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雨ニモマケズ

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岩手の偉人 宮沢賢治の 『雨ニモマケズ』 おそらくみなさんも、学生のころに一度は音読したり、 暗唱したりしているのではないでしょうか。 この作品は、宮沢賢治そのものだと言われ、 賢治さんは、病床でこの作品を書き、37歳でこの世を去りました。 詩の最後のところで、 みんなにでくのぼうとよばれ、 ほめられもせず、 苦にもされず、 そういう人にわたしはなりたい。 と、言っているのです。 この詩を今あらためて読むと、 ほ・め・ら・れ・も・せ・ず というところが、本当に本当にすごいなあと思います。 人助けをがんばってやっているとか、 人の上に立って何かを教えているとか、 みんなから賢治さん賢治さんと求められたとか、そういうことではなく。 人のためにしていることばかりなのに(結果的に)、 褒められなくてもいい、ってどういうことなのか? しまいには、 みんなから『でくのぼう』と呼ばれたいって・・・ こんなに役に立っているのにですよ。 他人と関わって生きてはいるものの、 どこか、他人が出てこない、 他人の世界にはいない感じがするのは、なぜか。 そして、自分すらも・・・ない。 賢治さんじゃないですけど、 そういう人になりたいです。 というよりも、 そういう人になれない自分であっても、いい。 と思える人になりたい。

わかってもらおう!というのは違う

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今まで、自分の中にあった黒パターン ●わかってもらいたい、というパターンをケアしていった先に、 〇わかってもらわなくてもいい、という究極の選び替えがあります。 そこにたどり着いてはいませんが、 もうこのこだわりから自由になろう! というものを選択することがあります。 でも、そもそも、 わかってもらおう!というのは、違うんだよと、 カウンセリングの先生からずばり言われ・・・ 胸にじわじわと悲しみが込みあげてきました。 なぜ、こんなに悲しいのか? パターンの言い分としては、 わかってほしいことのなにが悪いの? わたし、こんなに頑張っているのに・・・ わかってくれないなんて、おかしいでしょう! わかってもらうことが、あたり前なことなんだと、 パターンは思い泣いているのです。 わかってもらうだけでなく、 認められる、ほめられる、注目される、大事にされる、というのは、 自分の人生の中で(特に幼少期)、 ごく自然なこととして、親が私へしてくれていたことでした。 自分にとってのそれは『あたりまえ』だったのです。 だから、そうはならない、自分にそうしてくれない人がいると、 え、なんで、そんな反応になるの? と疑問が先にわくのです。 可愛がってもらったから、 褒められて育ったから、 両親はわかってくれるという安心の中にいたから・・・ だから、大人になってパターンがさわがない。 ということではないということ。 あたり前にあったものが、 与えられなくなったことへの悲しみ。 そして、さみしさ、怒り、憎しみへとつづく。 今の両親へそれを求めてはいないつもりでしたが、 もしかしたら、まだ年老いた両親へ、 さらに、自分(パターン)の望む他人へ、 その安らぎの世界を求めていたのかもしれません。 パターンの望むようにはならないということを、 もうあきらめる時期にきているのでしょう。 でも、それをはっきりと認める勇気がない。 わかってもらうということ、それ自体が本来『違う』のです。 現実をしっかり見なさいと言われたような、 そんなパターンの寂しさを感じました。 これからは、相手も、自分自身も、 自由になって、一人でも大丈夫やっていかれると、前を向きたい。 そういうカードを、少しでも多く選びたいです。

安心と執着

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安心できる場所があるということは、 いいこと・・・だと、思うのですがー だんだんとその安心できる場所というものに慣れていくと、 そこ以外では安心できない、という不安も出てきます。 また、それに慣れ過ぎて、 なにか自分を見失っていくような感じもします。 安心というのは、 そういう意味では、とても不確かなものかもしれません。 安心できないと感じるのは、 自分が否定される、傷つけられる、孤立する、非難される、 雑に扱われる、無視される、等々・・・ すべて、他人からなにかされて、自分がどうにかなってしまう、 という恐怖心なのだと思います。 そんなことをされたらどうしようって、 安心が得られないということは、 そんな状態の自分自身が怖いのです。 だけど、自分がそう感じても、 起きていることは、少し違うような気もします。 それは、そうされた(不安になった)と思う時点で、 そうなるにふさわしい自分を、わざわざ演じてしまっていた。 ということがあるからです。  傷ついた人間として、 その後も、傷ついた人間らしく、行動をとってしまうというものです。 一度、そう自分で決めた(傷つけられたと決めた)ものを、 簡単には変えられない、という流れにのっている。 作りだしているのだと思いました。 それくらい、負(マイナス)の考えや言動って、 その後も続けて負(マイナス)に引っ張られやすいのだと思います。 しかも、簡単に、強力に! この引っ張られる力は、 正(プラス)のものよりも、強い気がします。 だから、安心を求めてしまうのかもしれませんが、 その安心(例えば、傷つきたくない)というものを求めすぎると、 結局は、不安を広げていくことと同じことをしているような感覚に陥るのです。 自分らしくいられることの安心感が、 自分らしくいられないことへの不安を大きくしているような・・・ 何かを求めていくというのは、 そうならないようにしたい!という思いも強くなることでもある。 希望を持っていこうとする間はいいけれど、 そこになんとしてもたどりつきたい、そこに居続けたい、 という感じになってしまうと(←非常に無意識だから気づきにくい)、 何か違うなあ・・・と、 あっという間に執着の世界にいることがあります。 安心と執着って、 まったく別のもののようで、 隣り合わせにあるように感じます。

Happy Valentine

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自分自身のことを知りたいと思う前に、 「知りたい」のはじまりは、 好きな人のことが知りたい! なのだと思います。 もうすぐバレンタインデーですが、 若い頃って、 結構、相手のことをなにも知らずに想像だけで好きになり(あと外見も)、 本当に、その人の何が「好き」だと思っていたのだろうか? という人、いたのではないでしょうか(私はいたいた)。 ひと目惚れってありますが、 その人がどんな人なのかよく知らなくても、好きになれるんですね。 フィーリングっていうことか? 恋ってそういうものかもしれませんね。 感性だけ! 結局、あなたを知りたい!と思っていたはずが、 知れば知るほど、自分の思い通りの相手であってほしいと願う・・・ そういうエゴのかたまりのような自分がいた。 ということを知るのでした。 そして若い頃は、 自分のことよりも他人を知りたい気持ちの方が、断然上回っていたので、 自分のことは全然わからなくても、 なんとも思わなかったような気がします。 他人の気持ちさえ知ることができれば、 この世の悩みは、なんとかなるような気がしていたのです。 そして、大人になって~ 相手の気持ちを知ったとしても、 何かそれだけでは物事が解決しないものがあって、 その人のことは大体わかった(つもりだ)けれど、 自分の気持ちが、心が、なんだか晴れない。 ということを経験して、 他人より、自分を観察、自答自問するようになっていった気がします。 そしてようやく、 やはり他人がどうこうではなく、自分はどうか? なんだなあって。 自分って一体なんなの? と思うようになるのかもしれません。 ここ数年、 バレンタインにチョコレートを誰にも渡していなかったことに気づきました! 今年は、夫と娘に。日頃の感謝を込めて。 そして、最近元気のない方へも。 ちょっと甘いものでも食べて一息ついてほしいなあ という願いを込めて渡そうと思います。 これは、 相手に喜んでほしいとか、 どう思われるかなとかではなく・・・ 自分が今一番「いつも、お疲れ様!」と言いたい人なのです。 気にかける人がいる(贈りたいと思う人がいる)って幸せです。

自分の中にいない

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今日は、はじめての感覚を体験している話。 自分の中にある根深いパターンの代表的なものに、 「○○さんが嫌い」 というものがあります。 この○○さんというのは、ときに変わることもありますが、 ほぼ同じ人のケアを何年もしてきたという、私の長~い歴史があります。 嫌いな人がいるって、 カウンセラーを名乗っている者が、そんなことでいいのか? と思うこともありました。 でも、嫌いなものは嫌い、苦手、憎い。 と思っているパターンが、 そう思わないパターンよりも、いつも勝っているのです。 しかも、いつまでたっても○○さんが嫌いなままの自分が嫌い。 とも思っているのです。 パターンを嫌うパターンがある。 という複雑な自分なのです。 これら2つのパターンを、繰り返しケアしてきましたが、 あまり感情がひっかからない日もあれば、 本当にもう無理ーーーー! と泣きながら、嫌悪感と絶望感を味わう日もある。 そうやって、ここ数年はやっと、 まあ、嫌いなのはしょうがなんだから、 もう無理しなくてもいいよ・・・ っていう、嫌いという感情がわく自分自身を、 少しはゆるせるようになってきた。 ところが、 このだいぶやわらいできた心と、バランス感覚は、 最近さらにまた変化してきました。 それは意外にも、 自分からその方へ、感謝の言葉を発したことで、はじまった気がします。 その言葉は、とてもうっかりしたものだったのです。 私としたことが、こんな嫌な人に対して、 なんて素直なことしているんだろ? もうずいぶんと久しく出会えていなかった、 素直な自分。 (内容はちょっと割愛させていただきますがー) そう、本来の「私」であれば、いつだって素直なんです。 本当はそうしたかった、ずっとそうありたかったのだと思いました。 つまり、 「私」で生きていないことが(黒パターンだけで生きることが)、 本当に苦しかったと思うし、 もうこれは味わいつくしてきたのだと感じました。 ここから逃れたいというよりは、 違う世界をつくりたい・・・という感じに近いかもしれません。 この体験から、 自分の中から、その人がいなくなっていくような感じがあります。 頭の中にも、心の中にも、 どの五感にもあまり触れてこないような感覚。 今まで自分が見て聞いて、感じてきたものは、一体なんだったんだ。 見ていたのは、何を見ていた? 聞いていたのは、何を聞

MORIOKAに便乗

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  おかげさまで、合同セミナーの最後の1枠が決まり、申込終了となりました。 今月中に一度、途中経過のご連絡を事務局からいたしますので、 いましばらくお待ちくださいね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ その盛岡の今週ですが・・・ どか雪、降りました!! その日私は、職場の駐車場に、 雪に埋没して見えなくなった車にたどり着くまで、雪かき30分。 酸欠になりながら、やっとエンジンをかけ、脱出したものの・・・ 速攻で、雪にはまりました。泣 近くで同じように雪かきをしていた見知らぬ方々から、 「大丈夫ですか?押しますよ!」 車を押してもらい無事帰ることができました。 こういうとき、本当に人の温かさに胸打たれます(神、仏に見えた)。 雪が降ると、運転も慎重になり、 お互いがアイコンタクトで道幅を見てよけあったり、 渋滞であっても列に入れてくれたり、 おたがいさまの、やさしい運転をしている人が目立ちます。 道路は混みますが、ゆっくり時間が流れるのもいいなあと思ったりします。 私は、最近はもう、出勤がいつもより倍時間がかかることを覚悟して、 朝はクラシック音楽を車内で聞く時間としています。 大好きなボレロや、バッハの曲を流し、渋滞ゆえのしばしの至福時間ですね。 冬は痛いくらいの寒さと、雪で、水道も道路も凍り、 いかにも住みにくそうな街「盛岡」ですが、 先日NYタイムス紙に、2023年行くべき52か所に、 なんと第2位で選ばれた「MORIOKA」。←盛岡市民みんな、びっくりしたと思う! ここで、ちょっとだけ盛岡市の紹介を・・・ 盛岡は人口約30万都市。 山に囲まれた盆地に位置します。 個人経営のお店が多く、文化財指定の建造物や古いホテルや旅館も多い。 『混雑なく歩けて、普段暮らしにちょうどいい街』なのだそうです。 城下町から眺める岩手山や、四季をたのしめる岩手城跡公園など癒しのスポットもあります。 春は老木の石割桜が開花すると、 今年もがんばって咲いてくれたとほっこりしてしまいます。 さんさ踊りの夏は、太鼓の音があちこちから聞こえ、 秋には橋の上から、鮭がのぼってくる川を見下ろし、 冬の空を見あげれば、白鳥たちの真っ白なおなかに出会えます。 盛岡駅前の焼肉盛楼閣が入っているビルのCM ↑こちらのCMを見ると、なぜか涙腺がゆるむ また、めずらしいところでは、 一人あたりの書籍購入