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6月, 2022の投稿を表示しています

選んでよかった

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黒パターンで言いそうになるとき、 愚痴っぽかったり、嫌味っぽかったり、 相手に対して否定的だったり、マウント取ろうとしていたり。 とにかくこういう時は、自分は少なくとも不快な気持ちを抱いているときです。 ですが、 本当に「私」はそれでいいの? ということを本当に一瞬のうちに自問自答していることがあります。 答えは、これも一瞬に、 違う・・・「私」はそう思っていない。 黒のまま発言しようとするまさにその直前に、 そう叫んでいる小さな自分が一瞬顔を出すのです。 黒パターンのままに言うのはやめよう(もうそれは選ばない)。 そして、 愚痴ではなく、感謝の気持ちを、 嫌味ではなく、自分の望む正直な気持ちを伝えます。 否定ではなく、相手の身になれば見えてくる、それを受けいれ、 相手を打ち負かすのではなく、その世界から出ていって手を取り合うのです。 そういう言動は、誰より自分自身がほっとしてくるのがわかります。 またそれだけで終わらず、さらにいい方へ流れていくような気がします。 こっちを選んで良かったという体験が増えていくほどに、 状況が変わり、相手が変わり、自分も変わり、周り全体も巻き込んでいく。 柔らかく、心地よく、広がりを持ちながら、 そういう『良いもの』が伝染していくのだと思う。 だから、自分自身がまずは白パターンを選んで話すということが、 どれほどまでに大事なことであるか・・・なのだ。 もしかしたら、時間の流れで言えば、正確には、 本当に自分の心が柔らかくなり、心地よくなり、広がりを感じてから、 すっかり自分が変わってから、言動を変えているわけではないかもしれません。 でも、こっちを選んで話してみよう!と実行に移し始めると、 みるみる目の前の状況が変わっていきます。 だから、これで良かったんだと信じられるのだと思います。 「私」への信頼が深まるような感じがします。

介護のあいまに

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父の介護の経験を経て、認知症(アルツハイマー病)がどういうものなのか、 素人ながらにも、かなり知ったつもりわかっているつもりでいました。 それでも母は母で、父とは全く違います。 こんなことが起きるんだ~という思わぬ展開がたくさんあって、 この数週間本当にめまぐるしく、感情が騒ぎ(パターンのケアもし)、知恵をしぼり体を使う日々でした。 育った環境や経験してきたこと、つまりは刷り込まれたパターンが母だってありますし、 元々の性格や気質といったもの、今ある環境など、 「一般的な症状」と言われるものに対しても、母らしさが出るようです。 そして、それらは、そばで暮らすわたしにとって、家族にとって、また遠くで暮らす兄にとっても、 母が認知症にならなければ決して気づくことができなかった、 まさに「変えられるもの」と「変えられないもの」の識別をしながら過ごす日々が与えられたのだと思います。 自分一人では決してできない介護。 ケアマネさん、往診の先生、訪問看護の看護師さん、デイサービスのスタッフさんたち、 訪問薬局の薬剤師さん、見守りお弁当配達のスタッフの方、などなどお世話になっている人がたくさんいます。 遅刻や早退、突然の休暇も自由に取らせてくれる会社にも感謝ですし、 スケジュールに融通がきくこの仕事に就けていることへも感謝です。 本当に多くの方たちに支えられて、自分の日常が成り立っているんだなあ・・・ 思えば、こんなにたくさんの方たちと関わって生活しているというのも、そもそも両親のおかげです。 ほぼ毎日誰かしらと電話で何かを相談していますが、 たまに、今日は何も無かった(電話やメールのやり取りがなかった)という日があると、 何だかとても静かな一日だったなと、ほっとしたりします。 でも、この毎日のやり取りが、特訓になっているんだと思うのです。 これを言ったらどう思われるか?ということがだんだん気にならなくなり、 事実をたんたんと話す練習にもなっています。 逆に、思いを隠さず素直に伝えるということを日々やっているような気もします。 それが叶っても叶わなくても、自分はこう思う、ということを伝えることで、 相手も自然に思うことを言ってくれているようです。 一番大きな変化は、 何かを決めるときに、あまり迷わなくなったような気がします。 母のことでお願いする側、相談する側、愚痴る側ではあるの

見えないもの

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今朝は、母から自分のパターンが暴れそうになる電話をもらい、 でも、暴れそうになっている自分のことが同時によく見えた気もしました。 自分の人生がこんなふうだったように、 母にも予定していたことと違った人生がある。 魂としては、ここを今生で学ぼうと思い、そこから逸れないようにと、 道から逸れるたびに、新しい試練を起こしては、深く自分の中に道を見出す光を差し込みます。 その一筋の光を感じられるまで、 見えない見えないと思って探しているのですが、 見つけたときはもうすでに一筋の光は、別なものに変わっているのです。 もうすっかり明るい世界に自分がいたことに気づかされる・・・ということがあります。 この大きな違いは何? 見えない世界と、急に見えはじめる世界。 苦しさから逃れようとするほどに見えず、 もう、これでいい、と思った瞬間に変わる世界。 隣り合わせにある。 心と身体と魂を守り導いている、目には見えないものの存在があるのならば、 母にもそういう方々が必ずついているはず。 母と話ができなくなっていく中で、 今日は目の前にいる悲しそうな母ではなく、そういうものたちに話しかけてみよう。 きっと、母のことを守ってくれているはずだから、 母の人生がちゃんと果たせますように・・・と思いました。 この世では、一般的には、また、パターンが思うには、 それは不幸なこと、つらいこと、悲しいことであったとしても、 魂レベル、宇宙レベルでは決してそうではない、ということを信じている「私」がいます。 母の魂がしたいと思っていることのじゃまをしないように。 また、自分に向けられる言葉や目に見えるものに惑わされないように。 そこにどんな自分がいたのかちゃんと見ていこう。

なんとかやれている

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いちいち相手の言動に、引っかかっていた自分がいました。 共感するところが見つけられず、 何度となく話すたびに胸がざわざわし、モヤモヤし・・・ 頭の中では、うーんそうじゃなくって~、と否定する言葉が駆けめぐる。 こうなると、今のご時世マスクしていて本当に良かったと、 引きつっていた顔、隠れていて助かった~と思うほどです。 そんなことがあって、 またこの時が来たか!とまだ何も起きていない相手と自分の空間に、 つい身構えてしまっていました。 ところが今回は、 あまり心が引っかかることなく、進んで冗談まで言っている自分。 少しだけ緊張感もありながらでしたが、 でも心の中で感じていることと、口から出る言葉のギャップがなかったからなのか、 自然にお話しできて良かったなあと思いました。 こういうことが起きるとき、 相手が変わったなあと感じます。 実際には、それもそうなのですがー、 自分の領域が変わり、もう相手に対して引っかかるものがなくなってきたから、 見ているもの聞こえるもの感じるものが以前とは違う世界に自分がいるから、 だからそうなる、とも言われています。 これは、自分の意識がどこにあるかという、あり方が変わったからかもしれません。 そしてまた、それは二度と変わらない完成されたものではなく、 いつでもその領域は行き来できるようで・・・。 今日は自然体で話ができたけれど、次に会ったときも心穏やかに話せるとはかぎらない。 逆もしかり。 心の波は小さくなり、すっかり関係性は変わったということもある。 そういうことがあるたび、 今の自分の人間関係があるのは、自分を観察する、自分(感情)を大事にする、 本当の「私」がしたい行動へ選び変えていくことの『たまもの』なんだと思いました。 それがあるから、この程度で何とか自分はやっていかれているんだと。 コミュニケーションスキルを発揮して、波風立てずに関係性を保つということもできるけれど、 感情とは正反対の言葉を使い続けていくことにもなり兼ねない。 どんどん自分が分からなくなっていくものだと思う。 本来の本当の「私」から離れ、宙ぶらりんな心(パターン)だけが残ってしまうのです。 人とかかわって生きていくことは、死ぬまで続くのだと思うけれど、 毎日、毎回、かかわる相手は変わっていくので、 うまくいかないことがあっても、この人だからなあ~で済ました

結果発表

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ずーっと胸の奥にしまっていた 言いたかったこと 。 先日、それが言えて、その結果どうなったのか? ということなのですが・・・ 数日経って、どう思われてもいいという気持ちに変化がありました。 言ったことに対しての反応が全くないことが、ちらほらと気になるようになってきたのです。 どう、思われたんだろうか・・・ こんなさもないことをわざわざ言ってきて、 面倒な人だなあと思われただろうか。 それとも、もうこちらが言ったことさえも、 で?それがどうした? というようなことでスルーしているのだろうか。 頭がぐるぐると動きだし、 なんだか落ち着かなくなってしまいました(←これがパターンが騒ぐということ)。 すぐに、自分でパターンのケアをする。 相手から何を期待していたんだろう。 はじめは期待するものなどないと思っていたけれど、 今こうして、もやっとしているのですから、 相手から言ってほしい言葉があったのだと思います。 それらは一体何だったのか、ノートに書き綴ると、出る、出る・・・ 「今までごめんなさい。知っていたら違っていたのに。本当に申し訳なかった」 「すごいね(自分のしたことが)。素晴らしいと思ったよ。本当にもったいないことしたよ、ごめんなさい」 自分のしたことを褒めたたえ、労い、 今まで知らずにきたことへの後悔と謝罪の言葉。 それが本当は欲しかったのだ。 相手から言ってもらいたいことをずら~と書き並べ、 声に出して読みあげていく。 そうそう、そう言ってもらいたかったの!と、同調していく心がそこにはありました。 毎日毎日、自分自身の声を通して読みあげる(自分で語っては、うなずく)。 次第に心は落ち着きを取り戻し、 もう、大丈夫・・・もう、安心・・・もう・・・もう、いいかな・・・ それから数日経ったある日。 自分がノートに書いた言葉の一部が、言って欲しかった言葉が、 自分へ向けられた(言われた)のです。 あんなに欲しかった言葉は、 それ以上でもそれ以下でもなく、ただの言葉としてそこにあるような感じがしました。 状況はこうだった、 相手はこう思っていた、 ただそれだけのものでした。 この極めてシンプルな事実を受け取った後、 それでね、こう思ったんだと、 これからへ向けての話を落ち着いてお互いに話すことができました。 欲する言葉はやがて、 本当の「私」には違って聞こえてきました。

負けた

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勝ち負けではないのだけれど、 完全に負けた・・・ と思ったことがありました。 その負けた・・・と思ったときに(うなだれながら)、 そっか、自分はその人より優れていると思っていたんだ! って思っていたことにびっくりしました。 負けたと思ったということは、いつも自分は勝っているって思っていることですよね。 そして、その人は自分には絶対に勝てない人だとも思っている。 たしかに、経験だけみれば、自分の方がやってきた年数は長い。 あとはどうだろう? ・・・ それだけじゃん!(またしてもびっくり) よく周囲で勝った負けたという話がでると、 何をもって勝ちとか負けとか言うのか?しょうもない~ って思っていましたが、 いざ自分に起きると、そんなことをしていないどころか、 無意識にあたり前のようにやっていたんだなあと気づかされます。 自分より経験が浅い、 自分よりかなり大人しい(主張しない)、 自分より天然なのかもしれない・・・と感じたときは、結構そう思ってきたのかも。 もちろん、悔しさ、腹立たしさ、悲しさ、虚しさ、 そして敗北感が胸のあたりをざわざわとさせ、 まだその気持ちさえも認めたくないと抵抗している自分(パターン)もいました。 ただ、今はそういう気持ちも含め、 丁寧にパターンへ語りかけ、 そう思ったことを無視せずに(気のせいだとスルーせずに)やっていけばいい。 という安心感も同時にあるのです。 心臓がばくばくして慌てふためいていましたが、 数日経って何度か自分をケアしているうちに、 この日記にも書けました。 どんな気持ちになっても、そこから立て直せる、選び直せるということが、 この学びのありがたいところです。

違う景色

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  今朝はときおり小雨の降る、どんよりしたお天気でしたが、 早起きして ホテルの朝食バイキング に行きました。 出勤前に、なんて贅沢な時間! こちらのホテルは、実は仕事でお世話になっていて、 スタッフのみなさんの人柄も知っているため、応援したくなります。 岩手県産の食材を取りそろえた朝食を、宿泊客以外の方でも食べられると聞いて、 いつか食べてみたいと思っていました。 やっと念願叶い・・・ まあ、本当にどれもこれも美味しく(盛岡三大麺もあります!)、 何回もテーブルを往復してしまいました。 そして、たくさんのおかずを食べた後に、 釜で炊いたご飯と味噌汁が、なんと美味しいことか(感動~~)。 お腹がすでにいっぱいでしたが、ご飯のお供をのっけていただきました。 14階の窓から、歩く人たちを眺め、 学校に到着した子どもたちを眺め、 古いビルの谷間にある一軒家や、通勤のバス、 東京へ向かう新幹線、 街の中を流れる川、 霞がかった遠くの山。 なんか、この感じも街も自分さえも、全部いいなあと思いました。 点のような人、人、人。 声が聞こえず、何を見ているのか、どんな話をしているのか、 ここからは何もわかりませんが、 そばに降りていったら、なんだそんな話?というような、 何かとても些細なことを、人間はあれこれ言っているんだろうな。 上から見ると、 人間がしていることって本当に小さなことのように思えました。 地上に降りると、 さっき見た世界がありました。 地に足をしっかりつけて、 おもしろい楽しい美味しかったと感動したことを再現していこう。

本当に大変なこと?

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自分のやっていることはそんなに大したことではない・・・ という声が聞こえたような気がしました。 体の上の方にあった気がすーっと下へ降りていく感じがして、自分を冷静にしてくれます。 深く呼吸が整っていく感じもあります。 そして、そのあと、 与えられているものが本当は今の自分に丁度いいものなのかもしれない。 与えられたこのことを、ただすればいいんだ!という答えみたいな感じで受け取りました。 いろいろ物事が重なる時って、 あーなんか面倒だな、大変そうだなあとか、 すごい頭使うな、もうキャパオーバーで無理、 だって自分こういうの苦手だから・・・とかいろいろ、 とにかくいろいろ「大変」と、先に反応してしまう癖があるのだと思います。 そうなると、そこからは、 重~い世界の中に自分を置くことになってしまいます。 そこから、すっと脱出するのは、 「大変だと決めつけない=大したことではない」と思い出すことです。 思い出す・・・というのは、 本当の「私」から見れば、はじめから、 あなたにとって大変なことは何一つ与えていませんよ、 という感覚にちょっと近い。 ふと、我に返る、みたいな感じで。 ああ、そうだった、大変にしているのは自分(パターン)だったと思い出してほしいということ。 よーく考えて、そう思うのと、 パッと、そうだったと思うのとでは、何かが違うのかもしれませんが、 大したことないのかもしれないと感じた今は、 それに素直に従っていこうと、足取り軽く進んでいけるのです。 そして心はとても静か。落ちついて冷静にふるまえるような感じがします。 あらゆることが忘れやすくなっていますが・・・ こういうことは思い出していきたいし、自分に沁みこませていきたいです。

言いたかったこと

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約3年越しの言いたかったことを、今日言えました。 なぜ3年もの月日、この口が開かなかったのか・・・ それは半分もう終わったことになっていたからです。 でも、もう半分は、自分の中で終わっていないことでした。 自分が頑張ってしたことがあったのですが、誰にも知られることがありませんでした。 でもそれは、自分としては「わたし、ちゃんと(心を込めて)やりましたよ」と堂々と言いたかったのです。 あの時のパターンはあの時のまま、瞬間凍結しておりました。 それが、ふと解凍にふみきろうと思ったのは、 言ったことで、 何も変わらなくてもいい・・・と思えたから。 今頃になって、なんで話したの? 自慢したいの? と思われたとしても、いいのだ。 それだけのことなのです。 しかも、その通り!なんです。 言いたかったことを言えた結果は、まだ何とも・・・わかりませんが、 でももう、言ってしまったのだから、いいのだ。 誤解されてもいいのだ。 今日はちょっと勇気を出しました。

バレバレ

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●よく思われたい、のパターンが発動しました。 本当はイライラしていたのに、ぐっとこらえた。 だって、優しい人でありたいし(相手が年配の方だったので余計にそう思った)、 親切な人でありたいし(以前、親切だねと言われたから) 困っている人を助けたいから(←これはパターンではなく、本心だと思うのだが)。 ●よく思われたい、というパターンで行動した瞬間に、 何だか相手にその心がバレたような気がしました。 パターンで行動すると、嫌な感じがするので、自分自身もハッとするけれど、 相手にもそれはばっちり伝わるのだと思う。 本当は、 なんで今かな~最高に忙しいのよ、勘弁して~ という声と同時に、 いやいや、この人に良く思われないと(自分の)イメージ悪くなるよ、 自分のことをいい人だと思ってくれているし、 ちゃんと応えないと人としてダメでしょう・・・ この心の中に住んでいるパターンたちのやり取り。 その場に筒抜けのような気がしました。 「そうだよね、あなたは、○○さんによく思われたいって思っているんだよね」 とつぶやくと、 心のざわざわがちょっとだけ落ちつきました。 ただ、今日はここまでの自分だった。 困っている人を助けたいと思っても、 自分にゆとりが無い時はできないのかもしれない。 でもいつかは、ゆとりがある無しに関わらず、 自分のことより他人のために・・・とそっちを選びたくなる自分に、 少しずつ、本当に少しずつでもいいから、なっていければいいなと思う。