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5月, 2022の投稿を表示しています

宇宙へ届け~②

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自分がいかに平凡か・・・ 以前にも先生からこのことを教えられ、 そのときは、 はい、わたしは平凡です!わかっています。むしろ平凡のちょっと下くらいです。 と思っていた。 だけど、 平凡な者は非凡な人たちの足を引っぱらないこと・・・ と言われ、足を引っぱる? そういうことをしているのだろうか。 非凡な人たちのように自分は認められたい、 自分には非凡な人と同等の価値がある(ある意味、価値はあるのだが)、 もっと非凡な人のように大事にされたい、評価されたい・・・ と満たされたいという思いが、 自分をつらく腹立たしく、悲しくさせている。 今朝に作った語りかけのパターンの声も、 もっとこうなりたい、もっとこうしてほしい、もっとこう言ってほしいということばかりが、ずらーっと並んでいた。 何もかも自分の思い通りにいくことを望むのではなく、 何もかもが起きるように起こることを願え。 そうすれば人生がうまく流れていく(誰かの足を引っぱることなく、自分の持ち場でやっていく)。 先生の言葉が、宇宙からの言葉のように聞こえてきました。 セミナーを終えた朝、 海が見たくなり、茅ヶ崎の海に行きました。 スイミーのように生きるのだ。 宇宙上にいるたくさんの仲間の中で、 平凡に生きる『点のような自分』に与えられた、その役目をちゃんと果たしたい。 そのことを、心に、全身に、魂に、ちゃんと届けたい。 今日からまた、日常という、練習に次ぐ練習への最適な場が待っています。 魂を傷つけることをしないように、 自分を一番大事に「私」がしっかり守ってやっていこう。 疲れた体を感じながらゆっくり進んでいこうと思います。 茅ヶ崎の皆さん、 ここに集結してくださった皆さん、 そして、ダイナミックにわたしたちを引っ張ってくれる先生、 ありがとうございました。

宇宙へ届け~①

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茅ヶ崎に、 魂の道場 で学ぶ仲間が集まりました。 懐かし~い顔ぶれの沖縄の皆さん、 お久しぶりの茅ヶ崎の皆さん、 初めましての個人カウンセリングを受けていらっしゃる方々と、 岩手から緊張高まる仲間と共に、 深く壮大な学びを過ごす2日間となりました。 道場の話をすると、 知らない方には???が頭に点灯するかもしれませんが、 諸々の説明をはぶいて今日のブログ書きますので、すみませんがお付き合いください。 まずは、学びの方ではなく、 約3年ぶりの大好きな新幹線に心躍りました(わくわくを隠せない)。 普段、リュックをしょわない自分は、半分遠足気分も入っています。 車窓からの眺めっていいですね~ 特に新緑のこの季節は、緑が本当にきれいで心があらわれます。 都心に近づくと、ぎゅうぎゅう詰めに並ぶ住宅やビル群。 息が詰まりそうな感じがありますが、 この建物の中に、たくさんの人たちのそれぞれの生活があり人生があるんだと思うと、 自分もその中の『一つの点』でしかない小さな存在であることを実感します。 見たこともない人がここで暮らしているけれど、宇宙を思うと、つながっているんだろうな。 そして、この『一つの点』である自分への実感が、 セミナーの最後で、大きな気づきをもたらすことに・・・。 不思議なもので、 どんな日常を普段過ごしているのかお互い知らなくても、 何に心が引っかかっているのか、それをどうしたいと思うのか、 それから先、どんな選択をして、どんな自分になろうと行動するのか、 日常のある出来事一つとっての話が、 本当にその人の在り方を物語っているなあと感じます。 セミナーの中で自分は何の話をしようかと、 新幹線の中であれこれ考えてはいたのですが、 いざ自分の番に回ってくると、頭が真っ白になりました。 皆さんお一人お一人の話を聞いていくうちに、 ものすごい衝撃がただただ自分の心を打ち付けていきます。 そして、用意していた話が全部飛ぶ・・・ 「何もできていませんでした!」 語りかけがちゃんとできていなかった。 やれていない、できていないよ、あなた! と思う自分(パターン)がいました。 そもそも、自分自身に起きていることを全然ゆるしていない。 ちゃんと心の奥深くにあるどろどろした感情をすべて残らず感じ取り、言葉に出す。 それ、やっていたか? 自分にとって大きく根深いパターン。 それはい

自信がないだけか

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●自信がない という黒パターンがあります。 自分には人としての魅力がない、頭の良さがない、話しが下手、記憶力が弱い、理解力が弱い、体力がない、もう若くない、勇気がない・・・ といろいろ自信のない理由は続く。 これらの黒パターンに染まると、 だんだん気持ちが沈み、胸が絞めつけられるように苦しくなり、自分が小さくなっていくのがわかります。 その後どうなるのかといえば、 行動力がどんどんなくなり、話せなくなり、考えられなくなり、表情が硬くなり、 それこそすっかり自信をなくす、という自分が出来上がります。 この悪循環を変換するために、自分をケアしていくのですが・・・ 〇もしかしたら、自信がなくてもいいのかもしれない 自分には人としての魅力がないわけではないのかもしれないし、 知識がなくても、うまく話せなくても、聴く力を大事にしていけばいいのかもしれない。 忘れることがあっても、わからないことがあっても、大丈夫かもしれないよと。 「それでもいいのかもしれない」「そうなっていけるよ」など断定的な言葉ではなところで、少しずつ白に近づけていく。 自信がないと言っている黒パターンのケアの途中、 パターンの言い分である、『勇気』についてはどうするのか。 ここでまた引っかかりました。 勇気はなくてもいいのかもしれない、でいいと本当の「私」は思えるのか? 自信はなくてもいいのかもしれない、とは思えるけれど、 勇気がないのは、なんか違うように思っている自分がいます(これもパターンではあるが)。 もちろん勇気がないことが悪いこと、ダメなことではないけれど、 今の自分にはとても、かなり、いや、本当にもうこれはずばり、本当の「私」が選択したいもののように感じる。 勇気を持てる自分になっているのかもしれない、 という言葉でケアすることもできます。 ただ、これがちょっと今の自分には違和感があり(なぜならば、そうなってきていないと思っているから)、 どちらかと言えば、「持ちたい」「持っていこう」の方が真逆であるけれどしっくりきます。 自信がなくてもそこそこできることはあるけれど、 勇気がなかったからやれなかったこと、の方がいっぱいあった。 これは、自分の今年の目標に掲げたことでもあり、やはりまた向き合うことになったのだなあと思う・・・ ●自信がない、もだけど、 ●勇気がない、の方が大きいのかもしれないで

懺悔

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         後悔していること、なかったことにしたい過去、人生の汚点・・・ と思うことはたくさんあります。 過去には戻れないけれど、今会うことができたら心から謝りたいと思う人がその出来事の分だけいるのです。 先日、ばったり再会した友人もその一人でした。 当時、ネットワークビジネスなるものに熱をあげていた自分。 こんなに良い商品、使った方がいいよと、 思い出すだけで顔から火が出るほど恥ずかしい。 話すたびに一人、また一人、大事な友人が去って行き、目が覚める。 自分のしたことに気づかされた後もずーっと、重く沈んだ気持ちは消えてはいませんでした。 友人はわたしとの何十年ぶりの再会に、ためらうことなく声をかけてくれました。 懐かしさと同時に当時の思いがすぐによみがえります。 咄嗟にあやまりました。 あのときは、本当に嫌な思いをさせてしまい・・・ごめんなさい・・・ え~何?全然気にしていないよ、と笑っていました。 自分は間違ったことをした、という思い。 ごめんねと言えたときは、 あたらめてその友人への懺悔と、 毅然とした態度であの時断ってくれたこと、 そして今こうして笑ってくれていることへ、感謝しかありませんでした。 謝罪できるチャンスというのは、ある日突然やってくるのですね。 今回のように再会する機会を与えられたなら、ちゃんと本当の「私」で真っ直ぐに謝罪したいです。 ゆるしてもらえなかったとしても、ちゃんと話せる自分でいたい。 そのために、過去をなかったことにしなくていい。 むしろ、こういう自分だから、 素直に話せる人間になるために、 あの恥ずかしい体験でなければだめだったのかもしれないです。

おたがいさま

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母はこの数日いろいろあって、ご機嫌ななめで元気がありませんでした。 こういう時は、気分転換にドライブがいいとわかっていたのですが、 自分としては今日の休みは、いろいろやることがあったので、 正直あまり乗り気ではなく・・・ それでも、母からの電話に、 「よし、早めに帰ってくればいいか~」と思い直し出かけることにしました。 昔よく父と行っていた産直までドライブし、そこでお昼ご飯を食べ、新鮮な山菜も買い、 母も少しずつ気持ちが晴れていったようでした。 そして、父とずっと会えていないという話を、スイッチが入ったかように何度も繰り返し話します。 この時点で少し疲れてきた自分。 それでも、自分も父に会いたかったので、 ここから車で30分ほどのホームへ向かうことにしました。 わたしたちを見るやいなや、元気そうな笑顔を見せる父。 ドア越しではありましたが、母が話しかけると何か言いたそうにしていました。 ああ、今日は来れて良かった・・・ これで、わたしの任務は完了だなあと思い時計に目をやると、 げーーーーー、もうこんな時間! 家に戻っていたいと思っていた時間よりもかなり過ぎていました。 ここからさらにスーパーに寄って買い物して帰るとなると、 もう今日は予定していたこと何一つできないと、 そう思った途端に、疲れがどっと出てしまい、 母のオウムのように繰り返す同じ話が、もう聞けなくなってしまいました(イライラ)。 母を元気にしたいと思って出かけたはずだったのに、 自分の都合が悪くなった途端に、立場が逆転です。 早く帰りたいという頭でいっぱいのわたしは、母の話も上の空で、不機嫌丸出し。 母は帰り際、あきらかにわたしをなだめるかのように、 「これ、今日のガソリン代だからね。今日は疲れたでしょう、ありがとうね」 と言ってお金までくれました。 いつも自分が、母のお世話をしているつもりでした。 でも、案外そうでもないのかもしれません。 母がわたしに気を使っていることもたくさんあるんだろうなあ。 お互い様、持ちつ持たれつの関係なんだなあと思う一日でした。

不得意分野

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自分が不得意とするものが二つあります(いやいやもっとあるけど)。 一つパッと浮かぶのは、計算です。 いわゆる算数ですね・・・ 数字に関して恐ろしいまでにセンスがないというか、とにかく数字に弱い。 何がどうなってこうなるの?という感じで、本当に自分には理解不能の分野です。 不動産の仕事をしていた頃、 パパパッと頭で計算してお客様にざっとの金額の話をする先輩をみて、 なんて頭のいい人なんだ・・・と、驚いたのもつかの間、 周りの人たちもみんなそういうことができていてとてもショックでした。 ゆっくり計算したとしても混乱している自分。 物件調査をしたり、お客様に合う不動産を探すこと自体は好きでしたが、 自分にはパパパッと数字をはじき出す、ということがどうしてもできませんでした。 電卓片手に話しながらどんどん数字を出していく人を見ると、魔法使いのように見えてしかたありません。 今でいうLD(学習障害)ではないかと思うほど、 恥かしながら自分でもびっくりするくらい数字に関すること全般が苦手なので、 大人になってからも、結構困ることがたくさんこれまでもありました(家計簿も当然アバウト)。 もう一つは、何かを人前で説明するということ。 論理的に順序立てて物事を説明するということが、なかなかできないのです。 辛うじて、好きなことに対しては理路整然かどうかは置いておいて、 話しの順序もめちゃくちゃで、日本語になっていなくてもいいのであれば話せるかもしれません。 でも、「それ、説明してください」と言われると、 本当にどうしてここから話しはじめるか?と思うようなところから話しだし、 自分にしかわからないような抽象的な表現しか出て来ず、 「なんか~、こんな感じです」 と、どこにも説明らしきものが出てこないで終わるということが多々あります。 そう、どんな感じだったか?という質問ならば、結構答えられるのですが・・・ 自分を観察するに、思考回路の問題ではないかと思います。 論理的な思考回路がないというか、 感性で受け取って終了するというか、感覚的なところでしか受信できないのではないかと思ってしまいます。 ですので、 「ちょっと何言っているのかわからない」「どーいうこと?」 と言われのはいつものことなのです(自分でも何を言っているのか、わからないのですから)。 計算能力がないということと、理論的な話が

母の日と兄

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母の日に、兄は毎年母へお花の贈り物を欠かしません。 何十年もの間忘れることなく、カーネーションをはじめいろいろなお花で楽しませてくれます。 わたしもたまには贈り物をしたいと思い、 サプライズで兄とのZOOMをセッティングしました。 記憶力があやしい母も、前回はたしか一年ほど前だったと思うのですが、 ZOOMのことをしっかり覚えていました。 テレビ電話みたいなやつ・・・と言ったらすぐに、ああ、あれね!とピンときたようです。 一緒に暮らすパートナーと、犬たち2匹も交えて小一時間ほどのおしゃべり。 そのあとは、いつものお蕎麦屋さんに行き、 そこでも母は「今日はお兄ちゃんたちと会えて楽しかったわ~」と何度も何度も言っていました。 喜んでもらえて、わたしも安堵。 わたしが小学生の時、父親の転勤と 兄の高校受験が重なり、兄は一人私たちと離れて生活することになりました。 あのときは、またすぐに一緒に暮らせると思っていたのですが、 そのまま、大学で関東に行ってしまい、 それ以来家族みんなで暮らすことはもうありませんでした。 自分よりは少なくとも一人でがんばって生きてきた時間というものがあり、 厳しかった父のことも考えると弱音もはけず、いろいろ大変だったのではないかと思ってしまいます。 兄が新幹線で上京する日、 わたしは本当にさみしく、悲しく、泣きたい気持ちをぐっと我慢し、 新幹線に乗る寸前まで笑ってふざけあっていたことを思い出します。 母はあのときどんな気持ちでいたでしょうか。 母が「お兄ちゃん」と呼ぶとき、 母にとって兄はいまだ、15歳の少年のままなんじゃないかと思うときがあります。 『笑いのツボ』っていうのでしょうか、そこが兄妹とても似ています。 外出先でツボに入ったもんなら、二人で笑いが止まらなくて大変でした。 生真面目な一方で、物事を深刻にはせず、笑いに変換してしまうところが大好きです。 自分が、決して笑えないような場面でも、なぜか力が抜けてしまうのは兄に似てしまったからで、 笑いを堪えきれないという変な癖のおかげで、もしかしたら助けられてきた部分があるかもと思いました。 母の日の話を書こうと思いながら、 兄の話になってしまった・・・。

転職の次なるもの

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先日、転職をしたという友人と飲みました。 ここ2~3年は久しくゆっくり話す機会もなく、 積もる話にお互いそれぞれに過ごしてきた月日を感じます。 仕事を辞めたと聞いたとき、 あ~しばらくゆっくりできるからいいなあと思いました。 自分だったら、とにかくもう~のんびりしたい・・・ のんびりしたら、次は何をする? いろいろ出てきます。 しかし、出てきたもののほとんどが、時間の問題ではなく、 やろうと思えば今すぐやれることも多いのです(やる気の問題ですな)。 仕事を辞めなければできないこと、と固く思い込んでいたことって、 こんなにあったんだなあと気づかされました。 友人は、そんなわたしとは違い、 ごく自然に常に働いていることがあたり前になっていたのか、 退職を決めるとともに就職活動を開始していました。 履歴書を何十枚と書き、面接ではそれって心折れるよねーって思うこともあり、 娘さんのスーツを借りてとにかくがんばったそう。 その結果、これまでと全く畑違いの職業を選び・・・ これからは創作活動や、ボランティアなどもやってみたいと話していました。 意外な職種に就いたことにおどろきましたが、表情を見ればそれがとてもいい選択であったことがわかります。 辞めるとき、勇気がいった?と聞くと、 ある意味、続けるか辞めるかの自分なりの限界点があったそうです。 これ以上自分に課すことはできない、と感じ、 「あ、もうここからは卒業なんだな」とあっさり思ったそう。 彼女はその職場にとって要のポジションにいましたし、本当によく働いていたことを自分は知っていたので、 突然辞めると言われて、周囲はさぞかし困惑したのではないかと想像に難くないです。 もう次へと進んでいいんだ、もう充分やったと、そんなふうに自分を見ていたようでした。 だからこそ、新しい仕事によって生まれる新しい時間、新しい生活に、 自分のやりたいことが見えてきたのだと思います。 そこには潔さがあります。 本当にご苦労様でした!これからの人生楽しんでいきましょう! と言っている自分はどうなの? ・・・とまたしても、 『自分の目指す在り方』 を考えます。 仕事を辞める辞めない、どちらであっても、自分を貫くことはできるのかもしれません。 ここでなくてもいい(または、ここではない)という感覚と、 ここでこそ学べるという感覚。 今までの価値観を壊し、次

似ていて非なるもの

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『自分がなりたい姿』と『自分の目指す在り方』は、似ていて違うのだと思いました。 一般的には、少し先の未来を考えるとき、 なりたい姿を常に頭に思い描き、それにあったものを身につけ、学び、行動をとっていきないと言われます。 周囲からも見てわかるような姿、暮らしぶりだったりします。 それはそれでいいのだと思います。 でも、どういう在り方でいたいのかというのは、 まったく目には見えない世界、自分の内側の世界での話のような気がします。 自分がそう在りたいと気づくことからはじまり、気づいた瞬間からそれを大事に熟成させていくようなイメージです。 今、自分がなりたい姿をざっくり思うとすれば、 ある程度の健康があって、暮らしにゆとりがあって、 仕事は順調で、周囲からの信頼もある。 そういう人物像が浮かびます。 もっと詳細にいろいろ時間をかけて考えていくと、 もっとこうでああでと、他人からの見え方までも出てきそう。 完璧なまでに理想を思い描きたくなってしまいます。 でも、そんな姿を思い描くほどに、 そこから外れてしまった自分を見ることは、恐ろしく怖い・・・。 なりたい姿を強く細かく想像すればするほど、なってはいけない姿への抵抗も大きくなっていくのです。 (これ、『自分』と言っているのは自分ではなくて『パターン』だからです) では、自分の目指す在り方を考えるとどうなるのか。 もしも思うように体が動かなくなったら、 自分のできるところでがんばって生活していこうとする自分でありたい。 お金がない暮らしをすることになっても、 身近なものに美しさを見出し、日々を楽しめる自分でありたい。 仕事がうまくいかなくなったとしても、試行錯誤を重ねながら、世間の目や常識に捉われず、 好きなことをただただ真摯にやっている自分でありたい。 そして、どんな人間関係があっても、 他人のせいにしない、自分のせいにもしない、自分の内をひたすら見ていける人でありたい・・・ たとえ、そうできないことがあっても、そんな自分をゆるしながら、 自己観察を続けている自分でありたい。 そう思っている『自分』とは、本当の「私」なのだと思います。 だから、そんな在り方を望むのだと思いました。 でも、ちょっと油断すると、すぐにパターンの理想を追いかけてしまおうとしている自分がいます。 そのときは、また立ち止まって・・・ また、深く深く心の

ケアするパターンはどれか

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枕元にノートとペンを用意し、 寝る前や朝起きたときに思う浮かんだことを書いています。 語りかけワークも、出てきたパターンの中から選びやっていました。 でも・・・何だかしっくりこない感覚は何? 今日 カウンセリング(魂の道場) を受けて先生に教わったことは、 やるべきことをちゃんとやっていなかったという、 そもそもやっていたことが違っていたということ。 ノートとペンの問題ではない、もはや。 やるべきことは、 心の引っかかりの自分にとっての『大元のパターン』をケアすることでした。 自分の中で核心をつくもの、大きな思い込み、ずーっと刷り込まれてきたもの、 頑固で信念の強い、本当に見たくないと思っているものに対してです。 「ちゃんとケアできていないという現実を見なさい」 と先生から喝を入れてもらいました。 いつもいつもいつも、自分はどうありたいのか?ということを宇宙から問われています。 あなた、どんなふうに生きたいの? どんなふうに仕事をしたいの? どんな世界に住みたいの? そのための、語りかけを、核心をつくパターンへの語りかけをやっている? そしてまた、自分がこうありたいと思っていたことは、 それこそ「私」ではない、パターンが喜ぶ『ありたい姿』であったことにも気づかされました。 ああ、これってパターンを喜ばせているだけだったんだ。 こんなことにも気がつかない自分はもう最悪だ・・・と思うパターンがまたショックを受けています。 結局、今の状況は、 やっていないに等しかったのだと・・・ バケツの水を頭からかぶったかのように、目が覚めるような思いがしました。