投稿

12月, 2020の投稿を表示しています

半分天国、半分ここ

イメージ
今日は吹雪の一日。 すっかり窓の外は銀世界になりました~。 外出先で、ふと父のことを思いました。 手が冷たくなっていないだろうかと、元気でいるかなと急に会いたくなりました。 コロナで面会禁止ではありますが、ホームに寄ってみてガラス越しでも姿を見たいと思いました。 玄関先で、母もお世話になっている往診の先生とばったり、 また、いつも明るく父に接してくださるスタッフの方もいたりと、 思い切って寄ってみて良かったなあと思いました。 健康管理は元より、家族のようにわたしたちの代わりにお世話してくれて、 どんなにお礼を言っても足りないくらい、父を取り巻く方々には感謝しかありません。 そして父はと言えば・・・ 最近体調がよくなかったらしく、手がとても冷たくなっていたそう(予感的中)。 体が冷えていたと思ったら昨日は微熱もあったので、 スタッフの方も連絡しようかどうしようか迷っていたところだったそうです。 今朝は落ち着いてきて、車いすに座ってうとうとしていました。 わたしに気がつくと、父の小さな目がちょっとぱっちりと開いた感じがしました。 スタッフの方が「あの人はだあれ?奥さん、娘さん、誰かなあ」と話しかけると、 「うーん、娘だ」 偶然、当てた?としても、 わたしはもうこの上なく嬉しかったです。 手をさすってあげたかったけれど、それは叶わず・・・ マスクを外して笑顔を見せ、たくさんたくさん手を振りました。 いつだったか、夫が、 「お父さんって、半分天国に行っているようなもんだよなー」と言ったことがあって、 何て失礼なこと言うのよ、と思ったことがあったのですが、 あながち・・・当たっている。 それくらい父はどこの世界にいるんだろうと会うたびに思います。 ちょとしたことで笑い、とても楽しそうにしていることがあり、 確かに本当にどこか遠くを見てすごく幸せそうな顔をしているときがあります。 かと思うと、急に険しい顔をして、不穏な空気が流れ・・・ 父は時々わたしを叱ったり、たしなめたり、あきれるような顔をしたりもします(一体わたしが何をしたっていうのか・・・)。 でもそうされると、不思議に自分も、 心あたりがあることを思いながら、振り返ったり反省したりするのです。 父も、父のそばにいる方々も、みんなが穏やかに新年を迎えられますように。 そして皆さまも、良いお年をお迎えくださいね。

誤解を招いてもいい

イメージ
まさか、自分がこんなことを言う人間だとは・・・ と思うようなことがありました(気づいたら話していた自分にびっくり)。 人の死(自死)について話す自分がいました。 真実かどうかは当然のことながらわからないものを、 自分がたとえ信じているからといって、誤解を招いてもおかしくないことを他人に話すというのは、 以前の自分にはなかったと思いました。 そんなあやふやなものを他人に話すなんて、危険極まりない・・・というのが、これまでの自分だった。 たまたま、そのときは、死についてだっだけれど、 自分が人生の中で受け取ってきたものの中で、何度も練り直し、体験し直し、挑戦し失敗し、 そして今現在、たどり着いたものがあるとしたら、 それは自分だけの哲学となって自分を支えていることがあるかもしれません。 その哲学を作り出したものは、自分にしか分からない体験からくるもので、 論理的ではなく感覚的なものかもしれません。 いろいろ感じてきた自分が持つただ一つの考え方。 でもそこに、『自分がただそう思っている』ということを伝えるのに、 そんなに構える必要があるのだろうか、ということだと思います。 誤解を招いてもいい、という、 誤解は悪いことではない『誤解』に対しての意味付けも変わってきているのだと思います。 これまでたくさん自分も他人に誤解をしてきたし、 他人からも本当は違うんだけどなあ、と思うこともたくさんあった。 そうした経験を積み重ねてきて、 どう思われてもその人が思うことは自由である(パターンはどれも存在していいのだ)ということが、 このところ、実感として体験できてきたからかもしれません。 そして、うまく話せない、できないということがあっても、 それも成長過程の自分ということでいいのではないか、と思ったりします。 これから先も、何を感じてもいいし、何を考えてもいい。 そこから、選びたいものは何であるのか。 その選んだものが行動となって、形となって、また次の選択に大きく関係し影響していきます。 この『繋がり』は永遠に続くものだと感じました。 だから、 たった一つの選択であってもどっちを選んでいくのか大事にしたい。

10年やってきた

イメージ
今日は岩手クラスの勉強会でした。 お孫さん(生まれたての赤ちゃん)の子守りで寝不足だったというYさんがファシリテータ。 「根拠はないけれど、やっていかれる」という誘導をYさんの美声でやってもらい、 みんなでしばし陶酔しました。 今の「私」が気持ちよく感じるポイントというのが、それぞれに違っているところもいいなあと思いました。 また、いつもこの「やっていかれる」ということが心地良いものであるとは限らず、 その時の正直な感覚を大事にしながら、 今はここよりも、パターンの語りかけを丁寧にやっていこうということもあるはず。 そういう話ができることもまたいいなあと思いました。 岩手クラスがスタートしたのが、 忘れもしません東日本大震災が起きた2011年3月でした。 いろいろな価値観が崩れ始め、お互いの発言に感化されながら(自分の立ち位置を探りながら?)の勉強会は、 今思うとおかしいくらいに共通していたものがありました。 それは、「自分だけができていない・・・」という強烈なネガティブ感情。 自分もそうです。 自分の理解力では、自分の脳みそでは、自分の魂レベルでは無理なんじゃないか・・・ と何度も思ったことが思い出されます(クラスの仲間と比べるパターン)。 そういう自分でOKだったのに、と今だから笑って言えますが、 もし、自分ができていないところを正しく分析するのであれば、 パターンと「私」との分離ができていなかったという、その一点だったように思います。 今も常に分離ができているわけではありません。 だからこそ、魂の成長を目指していきたい気持ちが無くならないのだと思うし、 パターンをすべて許していけることを自分はやっていきたいのだと思いました。 Yさんが、泣く赤ちゃんを抱っこして、 「泣いても、おしっこしても、うんちしても、何してもいいんだよ~」 って言ってあげるそうです。 赤ちゃんはとても安心するのでしょうね、じーっと目を見て泣き止んだりするそうです。 そんなふうに自分(パターン)にも、よしよしって、 どんなあなたであってもいいのよ~って、 言ってあげればいいんだ!と思いました。 今日はみんなの10年前の自分との違いを聞けて、すごく良かった。 成長をお互いに実感できたことで、またこの10年の変化にこだわらずリセットして新しい年を迎えたい。 岩手クラスでこそ自分はやってこれた、と

どっちもいい

イメージ
今年のクリスマスは、いつもと少し違った時間を過ごせたなあって思いました。 仕事帰りにダッシュでスーパーへ寄り、 家に着くと、息つく間もなく台所に立って玉ねぎの皮をむき始め~ こういう時こそ、出来合いのものを買ってもいいのに、 なんか今日は『ほっとするような美味しさ』が食べたいなあと思い、 全部手作りしたいと思いました(夫が「え、今から作るの?」という反応をしていたが)。 あれもこれも作るには、時間が遅くなってしまっていましたが、 気持ちは焦ることもなく、 料理を作っていることがとても楽しいなと思いました。 途中から娘も手伝ってくれたので、さらにわいわいと笑いこけながら、 この際、買ったケーキの他にもアップルパイも焼こうか!ということになり・・・ (夫の「え、もういいんじゃね?」という顔がまた可笑しかった) 結局、自画自賛ですが、全~部すごく美味しかったです。 食べてくれる人の好みを考えながら、 自分も作ることを楽しんでいる時間って、本当に贅沢だと思いました。 この『時間に贅沢を感じた』というところがいつもと違っている感じがしました。 食べて喜んでもらって自分も美味しく食べられたら、あ〜幸せ・・・というのはあったけれど、 幸せを越えたもったいないような時間。 させてもらえる、身に余る光栄という感じです。 今日はもう普通の日。 スーパーで焼き餃子を買って帰りました。 あとはご飯があるし、味噌汁あるし、漬物あるし、で終わり。 超手抜きの日でした。 贅沢というのは、 物にしても時間にしても、ごくたまにあるだけがいいですね。 そして、どちらの日(平凡な日も、贅沢感じる特別な日も)にもその時の幸せがあります。 今年のクリスマス、この『どっちでも幸せ』を感じられたことがすごく良かったなあと思いました。

パターンに届く語りかけ

イメージ
自分のことを理解してほしいと思うときに、 自分がそう思われたいという願望が入っていることがあります。 その願望とは、どう見られたいのか、というところ。 例えば仕事をしているときは、 できる人と思われたいとか、ミスがない人とか、信用できる人とか、 実際のところはその逆に近いんだけど、そう思われていると困るから、 『そうじゃないと思ってほしい=理解してほしい』になるのかもしれません。 これはパターンが、自分はできる人ではないと思っているので、 できる人でなければこの職場ではやっていけないと、パターンが信じてやまないということ(この時「私」は全く思っていないのだが)。 きっちりミスなくやれる人でなければだめ、 信用してもらえるような人でないとだめ、 あれはだめ、これはだめ、パターンはなかなか自分にOKを出さず、 見られたい自分にならないことを許すことができません。 それなのに、です。 自分は自分のことを許せないし受け入れていないのに、 他人には許してほしい、大きな心で温かく受け入れてほしいなあって思っている。 だから、その願望が叶わなかったときに、 「あー理解されていないわ、わたし・・・」とまた思うのだ。 パターンへ語りかけをしていると、 自分を否定するパターンたちが、自分たちはどんなに傷つき、つらい思いをしてきたのか、 気づいてほしいと思ってきたのかが語ることでやっとわかります。 「今まで一人にしてきてごめんなさい」 「無視をしてきてごめんなさい」 「ずーっと気づかずにいてごめんなさい(または、気づかないふりをしていてごめんなさい)」 という言葉を「私」はパターンへ言ってあげたくなる。 「ごめんなさい」という言葉ってとても温かいです。 たくさんの悲しい思いを受け止めて、そしてこれからはどうしていきたいのか、 パターンにやさしく聞いているような気がします。 この一方的ではない感じ。 伝えた先にパターンと「私」との間に通い合うものがあるとき、 やっと次に進める感じがします。 語りかけた言葉がパターンに届いたとき、 本当に理解してもらったという安心感があります。 それは、そう思われたい、見られたいという緊張感が走るようなものとは全然質が違うので、 本当に何の疑いもなく、ほっとする感じです。 この感じはやはりいいなあ~って思います。 だから何度でも語ってあげたいなあと思います。

沖縄の香り

イメージ
去年、沖縄に行ったときに買ってきた月桃の香りがする石鹸。 わたしにとって、月桃の香りが沖縄の香りとなっていて、南国っぽくてとても好きです。 そのお気に入りの石鹸もとうとう使い切ってしまい、 今はエッセンシャルオイルを購入し、楽しんでいます。 その香りを嗅ぎながら、 那覇の小禄南公民館でのセミナーを思いました。 コンクリートの打ちっぱなしの建物がすごく味がある公民館。 開けっ放しの窓から気持ちいい風が入ってきて、 建物の中であって中じゃないような解放感が本当に素敵なところ(沖縄の方たちの心も解放感いっぱい)。 今日も盛岡、キンキンに冷えた肌に突き刺さるような寒さで、 県南では雪が50cmも降っていますし、 こういう冬こそ沖縄、また行ってみたいです。 その沖縄セミナーでのノートをぱらぱらめくると、 『打たれ強くなる』という文字が目に飛び込んできました。 そうそう、確か、打たれ強くというのは打たれて我慢し続けていくこととは違うのだ、 ということを先生から教えられました。 どう強くなっていくか、何を持って強さとするのか、 それは相手を理解することへ自分が向き合う力だと、今一度考えました。 なぜ相手がそう言ってきたのか、 なぜ自分にそうしてきたのか、 何度も何度も、相手が投げかけてきたときに、 跳ね返すように受け止めるのではないし、 我慢して受け止めるということでもないと、確か言われたような気がします(キャッチボールをイメージして)。 相手が持つ、孤独や寂しさや不安感、または苛立ちや悲しさなど、 そういう感情を持った相手の内側にあるものをそのまんま理解してみたい、とやってみる。 もしかしたら、言葉とは真逆な気持ちかもしれないし、 言葉にならないもの、表現できないもの、自分でもわかっていないものを投げかけたのかもしれない。 そういうものに自分はやわらかく、すーっと偏見なく素直に受け止められる力をつけていきたい。 それが、打たれ強くなっていく・・・ということ。 そんな力をわたしもつけていきたいと、思ったことを思い出しました。 受け取る相手として自分がふさわしいかどうか、というのもありますが、 自分が(本当の「私」が)そうしたいのかどうか、というところだと思います。 今年もあと一週間ほど仕事をしたらお休みに入りますので、 この月桃の香りに癒されながらも、 残りの時間を打たれ強く、ふ

補聴器、するしない

イメージ
母は耳が遠いです。 母としては、聞こえていないことへの不便さを普段感じていないので、 耳が聞こえていないよーという話になると、とても嫌そうな顔をします。 以前、補聴器屋さんに行って試しにちょっと入れてみたのですが、 その時も、今にも泣きそうなくらい耳がいずくて(違和感がすごいという岩手の方言)、 なんでこんなにいずいことしなきゃならないのか、と訴え、 母には補聴器は無理なんだと思いました。 母は聞こえていないことに何のひっかかりもないので、 本当にごく限られた自分へ届いている音の世界の中で暮らしている、といえます。 他に誰かが何か話しているように見えても、 聞こえていないその内容を知りたいとか気になるとか、そういうことがあまりないようです。 一人暮らしですので、 テレビを見るにもボリュームを全開にして聞けばいいし、 たとえ誰かが家の中に入ってこようとしても、 驚きはしてもそれは困ったこととか危険なこととは思っていない様子。 そんな母を何年もみてきて、 危なっかしいところもありますし、 それで人から誤解を招いたり(一方的にしゃべる人みたいに)、 時にはわからないままにすることで、損をすることもたくさんありました。 ですが、自分の耳に入ってきた情報だけで生きていくというのも、別に悪いことではないのかも・・・ と思うところもありました。 でも一方で、 今のわたしは、母と一緒にいて会話をすること自体が身体の負担になってきていることも感じています。 大きな声をずっと出し続けて喉が痛くなってしまったり、 そうでなくても理解力が落ちてきている母へあれこれと大事な用事を何度も伝えたりしていると、 もうぐったり疲れてしまうこともある。 そして思ったのが、 白の感覚を選びながら、補聴器をつけてもらうということはできるだろうか、ということ。 一般的には、防犯の面や認知症の進行具合を考えて、 耳はやっぱり聞こえていた方がいいという話になるのかもしれませんが、 わたしのためにつけてもらいたい(母との会話を楽しみたい、自分の体の負担にならないようにこれからもお世話をしていきたい)、 という気持ちを母に伝えてみようと思いました。 母に対してのこれまでのパターンには、 ●ちゃんと話を聞いてほしい というものがあります。 それに対しては、 〇自分がカバーしていこう(大きな声で話していこう) というと

この感覚を信じて

イメージ
そうなることが相手にとって一番いいことだと思っているのに、 相手がそこを選ぼうとしないとき(そこには抵抗しているとき)、 何だかがっかりしてしまった・・・。 どうしてこんなにがっかりしてしまったんだろう、と考えると、 読みが外れた(自分は間違っていた?)というところの自分と、 そうなってくれなかった相手にがっかりしたんだと思う。 相手にとっていい結果になると信じていたことがあって、 それが、違っていたということを認めたくない自分(パターン)がいました。 こうなってくれたら、相手が幸せになり自分は満足する、安心できる。 これって相手の幸せではなくて、 自分の幸せ、満足、安心の形を押し付けていたということ。 相手が気づいていない自分の能力や魅力、長所を自分ならば知っているという自信がありました(これも相当なうぬぼれ)。 だから、そこが生かされるような方向へ引っ張ってあげたいと思う気持ちがあったんだと思う。 でも、あたり前だけれど、 どっちに進むか選んでいくかは本人が決めることで、 自分がどうしてそこを進める、選べる、これが一番いいと思ってしまったんだろう。 「~してあげたい」って、それって自分の中の誰がやっていることなのか、 本当によく観察していかなければならないですね。 本当は、はじめから相手はそこを望んでいなかったことに、 薄々気づいていたんだと思います(本当の「私」は知っていた)。 でも、パターンがそうしたくなかった。 ●自分の望む相手であってほしい というパターンのケアをして、 〇どんな相手であっても大丈夫 という白を選び、その感覚にひたる・・・。 なるべく長く長く、薄くても長~くそこの感覚を消さないようにして相手と話してみました。 途中、パターンが顔を出してパターンが口を開いているときがあり、 そういうときの相手はちょっと頑なになっているので、すぐに「これじゃない」(話しているのは「私」じゃない)とわかります。 もう一度、 〇どんな反応があっても大丈夫 〇そのままで充分やっていかれる この、全く目には見えないものを感じ取っていくということ。 すごく不思議な感覚です。 不思議なんだけれど、誰にでもこのセンサーは備わっていて、 本当に簡単に一瞬にして、いい感覚も悪い感覚も自分が作れるものでもあるし、 そこからまた変えていかれるものなんだなあと思いました。 白を選ん

オーラがある人

イメージ
その人のオーラを感じるという体験があまりないのですが、 先日、(色は見えないけれど)たぶんこれがこの方の持つオーラなんだろうなと感じたことがありました。 はじめはちょっと圧倒されるような感じもありました。 その後、洋服の色に目が行き、その色がその人を表す内面にも見えてきます。 話を聞きながら相手の目を見ているわけですが、 その目がとても真っすぐなことに気づき、芯の強さを感じるけれど同じ人間なんだということも思いました。 相手の方も、わたしの目をじーっと見て話すので、 一対一で魂同士が対話しているかのような感じもありました。 ワイルドな髪形も、ちょっと派手な色の服も、足を組む姿も、この人らしさではあるけれど、 もっと内面的な部分を受け取りはじめると、 見た目の色や形はこの方をちょっと力付けてくれるものだったり、 より良い方向へ連れていってくれるものだったり、 力を抜いてリラックスさせてくれるものだったり、 そういういろんな役目というか、助けているものというか、 だからこういう見た目になっているのかなと思いました(一番この方の「今」に合っている)。 対話をする時に、 自分に抵抗感があれば、相手も抵抗感を持ってしまうことがあるように、 自分が相手の世界へ入ってみようと思うと、扉を開いてくれるような気がします。 そこで見たものをそのまま受け止め、 うわ~っと心が楽しく明るくなるようなものは一緒に楽しみ、 自分には無いものがあったらよく聞き観察をし、 知恵としてしっかり学びたいと喰い入るように聞くこともある。 それが自然に何のひっかかりもなく行われるのは、 きっと自分が空っぽになっているときなんだと思います。 昔々の自分だったら、オーラを感じる人の前では話など全く入ってこなかったと思う。 その人の見た目に振り回され、 内面に入って行こうとはしなかったと思います。 それが、今は少しだけ魂の存在を感じ、 仮の姿もそれはそれで見据えて、 いいとか悪いとか判断することも忘れている。 自分がその人にどう映るのかどうか、気になって仕方なかったと思うけど、 それもない・・・。 もしかしたら相手の方がそうさせているのかもしれませんが、 それでも、相手を見ている自分は、 どんな自分であってもいいということも感じました(何を感じてもいい)。 自分を受け入れられたときに、同時に相手も受け入れられて

一人じゃない

イメージ
通勤時の車の中では音楽を聞いています。 外に聞こえないのをいいことに、大きな口をあけて歌っています(顔でバレてますかね)。 いろんな歌手のいろんな曲がシャッフルされているので、 今日は何の曲がかかるかなあ~って楽しみな時間。 到着するまでに『今日の一曲』じゃないですけど、 この歌のここの歌詞になぜか今日は響くなあ~って思うことがあります。 今朝は、セカオワの『RPG』のこの部分、   ♪ 空は青く澄み渡り 海を目指して歩く    怖いものなんてない 僕らは一人じゃない 何度も聞いていた曲でしたが、はじめて歌詞が胸に染み込むように入ってきて、 この部分にじーんときた。 今自分の目の前に、その通り青い空が広がっている。 どんなに雲が厚くても、その雲の上にはちゃんと晴れた空があることを知っている。 そうして、 いつもこんな風に今までもずーっとこの澄んだ青空の下、自分はやってきたんだと思ったら、 何だか泣きたくなってしまうほど、幸せを感じました。 それは一人ではないという心強さ、温かさでもあります。 目的地にたどり着くまで歩いて歩いて、 これからもずーっとそこに向かって、歩いていけるんだという嬉しさ、喜びも感じました。 歌に込められたものは自分の解釈とは違うものだと思いますが、 この、ぐーっとこみ上げてくる感覚、 守られているような、励まされているような、 それでいいんだよと言ってもらっているような・・・。 大きなものに包まれながら、 これからも歩き続ける自分は、そう、一人じゃないと思えるのです。

初心忘れるべからず

イメージ
初心忘れるべからず。 ことわざとか(四字熟語とか)あまり知らない自分は、 好きな言葉は?と聞かれると、 思いつくこの言葉をワンパターンのように答えていたように思います。 (もう一つ好きな言葉がありますが、それは次回にでも~) 辞書をひくと、 始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを忘れないこと・・・という意味なので、 何に対しての初心なのかと考えると、 結婚した頃の、子どもができた頃の、この仕事をはじめた頃の、等々思い浮かべることができます。 先日ある理学療法士の方が、 患者さんやご家族、また自分自身に対して、 行き詰ったときはいつも『初心に帰る』ということを思い出すと話していました。 この職を目指した頃、どんな気持ちでやっていこうと思ったのか、 そのときに感じた新鮮な発見や喜び、学ぶ姿勢など思い出して・・・ というお話かなと思ったら、ちょっと違っていたんです。 初心というのは、この世に自分が誕生したときの気持ち、決心、なんだそうです。 生まれた時の気持ち、決心など覚えているはずがないのですが、 もし自分の意志で誕生してきたのならば、 きっと何かこの世で成し遂げたいと思うものがあって、 今度こそはそこに挑戦したい、そこから逃げずにいこう、という気持ちがあって、 この日本という国を選び、この両親で、この環境のもとでこの仲間と学んでいこうと自分が決めたということになります。 その方も、そういうものを信じ、 すべての経験がその達成のために必要なものばかりなのだから、つらい時こそそれを忘れずにやっていけば、 本当の「私」が望む生き方にとても近いものになるということなのだと思います。 もし、そんな生き方ができたら、 今を生きることに真っ直ぐになれる、迷いはなくなるのではないかと思いました。 そして、今世はできると思ったからやっている(生まれてきた)といえるかもしれません。 どうして今こんなことが起きているんだろう、 どうして今こんな気持ちでいるんだろう、 どうして今この人達たちと関わっているんだろう、 どうして今、こういう自分なんだろう。 その答えが初心にあることを思い出してみよう(実際は考えてみるになるかな)、ということ。 よく出てくるパターンの中に、それが何なのかヒントが隠されてあります。 あらためて、この言葉が好きになりました。 だから今日も、小さな引っかかりに、素直にその場で語

苦手なこと

イメージ
師走に入って、年内にこれをやってしまおう!と言われる仕事が増えてきました。 考えただけでもうすでに忙しくなっていて、 余裕がなくなるだろうなと想像する自分。 頭の回転が追いつきません・・・。 以前、友人から、仕事って忙しいものだと決めつけていない? と言われたことをはっと思い出しました。 仕事をしているって普通忙しいでしょう、とその時思いましたが、 時間をどう使うのか、どういう気持ちで取り組むのかで感じ方は全く変わるということはわかっているつもり。 それでも、やっぱり忙しい現実があるのは、 自分の容量(キャパ)を超えているんだなあって思います。 なかなかこのキャパというのは自分ではわかりにくく、苦手としているところです。 ここまでやったら疲労がはんぱないとか、倒れるとか、ミスが出るとか、いらいらするとか、 家事がどうでもよくなるとか、スーパーの総菜が増えるとか、寝ているようでちゃんと寝ていないとか・・・。 要するに、その後どうなっていくのかがわかっているようでいて(体験済みなんだけど)、本当にはわかっていない。 優先順位を決めて動くのも苦手です(目に入ったものからやりたくなる)。 年々、気持ちと身体がついていっていないということもある。 自分はできると思いたいパターンもあるかも。 実際には忙しさは嫌ではないところもあって、ちょっと師走ってわくわくします。 でも、そのわくわくが(楽しんで終わりたいが)、後半ばてる。 これでも、少しだけできるようになっていることは、『あきらめ』です。 やるだけやってできるところまでで良しとする、 というように取り組み方は変わってきているように思いますが、 この『やるだけやって』がくせもの。 これが日常的に多すぎるな、と最近思うようになりました(仕事ではね)。 やるだけもやらない・・・も増やしていっていいかなと今年は思っています。

でも、軽いわけではない

イメージ
昨日の続きになりますが、 身体の不具合にパターンは反応しなくとも、 別の事態には反応するパターン(昨日でいえば、ちょっと落ち込んだというところ)が出てくるのは、 何も不自然なことではないです。 どこがどう不自然じゃないかというと、 パターンって、その時々で、もっと言えば一瞬一瞬で顔を出すものが違ってくるからです。 体調不良のときは、もうここがパターンの出処だと、ここが原因と決めつける感じを持っていて、 全部微妙に違うパターンをひとくくりにしようとしていたことが多かったように思う。 身体の不調こそが、パターンの大元なんだと。 どんな感情も、全部そこにくっつけやすいのかもしれません。 パターンのケアって、 出てきたものをとにかく一つずつ語りかけていくところから始まるのですが、 どこか人間って効率性をこんなところにも求めてしまって、 そんな小さなものよりも、根本的で大きなもののケアをしなければ何も変わらないと思ってしまうのでしょうか。 今回、軽いわけではないけれど重いわけでもないというところをよく感じてみました(考えるのではなく、感じる)。 やはり軽さがない(足りない)のならば、 これまでのパターンらしいパターンではないのかもしれないけれど、 小パターン(小さめのパターン)がそこにはあるのだと思います。 引っかかり方が弱い、ごくわずかに感情が動いた、といった感情の波が小さなパターンです。 こういうとき思うのが、 『快ですか?不快ですか?』という二者択一。 これが一番シンプルでわかりやすい。 パターンが大きかろうと、小さかろうと、ほとんど感じない(重くもないけど軽くもない)状態であっても、 やはりパターンはパターンであって、「私」ではないのですから・・・。 ここを曖昧にしないで行けばいいって思いました。

重くも軽くもなく

イメージ
朝起きると、体が重く調子があまり良くないなと感じた日、 さらに家でも外でもちょっと落ち込むようなことが続きました。 今日はずっとこんな感じ(何かうまくいかない日)で行くのか・・・? 不調に注目していれば、 何かパターンが引っかかったかもしれませんが、 調子は良くないけれど、それでもいいというか、 「ああ、そうなんだ(不調なんだ)」とそれだけの感じもありました。 静かに過ごそうと、いつもより落ち着く感じもあります。 ゆらゆらゆれる水面のように。 波が立たず、かといって波が立ったらどうしようということも思わず、 身をまかせるような感じを、 なんだかこれまでもこういうことがあったなあと思い出しました。 調子がよくないというときでも、 そこに必ずすべて影響されるとは限らなかったなあと。 体調の悪さが、心を一旦静めてくれるような、 そういう体の使い方もあるのかもしれないと思いました。 この感じって、何なのか。 パターンの重さを受け止めた・・・のに近いかもしれません。 それならば、パターンのケアを充分にしてあげようということなのでしょうが、 重いことは悪いこと、避けたいこと、ダメなことという概念が薄れ、 あ~重たいなあ、で終わっている・・・そんな感覚が今の感覚です。 すぐに何とかしなければ、軽く楽にしてあげたい、 という感じとは違うもの(かといってケアしないのではない)。 この感覚の正体がちょっとはっきりわかりませんが、 白パターンのような軽さはないけれど、 しいて言うと、重くも軽くもない、という状態なのかな。