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8月, 2019の投稿を表示しています

一連の出来事

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今日起きた出来事を、一つのパターンとしてみてしまうことがあります。 一連の出来事と総して、このパターンがあるからだよね・・・ とやってしまうことです。 気持ちの部分をよ~くみていくと、はじめに湧き起こった感情と、中盤、後半、というように感情は微妙に変化し、パターンもそれぞれ違いがあります。 例えば(先日の私)、 自分の言った通りにやってくれないので、頭にくる。 ●言う通りにやってほしい とパターンがいいます。 その次に相手がやらなことを棚にあげ、逆にこちらを強い口調で責めたてるので、 自分にも非があったのかもと不安になり、 ●責められたくない というパターンが騒ぎます。 そして、結局何もかもうまくいかなくて、疲労困憊。 ●自分の思い通りになってほしい というパターンが訴えてくる。 こんな風に、一つ一つの感情・感覚を見ていくといいようです。 今日はいろんなことがあったなあと振り返ったときに、 今日の出来事をまとめてみると、大体こんなパターンかな? というのでは、ちょっと雑すぎます。 似たように見えても、みんなそれぞれの主張があるということ。 いろいろあったけど、 最初にざわっとした瞬間を思い出し、 どんな言葉にパターンは反応したのか。 そこがかなり大事だと思われます。 この「一連の出来事」が起こった場合、いくつかのパターンが隠れていることが多いかもしれませんね。 だからこそ、しら~っとどこかを省略しないように、しっかり振り返って見つける。 一つのパターンを見つけ、語りかけができると、それだけでかなり落ち着いてくるので、一つ目ってとても大事なんだなあと思います。

直感を使う

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TVを見ていたら、 直感が先、理屈はあとからついてくる。 という言葉がありました。 理屈から始めたものは必ず行き詰まり、直感で始めたことの方がうまくいく、という話だったと思います。 自分にあてはめると、これは本当にほぼほぼ当たっています。 直感、思いつき、ひらめき、衝動、予感などなど。 ここから少し長びかせてしまうと、理屈が入り、違うものになってしまうので、 「あっ」という一瞬の感覚が大事なんだと思います。 生活の中の選ぶ、という簡単なことで試したりします。 服を買うときは、年齢的におかしくないかとか、安いからいいだろう、 ということではなく、着心地と鏡に映った自分が「あっいい感じ」かどうかで選ぶ。 外食ならば、今食べたいものであることは大前提ですが、 店の居心地が自分にとっては大事なポイント。 この選ぶときのポイントというのは、人によって違うと思いますが、 直感に従わなかったときの失敗から分かることが多いように思います。 あ~やっぱり、そうだよね。という感じで。 こうして、直感は使えば使うほど、研ぎ澄まされる感じがあります。 そして、信用度も増し、使いたくなっていくものなのかもしれません。 仕事中でも生かせる場面は多いと思いました。 なんとなく、今ここで言ったほうがいい。 この感覚はよくあります。 これまであれこれ考え続けて、思ってはいても言わないできたことを、 今、言うのです。 今日はそんな場面があり、 相手から「はっきり言われると傷つく!」と言われ、 そのあと「傷つくけど、なんか嬉しい」とも言われました。 直感で言ったことで、 やってしまった・・・と思うこともありますが、 もともと物事には正解はないと思いますので(都合よく考える)。 この感が、鈍らないように使っていきたいです。

自分にしか生きられない

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―――自分にしか生きられない、オリジナルの人生に誇りをもとう――― これは先日、いただいた『魂の格言』の中の言葉(画像がこの冊子です)。 「今の自分にふさわしい言葉をください」 と静かに祈ってから開き、目に飛び込んできたものでした。 これまでの人生を振り返ると、 自分だったからこそ、この人生を送ってこれたんだ。 よく頑張ってきたね、とやさしく言ってあげたいです。 辛いときは、なんでこうも自分ばっかり・・・ でも、あなただからなんだよ~ということなのですね。 そしてこれからも、 この私だからこそ、体験できるのだし(むしろこれ以外の体験は必要ない?) 成長の糧になるものばかり与えられていくのだと思います。 この糧とは、辛いことや悲しいことばかりではなく、 うれしいことも、幸せを感じることも感じること全てが含まれていて、 今の仕事も、生活環境も、家族も、毎日出会う人たちとのやりとりも 自分に用意された特別でオリジナルなもの。 そう思うと、ちょっと楽しみ。 この人はこんなに大変な人生を送ってきたんだ、と思うとき、 自分だったらどうしていたか、想像できないと思うことがあります。 それは、この方だからこその、この人生であるからなのでしょうね。 胸をはって、 これからも、この経験をする価値ある自分に、 誇りをもってのぞんでいきたい。 向日葵畑で両手を広げる女の子と自分がかさなりました(50の私が言っている)。 この格言集を作製することをひらめき、 編集を引き受けてくれたマーガレットさん→ ☆ そして、場所は遠く離れていても、同じ学びをしている仲間から、 涙がでそうなほど素敵なイラストの装丁をしていただき完成しました。 それぞれの地で、「私」で生きようと人生を楽しみながら挑戦している。 とても力をもらいます。

弱みと決別

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昨日は、グループセッションの日でした。 「魂の道場」茅ヶ崎クラスからのゲスト参加で、いつもの盛岡クラスに新たな風が吹きました。その風に心が開かれ、背中を押されたような気がします。 セッションの中で、 一人一人が自分の弱み(と思っているのはパターン)を話していることが、もう当たりまえのこととなっていたのですが、これって、すごいことなんじゃないかと思えました。 日常生活では、他人に弱みを見せるより(あえて見せて武器とするのとは違いますよ)、平気なふりや強がってみせるほうが多いのではないかと思います。 だからこそ、そこを自己開示するということは、すでに弱みと自分を切り離していること(別もの)を認識できている。 正直さ、強さ、許し、理解、勇気、信頼、愛情、行動力などの資質が、「私」の中に育ちはじめているあかしです。 さらに、そのパターンとの決別を決心した行動は、魂の選択といえます。 もうこれ以上できない、耐えられない、戻りたくない。 そう思うほどの苦しさを体験し続けて、 その苦しさの中にとどまる意味は何もないのだと確信したときに、 迷いのない行動が起こせるのだと感じました。 だから、そうなっていないということは? まだまだ認めたくない自分がいて、 本気で、そこから自分を救い出したいと思っていないのかもしれません。 そういう意味では、 苦しいと感じたまま続けてしまう行動も、 変わっていくためには、必要なのかもしれないですね。 陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる。 この世のしくみが2極でできているということは、そういうことなのかもしれません(できれば、極まる手前で気づきたいが)。   ☆ ←  上杉政子さん(ルミエール歯科) 上杉さんの、自己紹介での自己開示が、あまりにも飾り気なく自然すぎたので、 開示するってこんなに素敵なことなのか、 と思ってしまうほどでした。 上杉さん、みなさん、いつもありがとうございます。

何タイプか

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「私って、褒められて伸びるタイプだから」 という言葉を耳にするたびに、 「私、怒られたくないのよ」 と言っているように聞こえたりします。 かくいう私自身も、夫に怒られるたびに、そう言っていました。 そう頑張って主張して、あなたの私に対するその対応は間違っていると、必死の抵抗。 褒めてくれる人に愛情を感じ、そうじゃない人は自分を理解していない人。 と、いうくらいの感じです。 褒められて伸びるタイプだと言っている私の顔には、 怒らないで~ 怒ると逆効果だよ~ 褒めないと何も変わらないよ~ と、書いてあったのだろうと思われます。 褒められると、確かに勢いづき、才能開花でぐーんと伸びることは実際ありますよね。 でも、よほど自分を観察していないと、一瞬でその伸びは止まってしまうこともありそうです。伸びるというより、有頂天とか裸の王様に近い感じ。 だから最近は、 褒められて伸びるタイプだと自分で言わなくなりました(言うことに抵抗感・・・)。 どうしてかと、考えると、 まだまだ、成長したいからなんだと思います。 自分を叱る人、注意したり、否定をしたりする人がいても、 一瞬不快な思いはあるかもしれませんが、 この言葉をもらうということは、もっと改善の余地があるということなんだと思うようになりました。 そこを直したり、気を付けたりすることで今より良い状態へと、深みを増していくのかもしれない、と。 私って怒られて伸びるタイプだから~とまでは言いませんが、 怒られても大丈夫な人かも、になっていきたいです。

本当の「私」で白を選ぶ

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●自分のせいにされたくない というパターンがあります。 相手が完全にこちらに非があるんじゃないか、というようなことを言ってきたので、心がざわつきました。 しばらく、このパターンに語りかけをしていました。 パターンが声を大にして言ってくるのは、 悪者になりたくないし、 嫌われたくないし、 恨まれたくない! そして、相手にそう思われているのは、自分にはもう耐えられない。 と言っています。 その後、白パターンは何だろうと考えたときに、 ●自分のせいにされたくない の真逆(究極)は、 〇自分のせいにされてもいい です。 でもこれはあまりにも極端なので、もう少し柔らかくグレーに近い白を選ぼうとしますが、ちょっと待てよ、となりました。 〇もしかしたら、自分のせいにされてもいいのかもしれない 〇誰のせいか、ということにもうこだわらなくてもいいのかもしれない 〇もしかしたら、自分がどう思われても大丈夫なのかもしれない どれも、しっくりきません。 そのとき、魂の道場で学ぶ仲間のブログを読みました。 あー、そうかあ   ☆ ←赤木洋子さん「自分を育てるカウンセリング」 「私」が選んだ白ならば・・・しっくりくる。 〇「それは、自分のせいではないです」と言ってみよう を白に選ぶということです。 「自分のせいではない」と相手にはっきり言うことが今の自分には大事なこと。 この相手に伝える、という行動を飛び越えて、理想の白(こだわりを持たない自分、そんな風に成長した自分)を選ぼうというは、本当の「私」ではなく黒パターンが選んだということになります。 うっかりしそうな部分ですが、 ちゃんと本当の「私」で考えると、 やはり、すっきり落ちる感じがあるので気づくことができそうです。 同じ学びをしている方々の体験は、とても勉強になります。 いつも、助け舟をありがとうございます!

朝の目覚め

カウンセリングを勉強しはじめて何年かたったある日、以前とまったく違う朝に気づきました。 それは、朝、目が覚めて、 「あ~良く寝たあ」と思わず声に出た自分です。 人からどう思われているのかだけが人生の大半を占めている、と言っても過言ではないほど不安の種はそこにありました。人と関わらない日はないので、不安がなくなるということも当然ない。 その不安感は起きているときだけにとどまらず、夢にも見ます。 そして一番怖いのが、朝です。 真っ黒な怪物(と当時私は呼んでいた)が目覚めとともに部屋中を覆い、私の頭や体に入り込んでくるような不快感。 なんとも言えない重苦しさと気持ちの悪さが、朝一番にやってくるのです。 あの黒い怪物がいつの間にか、いなくなって(感じなくなって)いました。 あれは何だったんだろうと思います。 今も人からどう思われているか気にしていないわけではなく、確かにあります。 でも、あっていいと思っている点が以前と大きく違います。 たぶんそのパターンは、安心してそこにいてくれているのかなあ、と思っています。 もうすっかり、恐怖の朝はなくなりました。 多少の疲れが残っての不快はあっても、 朝日に幸せを感じ、神々にお礼をいい、今日1日これを頑張るぞー、 と宣言をする。ありがたいことです。 明日もまた休みですので、「良く寝たあ~」ってなりそうです。

ご褒美をもらう

私の父が暮らしている老人ホームへ行ってきました。 ここのスタッフの皆さん、本当に声かけや接し方が素晴らしく、いつ行っても家族のように(いえ、それ以上に)自然体で接してくれているのが本当にありがたいです。 こちらも全く気兼ねなく行けるので、(と言い訳をして)すっぴんで、ぼさぼさ髪を束ね、若干いつもよりだらしのない格好でしたが、寄りました。 父はたぶん、私だと気づいていないようで、 「はい、こんにちわ」と他人行儀のあいさつでした。 気のせいかもしれませんが、ちゃんと化粧をしてきちんとした格好をしていくと私だとわかるような・・・ 私はなんとか、娘だよーということをわかってほしく、母の話題を出したりしましたが、「ほう・・・」と言うだけで全くピンときていない感じです。 父の認知症を今は大分受け入れられるようになりましたが、ときどき自分のことをわかっていなかったり、目の前にいるのに全く視線が合わなかったりするとやはり悲しいような寂しいような気持ちになります。 私はまだ、父と話がしたいのだと思います(こうなる前はそれほどでもなかったのだが)。 話は全く通じませんが、とても不思議なことに内容の喜怒哀楽?というか、うれしい話なのか困った話なのか、愚痴っている話なのか、どうでもいい話なのかという雰囲気だけは何となくわかるようです(これは、認知症の方のご家族の皆さんなら、わかる感覚かなと)。 ですので、一緒に笑ったり、眉をひそめたり、うんうんとうなずいたり、はたから見るとまるで普通に会話しているかのように見えるかもしれません。 特に父の場合、笑いにつられるという特技があり、たいてい私が爆笑すると、父も欠けた歯を全部みせながら爆笑するので、そこはいつもありがたく思っています。 今は、父が認知症になったことで私たち家族は、いい経験をさせてもらっていると思うようになりました。年をとっても、いまだ身をもって教えてくれるんだなあ、と。 そういう心境になるまでは、変わってほしくないというパターンがあり、なかなかこのパターンは変わりゆく父を認めてあげられませんでした。 でも、今は父だけでなく、お年寄りが困っているときに、ただ年だから~ではない見方を持てるようになり、認知症の方への伝え方や話し方など父のおかげで少しは上手くなったかなあと思います。 過去にこだわ

一番はじめにやること

お盆休みに入っても、変わらない日常があります。 それはパターンに語るということ。 時間にしてみるとほんの数秒のときもあれば、 じっくりと時間を忘れてパターンと向き合うときもあり、 状況によってさまざまです。 毎朝歯をみがくように、 夜寝る前にみがかないと気持ちわるいなあと感じるように、 あたりまえに自然にやっていることの一つになっています。 歯をみがかないで寝てしまった(語りかけしなかった)、という日ももちろんあります。 そういうときは、やらないから自分はダメなんだ(これもパターンですが)ではなく、 じっくり後からでも語りかけをすれば大丈夫。 毎日、心は動きます。 感じ方の大きさはいろいろですが、 不安だなあ、心配だなあ、怖いなあ、イライラするなあ、くやしい、かなしい、泣きたくなる、胸が苦しい、疲れたなあ、やる気がでない、つらい、etc そこを感じ、気づく。 これが「パターンに語ること」の一番はじめにやることです。 そしてここが、自分に向き合う第一歩となります。 以前、この感情と感覚を言葉で表現することが、なんと難しかったことか。 自分の中で起きていることなのに、あの人がああ言うから、などと自分の外で起きていることへの話はできても、自分の内で起こっていることがよくわかりませんでした。 「今自分はどういう気持ち?どう感じた?」 と心がざわっとしたとき、その都度なんども自分に問うことで、 少しずつですが、自分の中で起きていることがわかるようになっていきます。 そうすると、次はその感情や感覚を引き起こしたパターンを探すことができます。 子どもは感情をあらわにしたり、言葉でストレートに訴えてきたり、とてもわかりやすいですよね。 そして、何でそう思ったの?と聞くと、「だってー、、、」と理由もすぐ答えられたりします。小さければ小さいほど、誰にも遠慮せず思ったままを伝えてきます。 あの感じる素直さがとても大事なんだと思います。

ご先祖様から学ぶ

夫の父親は、とても破天荒な人だったと聞きます。 いろんなエピソードを聞くたびに、あの世では今どう過ごしているんだろう、 とお盆だけに、考えたりします。 海は、夫にとっても父にとっても思い出いっぱいの場所で、私も高校生のときは毎日のように海に出ていました(漕艇部でしたので)。 父のお墓を自分たちの住むところへ移したいとは思うのですが、行ったついでに海に行けるという特典があるので(すみません、ご先祖様)、車で2時間かかるお寺までの道もさほど大変ではありません。 夫は、中学生のころ、朝早く起きるとウォークマンを聞きながら自転車を走らせ、海まで行って、帰ってきてそれから学校へ行く、という夏の日課があったそうです。 そのうち、自転車で行くのが面倒になり・・・ 車で行きたいとお願いすると、 「中学生なんだからダメに決まっているだろう」 とは言わず・・・ 交通ルールと運転技術を教え、 「ガソリン代がかかるなあ」とつぶやいたそうです。 夏休み、「勉強はいいから行くぞ」と先頭きって子ども達を海に連れ出す父。 あるときは、ウニが食べたくて海に潜り、密漁で捕まったという、懲りない話もたくさんあります。 そんな非常識ともいえるこの親子の日常に、私はなんとも言えない可笑しさ、どきどき感、そして愛情を感じたのでした。 大人として、社会人としてはどうなんだ?という部分はあっても、自分の思うように生きた人だったのではないかなあと思います。 子どもは、非常識なことをする親を見てどう思うのか(育つのか)? 悪いことを悪いと教えるのは親の役割かもしれません。 一方で、悪いこと、と決めたのは誰なのか?ということも考えたいです。 親が常識的でも非常識でも、どんな親からも学べる、ということなんだと思いました。 子どもはそれを見て、体験して、自分が決めればいいだけなんだと。 大人になって、生きずらさを感じたときに、 この目の前にある、思い込みの世界で生きなくてもいい 常識に捉われなくていい ということを思い出せるのは、父のような大人をたくさん見てきたほうが、気づきやすいかもしれません。 私は、親として失敗だらけだったことを、今その体験があって良かったんだと思えるのは、父のおかげもあるように思います。 ダメなところ、親らしくない親だったところを娘に

からまったもの

パターンがきちんとケアされていないがために、 その人と会いにくい、ということがあります。 心に引っかかったものを一度(いえ、二度三度)スルーしてしまったので、何のパターンに語りかけをしたらよいのか、わからなくなってしまっていました。 あと回しにしてしまった結果です。 そのパターンを見つけ、ケアするチャンスが再び到来。 感情や感覚を感じたら、持ち帰らずその場でやってみようと思いました。 見つけたのは(出てきてくれたのは)、 ●理想を語られるのが嫌 というパターンでした。 なぜならばパターンは、 その理想は自分とは全く違うものだし、 自分はいいものだと思わないし、 つまんないから聞きたくない! と、思っているからでした。 自分の価値観と違うものを見せられて、同じ価値観ならば良くて、違うと嫌。 パターンは自分が正しいと思っている。 その場でやったことは、心に引っかかった瞬間に、 自分は今、不快だと感じたな。 何に引っかかった? そうして、感じ、見つけ、パターンに語り、 「あたたはそう思っているんだね」と相手に言いました。 ふわっと、心が軽くなったのを感じました。 他にもパターンが出てくるのかもしれませんが、 絡まった部分が一つほどけたので、次、また次とほどいていきたいです。

体のこと

昨日は暑さで熱中症っぽくなり、頭が痛くなり、 薬を飲んだら、今度はお腹をこわしてしまいました。 お布団に横になって、動物のようにじーっと寝ていました。 頭の中はからっぽになって、体は一番楽な体勢を求め、完全に無抵抗な状態。 お腹は痛いのですが、この静かにじーっとしている時間はなんとも貴重な時間のように感じました。頭を使わず、何かしようとしても痛いからできず、ただ寝るのにはまだ早い時間だから、ただ横になって目をつむっている。 何も考えず、動かず、ひたすら頭とお腹を休ませました。 暑いからといって、調子に乗って、冷たい飲み物やアイスを結構食べていたので、これからは少し温かいものもとっていこうと思います。 すまなかった、私の体よ。 シャワーで済ますことも多かったので、お風呂にもちゃんとゆっくり入ろう。 ひと昔前の自分の体は、すぐに食べ物に反応し、食べたもので体調を崩すことも多かったです。 ですので、食べ物はほとんど思考で選んでいました。 体の声を聞くというより、食べ物が薬のような目的で、こうなりたくないからこれを食べる。そんな感じだったように思います。 そういう生活自体に疲れてしまったところもあります。 今は、少しだけバランスを考えはするものの、食べたいものを食べる、という感覚が体の声だと思うようになりました。 これがいいかどうかはわかりませんが(人によって違っていいと思いますので)、いろんな健康対策をしてきて、今この感覚がとても良いようです。 いずれにしても、具合が悪くなったときは、 身体を休ませ、軌道修正が必要なときですね。 そして、年齢のことを結構忘れてしまうのですが、ここもいたわるという意味では年々大事かもしれないなあ、と。 鍛えるといたわる。どっちもしたい。 変わる、健康への哲学。

片付けられた!

掃除、洗濯、片付け、整理整頓が苦手です。 結婚する前はほぼ自覚がなかったのですが、夫から「下手くそだなー」と言われて、やっぱりそうなのか?と、苦手なのを認めました。 今の家に住んでから15年たちますが、はじめの頃に比べたら物がずいぶん増えてしまっています。 こんまりさんの本(「人生がときめく片づけの魔法」近藤麻理恵著)を読み、やっと先日、洋服を整理しました。シンプルライフにもあてはまりますしね。 こんまりさんのやり方をマネてみると、直感でときめくかどうか、残したいと心から思っているかどうかで選択するのは、本当の「私」を使う訓練になると思いました。 頭ではなく胸のあたりにいる「私」が決める。 6畳の部屋に小高い洋服の山ができました。 たたんであるものもぜ~んぶ一旦山に預けます。家中の服という服を全て出し切ったら、一つ一つ手に取り味わい、ときどき鏡の助けも借りながら(ときめいた次の瞬間、鏡の自分を見てときめきがまぼろしになる、ということもあったが)。 約3分の1近くになったお洋服たち。 やってみて分かったことは、さよならするものには「今まで本当にありがとう」を。 これからも着るものには「いつもありがとう。これからもよろしくね」と。 どちらも手に取った瞬間、感謝の気持ちでいっぱいになりました。この感覚はお互いに(服と私に)とても気持ちの良い関係をもたらすと思いました。 私は綿やリネンといった自然素材のものが好きなので、何年も着ているとヨレっとしてしまいます。いかに自分の快適な暮らしのために洋服たちはがんばってくれていたのか、また、すでに似合わなくなったことを、こちらが気づくまで辛抱強く待ってくれていたのか。 そう思うと、愛情というか、健気さすら感じました。 すっきり片付いたクローゼットは、見事に着たい服だけが残っています。 とても清々しい空気が通っている感じです。 この調子で少しずつでも家を片づけたいです。

シンプルライフ

最近、私も含め周りにいる人たちの間ではやっている、シンプルライフ。 自分の内面に向かって生活することで、余計なもの、こと、人、等どんどん削ぎ落され究極は小さな家でシンプルに生活していく。そんなイメージ。 先日、私用で東京へ数日間行くことがあったのですが、まる3日間は自由時間でした。 その中の1日はー カウンセリングの先生に個別カウンセリングを受けに行き、その帰りにカウンセリングを学んでいる仲間と合流し、楽しいひと時を過ごしました。 2日目はー 兄と久しぶりに会い、以前から気になっていた古民家カフェへ。野菜中心のランチがとても美味しかったし、仕事の話をたくさんできたことでこれも楽しかったです。 3日目はー 今気に入って履いている革靴を扱っている本店へ、靴を買いに。やはり、来て履いてみて良かった~と思える、足がよろこぶいい靴を買うことができました。 こうして、ただ目的のものへと一直線にわき目もふれず、行って帰ってきたということ。 「それ、まさしくシンプルライフだね」 と言われて、なるほど~と思ったのでした。 シンプルって、行動がすっきりしているということなのでしょうか。 体力的にあちこち人込みを歩くのは疲れるので、本当に会いたい人と、本当に行きたい場所と、本当に欲しいものを買おう!と年を取ったがゆえの動き・・・ でも、実際やってみて、こういう時間の使い方もいいなあと思いました。 若い頃は東京へ行くと、めいっぱいいろいろなところへ行きたい願望が。 そして、物もたくさん買ったと思います(後から、さほど欲しいものでもなかったと気づく)。 そういう経験もあっての、今だからいいのだと思いました。 知人に言われて気づいたシンプルライフでしたが、帰宅後たしかに、やりたいことを先延ばしにせずやってみたり、無理に時間を合わすことをやめてみたり、少しずつですが今まであたり前にしていたことをちょっと変えてみています。 気づかせてくれて、ありがとうございます。

人に良く思われたい

人に良く思われたいというのがあります。 「良く」=「そのときの相手の状態にとっていい人」 なのですが、それは個人が相手だけではないことに気づきました。 夫とごはんを食べにいったとき、その店で使えるサービスがあるかないかでスマホで調べ始めました(茶碗蒸しが無料になるというサービス)。なかなか調べられないことと、わかった後にそのサービスが1名しか受けられないことに夫と私はもめました。 スマホをうまく使いこなせずイラつく夫(ガラケーひと筋)。 メニューを聞きに来た店長らしき男性に食い下がる夫。 その後の愚痴が続く夫。 そんなやりとりがあって、私はせっかくの外食なのに夫に台無しにされたという、腹立たしさと悲しさとイライラ感でいっぱい。 もくもく食べるごはんっておいしくないですね。 人に良く思われたいは、店の人たちに良く思われたいも一緒でした。 さらにその奥底には、 「人前で恥をかきたくない」 「いつも仲のいい夫婦と見られたい」 「スマートな客でいたい(美味しく食べて笑顔で会計をして去っていく客)」 といういつも行く店での自分の理想の姿があったのでした。 これは夫に対してのパターンもあります。 ●人前でイライラしないでほしい ということによく自分はひっかかるからです。 どちらも、語りかけワークをちゃんとしていきたいと思いました。 次行くときは、ゆっくり味わって、夫との会話も楽しみながら食べたいです!

空気があたたかい

仕事中、涙が出ました。 えーーーー泣きそう、と思った瞬間、止められませんでした。 Aさんの就職が決まり、入社初日の同行をしたときでした。 そのとき、その職場の空気が、あれ?なんだろうこの緊張がほどけていく感覚は。 その場にいたお一人お一人の心のあたたかさがふわ~っと空気の中にとけこみ、全体をやさしく包み込む。 空気があたたかいってこういうことをいうんだなあ。 ここは安心して働ける場所だと、そう感じたのでした。 またそれを嬉しそうに受け取るAさんの素直な心に、涙が出たのかもしれません。 (ちなみにこの職場はいつも整理整頓、掃除、仕事を終えた道具がきちんと片付けられているので、見た目にも気持ちがよい場です) Aさんは話すのがとても苦手でした。 言葉につまり、なかなか話すまで時間がかかります。 言葉が少ないということは、働くうえでマイナスになるのではないかと(わからないことを聞けないとか、雑談ができないとか)と思っていました。 でも、これは自分のパターンでした。 言葉が少ないがゆえに、本当の言葉しかでてこないということも。 少ない文字数に自分の思いを込めて精いっぱい伝える。 伝わらないどころか、むしろ言葉が多い人よりも伝わる力は大きいのかもしれないなあと思いました。 仕事中ですから、泣くってみっともないというか、感情的になるのはよくないと(これもパターンですが)思う反面、これは隠さなくてもいいものだと思えたので、震える声も隠さず、本当にそのままでいました。 丸裸状態? こんな体験ができて良かったです。