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12月, 2023の投稿を表示しています

心と魂を震わせて

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今年は・・・というより、 去年の後半くらいから、新しいことへの挑戦が続きました。 本当にずーっと走り続けていた一年だったように思います。 かといって、すごく自信が持てた、ということでもなく、 恐る恐るどきどきしながらやっていて、 感情はたくさん騒ぎました。 そんな自分をひたすら観察していると、 それでもいいと思えるようになり・・・ やはり自分のしたいことへ、心を魂を震わせていきたい。 来年も、心と体のケアをしながら、 みなさんと学んでいきたいです。 今年一年、日記をお読みくださり本当にありがとうございました。 よいお年をお迎えくださーい! 桜山神社の烏帽子岩

愛おしい人へ

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昨日は仕事納めで、利用者さんたちと一緒に食事をしたりゲームをしたりと、 とても楽しい時間を過ごしました。 普段、あまり話さない人ともお話をしたり、笑ったり、 まるで大家族の中にいるような、 そういう環境に自分はいたんだなあとあらためて思いました。 そして、楽しいだけではなく、お別れもありました。 それは本当に寂しくて悲しくて・・・ これまでの感謝の気持ちと、 もっとたくさん関わりたかったという後悔のような気持ちと、複雑な思いでした。 その人が望まなくとも、出会わせてもらって、 そこにたまたま自分がいて親しくさせてもらいました。 やさしさ、たくましさ、勇気、ひたむきさ、謙虚、自然体、思いやり 誠実さ、質素、素直さ、ユーモア、あきらめ、成長、責任感・・・ といった「私」の資質に影響をあたえ、 自分が知らず知らずの間、 その人からたくさんのことを教えてもらっていたことに、今更ながら気づかされます。 よく一緒に大笑いしたので、 これから、その笑顔が奪われるようなことにはなってほしくない。 それだけをすごく願いました。 でも・・・ 笑顔でいること、明るくいること、前向きになれること、 そういうことだけが人の成長を促すものではないということもわかっている。 せつない気持ちを持ちながら、 もっと、これから自分は、愛おしい人へ素直になっていこうと思いました。

興味のないことへの変化

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興味のないことはもうできなくなってきている。 年を重ねるごとにそれは顕著に感じていて、 そこへ使うエネルギーがなくなってきているような気がします。 でも仕事だと、そうはいかないことが多く、 仕事だから無理してやっているという方は多いと思うのです。 でも、なんでこれやんなきゃいけないんだろって思うと、 もう、頭が回らなくなるというか、やる気がおきないというか。 何もかもストップしてしまうような。 あとはもう、早く済ませたい一心でやっている。 つまり、 そこに自分がいない。 興味がないことに対しては、 心ここにあらず。 もちろん、体力的にもきつく感じるものもあるし、 自分の得意不得意も、向き不向きもわかってくるので、 そこへの努力というか、がんばりが効かなくなっているというのはあります。 好きなことをやるのとは全然違う。 でも、このやる気のない状態。 一体どうしていこうか? (どうもしなくていい、という答えもあるかもしれないが~) やりたくないけど、やるか!と、 心と不一致のまま突き進むのか・・・ やはり、それをする『動機』の部分がカギをにぎると思いました。 なぜ、それをしようとするのか(または、しないのか)。 動機のところをよくみていくと、 自分のことがよくわかってくるように思います。 ずっと、この興味がないことをしなければならないことへの息苦しさがありました。 一貫して私は、好きなことだけをやっていきたいという思いが強かったのです。 できれば、それだけにエネルギーを注ぎたいって。 それは今も変わってはいないのですが、 それをする理由、しない理由を考えるようになってからは、 少しだけ見方が変わってきた感じがあります。 普段、他人を優先している人は、自分第一でいいと思うのです。 ですが、今の自分は、 自分を優先しすぎてしまっているのではないか?と。 一方で、 自分のことを大切にするのと同じように、 自分以外の人も大切に思えてきている・・・ この頃それを感じることが増えてきました。 この感覚は、まだとてもか弱く小さなものですが、 か弱いがゆえに大事にしていきたいのです。 だから、興味のないことも、 自分以外のこと(人)へ目を向けるということがしたくなっているのだから、 そこには興味があるのです。 ここを感じると、心にじんわり温かさが広がるのがわかります。 それはきっと新し

奉仕って何だろう

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奉仕とは、一般的には他人に対して自分の利害を考えずに尽力することをいい、 宗教的には神に仕えるという意味もあります。 どちらの意味でも、 見返りなど求めず、自分を失くして、 心の底から誠意をもって自分以外のものに尽くす(働く)ということなのですが、 これって、すごいことだと思いませんか? これほど尊い行いは、この世にはないのではないかと思います。 そこにあるのは、愛だけ。 自分はそういうものを一生かかっても持てるものだろうか・・・ 先日、夜に一人で過ごしていたとき、 その、奉仕という言葉が頭に浮かんできました。 奉仕をする、奉仕の精神で・・・ なんて自分に似つかわしくない言葉だろうって思いました。 これまで、そういう経験ってあっただろうか。 家族が病気になったりしたとき、 何も考えずに必死に看病したということはあった。 でもそれは、自分にとって大事な人だからできることだし・・・。 言葉の深い意味を追求したいのではありませんが、 奉仕って何だろう・・・と考えています。 一番ぴんとくるものは、 あまりにも崇高すぎてできると思えないもの。 だから、その言葉が浮かんだ時に胸のあたりがざわざわしていました。 うっ・・・怖い、なんだか怖い。 何というか、 それが自分にとって、これから向き合うべき課題のような気がしたのと、 まったく見返りを求めずにやっていくということが、 どんなに難しいことかを自分自身がよく知っていると思ったからです。 小学校の道徳の本に、奉仕するという話が出てくるたびに、 いい話なのにどこか苦しくなってしまうような感覚がありました。 例えば、道に落ちているごみを拾ったり、 困っている人がいたら声をかけたり、 そういうことができないわけではないけれど、 そういう人間は、無理しているということが本当にまったくないものなのだろうか。 という疑問があったのです。 また、自分のような人間がそんな尊いことができるはずがない。 そんな背伸びをしてはいけない。 と思っているふしもあるかもしれません。 なんといっても ●自分が中心でいたい(ちやほやされたい) というパターンもあるくらいですから。 でも、本当はもっと成長したいと思っている。 それなのにできるはずがないというところへ意識を向けていたら、 自分が自分に制限をかけていくことになります。 あれこれ言い訳をして(パターンの

嫌いという感情について

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カウンセリングを学ぶようになってすぐ、 なぜか自分の周りにいる人たちがどんどん嫌いになっていく・・・ ということがありました。 今でこそ、その現象は不思議なことではないのですが(自分に正直になっただけ)、 当時は、どうしてこうなってしまうんだろうと、 人に対していちいち鼻につき、 怒りの感情や不快感がわいて仕方がなかったのです。 何よりそんな自分自身がとても嫌でした。 そんな自分、というのは、 他人からよく思われたい自分。 誰とでも仲良くできる自分、他人を嫌わない自分ではないことを突きつけられていくような感じがして、 ものすごくつらかったのです。 そういう自分ではないものがどんどん出てきたのは、 心というより、 自分という存在全体から何か毒でも吐き出しているような感じだったと思います。 これらは、みなパターンであって本当の「私」ではないのですが、 はじめはそこがはっきりと分離されていないので、 すぐに感情にふりまわされてしまいます。 頭では、大丈夫(嫌っていいんだよ)と言い聞かせても、 やはり他人を嫌うということにとても抵抗があったし(嫌っているのは事実なんだけど)、 それを他人に悟られるということも怖かったし、 嫌っていないふりをする自分も、 はらわたが煮えくり返るように怒っている自分も、 どちらも最低だと思っていたと思います。 パターンへの語りかけや、いろいろなワークをしながら、 一歩進んで二歩下がるようなスローペースでしたが、 他人をどうしようもなく嫌いだと思う自分自身(←パターン)を、 それが今の私なんだから、いいのかな・・・ とやっと少しづつ受け入れられるようになっていったように思います。 『嫌い』に対する捉え方も変わってきて、 何に対する拒否感、抵抗感、恐怖心なのか、 自分の中にあるパターンの傾向がそういうことを通して少しだけわかってきた。 そんなような感覚を持つようにもなりました。 あの人のこういうところが受け入れられない、というのは、 全部、自分がされたくないパターンが反応しています。 だんだんそこが冷静に分析されるような、分離されるような、 自分とは全く別のところで起きている・・・ そう感じられることが増えてきたように思います。 この頃また新たに感じられているのは、 なぜ嫌いだった人がそうではなくなっていくのか?という事には、 単なる自分の中のパタ

友達、仲間、同士

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思いがけず友人からクリスマスプレゼントをもらいました。 包み紙をあけると、そこには手編みのカエルが・・・笑。 彼女の作ったものならば何でも自分は好きかも?と思いました。 広辞苑での『友達』の定義は、 親しく対等に交わっている人、だそうです。 自分は友達があまりいない方だと思っていますが、 この定義の視点ならば、 結構な人数があてはまるような気がしました。 上司と部下、先生と生徒、先輩と後輩、年上年下など、 人としてはどんな人でも、みな対等だと思うからです。 親しくなればなるほど、相手との距離が一定になっていくような、 ちょうど良い空間ができるような感じがします。 唯一、少しだけ関係性が違うと感じるのは、 自分にとって多くの気づきを与え、導き、私の先を歩く人。 身分や立場や年齢ではなく、 魂の領域が自分とは違う・・・という感じを受ける人がいます。 自分が見えていないものを見ているような人。 自分が何か悩んでいるときや、迷うことがあったとき、 自分がいる領域では、決して気づけないことがあると思うのですが、 そのときに、そういう人からどうにかして教わりたいと思ったりします。 直接教えを乞うということができなくても、 自分の目に耳にそれを知ることができるよう、アンテナを張っていたいなあと思います。 そういうためにも、普段親しくお付き合いする人というのは、 誰でもいいわけではないかも。 この人といると楽しいおもしろい、っていうのは共通しますが、 一緒にいると、自分に正直でいられるという感覚を大切にしているかもしれません。 それは、たくさん愚痴を言い合える仲、超仲良し、というのとはちょっと違います(たまにはあっていいけど)。 以前は、自分のパターンを満たすために付き合っていた交友関係がほとんどでした。 一緒にいてパターンが騒がないからいるというよりは、パターンが喜ぶことをしてくれる相手を選んでいたのです。 今はもうそういう関係は、自分自身が疲れてしまうし長続きしないことを知っています。 逆に自分がどんな動機でその人と関わっているかによって、 関係性が良い方へ変わっていくことも経験としてわかってきたように思います。 相手の言動に自分のパターンは引っかかりながら、 そこに一人でちゃんと向き合える自分でありたい。 それが「私」の望むことなのだと思います。 どんな性格でもどんな生き方で

幸運なときの謙虚さ

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【夜と霧】の著者、精神医学者のフランクルが言った言葉の中に、 気になったものがありました。 ―――――――――――――――――――――― 真の勇気が試されるのは逆境の時ではない。 幸運な時どれだけ謙虚でいられるかで試される。 ―――――――――――――――――――――― 一度だけ読んだときは、 え・・・、逆境のときの方が、人間っていろいろ試されるんじゃないの? と思ったのです。 でも、自分自身を振り返ってみると、 苦しいときこそ、何かをするという覚悟はしやすいような気がしました。 真の勇気というところを、もう少し深く考えてみたいです。 普通では考えられないようなことをやれた・・・ そのために勇気をふりしぼった・・・ という経験は、 何かから逃れたいという気持ちが強ければ強いほど、 そこへ向かえるのではないかと思います。 そのために必要なのは、むしろ勇気しかない。 でも、それに対し、 幸運を感じているときは、何を私たちは試されているのでしょう。 あえて勇気をもつ覚悟をするようなこともなく、 何かを変えたいという緊迫感もなければ、 自分が変わっていきたいともあまり思いません。 苦悩がない幸せというのは、そこには成長というものがあまりないのかもしれないですね(苦悩がある幸せ、とは違うから)。 人間が成長したい生き物である限り、 幸福感だけでは、自分の人生を生きたとは言えないような気もします。 成長していきたいというのはとても大事な感覚なのだと思います。 その大事な感覚が、 幸運を感じているときは捉えにくくなっていて、 大事なものが本当に目を凝らさないとよく見えなくなっているのだと思います。 よく聞こうとしないと聞こえず、 「自分が、自分が」では、本来感じらるものも感じられなくなっていくものなのだと思いました。 また、不運なときよりも、 幸運なときの方が、傲慢になりやすくもあります。 すべてが奇跡ではなく、すべてがあたりまえのように感じてしまうからです。 この状態で深く物事を捉えたり、 感謝の気持ちを持ったり、自分が生かされて生きているという実感を持って毎日を過ごすような境地には至らないのかもしれません。 謙虚とは、 自分よりも相手を優先し、相手を思いやり、相手のことを考えること。 そして、それは自分が引く、控える、慎む、負ける、退く、陰となること。 幸せを感じているときこ

こころのケア講座 ~オガール開催~

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2024年1/6と1/21に『こころのケア講座』を開きます。 場所は、建物も素敵な紫波町 オガール 。 少しでも、今ある悩みへのヒントとなるよう、 自分で自分のこころをケアする方法を、 心をこめて~お伝えしていきたいと思っております。 前回、ご参加いただいた方の声をご紹介します。 ↓↓↓ たくさんの感情があるということから始まり、 「心のカラクリ」の説明はとてもわかりやすく 興味深かったです。 感情を生みだし、 人それぞれ違うというパターンの存在。 自分にはどんなパターンがあるのかを ワークシートを使い 具体的に知る事ができて面白かったです。 細やかな説明のもと、 もっと他 のワークも学びたいと興味がわきました。 目に見えない心の中を垣間見た楽しい時間となりました。 (50代女性) あらためて、自分自身がとても励まされ、 来年もコツコツと講座を開いていきたいと思いました。 講座後に、ふり返りのお時間を個別で10分ほどお取りします。 ミニミニカウンセリングとして体験していただけたらと思っています。 小さな会となりますが、皆さまのご参加心よりお待ちしております!

苦手なことに慣れていく

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小さい頃どんな子どもだったかというと、 元気でいつもケガが絶えない子でした。 でも、もっと重大なこと(特徴的なこと)を思い出しました。 それは、いつもちやほやされていて調子にのっていた子だったということ。 その発端は、おそらく幼稚園や小学生のころの発表会で、 出し物の主役になった頃からだと思います。 たまたまそういう役ばかりに選ばれていたので、 何かやる(発表とか、ちょっとした出し物とか)というときに、 当然のように自分がその中心にいると思うようになっていました。 そして、友達といても、〇〇ごっこで遊ぶときにも、 やはり自分が中心であることが前提。 そうでないと思うように楽しく遊べない感じがあったんですね。 他の子は楽しくても自分はつまらない、となると耐えきれず。 遊ぶのやめる・・・ そんな子どもだったように思います(性格わるっ)。 小さい頃、両親以外にも、 近所の大人たちがとてもかわいがってくれた記憶があります。 可愛がられることがあたり前になっていて、 今思うとやりたい放題だったと思うのです。 いろんなお宅に遊びに行っては、またそこでもちやほやされていたように思います。 だから、そうではない環境の中では、 とても居心地が悪く、窮屈で、不機嫌になったり悲しくなったりしてしまうのでした。 今もそういう、●自分が中心でいたい というパターンは無くなるということはありません。 何かをきっかけとして、感情が騒ぐか騒がないか?というだけで、 ずーっと心の中に居続けています。 それなのに、あまりそのパターンをケアしてこなかったと思いました。 自分が優先されなかったり、自分よりも誰かが大切にされたり、 自分はなんなら忘れられているし・・・ということに、 もっと慣れていく必要があるなあと思います。 そういうことをあまり自分はやってきていないのです。 自分から引き下がる、ゆずる、控える、負ける。 そういうことが苦手な自分。 もっとできるようになっていきたい。 自然にできることをするのは、簡単です。 「私」の資質としてこれまでたくさん使ってきているから得意なのです。 本当に苦手であること、さけていることは何なのかを見定めていく。 楽しいとか嬉しいとか、 そういうものではないことにも慣れていきたいと思いました。 練習していこう! つかの間の青空

流れを創る

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去年の今ごろ は、『勇気』を持ち続けることに焦点をあてて毎日を過ごしていました。 「私」の中にある勇気。 これをやり切ったという実感を持って年を越したいと思い、 そして何とかその一歩を踏み出せたことが、 一年経った今につながっているように思います(結構がんばっていた自分)。 それで、今年はどうかというと・・・ 『流れに逆らわない』『流れに乗る』ということに意識が向いているように思います。 思い通りになっていかないことがあり、 あれ?これ、パターンが思っていることなんだと気づく。 何が正しくて何が間違っているのかなど正解はないと思っていたけれど、 思い通りにいかないときは、やはり何かが違うのだと思うのです。 パターンでやっている可能性が高い。 そうなると、 むしろ思うようにいってはいけないんだなあと思う。 だからこそ、 うまくいかない・・・ということに逆らわず、そのままでいてみます。 現実を見て、もがき苦しむ自分をそのままに受け容れていく。 そうやってちょっとずつ進んだり止まったり、パターンのケアもしながらいると、 必ず状況も変わってくるように思います。 よく変わるということに期待をせず、でも「私」を信じて、 流れるがままに(たとえ、うまくいかなくとも)それと共に過ごしてみる。 そうやっていい流れとは、自分から生みだし創っていくものなんだと思いました。 受け身ではなく、自分が変えられることをやりながら軌道修正していく。 そうやって新しい年を迎えたいです。 南部家の家紋ってかっこいい

いろいろメンテナンス

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このところデスクワークが続いてて、体がガチガチです。 出勤してから一度も外に出なかった・・・という日もあり、 そういう時は、なるべく立ち歩くようにはしているけれど、 体だけでなく頭の中も固まってくるような感じがします。 普段、外に出ては空を見上げ、新鮮な空気を吸い、 四季の移り変わりをたのしむということが、 どんなに自分の心と体を解放させていたのか~と気づかされます。 同じところにずーっといるというのは、 集中できるというよい面もあるけれど、 やはり動かないことが続くと、自然と動きたくなってきますね(動物だ!)。 昨日は予定より早めに仕事をきりあげ、 最近母の往診に来てもらっている歯医者さんのところへ行って来ました。 こちらの歯医者さんとっても美人な先生で、且つやっていることも飛んでます。 はじめて聞く口内マッサーというものを、興味津々で体験してみました。 これが、思いのほか気持ちよかったです! お口をぐわーーーっとひっぱられ、 意外とあちこちに伸びる自分の口にちょっとびっくりしましたが、 お口の中の世界が広がった感じがあります(実際口の中が広くなる)。 歯茎にもたくさんのツボがあるらしく、 マッサージのあとは体がポカポカ、なんだか疲れもすっきりとれて・・・ 夕飯後は、すぐに寝てしまいました。 このところ気づくと、 いろいろ体のメンテナンスをするようになったなあと思います。 それだけ普段頭を使うことが多く(だからといって、大したことはやっていないが) 真逆のことがしたくなっているのかな。 ストレッチもぼちぼち。 自分の弱いところ(肺機能)を重点的に教わっているのですが、 呼吸が前よりも少ししやすくなっている気がして、いい感じです。 ヨガのように体に意識を向けるところは同じですが、 なんとなく動き方が自分にあっているというか、 ヨガをやっていたときよりも、無理なくできるものが多い。 そして、気が楽です。 この、気が楽というのは結構大事なポイントですね(気持ちが楽しむと書く!)。 体のことなのに、 心の声にしたがってやっている感じが、またおもしろく、 頭で考えずに、心で体が動かされているような感じってなんだかいいです。

愛されたい

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●あんな言い方されたくなかった というパターンがあるとき、 じゃあ、どう言われたかったんだろうって考えます。 もうちょっとだけ優しい言い方してくれたらなあ~ って思うことがあります(←私の場合)。 他にも・・・自分のことを邪険にしていない、粗末にしていない、 乱暴ではなく、冷たい感じではなく、無関心ではなく、見下した感じでもなく、 自分のことをちゃんと尊重しているような、信頼しているような、 そういう言い方だったらいいって思っている。 要するに、自分のことを少しでも大切に扱ってほしいのだと思います。 そんなとき、 言ってほしかった言葉を相手は言ってくれなかったので、 そこをあえて自分に向けて言ってみます。 「そうだよね、あなたは、〇〇〇〇〇って言ってほしかったんだよね」 そうすると、 心の中でほっとしているパターンがそこにいたということがわかります。 でも・・・ほっとしたのもつかの間。 その言われたかった言葉を何度か自分に向けて言っていると、 これはこれでまた、今度は気持ち悪さが芽生えているのも感じます。 言ってほしかったはずなのに、それはそれで落ち着かなくなる。 この相反する感じは、 本当は他人から言ってもらいたいと思っていない「私」がいるからだと思いました。 本当の「私」は、そういうものは何も求めていない。 「私」って愛そのものだからです。 パターンはとにかく他人で自分を満たそうとします。 もっと自分を大切に扱ってほしい、尊重してほしい、信頼してほしい、 褒めてほしい、認めてほしい、かわいがってほしい、愛してほしい・・・ 愛してほしいなんて、 まさかそこまで要求していないよと思うけれど、 確かにそういうものがあるので騒ぐのです。 小さいころに、 親や先生、周囲の大人たちから愛をたくさんもらったという体験がないと、 そういうパターンが刻まれることがあります。 でも、たくさん愛されて育ったという体験があってもなお、 愛されたいというパターンは人にはあるように思います。 それも、『自分が思うような愛され方』をのぞんでいる。 何をもって愛されているかという判定は、 自分の(パターンの)基準なのです。 自分が思うような言葉、話し方や表情、態度、行動、感じるものがほしいのですね。 あんな言い方をされたくなかったと思うときは、 寂しがっているパターンに気づいてあげることができ

愛しく語りかける

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久しぶりに騒いでいるパターンがあり、語りかけをしています。 久しぶり・・・というくらい、以前はしょっちゅう引っかかり、 そのパターンは本当に小さな子どものように、 母には母であってほしいと、 自分の知っているお母さんでいてほしいというパターンが騒ぎました。 人は、赤ちゃんだった頃は何をしても可愛いし、 反抗期は大変だけれど、またいろいろ物事がわかるようになると、 その成長はとても微笑ましいものです。 日々の変化を楽しみに子どもの成長を見守れる、幸せな満ちた気持ちがそこにあります。 なのに、大人が老いていくということに対して、 これも人として自然な変化ではあるのに、受け入れがたいものがあるのはなぜなのでしょう。 どうして、子どもは喜ばれ、老いた年寄りはそうではなくなっていくのか。 老いていくこと、できないことが増えていくこと、わからなくなっていくこと。 そうなることに本当に喜びはないのだろうか? 変わっていく老いていく母を見ていると、 悲しみ、虚しさ、寂しさ、いらだち、悔しさなどいろいろな感情がわきますが、 それらの中にも、喜びや笑い、幸せに満たされている自分を感じていることがあります。 老いていく母がいるからこそ、そういうものを感じられるようになった気がします。 (自分のパターンの)思い通りにならないことがあっても、 その中にもいわゆる自分にとっての『いい感覚』を抱くことはたくさんあるのです。 それは、忘れていたと思っていたことが忘れていなかったり、 出来なかったことがやれていたりということでなく(それもたまにあるが)、 変わってしまった中にも、母であることに変わらない部分もより感じられるからかもしれません。 顔にあるシワを見たり、 手をにぎり体温を感じたり、息づかいを感じたり、 そういうものを通して私が満たされている感覚があります。 パターンが騒ぐのも人間だけれど、 いい感覚を持って生きられるのも人間の特技なのかもしれません。 パターンのケアをしていくと確かに心は落ちつきを取り戻し、 そしてまた白パターンの感覚(母を自由にしていこう、自由な母のままを見守っていこう) を選んでいく。 パターンが騒いでも騒がなくても、 この自分だけのいい感覚というものは、本来自分が持っているものなんだと思いました。 きっといつかは、 私も自由奔放なおばあちゃんになる日が来る。 その準

人間らしさ

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『今日、誰のために生きる?』 ひすいこたろう×SHOGEN 著 道場の仲間もブログで紹介しておりましたが、 ブンジュ村でSHOGENさんが体験した話が、 今これほど多くの方に響くのは、それらがすべて、 私たちの祖先、日本人から教わったというところにあるのではないかと思います。 日本人が自分を大事にすること、 心にゆとりを持ち、心を満たすことを大切にしてきたこと、 幸せに生きる日々の心のあり方をアフリカの小さな村に、 今も伝わっているということの驚きです。 YouTubeでもたくさんのお話を聞けますが、 今の自分に響いたもの、一つ選ぶとしたら、 『人間らしさ』という言葉です。 自分が何かしでかしたり、問題を起こしたり、失敗したり、 とにかく、あ~やってしまった・・・と思ったときに、 ああ、自分はなんて人間らしいんだ! と思うというところ。 大人になるにつれて、だれも完璧な人間になっていくわけでもなく、 なんでもできるようになっていくのでもなく、 ただただ人間らしくなっていくということなのです。 だから、この村では、何か間違ったり失敗したときに、 相手を非難するような感覚は持たず、 とても人間らしいなあと思う(かわいいなあ、とも言う)。 この感覚ってとても心にゆとりがあっていいなと思いました。 しょっちゅう何かしら抜けている私にとって、 また、つい相手に自分の正しさをおしつけてイラっとしてしまった時など、 人間なのだということを思い出せる、本当に腑に落ちる言葉だと思いました。 また、このブンジュ村の日常には、 日々の具体的な言葉の発し方や、考え方、 心のあり方を考えさせられる話がいっぱいあります。 この本、実のところ、 ちょうど夫とケンカした時に読んだ本でした(まさかケンカに役立つと思ってもみなかった)。 そうか・・・私は、夫との共同生活をあたり前だと思い、 感謝の気持ちも薄れ、なんと温かみのない言葉を平気で使ってしまったんだ。 早速ブンジュ村に習って、 大自然に身を置き(そう想像して、夜空を見る)、 その雄大さや美しさにしばし浸ってみます。 圧倒的な自然に包まれると、人はもう許されるしかないようです。 これは、パターンで言えば、 白パターンの感覚に全身浸ることと同じだと思いました。 「相手のことを抱きしめるように」 大事に温かな言葉を交わせた(謝れた)感覚がありました