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8月, 2023の投稿を表示しています

染みこんでいたもの

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今日は、同じ目標をかかげている友人と、 一緒に練習をする時間を持ちました。 一人で練習するのはあたり前ですが、 相手の良さをみて、自分を高めていく。 ということをしてみたいと思い、私からお願いしたのでした。 同じ目標と言っても、すっかり同じことをやるわけではないのですが、 【人前で話す】という点においては一緒。 どうしたら相手に伝わるか? 自分では気づかない、言葉のわかりにくさも見えました。 やはり、やってみて良かったです。 彼女の声が、話し方が、とても耳に心地良いなあと思いました。 これは生まれ持ったものだと思いますので、 その人の個性というものが、その空間いっぱいに広がり、すごくいいなあと思った。 では、自分の個性は何だろう? 何かしら、表現することはできただろうか? 一人で練習してみたときは、たんたんとした口調になってしまうけれど、 たった一人であっても、目の前に人がいるとなっただけで、 急に熱があがっていくような、力が入るような感じがしました。 伝わるというのは、この熱量が伝わっていく感じなのだと思います。 熱とは、声を大きくすることのように思っていましたが(なんて単純な)、 そうではなくて、その声が全身に染みこんでいく感じがあるとすれば、 それはどのような話し方で、それはどのような気持ちで話すことなのだろうか? と考えました。 やっているうちに、気づいたことですが、 目の前の人ではなく、 なんでしょう、それを知らなかった頃の自分に話しかけているかのような気持ちにもなりました。 自分へ語る自分。 頭にたくさんクエスチョンマークを点滅させていた自分に、 これならわかるかな?と、言葉を選んで話す。 それは、パターンを理解したいと思う気持ちにも似ています。 かれこれ10年以上も前に、 あ、これ、なんかおもしろいかも・・・って思った自分へ、 今の自分ならば、なんとなくではなく、 ちゃんとわかりやすく話してあげられるかもしれない。 また、友人から言われて、 相手の背景に合わせて話すというところが、 もしかして自分の個性であるのかも。 って思いました。 まだまだできていませんが、 そういうことを考えながら作っていく工程はたしかに楽しいです。 これは私一人では気づけなかったと思います。 それにしても・・・ 本当に、不思議なくらい話って、 内容より雰囲気、空気感で受けとって

真っ裸になる

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人前で話すことが怖いというのは、 緊張するから話せない、とは違う。 声が震えるとか、噛みまくるとか、話しが下手というのももちろんあるが、 それよりも何よりも、 話したことで、自分がどんな評価をされるんだろうか。 って思っているから怖いのだ。 その評価は、散々たるもので、 誰からも理解されず、 軽蔑され、嫌われ、 それを感じてしまったら、 恥ずかしくて怖くて、もうそこにいられないような自分になってしまう。 その結果、信頼を失ったり、人が離れ、仕事もなくなる、ということがあるかもしれない。 そういうことになったら・・・と考えると、 もう~~~怖いんです。 耐えられないんです。 ・・・と自分の中のパターンが言っている。 一方で、 自分が大切にしているもの、経験を積んで見えたもの、 今の自分にとっても、生きていく上での真理だと思えるもの、 そういうものを、自分がわくわくしているように、 この思いのまま伝えてみたい。 っていうものが、ふつふつと湧き上がっていることも、 これも今の自分。 どっちを選んで、進んでいきたいのか? 答えははっきりしていて・・・ そっち(後者)なんです。 やりたいことがあるけれど、どう思われるかが怖い。 したいことがあるけど、うまくいくはずがない。 これらのパターンのささやきに、耳を貸さず、 それでいいのか、自分?と何度でも意識をこっちへ向ける。 本当に滑稽なほど、他人から見たら、そこ?と思うようなことを、 この私という人間は、今までももがいてもがいて、 悪戦苦闘して生きてきている。 苦しいとわかっていても、 それを選んでしまい(なぜなら、それ以外の生き方に慣れていないから)、 その戦い、もうやめませんか?  もう疲れたでしょう? と言われているような気がしました。 殻を破りたい!! 真っ裸になってみたい!! そうなる!! と思った朝です。

気まずくてもいい

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今日は歯医者さんで、歯のメンテナンスに行ってきました。 実は先々月のこと、母の入れ歯も新しく作り直していただいたのですが、 どう調整しても、痛くて着けられないと、 せっかく約3か月を要して作った入れ歯でしたが、使うのを断念したのでした。 母も母で、散々痛くないと言っておきながら、 いざ完成〜!となっての装置時に、 私こんなのつけたくないと、 痛くてイヤだわと、泣きだしてしまったのです。 本人も困っているし、 先生も嫌がる患者を泣かせてしまうという図ができあがり・・・ 私の中では、 親切丁寧で技術も高く、本当に痛くなくやってくれる先生。 だけど、たしかに母への接し方は、 あれ?こういう言い方をする先生だっけ? お年寄りなんだから、もう少し優しくしてくれなきゃ、怖いよ〜 先生への今までのイメージがちょっと変わってしまったのでした。 先生は、入れ歯をつけて慣れなきゃ、いつまでたっても慣れないままなんだよと、 母をさとします。 まったくその通りなんですが、母にはそんなの関係ない。 結局作った入れ歯はケースにしまい、 泣きながら帰った母と、ぺこぺこ頭を下げまくった娘(←私)。 かなり、先生とスタッフさんたちと気まずい空気が流れていたのでした。 さて・・・私は、これからどうしようか? このまま、この大騒ぎした歯医者さんに通い続けるか、 またはこの機会に、もう新しいところに変えてみようか。 こういうときは、シンプルに2つの部屋に入ってみた感じで決めます。 ①この気まずさの中、これまで通り通う。 ②夫が気に入っている歯医者へ行ってみる。 結果は、わずかに①でした。 気持ちの上では、母のことで先生と顔を合わせずらいというのはありましたが、 何といってもそこが自分のパターンです。 語りかけをして、 (●母に優しく接してほしかった、というパターンに語る) この気まずさがちょっと残ってあるままで行ってみたいと、 それがほんの少しだけ、①の部屋に入ったときのほうが落ちつきがありました。 自分自身がそこでまた、新しい関係性を持てそうな気がしました。 行って受付を済ますと、歯科助手さんから、 あの後、先生が母を気にかけていたこと、 もう一度、今度はぎりぎりまでゆるくしてまた入れ歯を作り直したらいいかも、 と言っていたことを話してくれました。 私は、新しいことをするのがもう難しくなっているし、壊れ

親戚付き合い

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お墓参りにお寺に行くと、叔母(父の妹)とばったり会いました。 あらまあ、まーちゃん!あーうれしい~~ (家族親戚は、私をまーちゃんと呼ぶ) と、いつも変わらず元気な叔母。 お寺でもどこでも、声がでかいので、すぐにわかります。 75歳になった叔母は、たくさんのお花をかかえて自転車でやって来ました。 いつもお盆やお彼岸には、こうして真っ先にお墓を掃除し、 たくさんのお花を飾ってくれていたのです。 そこに悠々と、後から手ぶらで自分たちがお参りに来る・・・という、いつものお盆の流れ。 それが、今年は雨降りが続いていたので、 遅く14日になってしまったということでした。 そのおかげで、はじめて叔母と一緒にお墓掃除をし、 一緒にお線香をあげて、手を合わせることができました。 ご先祖様から、これからも叔母たちを大事にしていきなさい、 と言われているような気がしました。 先日、秋田で豪雨があり被害の様子がTVで映し出されましたが、 叔母は何十年も疎遠だった親戚に、電話をかけてみたそうです。 無事でいるだろうかと、黙っていられなかったのだと思います。 私も小さいころ可愛がってもらった記憶のあるその方は、95歳になっていたそうで、自分を思い出してくれたことに涙を流して喜んでくれたと言っていました。 その話のおかげで、私もその方の顔を思いだし、 元気でいてくれてありがとうと、心の中で思うことができました。 そういう、思ったら即行動するところが、 父とよく似ています。 父も親戚のことをいつも大事にしていたなあと思います。 12人兄弟のまん中で、上と下にはさまれていろんな相談事にのっていた姿を思い出します。 叔母はよく、食べ物をうちに持ってきてくれることがあるのですが、 それがいつも今日なんでこれを?というもの。 しかも遠く、わざわざ自転車こいで届けてくれるのか? 叔母にすると、 夏はそーめんが一番だから!(茹でてある)とか、 このおせんべい、美味しくて止まらないから!とか。 私たちに食べさせたいという気持ちと、 自分のわくわくを伝えたいという気持ちで持ってくるような感じなのです。 うちにもあるそーめん。 なんてことないせんべい。 昔はおかずも作ってきてくれることもありました。 私をいまだに小さい子のように思っているのか、 タッパーには、カラーペンで料理の名前と材料の名前、そして丁寧に食べ方

楽しいという熱

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新幹線はやぶさ(鼻がないタイプ) 日本列島が猛暑を記録していますね。 そんな中、一人旅をしてきました。 目的はカウンセリングを受けに・・・ですが、 自分にとっての『楽しい!』をあらためて発見した旅でもありました。 考えてみたら、今年の目標は(もう、忘れかかっていた)、 楽しくいこう!だったのです。 この『楽しくいく』というのと、 『楽しいことをする』というのは、 ちょっと違っていたんだなと気づかされました。 目標の方は、ちょっと楽しくないと思うことであっても、 そこに必ずある、小さな楽しさを見つけて、 そして楽しもうというものだったと思いました。 それは、日常の中で大事にしていることでもあるし、 仕事などは特に、そういう視点をもつことで、パターンに飲みこまれず、 自分らしくいられるということもあります。 秋田から、こまち来ました でも、そういうことを考えてなくても、 自分の魂がわくわくするというか、熱くなるというか・・・ 内側からおさえようにも抑えきれないような熱や振動を感じるというのが、 自分にとっての、自分にしかわからない『楽しい』なのです。 この楽しさを、ちゃんと説明できない・・・わけでもないのですが、 (他人にとっては、ふーんそうなんだ、で終わるかも) とにかく、 自分だけのものでいいんだ!と思いました。 そしてこれが、今回の旅で、あらゆるところで見つけたのです。 電車やバスに乗って目的地へ行く。 いろんな街並み、いろんな人をみる(たまに、会話があったり)。 きれいなホテルに泊まる。 真っ白いベットに寝る(今回のホテルは白一色だった)。 そして、そのホテルから、会いたい人に会いに行く。 連結成功! そういうことがわくわくするのです。 単純に好きなことをしているから、 暑いとか、雨降りとか、疲れたとかも、関係なかった。 ああ、いいなあ。 っていうものを、私は大事にしていきたいと思いました。 昨日は、盛岡駅でひとり飲みをして家路につきました。 自分の世界の中にひたり、美味しかった~ よかった! この感覚の世界をまた何度も思いおこし、 日常でも浸って、行動していきたいです。 合体して、いざ出発!

ポジティブ感情

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これってパターンだったんだ! と気づくには、ネガティブな感情 (つらい、悲しい、さみしい、怒り、むなしい、怖い、不安、嫌い、など) があるからこそ、自分の中にパターンがあることに気付くのだと思います。 でも、ポジティブな感情 (うれしい、楽しい、わくわくする、期待感、喜びなど)にも、 実はパターンだったということがあります。 こんなにうれしく、気分がよい状態なのに。 それは誰がそう感じているのかといえば、 本当の「私」ではなく、パターンだったということがあるのです。 どんなにうれしい!と思うことがあっても、その背景に、 うぬぼれ、思い過ごし、自信過剰、優越感、勝ち誇るような気持ちを自分で感じ取ると、 急に冷めるというときがそれです。 これが本当に、自分がのぞむものだったのか?と問いたくなるような、 本当にうれしい・・・とはやはり違う質のものだと少し経ってから気づくこともあります。 パターンには、思惑があり、 とても自分本位なものを感じてしまいます。 ポジティブな思考や感情であっても、その裏にあるものというか・・・ 特に私の場合は、承認欲求というパターンが、たびたびポジティブさと共に顔を出します。 そのパターンが、たんに認められた~って喜んでいただけなのです。 このポジティブな感情って、私にとって本当に注意が必要な感情です。 この感情がわきあがるたびに、 しばらくしてふと我にかえるように、 よろこんでいるのは一体誰だ?と探してしまいます。

だから高校野球

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今日は、朝からずーーっと高校野球ざんまいでした。 3年ぶりに選手全員が行進した開会式。 きれいに整備された甲子園のど真ん中に、 47都道府県の代表校がそろい、一同そろって前進していく姿は圧巻でした。 本当に美しく、感動的でした。 山崎育三郎さんの独唱「栄冠は君に輝く」も、 本当にすばらしかったです(独唱のあとの合唱も、よかった)。 いつも堂々としている方なのに、ちょっと声が緊張しているような・・・? と思ったら、 この素晴らしい舞台で歌えること、 こみ上げてくるものを一生懸命こらえながら、歌わせていただいた。 と後から話されていたので、 一流の歌手であっても、あの場の特別で神聖な空気に圧倒されたのを思うと、 それもまた感動したのでした。 今日は、はじめから野球漬けの一日にする予定ではなかったのですが、 この暑さで出かける用事が億劫になってしまったのと、 もしかしたら、まる1日野球だけを見て過ごせる日なんて、そうそうないと思い、 よし、今日はTVにかじりついて観戦しようじゃないか!! と決めたのでした。 開会式と第一試合の間に、洗濯たたみと、もろもろの書類整理をし、 第一試合と第二試合の間に、昼食を作って食べ、 第二試合と第三試合の間に、近所のスーパーへ猛ダッシュで買い物を済ます。 見たい!と思うと、それを叶えるために動きがこうも違ってくるのですね。 WBCを観たときもそうだったのですが、 すごい選手と言われる人たちは、 野球そのものと、それに関係することすべての考え方、とらえ方、あり方・・・ といった見えないものに対してのすごさがあります。 それはもう何か、あたり前のような気がしますし、 監督も、選手のそういうところをみて伸ばしているのだと思います。 身体能力と精神性、理論に基づいた実践もあり、自分を深く掘り下げていった先に見えるものを見ているかのようで・・・ また、個人ではなくチームとしてのあり方も自分たちで考えていけるのだろうと思いました。 そして、野球がとにかく好きなのでしょう。 打ちたい、投げたい、走りたい、いいプレイをしたい。そして勝ちたい! その純粋さはゆるぎないもの。 これはもう、何かを極めていくときの共通項のように、 身についているのではないかと感じました。 インタビューに答える選手たちは、 自分たちが高校生だった頃とは違い(そりゃそうだ)、 物事の

こだわり

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盛岡の街は、さんさ祭り真っ只中です(8/1~8/4まで)。 18:00になると、のろしが上がり、太鼓の音が聞こえ、そわそわしてきます。 実は、踊り方ってよくわかっていませんが、 それでも見よう見まねで(すごい適当だが)踊ってしまいます。 今年の夏は、さすがの盛岡も暑いですね。 そして、この夏私がはまっているのは~ マニキュアです(今はネイルと呼ぶ)。 若いころから、ネックレスとかピアスとかマニキュアとか、 好きなんだけど~苦手でした。 つけるとちょっと体が重くなるような感じがするのですね。 でも、たまたま先日、 【福祉ネイル】をしてもらう機会があり、そこから楽しくなってしまいました。 なぜ福祉と名がついているのかというと、 甘皮(爪の根本の皮)を削らずに、 そこにネイルがつかないように施術するからだそうです。 ところが、これが良かった。 甘皮のところには塗られていないので、昔やったマニキュアよりも、 ずっと爪が呼吸をしている感じがあり、翌日になっても全然重苦しくないのです。 そして一回り小さく色を塗るために、色の主張が控えめで、なんかこれも私好みでした。 自分で塗ると右の爪は、 利き手ではない左手でやるので、どうしてもうまく塗れません。 右と左の出来栄えが違う、というのが嫌で・・・ 好きだけれど、毎回納得のいく仕上がりにならないというのが、マニキュアでした。 でも、本当にひさしぶりに塗ってみたら、 結構それなりにうまく塗れるようになっていて~・・・ 若いころは、 きれいにちゃんと塗りたい願望が、強かったのだと思います。 ちょっとでもムラがあるとやり直し・・・塗るからには完璧にしたいのです。 そして、そう思えば思うほど手が震えてうまくは塗れず。 でも、今は、 そのあたりも寛容になったのか、 思い切りがよくなって、かえってきれいに塗れるようになっているではありませんか! 不器用なはずの左手も、若い時よりも動いてくれます。 自分でもびっくりですが、 これは器用になったということではなく、 完全に気持ちの問題。 完璧さへのこだわりがなくなっているからだと思いました。 私の手はシミは多く、しわも多く、血管は浮いてるし、爪はまんまる。 決してマニキュアが似合うような手ではないので、 この手にきれいな色を塗ってもなんだかなあ、って思っていました。 それでもまあ、楽しいからいいっか