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11月, 2019の投稿を表示しています

シンプルさと無駄

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シンプルライフを考える時間がありました。 『屋根ひとつ お茶一杯 -魂を満たす小さな暮らし方- ドミニック・ホーロー著 講談社』 この本を参考に、自分なりのシンプルライフを実践していこう、という小さな会です。 今日は、無駄が削ぎ落されていくことで、頭が整理されていく、という話がありました。 これは無駄だ、と感じることは、人によって違ってくるのだなあと思いました。 例えば、考えても無駄、ということがあります。 四六時中考えてみて、考えても結局大して何も変わらないことを(考えすぎて、自分の状態を悪くするだけだったなんてことも)何度か経験して、やっとその意味が分かる。 ということもあるので、 それはむしろ、考えたことは(その経験は)無駄ではなかった、ということにもなります。 もちろん考える内容によってですが、無駄にはどんな役目があるのだろう、と考えたりしました。 私にとっての今はっきりしている無駄と思えるものは、 夜に大して面白いと思ってもいないTVをだらだら見ることです(首を痛めるまで、これがやめられなかった)。 だらだら見るのは無駄、と自分が決定するまでに、 全く見ない選択をすぐには選ばず、どうせ見るならば録画したものをまず見る。 その後、それでも見たいTVが無かったら思い切って消して、別のことをやる。 そしたら、その別のことをやっている方が充実していた、楽しかったという経験をし、 はじめて、本当に面白いと思うTV以外は無駄、を実感するというものです。 面白いTVを見ている時は、 一日の体と頭の疲れを取りさっている時間だということも、今はあるかなあと思うからです。 無駄を削ぎ落すとは、 彫刻刀で荒く木を削り、全体像が見えてきたら、 細かいところを少しずつバランスをみて調整し削っていくイメージです。 必要なものを残していくためにやること・・・ すぐに、削ぎ落とす(やめる)のではなく、 その調整していく過程(変えたら良かったという経験と実感)に、 シンプルライフを実践していくおもしろさを感じています。 同じ本をみんなで読み、感じた箇所が同じであっても、微妙にとらえ方は違うし、 どれも今の一人一人への、正解なのだと思いますので、その解答を聞くことも楽しいです。

苦痛と交換に

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今日も一日、おかげ様で姿勢よく過ごしました(はい、まだまだ首は痛いです)。 この数日間、この痛みによってもたらされた発見があります。 まずは、仕事で。 私はいつも予定を、ぽんぽん入れてしまいがちなのですが、 入れたいと思った日から、さらに間隔をあけて約束を入れるようにしました。 すると、あたり前ですが、余裕が出て慌ただしさが減りました。 首が回らないほど忙しい・・・ と言いますが、まさにこの数か月私は首が回っていませんでした(そして、本当に回らなくなった)。 また、動きが非常ににぶくなっているのですが、 にぶくても大丈夫というか、急いでやっても、ゆっくりやってもさほど変わらないことを知りました。 頭の回転って、そんなに急いだところでいいものが出せるわけではないんですね。 むしろ、簡略化したり、ゆっくり考えた方がいいアイディアが浮かぶかもしれないと思いました。 それから、多動性のある私は、立ったり座ったりがとても激しいのですが、 あまり動かないで落ち着いて仕事することもできるんだ、ということも知りました。 本当に普段、自分って、どういう働き方をしているんだ?と可笑しくなります。 そして家では、 食欲がないので、食べる量も少なく、質素なもので十分で、大好きな甘いものも今は入らないです。 その結果、少し顔がほっそりしたような気がします(誰にも言われていないが)。 何もする気が起きないので、テレビも見ず、寝る時間も早い(日記を書いたら即、寝る)。 治ったら、早くヨガがやりたーい・・・と、動ける喜びを今からかみしめたりしています。 夫は家のことをやってくれたり、湿布を貼ってくれたり。 私へ、いたわりの言葉を何のためらいもなく言ってきます。 「早く、良くなるといいなあ」 これには、素直にありがたく、幸せを感じずにはいられません。 動き方(行動の仕方)が変わると、見え方も変わるんですね。 苦痛と交換に、今までと違う見方があることを教えてもらったような気がします。

やってしまった

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首を下から上へ思い切り変な体勢で振り上げ、ぐぎっとやってしまいました。 今、首がとても痛いです。 そんな動きをしたら、ヘルニアがある私の首はすぐ痛めてしまうと、わかりきったことなのに、 何でやってしまったのか。 とほほ・・・ という言葉がむなしくも合います。 病院の先生から、「首にアレ付けますか?」と聞かれました。 コルセット(アレのこと)を首につけた方が安定して治りやすいようです。 つける恥ずかしさと、この痛みとどっちを取るか・・・ 「先生、アレだけは嫌です」迷わず痛みを取りました。 朝、メイクをするときびっくりしたのですが、 ファンデーションを顔にのばすときも、首って使っているんですね。痛いんですよー 車の運転も、ブレーキを軽く踏むだけで、首に力が入って結構響いて痛いです。 そして、一番は寝ているとき。 寝返りしたくなると「痛、たたた」と声に出しながら、手で、そーっと頭を持ち上げて負担をかけないように体勢を変える。 首の存在をこれほど意識したことがあったでしょうか(3年前にヘルニアと言われた時は意識したが)。 そして、あらためてですが、私の首の役割はこんなに随所にあったとは・・・ と思うほど、すごく使っている場所だということがわかりました。 しかし、幸いにも、今この痛みのために姿勢が良くなっているのは、怪我の功名。 背筋から頭をまっすぐのばして前を向いているのが、楽な姿勢となっています。 椅子に座っているときも、少し腹筋を使いながら、上半身を起こして(前かがみには決してならず)顔をあげてパソコンを打ちます。 周りから、「姿勢いいね」とここ数日言われ、普段どれだけ悪いのか、と思いました。 このまま良い姿勢をなるべく保ちたいものです。 あたり前にあった首。 けれども、首がちゃんと動くということが、こんなにもありがたいことだったんですね。 制限された動きの中での生活であっても、それなりに他の部分が動けていることに感謝です。 やはり、肉体を持つ人間として生まれていますから、 これからもう少し鍛えたり、ほぐしたり、休めたり、日々使ったりと、 心と同じように体にも注目したいです。 私の体、いつも頑張ってくれてありがとう。

新たなスタート

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そこは、長い間気づかないほどに、薄暗い場所だった。 でも、そう信じることをやめてみようと思ったときから、遠くに光が見えた。 そこへ向かって一歩、二歩、と進んでいく・・・                 昨日は 『魂の道場』 岩手クラスの勉強会でした。 まだまだぎこちなさはあったかもしれないけれど、 今までにない優しい光がさし込むような時間を感じました。 これまで皆さんと一緒に勉強してきた日々は、 確かに自分や自分の周りへの良い変化をもたらしてきたと思います。 それでも、昨日あらためて感じたのは、 『何も分かっていなかった』ということが分かったこと。 『分かる』ということは、 何か解決するような、完結したような、成長した自覚のある自分がいました。 でも、その人の段階においての『分かる』であるだけ、なんだと思いました。 その段階を十分にやりきり、 もう次の段階へと進みたいと望むものがあってはじめて、 『分かっていなかった』ということが、見えてくる(分かる)のだと感じました。 もしかしたら、これの繰り返しが人生なのでしょうか。 私は、このクラスのみんなにとても助けられてきたことを、昨日とても実感しました。 自分がこの道を進んでいきたいと思ったこと、 自分に嘘はつけないんだ、ということを知ったこともそうです。 この助けは、自分がはじめから願っていたものではなく、 共に学ぶ中で、自分のあるべき姿を導き、みんなが引き出してくれたのだと思います。 みんながそれぞれに、話を大切に、しっかり、丁寧に聞いている。 言葉を取りこぼさないように、一生懸命に聞いている自分も感じました。 今までと同じ時間であっても、とても意識を集中させて話し、聞くことができたのがすごいことだと思いました。 意識は、自分の意志で創り上げていけるものなのですね。 自分たちがまぎれもなく、築き上げてきたものがあった。 その土台が確かなものであるから、『分かっていない』ことを認められたのだと思います。 自己開示って、ものすごく勇気がいること。 でもそれも、ただの パターン( 思い込み)です。 自分を信じて話す。 たとえ信じられないようなぐらぐらした自分であっても、信じると決めて話す。 相手に開示は望まなくてもいい。 自分のためにする。

あんな言い方されたくなかった

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言い方がきつーい、と思ったことがありました。 言いたいことはわかるけど、グサッとくるーって。 これまでの付き合いの経験から、もしかしたらそんな風に言ってくる可能性がある、 とは多少想像はできていたものの、やはり相手にとって思い通りのことではなかったのですから、 言われても仕方なかったのかも・・・ そう分析し、 相手が言った通りに、背景に感情を一切含めず、言葉の内容だけを受け取ってみました。 そうすると、自分が否定されたのではなく、そういう『事実がある』というだけのことだった。 このように、よーく考えるとそうだった、ということは一般的にあります。 感情をコントロールするための対処方法であったり、 物事をスムーズに運ぶための思考的理解として、とにかく頭を使って冷静になって分析するのです。 でも、このやり方には限界があるかもしれません。 パターン が引っかかった事として、 「グサッとくる」という悲しく悔しい感情に注目してみると、別の解決方法が見出せます。 どうして、グサッときたのか、悔しかったのか、何が悲しく思ったのか。 ●あんな言い方をされたくなかった このパターンが自分の中にあるからです(ここが非常に大事)。 ●あんな言い方、の内容分析よりも、 この瞬間の感情を認めることが大事(何も感じていない、とはいきません)。 頭だけですぐに切り替え、『事実がある』と受け止めてしまうのと、 感情感覚として湧きあがったものを認めてから、パターンを見つけ、受け止めるという選択をしていくのとでは、 その後の行動の質が変わってきます。 例えば、 ●あんな言い方をされたくなかった という黒のパターンがあると同時に正反対の白のパターンというものが存在します。 〇あんな言い方をされてもいい、です。 これを選べていたら何の問題もありませんが、これを選ぶには、少し強引な感じがありますので、 〇もしかしたら、言われたことを、事実として考えてみてもいいのかもしれない という白パターンを創ってみます。 これは実際に私がしっくりとくる、心から望んでいる、こうなっていきたい姿です。 このように、本当の「私」が黒と白を選び変えて、選んだものを全身にしみこませて行動に移していくというものです。 ※これは白黒ワークというものですが、いつかま

うさぎと暮らす

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今から10年ほど前、うさぎを飼っていました。 真っ白で、耳がぴんと長く立っていて、お目目が真っ赤なうさぎの『ミミ』です。 市内の情報誌に、「生後3か月のうさぎ(メス)をかわいがってくれる方へ」とあり、 一目見たくなりました。 夫は、見るだけだぞ~って、乗り気ゼロ。 そんな夫がミミとご対面して開口一番、 「うわあ、白い・・・かわいい・・・」 と、腑抜けになったのを覚えています。 そのまま即決で連れて帰り、ミミは家族の一員になりました。 まるで女王様のようなツンとした表情と気まぐれさが、何とも可愛かったです。 やはり、夫のことが大好きで、夫が寝ながらテレビを見ていると必ず足元に来て、寄り添うようにぴたーっとくっついていました。 しかも、足を完全に伸ばし(野生動物にとってこれ以上ない安心のポーズ)、夫へ対しての信頼というか安心感が半端なかったようです。 娘に対しては、お友達だと思っていたかもしれません。 なでてあげると本当に気持ち良さそうな目で(目が長~くなって)、ほっぺたを伸ばされても黙ってされるがままでした。 そして、私はというとー、ただの『ご飯くれる人』。 私がご飯の用意をすると、部屋の隅っこから全力疾走で走ってきます(行き過ぎて滑ってUターンしてくる)。 夏に、エアコンをかけ忘れて外出したものなら、用事をキャンセルして家に戻ったこともありました。 寂しがり屋なのか、注目されたがりなのか、みんなで笑って楽しくやっていると、怒って足を床にドンドンってすごい音を出して鳴らすのです。 そんなミミ中心の生活も、楽しかったです。 懐かしい思い出がたくさんあるうさぎ生活でしたが、 今日はミミを譲ってくれた家(ミミの実家)の方と偶然再会したのでした。 仕事で私を訪ねてきた方が、なんと、ミミを飼っていた家のお嬢さんだったのです。 まだ小学生だったそのお嬢さんは、ミミのことも覚えていたので、とても嬉しかったです。 今は旅行のときなど考え、動物を飼うことをやめています。 最後を看取るときを思うと、人間も動物も関係なく悲しいです。 自分が辛いというのもあるし、人に飼われて悲しかったり苦しかったりすることがないように、と考えるともう動物は飼えないかもしれません。 庭にときどき小鳥が来たり、猫が通ったり、毎日散歩する犬を見かけたりす

カレーと給食とレモンゼリー

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娘が帰ってきたので、何か食べる?と聞くと、 「うーん、いい~(要らない)」 それならばと、私はカレーが食べたかったので夕飯にスープカレーを作りました。 夫が糖質制限もどきをしているので、ご飯はないです。 だから、カレーライスのカレーにすると味が濃いので、 ご飯がなくてもいいような味付けでスープカレーになったのでした。 具材は普通にジャガイモ、人参、玉ねぎ、豚肉。 そして、ごぼうが冷蔵庫にあったので、大きめに切って入れました(このやわらかいごぼうが美味しかった)。 人が美味しそうに食べているのを見ると、つい食べたくなってしまいますよね。 娘も例外なく、いらないと言ったばかりなのに、自分で鍋から盛って食べていました。 そして、お替わりも・・・ 娘が帰ってから、夫が 「家のごはんは、やっぱ、美味しんだなあ」 と言ったのを聞いて、家のごはんって、おふくろの味的な料理? 自分には特にない、と思っていたので意外でした。 自分自身もそうなのですが、そういう代表作がなくても、何を作っても実家の味ってあるようですね。 おばあちゃんちの味、もあるように。 娘は小さいころアトピー性皮膚炎がひどかったので、食べられるものが限られ、 小学校の6年間は学校給食を食べずに、私の作るお弁当を食べていました。 献立表を見ながら、少しだけメニューに似せたものを入れるようにはしていたのですが、 カレーの日だけは、カレー風味にするのが精いっぱいで(高野豆腐のカレー焼きが好きだった)、 きっとみんなと同じように、ご飯にカレーをかけて食べたかっただろうなあと思います。 小学校最後の3学期も後半に、一度は給食を食べさせてあげたいと思い、 娘にしたら、夢のような待ちに待った時間だったと思うのですが、 感想を聞くとー 「お弁当のほうが、美味しかった」 私に気をつかってくれたのか、ねぎらいの言葉だったのか・・・ 「でも、レモンゼリーはすごい美味しかった」 と、嬉しそうな顔をして言っていました。 思い出すと、せつなくなります。 今はきれいな肌になり、食べたいものを食べたいだけ食べ、 いわゆる反動ですね、小さい頃制限していたジャンクフードも大好きです。 食べたもので体調が変

パターンについて

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たびたび日記に登場しております、パターンとは。 小さいころ親に言われたこと、関わってきた大人たちや生活環境や教育、そして自分が体験してきたことなど、 それらを通して刷り込まれた思い込み、思い癖、信じて疑わないもの、こだわり、エゴ、決めつけ、といったものをパターンと呼んでいます。 常識だと思っていることでさえも、自分のパターンであったりします。 これらは思考でできているので、本当の「私」とは全く違うところで生きているもので、 「私」ではない、別もの・・・なのです。 例えば、●人に嫌われたくない●いい人だと思われたい●自分に自信がない●認められたい●自分が正しい●自分は幸せになれない⚫︎自分はだめな人間だ などなど、誰の心の中にもあるのがパターンです。 人は毎日パターンで思考し、発言し、行動しています。 パターンの存在は自分にとって慣れ親しんできたものであるため(思い込んできたものだけに)、無意識に自分として存在しようとしていきます。 実にもっともらしく、巧妙に、それが自分であるかのように仕向ける力があるのです。 『自分らしく生きよう』と思うときも。 自分らしさって何だか分からないということがありませんか? 誰しもはじめは自分とパターンを同一化(一緒に)しているので、わからなくなってしまいます。 思い込みの中で創られた自分ならば、『自分らしく』と言われても、 本当の「私」とはかけ離れたところで生きてる・・・という感じにです。 こんな風にいうと、パターンが悪者に聞こえてしまうかもしれませんが、 安心してください。そうではないです。 パターンがいてくれるがために(いることを知った時点で)、 それをケアできる本当の「私」を意識することができます。 「私」がパターンをケアできる唯一の存在であるため、「私」は育つことができ、「私」が成長していくことができます。 だから、どんなパターンもあっていいということになります。 そして、本当の「私」も、何か特別なものではありません。 どんな人にでも、あるもの。 ただ、これは使っていかないと(育てていかないと)機能せず、本来の役目(魂を成長させるということ)をはたすことができないようです。 「私」がパターンを守っていけるように

母と私の日常

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母が焼き肉を食べたいと言うので、夕方二人で出かけました。 たまに行く焼き肉屋がリフォーム中だったので、少し遠くの焼き肉屋へ行きました。 そこで40分くらい待つと言われ、 「あらー、そんなに待つの~」 と母が嫌そうな顔をしたので、迷わず定食屋へ移動しました。 そこに入って注文をし終えると、今度は 「なんかうるさいわねー」 とまたしても、母の顔がくもりました。 確かに、お酒が飲めるところだから飲んでいる人たちは騒がしく、会話が聞こえにくいという感じがありました。 でも、もう注文もして時間がたってしまったしなあ、と思い、 自分の声を大きくして(母は耳が遠いので)、周りの音が気にならないようにと 会話を続けていたのですが、 「何かもう、うるさいから、嫌だわ」 と、すごい形相になっています。 ・・・これはもうやばい、出よう。 結局、家を出てから1時間後、近所のラーメン屋で落ち着きました。 母は安心したのか、 「美味しいわね」と何度も言って、満足そうに食べていました。 こういうことがよく起こります。 自分が疲れているときは、ちょっとイライラしてきます。 母は、自分にとって嫌だと思うことについては、露骨に怪訝そうな顔をしたり、 周りに聞こえるかどうかなど気にせず、文句を言います。 すごく、正直。 昔はこんな風な母ではなかったような気がします。 どちらかというと、多少のことは我慢するようなタイプだったと思うし、 もめごとがないように楽しく繕うのが母の役割だったような・・・ それが最近、誰かによく思われたいとか、合わせるとか、そういうことが一切なくなったようです。 83歳生きてきて、もう自分の思ったままに話したり行動したりしたい(それしかできなくなっている)のかもしれません。 娘として、じゃまをしないようにやりたいようにさせてあげたいなあと思います。 母の認知症は、ありがたいことに一進一退で、とてもゆっくりしたものです。 これは母に起きていることではありますが、 私が母のことをどう捉えていくのかで、母の状態が変わっていくようにも見えます。 何に困っているのか、何が不安なのか、どうしてそんなことばかり言うのか、理解していきたいです。 しかし、さすがに同じ日に同じ話が4~5回目、っていうときは 「その話、3回

去年と違う景色

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今年の紅葉は、いつもよりもまして、とても美しさが際立っているように見えます。 特に、紅葉の盛りを少し過ぎたあたりから、じーっと見入ってしまうほどにいいです。 もりもりっと、きらきらと、黄色く輝いたイチョウの木も大好きなのですが、 北風に吹かれ、雨にも濡れ、葉っぱが痛み落ちはじめ・・・ そういう、少し木が寂しくなっていく感じの状態もまたいいなあと思いました。 街路樹でよく見かけるブナや楓(かえで)の木も、 葉のつく場所の微妙な環境で、色の付き方が異なり、その自然にしかできない配色のバランスが素敵です。 さらに、枯れ葉がそこに混じり合ってくると、さらに深い色味がプラスされ、味わいが増します。 春に注目される桜の木も、紅葉するんですね。 派手さはないのですが、やさしい色づきに親しみがわきます。 今年一年の集大成のように、にぎやかに色づく山。 そのにぎやかさにくすみがかり、 存在を消していくかのような茶色い山へと変わっていく。 毎日、変化していく山を見ながら、静けさと覚悟のようなものを感じます。 以前は、晩秋(紅葉が終わってしまうこと)の寂しさ、はかなさが苦手に思うことがありました。 もうすぐ、あの長く寒い冬が来てしまう・・・ 雪(=雪かき)が待っているし、車の運転が大変だし、とにかく不便な生活をイメージしてしまうからです。 ですが今年は、紅葉を美しさの視点だけでなく、その色から感じ取るものが少し変わったように思います。 寂しさの中にも日々新たな日常があることを思い、 はかなさはあるのだけれど、また次への役目として(落ち葉が大地の栄養となっていくように)、自然の流れの中で与えられたことをしていく力強さも感じています。 毎年やってくる季節でも、 そのときの自分の状態で、見えるものが違ってくる。 四季のある日本で、岩手で、暮らせることもありがたいなあと思います。

心底分かりたいこと

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経験を積めば分かる、とはよく耳にする言葉。 分かるためには、もっともっと経験していけばいい、ということでもあります。 それから、分かりたいけど、怖い。 というのもあります。 誰にでも、傷ついたことや思い出すだけで怖くなってしまうこと、 心も体も病んでしまったことなど、もう二度としたくないことってあります。 怖いから、傷つきそうだから、自分には乗り越えられそうにないから・・・ ここに対して敏感にセンサーが働き、そっちは選ばない、避ける。 自分を守るために(パターンの言い分を聞いて)、無意識に行動してしまうのだと思います。 『避ける』ことが身についていった自分。 魂の世界で考えると、 本当はそこを乗り越えたくてこの世にやってきたかもしれない。 もしそうであれば、魂は自ら、そこから脱するための課題(事象)を用意せざるを得ないのかもしれません。 不安、違和感、沈黙、ごまかし、停滞、さらなる恐怖など、 これらが増していくことは、この人生の目的ではない、本意ではないからです。 それらをどうやって突破していくのか。 私の突破したいことの一つ、 本当の「私」が話す、聞く、答える、という対話の部分があります。 この対話がうまくかみあわない、どうも不快感がある、というときは、 大抵、相手を理解したいと思う気持ちではなく、 自分を理解してほしい、という気持ちで向き合っているときに起こるような気がします。 相手のことよりも、 ちゃんと自分を受け入れてほしい 私を否定しないでー 私のほうが正しいと思うよー という気持ちが勝っているときです。 そうして、自分が(パターンが)満たされなかったとき、 その相手との対話は、分かりあえないという前提のもとに、どんどん浅く表面的なものとなり、避けていく・・・ この避けるという経験を、できるだけ減らしていきたい。 もしも嫌われたとしても、誤解されたりすることがあっても、もう自分は大丈夫かもしれないし、 それよりも、相手のことを少しでも知ることができたら、本当に嬉しいと思う。 世界が広がっていくと思う。 本当の「私」か、パターンか、 今どっちで話そうとしていますか、あなた。 と自分に一呼吸おきながら、ときに胸に手をあて、実践し続ける。 この経験を積んで、これまで見えていなかっ

少しだけ威厳を保つ

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父のいる老人ホームへ、久しぶりに顔を見に行きました。 玄関を入ると、遠くから私を見かけた父が笑っています。 今日はめずらしく食欲があり、お隣りの方のおかずをつまみ食いしていました。 父はよくうなずいています。 どうしていつも、首をリズミカルに縦に動かしてしまうのかよくわかりませんが、 うんうん・・・とずーっと揺れています。 以前、なんでいつも首を振ってばかりいるの?と聞くと、 急にぴたっと止まったことがありました。 止めようと思えば止めることもできることを見せたかったのか・・・ それとも、何か指摘されたということが(内容はわからないが注意をされたと思ったかもしれない)、嫌だったので止まったのか。 いつも、父のやっていることの理由、言いたいこと、気持ちを理解していくことなど、 謎解きのように、考えていくことはとてもおもしろいです。 沖縄に行ってきたことも報告しました。 母と一緒に30年ほど前に旅行に行ってきたことがあり、 また、沖縄民謡がとても好きだったので、沖縄という言葉には反応していました。 私の目を見て、何か言いたいことがある(質問したいことがある)ようでした。 海がきれいだったことと、食べ物がおいしかったことと、お母さんと一緒に行ったんだよね、というキーワードに「ほう~」と言ってうなずく。 沖縄の海を背景に、母の写真をいっぱい撮った父。 明日は、デイサービスで母もお世話になる日です。 母が来る日は、普段昼食をほとんど食べない父が、いつもよりは食べるのだそうです。 母の前では、頑張っていいところを見せようしているのが、何とも健気。 母はそんな父に構わず、お友達とおしゃべりをしたり、塗り絵や縫物をしたりして楽しくやっているようで、 住む場所が離れてしまっても、私はそんな夫婦の日常を、ほんの短い時間でも体験させてもらえていることが、本当にありがたいと感じています。

はじまりを思い出す

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沖縄クラスにはじめて参加させてもらい、 そこの中に自分を置いてみて分かったこと、みなさんの言葉を介して、気づかされたこと、 行く前には想像できなかった、自分への課題を見つけることができたように思います。 とても新鮮な気持ちと、慣れ親しんだような安心感。 貴重な時間をいただき、本当に嬉しかったです。 みなさん、ありがとうございました。 帰りの飛行機の中、 『魂の道場』で学びたいと思った頃のことを思い出しました。 あの頃、何をするにも不安でいっぱいでした。 その不安は、自分を苦しめる人たちがいるから、そうなるんだって思っていました。 だから、そういう人がいても感じなくなったり、うまく対処できる自分だったら、 きっと人生は、もっと楽になっていくのだろうなあって(苦しみの原因は他人にあると思っていた)。 そして、カウンセリングをグループで学ぶようになり、 あれ、もしかして、私はここから変わっていけるかもしれない、 人生をもう少し楽に生きていけるのかもしれない。 と自分のわずかな変化と、グループのみんなの成長をまのあたりにしていくたびに、 もしかしたら・・・と感じるようになりました。 学ぶことは、自分を知るという楽しさや喜びがあります。 自分というものを理解していくことはおもしろいことです。 とは言え、 習慣化して身につくには決して簡単ではないし、時間もかかるし、本当に地味な作業。 そして、そこを全て自分からやらない限り越えていかれない厳しさもあります。 カウンセリングの先生と一対一で話しをするときと、 グループでの勉強で話しをしているときの自分は、全くもって違っていたと思います(どう思われるかが怖くて警戒態勢)。 人前で自分の気持ちを開示することには、慣れていなくて、 むしろ開示せずに、心の中とは違う話をしていく訓練はずっとしていたのかもしれません。 人との関わりって、お互いが思い通りにしたい(理想の相手になってほしい)と思っているところがある、そうなってしまうと簡単ではないですね。 思い通りにしなくていい、ということが本当に分かるまで、思い通りにならないことが起こる・・・ でもその機会を与えてもらい、やりとげていった先にあるものが、 本来自分が望んでいることなのだと思いました。 だからこそ、 私はこの

分かるということ

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爽やかな懐かしい夏を感じながら、沖縄クラスのみなさんとの勉強会がスタート。 まったくもって飾らないみなさんに、リラックスして安心してお話しをすることができ、とてもありがたかったです。 これはみなさん、自覚がないようでしたが、すごい能力ですよね。 沖縄という島の風土がそうさせているというのもあるかもしれませんが、 東北人にはちょっと持っていないものを感じました。うーん、いいなあ。 こうした雰囲気の中、いろいろな話をしたのですがー 心の中にあるものを、そのまんま口に出して言ってみると、 その中にはパターンで言っていることもあれば、 本当の「私」が純粋な自分として言っていることもあります。 どちらで話しても、もちろんいいのですが、 その『違い』をわかりながら話すのと、パターン(自分の思い込みやエゴのまま)だと気づかずに、それが自分だと思って話すのとでは、 自分に返ってくるもの、受け取るものが大きく変わってくるのだと感じました。 どうしたらこの『違い』を感じ取れるのか。 これは日々、自分を観察し、心に引っかかったものを見つけワークを実践していくしかないとあらためて思いました。 知識や分析だけでは本当の意味での理解に繋がらず、 たとえ理解したことを言葉で説明できたとしても、日常生活での実践がないとその人のものにはなっていかないようです。 分かっている。だけでは何も変わらない。 もしも、苦しい状況が変わらないとか悪化さえしていると感じたら、 実際に何を選び行動しているのか見ていこうと思います。 自分のその時の感情や感覚の変化も。 普段思考を働かせていることが癖になっていると、分かっているようなイメージを創り出し、錯覚を起こしやすいのかもしれないので注意が必要だと思いました。 今日もまたみなさんと心を開示し合いながら楽しく学んでいきたいです。 あと、今日はどんな美味しいものが食べられるのか(今日は沖縄料理らしい)。 秘かに期待していまーす。

空と海をこえて

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何十年ぶりかで飛行機に乗りました。 仙台空港を離陸し、すぐに三陸海岸の青い海が窓の下に広がりました。 とてもとても美しかったです。 雲を見下ろし、どこまでも広がる高い空が、地球で生きていることを実感させてくれました。 ふわふわした雲がたくさんあって、もう雲というより綿(わた)ですね。 その綿みたいな雲に、決して乗れないことは分かっていても、 ああ、乗ってみたいなあ... 雲海から頭を出した富士山を見つけたときも感動でした(窓に頭を押しつけ、釘付け)。 その姿は誇らしく、凛としたたたずまいでそこにいました。 そのあと、秋色の山脈が波打つように続き(信州あたりかな)、 ベルベットをまとったような滑らかな美しさがありました。 沖縄が近づくと、いよいよ今まで見たことのない海の色が... エメラルドのサンゴ礁が広がり、 まだ降りてもいないのに、南国の空気と温度と匂いを感じたような気がしました。 本土へ行く飛行機や、たくさんの船も見えました。 このように、ほとんど機内では空から見る日本の美しさに感動しまくりでした。 そして、こんなに遠くに来たのに、海の上で繋がっていたんだと、嬉しくなりました。 明日は『魂の道場』の 沖縄クラスに参加します。 岩手とはまた違った大地のエネルギーを感じながら、どきどきしながら学んでいきたいです。 みなさん、どうぞよろしくお願いします。

無難じゃなくてもいい

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相手に対して不快だなあ、嫌だなあと思ったり、 または、嫌われたくないなあと思ったり、 そういうマイナスと感じる感情を持っていると、つい無難な話しかしない、ということがあります。 これ以上相手を嫌いになる醜い自分になりたくないとか、 相手に嫌われることがとても恐ろしいことだとか感じているので そうならないように、相手が共感するような無難な話をすることで、 自分が傷つかないように、できるだけ感じないようにしているのかもしれません。 でも、こういう本当の「私」ではないところでの話をし続けていると、 やっぱりモヤモヤしてきます。 いくら当たり障りなくやり過ごしても、 表面的にはうまくいっているかのように見えていても、 不快や嫌、嫌われたくないという感情が消えて無くなったわけではない。 以前の日記で 、自分が違和感を感じていることについて、 何でそう思うの? 何でそう(行動)しているの? と相手に聞けずにいたことを、やっと聞くことができました。 その答えが何であれ『自分から言えた』ということが、 こんなにも、自分にとって大きなことだと思いませんでした。 どこかで、聞こうと思えばいつだって聞ける、 言うべきときが来れば、自分は言うだろう・・・ などと、苦しい言い訳をし続け、こじらせてしまった。 頭でわかっていることはできること、ではないですね。 自分が持っていたパターン(なぜ聞けなかったのか)は、 自分が、その場にいる人たちに抱いている不快な気持ちをみんなに知られたくなかった、 というものです。 何で?と聞くだけなのに、自分が言い出すことによって、 何かこれまでと違う空気(あたり障りがない空気)を変えてしまうかもしれないことに、 自分は耐えられないかもしれないと思っていたのだと思います。 平穏にうまくいっている(と思いたい)関係を、崩してしまうんじゃないか、 という怖さがありました。 そして、Aさんに対するみんなの言動については、 嫌だなあと思っているならば、 会うのをやめてみてもいいんじゃないかと、 思っていることとやっていることを一致させてほしいという気持ちがありました。 このことについては、もう少しお互いに話してみたいと思っています。 この、思っていることとやっていることの不一致性は、

手放す、という未知の世界

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今、自分には、とてもありがたいことに 仕事 が与えられています。 カウンセラーとしての自分が成長していけるように、 その為に与えられているのが今の仕事だと思っているので、 そこで、これから自分が何をやっていくべきか、最近考えるようになりました。 自分の経験から得たことを、手放す。 はじめに浮かんだことは、もう自分一人のものではなく、 それを必要としている人がいたら、使ってもらいたい・・・ という気持ちです。 出し惜しみすることでもないので、 むしろちっぽけな経験かもしれないけれど、 誰かに(欲しいと望む人へ)渡し、使ってほしいと思うようになりました。 その過程の中で、伝えるということへの難しさや、 疑問を投げかけられたときの、想像力からの応え方、 また、手放すことで起きる新たな体験を学びたいです。 どんな仕事であっても、それをある一定期間やり続けることで、 自分独自のスキルであったり、他の人には見えていないものが見えてくる、 という力が誰にでも養われていくと感じます。 それを相手と共有したり、そこからオリジナルなものに変容してもらったり、 その人のものとして生かしてほしいなあと思うのです。 もしかしたら、手放したいと思っていたのに、さらにその仕事を深められ、 違う形へと新しく作り変えていく作業が生まれるかもしれません。 そういうことも含め、未知の世界を体験したいのだと思います。 今までご飯を作るとき、大抵自分の食べたいものを作りますが (これを言ったら、ご飯は夫や子どもが食べたいと思うものしか作らないと答えた友人がいて、それが普通なのかと驚いた)、 作ってみて美味しいなあと思ったものは、 良かったらどうぞ皆さんで食べて下さいと、何なら作り方も教えますよと、 そういう発信を積極的にしてもいいのかなあと思ったりします。 お裾分け的感覚に近いですね。 自慢しているようで、なんか偉そうで、大したことでもないのに。 というパターンもいたのだと思うけれど、 そこにもう、こだわらなくていい、を選択。 毎日の業務のほかに、 自分の経験を伝える機会を作ったり、 相手にとって得るものがあるように(これは自分に無理をするということではなく)、 自分の中から出せるものは出していきたいなあと思います。