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3月, 2023の投稿を表示しています

越えて行こう

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WBC野球、日本勝ちましたね! 高校野球が好きな私ですが、今回のこの大会は、初めから最後まで、 ずーっとテレビ(録画もしながら)で観戦し応援していました。 一流の選手たちのプレイに感動してしまう。 というのも、もちろんありますが、 その選手がどんなことを考え、どんなことを言い、 どんなふるまいをしているのか。 野球選手としてだけでなく、その人間性に目がいきます。 そんな中で、 大谷選手が、アメリカとの決勝前に言っていたことが印象に残りました。 今日だけは、(大リーグの選手たちへの)憧れはやめてください。 勝つために、その選手たちを越えていきましょう。 ※ちょっと言い方違っていたかもしれませんが・・・およそこんな感じ ああ、あのテレビで見ているすごい選手が、自分の横にいる・・・ と思っただけで、 自分は、その選手には敵わない人であると無意識の中で思う。 そうして、その選手の存在感が大きくなる。 そうであると、実力を出せない。 尊敬のまなざしが、時に自分の力を下げてしまうということを 言いたかったと、後で語っていました。 だから、今日の試合では、憧れは封印してください。 自分を信じてやるだけ!ということなんですね。 これは、ふだん私たちにも言えることだなあと思いました。 肩書がついている人だったり、地位がある人、 みんなから尊敬され慕われている人、 何か自分より勝っていると感じる人に対して、 自分をさげすんで見てしまうことがあります。 『憧れの人』というのは、 目標とする人でもあり、自分を鼓舞する人でもあります。 より自分を高めたいと思うとき、 そこに目指す姿を見てしまうのかもしれませんが、 同時に、自分とは別世界の人だと思うこともあります。 それが、自分の可能性に限界を設けてしまうことにもなるのでしょう。 日本チームのいいなあと思ったところは、 日本の中でも大リーグで活躍している選手たちが、積極的にチームに溶け込み、 自分がもっているものを惜しみなく伝えていく姿があったことでした。 感情をむき出しにして、勝ちをとりにいく姿も、 成績を残しているすごい選手であっても、 こうやってがむしゃらにやっているんだと見せてくれます。 他の選手たちはそこに引っぱられていったと思います。 また、若い選手たちも、気負わず素直に、 知らないもの、見たことのないものを自分から教わりにいく。

傷ついたときにすること

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他人の言葉に、ひどく傷ついた・・・ と思うことがあります。 その時は、本当に深く心が傷つき、ショックで落ち込みます。 自分は傷つけられるに値する人間なのか、 自分のどこがいけなかったのか、 なぜ、こんなふうに言われなければならなかったのか。 等々、傷ついたその原因を考えます。 原因を究明して、なぜこうなってしまったのか、 納得したいのかもしれませんし、納得できないとしても、 そのまま(傷ついたまま)の状態でいることがとてもつらいから、 どうにか自分のせいではないことを、早くはっきりさせたいのかもしれません。 少しでも、何か安心材料をみつけて、 このつらい気持ちから逃れたいのでしょうね。 でも、そうしている間は、 傷ついた、傷つけられた、という世界の中をぐるぐる回っているだけです。 こういうとき、 時間がとても必要だったりします。 傷ついた自分をなぐさめ、充分に話しを聞きます。 どんなに悲しかったか、悔しかったか、怖かったか・・・ ここに、もう大丈夫かなと思うくらい、あせらずに、 時間をかけてあげることが大事。 そうして、たくさん泣き、とことん落ち込んだら、 冷静な「私」をそこに登場させ、 これから自分はどうありたいのかを考えればいいのです。 時間が経つと、ある瞬間に、ふと、 ああ、こんなことを自分は理解するために、 この経験がどうしても必要だったんだなあ と、思うときが必ずきます。 それはそれでいいのですがー 問題は、『そこまでの道のり』なのだと思います。 その長い?道のりをどう過ごしていくのかが、 自分のあり方が出るところですね。 なぜこの体験が、自分に課せられたのか? というところに意識を向け続ける自分と、 そこからまったく離れ、 現実の生活をたんたんとやっていく自分と、 ふたつのバランスが私の場合は必要な気がします。 この体験(傷ついたと思った体験)が、 必ず、自分の成長に必要なものであると、 しっかりここから学ぶことができますように。と祈る自分。 そして、 他人を自分の中にいれずに、自分の芯を感じながら、 目の前にある日常の一つ一つのことを、 少し肩の力をぬいて、楽しんでやっていくような自分。 (傷ついたことからは、もう心も頭も離していく感覚) そのバランスがうまくとれるかどうかは、 傷ついた自分にふたをせず、 落ち込む自分に充分に時間をかけてあげたからこそ

心のからくり講座

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いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます。 今日は、【心のからくり講座】のお知らせです。 (詳細はこちらからどうぞ→ Rowing ) 4名様という小さな会になります。   私としては、講座ははじめての試み。 ここにくるまで、勇気をしぼりだすまで、 もう何年もかかかっております。 自分がとても感覚的な人間であるため、 講座、セミナー、プレゼン、説明、論理的な話し方等々 はじめての方にわかりやすく伝えるということに、 ものすごく苦手意識がありました。 そして、人が集まるのだろうか・・・という不安も(←こういうのが、パターン)。 と言いながらブログでは、 少しづつ、自分の心にある「私」と「パターンたち」 のお話をさせていただいていますので、 もう少しふみこんで、 今回やってみようと思いました。 ちょうど東日本大震災の年に、カウンセリングを学びはじめ、 毎年3月になると、震災から何年が過ぎたんだなあと思うと同時に、 自分の人生の分岐点もそこにあったと想いかえします。 たまたま福祉職に就いていた自分は、 心理学や精神保健を学び・・・ でも、何かそれとはまったく違うもの、別なもの、 もっと人の根源にふれるようなものが、この学びで感じてきたことでした。 相手の心、自分の心、そしてそこにつながる大元という見えないものを、 毎日、感じたり考えたりしない日はありません。 それが、とてもあたり前な自分であって、 気づけば11年があっという間に過ぎました。 今も日々、自分のパターンにもがきながら、 それでも、本当の「私」で過ごすことの身軽さももちながら、 らくに過ごせるようになっていること。 この『軽さ』を少しでも感じていただきたいなと思うのです。 ご興味のある方、どうぞお待ちしております!

まえに・すすむ

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なんとも言えない静けさ の中で、 萎縮した世界に行かないように、 自分なりでいいから、 「私は、前を向く」と言い続けています。 時計の秒針が一秒一秒動くごとに、 わたしは・まえをむく・わたしは・まえをむく・・・ と声にだして言います。 また、しばらくたって、引っ張られそうになると、 わたしは・だいじょうぶ・わたしは・だいじょうぶ・・・ と言ってみたり、 まえに・すすむ・まえに・すすむ・まえに・すすむ・・・ と言い換えてみたり、 声にだしてひたすら意識を戻さないよう、 時を刻んでいきます。 こうして、自分を奮い立たせ、 不安があっても、それごと抱えながら、 前を向いて進んでいこう! きっと大丈夫だから! って、言語化すると、なんだか本当にそんなふうに、 現実にかたちになっていくような気がしました。 と、同時に、 どんな展開になっても、そのことを受け入れていこうと、 気持ちがまた一段ひきしまります。 歩きながらリズムをとってつぶやいてみたり、 車を運転しながら力強く言ってみたり。 こうしていると、 無理に笑わず、無理に自分をつくろわず、 もう無理は一切やめていいんだと思えてきます。 力を抜いて、このままの自分で前に進んでいこう。

なんとも言えない静けさ

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いつもいつも、 自分に起こる感情と感覚を観察しています。 それでも、 ん・・・なんだこの感情は? と、言葉に言い表せない、 ぼんやりとしたものが漂うことがあります。 『快』なのか、『不快』なのか? 2択にしぼると、 やはり不快だったんだろうか。 少しの不安が遠くに漂う・・・ ということがありました。 少しの不安、というものは、 他人を自分の中に入れてしまうと、 そうなってしまうという感覚でした。 今回は、『言った』ということなのですが、 言ってしまって、どう思われたか? という方向へ意識が行ってしまうと、不快感が出てきます。 軽蔑されたんじゃないか、 めんどくさい人と思われたんじゃないか、と。 これは、自分の中のあきらかなパターン、 ●他人から嫌われたくない が暴れているのだと思います。 ただ傷つき、悲しく、落ち込んだだけでもないし、 言ってきた相手を腹は立つけど、憎むでもない。 自分の非と向きあい、認めたというのもあった。 それら、まとまりのない感情を持ちながら、 それらを全部言葉にしてみた自分でした。 (わかりにくい話になってしまいましたが) ひとつの感情ではないため、 そこにその感情を持つにいたるパターンもそれぞれです。 でも、それらの感情を抱いたことが、 みっともないことでもなく、 隠すようなことでもなく、 自分の姿だったということを、正直に言葉にしたかったのかもしれません。 そう、だから、言ってよかったのか悪かったのかは、 何をもって良い悪いの話なのか? 他人を中心に置けば、不安になります。 でも、 自分を中心におけば、言えてよかった・・・ そんな、ゆれ動く中での自分が今あるため、 なんとも言えない静けさのまま、今過ごしています。

絆創膏日記

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  絆創膏日記 東田直樹著 東田さんは、重度の自閉症です。 言葉がほとんど話せませんし、 動きも衝動的で誰が見ても障害者なんだなあとわかります。 でも、パソコンのキーボードを前にすると、 別人のようにコミュニケーションがとれる、普通の青年であることがわかります。 普通どころか、その文章を読めば、 いつも好奇心にあふれ、想像力にあふれ、 心がとても豊かな人であることがわかります。 自閉症なために、思いとは裏腹の行動を取ってしまう自分自身のことを よく観察しています。 その描写が、おもしろくもあり、せつなくもあり。 見た目の行動からは、まさかそんなことを考えているなんて! と思うような優しい心がそこにあり、 私はテレビのドキュメンタリー番組で東田さんを知り、 障害者(特に重度の方)を見る目が変わってしまいました。 みんなが皆、そうではないにせよ、 少なくとも言葉が出ない、言葉が使えない人であればあるほど、 自分を観察する目はするどいのではないかと思います。 本の中で、東田さんは、 自分が嫌になるような失敗を何度も繰り返してきたといい、 そういうとき、立ち直るときにやることは一つ。 『落ち込む自分を見放さないこと』 と言っています。 そして、 本当の孤独とは、自分で自分を見捨てることではないのか。 真っ暗な闇の中で、ずっと下を向き、感情にふたをして、 生きていることそのものを否定し続けるようになれば、 そこに未来という言葉は存在しないだろう。 自分で自分を見放しては、立ち直るきっかけさえつかめなくなる。 自分を許すことの出来る人は、気持ちの強い人だ。 〜(本文より)〜 自分ではどうすることもできない、 勝手に動く自分の体。 勝手に発してしまう幼児のような奇声。 自分に話しかけてくる人に顔を向けられない失礼な態度。 それらを『失敗』として認識し落ち込み、 しぼんでしまった心を自分で抱きしめ、大丈夫だよと話しかけ、少しだけ泣く。 そうやって、自分の心に新しい空気を送ってあげるのだそうです。 本当にそう! 誰かに元気にしてもらう必要はないんですね。 自分で自分をひとりぼっちにしている。 パターンに、ひとりぼっちにさせてごめんね、って語りかけるのは、 「私」がついているから、もう大丈夫だよ!といってあげることが、 一番自分を立ち上がらせ、元気にしてくれることだとわかっているからで

重たい朝

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たくさん感情がうごき、頭がフル回転した日は、 心も体もくたくたになります。 朝の目覚めはとても重~く、 これから一日がはじまるのに、どんよりしていました。 ここから、何をどうしていこうか? となんども深呼吸。 ひとつの出来事に心が引っかかったときは、 とてもわかりやすいです。 大抵が、自分の思い通りにいってほしいと思っていたことが、 かなわなかった・・・というのが根っこにあるため、 どんな感じになっていれば、自分は納得できたのか、安心できたのか、 いい気分でいられたのかと探っていけば、 自分のパターンが見え、そこへ集中していくことができます。 でも、次々にいろんなことが起きる、いろんな感情がわくというとき、 起きてしまったことは変えられないこととして、目の前にあり、 頭だけでそれへの対処をしています。 ここで、 自分が今、どんなふうにこの出来事を捉えているのか? などと感じる時間は、はぶいてしまうような気がします。 ひとつの引っかかりを放置していると、 次に起きたことへも、引っかかりやすい。 もやもやしたまま、イライラしたまま、ドキドキしたまま、 心がざわついているままに次のことを捉えてしまいます。 次々に、思い通りにならないことが起きる! のではなく、 自分がそんなふうに捉えることをやめれない! なのでしょうね。 なんでこうなるの? なんで、なんで、・・・ と引きずったまま、次の事柄にも、 そういう自分のままで(あるパターンのままで)物事を見続けているのです。 よく、気持ちの切り替え、頭の切り替えをしなさいと言われますが、 あたらしいものにすっかり替えるということは、 そこに意識を働かせないと、なかなかできないこともあります。 振り返ってみると、 なにも、ぼーっとしていたわけではなかった。 とは思うのですが、 そういう行動的なところではないのですね。 今、この出来事(事実)を自分はどう捉えていくのか? ぼーっとパターンに決めさせていたのだと思いました。 行動として見れば、それなりに動いていたかもしれませんが、 どういう気持ちをそれをやっていたか?の方が、 ずっと大事なことでした。 ●自分の思い通りになってほしい という、エゴの塊のような自分が、 目の前の世界をつかみ、支配していく重たさ。 そんな自分を後悔し、ゆるせない重たさ。 他の誰でもなく、自分自身がしているこ

いつも、ありがとう

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今日は一日、雨降りでした。 雪ではなく、雨・・・ということは、 だいぶ春が近づいているということ。 毎年、この季節はなんとなく気持ちが高鳴るというか、 わくわくする一歩手前のような、 これからいいことばかりが起きてくる・・・とは限らないのだけれど、 でもやっぱし、どちらかといえば、 希望がわいてくるようなことが、やってきそう!という気持ちになります。 先日、教わったばかりの、 準備電位というのは、こんな感じでもあるのでしょうか(ちょっと違うか?)。 4月になってしまうと、いろいろ現実に以前とは違ったこと、 環境の変化がおきてくるのですが、 3月は、まだ、はっきりとしたものはない。 けれど~、もう前倒しですでにやってきているような感じもあります。 来月から、勤め先の名称が変わるということもあって、 なにか、あたらしい自分が、 あたらしい人と出会ったりしながら、 自分がこれまでとは違ったあたらしいものを、 あたらしい気持ちで選んでいけそうな気がしています。 今までも、それなりに動いていたのでしょうが、 これからの、「動く」とは・・・こういうことだったんだ! とあらためて感じるような、 そういう動きをしていくような気がしました。 本当に、なんの根拠もないけれど! 先日も、 ごく小さなことですがー、 毎朝、通勤時にながめていたカフェに、はじめて行ってみました。 あの席に座ってみたい! という思いがあって、 行動に移したというだけなんですが、 小さな動きではあっても、自分にあたえたものは大きいです。 もし、これが、 行こうと思えばいつでも行けるからいいやとか、 見た目より、料理が美味しくなかったらいやだなとか、 夫は、そんなに行きたくないのかもしれない・・・ だとしたらお金がもったいない・・・とか。 いろいろ考えて、 行かない選択に進むこともできる。 でも、本当の目的、 どうしてあのお店に、夫と一緒に行きたいのか? わたしは、あの席で、 人が行き交う景色を見ながら、 「ああ、こんなふうに見えていたんだ!」と発見し、 美味しい料理にも感動しながら、 夫に「いつも、ありがとうね」と言いたいのでした。 ま、自宅にいても言えるのですが・・・ そういう日があってもいいなと思ったので、 ジャージ姿でくつろいでいた夫を誘い、出かけました。 夫は、わたしよりも感動し、 この眺め、飽きない~と