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2月, 2022の投稿を表示しています

どんな風が吹いても

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今日は一日、盛岡は雨降りでした。 朝からパジャマ姿で夜まで過ごしましたが、外に一歩も出ない日があるととても体が休まる感じがします。 今日は本当に好きなことだけして過ごしました。 最近は心理系の勉強をしているのですが、それがとてもおもしろいです。 試験もあるので暗記しなければいけないものばかりですが、 本を読んでは、へえ~、なるほど、知らなかった、あ~そういうことか、むずかしすぎる・・・ などなど、ひとり言をいちいち言っては驚き、いろんな意味でため息ついています。 もっと時間があれば、もっと早くから勉強していれば、 と悔しく思う気持ちもありますが、 それほど知りたいことが山ほどあって、追いつきません。 よく先輩方(しかも高齢の方)が大学に入学して、 若い人と一緒に「学ぶことってたのしい」と言っている姿をTVで見かけたりしますが、 いくつになっても学びたいときに学べるんだというその気持ち、とてもわかる気がしました。 勉強しているといっても、自分の場合は一時間と集中力が続きません(これが現実)。 休憩時間の方が圧倒的に長く、 勉強→ごはん、勉強→朝風呂、勉強→そうじ、勉強→おやつ、勉強→YouTube・・・ というような感じで小刻みにやっていますので、 こんなやり方では合格しないだろう(はちまきも巻いていないし)、 もっと死に物狂いでやらなければ勉強とはいえない(ブログ書いている場合じゃない)、 と思うパターンが鎮座しています。 でもこれは、自分への実験というか、 楽しんで、やることもやって、身体も倒れないように、その中でのめいっぱいでやってみたいと思うのです。 今まで試験勉強といえば、『倒れるまでやる勉強法』でした。 家事はもちろんのこと、勉強のじゃまとなるもの(パターンが思うじゃまもの)はできるだけ排除しながら、 それだけに没頭できるように、だからピリピリしながらやっていたときも当然にあった。 でも今度は、そうではない、違う選択をしたいと思いました。 夢中になって楽しんでやっている・・・ それが本当に勉強になっているのか身についているのかどうかわかりませんが、 今の自分が得たいもので、大事にしたいもので、やっていきたいという思いがあります。 気分転換のYouTubeは、今日はmiletさんを聞いていました。 実はオリンピックからはまっています。 NHKウィンタースポー

障がい者雇用って

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障害(精神障害、発達障害)がある方が、障害のない方たちの中で働くには、 障害特性についての理解に周囲が悩むことがあり、いろんな感情の波が起こります。 なんでこんなことにこだわるんだろう なんでこんな解釈の仕方をするんだろう なんでこんな言動になるんだろう というようにたくさんの疑問から、 それが不快に転じたり、イライラになったり、もやもやになったり感じ方はいろいろで、 職場全体がその人から何かしらの影響を受けていることに気づくことがあります。 考えてみれば、何も障害のある方でなくても自分と考え方が違う人などごまんといるので、 そういうことがあっても不思議でも何でもない。 だけど、障害があるということがわかっただけで、 「障害者だからなあ」 って、これから起きるであろうもろもろの感情が、 障害者によって引き寄せられると思っている人は多いと感じます。 はじめから自分の問題ではないかのように思い、 いろいろな感情はその人がいるがために起きること(自分たちが原因になることはないと)。 そしてそれがきっと悪い方向へ進む、面倒なことだと思ってしまうようです。 今まで企業訪問していた中で、 「ごめんなさい、障害者の方が働ける職場じゃないのよね」 と申し訳なさそうに言われたこともありました。 仕事の内容ではなく、人間関係のことで、 一緒に働く(心の)余裕がうちの会社にはないという意味なのです。 言い換えると、心のゆとりがあれば、多少は関われるということを知っているのでしょう。 それでも、いざ雇用したら、 自分たちの仕事がスムーズにできなくなるかもしれないという不安もあるのもわかります。 きっと考え方や言動を見て理解に苦しむことがたくさん出てくるだろうし、 周囲の方がいろいろ振り回されてしまうだろうなって想像してしまうのだと思います。 ところが・・・ 最近になってその印象がちょっと変わってきました。 障害のある方を雇ったことで、 雰囲気がよくなった、明るくなった、柔らかくなった、という職場がふえてきたように感じます。 問題が全くないかと言えばそんなことはなく、 本当によく指導していただいているなあと思うほど職場の方々の苦労もあることはある。 でもその苦労の中で、いろんなネガティブな感情があったのだと思いますが、 おそらく『ネガティブ感情=障害者(他人)のせい』で終わらせてしまうことへ

自己開示の練習

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前回の勉強会では、自己開示についても考えました。 もうだいぶ前から、ここへの挑戦をやっていこうという話が出ているけれど、 苦手なので避けてきたところなんだと思います(やり方もよくわかっていない)。 そこで勉強会の最中に、少しずつ練習していこうと、 意識的に相手の話の中で引っかかったところを開示してみようと思うのですが、 ただ感じたことを話して終わり~ではないのでむずかしいです。 開示したいその内容は、はたして相手の方に違和感なく不快なく届いていくだろうか・・・ やる前から不安。 ●相手を不快にさせたくない、というパターンもちらっと顔を出してます。 自分自身が開示することで、相互に理解し合えたという体験となっているのかどうか、 つまりは、開示してよかったと思うような結末にまず自分自身なっているのかどうか、 このあたりが本当に練習必須なんだと感じます。 どんな言葉を選び、その言葉をどのようにつなげていけばいいのか、 話す順番はおかしくないか?等々考える、 国語の勉強のようだなあと思いました。 開示したことで理解が深まったり、場が和んだり、 以前よりも風通しのよいコミュニケーションとなっていくことが、自己開示の目指すところかもしれません。 しかしながら、そこへたどり着くまでは、 国語の勉強をしながらも、なぜその話を今ここで相手に伝えようと思ったのか、 動機の部分も一緒に話してみたらいいのではないかと感じました。 自己開示する、その理由はやはりあります。 ただ単に、なんかパターンが引っかかったから・・・ではなく、 なぜ、その引っかかりを言いたい伝えたいと思ったのか、 そこの部分は自分の中で起きていることですから、言わない限り相手にはわからない部分。 もしかしたら、そこを省略するから開示への不自然さが出てしまうのかもしれない(と、今は考える)。 例えば、 今、自分が話そうと思ったのは(理由があって)、 以前にも同じような気持ちになったことがあって、そのときはごまかしてしまったんだけど、 今回はちょっと感じたことを聞いてもらいたいと思って(だから話そうと思います)・・・ というように、 開示したいと思う動機の部分を、自分自身もちゃんと自覚してから話した方が、 なんとなく話しやすいような気がしました。 言い訳っぽく聞こえているのかもしれませんが、 自分としてはここからスタートする

嫌いは嫌いでも

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このところ、嫌いな人のことについて度々日記に書いているのですが(といっても2つほど)、 また似たようなテーマで書いています。 好きな人がたくさんいる人、または嫌いな人がそんなにいないという人の方が、 何だかいい人っぽいという印象を持っている人は多いと思います。 他人の悪口を決して言わない、他人を干渉しないという人も確かにいます。 そういう人は、人を客観的に見れている、良い面をたくさん見れている、 物事をポジティブに捉えられる、心が広い、心にゆとりがある、そもそもやさしい、 そして人間ができているから・・・やはり、いいイメージなんだと思います。 でも自分のパターンには、 この人なんか嫌い~と思う人から、超嫌いな人まで結構いる。 もしも人前でそんなことを話したら、 人の悪い面ばかりが見えている、性格が悪い、優しくない、見ている世界が狭い、協調性がない、 自分のことを棚にあげている、そういうことを言う人とは付き合わない方がいい、などなど、 とにかく印象は、決していいとは言えないでしょう。 それだけ、人を嫌うということがどんなに人としていけないことなのか、 それを言ってはいけないのか、生まれてこの方刷り込まれてきているだと思います。 「もう~あの人嫌いだわ」 と言ったら、世間一般的にはどう思うか。 それは自分もよくわかっているので、 うっかり口にしないようにしようと思うことはあります。 でも、 自分のパターンの中に、嫌うことをゆるすパターンも存在していること(これが白パターン)を知ると、 その言葉の重さはなくなり、いやだったから、不快だったから、今この瞬間そう思っただけ・・・ という何ともあとくされのない、さっぱりとした言葉に変換されるときがあります。 パターンのケアをし続けていると何回に一回かは、 同じ「嫌い」という言葉を使っているのに、 心のもやが晴れていくような目の前が広がっていくような、 「嫌い」というイメージに似つかわしくない穏やかな自分を感じることがあるのです。 それは、言えてすっきりした、内心ざまーみろ的なものとは違うのです(←ここの表現がむずかしい)。 言葉通りに受け取ると、黒パターンで話しているかのように見えますが、 実際はこの感覚があっての「嫌いだ~」と言っているときは、 白パターンで言っている(白を選択して行動できた)、そういう「嫌い」なんだと思いまし

顔のシミ その後

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顔のシミ取りレーザー治療 のその後です。 皮膚科の先生から、 「まれに、100人に数人かな?うまく消えてくれない人がいます」 と言われましたが、 なんと・・・ 自分はその数%に該当したようなのです(なんで、こういうときだけ選ばれるか)。 全然消えるどころか、またさらにレーザー前よりも濃くなってしまいました。 すごいショック・・・泣。 本来だと、かさぶたができてぽろっと剥がれ落ち、 あとはゆっくり皮膚が再生されていくのだそうです。 それが何日経っても全然、そういう気配が感じられず(かさぶたがほとんどできなかった)。 ん???これって、 まさかのまさかのまさかのまさかの・・・ 医療的には失敗ということではなくて、そういう体質の人がいるそうです。 夫からも追い打ちをかけるように、 「えーなに?自分の体質知らなかったの? ケガした後ってきれいになっているのかどうか、 そうなるタイプかどうか、今までのこと考えたらわかるじゃん」 なるほど・・・ 確かに、小学生の頃に自転車で転んだときの跡が、いまだ残っているわたしの膝小僧。 あちこちにケガの跡がシミのように残っている自分の体って、 レーザーが効くとか効かないとか以前に、跡が残りやすいんだあと今更ながら納得した気がしました。 それなのに・・・ 早くどうにかしたいなどと考えた、 なぜにもう少し慎重に選択しなかったんだ、 今までの自分だったら、こういう得体の知れないものをやらなかったでしょうよと、 数週間前の自分の浅はかさを悔やみます。 あんなに気になっていたシミの濃さも、今となってはまだ可愛いものだったと懐かしく思うほど。 いつもそう(回想中)。 こう、となったら衝動性を抑えられないところがあるのです。 大体、年なのにシミを消そうと躍起となったことがまず恥ずかしい。 そして、顔に貼った絆創膏がこれほどまでにストレスになるとは思っていませんでした。 ご飯を人前で食べるたびに、なぜ絆創膏を貼っているか、シミを消すためにこうなっているという話をし、 はじめの頃は夜寝ていても、もうその絆創膏がいづくて寝た気がせず大変でした。 今回のシミ騒動は、 動機はずばり●きれいになりたい。 こんなシミがある自分はみっともない、シミが増えていく顔を見たくない、 少しでも若くいたい(←これ、結構あるんだなあ)、できればきれいになりたい。 という年齢への抵抗

こういう人、再び

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考えていることが理解できない、共感がないから付き合いにくい、 自分を否定されている感じがする、よって自分が傷つく・・・だから嫌い。 というのが、おおよその(自分にとっての)嫌いの構造でした。 それがパターンのケアをしていくと、 ある日突然(本当にそんな感じで)、 自分と違うから理解できないところはあるけれど、この人ってこういう人なんだな~、 自分はそこに影響されなくてもいいんだな~ と自分の中からその人は遠く遠く離れ、自分の問題ではなく、 どこか他人事のように客観的に一人の人間として相手を見れるようになるのです。 ・・・というようなことを先日 日記に書いた ばかり。 でも、今回パターンが感じたところは、 その「この人はこういう人なんだ」という違いが分かってもなお、 でも・・・なんかやっぱり受けつけない~ という体の拒否感のすごさです。 物理的にそばにいたくないと感じるこういう人こそ、 パターンが思う『嫌いな人』『性に合わない人』なのかもしれません。 こんなときは、 何かもう今生の自分では太刀打ちできないような、 もはやここまでかもしれないという、正直あきらめに近い心境にもなります。 それはそれで、パターンを受け容れることであるため、 逆にそれができたらとても楽になるのだと思います。 でも、そんなふうに受容ができる段階ではまだ自分はない。 『なんか受けつけない』のなんか・・・って何なんだろうと考えてみました。 ●この人嫌い・・・のなぜ嫌い?というところをまずはもう一度語ります。 そして選んだ白は、 〇もうその世界から自由になろう、です。 この白をもう一度使いながら、でも体に無理強いせずやってみようと思います。 先日書いた日記のように、パターンが騒がなくなってきたり、 人の捉え方が変わってきたんだなあと感じたときに、 まるでそう感じた自分を試すかのように以前のパターンが出てくるということがあります。 出てこなくなったパターンに対して、 もう出てきてほしくないと思っていたパターンがあったんだなあと、 再度認識する機会となりました。 再度・・・というか、何回でもこういうことが繰り返されますね。 これは、●パターンがなくなっていくことがいいことだ、というパターンがあるからなんだと思います。

冬の記憶

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  隠れファンも多い、 網張温泉スキー場 へ行ってきました(ローカルで親しみやすい!)。 といってもスキーはしていませんし、温泉にも入っていませーん。笑 それでも、ゲレンデをずーっと眺めていると、 いかにも自分がひと滑り終えてきたかのように、あの楽しかった感覚を思い出します。 小学生の頃は家族でしょっちゅうスキーに行っていました。 大人になってからは回数は減りましたが、 それでも、朝起きて山の空が晴れているのを見ると居ても立ってもいられず、 一人車を運転し滑りに行ったこともありました。 青い空にまぶしいくらい真っ白なゲレンデ。 ほぼほぼボーゲンのわたしは、あまりスピードが出せないのですが、 それでも風をきる感触は本当に気持ちがよかった。 午前中いっぱい滑ったら、食堂のカレーを食べて帰る・・・ 今思うと自由で贅沢な時間だったなあと思います。   スキー場に隣接しているこちらの 温泉宿 は、 娘が小さい頃に何度か、両親も一緒にみんなで泊まりに来たことがありました。 何年ぶりかで嗅ぐ、硫黄のにおい。 乳白色のお湯は少し熱めなので、露天風呂がとても気持ちよく、 一回入るだけでも身体の芯までよーく温まります。 建物の中は昔と変わらず質素ですが、こういう昭和の雰囲気が漂うところも好きでした。 記憶って素晴らしい(突然に・・・)。 スキーも温泉も自分の中にしっかりと刻まれているんですね。 これら記憶のおかげで、 目を閉じればその時に充分味わった、楽しく、うれしく、幸せな気持ちをありありと甦らせることができます。   そして、冬の記憶と言えば・・・ 必ず寒くなると、 「あったかいところに住みたいなあ」と毎年言っている気がします。 そして、そう言ってるわりには、 雪国生まれのDNAなのか? 美しい白銀の世界を目の前にすると、心がすっかり洗われ魅せられてしまうんですね。 もう何十年と見慣れている風景なはずなのに、 冬が来るたびに、雪を見ては感動している自分に気づきます。    以前は、四季がはっきりしていることは、 一年のうちのいい時期が短いような気がして、残念な感じがしていました。 でも、季節が必ずめぐっていくように、日々の生活も人生も同じ日はないことを知っています。 どんなに暑い夏だったとしても、 お盆が来ればもう涼しい秋風が吹くと知っている。 どんなに雪がもっさもっさと降り積もっ

ふたつの悲しむパターン

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今朝、夫に対して本当はむかついていたのに、 なんとかごまかしながらやり過ごしていました。 でもついに・・・ 車に乗りこんで一人になった瞬間にパターンは暴走し(車は暴走してないけど)、 「あーーームカつく!」とひとり叫んでしまいました。 もちろん叫んですっきりはせず、気分は沈み、 と同時に「なんだか悲しい」という感情が込み上げてきました。 何がどう、悲しかったのか? 恥かしながら、もろもろの家事をやっていないことを夫から指摘されたのですが、 何でそれを今言うか?朝のこの忙しい時間に。 いそいそと指摘された箇所を取り急ぎの方法で掃除するわたし。 確かに掃除がちゃんとできていなかったかもしれないけれど、 自分にとって(パターンにとって)、 朝の出勤前に言うというのはルール違反なのです。 そういうことを言われた方は嫌な気持ちになったままでかけることになる、ということを知っていて、 それでも夫は「言う」選択をしたことにむかついてしまいました。 でも、夫は夫で、 そんなことを今言わなければならないほど、 わたしのいい加減さに限界がきていたのかもしれません。 言われたくなかった自分と、 言わせてしまった自分。 どちらの自分も悲しんでいました(どちらもパターンが感じている)。 ●あんなふうに言われたくなかった、というパターンは、 自分をこんな嫌な気持ちにさせる夫はやさしくないし、 イライラして事故にでもあったらどうすんのよって思ったし、 こんな気持ちで一日をスタートさせないでほしい・・・と言っています。 パターンは悲しいのは相手のせいだと責めるのです。 一方で、 ●あんなことを言わせてしまった、というパターンの方は、 夫にあそこまで言わせる自分は最低だって思うし、 自分がちゃんと掃除していないのが悪いって思うし、 夫を悪者にしたのは自分だ・・・と言っています。 こちらは、こんなことになったのは自分のせいだと思うパターンがいます。 相手のせいでも自分のせいでも、 どちらでも悲しいんですね。 パターンは起きたこと、事実だけを見るということができません。 これはどっちもケアしてあげたい・・・です。

言葉のリンク

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今週末、精神保健福祉士に関する研修での出来事。 基本的にじーっと座って講義を聞く、というのが自分は苦手なのですがー たくさんの言葉に頭がぼーっとし、長時間大人しくしていることについに限界がきそうになってきた時、 講師の先生のある問いかけに背筋がスッと反応しました。 (PSWの倫理観みたいな話だった) 「自己覚知をおろそかにしていませんか?」 じこかくち・・・ 普段ほとんど聞くことがないこの言葉。 他人を支援しようとする前に、自己理解、自己認識、 自己観察のうえで自分を知っていくということをおろそかにしてはいけない、 というような意味なのだと思います。 自分はどんな時に感情がゆれ動くのか、そこからの観察なんだと言っておりました。 さらに、 『専門職としての自己覚知』と『個人的な自己覚知』の二つが存在しているのだそうです。 職業的な倫理観を持つ自分を理解するというのは、何となくわかるような気がしますが・・・ 問題は後者の方です。 個人(的)と言ってしまうと、これはもうかなり重要なことです。 核心にふれた話です。 先生~すごいこと言っていますよーーー! ここの『自己』という部分に、実はパターンが隠れていることを知ることができたら・・・ もっとすごい話になるなあと思って聞いてました。 ゆれ動く感情の動きをたどり、自分がどんなことに対して怒りを感じ、 何に不安になり、何に焦り、何にうかれてしまうのか。 それらを知った上で起こり得ること(黒パターンの暴走ですね)を予測することができる、 と話を変換しながら聴くと、ちょっとわくわくしました。 また、先生が言うには、 自己覚知ができて初めて自分を活用することができるのだそうです(これ、「私」の活用ですね)。 黒パターンから白パターンへ選び変え、行動を変え、本来の自分を活かすということではないでしょうか。 ・・・なるほど、そうですね。その通りです先生! と先生が実際に言ったこととは違っていますが、 自分の解釈で大きくうなずいてしまいました。 自分が学んできたことが誰かの思わぬ言葉によってリンクしたとき、ちょっとした嬉しさを感じます。 本来の意味とは違っていても(そういうつもりで言ったわけではなくても)、 自分の解釈で自分がピンときたもの、それこそ背筋が伸びるような衝撃として自分に届くものがあると、 それはもうすでに自分のものとなって生

自分と違う人

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カウンセリングを習いはじめた頃、 自分がとても嫌な人間に思えてならないときがありました。 ワークをやればやるほど、嫌いな人がたくさん湧いて出てくるのです。 この人嫌だ~と思う人があっちにもこっちにも、どんどん増えていくような気がして、 そんな自分に腹が立つし、何だかがっかりしてくるのでした。 はあ、わたしってなんてイヤな性格しているんだ・・・と。 みんな仲良くね、と小さい頃から教えられてきていますし、 人の悪口を言うのは良くないことだと誰もが思って育ってきてます。 だから、嫌いな人、顔も見たくない人、この世から消えてほしい人がいることはひた隠しにしてきた。 でも、本当は、 誰にでも「好き」「嫌い」の感情はあるのです(←これ正常)。 だから、カウンセリングをするようになって嫌いな人がむくむくと増えた、わけではなくて、 前々から嫌いだと思う人を自分の中で、認められなかっただけなのです。 それを口に出せるようになったということ。 やっとのことで自分の中にあるパターン(●この人が嫌い)を見つけてあげられた。 これからやっとこのパターンを救い出すことができる。 これは、自分を受容しはじめた瞬間でもあったのです。 カウンセリングというのは、 自分の内面をひたすら観察していく、受け容れる、ゆるす・・・ という作業を日々やっていくので、 本当にいつか、どんな自分をも受け容れられるようになり、ゆるせるようになっていくのかもしれないし、 そうなったらすべての他人を受け容れ、ゆるせるようになっていくのかもしれません。 これは今生のうちにはどうかと思いますが、 できる限り挑戦していきたいところであり、今は、まずは他人よりも自分です。 今もなお、嫌いな人も好きな人もいるけれど、 それはパターンが選んでいるということがわかります。 そして、パターンではない本当の「私」が選ぶところは何だろうと思うと、 何となく、好きか嫌いかというほかに、 『人と自分の違い』を見ているのかなと感じます。 自分と違う部分を見つけてはただ、自分の考えや感じ方や好みが『違う人』がいるだけなのです。 それが、今自分が見えている事実はこれ・・・といったらいいのか。 大嫌いだと思ってた人が、ある日、 自分とこういうところの感じ方が違う、表現の仕方が違っている、考え方が視点がこんなに違うんだ、 というように見えたりします。 そ