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10月, 2020の投稿を表示しています

どこまでも歩こう

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休日は喫茶店によく行きます。 でも、以前と少し変わったのは、 行きたいお店まで、家から車ではなくなるべく歩いて行くようになりました。 運動不足は今はじまったことではないのですが、 わたしの周りでなぜか健康ブームが到来していまして(筋トレ、自転車通勤、ランニング等々)、 軽くヨガをすること以外、全く運動らしきことをしないわたしも、この波に乗ろうかと・・・。 最初は、「どれどれ、盛岡駅から歩いて帰ってみるか~」と軽い気持ちでした。 しかしこれがなんと情けないことに、 半分も行かないうちに足が痛くなり、 何だかお腹も痛くなるし(完全に身体が驚いている)、息はあがるしで、 ちょうどいいタイミングでやってきたバスに迷わず乗り込んだのでした(完全にモヤシだった)。 確か数年前は、駅近くでお酒を飲んだ時、酔い覚ましにと歩いて帰った記憶があり、 あれは酔っていたから家まで到着できたのかどうか分かりませんが、 とにかくその頃から比べて、足腰が相当衰えているなあ~と感じました。 これはやばい・・・ということで、 今日も、お目当ての喫茶店を目指して歩きました。 まだ足は痛くなったり、息もあがりますが、ちょっとずつ疲れにくくなってきた感じです。 スマホにキロ数と歩数が表示されるので、 数字を見ると俄然やる気も出て楽しくなってきています。 普段、どこに行くにも本当に見事に車ばかり。 この調子でいくと、たまに東京なんぞ行ったもんなら、駅の構内で力尽きてしまいそうです。 まだまだたくさん行ってみたい場所もあるし、 ちょっと遅い気づきではありますが足だけは鍛えていきたい。 それにしても、歩いていると車ではまったく見ていなかった景色が広がりますね。 場所によってお店の匂いや何か植物の香りもふいに漂ったり、子どもの声、鳥の鳴き声、生活の音も聞こえてきます。 途中、公園で一休み。 今日は、落ち葉の上をかしゃかしゃ歩く音も心地よかったです。

パターンにはできない

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●平気なふりをしてはいけない というパターンの頭のままに人と接してしまうと、 平静を装うあなたは間違っている、 だからこうした方がいいああした方がいいみたいな言葉が出てきて、 単なる説教になりかねない。 相手の苦しさを何とかしてあげたいと思う気持ちがあったとしても、 「平気なふりは苦しいでしょう」 「無理しない方がいいよ」 と、優しい言葉の裏にも相手のやっていることをどこか批判したいのだということがわかる。 よく言われる課題の分離で考えたとしても、 他人である自分には本当は何の関係もないこと。 その方がどんな態度で臨もうと(平気を装うのか、ありのままでいくのか)、 それは自分の問題ではないとわかる。 けれど、 自分の問題としてそこに注目してしまうのは、 相手を見て感じるこの胸のざわざわがあるから。 自分の中で起きている確かな動揺に、いろいろ考えずにはいられなくなってしまうのです。 例えば、課題の分離は頭でやっていることで、 パターン(胸のざわざわ)は心と身体で起きていることだから、ここには嘘をつけない、ということでもある。 もしも、パターンに引っかかっているとすぐに気がついていたら、 相手に何か言えるような状態ではないと、自覚することが必要だったかもしれません。 自分のパターンのケアして、心を定めていくことの方がずっと大事だったんだと思う。 心が定まったら、自然にいいと思える言葉(その人にかけたい言葉)が出てくるものだし、 そうやって言葉と共に、純粋な気持ちも伝わっていったと思う。 ただただ話を聞くということは、 パターンにはできないことなんだとあらためて思いました(表面的には聞いてるようにできたとしても)。 だからさ〜とか、 それで本当にいいの?とか、 わかるわかる、わたしも経験してきたよーとか、 心の内ではなんと、耳障りな合いの手が入ることか。 このあたりの違いをはっきりと感じ取りたいものです。 「感じる取る」ということは、とてもシンプルなことだからそこに理屈はない。 もう少しこのパターンには語りかけていこうと思います。

平気なふりをしてはいけない

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とても具合が悪いときでも無理をして働き、 無理をして人と付き合い、無理をしてそこに行く。 どうしてそこまで?と悲しいとか可哀そうとかいうより腹が立ちました。 返ってきた答えに、またわたしのパターンはざわざわ・・・。 「だって、できない人だと思われたくないから」 もう何十年とそうやってきたので、 そうでなければ他人から認められない、 というものが信念としてあるようでした。 自分もかつてそういうパターンがあったし、 そうしなければ生きていけない、生きている価値がないとすら思っていましたから、 すごくよくわかる。 でも、もう少し掘り下げていくと、自分はその人の何にざわざわしたのか? パターンにスイッチが入った瞬間はどこか(どの瞬間で感情が動いたか)? かつての自分を見るような人が目の前に現れたとき、 パターンが一気に騒いだ。 それは、無理をしていること自体にではなく、 平気なふりをし続けているその方の表情を見たときに、感情が動いたんだと思いました。 つまり、自分もそんな表情をして、大変そうに見えないように神経をめぐらし、 本当は深呼吸もできないほどに苦しいのに、 全然平気にやっていますよという仮面をかぶり、演じていたからです。 そのときのつらかった感情、自分を責める自分がまだそこにいたんだと思いました。 かつての自分。 と過去形にしてしまっていましたが、 できない人だと思われたくないために平気なふりをして、 一生懸命頑張っているパターンは今も生きているんだなと思いました。 そしてそのパターンが、平気なふりなんかするんじゃないと正論で言ってくる。 気がつくと、 自分はその人を前にして(鏡にして)パターンだらけでした。

どう思われるかの世界

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人からどう思われているか気になってしかない、という方は多いと思う。 というより人の目が全く気にならない人などいない、人間ですから。  どう思われるか、というのは、 嫌われたくないとか、いい人だと思われたいとか、 できる人だと思われたいとか、バカだと思われたくないとかいろいろあると思いますが、 それは、これまでその方がどんな体験をしてきたか、 そこでどんなことを他人から言われてきたのか、 自分はどんな思い(感情や感覚)をその体験で抱くことが多かったのか、 そうなりたくない、傷つきたくない、という恐怖から逃れたいために生まれる感情と思考なんだと思う。 他人がただあなたのことを勝手にそう思っているだけなのだが、 それが自分のすべてとなってしまい、他人に自分という人間を決めさせている状態。 そして、本来の自分ではなくてもいいと、そう思われるために必死に演じている場合もある。 本当は違う意見を言ってみたいけれど、 出しゃばらない人、協調性がある人と思われたいから本当の自分を抑えたりする。 自分を知られたくないと思うときも恐怖は生まれている。 どちらにしてもやっかいなことは、 どう思われるかと考えることが呼吸をするかのごとく、自分の一部となり、 そう考えることに何の疑問も違和感も持たず、それが自分の性格なんだと思い込んで生きているということ。 そうならない自分(気にとめず生きられる自分)は自分ではないかのように信じているのだ。 どうしたら、その世界から抜け出せるのか。 その世界は、本来の自分のありたい生き方を取り戻すために、気づいてもらうために見せられているのだと思う。 だとすれば、もうここの世界は充分やり尽くしたと思えるかどうか(もうわかりました〜って)。 他人を気にしない日はないかもしれないけれど、 他人とは関係なく生きてみたい自分がいることを感じられる時も必ずあると思う。 一人でいるときのすっかり安らいでいられる自分、 何かをして楽しくて大笑いしてしまう自分、 失敗したけど、まあがんばってるなあと身体をさする自分。 どっちの感覚を持って生きたいのか、ふと立ち止まり、 どちらが心地よいのか無理がないのか感じてみる。 それは、こう思われて良かったという恐怖から逃れた安心感ではなく、 こう思われたことに傷ついたから、今度はもっと気にかけて生きようとがんばることでもない。 もっと

いつでもひたれる

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山から帰ってきて里(街)に戻ると、日に日に色づく木々に目がとまります。 あの壮大な山並みの景色 をまた見たいなあと思っても、なかなか簡単には行けませんが、 いつもの歩きなれた見慣れた景色にある小さな紅葉を見て、時間差を楽しんでいます。 一度覚えた気持ちのよい感覚は、いつでも思い出すことができるし、 そこに居るような気分になり、 そのときのほっとするような気持ち、うわ~きれいだなあっていう感動も一緒に今にあります。 そして、その気持ちのよい感覚を持てた時間、 その時間を持てたのは、自分がまずは健康な身体であったからだし、 家族も健康でいてくれたのでその場所へ行けたということで、 いろんな人の協力があって自分はあの景色を見に行けたんだなあって思いました。 楽しいことは一瞬で終わる・・・というのは、思い込みだったかもしれない。 そのときの気持ちを充分に体中にしみこませ、味わい、本当に心地良いと思ったら、 結構それは持続可能なものなのかもしれないです。 その感覚はいつでも思い出せるし、 いつでもひたれるし、場所や状況を問わず感じることはできるのだと思いました。 旅行から帰ってきてからの現実とのギャップというものも、 確かに機械的に習慣的に何かをすることが次々とあることもあるのですが、 どんな自分の状態でそれをやるかは選択の余地があります。 今日は朝から雨ですが、 雨に濡れた山もしっとりしていいだろうなあと思いながら目覚めました。

「私」と似ているもの

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北は八幡平から南は須川高原まで、2日間紅葉狩りをしてきました。 普段ほぼ緑一色に見えていた葉っぱの形もこの季節は存在感が増します。 ものすごい種類の植物たちが何の計算もなく色を織りなす姿は、 人を楽しませ感動させてくれます。 また、岩肌からは温泉が吹き出しているところもあり、 おお、地球は生きてる!と思わず声をあげてしまいました。 名前も知らない植物たちからパワーをたくさんもらい、温泉の硫黄の匂いがまた良くて、 地球に生まれて良かった~とまた叫ぶ。 自然の前では人間は、『素』に戻るような気がします。 山と一体に、地球と一体になっていくような感覚はどこまでも「私」が広がり続け、 そのうち自分が消えてしまうような感じがしました。  美しいと思うものを見るということは、時間にして数秒であっても、一瞬で何かを超越してしまいます。 それは、人間の細胞一つ一つが入れ替わっていくようでもあるし、 その身体さえも感じなくなってしまうようでもありました(もしどこか痛いところがあっても、それを感じないような)。 胸いっぱいに深呼吸をしてみると、 そのときの解放感、安心感はまさに、 「私」がパターンを包みこみ、「私」はいつでもパターンを許しているときのそれと似ていました。

目の前にあらわれる人

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自分がこの世に生まれてくる前に、 自分の魂の成長のために、自分の人生にぜひ登場してもらいたいと、 自分が困るように悩むように苦しむように、あなたにはその役目を担ってほしい・・・ 今目の前にいる人たちは、全て自らキャスティングしてその通り演じてもらっているだけだったとしたら、 出会うことを避けられないのは当然だ。 その役柄は、親だったり、パートナーだったり、仕事相手だったり、友人だったり、近所の人だったり至る所にいる。 なぜこの人とはこんなに相性悪いんだろう。 なんでいつもこの人は自分をこうも苦しめるのだろう。 そういう、特定の人に何で???と思うことがあります。 自分の人生に登場してほしいと頼んだのかもしれないが、 実際生きてみると、それはしつこくて、 もう関わりたくなくて、自分の前から消え去ってほしいよ~ と今生ではもうあきらめたくなる。 だって、腹が立つし許せないし、大嫌いだし憂うつになってしまうから、 この感情を持って向きあうって簡単ではない(と、パターンが思っている)。 でも・・・自分で自分に課した約束だとしたら。 これ、クリアするって決めたんだとしたら、 それでいいのか、あきらめていいのか、また避けるのか? いつになったら向き合うんだ? と言われているような気がするのです。 そうやって何となくこの人あの人と、 自分の魂の成長のためにそれぞれに出会っているのだと思い出しながら(実際は思い出せないが)、 心の奥深くにしっかりと感じとっている違和感をたよりにしながら、 その違和感への理解を少しずつ少しずつ深め、 現実での今どうするかの動きを「私」が決めていくしかないって思う。 そんな世界に身を置かなくとも、深く考えずに感じずに生きることもできる。 嫌なことは何度でもさけて、思い通りにならないことにいらいらしながら、 何かをすれば一時は忘れていられるし、ストレス発散もしょっちゅうやればいい。 何かおもしろいことだけを追って、自分に都合のいい人だけと関わって、 自分の感情をゆさぶる人とは避けて生きていくこともできる。 そこにも学びはあるのだから、自由なのだ。 最終的には、魂が進みたい方向に人間は進むことになっているのかもしれない。 ここまででいいと決めてもいいのだし、 もっと自分を知りたいと思ってその違和感に向き合うことを選んでもいい。 どんな人生なら自分は納得いく

やってしまった

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歩いていていたらスカートがずり落ちてた・・・ それは本当にあっという間で、おおっ!って何が起きたか分からないほど焦りました。 巻きスカートをはいていて、 中はレギンスをもちろん履いていましたが、腰を支えている紐が何かの拍子にスルッと解けてしまったのだ。 たぶん、おそらく、そうであってほしいのですが、 おしり全部は見えていなかった・・・と思いたい。 そこまで完全にはずり落ちていないと。 トイレに駆け込み、恥ずかしすぎて一体この後自分はどうしたらいいのか、 さっきの見た?と言えばいいのか、 でも誰に?たくさん人がいて見ていなかった人もいるだろうし・・・ ものすごく困って、悩んで、 周りの反応で決めようと思い意を決してトイレから出ていくと〜 何事も無かったかのようにみんな仕事をしていました(そう、現場は職場)。 誰からも何も言われないことが、逆に不自然にも感じたけれど、 あれっ?誰も見ていなかった? え、大丈夫、セーフだった? そうか、見てないか! とセーフだと思い込むようにして自分も沈黙。 帰宅して、家族に再現ドラマを演じて見せたら、 あー、見えてる見えてる・・・ だとしても、おばさんなんだから何やってんだあ、で終わる話じゃないのと言われ、 そうか、若い女の子とは違うから大丈夫なんだと、 もうこれは仕方ないからそういうことで決着つけようと思いました。 数日経ってその話を同僚に話したら、 えーーー(爆笑)、いつそんなことあったの? よくシラを切り通したね! と泣いて笑われました。 シラを切った・・・ その言葉を聞いて、おばさんだから大丈夫とかじゃなくて、 自分はただ単にシラを切ってごまかしたんだと分かりました。 こっちの方が恥ずかしいよなあ、と思うんですけどー。 かといってあの時、どういうリアクションをしたら自分は悔いがなかったのか、恥ずかしいを克服できたのか、いまだによく分からない・・・。 考えてみると、巻きスカートを紐だけで留めていたっていうのが今までが奇跡だったのかも。 時々信じられないことをやらかすわたしには、ものすごい戒めとなりました。 身だしなみに関わる失態ってものすごく恥ずかしいですね、はあ。 皆さんもどうぞ、おしりが見えていないかどうかお気をつけ下さい。

枯れてもなお

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若い人ならば、 この先その人がどういう形であっても何かしら成長していくことを想像できるけれど、 年老いた人が成長していくことってあるのだろうか・・・と思っていた。 年老いて、動作もたどたどしく、目も耳も悪く話し言葉もなかなか出てこない。 そんな明らかに残りの人生が長くないとわかる人が、老い先短いその人生に、 何かを得て自分自身が変わっていくことってあるのだろうか・・・と。 ものすごく失礼な話なのかもしれないけれど、成長は止まってしまうと思っていたんです。 もうそれ以上、何かから学んだり自分を変えたりということはなくなって、 寿命が来るその日まで、ただ楽に穏やかに、 その人自身だって、悩むことをせず苦も何もなく生きていきたいと思うのではないか。 どうしてそんなことを思っていたかというと、 認知症になって老人ホームで暮らしている父を見ていると、 日々の出来事に対して何か感じたり考えたりする瞬間はあったとしても、 その事自体を記憶することがない。 それって、今を生きていくだけの人生であり、 今を生きることが苦手なわたし達からすれば、それは究極に尊いことだけれど、 そこに進歩や成長はほとんどないように見えるからです。 だけど・・・ 進歩や成長を自分自身感じることができないとしても、 周囲の人たち、関わる人たちに対しての何かを問いかけること、 何かを与えることはできるのかもしれないと思うようになりました。 むしろ、自分の年老いた身体をもってしか『経験』を与えることができないものを、 父のような年老いた人たちはそのために寿命を使っている、 または存在していると思えてならないです。 紅葉した森の木々を見ていると、 枯れ葉は、他の木や植物たちがもっともっと生き生きと育っていけるように落ち葉となって役目を変え、 命を削って森を育てていきます。 人間もそれと同じで、 枯れ葉でなければ周りの人へ影響させられないものがあるんだと。 そしてまた、枯れ葉の中でもさらに時間とその環境の中で、肥料としてふさわしい葉っぱに進化していく・・・ これってなおも成長し続けているということ。 父の頭の中の世界のことは想像できませんが、 自分が見ているものの世界とは全く別の異次元での世界の中で、 今も何かしらの経験を積んでいるのかもしれないです。 母も同じように、 もう年をとったから悩みや苦しみに向きあうよう

秋を堪能してます

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秋の味覚、松茸が今年は豊作だそうです。 正直、高価な松茸よりも天然もののシメジやボリの方が好きという方は多いですよね(自分もその一人)。 しかし今年いただいたものは、 味も香りも格別だったように感じます(はじめて松茸って美味しいと思った)。 水でぬらしたキッチンペーパーで汚れを落とし、薄くスライスし、あとはめんつゆを入れてご飯と一緒に炊きました。 これだけで、もう最高に美味しかったです。 あ~なんという贅沢・・・ そして今、一番楽しみにしているのが新米です。 もうほとんどの田んぼが稲刈り真っ只中で、あの大きなコンバイン(赤いトラクター)を見かけると心が躍ります。 昔、歌手の小林旭さんが歌っていたんですよ、 ♪ 燃える男の赤いトラクター   それがお前だぜ~ コンバインを運転している農家のおじさんたちが、 ものすごくかっこよく見えたことを思い出します・・・。  この歌知っている人はたぶん50代以上でしょうか。 海の幸も山の幸も、お米もお酒も美味しい岩手県。 美味しいものを食べると、幸せを感じます。 毎日秋を堪能しながら、食欲が止まりません(腹の肉も気になるが、食欲が勝つ)。 お口に合うか分かりませんが、 他県の方々にも岩手に来ていただいて、温泉にでも入りながらたくさん味わってもらいたいなあ~ と思う今日この頃です。

場数を踏む

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苦しいと思うことの場数を踏んでいく。 苦しいと思っているのは本当の「私」ではなく、自分の中のパターンがそう感じています。 ということは正確には、パターンが苦しいと思っていることの場数を踏む、について感じたこと。 自分が苦手としていること、好きではないことに対してやらなければならないことってある。 この苦しいけれど、やらなければならないことの場数を踏むって、 「私」がやろうとするのかパターンでやろうとするのかで、 そこまでの過程も結果も当然のことながらすべてがらっと変わってきます(場数を踏んでいるのって誰?)。 何度も経験を積んでいけば、少なからずスキル的なものやスムーズなやり方、コツなど、 感覚的に上手になっていくものもありますし、 度胸とか、失敗に対しての免疫?も確かに備わっていくので、 表面的には慣れてきたようなふるまい(そつなくやる)になっていくということはあります。 けれど、 どんな気持ちでそれをやるのか、そこにいる自分はどうなっているのか、というところが本当はとても気になっている。 苦しい、苦手、これ本当にいや・・・と思っているパターンが主役になってやってしまうと、 パターンは楽したい、早く終わらせたい、適当に済ませたいという方向に向かって進み、 又はその逆で、失敗したくないためにあらゆる手段を頭に詰め込み、しつこいくらいガチガチの準備をしたり、 心の中は暗く重く固く、いずれにしても苦しさの中でやっていることには変わりありません。 この苦しいという感覚は、今パターンでやっていますよ~というサインなのですが、 良くも悪くも場数を踏んで状況はましになってきてはいるために、 パターンのケアが先延ばしになってしまっているということがあるのだと思いました。 毎回苦しさを感じながらも、終わればまあいいか・・・という感じで。 本当の「私」は、どんな感情も受け入れられるので、それもありだと言えばありですが、 〇もうそれを、苦しいものと決めつけなくてもいいのかもしれない 〇もうそこから(苦手なもの、嫌なことだと思い続けることから)自由になっていこう 〇自分のために楽しんでやってみよう 等々、「私」が選ぶものならばもっと気持ちが軽く、楽に、たんたんとやれるものになります。 結果、そこに何かを求めるということがなくなっている、 という大きな心の転換はパターンでやっているうちは決

どういう人間になってきているのか

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自分はどういう人間なのか。 または、どういう人間になってきているのか。 そのことを感じさせるものが、日常の中にちりばめられているように思います。 一つの出来事でそれを感じるような単純なものもあれば、 いろいろなシーンで自分の発する言葉、とった行動、それら言動の元となっているもの、結果などから総合的に見ると、 自分はいつの間にかこんな感じになってきているなあとハッとする。 例えば、 今日は「自分は他人に甘い」ということを感じさせられるような出来事が続きました。 甘いというのは、優しさとか寛容さとか許しをもっているかのようにも感じ、 いい人っぽい響きもあります。 そのいい人っぽい感じになってきている根底には、 「自分は自分に甘くしたい」があるからなんだと思いました。 自分を厳しく律していくことができない理由の一つには(厳しいことが、いい悪いではないが)、 厳しさの中にある、つらさを怖がっている自分があります。 つらいことはしたくない、つらいことには耐えられないと思っているパターンがいるのです。 自分ができていないことを他人に要求してしまうと、自分もできる人間にならなければいけない。 できるようになるには、きっと辛いこと、大変なことが待っていると思うパターンです。 だから、自分にはできていないし、嫌だと思っていることを他人に要求するって抵抗があったのだと思う。 それは優しさとは違うし、寛容さではないし、 他人を許すというところにも、自分を許してもらうための許し(条件付き)になってしまっているのだ。 他人に甘くする自分の本性が、いろんな出来事から見えた。 自分が他人に対して甘くなっていけばいくほど、何が起きているのだろうか。 それは、自分自身に今起きている現実や怖いと感じているものから、 自分で自分を守れなくなるように仕向けていることだった。 怖さを受け入れようとする勇敢で柔軟な「私」の存在が、どうか育っていきませんように、 なんて言っているのと同様。 他人に甘くする自分は、一体何から逃げようとしたのか。 そこから逃げて、どんな人間になってきていたのだろうか。 自分に問いかける一日でした。

違いがあるだけ

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中国人の知人とお話をしていて、 日本人と結婚して子育てをして、それはもうたくさん苦労をしてきたでしょうし、 日本の文化、人のふるまい、家のしきたりのようなことまで、たくさん戸惑うことがあったと想像に難くないです。 その方に、どうやって日本に慣れていったのですか?と聞くと、 自分は中国人だから、家に帰れば中国のままです、と。 合わないなと思うことがあれば無理に合わせず、自分とは違うんだと思うだけで、そのままでいるそうです。 慣れるように何か努力しているということではないみたいで(それでも努力なしでは暮らせなかったと思うが)、 今も、違っているままにしているというところが、とても自然でいいなと思いました。 外国人ということではなくても、 日本人同士だって話が合う合わないは普通にありますし、 無理にお付き合いしていても身が持たないから、離れたり、ほどほどに付き合ったりということはあります。 なぜ自分の国のことを理解してくれないんだろうとか、もっと理解してほしいとか、 そこに意識を向けてしまうと、理解するしないの部分だけが拡大され、 何をするにもちゃんと理解した上でやらなければならなくなって・・・それも苦しいです。 たしかに、理解できないことがあっても、なんか違うんだなとわかればそれでいいのかもしれませんね。 郷に入っては郷に従え、ということわざがありますが、 心まで郷に従わなくてもいいかなあと。 やっぱり自分は日本人だから、中国人だから、アメリカ人だから・・・というように、 自分の国の文化や価値観、考え方を尊重して他の国で生きていくということもあるのだと思いました。 わたしは外国に行ったことがないのですが、 もし行くことがあったら、日本人で良かったとか、日本がやっぱり住みやすいとか、日本人らしいマナー、ふるまいをしてしまうと思います。 この平和な国を離れ、何もかも未知な異国の地で暮らしていくってどういう感じなのでしょう。 とにかく、その経験をしている方々はそれが運命だったとは言え、すごいなあと思います。

今日一日を生きた

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今日、ふと、自分って毎日本当によくやっているなあと感心してしまった。 何か特別なことをしたわけではなく、普通の一日だったのですが、 心からねぎらう気持ちが湧き起こり、 「よくやっている、偉い!」 と今日一日生きた、というだけで褒めてあげたくなった。 自分以上に毎日がんばっている人など世の中いくらでもいるけれど、 それでも、他人と比較せずに、 今日一日の自分だけを見れば、やっぱりすごい頑張ったなと思ってしまう。 もし、こんなふうに、 自分で自分を褒めたりねぎらったり、感謝したりすることができたのなら、 他人から、「がんばっているね」「今日も一日お疲れ様」「いつもありがとう」 等々言われなくても、まったくもって平気なのかもしれない。 今も、特に言われなくても気にしてはいませんが、 やっぱり言われれば言われたで、ちょっと嬉しくなって、 疲れも吹っ飛び力がわいて、 そして、とっても温かい気持ちになる・・・。 だから、それを「私」が自分にやってあげるのだ。 自分と・・・あともう一人誰かに。 この人にと思う人にも遠慮しないで声をかけてみよう。

大人の対応

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ちょっと気まずいなあと思った相手へ、 まさかの、またお願いごとをしに行かなければならない、ということがありました。 わたしは過去に仕事でその方へ、 自分たちも悪いところがあったかもしれないが、 そちらも悪いところがあった、 という感じのことを言ってしまったことがありました(パターンで言った)。 もうこことは関係が持てないだろうなあとその時思い、 その通り、それっきりになっていたので、気が重かった・・・。 覚悟を決めて電話をし、会うことにはなったものの、 もしこの話がうまくいかなかったとしても、それは仕方がない。 何だか断られるためにわざわざ出向くようなものだと思ったとき、 ああ、そうか、 そのためにわたしは行けばいいのかもしれない。 そしてあらためてあの時のことを謝ろう、そのために自分は行こうと思いました。 結論から言うと、 お願いしたいことは受け入れてもらうことになり、 長年のわだかまりは溶けたのです(相手は、わだかまりではなかったかもしれないが)。 緊張しながらも、いろんな話をさせてもらい、たくさん提案もしてもらえました。 「大人の対応」ってこういうことなのかなと思った。 こんな風に過去は過去と、横において話を聞き、 今に目を向け耳を傾け、いいと思ったことをただやる、そういう人もいるんだ。 とても単純な話で、裏も表もない。 山あり谷ありのでこぼこ人生をきっと歩いてきたであろう人だからこそ、 このスマートな対応ができるのかもしれないなと感じました。 自分が逆の立場だったら、 突然の再会に、過去に抱いた感情を少しも態度に出すことなく話を聞き、 そしてまた手を取り合おうと思えるだろうか・・・。 きっとパターンは少なからず騒ぐのだと思う。 もしかしたら、またパターンで話してしまうかもしれないし。 自分って、本当に本当にまだまだだ。 だからパターンのケアが大事なんだと思う出来事でした。