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11月, 2023の投稿を表示しています

プロの仕事

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白髪が年々増えてきて、美容室でカラーをしています。 カレンダーを見ながら予定を立てるのですが、 一つだけ憂鬱なことが・・・ それは、皮膚にカラー剤が付着するときに、 じりじりとしみてしまう、あの痛みです。 そう、しみるというより、痛い・・・ 私は、いつのころかカラー剤やスタイリング剤の匂いに過敏になり、 美容室には行きたいけれど、 あの空間にいるということが結構つらく感じるようになりました。 スタイリング剤はつけなければいいだけなのですが、 カラーリングはそうはいきません。染めたい、しかも明るい色に。 染めない派の人から見れば、 そんなに苦痛なら、やらなきゃいいだけじゃんと思うかもしれませんが、 うーん、それはイヤなんですね~ だからもう、自分の好きな色にするためには、 ひたすら我慢しかなかったのです。 美容師さんも、地肌にオイルを塗ってくれたり、 なるべく肌にふれないぎりぎりのところで施術してくれたりと、 ありがたいほどにいろいろ工夫をしてくれていました。 自分が美容師だったら、 明るい色をオーダーしておきながら、 「しみます!」って顔をしかめる客って、超やりずらいに違いない。 ところが・・・ いつもの私の状態を不憫に思ってくれていたのか、 刺激が弱くてちゃんと染まるものはないか? とずっと探してくれていたのです。 そしてついに・・・ あれ?全然しみない。 いやいや、まったくしみない、ということは無いだろうなあと思ったけれど、 本当にしみません。 目にも地肌にもツーンととしたあの刺激はなく、 しみないし、痛くない!! うそ~~、感動・・・。 カラー剤って、化学薬品ですから、 体にいいものでは当然なくて、そこはそうなんだと思います。 それでもなんとか、不快な思いをしないでおしゃれを楽しんでほしいと、 何かいい方法はないかと考えてくれていた美容師さん。 そして、この方法なら、髪の毛も傷みにくいし苦痛も少ないし色も近い。 私が来店したら試したい!と思っていたそうです。 自分の知らないところで、そんな努力をされていたんだなあと思うと、 本当にうれしかったです(ちょっと泣きそうになった)。 そして、さすが、プロ。 いかにそのお客様の希望を叶えてあげるのか、 少しでもその人のいい感覚(センス)を大切にしながら、 元気にいつまでも美容室に来てほしいと願ってくれているのでしょうか

年季の入った夫婦

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先日、しばらくぶりに父と会って来ました。 もう一年くらい前からでしょうか、 私のことが分からなくなっているような感じがあり・・・ それを実感するのがちょっと悲しくて、 父には会いたいけれど、会いたくないような複雑な気持ちになり、 しばらくホームへの足が遠のいてしまったことがありました。 毎回、どなたですか?的な顔をされると、 私も慣れてきたようでいて、まだやっぱり慣れないです。 (今日は、調子が悪かっただけなんだと思いたい) でも今回は、母を一緒に連れて行ったので、少しだけ期待がありました。 いかにも、母娘で来ました!私はあなたの娘ですよ~ という雰囲気を見た目で出してみたのです。 すると母は、それでも私にピンときていない様子の父に向かって、 「ほら、まーちゃんでしょ!わかるでしょ」と、 こちらが思う以上に父に気合をいれます。 妻ってすごい・・・ 夫の今の状態がどうであろうと、 夫婦の力関係って不動なんですかね。 父は母の言葉に押されて、 わかったふりをしているような感じになって、とりあえずうなづいていました。 絶対、わかっていない・・・ お父さん、いいよ、無理しなくて・・・ と思う私のそばで、まだ母は容赦なく父にげきを飛ばす。 そんな年季の入った夫婦の姿を見ていると、 逆に父を励ましてあげたくなりました。 一緒に暮らしていたころの、 母の強引さにいつも負ける(負けてあげる)優しい父が今もここにいます。 父が自分を見ても名前を言わなくなったり、 顔をじーっと見た後にそっぽを向いたり、 いろいろショックにはショックだったのですが、 それでも思ったよりは、自分自身がこういう事態によく適応しているなと感じます。 もっと、泣き狂うとか、現実が受け入れられないかと思っていましたが、 そうでもなかったです。 これは、今までもうたくさんパターンへの語りかけをしてきた賜物だと思いました。 父は、歯が結構無くなってしまったので(年を取ると歯って抜けるんですね)、 あまり食べれなくなったということもあり、 しばらく見ないうちにまた痩せて小さくなっていました。 でも、それ以外は、顔色はとてもよく、心は穏やかそうに見えました。 そして、何と表現したらいいのか・・・ とても幸せそうな、仏様のような顔をしているなあと(耳たぶもでかいし)。 手をにぎると、 私の手がとても温かったからなのか、 び

自由なあり方

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子育てでのあり方、妻としてのあり方、仕事でのあり方など、 その時によって行動としては違うものがあるかもしれませんが、 でも大もとのところは、 パターンではなく本当の「私」が選ぶもので生きたいと、自分は思います。 でも、自分のあり方は自分だけのもので、 他人からしてみれば、 それは違うもの、正しくないものだったりします。 人によってどうありたいか?という問いの答えは、自由なんだと思います。 表現方法は違えど、「パターン」と「私」を分離させ、 何かのきっかけがあって、自分の真のあり方を考えるようになる人もいると思います。 どうしてもパターンって引き寄せるエネルギーが強力なため、 それとは思わず、パターンがこうしたいということを、 本当の自分の生き方のように思ってしまうことがあります。 そうした方が自分は幸せ、それが無難、今までもそれでやってきたんだ。 だからこれからも、これでいい・・・ というような過去の自分の延長で、思いこみをもってしまうこともあります。 そういうものを見てしまうと、 自分自身が少しざわざわしてくるのがわかります。 何のざわざわか・・・? きっとこの人の本音は違うところにあるのではないかと感じるとき、 それをほっとけなくなってしまうような感覚です。 そうじゃないものがあるとか、それは本来のあなたではないとか、 私の心の中はざわめく。 これこそ、自分のパターンなんだと思う。 その人によりよく生きてもらいたい。 こんな風になってほしい、気がついてほしいと思うパターンがあるのだと思いました。 つまりは、自分のあり方が正しく、 あなたのは間違っているということを言っているんですね。 他人が決めた選択を、自分のパターンで見ているんだと思いました。 それは、相手ではなく、自分が自分を見失っている状態ともいえます。 自分と天をつなぐパイプの中に、他人を入れているのです。 おそらく、幸せになってほしいと思うような相手であるからこそ、 自分のパターンが発動してしまうのだと思いますが(どうでもいい相手では、たぶんならない)、 それは結局、自分のエゴに過ぎないので、 かえって相手の進む道を妨害しているようなものだと思いました。 どんなあり方であっても、その人であって私ではないのだから、 何一つ関われるものではないだと思います。 ただただ自分の意識だけを、自分にとっていい感覚

ひとときの時間

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今日の勉強会は、 『簡潔に話すこと』につながるワークをしました。 Kちゃんが外で習ってきたことを私たちに教えてくれたのですが、 いつもと趣向が違ってとても新鮮でした。 勉強会のあとは、FさんとK子さんとでランチ。 私は、この一か月いろいろあった話を聴いてもらいたかったので、 ランチに行く!となっただけで、 散歩に行くと言われてしっぽが全開になる犬のようになっていました。 道場のセミナーでもそうなのですが、 本題の後のお食事時間というのが、毎回楽しみで好きなんですね。 その続きの話や、そのときにしか出ない話、ときにプチセミナー的な内容もあったり。 今日は、最近の心身の変化や、今悩んでいることに対してどうありたいのか、 また、相手への自分が持つパターンなどの話をしました。 これらの話って、いわゆる世間話とはちょっと違います。 悩みごとの相談とも違うし、他人の愚痴でももちろんないし、 きれいごとでも、自分を責める話でもない。 起きた事に対しての、自分の感情を素直に正直に話している・・・感じです。 これは、あたり前のようでいて、あたり前ではないのだと思いました。 普段も、人に気持ちを伝えることってありますが、 相手にそれを言うことによって、 本当は相手に変わってほしいとか、何か返してほしいとか、 また逆に自分を卑下してそれを否定してほしいとかいう気持ちが混じります。 でもそういうものが混じらない、 話す動機に不純なものがないと言ったらいいでしょうか、それがあたり前ではないと感じたのです。 いいも悪いもなく、そのまんま思ったことを言い、 それを聞いて、そうなんだ~と今の状態のその人を見る。 その感じが、なんだかとても楽で自然で、そして特別なことだと感じました。 そして、みんなも自分も、 それぞれの課題に向かってがんばっているんだなあ・・・と。 私自身、話していると、頭の中が少し整理されていく感じがありました。 また、いろいろ緊張した体験も口にしてみると、 自分がいかにおかしいことをやっていたんだろうと笑えていました。 ほんのひとときですが、力をもらったり与えたり、そういうものが通う時間だったように思います。 お互いに切磋琢磨しながら(←この言葉がぴったり) また次へ進んでいきます。

深いところにいるパターン

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自分の感情(気持ち)はわかっても、 その引っかかるパターンが、どういうものなのか。 よーく観察しないとわからないときがあります。 いくつか、該当しそうなものを出し、 こんな感じかなと、それに語りかけをしますが、 しっくりきていないことがあります。 少し時間がたってもう一度みていく。 なぜ不快になったのか、悲しくなったのか、つらくなったのか。 どうしてそう思ったの? どういうところが嫌だった? すると、今起きていることに対しての表面的な部分ではなく、 もうずっと前から、そこには触れられずにいたパターンがありました。 触れられていない、気づいてもらっていない。 だから、かたちを変えて現れていた。 パターンにしてみれば、ずっと気がついてもらえないということは、 どれだけ深く傷ついていることか・・・ その深い傷を思うとき、 再び感情があふれ、涙が出ました。 そして、あなたをひとりぼっちにしてきてごめんなさいと、 本当にパターンに対して申し訳ない気持ちと、 もうこれからは「私」がちゃんと守っていくから大丈夫だよと、 温かくやさしく抱きしめ、 「私」がちゃんと守っていくと伝えました。 おびえている小さな子ども。 言葉が出なくて、無表情で固まっている。 そんなパターンがいました。 深いところでずっと黙っているパターン。 さわぐパターンばかりではなかったのです。 そういう我慢しているパターンもあるんだと思いました。 だからこそ、怒りも悲しみも深く、複雑になっていたのかもしれません。 やっとそこに目を向けられた・・・よかった。 感情があるからこそ気づくことができます。 どんな感情もあっていい、というのはそういうことなんだと思いました。 感情があって、パターンを見つけられて、 本当にあなたがいてくれてありがとう・・・です。

腹を立ててほしい

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自分だったら腹を立てて怒るようなことを、 どういうわけか怒らない人っています。 そういうとき、 え~嘘だ~、そんなはずはない・・・と疑ってしまいます。 言葉や表情、態度から、全然怒っているようには見えないその姿をみて、 今自分に起きている感情って何なんだろうと考えました。 まず、怒っていない(そう見えない)理由は3つほど。 ①自分にはあるパターンがその人にはないから。 ②本当は腹を立てているけれど、平気なふりをしているから。 ③腹の立て方(表現方法)が違う。 このうち①だけは、腹が立っていないということなんですがー 自分が何とも思わないことを、他人は腹を立てているというのは、 よくあることだし、許せるものなのですが、 その逆は、どうも引っかかります。 自分が怒るようなことは、他の人にも怒ってほしいんですね。 できれば、自分以上に・・・ どうしてかと問えば、 怒りの感情は人として、レベルが低いと思っているからです(←これ、自分のパターン)。 すぐ腹を立てるというのは、子どもっぽいし、 人間ができていないような、修行が足りないような、 浅はかな人間のようにパターンは思っているんだと思います。 そんな人間で自分があってほしくないのです。 もっと、客観的で冷静で、落ち着きがあって、 ちょっとのことでは感情的にはならない。 そんな、できた人になりたいのですね、パターンは。 だから、目の前の他人には、せめて自分よりも劣っていてほしいのだ。 小さなことでも腹を立てたり、感情的になったり、取り乱してほしい・・・ そういう人を見たらきっとパターンは、 ほっとして、安心して、優越感に浸って、 自分ってすごい!って思うのかもしれません。 ここまで書くと、なんだかとても恥ずかしい気持ちになります。 もういいわ~・・・って思う。 でも、こういう恥ずかしいという感情がわくまでは、 パターンは真剣になって、腹を立てない相手の謎を解こうと、 自分を観察せずに他人ばかり見てしまうのでしょう。 以前、黒パターンが叶えたいこと(相手から言ってほしいこと)をとことん書いてみる、 ということをやったことがありました。 自分に言ってほしい言葉(台詞)をずらっと並べ、 実際に声に出して言ってもらうのです。 そうするとはじめは、たっぷりとパターンにとっての安心感と優越感に浸っていたりするのですが、 すぐに、もうい

したいことを決める

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先日受けたカウンセリングで、 「どんなチャンスも見逃さないように」 と言われたことが心に残っています。 チャンスとは、何か大きな夢みたいなものだけでなく、 自分が今したいと思っているちょっとしたことも対象です。 それらは、チャンスだと明らかにわかりやすいものとそうではないものとがありますが、 少し強引かもしれないけれど、 自分のためになる可能性があるものは、すべてそうなのかなと思いました。 そう思うことに慣れてくると、 不思議に今自分がしたいと思っていることへ、 つながるようなことが多く起きてきます。 逆に今不要なものというのもわかってくる感じがあり、 そぎ落とされていくような、 限定されたところに意識が向かうような感覚もあります。 したいことが決まると、 全身がアンテナになって、そこへ向かっていくんですね。 自分の口から発する言葉も、 何も知らない他人との会話もそうですし、 家族も心なしか、なんだか協力的なようにも感じたり、 見えてくるものも、今までと違ったものに目が向いたりします。 意識を向けるというのは、こういうことなのか? 今朝は一気に冷え込みまして、 盛岡はとうとう初雪が降りました。 急に冬がやってきたことを感じ、 その準備が整えば、あっという間にやってくるものなんだと思いました。 そして、来てしまえば、もうそういうモードに入る。 チャンスもそんな感じなんだと思います。

【ミステリと言う勿れ】とパターン

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菅田将暉さん主演【ミステリと言う勿れ】観てきました。 少しネタバレになってしまったら、すみません・・・ あ、これ、パターンのことだと思ったセリフがあったのです。 「子どもは、乾く前のセメントのようだからー」 心無い大人たちからの言葉、 決めつけや押しつけ、お前も大人になったらこうなる的なことを言われたら、 それはそのまま、その子の心の中にとどまり、 セメントのように固まってしまうということ。 乾いてしまったセメントはどうやっても壊れず、 そのまま大人になって、そういう自分になっていくんだと・・・ でも、この心無い言葉は、自分の中から創られたものではなく、 自分が外から刷り込んでしまったものなので、 どうにでも選び変えることができるのです。 このからくりに気づけるのかどうかで、 この先の人生の小さな選択一つ一つが変わっていくのですね。 映画では、主人公が呪縛に苦しむ高校生の女の子にさとしていました。 「君はまだ、子どもだから大丈夫だよ」 まだ、大人になっていないから、 セメントは乾ききっていないから間に合うんだよと、 教えたかったのだと思います。 大人になってしまっても、 それに気づいた時からでも、全然遅くはない。 充分間に合うのだと、映画を観ながら心の中で思いました。 もう固まってしまった考え方や信念は変えられない、 自分の人生はもう変えられないんだ、 と思う必要はないのです。 大人が、子どもに与える影響というのは計り知れず、 大きな傷を残すことがありますが、 でも、そこに自分が居続けたいと思うのかどうかの選択は、 誰にでも平等に与えられています。 そのことを実感するために、 パターンを知るという一つの方法があるのですね。 他にも何か違う方法があったり、 それを知らずとも、自分の人生を歩いていける人もいるのかもしれませんが、 今の私は、この方法がとてもしっくりきている。 そういうことなんだなあと思いました。 この映画、すごくおもしろかったと言っている人が多いのですが、 しばらく観ようかどうか迷ったのは、 犬神家の一族的なシーンがあったらどうしよう・・・って思ったのです。 そういう怖さはめっぽうダメなのです。 でも、違う怖さとおもしろさでよかった。 一ツ橋 如水会館

違った景色を見たい

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自分の殻を破ろう・・・と思うとき、 それを叶える方法として(簡単ではないかもしれないが)、 今までとは違う選択、違う行動をとってみるといいです。 いつもなら、こういう選択は自分はしないというものを、 あえてやってみるのです。 殻を破ってどうなりたいのか?というと、 今までと違った景色が見たいのかもしれません。 今まで感じられなかったものを、感じてみたいのです。 そういう好奇心が自分にはあります。 それで、いざ、いつもと違った選択、 苦手なことや、やりたくないこと、やったことがないことをしてみる。 そこで何が起こるかといえば、 意外にも、あ、こんな感じなんだ・・・ と、かなり拍子抜けするほど、 もうすでに過ぎ去ったものになっているんですね。 もうこの先どうなっていくのか? ということはどうでもよくなってしまうような、 もう次に進んでいるような・・・そういう感じがあります。 どんな人も、 こんなふうなことを大なり小なり繰り返しながら、 これまでやってきたんだと思います。 子どもの頃は、その展開がとても早く、 成長のスピードもめざましかったと思う。 でも、大人になるとどういうわけか、 展開は遅いどころか、 停止してしまっているかのように感じてしまうこともあります。 なんだか全然成長していないし、変わっていない・・・と。 それで大人は、 子どもよりも意識的にこの体を使って、 行動するということをやっていった方がいいのかもしれない、と思いました。 その結果を期待せずに、思い描かずに、 今をたのしむような感じで子どものようにやれたらいい。 そうやって一つのいい体験が、また次のいいものを呼びよせ、 そして、結果が付いてくるときもあるし、 ないものもある(時間を経過してくるときもあり)。 だから、プロセスに重きを置く。 違う景色というのは、この過程でもう見れているんだと思います。 皇居のお堀 まるで鏡!

審美眼

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ずっと気になっていた 茅ヶ崎美術館 。 8月に行ったときは時間がなく、建物の入り口までだったのですが、 今回はちょうど『小津安二郎の審美眼』が開期中で観てきました。 美術館にたどりつくまでの、 高砂緑地と呼ばれるお庭が、なんとも気持ちのいい場所となっています。 茅ヶ崎駅から海までの途中、このあたりに名前の通り砂地があったそうで、 足元の土には砂が混ざって名残がありました。 さて、小津安二郎監督の映画『東京物語』は観たことがありますが、 それ以外は何にも知らないので、 タイトルにある、審美眼ってなんだ?? と思って入りました・・・が、 なんと、なんと、 私にとってはちょっと感動的な出会いとなりました。 映画で使われたものが展示されていたのですが、 その味のある素晴らしいものたちに釘づけになります。 生活品や小道具、絵画など、そこに意味なくおいているものなど無いのです。 例えば、ちゃぶ台の上においてある湯吞一つとっても、 小津さんの民藝を愛するこだわりがつまっていて、 生活の中の美に、なんともいえない品を感じます。 この、ちょっとしか映らないものの色と形を映画の構図と合わせているんですね。 俳優の衣装も、役柄の性格に映えるものを考えたり、 それぞれの小道具に、物語の内容、 そのセリフにふさわしいものを随所にちりばめるというすごさ。 民藝館に展示されていてもおかしくないような逸品が、 さりげなく映画のワンシーンに起用され、 時にほっこり、時にきりっと締まるような感じがありました。 「芸術のことは自分に従う」 と言った監督の感性。 とてもよくわかるような気がします。 映画のワンシーンで映った、茅ヶ崎海岸のモノクロ写真もありました。 当時はまったく何もないただの砂浜で・・・ 美術館の高砂緑地と景色がつながり、 今見えているもののうしろに、昔の自然豊かな茅ヶ崎を想像しました。 海岸まで続く道のりも、さぞかし美しかったんだろうなあ。 そう言えばよくカウンセリングの先生が、 そこに美しさがあるかどうかで話されていることがあります。 審美眼って、見た目的なものだけではないし、 あり方というところにも感じられるのかもしれません。 そういう感覚を何にでも持つことが、自分はとても安らぎを感じて好きです。 芸術を堪能したあとは~ 館内の陽当たりのいいカフェでランチをしました。 野菜がびっくり

学ぶ姿勢、学ぶ動機

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学ぶことについて、中立ワーク(意味付け)をしてみます。 +プラスは、 成長する・生きやすくなる・人生をおうかできる・可能性が広がる・希望・楽しさ・おもしろさ・知識が増す・自分が磨かれる・自分を知る -マイナスは、 頭でっかちになる・なった気になる・思考に偏る・行動が伴わなくなる・慎重になりすぎる・プライドが高くなる・それ以外を否定する そして、中立(中庸)にあるものは、 学ぶというただ一つの体験です。 学ぶことが好きな自分ですが、 その動機の中に、 ⚫︎学ばなければ生きていけない というパターンを見つけました。 なぜならば、 自分は何の才能もないし、 学んでいるからこそやっと生きていられているし、 学ばなければ、何かつらいことがあったとき自分は乗り越えられない。 ってパターンは思っているんです。 だから学ばないというのは、あり得ないこと。 そしてある意味、学ぶことで安心を得たいと思っているのかもしれません。 このパターン、今回Mさんのカウンセリングを受けるまで、 ちょっと気づけなかったかもしれません。 茅ヶ崎、東京と、道場で学ぶ仲間たちと、 この2日間でいろいろなお話しができました。 このパターンのように一人では気づけなかったものがあったり、 核心にふれて胸がじーんときたり、 あまりの真剣さに笑えたり・・・ 自分はこういう時間がなによりも楽しいのだと思います。 でも、その学び方というか実践のしかたは人それぞれで、 何を思って感じてそこへ向かうのか・・・ 自分の弱い部分や、恐怖と不安があることを許しながらも、 その反対側にあるものを意識してやっているんだなあと感じました。 自分と向き合うというのは、 白パターンで取り組むことが一番大事なことかもしれません。 そして、学ぶ動機がどこにあるか、常にそこです。 いつもカウンセリングの先生や、他人から何か学びたいと思うとき、 あらゆる場面で、これってこういうことかな? とその意味を考えるクセが自分にはあるようにも思いました。 仲間のMさんから言われて、ハッとしたのですが、 その人の『ただある一つの体験』として捉えずに、 何かすごくいちいち意味を持たせ、複雑に思考していたんだと思いました。 そこから感じることより、そこから考える、考える・・・ ということを結構やっていたんです。 先ほどの中立ワークのように、プラスとマイナスはたし