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12月, 2021の投稿を表示しています

ちょうどよく

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普段まめに掃除をしない自分は、 お客さんが来るときと、 これはもうやった方がいいだろうという自分独自の限界がきたときと、 そして、今まさに重い腰があがるとき・・・年末の掃除をしています。 心身の調子もここでわかるような感じがあって、 いつの年だったかは、全く何一つ掃除をせずに正月を迎えたということもあったなあと思い出します。 今年はというと、水回りだけですが普段よりちょっと念入りにやったのでもう満足。 調子もまずまずいいのかなあと感じています。 掃除の後は、娘と久しぶりに鉈屋町までお出かけしました。 気になっている 古着屋さん へ行き、 娘は、古着もさることながら、町家の風情を残したいい具合の建物構造を関心してみていました。 娘と自分は建物をみることが大好きで、娘は仕事柄、どうやってリノベーションするかを想像し、 自分は実際に昔ここに住んでいた人たちの暮らしを想像し、 お互いが古さを共通に、違ったお店の楽しみ方をしているんだなあと思いました。 途中歩いているとだんだん小降りだった雪が猛吹雪へと変わり、 たまたま見つけたお店で一休みすることにしました。 いい匂いに誘われて注文したのは、ミニうどんとおいなりさんのセット。 娘が「わ~、これ、ちょうどいいねえ」 お~、確かにちょうどいいかも・・・。 量も、組み合わせも、味付けも、 食べる時間的にも夕飯に影響しないグットタイミングでの軽食。 ちょうどいいって言葉、 なんだかピタッと今の自分にはまりました。 ピタッとすると気持ちがよくて、この気持ちよさの積み重ねが大事なのだと思えました。 自分の身の丈にあったこと、その分量、内容、心身への影響、そして時期は今なのかもう少しゆっくり先なのか。 今の自分に見合うものが、元々用意されているのに、 自分で背伸びをしてしまったり、怖気ついてしまったり、無理なやり方でそれをやろうとしていないだろうか。 そういうアンバランスなことをやっている自分をしばし感じた師走でした。 きっと白パターンを選び行動していけるようになると、 そのあたりが本当に「ちょうどいい感じ」に流れていくのではないかと思います。 楽に生きられるようになる、というのはまずはそういう実感なのだと思います。 そうやって少しづつ、これでちょうどいい?と世間一般的にはそう見えないようなことであっても、 すべてを、「ちょどよくやってい

ゆがんだ目

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自分のパターンとして嫌いだと思う人のことを、 自分は随分と長い間、 『ゆがんだ目』で見続けていたんだなあと気づかされるようなことがありました。 パターンがいつも訴えてくることは、 そのひどい言い方はやめてほしい、上からものを言うのをやめてほしい、 もう自分をバカにしないでほしいのです。 とにかく自分を軽蔑しているような、さげすむような、完全に上から目線の態度に、 いつも怒り、悲しみ、怯え、大嫌いだーーー!と叫びたい気持ちで長い間います。 そんな結構大きなパターンだったのですが・・・ 自分っていままで何を見ていたのだろうって、 何かすごくゆがんだ見方しかしてこなかったんじゃないか、 と思いました(パターンってそういうものなのだが)。 自分もその人に対して、 あれ?同じことしていたかもしれない、とハッとしました。 もちろん、その人のようなひどい態度はとっていないつもりだったし、 されて嫌なことはしていないつもりでしたが、そうじゃなかったんだなあ・・・と。 あることをきっかけに、その人からにじみ出る『孤独』を感じたとき、 その寂しさは、ものすごく悲しく冷たさを感じるもので、 でもなぜか、とてもよくその孤独がわかるような気がしました。 自分だったら本当にむなしく思うだろうな・・・ だからがんばってきた。 だから虚勢を張ってきた。 それは自分の中にもあるものでした。 そういうことが実は今まで、全くわからないわけでもなかったのですが、 でも、だからといって、ああいう言い方はよくないと自分のパターンはゆるせなかったのです。 その孤独とやらも自業自得なんだと、パターンは振り払うのです。 自分の心に確かに何度か感じていたものをないものにして、 またゆがんだ目でその人を見続けようとする自分がいました。 憎しみって、一度そう感じてしまうと、 憎しみにふさわしくないものは許さないかのように、何か強烈な力が働くように思います。 これは、完全にパターンにのみ込まれている状態です。 だから、好きの感情も嫌いの感情も、 そこから憎しみに変わってしまうところへは、野放しにしない方がいいと思いました。 憎しみには、今起きていることを正確に見る力はないんですね。 自分はかなりの時間を要して、 そのゆがんだ見方で何が見えるのかを体験をしていたと思います。 そのあたり前に思っていた(それが正しい見方だと思っ

現状維持よりは

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先日、来年は現状維持でいこうか、それともステップアップ目指そうか、 という話題がでました。 現状維持・・・ステップアップ・・・ 今ある状態をどう捉えるかによって、どちらも正しいのだと思います。 でも、自分のパターンとしては、 現状維持でいたいって本音ではないんじゃないか、って思い胸がざわざわしてしまいました。 毎日、変わりばえのない生活で、仕事もそんな困ったこともないし、 人間関係も表面的にやれてはいる・・・それで(無難な方で)いいかなという思い。 問題が起きなければとても平和に暮らせると感じるのかもしれません。 でも少し物足りない感じというか、 本当のところは何の成長もしていない自分を見るのはどこか寂しい、とは感じないのだろうか・・・ と思ってしまいます(これもパターンだが)。 かといって、ステップアップを目指すというと、 何かしらの挑戦や新しいことをするということでもあるので、それがどういう結果になるのかを考えると、 現状維持の方がハードル低そうだし、ちょっと安心って思うのかもしれません。 今自分の置かれてある状態をよーーーーく見てみると、 決して何も変わらずにいることって現実にはないんじゃないかと思います。 実際に何か大きな変化はなかったなあと思っていても、 全く自分の内面が変わっていないということはないし。 結果的に、現状維持のままだったなあって思うことはあっても、 はじめからこのままでいい、というのは逆に今いる現実を見ないようにしているのかな。 今のままで充分幸せだと思うときであっても、 今のままでずっと誰も何も変わらないでほしいと願っていても、 やはり月日は流れ、同じ毎日はないです。 変わっていないと思うことも、変われないと思うことも、変わっては困ると思うことも、 全部パターンが思っていることだから・・・ 現状維持(変わらないこと)を目指すにも、結局はステップアップ(変わること)が必要なのだと思います。 今の状態をちゃんと理解し、見極め、受け容れることができたらいいなあと感じます。 今自分がどこに立っていて、どっちの方向を向いているのか、 自分のいる場所を把握していないと、目指す方向もわからなくなってしまいそうです。 何を変えて何を変えないのか・・・ 自分であれば、「変えない」ということの中に、 自分を観察すること、ケアすること、「私」が選択をする、など

幸せなケーキ

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クリスマスは、やはりケーキを食べたくなってしまいます。 今年はショートケーキを買って食べ比べしようということになり、 夫がいろいろ買ってきてくれました。 子どもが小さい頃は、わたしたちも当然まだ若いですから、甘いものに対する食欲もはんぱなく・・・ ひとり1ホールまるごと食べる!という贅沢をしたことがありました。 ホールを何等分かにカットするのではなく、そのままスプーンで穴を掘って食べます(または、かぶりつく)。 娘も大喜びですが、大人の私たちこそ楽しんでいたかもしれません。 自分だけのホールケーキですからね。 今は・・・というと、ショートケーキ1〜2個食べたらもうお腹いっぱいです。 それよりも、家族みんなが元気でクリスマスのご馳走を食べられる、 ということがとても嬉しいなあと思いました。 何か本当に小さな幸せですが、今年も一緒にこのときを過ごせたことに感謝です。 そして職場でもケーキのプレゼントがありましたが、 何かのご縁で知り合えた方々と、この時間を共に過ごし、わいわい言いながらケーキを分け合って食べる。 この、同じものを分け合って食べるって、これだけのことなのに、 とても嬉しい気持ちになってしまいました。 みんなが笑って美味しそうにケーキを食べている。 その光景を見ている自分。 この仕事をしてきて本当に良かったなあと、じーんときてしまいました。 こうして、毎年クリスマスから年末年始に向けて、 結構なんだかんだで食べてしまいます。 今年こそは体をたくさん動かしながら、あえてジーンズをはき、 お腹具合を調整して、すっきりと健やかなお正月を迎えたいです。

飲み会って

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忘年会の季節ですが今年も自粛しているところは多いようです。 普段の飲み会も歓送迎会も、 とかく大勢でお酒を飲むという機会は、この2年で激減したのではないでしょうか。 自分はお酒が大好きなのですが(特に日本酒が)、 過去に経験した『飲み会』と名の付くものには、 ただただ気疲れしてしまったとか、 気が合わない人(パターンに引っかかる人)と一緒でつまらなかったとか、 にがい思い出のものが結構あったように思います。 そのため、一人でつまみを作って家飲みするのが一番好きかもしれません。 お酒の力を借りて親睦を深める。 それは、しらふでは親睦が図れないから・・・ということなんでしょうか。 経験上、親睦というほど心を開示し合うというわけではないし、 お酒を一緒に飲んだから信頼感が増したとかいうのもなかったように思うし、 何か本音でじっくりとお話ができてよかったと思うことは、お酒の力とは関係なかったように思います。 そんな感じの飲み会をたくさん経験し、 今はというと・・・気持ちのよいお酒しか飲まない(よい時間しか過ごさない)、になっている感じがします。 外で飲む機会はそんなに多くはないのですが、 本当に会いたい人、話したい人とだけ時間を作るようになったので、 その時間は以前よりもゆったりとしていて、純粋に料理を味わい、お酒を味わい、 何よりそういう時間をとても楽しめるようになりました。 コロナで良かったことの一つなのかなと思いましたが、 そもそもそういう飲み方を自分が今まで選択してこなかったんだなあと気づかされた思いがします。 飲み会とは、はめを外すおもしろさはあるかもしれませんが、 なぜか楽しまなければ損したように思ってしまう・・・そういうパターンが自分にはありました。 別に楽しくない時間などあってもいいのに、 飲み会には、そういう時間であってほしくないと思うパターンがいるのです・・・不思議。 そして、断りたいけど断れない、断ったらなんだか悪いというのも、飲み会にはあるように思いました。 何かの用事は断れるのに、飲み会ありますよ!と言われると、 嫌われたくないとか、つきあいが悪いと思われたくないとか、 暗い性格だと思われたくないとか、自分の知らないところで盛り上がってほしくないとか、 そういう他人を気にするパターンが出てきてしまうようでした。 もし、今、飲み会があったとしたら(行

今にある

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12月に入り、去年の今頃はどうだったかな?とふと思いました。 いつ雪が降ったのか、寒さがどうで何を着ていたのか、体調はどうだったのかなとか、 仕事は確か年末に向けて大変なことがあったはずだったけど、結局どんなふうに自分が過ごしていたのか・・・ 何かとっても一生懸命だったことだけはわかるのですが、 もう随分昔に起きたことのように感じて、思い出せないことの方が圧倒的に多いなあと思いました。 『今にある』という生き方が、 ちょっと前まではそうありたいと思ってもなかなかできなかったように思うのです。 いつも過去のデータの範囲で、できるできないを判断し、 未来を想像しては不安で動けなくて、まだ起きてもいないことを心配していた・・・。 それが、最近はむしろ今しかないくらい、今やることで一日が終わるような気がします。 今日やろうと思っていること、今日電話しようと思っていること、今日はこれ食べよう、 今日はあの人にこの話をしよう、今日はこの本を読もう・・・ というように今という時間だけのことを考えるより、感じ取って動いている気がしています。 それと伴って、年々記憶力も低下していることを実感しています。 大事なこととか、興味のあることとか、必要なこと以外は本当に驚くほど抜けていって、覚えていられない・・・。 でも、その抜けたスペースに今見ているものが入っている感じもあり。 こんなに抜けて、忘れてしまって大丈夫かなと思うところもありますが、 それがないとまた自分が新しいものを入れられなくなっていることも感じるのです。 先日、母親が「若いときのようにいろんなことを考えられなくなったのよね」 といっていたことを思い出しました。 それは、年を取ってよくない意味で言っていたと思うのですが、 そうやって、考えることが少なくなっていくって、 そのときどきの感情(たのしい、うれしい、さみしい、かなしい)を大切にして生きていくことのように見えました。 それって、自分をどんどん楽にしていくっていうことでしょうか。 自分の身の周りの世界(考えなくなっている分だけ)がどんどん縮小されていくようなイメージもあります。 世界が小さくなるというより、しぼられてくるような感じもあって、 それは、見えるものが狭くなっていくということではないと思うし、 見なくてもいいもの(関わらなくていいこと)への区別がついてくるよう

ちょっとずつがんばる

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マスター級の白を選ぶというのは、今の自分には現実的ではないです。 中には、小さな引っかかりならば、真逆の白を選べるときもなきにしもあらずですが、 そういうパターンはまだまだ自分は少ないと思います。 日常的にモヤモヤしたりイライラしたりということはあり、 語りかけの回数も選んだ白の種類も、根が深いパターンほど丁寧に関わっていくことが大事なのだと思います。 嫌なことを嫌じゃないとはなかなか思えないし、 してほしかったことに対して、してくれなくても全然平気~ にはならないことの方が多いのです(「私」ではなく、パターンが思っていることにすぎないのだが)。 『マスター級ではない白を選ぼう』と思っても、 どういう白だったらしっくりくるのかという点は、本当に白の選択肢はいろいろありますので、 一生懸命に言葉をつなげてあれこれ考え抜いたとしても、結局は「私」の感覚がたよりなんだと思います。 実際に今の自分が今すぐにでもこれなら選べそう、というところで判断するということでもあります。 実践が難しい白ではもちろん作った時点で、ちょっと違和感があって、これではないとわかるのですが、 実践が可能なのかどうか微妙なものを作ることもあります。 そこには、いずれそうなっていきたい、そう成りつつある自分でありたい、 という気持ちを持っているからだなのだと思います。 それは、黒はもう選ばないという選択がまずはじめにあって、選ぶなら白だと(ここは明確にわかる)。 その白を可能なものにしたいという願望が、 白パターンの言葉の中にではなく、言葉の裏に隠されているものとして、 『ちょっとずつがんばっていこう』というものがあるように思いました。 言葉として白の中に『がんばる』が入ってしまうと、 そうなっていない自分を否定するような、そしてがんばる方向へ無理をして向かうような感じがありますが、 言葉には使わないけれど気持ちとして、そうだということ。 自分がこの先に何を得られるかなどということも考えず(期待せず)、 まずできるかどうかわからないけれど、 ちょっとずつやってみたいというところは大事にしていいのではないかと思いました。 ガチでやろう!ではなく、 もっとやわらかに、力を入れずに、楽しむように、広がりを感じながらやれるものです。 よく、成長したことを確認しないようにと言われるのですが、 気持ちが軽くおだや

寂聴さんとわたしの師

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瀬戸内寂聴さんの本をはじめて読んだのは、 母親を亡くした友人がとても寂しそうに見え、 何かなぐさめになるものはないかと本屋さんの中を歩いては、探し見つけたものでした。 まだ自分も若かったので、 家族を失うという想像を絶する深い悲しみを救ってあげられるのは、もうお坊さんの話しかないと、 今思うと単純な発想ですがそこから寂聴さんの本を読むようになりました。 浄法寺町(現在の岩手県二戸市)にある、みちのくの霊山と言われる天台寺に、 寂聴さんは名誉住職を務めていました。 30年ほど続いた青空法話に何度か自分も足を運んだことがあり、 反戦運動や脱原発のときに見せた勇気あるお姿や、 被災地を見舞う優しく力強く、いつもユーモアを絶やさない寂聴さんをとても身近に感じていたように思います。 そんな寂聴さんが書いた歴史小説は、今まで読んだことがなく・・・ 先月悲報があったとき、はじめて読んでみようと手にしたものが、 『釈迦』~新潮文庫~でした。 お釈迦様と実際に存在した弟子たちの名前が登場し、 全てが小説であるのにもかかわらず、ここはこの部分は真実ではないかと思ってしまうほど、 あまりにも面白くて一晩で一気に読んでしまいました。 その面白さに反してわき起こる静かな緊張感・・・もありました。 死が近づいてもなお人々にお教えを説くお釈迦様。 世尊と呼ぶ弟子のアーナンダの抑えきれない悲しみと自分を律する気持ち。 それが自分と重なるような、自分がいずれ経験するであろうことのように思ってしまいました。 本を読まれた方ならば、釈迦の弟子と自分を重ねてみるとは、 なんて恐れ多いことを思うのだろうと思うかもしれません。 でも、自分がこの現世で師と仰ぐ、学びの先生との別れがいつか来たときに、 同じような思いをするのではないかと思わずにはいられませんでした。 この小説の中で描かれている生老病死。 死に向き合うことの対象者を、 恋人、家族、無二の親友、お世話になった方、可愛がっている家族同然のペット・・・ これまで自分が生きてきた中で想像できる対象はそれだけだったのですが、 『師』という存在への別れを考える機会となったのは、はじめてのことだったと思います。 人生のそのときどきに、 自分にとっての恩師という存在は少なからずいたのかもしれません。 学校の先生や習い事の先生、人生の岐路に立たされたときに自分を導い

白の感覚いろいろ

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自分ではないもの『パターン』が理想を語っていたんだ、ということを知ってからは、 『自分』という言葉の意味も一般的に使うそれとは別なものに変わっていきました。 自分の理想は? なりたい自分は? などと考えるときに、一般的に使っている『自分』ではなく、 本当の「私」が自分であるというところで考えます。 パターンが言っている理想は、本当の自分「私」ではないところでの話です。 ですから、パターンの理想が叶ったとしても、 本当の意味では、心が軽くなることも晴れることもないので(一時的には満たされるけれど)、 いつまでたっても見る世界は変化せず、これが(今パターンで見ているものが)現実か・・・ と思ってしまっている方は多いと思うのです。 この晴れることがない気持ちの悪さを、 思考という便利な機能を使って、根拠を見つけて納得させていくこともできます。 でも、思考はパターンですので、自分の中に嘘があることに気づいてしまうのだと思います。 そこが気持ちの悪さがぬぐえないところなんだと思う。 白の気持ちのよい感覚というものは、 人によっては感じ方もその表現も違うと思うので、初めはわかりにくいかもしれません。 自分がパターンの存在を知った後も、 なかなか白を選べなかったとき(いろいろその為のワークはありますが)、 こんな感じでいいのだろうか?と思ったことがありました。 やっていく中で、この白はわかりやすいかも、と思ったものを思い出すと、 「もう期待をしなくてもいいのかもしれない」という白を選んだときのことです。 思考100%人間だった自分が、そうじゃなくなっていく過程として、 もしも「期待をしない」とどうなるかを想像しました。 期待を持たないということは楽しみや喜び、希望を持たないということではないです。 一見、ポジティブなことの中にも、パターンがやっていることはあって、 でもそうならなくてもいいのかもしれない、 そうならなくても平気でいられたらきっと心は軽いだろう!と思えたのだと思います。 期待しない、願わない、そうなっていく自分を想像するだけで、肩の力が抜けるような、 そこのこだわりから解放されるような、本当の安心感が得られたような気がしました。 だから自然と、考え方としてだけではなく、 そのほっとする感覚はまさしく白なんだな~と実感しやすかったのを覚えています。 白というのは、うれ

会議で質問

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とてもお堅い会議に出席しました。 予定が入ったときから、嫌だなあ~って思っていたので、 行くまでやる気ゼロでした・・・。 決まりきった挨拶からはじまり、各担当者からの資料に沿ったお堅い話がつづきます。 ここで思ったことがありました。 このまま、だるい~と思いながら2時間過ごすのか、 白に入ったときのあの軽くすがすがしい感覚を持ちながら過ごすのか、 この場をどう使うか、というのは自分次第だということ。 今回自分はどうしたかというと、 「ちゃんと聞いてみる」という部屋と「適当に聞く」という部屋に入ります。 すると、じっくりと全部一通りちゃんと話を聞いてみよう・・・を選びたくなったのです。 渡された資料をちゃんと読み、 説明中もしっかりとその言葉の意味を理解しながら聞いてみました。 不明なところはメモを取り、 意見が出たときは、それってどういうことなんだろう?と考えてみました。 最後に質問や意見がありますかと聞かれたときに、 聞いてみたいことが頭に浮かび、思い切って質問してみることに・・・ 結果、自分の考えたことはすでに実行済みということで、 「あ~そうでしたか・・・知らないでいてすみませんでした」 と言ってあっけなく終わりました。 いつもだと、言わなきゃよかったなあと後悔するようなことだったと思うのですが、 自分が納得するために聞くということが、こんなにあたり前なことだったのか・・・ と、本当にあっさりと思いました。 そして、これは兎にも角にも、 話しをちゃんと聞いていたから、自分は聞けたのかもしれません。 たとえ間違ったことや知らなかったことを言ったとしても、 この話は自分がはじめから最後までちゃんと聞いていた、と思えたから、 堂々としている感じというか、 自然体でいられるものなんだと発見でした。 人は間違うこともあれば、知らないこともあり、 また勘違いしていることもあれば、よく理解できていることもたまにある。 だから、何か質問したり意見を言ったりということは、 思ったよりも大したことじゃないんだなと、 人としてそういうことってたくさんあるよと、あらためて経験させてもらった気がしました。 お堅そうな会議であればあるほど、黙っていた方が無難と思っていたのですが、 無難じゃなくてもいいということも経験できたような気がしました。 興味はないけれど、やらねばならないということ