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10月, 2022の投稿を表示しています

一緒にご飯を食べたいということ

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一緒にご飯を食べると、ちょっとだけその人との距離が縮まることがあります。 普段よく会っているような人であっても、 お腹が空いてご飯を食べる・・・という本能的なひとときを共に過ごすことで、 (そのご飯が美味しければなおのこと)それだけで少し嬉しいような、ほっとするような気持ちになります。 できればそんな気持ちにその人となりたくて、自分は誘ったのかもしれません。 じゃあどうして、そんな気持ちになりたかったのか(相手にもなってほしかったのか)? という理由をみていきます。 何となく、最近、ちゃんと話しをしていないなあ あのとき何を考えていたのかなあ 楽しく、仲のいい関係でいたいなあ そして、たどり着いたところは、自分はどう思われているんだろう・・・ つまるところは、●よく思われたい、という小さなパターンがくすぶっていたんだと思いました。 そのパターンを満たしたいために、自分は声をかけたんだと。 ですが、その自分の中にある黒パターンに気づいてしまうと、 たちまち心は落ち着きを取り戻したかのように、その後の選択肢が変わっていきます。 相手がどんなことを考えていたのか、ただただ知りたい、聴いてみたい、だけに転換されるのです。 そこでもしも、わからないことや、不安に思っていることがあったら、 自分が答えられる事であれば答えたいと思いました。 それは、自分にもその人が感じているであろうことへの葛藤が、 同様の経験があるために、少しわかるような気がしていたからです。 自分にも似たような経験があり、そのときの自分が思っていたことと、 その人の思っていたことはどう違うのか。 もしも、自分が想像できなかったような考えであったら、その考えはどこからくるのか。 純粋にそこから学びたいということへ、変わっていった感じがありました。 これは、完全に自分のために・・・なんだな、と思う。 自分がどう思われているか?というパターンが小さくなっていくと、 自分自身の話す内容もまったく違ったものになっていきます。 もうパターンを満たすためにがんばらなくてもいいので、 ゆっくりとご飯を噛みしめながら、 そして、出てきた話もかみしめながら、それに反応して答える自分は、 言葉足らずなところもあったけれど、とても自然な自分であると思いました。 そして、相手の話から、さらにまだ気がついていなかった、他のパターンも見つ

写経のように

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先日、書道の先生Yさんのご指導のもと、勉強会で写経をしました。 本来は、何か祈りたいことがあって、それを願いながら108枚書いていくのだそうです。 時間の制限があって数行しか書けませんでしたが、 残りはぜひ週末に小筆を準備して完成させたいと思いました。 とても集中した時間。 何十年ぶりで小筆を持った手は震えに震え、思うように書けませんでしたが、 行を追うごとに、少しずつ心は落ち着き、はらう、とめる、はねる、真っ直ぐひく、などなど、 小筆の良さが出てくるようになりました。 はじめはボールペンで書こうとしていたわたしですが、 Yさんから勧められた通り、筆で書いて良かったです。 このどうにも扱いにくく、何一つ思うように書けない段階から、 ほんの少しずつですが、筆が持ちやすくなり、文字の一部分が2回目よりは3回目、というように、 形が整い出すと、とても気持ちよく、心も整っていく感触がありました。 今日は、この写経のように、 どうか○○なりますように・・・と祈りたい心境のことがありました。 まさに一文字一文字を震えながら書いたあの緊張感と同じだったのです。 自分で話しながら、自信がなくてもうまく話せなくても、 まずは何とかこの緊張しっぱなしの自分のままでやってみる。 そう決めて、その通りやれたということに、自分でも少し驚きました。 そして、緊張や怖さとともにいることは、そんなに悪いことではないんだなと思いました。 写経のように、下手なりにもやってみるということが大事なんだと・・・。 ここで満足せず、精進していきたいです。          なぞっているので、それなりには見える・・・

問題の解決

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問題の解決に向かっていろいろ手を尽くしたときに、 もう何もやることが無い・・・という静まりかえる瞬間があります。 あれだけ悩み、何度も心の内を確認して人と対話を重ね、 それでもどうしようもない(良いと思える方向に進まない)ということがある。 この心の静けさを感じると、 もう流れに身を任せようという気持ちにやっとなる。 自分が意図しないような、想像の範ちゅうを越えているものが、 これを動かしているんだと考えた方が何だか落ち着くので、 もう手放してみようと思うのだと思います。 特に他人の問題に関わっているときはなおさらです。 自分の責任があったとしても、 主役はその人なので、自分が脇役として登場するにふさわしくないと、 舞台から降ろされ・・・あとは自分の出番を待つだけ。 本当はもっと早くに気づけることもあったと思うけれど、 いろいろ手を尽くすという体験が、 自分には必要だったんだということも何となくわかります。 この人とこういう対話が必要だったんだとか、 今まで見えていなかった一面を見せられて、 自分の思考パターンがこの人はこういう人と決めつけていたふしがあったんだなあとか。 結果として、そういう思考がいろいろじゃまをしていたんだなと思いました。 そうやって気づかされて、やっと心は静まるんだと。 これはこの問題がマイナスでもプラスでもない、 ただ、それぞれの立場で「そうしたい」というだけのこと。 中立に立ってみるとわかるような気がします。 時間をかけて、いろいろ動いて、感じて、悩んで、考えて行動を重ね、また感じてみる。 ここまでやって気がつく。 問題を大きくしてしまったのかもしれないという思いと、 ここまでしないと自分は気づけなかったんだなと、またそういう自分を知る。 静けさの中で、大きな作品を見ていているような、 一連の出来事をやっと客観的に見れたような、 これをしているのが、本当の「私」なんだと思います。

夢の中での黒パターン

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今朝、ああ、夢で良かった~と思い目が覚めました。 内容はちょっとブログではお伝えできませんが、 これがもし現実だったら、おそらく会社を辞めなければならなかったと思うようなこと。 相手にわたしは「あなたのことが大嫌いだから、こういう行動に出ました!」 ってカンカンになって自分が言っているんです。 うお~~~~、なんと真っ黒な自分・・・。 周囲にいた人からすればこれはもう、言われた相手ではなく、言った自分の方を軽蔑すること間違いなしの状況。 冷たい視線が突き刺ささります。 仕事に私情を持ち込むなと言われますが、 この夢を見て、夢で良かったと思う一方で、 私情で仕事をしていない人など、実はいないのではないかと思いました(大なり小なりですが)。 この夢の中の自分ほどではないにせよ、 「はい、そうですね、そうします」 と言っている心の裏側では、全然そう思っていないけれど、そうした方が穏便にいくから従うことを選ぶ。 そこに感情がある限り、選んでいるようでも選びきっていないことがあるのです。 これが、私情を持ち込むということなのかと思いました(目には見えない持込み)。 自分の(パターンの)ケアをしていくと、 そこが、私情を持ちつつも、そうではないもの、本来はこういう気持ちで仕事をしたいというものが勝り、 その気持ちで判断をするとどういう言動を自分はとるのか?と考えます。 はじめに心で感じて、次にどうしたいかの選ぶという意思が働いて、実際どんな言動を取るのかをまた考えるのです。 そしてその言動を取った自分は、最後はどんな気持ちになっているのか(はじめに戻る感じ)感じたものをイメージをする。 私情(感情)の大小はあるにしても、 私情をはさまずに思考だけで選択をすることもできます。 その時は、自分はこうしたいけれど今はこうするんだ、という覚悟が必要。 覚悟なしで黒を選ぶというのは、何よりも自分自身がすごく気持ち悪いものだし、 後悔しやすいものです。 夢から目が覚めてしばらく経って、 あの時、会社を辞めなければならない、とは思ったけれど本当にそうなんだろうかと考えました。 謝るという行動に出ることもできるし(もちろん充分に自分のケアをしてから)、 そんなことがあって信頼が地に落ちた自分を、あえて観察しながらやっていくということもできる(これは結構きついかもしんないが)。 そして、もしも辞

外で日記

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ただいま昼休み時間。 外出して午後の訪問先近くの神社で、お弁当を食べています。 秋晴れが広がり、すごく気持ちがいいです。 赤とんぼも飛び交っていますよ〜 昨日松茸をいただいたので、松茸ご飯を炊いて、そのまま弁当箱に詰めてきました。 おかずはキャベツの千切りと卵焼きだけ。 超シンプル・・・ だけど、外で食べると格別に美味しい! 今年の松茸は香りも味もいいように思います。 たまたま数日、外出がない仕事が続き、家と職場だけの往復の日が続くと、 何か調子が狂うような、 動きたい衝動にかられ、外に出たくなってしまいます(職場の空気が悪いとかいうわけじゃなくても)。 別に仕事してないわけではないのに、 ハコの中にずっといるというのが自分にとって合わないんだな、と思うんです。 小学生のときの通信簿に必ず書かれていた、 「落ちつきがありません」 当時はそれが良い意味なのか、悪い意味なのかわかりませんでしたが、 黙って座っている子のほうが先生としては助かったんだろうなあと、今思ったりします。 落ちつきがない、というのは、 これは自分の特性なんだと自覚するようになって、 自分の調子を整えるときの参考になっている気がします。 最近、押さえつけられるようなことはないか? 動きたいのに動けなくなっていないか?等々。 ただ、歳を感じるこの頃は、 気持ちは動きたくても体がついていってないこともあるので、 そういうバランスの変化を見るのがまた面白いです。 さあ、午後もあちこち移動。 会う方との会話を楽しんで今日一日を過ごしていこう!

自分のパイプ

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昨日のつづきですがー 他者との関わりあれば、何かしら考えるようなことが出てくるのですが、 その考えるという行為を一体いつまでやっているんですか? ということなんだと思います。 もやもやするような、イライラするような、むしゃくしゃするような、 あるいはどう思われているのかを永遠に考えているような。 そういう気持ちを持つこと自体は悪くはないけれど、 ずーっとあれこれそれだけ考える、ということが「パイプの詰まり」の原因なんだと思います。 おもしろいことに、 他者へ引っかかったものをずーっと考えていることと、 他者への引っかかりを無かったものとしてずーっと無視していることは、 やっていることが違っているようでいて、同じ。 どちらも他者を自分の人生に(パイプの中に)介在させていることになる。 だから、毎日、自分自身をよくよく観察することにつきるような気がします。 今、誰のこと考えていますか?と。 ちょっと極端な言い方をすれば、 もっと世間体を気にせずに、他人の言うことに振り回されず、我慢もせず、自分を一番に、 もっとわがままに自分本位に生きていいんだよ、ということかもしれません(言い過ぎ?)。 思いやりの心をもつ・・・という小学校の教室に書かれていた言葉を思い出します。 あれは、まずは誰よりも自分へ向けられた言葉だったのかもしれません。 (子どもたちには、そう教えてあげたい!) 自分の思考の中に他者が入ってこなくなると、 それぞれが、それぞれの人生を歩いているということが、実感としてあり、 このパイプには自分しか入れないものなんだ(自分だけのもの)という感覚になってきます。 たくさんの人と出会い、たくさんの人と関わっているのに、 人生に人を介在させないなどできるのだろうかとはじめは思うかもしれません。 でも、生まれたときと、死んでゆくときを思えば、何だかあたり前のことのようにも思えます。 たとえ我が子であっても、夫婦であっても、恋人であっても、無二の親友だったとしても、 相手には相手の大元とつながるパイプがあって、 自分のそれには入ることはできない(入れてはいけない)のだということなのですね。 逆を言えば、安心して自分のことだけ考えていればいいということでもあるような・・・ 一気にパイプ掃除はできないので、 日々地道にケアしていくことがやはり大事なんだなあと思います。

パイプの詰まり

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HP の編集をしていたら、非公開のままで数日が過ぎていました(まだ、ちょこちょこいじっていますが)。 HPよりブログを見てくださっていた方からご連絡いただき、本当に助かりました。 せっかく訪問くださったのに申し訳ありませんでした。 そして、教えてくださりありがとうございます。 またよろしければ、お付き合いのほどよろしくお願い致します。 さて、「大元からつながっている自分へのパイプ」の話を、 今年に入ってからカウンセリングの先生から度々教えてもらっています。 そのパイプというのは、自分だけのものです(一人一パイプ)。 大元(おおもと)というのは、 物事の起源、原点、そこからはじまるものという意味ですが、 イメージとしては、森羅万象の起源、そこからはじまり先祖代々自分へとつながってきているもの、 また、自分の原点、魂の深化を続けてきたものの原点、そして、神そのもの・・・といった感じのものです。 そこへつながっている大事な大事な目には見えないパイプを、つまらせてはいかん! というのはわかるのですが、 詰まるっていうことがどういうことなのか、よくわかっていなかったんだなと思いました。 最もわかりやすい例でいうと、 他者を自分の人生に介在させない、ということなのですが、 介在させるというのは、自分と誰かしらの他者がいつもいて、それは物理的なことではなく、 何をするにも寝ても覚めても頭の中にも心の中にも、 むしろ自分の存在と同じくらい中心にどーんと座っている、ということかもしれません。 これは四六時中、他者を意識しているということです。 これがなぜ良くないことなのか。 まずは、言わずもがな、自分がとても疲れます(心も体も)。 そして自分の人生を生きているとは言えないのも実感としてあると思う。 だけど、他者と関係性が切れる、他者のことを考えない、関わらない、ということではない。 毎日誰かしらと話しをしたり、接触があるかぎり、考えないわけにはいかないのです。 そこが、どうしたらパイプを詰まらせないように関われるのか?というところになってくるですが・・・ つづく

首が痛い

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首のヘルニアが何年ぶりかで痛みました。 寝ているときに枕に変な感じで頭をのせていて(寝相が悪いのだ)、 なんか今、ぐぎってやってしまったか??? と思ったときは後の祭りでした・・・泣 整形外科に行くと、3年前とすっかり同じ状況。 その時は先生から、「首にコルセットはめてみる?治り早いよ」と言われ、 あの首長族のようなやつだけは嫌です・・・と言って(首長族の皆さん、ごめんなさい)、 痛み止めの薬だけもらって帰ってきたのでした。 今回先生は、コルセットは勧めませんでしたが、 「寝る前にストレッチしておくと、捻挫も起きにくくなるよ」と言っていました。 捻挫って・・・首って捻挫するんだ(足首だけかと思った)! しかも寝ている間にもするものだったんですね。 よく、ぎっくり腰になりやすい人っているようですが、 それと同じで、首を痛めやすい人っているようです(はい、私)。 身体的なこともそうですが、自分が思うに、 そういう時って首が回らないほど忙しいときにやってしまっているような気がします。 忙しさで本当に首が回っていかない状況になって、 ついにその首が痛みで止まってしまう・・・忙しさが止まる・・・という流れなのだと思います。 今回は首を痛めないように気を付けよう、と思っていた矢先に起きてしまった。 こうして何かが自分をストップしてくれるので、ちょっと立ち止まって考えることもできます。 首に塗っている薬のメントールの香りを漂わせ、 今日も痛み止めを飲んでやり過ごしています。 痛みがあると、自然に動きもゆっくりになり、やろうと思っていたことができなくなるかと思いましたが、 少し動きが悪いからといって、やっていることのスピードは大して変わりないんだなと思いました。 つまり、万全でのぞんだときも、万全でなくてのぞんだときも、 あまり差はなく・・・ だったら、万全を期してやろうとしなくても、 思い立ったら準備が整わずともやってみてもいいんだなと思いました。 朝晩、岩手はもうかなり寒さを感じるようになっています。 今朝は岩手山に初冠雪を記録。 なんかいよいよ冬来るなあ~と思ってしまいます。 秋を満喫する前に早くも冬を想像し、今年の冬はどんなことをしようかと考えます。 そして来春には自分はどうなっていたいか? それを考えながら今から早め早めに行動していこう。 ちゃんと体がついていけるように、

自分が表れる世界

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【高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニストコンサート】に行って来ました。 ヴァイオリン界の唯一無二の存在とも言えるちさ子さんですが、 12人の美女ヴァイオリニストたちも、ちさ子さんに劣らずなかなかの個性集団でした。 2021-2022のコンサートの様子→ ★ 音楽だから目を閉じて・・・ というのはもったいないくらい、見て聞いて感動。 演奏は圧巻でした。 知っている曲ばかりで、長い曲も5分で編曲されているところがまたいい。 自分の思い出と重なる曲もあり、鳥肌が立ったり、涙が出たり、素晴らしかったです。 演奏の合間に入るトークや○○コーナーといったものが、 初めてクラシックコンサートに来たお客さんたちにも笑いで楽しませてくれます。 ファンをとても大事にする気持ちと同時に、 自分たちがとても音楽を愛し、音楽と共に生きて楽しんでいることが伝わってきました。 舞台上で笑いこけるちさ子さんとメンバーにも、 いつもこんな風に和やかにやっているわけではないこと、想像つきます。 きっと、その笑顔の裏には辞めたくなるような厳しい練習、そして自分自身がやるしかないという覚悟、 また、12人のヴァイオリニストであることへの勇気、 ヴァイオリンを通じてより、自分を知るに至る工程がそれぞれにあるのかもしれません。 女性13人も集まれば、それはそれはいろいろなパターンが錯乱するでしょうし、 それは必ず自分の奏でる音ととなって表れ、自分へ還っていく。 自分が表れるという世界(隠せない世界)にいる・・・というのも何とも厳しい世界だなあと感じました。 きっと、今日の最高なコンサートにも反省会はあり、 また腕を磨き自分を磨く日々がはじまっているのでしょうね。 でも、それがあるから聞く側はまたいつかとは違った音で、心に響く音楽を聞ける楽しみもあります。 音楽を奏でること、そこには音楽しかないわけではない、でも音楽を自分はやっていきたい。 そういうことの連続。 美しくもありとても尊いものを見せられた時間でした。 ピアノに癒され、クラシックやオーケストラ、バレエにも興味が向き、 今度はヴァイオリンというものの魅力にとりつかれた。 音楽だけではない、そこに演奏する人、演じる人がいるので、 人を介して興味がさらに湧いてくるのだと思う。 自分の人生に登場してこなかったものたちが今、自分の人生をとても豊かにしてくれていま