 こんなことをさらっと言うなんて・・・ とても誇らし気で、まぶしく見えました。 卒論は、恥ずかしながら自分が答えた部分もありました。 それに対しての学生さんの考察や感想を読むと、他人が感じ取ったものというのは、元は自分のことなのに、何か別のものに変換されるような感じがありました。 肉じゃがを作ったのに、翌日、つぶされて肉じゃがコロッケになっているような(具材は同じなのだが、美味しさが増す)。 そのあたりが、受け取った側の感性というか、個性が表れるのですね。 私が、障害者雇用に対しての古い価値観の殻を、企業がどうしたら破れるのかあの手この手で模索している部分について、 批判的な気持ちはあっても、関係性を決して崩さないようにむしろ親しくなっていこうとするのは、あくまでも自分の仕事は橋渡し役だからということ(安心して渡ってもらう橋)。 この、自分が言葉にはしていない部分を、学生さんが正確に、 いえ、そこに含まれる心情を想像し読み取ってくれたこと、的確に言葉で表現してくれたことにとても感動してしまいました。 素直にうれしかったです。 これは、私にとってのクリスマスプレゼントだなあって思いました。 その橋渡し役、と言っている私ですがー 本当に本当に数えきれないほどの失敗があります。

どんな暮らしはどんな働き方か

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自分が得意なこと、好きなこと、やりがいを感じられること、そういうことを第一に考えて就職先を決めていくものだと思っていましたが、 『どんな暮らしをしたい』で考えて良いという境野今日子さんの記事を読んで、なるほどなあ・・・って思いました。 なるほど、と思ったくらいなので自分はそうしてこなかったと思っていたのですが、 若い頃を思い出してみると、ありました。 初めて就いた仕事の、美容師がそれに近かったです。 手に職を付けたい、最先端の技術を磨きたい、とか言って東京へ出るための口実を考えたと思いますが、 なぜ美容師だったのかという本音のところは、 髪の毛を好きな色に染めて好きなヘアスタイルができるし、好きな格好ができる、 そんな毎日が許されるのは、美容師しかいないと思ったのでした。 その後、好みは年齢と共に変わりましたが、 どんな服を着て仕事へ行くのか・・・ということが自分にとって重要なポイントになっているのは、今も昔も変わりないように思います。 スーツやかちっとした服、ヒールのある靴で仕事をすることは耐えられません。 要は、体にストレスのない楽な服(体型は崩れるが)。 自然素材のものを好きで着ているので、 仕事でも普段着とさほど変わりない服装がいいし、色も好きな色だと落ち着きます。 どんな暮らし、を考えられる人は、自分を幸せにするルーティンがあったり、 自分のための時間の使い方を知っていて、趣味などが必ずあったりするのでしょうか。 そう考えると、ルーティンも時間の使い方も、自分にはこれといった自慢できる趣味なども、特に思いつかないのですが、 その代わり、仕事をしているときはどう在りたいか、どう時間を使おうか、これやりたい(趣味に近い感じなのか)、 働いていることが楽しいんだなあと思います。 そうして、仕事をより快適に行いたいために、家でゆったり充電できる環境(暮らし)がしたいと思うところがあります。 ときどき小旅行でリフレッシュして、きれいなものをたくさん見て、美味しいものをたくさん食べ、歴史を感じて今を感じ、自然の中に漂う・・・ 出来るだけ長く働いて暮らしたいと思うからこそ、だと思います。 今は良い仕事をするための暮らし方、になっていますが、 段々と、やってみた

忘年会の後はお勉強

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『魂の道場』 岩手クラスの仲間との初めての忘年会は、とてもほんわかとした楽しい時間でした。 私たち7名なのに、20名くらい入りそうな広いお部屋で笑ってしまいました。 その後の勉強会は、就活や仕事についてのテーマで皆さんの考えや体験したことなど語り合いました。 自分だけの経験では決して思いつかなかった視点や、感じ方に刺激されまくりました。 はじめてファシリテーターなるものを設けてやってみたのですが、それもとても良かったです。 楽しんだあとは、お勉強。よろしくお願いします! というメリハリ感が、集中力、意識共にぐっとあがり(忘年会とは違う楽しさを感じながら)、 一人一人のお話も何か安心してじっくり聞けたように感じました(これはファシリの方への信頼のたまもの)。 その安心感もあってか、今まで以上に、その人の話している内容がすーっと自分の胸に入ってくる感じもありました。 あーそういうことだったんだ、と点と点が繋がっていくような感じがありました。 ぽつりぽつりと聞く体験談と、持っているパターンと、いろんな表情や話し方、今発言している内容等々、 部分部分で見て受け取っていたものが、その人という大きな存在、全体像として形となって見えた。 また、文章をみんなで読んでいくという時間があったのですが、 皆さんの声の美しさに、魅せられました。 心に響くように流れるような音読が素晴らしいのです。 この素晴らしい音読のおかげで、本題が(結構長い文章だったのだが)またしても自分の胸の中にすーっと入ってくるような、染み渡るような、魂が揺さぶれるような・・・ 一人で家で読んでいたときとも違う内容の入り方だったように思います。 一人で学ぶことにも良い面はたくさんありますが、 こうしてグループで学ぶことで得られるもの、高められるもの、今の自分に必要なことがわかります。 感受性、受容性、統合力、結集力、協力、思いやり、尊重、感謝、包容力、想像力、柔軟性、考察力、観察力、発信力、ユーモア、知恵・・・ たくさんの資質を、特にこれまであまり使ってこなかった資質も使い、育てていきたいです。 皆さん一年、本当にありがとうございました。 来年もまた魂の成長をめざして・・・いろいろ練習させてくださーい。

忘年会の予定

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今日はこれから岩手クラスの忘年会(ランチ会)です。 全員揃って食事するのはとても久しぶりで(たぶん)、旅行に行く数日前のように楽しみにしていた自分がいます。 今朝、思い出したことがありました。 もうかなり前のことなのですが、12月になると何件もの忘年会(飲み会)の予定が入っていました。 今思うと恐ろしいです。 個人で会うものを含めると4~5件あったと思います。 会社関係の人、友達、ママ友、サークル仲間等々、自分から誘ったものもあったと思うし、誘われたものはほぼ断らなかったからです。 案の定、1件くらいはいつもドタキャンのようになってしまい(体調不良で)、 申し訳なさから新年会と称して翌年に約束をし直すということもあった。 何が恐ろしいかというと、 『断れない自分』と、『予定がびっしり入ることに満足していた自分』にです。 ●よく思われたい というのがあったと思います。 せっかく誘ってもらったんだから、関係性を壊したくない(壊れるのが怖いと思っていた) のりが悪いと思われたくない 誘ってもらったということは、自分は慕われている、信頼されている、だからそれに応えなきゃだめだ・・・ という理由から、飲み会に関わらずその動機で人との約束をしていました。 もう一つは、 ●予定があるのは充実していること、というパターン。 予定があるということは、それだけ自分にやるべきことがあって、やりたいこともあって、他人から求められるものもあって、 生きている実感を、スケジュール帳を見て実感していた自分がいたかもしれません。 この思考パターンは私の20代の頃確立されていったと感じるところがあります。 22歳でがんになり、その後も再発があり、後遺症があり、 入院と自宅療養を繰り返し、交友関係も次第に希薄になり・・・ 一般的には社会人としていろいろな経験を積み始め、若くはじける行動力で、楽しいことたくさんあったであろうこの時期に(これも自分のパターンだが)、 スケジュールが真っ白な生活。 この予定がないということが、世の中に必要とされていないことと同じ、というものすごい寂しさを感じていた自分がいました。 ですので、その頃の反動?のようなものもあったのかもしれません。 断れない自分は、最近はあまり顔を出してきません(特に、飲み会に関

悪口や愚痴を言う人がいたら

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発達障害や精神障害の方と、苦手な人とコミュニケーションを取るにはどうしたらよいか、というテーマで考えました。 苦手な人ってどんな人? 言い方がきつい人、自分の自慢ばかりする人、考えを押し付けてくる人、話しが長い人、等々出できた中でも、 悪口や愚痴を言う人、というのがありました。 そういう人たちから、その場の空気を壊さないように離れるにはどうしたらよいのか。 誰しも経験する、このシチュエーション。 発達障害の方にとって、その場の空気というものがまずはどういう空気なのか、察するということ自体苦手な方が多く、 適当に話を合わせるとか、話しをそらすとか、さりげなくその場を離れるとか、 出た意見の通りにはいかない、となかなか難しいと頭をかかえます。 また、精神障害の方にとっては、相手からどう思われるかに神経をすり減らし、自分はどうしたいというところまで考えられず(考えすぎて分からなくなる)、疲れ果ててしまうようです(疾患の違いにより一概には言えないが)。 他人の悪口や愚痴話に交じることなく、でも話している人たちにも悪く思われないようにその場から離れるのが理想、 というところはほとんどの方が思うところでした。 他には、会話に入らなければ自分の立場が危うくなるから、一緒になって悪口を言った方がいいという意見もあれば、 悪口はよくないから言わない方がいいと言う、という真逆の意見や、 悪口を言われた人の良いところも教えてあげるという意見もありました。 自分の気持ちに正直になるのか、ならないのか、という論点に入ったかと思った矢先、 なぜその人たちは、そんな悪口を言わなければならないのか、その人とどんなことがあったのかを聞きたい、 という新たな意見が出ました。 なるほど・・・ さらに、聞いた後にその場にいたくなければ離れる、だそうです。 相手を理解し、尚且つ、自分の気持ちに正直な行動も取れる。 なかなかいいなあと思いました。 どの意見も誰も否定することなく、ただあるものとして受け止めていくと、 もしかして、正解ってない・・・ ということをみんなで実感したのでした。

報われたい

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このところの自分のテーマである、 ●報われたい、というパターン 。 そもそも、このパターンがあるからといって、「私、報われたいんですよ」って普段口にしたことはないです。 「絶対に報われたいんだけど」と思いながらやっている自覚もない。 それなのに、この パターン が確かに存在しているということがわかります。 「報われる」の意味は、 努力や苦労により、それに見合った成果や成功、それ相応の結果が与えられること。 自分がそれだけの努力をし、苦労をし、こんなに頑張っているんだ、という認識があるということになります。 この場合の努力って何かの我慢の上に成り立つ苦しさを感じました。 だから、もどかしさ、いらだち、無力感、寂しさという感情で訴えてくるのでしょう。 そして、それ相応の結果が与えられる、というくらいなので、 当然成果が出るだけのことを自分はやったんだという自負の強さ。 うぬぼれとか、過大評価に近いかもしれません。 成果を出すために(その目的で)やったという動機もあります。 抑えて抑えて、そう思っていないと偽り、演じ、認めたくないものがパターンであることが多いです。 口に出したこともないし、そう思ってきた自覚がないというのは、 それだけ、根深いものだったのかもしれません。 そんな心の奥深くに閉じ込められていたパターンが顔を出したということは、 もう自分がそのパターンに向き合える準備ができたということでもあります。 パターンは、今ならば充分気づいてもらえるということが(絶妙なタイミングが)わかるようです。 それは喜ばしいことでもあり、 パターンがいてくれたから気づくことができたということに、感謝だなあと思いました。

白パターンもいろいろある

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一つ仕事に取り掛かるたびに、もどかしさやいらだち、無力感、寂しさなど感じながらやっていることがあります。 ●報われたい、と言う パターン です。 この黒パターンのままで仕事をし続けていると、気持ちが沈んだり、冷静さに欠けたり、目先の成果に捉われてしまうことが多いので、 早くに白パターンを選んで行動したいと思ってしまいます(早くこの状況を変えたいという焦り)。 でも、なかなか胸のあたりにすとーんと落ちる白パターンを見つけられずにいました。 早く・・・というところが危ないポイントで、 ゆっくり、丁寧に丁寧に今の自分にとって、すとーんと落ちる言葉をつなぎ合わせていくことが大事でした。 〇もしかしたら、もう報われないことがあったとしても、 大丈夫でいられる「私」になってきているのかもしれない 「もしかしたら」と「かもしれない」を使うことで、黒から白へ少しずつ変化していっていいんだよ、という今の自分に無理がない言葉です(この長さがまたいい)。 やっと、安心してパターンを選び変えることができました。 この言葉を口にしたときの、お風呂に浸かっているときのような心地よさ、温かさ、肩の荷がおりていく感じ。 この感覚を頭だけでなく、全身にしみこませながら、じゃあどんな行動を「私」はとっていくのか。 成果が感じられなくても、思うような相手の言葉がなくても、今自分がやれることを誠意をもってやっていこうと行動していく。 そうして、また次の段階へと選ぶ白パターンもまた変化していきます。 〇もうそこに居続けなくても大丈夫 報われるのかそうでないのか、ということだけの世界に住み続けなくてもいいし、そこから離れても大丈夫な自分になっている、という白パターンの言葉です。 今はまたこちらの言葉がよりすとーんと胸に落ち、 感覚としてはさっぱりとした明るさが加わった感じがしています。 一度選んだ白パターンが進化していく。 自分に向き合う過程で、パターンの微妙な部分、繊細な部分を言葉としてどう表していくか、それがパターンを理解する力にもつながっていくように思いました。

現実って何?

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毎日、人と関わらない日はないかもしれません。 このとき何かしらの感情(嬉しい、楽しい、悲しい、イラッとしたなど)が大なり小なり感じられます。 それは自分の五感を通して発生するものですが、 どこか現実のことなのに、非現実のような、深刻さを感じられないような・・・ これが全てではない、という何か平穏なものに包まれる感じがたまにあります。 そういう感覚が続くときは、いつもよりも客観的に物事も見えているかもしれません。 これは自分に関係なくて相手に起きていること、 これは相手に全く関係なくて自分のことだな、という区別がぱっとわかる感じのものです。 非常に冷静に、感情も動いているのか動いていないのか、ただじーっと見ているような現実味のない感じ。 現実って一体何なんでしょう。 まぼろしとどう違うのか(違うということは頭ではわかるが)? こう思うのは、おかしいのかもしれませんが(しかもうまく伝えられない)、 ただ電車の窓から流れる景色を見ているような・・・ ときどき、そんなふうに感じることがあります。 現実とは、厳しいもの、甘くないもの、日々自分がやらなければならないもの といった固定観念(これは自分のパターン)が、少しずつ変化してきています。 厳しいものには変わりないけれど、その厳しさの中にも安らぎや幸せを感じている。 甘くないのは、本当に甘くないのだけれど、それは辛く避けたいだけのものではない。 日々自分がやらなければならないことも、義務ではないことへと少しずつ変わってきている、ということかもしれません。 今日は、たまった洗濯がある。 こういう現実も普通にあります(これはまぼろしじゃない)。  

自分が作りだす

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昨日は、岩手クラスでたくさんのことを学びました。 少しずつ振り返りながら、頭から胸のあたりへ落としていくように整理をしています。 『自分を作っていく』 という言葉が心に残りました。 これまで、自分というものを意識的に作っていくというよりは、 何かの経験を積みながら、いつしか作られていった、という感じに近かったと思いました。 まだ経験していないとか、過去に経験がないとか、経験のあるなしは、自分の責任ではないところで起きているかのように受け止めていました。 この考えでは、人生に起きることを自分で制限しているのと似ています。 やはり、自分に経験させる、そういう自分を作っていくのがいいなあと感じました。 本気になればできる、という、 本気になってから、そうなってからやるということの意味も考えました。 ただの事実としての本気(本当の気持ち、真剣な気持ち)とは違い、この本気にはとても曖昧さが感じられます。 誰が決めたものでもない、期限も責任もない、実体がないようなものです。 本気というのも気持ちの一つですので、実は自分で作り出すことができるのだ、ということを学びました。 だから、本気になればできる、のではなく、 本気という自分を作る・・・それが『自分を作っていく』ということ。 これには、目から鱗が落ちました。 そしてさらに、自分を作っていこうとする時、作ると決めることが大事なようです。 決めた。という覚悟です。 もしかしたら、決めたのに、ダメだった、何かうまくいかなかった、思うように行動が伴わなかった等々あるかもしれませんが、 ここも一度や二度ではあきらめずにやっていくことが、自分を作っていく工程で大事な部分です。 結果よりも、決めた→そして行動した。ここに価値を感じます。

麻雀で鍛える

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利用者さんと一緒に麻雀をしました。 まだ役(点が取れる条件)がよくわかっていないので、負けっぱなしなのですが、とてもおもしろいです。 今日は一人足りない、ということで自分から率先して仲間に入れてもらいました。 何でもそうなのでしょうが、 麻雀をやればどんな人か大体分かると、麻雀歴大ベテランの人たち皆さん言っています。 その意味が何となく分かる気がしました。 それで、私の場合どうなんでしょう、と観察。 単純なところでは、『顔に出やすい』というのが、まずわかります。 もしかしたら、これいけるかも(リーチできる)と思うと、 嬉しくて顔がにやけてしまう(または口元が動く)のです。 はいはい、来ましたよーって言いたい気持ちを必死に抑え、 思わずどこかに力を入れずにはいられません(自らを落ち着かせるために)。 我ながら小さい頃からそうだったと、いわゆるお調子者の気質ですね。 嬉しさや、楽しさを表現しないってとても大変です。 自分の中によく表れてくるパターンも見えてきます。 負けたときの言い訳を結構早い段階で、ちょこちょこ入れてくる自分。 (いいパイが回ってこないから)これは負けても仕方ないよねーって言いたいのでしょう。 ●できない人と思われたくない ●できる人と思われたい という種類のものです(かなり恥ずかしいが、事実)。 こうして遊びとはいえ、いろいろ表面化してくるようです。 私から見ると麻雀とは、かなり黙ってやるもの、というイメージですので、 皆さんのいつもの空気感を壊さないように(郷に入っては郷に従え)、 そこは気をつけながらやっています。 麻雀をしていていつも思うのは、普段使っていない脳の一部を使っているんじゃないかということ。 それほど、終わった後は、もうこれ以上思考できません・・・ と思うほど頭を使い果たした感があるからです。 すごく集中力が鍛えられます。 そして戦いの後は、同じ釜の飯を食ったかのような、不思議な親近感が増していくのでした。

見返りが欲しかった

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先日から自分のテーマとなっている、 再び訪れたつらいこと について。 悲しかった、寂しかったという感情を見つめています。 他人のために、一生懸命やったことが、まったく報われなかった。 本当ならば、自分がしたことによって、 喜ばれ、役に立ち、感謝され、信頼関係も深まり・・・と思っていた。 でも、自分が欲しかったものとは真逆のものが与えられた。 私は、見返りを求めていたんだと思います。 これをやったら、喜ばれるはずとか。 一生懸命やったのだから、感謝されるべきだ、とか。 それなのに、感謝はされない、批判はされる、恨まれる・・・ だからこんなにも、悲しくて寂しくて、つらいと思ったんだと思います。 自分という人間の評価を、他人からつけてもらおうとしていました。 自分には自信がなく、信頼することができなかったのです。 だから、他人から高い評価をつけてもらうために、 他人へそれ相応の対応をして、がんばる。 関係性を未熟な自分が壊してしまったことへの悲しみや寂しさ。 それも確かに一部あるかもしれませんが(自分の パターン のために壊してしまったこと)、 でも、この関係性とは、見返りをもらえる関係性だったのかもしれません。 『依存』の上に成り立つものです。 他人から喜ばれるために(それを自分の喜びとするために)、他人によりかかって生きていた自分がいたんだなあって思いました。 もう少しじっくり時間をかけて、語りかけをしていきたいです。

なんとか続いています・・・

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約一か月ぶりのヨガ教室。 すっかりカチコチになった体で、今日は覚悟して行きました。 ひと月も体を動かしていないと、 肩がガチガチになります(すっかり肩こりの人になってしまった)。 肩だけでなく、すべての筋肉が硬くなってしまっていて、 ちょっとひねるポーズも、脇腹がつりそうに・・・ 『筋肉はがし』と言われるマッサージは、左右で痛さが違っていて、 足って両方均等に使っているつもりだったのに、右ももがすごく痛かったです。 もともと無い私の腹筋と、足の筋力は、ほぼプルプルふるえっぱなしでした。 緊張と弛緩。 呼吸さえきちんとしていれば、吸って(緊張)吐いて(弛緩)自然に動作と合わせることができる・・・はず、なのですがー 体勢がきついと、つい息を止めてしまっているのですね。 インストラクターの先生方が、気持ちよさそうになめらかに動くのは、この呼吸にあるようです。 気持ちよさそうなのもそうですが、 先生方(みんな美人)、お仕事とはいえ、 いつも笑顔でさわやかで、動作も姿勢も美しく、声もよくとおり、惚れ惚れします。 ヨガで体調不良が良くなったという経験が皆さんあり、 体の変化に伴い、心の安定と前向きな姿勢が身についたということも、どの先生方も話されています。 やはり、心と体は離そうにも離れられないもの、連動していくものなのですね。 レッスンの最後には、先生が感謝の言葉を述べるという時間があります。 呼吸を整え、目を閉じ、合掌をして、 ーーー今日、こうして皆さんとヨガができたこと、ヨガができる環境がここにあることに感謝致します。皆さんの一日が、今日も愛であふれていますように。--- たくさんの人の協力があってはじめて、自分はヨガに来れているということ、 ヨガができる体が今日もあるということ、 そして、たくさんの愛が自分に、地球に、宇宙に注がれているということ。 先生によって選ぶ言葉がちょっとずつ変わり、また、その人らしさが出ます。 手を合わせて祈る、この瞬間が私はとても好きです。 今年の目標4項目のうちの一つでもあった、ヨガを続ける。 まずは続けられているという点で自分としては頑張ったかなあと思います(唯一の汗かく運動)。 今年残り少ないレ

離れていってしまった人

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以前経験した、とてもつらいこと。 また再び、それに関わる出来事がありました。 その時と同じ「つらい」を感じとり、怖がっている自分がいました。 信頼されたい いい人でありたい 自分がいかにその人たちのことを思ってやったことか、 自分をわかってもらいたい・・・ そんな パターン で接した結果、関係性はだんだんと悪くなり、 最後は離れていってしまった人、で自分の中で区切りをつけたような感じでした。 その頃は、頭の中が日々ぐるぐるし、ケアしないパターンが積み重なり、どこから手をつけたらいいのか・・・ こんなに混乱させてしまったことに、後悔の念でいっぱいでした。 でも同時に、苦しさから解放されたほっとした自分がいたのを覚えています。 顔を会わすことがなくなると、 パターンも暴れる必要がなくなり、 次第に、その後悔した経験を(同じ失敗を)しないように意識するようになりました。 それはそれで、知恵として身につき、役に立っていた部分もあったかもしれません。 でも、乗り越えたものではなかったので、 辛いことの中にあった、自分を知るというこの上なく大事なことを、 ただ先延ばしにしていただけだったんだと、今になって思いました。 つらいと感じたことを思い出していく作業。 全部パターンでのやりとりで(相手にとっても、自分にとっても)、 本当の「私」ではないところで起きているだけなのが分かります。 その頃は、なかなかパターンと「私」を分離することができませんでした。 語りかけも途中であきらめてしまい(強い意志を持ってやろうとしていなかった)、 パターンに飲み込まれてしまっていた。 そんな勇気がなかった弱い自分。 再びの出来事に、あの時の自分なのか、今の自分が感じているのか、 怖い、と思った途端にパターンが勢いづいていくのが分かりました。 そんなとき。 偶然つけたTVに、その人とすごく似ている人が出ていました(よく見ると似てないのだが)。 笑ったときの雰囲気がそっくり。 そのくったくのない笑い顔に、胸のあたりがざわざわし、 怖いような、でもちょっと違う感覚がおこりました。    何度も、その似た人を見ているうちに、 「あー、以前はよくあんな風にあの人笑っていたなあ」 怖い顔、苦しそうな顔、落胆した顔、そんな顔しか思い

黒か白か、選択してみる

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今日はきりっと、冷たい空気が肌に突き刺さるような寒さでした。 肉まん、あんまんが美味しい季節ですね。 昨日の続き で、 ●自慢した自分は最低だ という パターン に語りかけをしました。 これだけでもかなり、落ち着く感じがあります。 パターンが、やっと自分の存在に気づいてくれたという、ほっとしたような気持ちになるからです。 今日はその後、黒●パターンに対する、白○パターンもつくってみました。 この世は陰陽という2極でできていますので、黒があれば白もある。 ○もしかしたら、自慢することが最低だと決めつけなくてもいいのかもしれない という白パターンを作り、選んでみました。 実際には、黒パターンの部屋に入る本当の「私」と、 白パターンの部屋に入る本当の「私」とで、部屋に入ったときの感覚を味わって、心地よい方を選ぶというものです。 このシンプルなやり方は、小さな選択をするときにも使うことができます。 今、肉まんを食べるか否か・・・とか。 気をつけなければならないことは、 本当の「私」で意識的に選ぶということ。 なんとなく~では、パターンが(思考で)選んでしまうことがあるからです。 頭ではなく、胸のあたりに意識を集中させ、隣り合わせの二つの部屋を作り、 入ってはただ感じる、というものです。 今回の白パターンは、今の自分にとって無理がなく、 ああ、そうだ、最低ではないよね・・・ と実感できるものでした。 ふわっと軽く体が浮くような、肩の荷がおりるような安心感。 そうしたら、ここで終わらず、この感覚を実際の日常へ行動として移していきます。 例えば、今の私ならば、 今日ちょっと褒められたことがあったのですが、否定しないで受け取るということをしました。 直接的な自慢をする行動ではありませんが、 自分の自慢であることを認めるような、そこに謙遜はなかったように思います。 これができた今日は、ちょっと清々しさがありました。 こうして、パターンについて、書かれたことを読むと そんなに複雑で難しいワークでもなく、それだけ?と感じる方も多いのかもしれません。 ですが、実行するとなると別。 実行がなければ、無意味といっていいほど、頭での理解だけでは状況が変わるということはありません。 さらに、自分のものとしていくことは、

理想の自分は、みっともなくないこと

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自慢するのはかっこ悪い、みっともない、と思っている自分(これも パターン )がいます。 理想は、自慢しない人で、 謙虚でさり気なくすごいことをしていて(すごいことって何なのか)、 努力しているところを他人に見せない人、嫌味のない人がいいって。 だからそういう人になりたいなあ、と思っている自分がいました。 ・・・こうして文字にして書いてみると、 そう思っていることの方がよっぽどかっこ悪い。 と客観視すると思えてくるのですが、 これはパターンですので、思考で簡単に処理してしまわないようにしたいと思います。 話を戻しますと、 自慢するつもりじゃなかったのに、うっかり自慢をしてしまったんです。 言った後に、 「これって、私ってすごいでしょ、と言っているのと同じじゃん・・・」 そう気づいた瞬間、ものすごい恥ずかしさと、嫌悪感が走りました。 そして、その発言を何とか打ち消したいと思い(自慢していないということを訴えるかのように、しゃべりは続く)、 さらにみっともない感じになってしまいました。 他人の自慢話を聞くことも(程度にもよるが)、そんなにいい気分ではないし、 ましてや自分が自分の自慢をしたことによって、他人から軽蔑されてしまうのは耐えられないと思いました。 自分は、人様の前で自慢するような人格の低い人間じゃないですよー と思いたいのですね(これこそパターンなのだが)。 だから、その後に、これは自慢じゃないですよ的な、見苦しい取り繕い方をしてしまい、完全にパターンと同化して行動したのでした。 ●みっともないことをした自分は最低だ 何でみっともないことをした自分は最低なのかは、 自慢するのはみっともないことだと思うし、 謙虚でなければならないと思うし、 自慢していないかのようにふるまった自分は人格が最低なんだって思うからです。 ●自慢すべきではない でもいいかもしれませんし、 ●自慢することは最低だ というパターンもありそうです。 似た言葉ですが、ニュアンスが変わってくるので、どれがしっくりくるか・・・ その時の感情をよーく思い出しながら、 しっくりくるパターンに語りかけをしていきたいと思います。 ところで、今日は小雪が舞っていました。 今夜もかなり冷え込んでいますので、 みなさんも、風邪に気

ふつうの休日

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今日は休日出勤の代休。お天気は雨。 せっかくの休みなので、朝寝坊をしたいと思っていましたが、早く目が覚めてしまいました。 朝ご飯を食べて、夫を送り出してからまた寝ました。 お昼ごろ、今日は何をしようかなあ、って考え(もうすでに半日過ぎてるが) 約一年ぶりにやや近所にあるケーキ屋さんに行ってみました。 そこでダークチェリーのショートケーキと、こだわりコーヒー(普通とこだわりと2種類ある)を注文し、 ケーキは全体的に甘さ控え目で、すごく美味しかったです。 食べていて、思い出したのですが、 確か一年前も同じケーキを食べたなあ~ 一度美味しいと思うと、同じものばかり食べる冒険心がない自分に気づきました。 その後、整形外科に寄って、 なんと今日は先生相当忙しかったのか、椅子に座らずにカーテンの影から現れたと思ったら、 「まだ痛い?」 「ほぼ痛くないです」 「しびれは?」 「おかげ様で、あれから直ぐよくなりました」 という会話が立ったままあって(私は一応丸椅子に座っているが)、 「薬もう少し飲んでね」 と笑顔で言われて終了。 その後の看護師さんとの会話の方がむしろ長く、早く終わって良かったと思い帰ってきました。 家に帰ってからも、特に家事もせず(たぶんこの後もやらないだろう)、 これといった休日にしかできないことをするわけでもなく・・・ とてものんびりと、ほんわかした一日となり、良かったです。 休日は充実させたい、または、充電させたい、 という気持ちがいつもどこかあったように思いますが、成り行きに任せたごく普通の一日に幸せを感じました。 ケーキ屋さんにはクリスマスのオーナメントや小物が並び、 そうだった、もう師走なんだあ・・・ あと少しで年末が来るという、この早さにびっくりですね。 今年こそは、家の掃除を早めにやっていきたいなあ

想像でしか分からないとしても

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自分が経験していないことは、どんなにがんばっても想像でしかわかりません。 その想像も、自分が経験してきた人生の出来事の中で、唯一近いものを探したぐり寄せ、 精一杯イメージをし、 そのときの感情を呼び起こし、 きっとこんな気持ち、こんな状態なのではないかなあ と思うだけなのだと思います。 自分が経験したことでさえ、100%理解したといえないことばかりですから、 他人の人生なら、数%・・・ すごく大雑把に、「辛い」「悲しい」「寂しい」というように、 どれかの感情に当てはめてはみるものの、むなしいくらいその感情の濃度や細かい部分が分かっていない。 障害を持つ親御さんから話を聞く機会が与えられましたが、 自分にはもしかしたら、どれだけやっても(この仕事を続けていったとしても)分かることがないのかもしれない、と思いました。 また、今までも、堂々と相手の気持ちと大きく外れたところで話しをしていたのではなかろうか・・・ と、胸がしめつけられる思いがしました。 少しでも相手を分かりたい、理解したいという純粋な気持ちで接してきたつもりだけど、 やっぱり、自分の経験ではないから、分かるはずがない。 「理解したい」という自分が発してきた言葉そのものが、何か薄っぺらで、無機質な言葉のように感じました。 それでも、 知りたいという気持ちが、ずっと自分の中にあることも事実です。 どんな思いでこれまできたのか、今があるのは、どんなことがあったからなのか、 ご本人と親たちの望んでいること(これは、本当の「私」が望むことを想像して)、 未熟な自分がたくさんの人を介して、教えてもらっていることは、 本当にありがたくて、関わらせてもらえる環境に感謝です。 私にもし、誰かのこの経験、誰かのこの人生を、与えられたとしたらどう生きただろうか。 他人の人生に触れるたびに、想像し、考えます。 一人につき一つの人生ですから、 自分の代わりに、他の人生を経験してくれているように思うのです。 私の代わりに、あなたがこの経験をしているんだと。 だからこそ、その人の生き方を知りたい、思っていることを知りたい、 と願ってしまうのかもしれません。 人を知りたい、という興味が自分にはとてもあり

シンプルさと無駄

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シンプルライフを考える時間がありました。 『屋根ひとつ お茶一杯 -魂を満たす小さな暮らし方- ドミニック・ホーロー著 講談社』 この本を参考に、自分なりのシンプルライフを実践していこう、という小さな会です。 今日は、無駄が削ぎ落されていくことで、頭が整理されていく、という話がありました。 これは無駄だ、と感じることは、人によって違ってくるのだなあと思いました。 例えば、考えても無駄、ということがあります。 四六時中考えてみて、考えても結局大して何も変わらないことを(考えすぎて、自分の状態を悪くするだけだったなんてことも)何度か経験して、やっとその意味が分かる。 ということもあるので、 それはむしろ、考えたことは(その経験は)無駄ではなかった、ということにもなります。 もちろん考える内容によってですが、無駄にはどんな役目があるのだろう、と考えたりしました。 私にとっての今はっきりしている無駄と思えるものは、 夜に大して面白いと思ってもいないTVをだらだら見ることです(首を痛めるまで、これがやめられなかった)。 だらだら見るのは無駄、と自分が決定するまでに、 全く見ない選択をすぐには選ばず、どうせ見るならば録画したものをまず見る。 その後、それでも見たいTVが無かったら思い切って消して、別のことをやる。 そしたら、その別のことをやっている方が充実していた、楽しかったという経験をし、 はじめて、本当に面白いと思うTV以外は無駄、を実感するというものです。 面白いTVを見ている時は、 一日の体と頭の疲れを取りさっている時間だということも、今はあるかなあと思うからです。 無駄を削ぎ落すとは、 彫刻刀で荒く木を削り、全体像が見えてきたら、 細かいところを少しずつバランスをみて調整し削っていくイメージです。 必要なものを残していくためにやること・・・ すぐに、削ぎ落とす(やめる)のではなく、 その調整していく過程(変えたら良かったという経験と実感)に、 シンプルライフを実践していくおもしろさを感じています。 同じ本をみんなで読み、感じた箇所が同じであっても、微妙にとらえ方は違うし、 どれも今の一人一人への、正解なのだと思いますので、その解答を聞くことも楽しいです。

苦痛と交換に

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今日も一日、おかげ様で姿勢よく過ごしました(はい、まだまだ首は痛いです)。 この数日間、この痛みによってもたらされた発見があります。 まずは、仕事で。 私はいつも予定を、ぽんぽん入れてしまいがちなのですが、 入れたいと思った日から、さらに間隔をあけて約束を入れるようにしました。 すると、あたり前ですが、余裕が出て慌ただしさが減りました。 首が回らないほど忙しい・・・ と言いますが、まさにこの数か月私は首が回っていませんでした(そして、本当に回らなくなった)。 また、動きが非常ににぶくなっているのですが、 にぶくても大丈夫というか、急いでやっても、ゆっくりやってもさほど変わらないことを知りました。 頭の回転って、そんなに急いだところでいいものが出せるわけではないんですね。 むしろ、簡略化したり、ゆっくり考えた方がいいアイディアが浮かぶかもしれないと思いました。 それから、多動性のある私は、立ったり座ったりがとても激しいのですが、 あまり動かないで落ち着いて仕事することもできるんだ、ということも知りました。 本当に普段、自分って、どういう働き方をしているんだ?と可笑しくなります。 そして家では、 食欲がないので、食べる量も少なく、質素なもので十分で、大好きな甘いものも今は入らないです。 その結果、少し顔がほっそりしたような気がします(誰にも言われていないが)。 何もする気が起きないので、テレビも見ず、寝る時間も早い(日記を書いたら即、寝る)。 治ったら、早くヨガがやりたーい・・・と、動ける喜びを今からかみしめたりしています。 夫は家のことをやってくれたり、湿布を貼ってくれたり。 私へ、いたわりの言葉を何のためらいもなく言ってきます。 「早く、良くなるといいなあ」 これには、素直にありがたく、幸せを感じずにはいられません。 動き方(行動の仕方)が変わると、見え方も変わるんですね。 苦痛と交換に、今までと違う見方があることを教えてもらったような気がします。

やってしまった

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首を下から上へ思い切り変な体勢で振り上げ、ぐぎっとやってしまいました。 今、首がとても痛いです。 そんな動きをしたら、ヘルニアがある私の首はすぐ痛めてしまうと、わかりきったことなのに、 何でやってしまったのか。 とほほ・・・ という言葉がむなしくも合います。 病院の先生から、「首にアレ付けますか?」と聞かれました。 コルセット(アレのこと)を首につけた方が安定して治りやすいようです。 つける恥ずかしさと、この痛みとどっちを取るか・・・ 「先生、アレだけは嫌です」迷わず痛みを取りました。 朝、メイクをするときびっくりしたのですが、 ファンデーションを顔にのばすときも、首って使っているんですね。痛いんですよー 車の運転も、ブレーキを軽く踏むだけで、首に力が入って結構響いて痛いです。 そして、一番は寝ているとき。 寝返りしたくなると「痛、たたた」と声に出しながら、手で、そーっと頭を持ち上げて負担をかけないように体勢を変える。 首の存在をこれほど意識したことがあったでしょうか(3年前にヘルニアと言われた時は意識したが)。 そして、あらためてですが、私の首の役割はこんなに随所にあったとは・・・ と思うほど、すごく使っている場所だということがわかりました。 しかし、幸いにも、今この痛みのために姿勢が良くなっているのは、怪我の功名。 背筋から頭をまっすぐのばして前を向いているのが、楽な姿勢となっています。 椅子に座っているときも、少し腹筋を使いながら、上半身を起こして(前かがみには決してならず)顔をあげてパソコンを打ちます。 周りから、「姿勢いいね」とここ数日言われ、普段どれだけ悪いのか、と思いました。 このまま良い姿勢をなるべく保ちたいものです。 あたり前にあった首。 けれども、首がちゃんと動くということが、こんなにもありがたいことだったんですね。 制限された動きの中での生活であっても、それなりに他の部分が動けていることに感謝です。 やはり、肉体を持つ人間として生まれていますから、 これからもう少し鍛えたり、ほぐしたり、休めたり、日々使ったりと、 心と同じように体にも注目したいです。 私の体、いつも頑張ってくれてありがとう。

新たなスタート

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そこは、長い間気づかないほどに、薄暗い場所だった。 でも、そう信じることをやめてみようと思ったときから、遠くに光が見えた。 そこへ向かって一歩、二歩、と進んでいく・・・                 昨日は 『魂の道場』 岩手クラスの勉強会でした。 まだまだぎこちなさはあったかもしれないけれど、 今までにない優しい光がさし込むような時間を感じました。 これまで皆さんと一緒に勉強してきた日々は、 確かに自分や自分の周りへの良い変化をもたらしてきたと思います。 それでも、昨日あらためて感じたのは、 『何も分かっていなかった』ということが分かったこと。 『分かる』ということは、 何か解決するような、完結したような、成長した自覚のある自分がいました。 でも、その人の段階においての『分かる』であるだけ、なんだと思いました。 その段階を十分にやりきり、 もう次の段階へと進みたいと望むものがあってはじめて、 『分かっていなかった』ということが、見えてくる(分かる)のだと感じました。 もしかしたら、これの繰り返しが人生なのでしょうか。 私は、このクラスのみんなにとても助けられてきたことを、昨日とても実感しました。 自分がこの道を進んでいきたいと思ったこと、 自分に嘘はつけないんだ、ということを知ったこともそうです。 この助けは、自分がはじめから願っていたものではなく、 共に学ぶ中で、自分のあるべき姿を導き、みんなが引き出してくれたのだと思います。 みんながそれぞれに、話を大切に、しっかり、丁寧に聞いている。 言葉を取りこぼさないように、一生懸命に聞いている自分も感じました。 今までと同じ時間であっても、とても意識を集中させて話し、聞くことができたのがすごいことだと思いました。 意識は、自分の意志で創り上げていけるものなのですね。 自分たちがまぎれもなく、築き上げてきたものがあった。 その土台が確かなものであるから、『分かっていない』ことを認められたのだと思います。 自己開示って、ものすごく勇気がいること。 でもそれも、ただの パターン( 思い込み)です。 自分を信じて話す。 たとえ信じられないようなぐらぐらした自分であっても、信じると決めて話す。 相手に開示は望まなくてもいい。 自分のためにする。

あんな言い方されたくなかった

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言い方がきつーい、と思ったことがありました。 言いたいことはわかるけど、グサッとくるーって。 これまでの付き合いの経験から、もしかしたらそんな風に言ってくる可能性がある、 とは多少想像はできていたものの、やはり相手にとって思い通りのことではなかったのですから、 言われても仕方なかったのかも・・・ そう分析し、 相手が言った通りに、背景に感情を一切含めず、言葉の内容だけを受け取ってみました。 そうすると、自分が否定されたのではなく、そういう『事実がある』というだけのことだった。 このように、よーく考えるとそうだった、ということは一般的にあります。 感情をコントロールするための対処方法であったり、 物事をスムーズに運ぶための思考的理解として、とにかく頭を使って冷静になって分析するのです。 でも、このやり方には限界があるかもしれません。 パターン が引っかかった事として、 「グサッとくる」という悲しく悔しい感情に注目してみると、別の解決方法が見出せます。 どうして、グサッときたのか、悔しかったのか、何が悲しく思ったのか。 ●あんな言い方をされたくなかった このパターンが自分の中にあるからです(ここが非常に大事)。 ●あんな言い方、の内容分析よりも、 この瞬間の感情を認めることが大事(何も感じていない、とはいきません)。 頭だけですぐに切り替え、『事実がある』と受け止めてしまうのと、 感情感覚として湧きあがったものを認めてから、パターンを見つけ、受け止めるという選択をしていくのとでは、 その後の行動の質が変わってきます。 例えば、 ●あんな言い方をされたくなかった という黒のパターンがあると同時に正反対の白のパターンというものが存在します。 〇あんな言い方をされてもいい、です。 これを選べていたら何の問題もありませんが、これを選ぶには、少し強引な感じがありますので、 〇もしかしたら、言われたことを、事実として考えてみてもいいのかもしれない という白パターンを創ってみます。 これは実際に私がしっくりとくる、心から望んでいる、こうなっていきたい姿です。 このように、本当の「私」が黒と白を選び変えて、選んだものを全身にしみこませて行動に移していくというものです。 ※これは白黒ワークというものですが、いつかま

うさぎと暮らす

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今から10年ほど前、うさぎを飼っていました。 真っ白で、耳がぴんと長く立っていて、お目目が真っ赤なうさぎの『ミミ』です。 市内の情報誌に、「生後3か月のうさぎ(メス)をかわいがってくれる方へ」とあり、 一目見たくなりました。 夫は、見るだけだぞ~って、乗り気ゼロ。 そんな夫がミミとご対面して開口一番、 「うわあ、白い・・・かわいい・・・」 と、腑抜けになったのを覚えています。 そのまま即決で連れて帰り、ミミは家族の一員になりました。 まるで女王様のようなツンとした表情と気まぐれさが、何とも可愛かったです。 やはり、夫のことが大好きで、夫が寝ながらテレビを見ていると必ず足元に来て、寄り添うようにぴたーっとくっついていました。 しかも、足を完全に伸ばし(野生動物にとってこれ以上ない安心のポーズ)、夫へ対しての信頼というか安心感が半端なかったようです。 娘に対しては、お友達だと思っていたかもしれません。 なでてあげると本当に気持ち良さそうな目で(目が長~くなって)、ほっぺたを伸ばされても黙ってされるがままでした。 そして、私はというとー、ただの『ご飯くれる人』。 私がご飯の用意をすると、部屋の隅っこから全力疾走で走ってきます(行き過ぎて滑ってUターンしてくる)。 夏に、エアコンをかけ忘れて外出したものなら、用事をキャンセルして家に戻ったこともありました。 寂しがり屋なのか、注目されたがりなのか、みんなで笑って楽しくやっていると、怒って足を床にドンドンってすごい音を出して鳴らすのです。 そんなミミ中心の生活も、楽しかったです。 懐かしい思い出がたくさんあるうさぎ生活でしたが、 今日はミミを譲ってくれた家(ミミの実家)の方と偶然再会したのでした。 仕事で私を訪ねてきた方が、なんと、ミミを飼っていた家のお嬢さんだったのです。 まだ小学生だったそのお嬢さんは、ミミのことも覚えていたので、とても嬉しかったです。 今は旅行のときなど考え、動物を飼うことをやめています。 最後を看取るときを思うと、人間も動物も関係なく悲しいです。 自分が辛いというのもあるし、人に飼われて悲しかったり苦しかったりすることがないように、と考えるともう動物は飼えないかもしれません。 庭にときどき小鳥が来たり、猫が通ったり、毎日散歩する犬を見かけたりす

カレーと給食とレモンゼリー

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娘が帰ってきたので、何か食べる?と聞くと、 「うーん、いい~(要らない)」 それならばと、私はカレーが食べたかったので夕飯にスープカレーを作りました。 夫が糖質制限もどきをしているので、ご飯はないです。 だから、カレーライスのカレーにすると味が濃いので、 ご飯がなくてもいいような味付けでスープカレーになったのでした。 具材は普通にジャガイモ、人参、玉ねぎ、豚肉。 そして、ごぼうが冷蔵庫にあったので、大きめに切って入れました(このやわらかいごぼうが美味しかった)。 人が美味しそうに食べているのを見ると、つい食べたくなってしまいますよね。 娘も例外なく、いらないと言ったばかりなのに、自分で鍋から盛って食べていました。 そして、お替わりも・・・ 娘が帰ってから、夫が 「家のごはんは、やっぱ、美味しんだなあ」 と言ったのを聞いて、家のごはんって、おふくろの味的な料理? 自分には特にない、と思っていたので意外でした。 自分自身もそうなのですが、そういう代表作がなくても、何を作っても実家の味ってあるようですね。 おばあちゃんちの味、もあるように。 娘は小さいころアトピー性皮膚炎がひどかったので、食べられるものが限られ、 小学校の6年間は学校給食を食べずに、私の作るお弁当を食べていました。 献立表を見ながら、少しだけメニューに似せたものを入れるようにはしていたのですが、 カレーの日だけは、カレー風味にするのが精いっぱいで(高野豆腐のカレー焼きが好きだった)、 きっとみんなと同じように、ご飯にカレーをかけて食べたかっただろうなあと思います。 小学校最後の3学期も後半に、一度は給食を食べさせてあげたいと思い、 娘にしたら、夢のような待ちに待った時間だったと思うのですが、 感想を聞くとー 「お弁当のほうが、美味しかった」 私に気をつかってくれたのか、ねぎらいの言葉だったのか・・・ 「でも、レモンゼリーはすごい美味しかった」 と、嬉しそうな顔をして言っていました。 思い出すと、せつなくなります。 今はきれいな肌になり、食べたいものを食べたいだけ食べ、 いわゆる反動ですね、小さい頃制限していたジャンクフードも大好きです。 食べたもので体調が変

パターンについて

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たびたび日記に登場しております、パターンとは。 小さいころ親に言われたこと、関わってきた大人たちや生活環境や教育、そして自分が体験してきたことなど、 それらを通して刷り込まれた思い込み、思い癖、信じて疑わないもの、こだわり、エゴ、決めつけ、といったものをパターンと呼んでいます。 常識だと思っていることでさえも、自分のパターンであったりします。 これらは思考でできているので、本当の「私」とは全く違うところで生きているもので、 「私」ではない、別もの・・・なのです。 例えば、●人に嫌われたくない●いい人だと思われたい●自分に自信がない●認められたい●自分が正しい●自分は幸せになれない⚫︎自分はだめな人間だ などなど、誰の心の中にもあるのがパターンです。 人は毎日パターンで思考し、発言し、行動しています。 パターンの存在は自分にとって慣れ親しんできたものであるため(思い込んできたものだけに)、無意識に自分として存在しようとしていきます。 実にもっともらしく、巧妙に、それが自分であるかのように仕向ける力があるのです。 『自分らしく生きよう』と思うときも。 自分らしさって何だか分からないということがありませんか? 誰しもはじめは自分とパターンを同一化(一緒に)しているので、わからなくなってしまいます。 思い込みの中で創られた自分ならば、『自分らしく』と言われても、 本当の「私」とはかけ離れたところで生きてる・・・という感じにです。 こんな風にいうと、パターンが悪者に聞こえてしまうかもしれませんが、 安心してください。そうではないです。 パターンがいてくれるがために(いることを知った時点で)、 それをケアできる本当の「私」を意識することができます。 「私」がパターンをケアできる唯一の存在であるため、「私」は育つことができ、「私」が成長していくことができます。 だから、どんなパターンもあっていいということになります。 そして、本当の「私」も、何か特別なものではありません。 どんな人にでも、あるもの。 ただ、これは使っていかないと(育てていかないと)機能せず、本来の役目(魂を成長させるということ)をはたすことができないようです。 「私」がパターンを守っていけるように

母と私の日常

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母が焼き肉を食べたいと言うので、夕方二人で出かけました。 たまに行く焼き肉屋がリフォーム中だったので、少し遠くの焼き肉屋へ行きました。 そこで40分くらい待つと言われ、 「あらー、そんなに待つの~」 と母が嫌そうな顔をしたので、迷わず定食屋へ移動しました。 そこに入って注文をし終えると、今度は 「なんかうるさいわねー」 とまたしても、母の顔がくもりました。 確かに、お酒が飲めるところだから飲んでいる人たちは騒がしく、会話が聞こえにくいという感じがありました。 でも、もう注文もして時間がたってしまったしなあ、と思い、 自分の声を大きくして(母は耳が遠いので)、周りの音が気にならないようにと 会話を続けていたのですが、 「何かもう、うるさいから、嫌だわ」 と、すごい形相になっています。 ・・・これはもうやばい、出よう。 結局、家を出てから1時間後、近所のラーメン屋で落ち着きました。 母は安心したのか、 「美味しいわね」と何度も言って、満足そうに食べていました。 こういうことがよく起こります。 自分が疲れているときは、ちょっとイライラしてきます。 母は、自分にとって嫌だと思うことについては、露骨に怪訝そうな顔をしたり、 周りに聞こえるかどうかなど気にせず、文句を言います。 すごく、正直。 昔はこんな風な母ではなかったような気がします。 どちらかというと、多少のことは我慢するようなタイプだったと思うし、 もめごとがないように楽しく繕うのが母の役割だったような・・・ それが最近、誰かによく思われたいとか、合わせるとか、そういうことが一切なくなったようです。 83歳生きてきて、もう自分の思ったままに話したり行動したりしたい(それしかできなくなっている)のかもしれません。 娘として、じゃまをしないようにやりたいようにさせてあげたいなあと思います。 母の認知症は、ありがたいことに一進一退で、とてもゆっくりしたものです。 これは母に起きていることではありますが、 私が母のことをどう捉えていくのかで、母の状態が変わっていくようにも見えます。 何に困っているのか、何が不安なのか、どうしてそんなことばかり言うのか、理解していきたいです。 しかし、さすがに同じ日に同じ話が4~5回目、っていうときは 「その話、3回

去年と違う景色

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今年の紅葉は、いつもよりもまして、とても美しさが際立っているように見えます。 特に、紅葉の盛りを少し過ぎたあたりから、じーっと見入ってしまうほどにいいです。 もりもりっと、きらきらと、黄色く輝いたイチョウの木も大好きなのですが、 北風に吹かれ、雨にも濡れ、葉っぱが痛み落ちはじめ・・・ そういう、少し木が寂しくなっていく感じの状態もまたいいなあと思いました。 街路樹でよく見かけるブナや楓(かえで)の木も、 葉のつく場所の微妙な環境で、色の付き方が異なり、その自然にしかできない配色のバランスが素敵です。 さらに、枯れ葉がそこに混じり合ってくると、さらに深い色味がプラスされ、味わいが増します。 春に注目される桜の木も、紅葉するんですね。 派手さはないのですが、やさしい色づきに親しみがわきます。 今年一年の集大成のように、にぎやかに色づく山。 そのにぎやかさにくすみがかり、 存在を消していくかのような茶色い山へと変わっていく。 毎日、変化していく山を見ながら、静けさと覚悟のようなものを感じます。 以前は、晩秋(紅葉が終わってしまうこと)の寂しさ、はかなさが苦手に思うことがありました。 もうすぐ、あの長く寒い冬が来てしまう・・・ 雪(=雪かき)が待っているし、車の運転が大変だし、とにかく不便な生活をイメージしてしまうからです。 ですが今年は、紅葉を美しさの視点だけでなく、その色から感じ取るものが少し変わったように思います。 寂しさの中にも日々新たな日常があることを思い、 はかなさはあるのだけれど、また次への役目として(落ち葉が大地の栄養となっていくように)、自然の流れの中で与えられたことをしていく力強さも感じています。 毎年やってくる季節でも、 そのときの自分の状態で、見えるものが違ってくる。 四季のある日本で、岩手で、暮らせることもありがたいなあと思います。

心底分かりたいこと

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経験を積めば分かる、とはよく耳にする言葉。 分かるためには、もっともっと経験していけばいい、ということでもあります。 それから、分かりたいけど、怖い。 というのもあります。 誰にでも、傷ついたことや思い出すだけで怖くなってしまうこと、 心も体も病んでしまったことなど、もう二度としたくないことってあります。 怖いから、傷つきそうだから、自分には乗り越えられそうにないから・・・ ここに対して敏感にセンサーが働き、そっちは選ばない、避ける。 自分を守るために(パターンの言い分を聞いて)、無意識に行動してしまうのだと思います。 『避ける』ことが身についていった自分。 魂の世界で考えると、 本当はそこを乗り越えたくてこの世にやってきたかもしれない。 もしそうであれば、魂は自ら、そこから脱するための課題(事象)を用意せざるを得ないのかもしれません。 不安、違和感、沈黙、ごまかし、停滞、さらなる恐怖など、 これらが増していくことは、この人生の目的ではない、本意ではないからです。 それらをどうやって突破していくのか。 私の突破したいことの一つ、 本当の「私」が話す、聞く、答える、という対話の部分があります。 この対話がうまくかみあわない、どうも不快感がある、というときは、 大抵、相手を理解したいと思う気持ちではなく、 自分を理解してほしい、という気持ちで向き合っているときに起こるような気がします。 相手のことよりも、 ちゃんと自分を受け入れてほしい 私を否定しないでー 私のほうが正しいと思うよー という気持ちが勝っているときです。 そうして、自分が(パターンが)満たされなかったとき、 その相手との対話は、分かりあえないという前提のもとに、どんどん浅く表面的なものとなり、避けていく・・・ この避けるという経験を、できるだけ減らしていきたい。 もしも嫌われたとしても、誤解されたりすることがあっても、もう自分は大丈夫かもしれないし、 それよりも、相手のことを少しでも知ることができたら、本当に嬉しいと思う。 世界が広がっていくと思う。 本当の「私」か、パターンか、 今どっちで話そうとしていますか、あなた。 と自分に一呼吸おきながら、ときに胸に手をあて、実践し続ける。 この経験を積んで、これまで見えていなかっ

少しだけ威厳を保つ

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父のいる老人ホームへ、久しぶりに顔を見に行きました。 玄関を入ると、遠くから私を見かけた父が笑っています。 今日はめずらしく食欲があり、お隣りの方のおかずをつまみ食いしていました。 父はよくうなずいています。 どうしていつも、首をリズミカルに縦に動かしてしまうのかよくわかりませんが、 うんうん・・・とずーっと揺れています。 以前、なんでいつも首を振ってばかりいるの?と聞くと、 急にぴたっと止まったことがありました。 止めようと思えば止めることもできることを見せたかったのか・・・ それとも、何か指摘されたということが(内容はわからないが注意をされたと思ったかもしれない)、嫌だったので止まったのか。 いつも、父のやっていることの理由、言いたいこと、気持ちを理解していくことなど、 謎解きのように、考えていくことはとてもおもしろいです。 沖縄に行ってきたことも報告しました。 母と一緒に30年ほど前に旅行に行ってきたことがあり、 また、沖縄民謡がとても好きだったので、沖縄という言葉には反応していました。 私の目を見て、何か言いたいことがある(質問したいことがある)ようでした。 海がきれいだったことと、食べ物がおいしかったことと、お母さんと一緒に行ったんだよね、というキーワードに「ほう~」と言ってうなずく。 沖縄の海を背景に、母の写真をいっぱい撮った父。 明日は、デイサービスで母もお世話になる日です。 母が来る日は、普段昼食をほとんど食べない父が、いつもよりは食べるのだそうです。 母の前では、頑張っていいところを見せようしているのが、何とも健気。 母はそんな父に構わず、お友達とおしゃべりをしたり、塗り絵や縫物をしたりして楽しくやっているようで、 住む場所が離れてしまっても、私はそんな夫婦の日常を、ほんの短い時間でも体験させてもらえていることが、本当にありがたいと感じています。

はじまりを思い出す

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沖縄クラスにはじめて参加させてもらい、 そこの中に自分を置いてみて分かったこと、みなさんの言葉を介して、気づかされたこと、 行く前には想像できなかった、自分への課題を見つけることができたように思います。 とても新鮮な気持ちと、慣れ親しんだような安心感。 貴重な時間をいただき、本当に嬉しかったです。 みなさん、ありがとうございました。 帰りの飛行機の中、 『魂の道場』で学びたいと思った頃のことを思い出しました。 あの頃、何をするにも不安でいっぱいでした。 その不安は、自分を苦しめる人たちがいるから、そうなるんだって思っていました。 だから、そういう人がいても感じなくなったり、うまく対処できる自分だったら、 きっと人生は、もっと楽になっていくのだろうなあって(苦しみの原因は他人にあると思っていた)。 そして、カウンセリングをグループで学ぶようになり、 あれ、もしかして、私はここから変わっていけるかもしれない、 人生をもう少し楽に生きていけるのかもしれない。 と自分のわずかな変化と、グループのみんなの成長をまのあたりにしていくたびに、 もしかしたら・・・と感じるようになりました。 学ぶことは、自分を知るという楽しさや喜びがあります。 自分というものを理解していくことはおもしろいことです。 とは言え、 習慣化して身につくには決して簡単ではないし、時間もかかるし、本当に地味な作業。 そして、そこを全て自分からやらない限り越えていかれない厳しさもあります。 カウンセリングの先生と一対一で話しをするときと、 グループでの勉強で話しをしているときの自分は、全くもって違っていたと思います(どう思われるかが怖くて警戒態勢)。 人前で自分の気持ちを開示することには、慣れていなくて、 むしろ開示せずに、心の中とは違う話をしていく訓練はずっとしていたのかもしれません。 人との関わりって、お互いが思い通りにしたい(理想の相手になってほしい)と思っているところがある、そうなってしまうと簡単ではないですね。 思い通りにしなくていい、ということが本当に分かるまで、思い通りにならないことが起こる・・・ でもその機会を与えてもらい、やりとげていった先にあるものが、 本来自分が望んでいることなのだと思いました。 だからこそ、 私はこの

分かるということ

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爽やかな懐かしい夏を感じながら、沖縄クラスのみなさんとの勉強会がスタート。 まったくもって飾らないみなさんに、リラックスして安心してお話しをすることができ、とてもありがたかったです。 これはみなさん、自覚がないようでしたが、すごい能力ですよね。 沖縄という島の風土がそうさせているというのもあるかもしれませんが、 東北人にはちょっと持っていないものを感じました。うーん、いいなあ。 こうした雰囲気の中、いろいろな話をしたのですがー 心の中にあるものを、そのまんま口に出して言ってみると、 その中にはパターンで言っていることもあれば、 本当の「私」が純粋な自分として言っていることもあります。 どちらで話しても、もちろんいいのですが、 その『違い』をわかりながら話すのと、パターン(自分の思い込みやエゴのまま)だと気づかずに、それが自分だと思って話すのとでは、 自分に返ってくるもの、受け取るものが大きく変わってくるのだと感じました。 どうしたらこの『違い』を感じ取れるのか。 これは日々、自分を観察し、心に引っかかったものを見つけワークを実践していくしかないとあらためて思いました。 知識や分析だけでは本当の意味での理解に繋がらず、 たとえ理解したことを言葉で説明できたとしても、日常生活での実践がないとその人のものにはなっていかないようです。 分かっている。だけでは何も変わらない。 もしも、苦しい状況が変わらないとか悪化さえしていると感じたら、 実際に何を選び行動しているのか見ていこうと思います。 自分のその時の感情や感覚の変化も。 普段思考を働かせていることが癖になっていると、分かっているようなイメージを創り出し、錯覚を起こしやすいのかもしれないので注意が必要だと思いました。 今日もまたみなさんと心を開示し合いながら楽しく学んでいきたいです。 あと、今日はどんな美味しいものが食べられるのか(今日は沖縄料理らしい)。 秘かに期待していまーす。

空と海をこえて

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何十年ぶりかで飛行機に乗りました。 仙台空港を離陸し、すぐに三陸海岸の青い海が窓の下に広がりました。 とてもとても美しかったです。 雲を見下ろし、どこまでも広がる高い空が、地球で生きていることを実感させてくれました。 ふわふわした雲がたくさんあって、もう雲というより綿(わた)ですね。 その綿みたいな雲に、決して乗れないことは分かっていても、 ああ、乗ってみたいなあ... 雲海から頭を出した富士山を見つけたときも感動でした(窓に頭を押しつけ、釘付け)。 その姿は誇らしく、凛としたたたずまいでそこにいました。 そのあと、秋色の山脈が波打つように続き(信州あたりかな)、 ベルベットをまとったような滑らかな美しさがありました。 沖縄が近づくと、いよいよ今まで見たことのない海の色が... エメラルドのサンゴ礁が広がり、 まだ降りてもいないのに、南国の空気と温度と匂いを感じたような気がしました。 本土へ行く飛行機や、たくさんの船も見えました。 このように、ほとんど機内では空から見る日本の美しさに感動しまくりでした。 そして、こんなに遠くに来たのに、海の上で繋がっていたんだと、嬉しくなりました。 明日は『魂の道場』の 沖縄クラスに参加します。 岩手とはまた違った大地のエネルギーを感じながら、どきどきしながら学んでいきたいです。 みなさん、どうぞよろしくお願いします。

無難じゃなくてもいい

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相手に対して不快だなあ、嫌だなあと思ったり、 または、嫌われたくないなあと思ったり、 そういうマイナスと感じる感情を持っていると、つい無難な話しかしない、ということがあります。 これ以上相手を嫌いになる醜い自分になりたくないとか、 相手に嫌われることがとても恐ろしいことだとか感じているので そうならないように、相手が共感するような無難な話をすることで、 自分が傷つかないように、できるだけ感じないようにしているのかもしれません。 でも、こういう本当の「私」ではないところでの話をし続けていると、 やっぱりモヤモヤしてきます。 いくら当たり障りなくやり過ごしても、 表面的にはうまくいっているかのように見えていても、 不快や嫌、嫌われたくないという感情が消えて無くなったわけではない。 以前の日記で 、自分が違和感を感じていることについて、 何でそう思うの? 何でそう(行動)しているの? と相手に聞けずにいたことを、やっと聞くことができました。 その答えが何であれ『自分から言えた』ということが、 こんなにも、自分にとって大きなことだと思いませんでした。 どこかで、聞こうと思えばいつだって聞ける、 言うべきときが来れば、自分は言うだろう・・・ などと、苦しい言い訳をし続け、こじらせてしまった。 頭でわかっていることはできること、ではないですね。 自分が持っていたパターン(なぜ聞けなかったのか)は、 自分が、その場にいる人たちに抱いている不快な気持ちをみんなに知られたくなかった、 というものです。 何で?と聞くだけなのに、自分が言い出すことによって、 何かこれまでと違う空気(あたり障りがない空気)を変えてしまうかもしれないことに、 自分は耐えられないかもしれないと思っていたのだと思います。 平穏にうまくいっている(と思いたい)関係を、崩してしまうんじゃないか、 という怖さがありました。 そして、Aさんに対するみんなの言動については、 嫌だなあと思っているならば、 会うのをやめてみてもいいんじゃないかと、 思っていることとやっていることを一致させてほしいという気持ちがありました。 このことについては、もう少しお互いに話してみたいと思っています。 この、思っていることとやっていることの不一致性は、

手放す、という未知の世界

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今、自分には、とてもありがたいことに 仕事 が与えられています。 カウンセラーとしての自分が成長していけるように、 その為に与えられているのが今の仕事だと思っているので、 そこで、これから自分が何をやっていくべきか、最近考えるようになりました。 自分の経験から得たことを、手放す。 はじめに浮かんだことは、もう自分一人のものではなく、 それを必要としている人がいたら、使ってもらいたい・・・ という気持ちです。 出し惜しみすることでもないので、 むしろちっぽけな経験かもしれないけれど、 誰かに(欲しいと望む人へ)渡し、使ってほしいと思うようになりました。 その過程の中で、伝えるということへの難しさや、 疑問を投げかけられたときの、想像力からの応え方、 また、手放すことで起きる新たな体験を学びたいです。 どんな仕事であっても、それをある一定期間やり続けることで、 自分独自のスキルであったり、他の人には見えていないものが見えてくる、 という力が誰にでも養われていくと感じます。 それを相手と共有したり、そこからオリジナルなものに変容してもらったり、 その人のものとして生かしてほしいなあと思うのです。 もしかしたら、手放したいと思っていたのに、さらにその仕事を深められ、 違う形へと新しく作り変えていく作業が生まれるかもしれません。 そういうことも含め、未知の世界を体験したいのだと思います。 今までご飯を作るとき、大抵自分の食べたいものを作りますが (これを言ったら、ご飯は夫や子どもが食べたいと思うものしか作らないと答えた友人がいて、それが普通なのかと驚いた)、 作ってみて美味しいなあと思ったものは、 良かったらどうぞ皆さんで食べて下さいと、何なら作り方も教えますよと、 そういう発信を積極的にしてもいいのかなあと思ったりします。 お裾分け的感覚に近いですね。 自慢しているようで、なんか偉そうで、大したことでもないのに。 というパターンもいたのだと思うけれど、 そこにもう、こだわらなくていい、を選択。 毎日の業務のほかに、 自分の経験を伝える機会を作ったり、 相手にとって得るものがあるように(これは自分に無理をするということではなく)、 自分の中から出せるものは出していきたいなあと思います。

悲しみの中にさえも

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先日、 仕事でお世話になった方とのお別れ があったばかりなのですが、 その数日後に、私たち夫婦にとって20年来の友人とのお別れがありました。 この短い間に、大切な人たちが旅立ってしまった。 最後のお別れのとき、 これまでの感謝の気持ちを心から伝えることができたとは思ってはいるのですが、 今もまだふとした時に、生きていたときのいろんな思い出がよみがえり、 心の中に、寂しさや悔しさを感じることがあります。 あちらの世界に往った方たちは、 守ってくれる方々に導いていただきながら(そういう方がそばにいると思うから)、 魂の学びの続きをしているのかなあと思ったりします。 その学びの続きを、こちらにいる人間がじゃまをしないように、 静かに意識を今生きている人たちに向け、自分に向けていきたい。 だから、寂しさと悔しさも感じることはあっても、 そのことはいつも胸にとどめていきたいです。 死んだ後のことは、生きている間はやはり分からないものだと思います(生きることについても分かってはいないのかもしれないが)。 その人なりの哲学で、今を充実させ、後悔なく生きていけるものであれば、どんな受け止め方でもいいと感じます。 人の死は、少なからずそれを考える時間を与えてくれるものかもしれません。 おだやかな顔をして眠っている友人を見たとき、私はなりふり構わず泣きました。 声を出していろいろ話しかけながら、 悲しみにくれるご家族と一緒に、涙は止まりませんでした。 でも、その晩のご飯を普通に食べている自分がいました。 呆然としながらも、冷蔵庫を開けてデザートも食べた。 こんなにも、どうしようもないくらい悲しいのに、お腹はすくんですね。 何なんだろう。 悲しい感情とは別の自分がいる。 悲しんでいる自分とは違うところの存在を、そのとき感じとったような気がしました。 別の存在というのは、それはもしかしたら、 本当の「私」・・・なのかもしれないと、 今少しずつ感覚として感じています。 この存在を確かに感じ、使い、そこで生きたいと思うからこそ、 だからこそ、私は生きていけるのかもしれない。 こういう話を友人が聞いたらきっと、 「生きているんだから当たり前だべ。ちゃんと食べろ」 って、ばっさり言うんだろうなあ 生きれていれば、腹がす

発達障害と自分

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最近、発達障害をテーマとしたTV番組が多く放送されているようです。 発達障害の方の就労支援に携わるようになってから、 あ、こういうことだったのね、 と、自分にも、そして誰にでも何かしら該当することだと感じます。 特に幼少期からさかのぼると、 未だに続いている、自分でもどうしてこうなってしまうんだろう・・・ という謎の特長が私もあります。 あきれるほどの忘れ物の多さ(目の前に置いてあっても気づかない) じっと座っていられない(どこかを動かさずにはいられないし、立って歩きたい) ものごとへのこだわり(恥ずかしくて書けない) 家電への過敏さ(わずかな光や音が気になる) みんながわかる会話の意味がよくわからないことがある(天然か)等々。 大人になって必要に迫られ変わってきた部分もありますが、 あげたらきりがないほど、該当していきます。 小さい頃から、そうだと理解していれば、状況も変わってくるのでしょうが、 ちょっとそそっかしいから、ちょっと元気が良すぎるんだよね、 ちょっと神経質で、ちょっと人が苦手、ちょっと変わっている・・・ この、ちょっとそうだよねで、学校時代を何とかやり過ごせたということもあると思います。 障害と診断がつくには、本人と周りが困っている、 という何かしらの辛い状況がきっかけになることが多いようですが、 それには「働く」ということが分岐点になっているかもしれません。 働いたときに(働こうと思ったときに)、今までずっと思ってきた「どうしてこうなってしまうんだろう」が、 自分の強味(良さ)として生かせるかどうか、 またはそこが壁となってしまったときにどうしたらいいのか、ということ。 そう考えると、就職するときに始めから起こりうることを伝えたり、 自分も周りもすぐ相談できる環境がほしいならば、 診断をもらったほうが(もし、発達障害ならば)働きやすくなるということがあります。 自分で自分のことを伝え、誰かに助けを求めることができる方であれば、 診断名がついてもついてなくてもいいし、 働くうえでは、発達障害という診断名の使い方(どう生かしたいのか)になってくるのかなと感じます。 誰にでもどこかしら該当する特長(特性)ではあるのに、そ

何度でも その2

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昨日のつづき。 できない自分を認めたくなかったし、 できない人と思われたくなかった(パターンが)。 そしてもしあの場で、あのやり取りを見ている人がいたら、 きっとパターンは、その人たちにもできないと思われたくない、 って結局、全ての人を対象に思ったと思います。 ということは、自分自身にも、思った。 自分に対してやっていることは、 やはり他人に対してもやってしまうんだと思いました。 本当は、あなたの説明がすごいと思ったし、 自分のあの言い方ではダメなんだと思ったのに、素直にあのとき言えなかった。 そういうごまかした自分がすごく嫌だなと思った・・・ 少し涙声になってしまいましたが、謝ることができました。 あ、そうだったんだ。 でもちゃんと相手もわかったみたいで良かったよね。 とさらっと言われ、 ふ~っと肩の力が抜けていき、固いものが溶けていくような感じがしました。 そう、あの時は、この感覚の真逆だった。 この時感じたのは、 謝るということは、相手を『信頼すること』なのかもしれないと思いました。 はじめに、信頼したい、という気持ちがちょっとだけあって、 そこから行動に移しながら信頼を築いていく、という感じでしょうか。 そして、自分も信頼する。 パターンとの関係を築く・・・ちゃんとわかっているよって、そしてごめんなさいと伝える。 信頼していないがために出てくるパターンってたくさんありそうです。 謝れなかったり、思っていることを伝えられなかったり、反論したり。 そういう頑ななもの(がちがちに固まってしまったもの)。 感情的にもそうですが、肩に力が入るという、体の感覚でも教えてくれている。 今日は、これからヨガに行ってきます。 肩のあたり、まんべんなくほぐしてこようと思います。

何度でもやっていく

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今日、自分は最低だ、と思いました。 昨日の日記では(→ ★ ) 正直に素直になって、こじれた部分と向き合って・・・ 的なことを宣言したばかりなのに。 (昨日の話とは別の話ですが) 相手に説明しなければいけない、ということがありました。 でも、相手にうまく伝わっていかず、 うまく話せていない私の代わりに(私を見かねて)、 わかりやすい言葉に変換し、説明を代わってもらった場面があったのです。 相手は「わかりました」とやっとその説明に納得した様子でした。 「もっと、遠慮しないではっきり言ったほうがいいよ。あれじゃわかんないから」 私は、遠慮ではなく、どう言えば伝わるのかがわからなかった。 なのに、その伝え方がわからないということを隠そうとして、 「でも、ああいう風に言ったほうがいいかなと思ったんです」 と、心にもないことを言ってしまいました。 これが、まず最低(と思った、これもパターンなのだが)。 このとき、パターンは三つくらいあったでしょうか。 はじめに、うまく話せていない自分を認めたくない。 話せないことを相手に知られたくないし、 無能だと思われたくないし、 本当は話せるのに、と言っています。 二つ目は、うまく話せないと思われたくない。 これは、説明を代わってくれた相手に対してです。 こんなこともできないのかと思われたくないし、 無能だと思われたくないし、 下に見られたくない、と言っていました。 だからごまかす(言い訳をする)、というパターンでの行動をとり、 結果、それはそれは気持ちの悪いものでした。 そして三つ目が、パターンで行動した自分はダメな人間だ。 みっともないと思うし、 成長していない証拠だと思うし、 パターンで行動するなんて最低でしょう、と。 この一連の出来事、 このパターンたちすべて紛れもない自分の一部分。 無くてはならないもの。 消しては、無視してはいけないもの。 大事なものなんですよね。 そして、自分がうまく伝えられなかったことに言い訳をしたことについて、 代わりに説明してくれた方へ謝りたいし、あの時の本当の気持ちを伝えたいです。 できるかな・・・でも、そうしたい。 たくさん出てくるパターンたちに、心底耳を傾けたいです。 素直さ、正直さ、受容、愛情、実践

こじらせたもの

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あるパターンについて考えています。 どうして私は、何にひっかかっているんだろう。 こじらせてしまったかもしれない・・・ でも・・・見る勇気を持ちたいです。 あるメンバーで集まると、そこにいないAさんの話が出てきます。 そのAさんと、私は久しく会っていませんが、他の方たちはよく会っているので(全員Aさんのことは知っている状況)、共通の話題だと思ってその話になるのかもしれません。 傍からから見るとその話は、 Aさんの良いと思う変化や悪いと思う変化など(すべてパターンでの話ですが)、 悪口なのか、ただ事実を言っているだけなのか。 結局何をみんなが言いたいのか、よく分からないまま聞いています。 聞きながら、時折り胸のあたりがざわざわしてくる自分がいるので、 そのパターンは何なのか、ということ。 悪口や不快に思っていることを言ってはいけない、ということではない。 そこではなくて、その悪口っぽい話の後に、 おつきあいが続いているという『行動』に違和感を感じている。 嫌だと思っているのに、なんで?って。 そういう気持ちを持ちながら、頼っていくのはなぜ? 曖昧な感じ、核心がはっきりしないことが気になってしまうのかもしれません。 不快感、胸のあたりのもやもやする感じ、イライラ、少し悲しい感情が湧き起ります。 その感情を引き起こしているものは、何のパターンなのか? そこで、どんな気持ちなの?とみんなに聞けない私は何なのか。 もっともっと正直に素直に、こじれたこの部分に向き合いたいと思います。

向いているかもしれない

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利用者さんが今通っている、 職場実習先の介護施設の方から教えてもらいました。 そばにいる・・・というコミュニケーション。 同じテーブルで一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを見て、 たまに話しかけ、笑いかけ(相手に反応がないので、独り芝居のように見えるが)、 何かをしてあげるというより、そばで見守っているという状態。 何も話さない(話せない)お年寄りの方がいて、 会話がないからと言って一人にしていい(そばに行かなくもいい)、というわけではない。 誰かがそこにいる、そばで何かしているってとても大事なことなのだそうです。 やることがたくさんある介護の仕事の中でも、この仕事を怠ると、 お年寄りの方たちに落ち着きがなくなったり、また無気力になったり、 不安定になりやすいのだそうです。 そういえば、私の父がいる施設でも、 よく職員の方が、父の隣りで業務記録のようなものを書いていて(隣りで仕事している)、 父は、ここは自分の居場所だといういう風に落ち着きを放って座っている・・・ という光景を見かけます。これですね。 就労訓練をしている利用者さんのほとんどが、 コミュニケーションは苦手だと思い込んでいます。 そのために、働くことに対して自信を持てない方もいます。 介護職の向き不向きを、 何をもって決めるのかわかりませんが、 お年寄りの方と、何の違和感もなくごく自然にそばに居られる、 会話になっていなくても、さほど声がかけれなくても、 となりにずーっと座っていられる方って、向いているのではないかと思います。 沈黙が全く苦痛じゃないって、これも才能ですよね(沈黙は苦痛というのはパターン)。 家族にとって、介護施設で暮らす親の、何が心配かというと、 寂しい思いをしていないだろうか・・・ それに尽きると思います。 だから、そんなふうに接してもらったら、本当に嬉しいし、ありがたい。 本人も、お家にいたときのように、 誰か(家族)がいるような気配を感じられることができたら、 それはとても安心なことでしょう。 職場実習ということもあり、体に触れる業務はあまりできないので、 このような仕事に限定されるということもあります。 でも、この状態が自然にできる方は、 そばにいる・・・という心の在り様が伝わるコミュニケ―ション

もう一つの目的

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好きな本を持ち寄ってその本の感想を自由に話す という会に、 再び参加( ★ ←前回の様子)。 今回は、10代の学生さんが来るかもしれないということを聞いていたので、 自分の娘よりも若い子に、お勧めできる本って何がいいかなあと、あれこれ考え、 考えたわりには、なかなかピンとくる本が思い浮かばず、 結局、当日の朝、目にとまった本は・・・ 『卵の上の私Ⅱ~幸せに生きる私になるために~』 伊藤洋子著 郁朋社 私のカウンセリングの先生の本(人生指南書と言える本)でした。 何十回と読んできた本ですが、 人に紹介するには、やはりちゃんと準備が必要だとわかりました(先生ごめんなさい)。 どんな内容の本なのか、伝わったかどうかは分かりませんが、 それでも、自分の思い(本当の「私」で生きたいということ)は話せた気がします。 これは私にとって、相手がどう思うかより何倍も大事な、 意味ある行動だったと思います。 参加した皆さんは、人生の先輩として、 どこかうれしそうに伝えている感じがありました。 前回もそうでしたが、ありのままで表現し合う、豊かな時間でした。 経験したことを人に伝える、という行為は、 以前はどこか上からものを話すような、自信過剰のような、 いわゆる『なった気』と言われる恥ずかしい行為だとパターンは思っていたのです。 聞かれたら、話すけど、聞かれないのに話すのはちょっと・・・という感じで。 ですが、今は、『なった気』ではなく、 『本気』でためらわず伝えるっていいなあと思うようになりました。 経験を積み、そこからさらに唯一無二の自分のものとなる。 そして、その素晴らしい経験の価値を理解できるからこそ、 その経験をさせてもらったことへの恩返しをするように、 誰かに伝え、誰かに役立ててもらう。 それはもう、自分一人のものではなくなって、 自分の手から離していくものなのかもしれません。 本について語る時間ではありますが、 ただその本を媒体にし、自分の人生経験を次に継承していく。 そんな思いが、ここに集まる皆さんに込められていることを感じました。 私も、「卵の上の私」で生きてみたいな、と思う方たちに伝えていきたいです。

同じ歩幅で歩く

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先日の台風の洪水被害が、いまだ復旧しないまま明日の天気予報は雨。 被害がさらに悪化しないことを切に祈るばかりです。 職場でも洪水避難訓練を行いました。 避難場所の確認へ、みんなでぞろぞろと並んで歩いて行きました。 利用者さんの中には、足が不自由な方がいて、 私はその方と一緒に、列から遅れて歩いて行きました。 こうして、ゆっくりと相手に歩幅を合わせて歩くというのは、 とても久しぶりのように思います。 もし、自分の足が不自由になったら、 本当にもどかしく、不便で、やりきれないのではないかと思いました。 やりきれない・・・いえ、そんなキレイな言葉ではなく、 最高に腹が立ち、悔しくて悲しくて変になりそうだって思うでしょう。 早く歩きたくても、思うように足が動かないのですから。 かといって、急ごうとすると転んでしまう危険もあります。 だから、ただただゆっくりと、 足場の良いところを確認するように、 足の運ぶ先を選びながら歩いていく。 「疲れました?」と聞くと、 「全然大丈夫です」と明るく返す。 急ぐことはできないけれど、時間さえかければ、いくらだって歩けると言うんです。 「どのくらい歩けるの?」 「2~3キロは平気ですね」 すごい。私ならその距離は迷わず車。 一歩一歩、相手と同じリズムで歩き続ける帰り道、 「ここだけの話ですけどー」 と、プライベートのお話。 こういう話をするには、ちょうど良い速度なのかもしれないと思いました。 すたすたと歩いては、話の内容もどこか省略的になったかもしれないし、 このゆっくりした動きが、時が止まりそうで止まってはいない感じが、 話がよく伝わってきて、もっと知りたいなあという気持ちになりました。 相手が話しやすいように(歩きやすいように)、自分が少しだけ意識するだけで、 こんなにも同じ世界が目の前に広がっていくんですね。 自分のペースで歩いていては、決して知ることのない世界。 また一緒に歩きたいです。

一期一会

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仕事でお世話になった方と、突然のお別れがありました。 その方のお話は、いつも無駄がなく、的確で、質問してくる内容にするどさがありました。 こちらも、うっかり曖昧なことは言えないと、 事前の準備や質問されたことの意図がズレないように聞き取ることに集中。 そんな緊張感がありました。 かといって、完璧な感じへのプレッシャーは不思議になく、 それは、時々垣間見える、 シャイで、好奇心いっぱいの少年のような表情にあったのかもしれません。 いつも忙しそうで、早口で(歩くのも早かった)、 エレベーターの前で出迎え、エレベータのドアが閉まるまで頭を深く下げて見送る・・・ そんな礼儀正しい方でした。 いつもその方とお会いするときは、一人で訪問するということがないのですが、 最後にお会いしたとき、たまたま自分一人で、要件も早めに終わったのでした。 それから、お互いにちょっとひと休み~という雰囲気で、 その方は椅子の背もたれに寄りかかり、くつろぐような体勢に。 今の仕事に関わる話の中に、その方の個人的な気持ちや、 その気持ちをどんどん話しながら、何かおもしろがっているような感じが見えました。 私も可笑しくて、本音を伝えると、 「あ、やっぱりそうですか~」とまた笑って、さらにリラックスした体勢になり、 気づいたら、30分近くもおしゃべりしていたのでした。 一年ほどのおつきあいの中で初めてでした。 こんな風に無邪気にふざける人なんだあ、とすごく人間味があって、 この方と仕事をさせてもらえる幸せを感じました。 そんな矢先だったので、 もう会えないということがすごく悲しいです。 私はあのとき気になったことがありました。 時々、額に汗をかいている方ではあったのですが、 その日は汗が止まることなく、何度もハンカチで汗をぬぐうほどで、 それがとても気になったのですが、 「大丈夫ですか」と言えませんでした。 私はそのことに触れるのが何か失礼かなと思ってしまっていました。 「大丈夫ですか。ちゃんとお休みとっていますか。」 と言えばよかった。 「何かあったら、私に話してください。」 とまでは、さすがにあのときの私には言えなかったと思いますが、 でも、こんなことになるのならば、そう思った自分の気持ちを伝えればよかった・・・ 自

男だって・・・

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今日は 「魂の道場」 盛岡クラスがありました。 茅ヶ崎クラスから渡邊優さんがゲストで来て下さり、 それぞれのパターンを開示しながらの、とても新鮮な時間となりました。 ★ ←渡邊さんのHP(ブログ)とても正直な文章に引き込まれます 自分に必要なものをしっかり見聞きしようとする貪欲さや、 一方で、場を和ますリアクション、 どこか都会的なエネルギーも感じました。 また、いつもの女性だけのクラスに、男性が一人入ると、 これが人類のあるべき姿なんだあ(男がいて女がいるという)。 同じ魂の成長を目指す仲間として、とても自然な感じがします。 男性が悩みを抱えたとき、何でも話せる友人が身近にいたとしても、 どこか本心のところは、人には言えずに抱え込む方は多いようです。 悩みをうちあける=弱みを見せること 男性は強くあるべきという本能に近いものが、 じゃまをしていることはあるかもしれません。 何十にも重なった鎧をまとい、弱みを見せるくらいならば人知れず苦しんだほうがマシ。 と思っている方もいるでしょう。 そんな、簡単には本心を見せたくない(見せるべきではないと思い込んでいる)男性が、 今よりも少しでも、本当の姿で楽に人生を歩いていけるために、 カウンセリングがその手段の一つとなること。 男性も一人で悩まず、堂々とカウンセリングに行っていいと思います。 そのために、渡邊さんのようなカウンセラーがもっと増えてほしいと思いますし、 そうなっていく時代がきたと感じました。 そう、男性こそ、これまでしてこなかった、 自己開示や、カウンセリング、相手を分析する前に自分と向き合う作業が必要なのかもしれませんよね。 弱みを認め、弱みと共に生きることもできる。 そんな勇気ある大人たちが、自分に向き合う行動をとっていく社会になっていったら、 子どもたちにも、きっといい影響を与えていくのだろうなあ、と思います。 自分を大事にし、自分を他人のために使える人の強さは、 お互いに通い合うあたたかさと、やさしさにあふれているものですね。 渡邊さん、ありがとうございました。

長寿の秘訣

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健康長寿の秘訣は? という番組がありました。 よく聞くフレーズではありますがー 50代に入り、長生きとか、健康の秘訣とかいうものに耳が反応します。 まだ若いと思っていても、確実に歳はとっていくものだから、 今からおばあちゃんになった時のことを考え、準備していても悪くはないのかなと思います。 番組で登場していたのは、なんと夫婦で200歳。 お互いの老化を認め、できなくなったことを受け入れ、 もし相手が自分のためにしていることがあれば、遠慮せず感謝の気持ちを伝える。 お互いが今の暮らしで十分だということを知っているため、 いつも「ありがとう」を自然に口にしている関係でした。 子ども達も、両親が助け合いながら暮らせているうちは このまま多少の不便があり、心配ごとはあっても、環境を変えず、 ときどき顔を出して見守っているようでした。 耳の遠くなったおじいちゃんの代わりに、電話はおばあちゃんがでます。 子ども達からの電話の内容を伝え、おじいちゃんの言葉も子供たちに伝えていました。 食事は、お肉もお魚もしっかり食べていました。 おじいちゃんが作ったご飯を(おばあちゃんが台所に立てなくなったため)、 「おいしいか?」 「おいしいよ~」 とちゃんと言って食べるおばあちゃん。 近年の長寿研究では、今、幸せを感じている老人は、 幸せを感じていないと答えた人よりも、 長生きしていることが明らかになっているそうです。 夫婦でなくても、一人であってもそれは同じ。 見知らぬ人のために、動物や植物のために、この命を使う・・・ 何かの誰かの役にたって生きることは、 それがそのまま生きる力となって、さらに幸せを感じる力になるかもしれませんね。 お年寄りが言うことって、どこか説得力があって、 それでいて、強引さがなくてやわらかく心へ響く感じがします。 若さゆえに、その教えが届かないとしても、 大丈夫、大丈夫。と言ってもらえるような寛大ささえあります。 この夫婦のようにはまだまだ到底及びませんが、 歳をとってからじゃなくとも、 今ある幸せを十分かみしめていくことはできるかなあ、と思いました。