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4月, 2022の投稿を表示しています

感情の波

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自分が見ているものは、自分の心の状態によって変わるといいます。 いつも見慣れている景色が、とてつもなくきらきらと輝いて見えるときもあれば、 何の変哲もない、いつも通りの景色そのままだということもある。 自分の心次第で、見える世界が一変する・・・ ということは、 今、自分ってなんて不幸せなんだと思っていても、 もうその何秒後かには幸せを感じている、ということも当然あり、 毎日忙しいほどにいろいろな感情があれこれ湧き、そこに振り回されているのが人間です。 では、どうしたらこの感情の波をコントロールできるのか。 できることなら、いつも安定した穏やかな心で過ごしたい。 どうしたらそうなれるのだろうか。 その一つの方法として、 安定していないことも、穏やかではないことも、 最悪だと思うことも、不幸せだと思うことも すべての感じる心(感情)をそのままに観察してみるということをしています。 自分を見るというのは、 そこに何も付け加えることをしないということ。 いろいろな解釈をせず、意味を持たせず、何かの理由を付けず、 本当にそのままの自分の気持ちにOKを出す、ということなのだと思います。 ・・・それって結構難しい、と思うかもしれませんが(自分も思っているが)、 難しいなあと思うその気持ちも、 そう思ってはいけないとか、前向きに考えようとか、 自分は選ばれし人間だとか、 とにかくいろいろ変換や装飾せずに、 そのまんま「難しいなあと、もんもんとしている自分」でいい、ということなのです。 この観察が、いつしか自然に「感情の受容」というものに変わっていくような気がしています。 ただただ観察し続けていくと、 なぜか、そこにその感情に対しての抵抗が薄れていくような感覚が出てくるのです。 人としてあるべきもの、あっていいもの、 自然なものとして受けいれてしまうことがあるのかもしれません。 感情という荒波を行ったり来たりする極端なパターンたち。 そのパターンたちを観察しているのが、本当の本来の「私」。 だから心の安定、心の穏やかさは、「私」の力量が問われるところなのです。 それは感情を押さえつける力ではなく、消し去る力でもなく、 コントロールする力でもないのです。 そのままでいいとすべてを包み込む力。 そういうことを毎日やるために、いろんな事が起こるんだなあと思います。

ノートに書く

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なんだか頭がストップしているような気がします。 語りかけワークがちょっと進みません。 恐ろしくスローな感じになっています。 自分がどんな感情であるか。 ここはあまり思考を使わないところですので、 感じるまま「○○な気持ち」というふうに言葉に出てきます。 でも、その先が問題です。 どうしてそう思ったの?というところで自分の頭はストップしているのです。 久しぶりにノートに書いてみようと思いました。 腹が立った、悲しい、むなしい、胸がつまる感じ、つらい、等々 それらに対して、どうしてそう感じたのかの理由を書いているのですが、 思ったほどにすらすらと書けないでいます。 なおさら、何のパターンが自分の中に潜んでいるのか、そこにたどり着いていません。 一つに絞れない・・・ぴったりな言葉が出てこない・・・。 ある意味、とてもゆっくりと感情に対しての正直な理由をさぐっているかもしれません。 いろいろ複雑に考えてしまうと、はじめの感情からかけ離れたものになってしまう。 はじめに引っかかったことは何だったのかを思い出し、そこに言葉をあてはめて見ますが、 まだしっくしきていない感じがあります。 どんなパターンがあるのか、 考え過ぎるとパターンがパターンを作ることにもなる。 (こんな風に思ってはいけないとか、そんなパターンがある自分はダメだとか) 紙に書くというのは、それだけで心が落ち着いてくることもあります。 逆に、何か違うなあ~と、書いた文字を見て気づくこともあり・・・ 嫌だった出来事を書き、それへの不満を書き、自分を責め、他人を責め、 そうしてやっと悲しくなった理由がわかってくる。 本当は何に腹が立ったのかがわかってくるのです。 書き綴るとき、PCよりも、スマホよりも、断然ノート派。 まずは何でもいいので書いてみよう。

どうせ私なんか?

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ちょっと疲れたなあと思うとき(かといって寝てばかりいるのもかえって疲れるようなとき)、 こんなときは読書がいいです。 最近、あまり新しい本も買っていなくて、夜もすぐ眠くなってしまうため、 久しぶりのごろ寝での読書。 母親が以前読んでいた本をもらってくるのですが、その中に瀬戸内寂聴さんの本がありました。 秘書まなほさんが聞き手となって寂聴さんのお話をまとめた本。 (今を生きるあなたへ~SB新書~ 寂聴さんが亡くなってから完成した本のようです) 目に留まった個所に、今の自分へ必要なことが書かれてあると感じます。 そういう個所を見つけると、読むスピードを落とし、 じっくりとかみしめるように、繰り返し目で追いながら自分の中へ落とし込みながら読んでいます。 まなほさんが口癖だった「どうせ私なんか・・・」という言葉。 滅多に怒るということのない寂聴さんから、もうその言葉を使うな!と、 ものすごく叱られたエピソードがありました。 自分という人間はこの世にたった一人しかいないのに、 まずその言葉には、自分を産み育ててくれた親に対しとても失礼だということ。 そしてそれは自分をバカにしていることと同じこと。 自分を粗末にしていること・・・と書かれてありました。 自分にも小学6年生のときの担任の先生から、同じようなことを言われた思い出があります。 たしか、児童会の何かの仕事を投げ出そうとしていたとき(やけくそになっていた)、 自分にそんな言い方をしてはいけない、逃げるな! ということを先生は言っていたように思います。 やはりまなほさんのように、こっぴどく叱られ、 そんなに怒ること?と思ったけれど、それ以来、優しかった先生が言うのだから使ってはいけないんだ、 と何となく信じてきたように思います。 今の自分が、この言葉に引っかかったのは、その思い出があったということもそうですが、 まさに逃げたいと思うようなことがあったからだと思いました。 思うようにいかないことに対して、 その根底を見ずに、 そんなちっぽけな人間ですよ~どうせ!と卑屈になって駄々をこねている状態でした。 口では言いませんが、心の中ではそう思う自分がいたのです。 思い通りになっていかない状況を、そのまんま受けとめればよいのですが、 「ど・う・せ」という言葉を使うことで、 自分の能力を下げ、価値を下げ、だから仕方ないんだと思うこ

自分は、ダメなのか

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話がまだ終わっていないところで口を挟まれ、 ばっさり話が終わり、 えーーー、な、なんで・・・とても傷つきました。 自分がすごく粗末に扱われたような、 自分の存在を否定されたような、 腹も立ったけれど、後からとても悲しい気持ちになってしまいました。 こんなふうに感じてしまうのは、 自分を粗末に扱ってほしくない、もっとちゃんと大事にされたかった自分がいたからなのです。 自分の話す内容がどんなものであっても、最後まで言わせてくれる、聞いてくれる。 それが自分を大事にしてくれている証(あかし)だと思っているので、 そこをばっさり切られてしまったと、パターンは深く傷ついているのです。 そう、これがパターンというもの。 こうしてほしい、こうするべき、こうされないと嫌、普通こうしないはず、こうするのが正しい、こうするのはいいこと。 強い決めつけのもと、常識すらある意味その時代のパターンであるのに、 あたかも自分という人間が傷ついた、かのように感じてしまうのです。 そんなパターンのことを冷静に見ている本当の「私」は、いつもすごいなあと思います。 決めつけや常識、こだわるところが一切ない世界の住人なのですから。 でも、パターンが感じていることには心配無用だと言います。 どんなパターンであっても、何も心配することはないと。 傷ついた自分は全くもって『ダメではない』からです。 本当にこのいたってシンプルな『自分はダメではない』ということについて、 何度も何度も一つのパターンをめぐり、それは必ずダメな人間であることを思い起こさせます。 歴史は繰り返される・・・ではないですが、 しつこいほどに繰り返し、思考がどうしてもそこへめぐるのです。 「やっぱり自分ってダメだ~」 「いや、ダメってことはない(そうそう)」 「いいや、ダメすぎるでしょ(ここまで来たらもうダメ)」 「いやいや、それでもダメな人間などこの世に存在しない・・・(信じなさい)」 と、永遠に頭の中でやり取りが続いていくのだと思うと、ちょっと冷静になると笑えますね。 自分はダメな人間ではないけど、パターンは傷ついた。 というところかもしれません。

自己開示の練習

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今日は岩手クラスの勉強会でしたが、かれこれ10年を超えるおつきあいの友たちに、 やっと10年という月日をもってはじめて言えるものがあるんだと思った会でした。 何を言われても、どんな話を聞いても、もうおどろかない・・・かと言えば違います。 もう毎回、おどろきの連続で、 特にこの数か月のところで個人のパターン話にあらためて興味関心が注がれています。 自己開示をしよう!という目標を立て、 特に、今から開示します・・・という感じで話すでわけではないですが、 みなさんとても心の引っかかりを話すようになりました。 引っかかることの気持ち悪さを10年かかってわかってきた、ということなのかもしれませんが、 開示の仕方も、話す動機も、とても不快感がなく(あったとしてもOKで)、 話し方が本当に慣れてきたように思いました。 さて、自分はどうか?と言えば、よくわかりませんが、 ただ、思ったことを正直に言えると、言えたということと共に、 自分の心が洗濯されたかのように何だかすっきりと、真っ白に、心が澄み渡り晴れるような気がします。 自分のパターンで言うところのダメダメさ加減を、 もう一人の「私」が微笑んで眺めているような気がして、 話すほどに心がほぐれていくのです。 今日は、褒められることが当然だと思って生きてきた自分(パターン)の、 褒められなくなって落ち込んだ話をしましたが、 それはそれは傍から見たら聞いたら、 なんてうぬぼれた人、性格悪い、自信過剰な、あなた大人でしょうよ、 と聞いてられない話・・・と思うかもしれません。 そういう話ができることに、本当に自分は感謝しかないと思いました。 みなさん、自己開示、これからもスムーズにできるまで練習おつきあいください。 よろしくお願いします!

わかったふり

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「ああ、またか~」と思うことがありました。 いら立ちと、悔しさと、落胆と、思い出すだけで自分自身にあきれ、ため息が出ます。 苦手な相手と、自分が決めつけている人がいます。 その方と話をしたとき、身構えているのでしょうね、 言葉もぎこちなく、ちゃんと話さなきゃと思ってしまい、 ちゃんとわかっていないのに、さもわかったような振りで話してしまいました。 そうです、このわかったような振りをするという癖。 この方に対して、確か以前もそんな感じだったなあ、自分(回想中)。 思えば、こうして、自分から苦手な人という決めつけがあると、 自然体でいられないことがあり、 余計に話すか、不自然に話さないか、の二択になっていたなあと思います。 この『苦手』の背景には何があるのかと考えます。 きっと、ありのままの素の自分で接していては、 自分はこの人から好かれることはないだろうし、評価されることもないだろうと、思っているのです。 これは本当の「私」が思っていることではなく、あくまでパターンが、です。 逆を言えば、自分だって好かれたいし、ちょっとは尊敬もされたいし、 仲良くなりたいとも思っているパターンがいるのです。 こうして自分に問いかけると、 ある意味、どう思われても構わないという相手ではなく、 かかわりを持ちたいと思う人だったんだと、気づきます。 だけど、ありのままの自分では良い関係性を持てないと思い込んでいるので避けていたのです。 その思い込みは、本当にあきれるほどに自分をじたばたさせる。 客観的に見ている本当の「私」というものは、 そんなじたばたしている自分でも全く構わないし、 いつか、ありのままの自分でその人と接していきたいと思う自分でも、どちらもOKなのですから、 ゆるせないのは、「私」ではなく、自分のパターンのしわざです。 でも、先日のその体験で、 慌てふためいた自分がいて、 わかったふりをした居心地の悪さを感じた、ということがかなりわかった気がします(数を重ねた結果)。 その気持ち悪さを変換したいのです、次こそは・・・。 次に会う日が来るのか来ないのかわかりませんが、この気持ち悪さをまずは何とかしたい。 どんな自分をも助けてあげたいと思いました。

町内会のかたち

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町内会の役員決めがありました。 今年度から持ち回りとして来たのですが、 集会の日が知らされず(他にもたくさんそういう方がいたよう)、 役員がほとんど決まらなかったということで、 前役員の方々が一軒一軒をまわり、お願いして歩いているようでした。 とりあえず自分たちも、これなら何とかやれるのかなあというところで決めさせていただきました。 数日経って・・・ 実はまだ会長はじめ、たくさんの役員が決まっていないということ。 再度集会がありましたが、そこでも決まらず、 とうとう住民投票で推薦された方から決めようということになって・・・なおも、決まらない。 ということで再々再度の集会が行われたのでした。 参加してみると、前役員の先輩方からのこれまでの苦労話がありました。 なぜ、こんなに引き受けてくれる人がいないのか。 原因はここ? 先輩方の年齢的なころでの限界はとてもよくわかるため、 何とか代替わりをしたい、というのはもっともだし、 誰しも、もう充分働いていただいたのでゆっくり老後を送ってほしいとみんなが思っていると思います。 でも、いざじゃあ誰がこの町内のことをやるのか?と問われれば、 やることはそんなに難しくないから、と言いつつも、人知れず大変なことを長年やってきたんだという話を聞いてしまっては、 みんな口を閉ざしてしまいます。 誰が住んでいるかもさっぱりわからないし、 自分たちには仕事もあるし、みんな自分のことで精一杯なのに、 お金にもならないことをするような心も時間も余裕がない・・・。 話を聞いていく中で、 数年前にはじめて町内会に参加したときのことを思い出していました。 先輩方に言われた通り、厚生部という部員になり、わけがわからないまま動いていていましたが、 車が運転できるというだけで重宝がられたような記憶があります。 60~70代の方から見れば、当時40代の自分はひよっこ。 気が利かないことだらけでも、大目に見ていただいていたんだろうなと想像がつきます。 コロナ前ですから、普通に敬老会もお茶飲み会もあり、 確かに面倒で大変だったけれど、みなさんが楽しそうに笑う姿を見て、一緒になって笑ったことを思い出しました。 その後は、なかなか外を歩いていてもお会いすることがないので、 あの方はお元気でいるかなあと気になって思い出すこともあります。 そんな話を、静まり返ったさなか、

新年度

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去年の今ごろ、憤慨していた自分。 何に怒っていたのか?というと、自分の仕事の売上に対してです。 福祉で、NPOで、どう売り上げが関係するのだろう、 って思う方もいるかもしれませんが、結構あるんですよ~これが。 年度末でだされる数字によって、来年度の報酬単価というものが決定するため、 その数字が下がれば、同じ量の仕事をしていては当然数字としては上がらないことが目に見えます。 毎年、この一年どうなるのか、どきどきの時期ではあります。 自分の担当する、障害のある方が長く働くためのサポートというところ、 数字を上げるために、 どんな状況でも働き続けていればいいのかといえばそうではないですし、 嫌ならすぐ辞めればいいというものでもなく、 正解がない中でいつも葛藤しています。 うまくいかないことがあると、担当である自分がダメだからだ・・・ というパターンは少なからず毎回顔をだします。 そんないろいろな思いをもちながらも、 他人の就職についてもやはり見るべき点は、 自分の仕事に対するあり方なんだということ。 そんな一本芯の通ったことを今ここで言っているけれど・・・ 去年は、「こんなに頑張った割には、この数字か!」 と、自分の仕事が数字ではっきりと評価されたようで(なんだかんだいって、この程度ですよと)、 やる気も急降下していたのでした。 それからは、自分を納得させるかのように、 売上ではなく自分の仕事の仕方を見直そう、自分の言動を変えていこうと思い直しました。 やがて、毎月の数字は把握しつつも、 昨年度の屈辱を晴らそうなどということはもう考えもせず、 あれだけ憤慨していたこともすっかり忘れ、 一年間、目の前にあるものをたんたんとやってきたように思います、振り返れば・・・。 そして今年度はどうかというと・・・ 数字が上りました(ということは売上も自然にあがる)、 やった~!!! となるかと思ったら、 そうか~・・・そうですか・・・という平穏な自分がいました。 もちろん会社にとってはいいことだから嬉しいのですが、 こんなに喜びが爆発しない自分が一年後にいたとは、 去年の今頃の自分に教えてあげたかったです。 この時期、新しい職場へ異動になった方や新生活を送られている方も多いことでしょう。 その緊張感や期待感、もしかしたら不安感など、 変わるお天気のようにいろいろな複雑な思いがあるかと思

日記を書くこと

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先日の勉強会で、ブログを書いている人も書いていない人も、 各自がブログについて思うところを開示しあいました。 このテーマ、グットタイミングでした。 というのは、何のために書いているのか分からなくなっていた自分がいたからです。 日々の暮らしの中で、学びを通して自分が感じたことを書いてみよう、 と思ってはじめたものでしたが、 このブログを通して自分は何を発信したいのだろうか? と立ち止まって考えています(今頃か!)。 カウンセリングの先生から、最近言われた(いや、かなり前から言われている) カウンセラーならば、自己開示ができるようになりなさい、ということ。 書くという行為を通して、自分を振り返ると同時に、 自分の弱さや頼りなさ、パターンでいうダメな自分だと思うところも、 そのまんま開示していきたいと、感じるままに書いていたつもりでした。 でも、この日記を読んで、 自分がもしクライエントさんだったら、どうなのだろう。 こういう人に話しを聞いてもらいたいなあって思うだろうか・・・ その点が気になった自分は、やはり、 漠然と、いいカウンセラーでいたいと思っているんだなあ、 って思いました。 そして、自分のことを知ってもらい、観察してもらい、 話しても大丈夫かなあと思っていただけるように、 少しでも今いる先の希望を感じられるように、 時間をかけて、この日記を読んでいただけたらいいなという気持ちもありました。 何だか小さな自分が、この日記を書くということで、 見知らぬ誰かと(すでに知っている方々とも)心でつながっていけたらいいな、 と願っていたことを知りました。 単なる感じたことを書いていきたいわけではなかった。 自分のために書いていたものが、いつか誰かの何かになれたらいいと思っていたことを知り、 心がとても軽くなっていくようでした。 というわけで・・・ あらためてブログを読んでいただいている方々へ、 いつもつたない文章をお読みくださり本当にありがとうございます。 いろいろ勉強しながら、経験を積みながら、迷走もしながら、 少しずつではありますが精進していきます! これからもどうぞ、よろしくお願いします。