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11月, 2022の投稿を表示しています

心が笑う

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いつもの何気ない会話をしていたとき、 わたしはこの人から助けてもらっている・・・ と感じました。 これまでも、 感謝してこなかったわけではないのですが。 何かをしてもらったという実績?や、 してもらったことの内容ではなく、 なんというか、 心のリセットをしてもらっているなと感じたのです。 それも、いいタイミングで。 いつの間にかパターンでやっている自分。 パターンで行動しているときは、疲れます。 そんなときは、その行動をストップし、 何も考えずにぼーっとして一点をみているような、 そんな時間が一日の中であります。 そういうときは、 魂がしばしの休息に入っているのではないかと思うほど、 現実であって、ちょっと現実から離れている感じ。 そこに、ときどき、 ふっと心が笑うような、 心がポッと温かくなるような声かけを、 その人はしてくれるときがあるのです。 むろん、本人は何もそんなこと思って 声をかけてはいないのでしょうが。 なにか問題を解決するとか、役立つ知識を得るとか、 そういうことではないもので、 人の役に立てるっていいなあと思いました。 そこで、その人に日頃の感謝をこめてお菓子を渡しました。 仕事を手伝ってもらったお礼に~という理由をつけて、 奥さんにどうぞ!と。 それがまた、なんで奥さんに? と笑って、ちょっと喜んでもらえたので、 素直に自分はうれしいなあと思いました。 見渡せば、自分を励ます人、鼓舞する人、ねぎらう人、 支えてくれている人、助けてくれる人がいます。 見えないものたちに守られていることは、感じていたけれど、 見えている方たちにも、 支えられているんだなとあらためて思ったのでした。

複雑に見えるものを、簡単に

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おかげさまで父も小康状態になり、 食事のときはベットから起きて、車椅子で食べられるようになりました。 食事のときの姿勢ってとても大事なんですね。 まっすぐ体を起こすというだけで、 大部スムーズに喉を通るようになりました。 食べれる姿を見れるのは、本当にありがたいことです。 ばたばたした日々が続きましたが、 こういうときに限って(これって宇宙の法則なのか?)、 本当になんで今なのか!と思うほど、急ぎの仕事が入ってきます。 しかも、これまで対応したことのないものが・・・ 先日の、延命治療をするかどうかのせっぱ詰まった状態のとき、 私は一人、少し薄目を開けた父に向かって、語りました。 これからどうしたらいいか、心細く思っていること、父ならどうするのか、 そして仕事のことも、 とにかくたくさんのことを父に話し、泣きました。 すると、父は突然、かすれた声で か・ん・た・ん・だ・・・ 「・・・簡単だ」と言ったように聞こえたのです。 ん?今のは、なに? 簡単だって言った? それって、どういう意味なのか、意味はないのか、 偶然言っただけなのか。 そのときはわかりませんでしたが、 今になってふりかえると、難しいことじゃないぞ、と言いたかったのかなと思いました。 自分が感じたこと、思ったことをそのまま行動にとっていった数日間。 もちろん、パターンはさわぎ、感情も静まらないこともあったけれど、 なにかとてもスムーズにいろいろなことが進んでいったなあと思います。 簡単なことだった、とは言えませんが、 自分がそう思っていると誰かが動いてくれたり、 動いたことにつながって、また自分が落ちついて選択できたこともあった。 いろんなことが続いたけれど、 複雑にしていかなかったことが、とても良かったと思いました。 一つのことに感じる心があって、 それを軽く明るく広がっていくようにすると、 自分の取る行動が決まります。 そして、そこから、 また違う一つを感じては(パターンが動いては)、 本当の「私」が決めていく作業が続きます。 ときに思考をフルに使って、考え抜くという場面もありました。 考え抜くというそれも良かったかもしれません。 この2週間は、父のことと、仕事のことは、 別なことのようでいて、つながっていたのだと思いました。 感じた心を落ちつかせ、自分を強くもって、考え判断していく。 起きている出来事

祈るということ

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今日もまた父に驚かされました。 朝から訪問に来ていた看護師さんの顔を見て、 「おなか、すいた・・・」 人らしい言葉がついに出ました。 ついに食欲がでてきたのです! この一週間、 父はまだご飯を口にすることができませんでしたが、 昼食になると、今度はミキサー食をほぼ完食したのでした。 夕飯は、さらに食欲が戻ったのか、 食べさせようとした看護師さんのスプーンを奪い取り、 自分で食べたのだそうです。 父は、三途の川の手前でかろうじてとどまり、 そのうち、おなかがすいてきて、 こちらの世界に帰ってきてくれたんだと思います。 連日の歌や踊りも、まだこっちの世界にも楽しいことあるなあと、 思ってくれたのかもしれません。 むせて誤飲するのが怖いと思うと、 なかなかご飯を食べさせるというのは、 介護する側は勇気がいるのだと思います。 でも、もしも喉が渇いたり、おなかがすいたって父が思ったのなら、 むせるかもしれないけれど、食べさせてあげたい。 訪看さんと私たちの価値観が一致し、 父が食べたいと思ったときに食べられるように、 体制を整えてもらいました。 父のことで毎日の祈りも、すっかり長くなってしまいました。 具体的にお願いしたり、具体的に宣言したり、 今日一日を乗り越えたことに感謝の気持ちを伝えたり、 この時間は心の落ち着ける時間でもあります。 そして『祈る』ということについて、あらためて思ったことがあります。 祈りには、祈るその動機があって、 それが、天の意思に添うものであれば、望みは叶うのではないかということ。 天の意思は自分の意思でもあります。 そして、本当にたくさんの守ってくれているものたちがいるんだと思いました。 怖いと思うことに向き合うと、本当は一人ではないことに気づかされます。 向き合わないから、ずっと怖いんだと思う。 そこには、普段人と関わると顔を出すことがある、 ●どう思われるだろうか などというパターンの出番も不思議とないのです。 私は、父のおかげで、 父からでないと学べないものを今、教わっています。 だから、その大切な学びを、 もう少しだけ続けさせてもらえないでしょうか・・・ と祈っています。 これは、父から生きること、死ぬこと、どちらも学びたいという、素直な気持ちがそうさせています。 自分が取る行動もみな、その動機の上で動いているので、 以前の自分よりは少し

父からの遺言

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父の容体が少し落ち着いてきました。 兄が帰郷し、兄だとわかっているかどうかは知るすべもありませんが、 一瞬頬がゆるみ微笑んでいたかのようでしたので、 おそらくわかっているんだと思います。 父は先月88歳を迎え、 私たち兄妹は、自分たちの年齢の分しか親のことを知らないし、 それでも結構な年なのでそれなりに父のことはわかっていたつもりでした。 がしかし、ここに来てはじめて知る父親の顔があったのです。 それは、 芸達者だったということ。 それを知ったきっかけはヘルパーさんの一言でした。 今日は少し調子が良かったですよ、と言われ、 私たちは「え?この状態のどこが良かったと言うの?」 と、にわかに信じがたかったのですがー・・・ ヘルパーさんが父のそばで、 ♪もしもしカメよ~ という歌をうたったときに、父が続きの♪カメさんよ~ と歌ったというのです。 声にならないような小さなかすれた声だったと思いますが、それでもその後、 首を縦に動かしながら音頭をとっていたそうなのです。 普段、父はヘルパーさんたちから、 「癒されています」とか、「なごみます」とか、「励まされています」とか言われていて、 そこまでは何となくわかるのですが、 「指揮がうまいんです」という褒め言葉が確かにありました。 ん?指揮って、指揮者ってこと? 懐メロなどがデイサービスでかかると、 ご機嫌になって指揮者のように手を振っていたようなのです。 それがうまいと、お世辞でしょうが褒められていました。 紅白歌合戦は毎年見ていたし、歌が好きなのも知っていたので、 まあそういうこと(指揮者みたいな動き)もするんだろうな~というのはありました。 でも、♪もしもしカメよ~カメさんよ~♪にはちょっと驚いてしまったので、 私と兄はすぐさま、父の好きそうな昭和歌謡曲をかけてみることにしました。 すると・・・ 反応している・・・!!! 突然、パチリと目を開け、 手を壁に向けてなにやら踊りらしき動きをするではありませんか(もちろん寝たまま)。 すごーーーーーい、お父さん!!!どうしたの!!! さらに兄が 青森民謡『南部俵積み唄』 をかけると、 まさかの手拍子をし始めました。 父が若かりし頃、会社の余興で大黒様の格好をして踊ったときの写真があるのですが、 あの踊りを再現しているかのように、 しなやかに指先を揃え、しのらせ、リズムにのって手を

父と母を守りたい

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父が誤飲性肺炎を起こして3日目。 先日会ったときは、歩行器につかまって元気に歩く訓練をしていたので、 急に寝た切りになった父を見たとき、とてもショックでした。 普段から、もうまともな会話はできていませんが、 それでも奇跡的にというか偶然なのか、 ごくたまにわかったようなことを言うときがあり、 周囲にいる人たちを驚かせる(または笑わせる)ことがあります。 でも、今回はそんな奇跡はいまだなく・・・ ただ口を開いて、私たちに目を合わせるでもなく、 どこか一点を見つめ、うつろな感じで寝ています。 昨日は鼻から酸素を入れている管が嫌だったのでしょう、 管を外そうと手を伸ばしては、母に怒られていましたが、 今日はその元気もなく、手をにぎっても握り返してきてくれません。 こうなってくると、 いよいよもって、自分のできることは何だろうって考えます。 失う怖さと不安と、とてつもなく寂しさがこみ上げてくる自分自身を感じ、 それは父とお別れしたくないという気持ちがあることを知ります。 だから、それに語るのでした。 あなたは、お父さんとお別れしたくないって思っているんだよね。 だって、お父さんが大好きだし、 もっとお父さんと一緒にいたいし、 お父さんがいなくなっちゃったら、自分の最大の味方がいなくなってしまう、 ってあなたは思うからなんだね・・・ 怖さと不安と寂しさでいっぱいの自分。 そんな自分を「私」はしっかり受け止め、 「私」が守っていくから大丈夫だと、一人ぽっちにしないからと、 両手を広げて抱きしめる。 父は・・・ 父は今、何を感じているのでしょうか。 私と同じことをもし感じているのなら、 「大丈夫だよ、お父さん。私がついているからね」 と言ってあげたいです。 そして、不安でいっぱいの今にも泣きそうな母にも、 「大丈夫だよ、お母さん。私がついているから心配いらないよ」 と言ってあげよう。 私にできることを精一杯する。 今日まで自分を育ててくれた両親に、今度は私がしっかり守ってあげたいと思います。

自分にとっての答えでいい

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先日、夜中に吐きました(お食事中の方、すみません)。 普段滅多に吐かないので、自分でもびっくりしましたし、その苦しさはもう地獄・・・ まるで何か体の中に、得体の知れないものが憑依していたんじゃないかと思うほど、 これでもかというくらい吐きました(って、何度もすみません)。 あれから、なかなか体調が戻らず、 お腹に力が入らない感じがあるので、静かにそろりそろりと動きながら過ごしております。 今回のこの事態ですが、 この身を削ってみて感じたことがあります。 自分が欲していないもの、望んでいないものは、 もう本当に受け付けなくなっているのだということ。 ああ、自分は受け容れられない、あれはあきらかに違和感だった、と思うことがありました。 天の意思、神の意思、自分の意思は、 ちょっとのことでもごまかせないのです。 ごまかしていいものも、もちろんあるとは思いますが(意識的にそれをすれば)、 そうしてはいけないものに対しては、こんな風に全力で教えてくれるのか・・・ と思いました(食べ過ぎだけではなく!)。 本当は、何かすっきりしないものがありました。 あのとき嫌な感じがあったんだけど、それが何なのかがわからなかった。 そっちに進んでしまったからもう戻れないとか、 頭で考えて、これはいいことなのか? 無理に納得させようとしてはいないかとか、 なんか違う感じもしないでもないけど、答えがわからないからまあいいかとか、 そういうことがもう、自分のある一線を越えてくると知らせてくれるようになっているのかもしれません。 それはやめなさい・・・と。 自分でも違和感をちゃんと感じていれば、すぐに方向転換することはできます。 だけど、その違和感というものが、ものすごく巧みに人の情をかえしてやってくると、 自分の中にある根強いパターンたちは、感覚をすり替えようとしてくるのです。 こんなにあなたを応援してくれているのだからとか、 それは絶対にいいことでしょうとか、 それはあなたに必要なことなんだとか、 こちらの感覚を麻痺させるかのように、自分を洗脳させようとするのだと思いました。 洗脳は、それに気がつかないから洗脳でー。 あれ?ちょっと何か変かもしれない、しっくりこない、なんだこのもやもやした感じは? と確かにもやもやを感じてはいるのですが、 それが何かはすぐにはわかりませんでした。 一方で、あまり

正しいというパターンについて

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自分は正しいと思っている人は多いと思いますが、 自分がそう思っていることに気がついている人は、とても少ないのではないでしょうか。 自覚がない・・・というところです。 言われれば、気がつくのかもしれませんが、 そうそう面と向かって「自分のこと正しいと思っているでしょう」とは言えませんし、 もしも言えたとしたら、相手は自分を否定されたという感情が先立ち、 冷静に自分の思っていること、していることを「間違っているのかもしれない」とは思えないかもしれません。 この間違っているかもしれない、とは思えないということが、自分が正しいと思っている何よりの証拠です。 自分が正しいと思っているとき、心の内側では何が起こっているかというと、 まず大体が話を聴いていない、自分が話すことばかり考えている、相手は間違っていると思っている、 そして、相手に対してパターンが引っかかりまくっているのです。 全部そうだとは言いきれませんがー。 でも、おおかた人への言動にパターンが引っかかるとき、 自分の考えや行動の方が正しいと思うから、えーなんで?って引っかかるようです。 その人の考えも感情も受け容れられないと感じ、否定と拒否をしている状態です。 そういう時でも、相手の言っていることも一理あるなと思えることもあります。 自分には考えつかなかった話を聞いてしまうと、 自分よりも相手の方が正しいのかなと思うことはありますよね。 相手の方が優れているのかもしれないとか、自分の方が何か違っていたのだろうかと思ってしまいます。 ここで、素直に自分と相手との違いだけを認められたらいいのに、 相手を認めるどころか、自分は正しいというプライドは傷つき、 否定されたパターンはますますざわざわ落ち着かなくなってしまうこともあるのです。 一体いつから、正しいとか間違っているとか、判定するようになったのでしょう。 判定している意識はなくても、 やっていることは、自分が正しいから相手にも正しくあってほしい、なのです。 賛同してほしい、共感してほしい、自分がやっているようにやってほしい、 自分が思うことを認めてほしい、そして、自分が正しいということをわかってほしい! 正しさなど時代によっても違うし、 人それぞれのものだし、条件が変わればがらっと変わってしまうものだし、 とても曖昧なものなのに、 自分については、どうしてか正しくあ

素粒子でできている自分が創りだす世界

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先日は、沖縄から参加されたHさんのおかげで、 秋晴れの中、紅葉を眺めて歩く気持ちのよい一日を過ごすことができました。 盛岡八幡宮の高さから振り返る景色。 大きな赤い鳥居の向こうにもかつてあった長い参道が続き、 「参道」は「産道」なんだと、どこかの宮司さんが言っていたことを思い出しました。 生まれてくる赤ちゃんはみな、 それ相応の覚悟を持ちながら、お母さんの産道を通ってくるのだと。 参道を歩くたびに一歩、また一歩と私たちも生まれ変わっていくのだそうです。 そんなことを思い出していると、目の前にはなんと~ 結婚式に向かう花嫁さんと花婿さんが! この日は11月5日。良いご縁の日(いいごえん)だったのでした。 そして、神社といえば、やっぱりおみくじ。 HさんとKちゃんは大吉で、自分は末吉。 道場の合宿が終わったばかりで、心はまだほやほやに、 「ひたすら突き進め」という言葉が熱く心に刻まれておりました。 がしかし・・・ ここにきて、「慎め」「控えめに」というおみくじに書かれた神の御言葉。 えーーー、どっちを信じればいいんだーーー! 迷いましたが、「慎みつつも、突き進もう!」にしようとひらめきました。 沖縄には紅葉があまりないそうで、 歓声をあげて写真を撮りまくるHさんのスマホは、 あっという間に紅葉した木ばかりがずらーっと並んでおりました。笑 本当に楽しそうで、嬉しそうで、こちらも楽しくて嬉しく、幸せ感じました。 あれからまた一段と秋も深まり・・・ あちこちで起きているエネルギーの違いを、以前よりも敏感に感じとっています。 雰囲気の良し悪し、やる気の有無、緊張感の有無、楽しさの有無、 ここはどんな素粒子の集合体なのか?・・・と考えるのが面白いです。 物理はあまりよくわからないのですが、人間も素粒子の集まりなんだそうですね。 ということは、少なくとも、自分が選んだもので、 自分の居場所を良くも悪くも創り変えていくことができる。 そういう物質化が叶うということですよね(教わったことを自分なりに復習)。 例えば、とある古民家の囲炉裏。 豊かさを感じ、落ち着きを感じ、そして敷物の民藝独特の色彩に心が躍ります。 そうです、心が躍るのです。震えるのです。 そこに集う者たちへ、心躍る感覚を伝染させていき、 その素粒子の集合体は、 ポジティブな感情や対話を生み出し、その場を創り上げていくのだ

なんだかすごく大事なことを教わった気がする

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2日目は怒涛の如く終わり・・・ついて行けているのかどうなのか、 これからの数日間で学んだことを咀嚼していこうと思います。 新しい言葉、もう随分前から知っている言葉、そういう意味だったのかと知る再編成された言葉、 いろいろ出てきましたがー、 このままの自分でいいんだというか、 むしろ、自分を変えてはいけない、変えようとしていくことではないということが、 ほんの少しずつ、落とし込まれたような感じがあります。 このままの自分・・・というのは、黒パターンのままで居続ける自分をゆるすということとも違い、 選び変えられるものは白へ選び変えながら、 この「私」という素材、特性のまま、 すべてが揃っている自分だから、この「私」でやっていけばいいんだという感覚です。 この顔で、この体質で、この個性で、この環境で、です。 どんな風に自分が変わっていきたいというものが薄れ、もうそういうものが無い感じさえします。 だから、堂々と自分が選びたいカードを手に取り、 今やりたいと思っていることに突き進んでいこう。 もしかすると、とてもシンプルなところに立ち返ったのかもしれません。 やりたいと素直に思うものを選んでいく日々。 こんな自分には無理とか、そういう環境にないから、 いつか自信が持てるようになってからならば・・・等々は「私」を否定する余計なもの。 この条件で、今回の課題を乗り越えようとセッティングして来ているのですから。 つまづいてもまたやり方を変えて進めばいい、走りすぎたら止まればいい、 どうなっていくのか(どうなっていかなければ)なんて考えなくてもいい、ということなのです。 先生も何度も言っていましたが、本当にちょっとこれは、今までと違う流れのようです。 なんだかすごく大事なことを教わっているのだけれど、 どこかそういうことをずーっと前から知っていたかのような感じも、かすかにあるのです。 とても現実的な話をしているのに、神聖な感じ。 また神聖であるけれど、科学的にも実証されつつある話。 やっぱり、そういうことなんだ・・・という静かに静かにわかるような伝わってくるような感覚もありました。 まずは、今年残りの2ケ月。 自分を変えずに変わっていく?この目の前がひらけていく感覚を大事に、過ごしていこうと思います。

一秒で選ぶカード

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今日は道場の合宿一日目でした。 というと、寒空で滝行でもしているのかと思われるかもしれませんが・・・ いつものように各自の近況報告からスタート。 今回は、道場のみなさんが各ブログで名言しています「しとめる」という言葉に、 知らず知らずのうちに感化されていたのか、 それとも、これまでの自己観察と自己探求をやってきた成果というのでしょうか、 年末に向けての、それぞれの仕留め方が本当に見事でドラマティックでした。 人の一生を映画に例えてみたら、 平穏で幸せ家族で、お金にも困らず、仕事にも困らず、いつもポジティブに生きている人生など、 なんのおもしろみもありません。 嫌なことがあって、大嫌いな人がいて、ネガティブな出来事があって、一難去ってまた一難。 そうやって、向き合いたくないものに向き合い、もがき、そこをどう越えていくのか・・・ そういうストーリーがあった方が断然おもしろいし、感動があるということがわかります。 苦難を乗り越えました!ではまだ終わらない、山あり谷ありの人生が続く方が、 「私」を輝かせるものであることは間違いないのだ。 ということが、今日の学びだったように思います。 一瞬一瞬、一秒一秒、 宙にばらまかれた選択のカードのどれをつかみ取るのか。 日々、それらの連続で自分が創られていくのです。 量子力学の考え方に触れ、未来に向かっての進み方を教わることができました。 自分は「手放す」というワードをそこに念じ、 唱えるほどに、何を手放しいくのか、たった一秒の中に手放す自分を感じ取り、 それはスローモーションのように自分の力強さを確認できたような気がします。 今日は沖縄よりHさんが参加して下さいました。 夕飯は東家さんのおいしい蕎麦定食をいただき、沖縄あるある話とHさんのおかしな話で盛り上がり、 本当に幸せ感じる楽しい夜でした。 明日はまた一瞬一瞬、一秒一秒、 自分の魂を成長させていくためのカードをつかみにいきたいです。