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11月, 2021の投稿を表示しています

親へのパターン

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久しぶりに父親に会いに行ってきました。 コロナ中も会えるときがありましたが、玄関で数分間のビニール越しでしたので、 距離間があると父も自分に会いにきているということがわからないようで、 話しかけてもうわの空状態でした。 だんだん娘だということも忘れさられてしまっている・・・ 自分に関心を示さない父を見るのがつらかったりして、 コロナを理由に足が遠のいていたのが正直なところでした。 この数か月間のうちに、大好きな叔母が亡くなったり、 昨日まで言葉を交わしていたご近所の方が亡くなったりということがあって、 やはり人との別れに思うのは、もっと会いに行けばよかったという思いです。 たとえ自分のことがわからなくなってしまったとしても、 わたしが会いたいのだから、それでいいと思い父に会いに行きました。 手を握ると思ったよりも温かく、ずーっとわたしの手を握ったまま何か話しています。 また一本歯が抜けてしまったみたいで(もう前歯は数本しか残っていない)、 「歯が無くなっちゃったね~」と笑うと、 笑われて恥ずかしいと思ったのか、父は口を真一文字に閉じてしまいました。 元気そうでほっとしました。 まだこうして会話にならない会話ではあるけれど、話しかけると聞いているような感じもあります。 そんなやり取りをしていると、スタッフの方たちが集まってきて、 こんなことあんなことがあったと、いろいろエピソードを教えてくれました。 話すこともままならないのに、まさか今ギャグを言おうとした? というときがあったそう。 スタッフさんたちは、まさか!と思い、耳を澄ます・・・ ああ、そう言えば、よくおやじギャグを言っていたっけ・・・と家にいた頃を思い出しました。 本当に頑固なところはあったけれど、落語も漫才も好きな楽しい父だったのです。 母に対する●自分をおいていかないでほしい、というパターン。 父にも同じようにあるのだと思いました。 パターンは、 もう無条件に自分を愛してくれる人がこの世からいなくなってしまうことに耐えられないと思っています。 どんなときも自分を一番に思ってくれた人を失うという怖さ、悲しさ、 本当にたった一人になってしまうんだという寂しさ。 ここから本当の「私」が白を選択していくとしたら、 ○自分は一人で生きていけるのかもしれない ○もしかしたら一人で生きていける準備ができているのかもしれ

思い込みのコミュニケーション

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コミュニケーションはお互いの思い込みによって作られる・・・という話を聞きました。 どういうことかというと、 例えば、聞かれたことがなんだか難しくてちゃんと答えられず、 ズレた話をしてしまったということがあったとします。 相手は相手で、そのズレた話を理解しようと考えるのですが、 そのズレた感じが何か自分の考えが及ばないところで実はすごいことを言っているのではないか、 と思ってしまうのです。 自分にしてみれば、「こんな難しい話をするなんて、かなり頭がいい人なんだろうなあ」 という思い込みの元に、 がんばって答えようとしたんだけど、うまく答えられなかったということだったのですが、 相手は相手で、 返ってきた答えが理解に苦しむ表現だったがゆえに、 「頭のいい人は言うことが違うんだなあ」 と相手も勝手にすごい人なのかもしれないと思い込んでしまったということなんです。 お互いが想像したものと事実は違っている(それが思い込み)という話でした。 こんなふうに、コミュニケーションを取ろうとするときは、 少なからず、いろんな意味で相手のレベルに合わせるということを考えると思うのですが、 その相手とはどんな人間であるのか・・・ 自分の想像の中で人物像をつくりだし、 その架空の人物にむかって聞いたり話したりしている、ということなのだそうです。 この話を聞いたとき、 学びでいうところの『パターンで人を見ている』ということに似ているなあと思いました。 想像の中で人物像をつくりだす、というのもパターンであるし、 自分にはかなわない相手なのだと受け取っておいた方が、理解できなくてもしかたない、 後から傷つかなくてすむ、などと思うのもパターンです。 思い込みがよくないということではないですが、 それが白の感覚での思い込みであったとしたら、 きっと相手の反応は気にならないのではないかと思いました。 白の気持ちのよい感覚の元で、行動を選択していけたら、 どんな反応をされたとしても、相手を過剰にすごい人と捉えることもないでしょうし、 自分より劣っている人だと捉えることもないかもしれないです。 心をいかに軽くしたままコミュニケーションを取っていけるか・・・ というところが大事なんだと感じます。 相手が勝手に自分という人間を美化することもありますし、よく思われていないということもあります。 どちらにしても、

季節外れ

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最近、トマト(中くらいの大きさのもの)をなにかと料理に使っています。 夏に植えたトマトが雑草の中に埋もれ、姿を消し、 先日の庭の片付けのときに、雑草とともに引き抜いて捨てるはずでした。 が、しかし~ 何の罪もない青いトマトたちを見ていたら申し訳ない気持ちになり、全部は捨てきれませんでした。 赤くなりそこなった青々としたトマト30~40個くらい?収穫し、 ざるに広げて日光浴をさせること数週間。 太陽の力ってすごいですね。 一つ、二つとだんだん赤く色づいていくではありませんか・・・ この時間差がまた料理に使うにはちょうどよく、毎日食べております。 おでんやロールキャベツ、ポトフなど、汁物に入れて煮込むとうま味がとっても増します。 トマトそのもので食べるよりも、こっちの方が自分は好きかもしれません。 料理人の知人から、 トマトには旨味の成分と言われるグルタミン酸が多く含まれているから、 煮炊きするものに入れると食材のおいしさがぐっと引き出されるんだよ~ という話を聞いたのは数年前のこと。 この話は、自分にとっては初耳だったのですが、 知っている人はおでんにトマトって意外ではないみたいですね。 料理人が言っている側から、おでんには合わないでしょと言い張り、 まったく試す気がなく来たのですが、 お弁当に毎日一個入れても食べきれないトマトの量に、やっと挑戦してみようと思ったのでした。 そして・・・ こんなに美味しいのなら、早く試せばよかったと思いました。 トマトは夏野菜(陰性)なので体を冷やす作用がありますが、 こうして火(陽性)をじっくり通すことで、陰陽のバランスがとれ、 季節外れの野菜も体を冷やすことなくしかも美味しく食べることができます。 それにしても、こんな緑色のトマトがこんな赤くなっていけるんだからなあ〜 とても感慨深いです。 地面の上ではちゃんとお世話できませんでしたが、 ざるの上では育ってくれてありがとう。

インナーチャイルドと話す

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 話の中に多く登場したのは『インナーチャイルド』のことでした。 小さい頃につらい経験をした当時の子どもの自分。 その子が癒されることなくそのまま長い年月が過ぎ、心の内に今もなお取り残されているのです。 その子は、過去の自分自身でもあるため、どんなことに傷つき悲しい思いをしたのか、 おおよそのところは思い出すことができます。 ただ、あまりにも深く傷つき、悲しみ、怖がっているために、 その子は今もひとりぼっちで泣いていたり、震えていたり、 不安なまま、息をひそめ、何も言えず、時が止まったまま『そこにいる』のです。 そういう子たちに、今の自分が会いに行ってあげるのですが・・・ はじめてインナーチャイルドの話を聞いたときは、 会いに行くってどういうこと? と、とても戸惑いました。 生身の人間に会うわけではないので、どうやってその子の側にいけばいいのか。 またその子と(やはり生身の人間ではないので)何の話をしたらいいのか、 またその子は、大人になっているわたしへ本心を話してくれるのだろうか・・・ その子は自分、自分はその子?と混乱するような感じがしました。 でも、そんな理屈理論とは全く関係のないところで、 思い出の中のその子(自分)は確かに、その当時のまんま、 寂しそうに一人ぽつんとただそこにいて、 その姿を見たら、 そばにいてあげたいという気持ちに自然になっていきました。 当時の自分よりいろんなことを経験し、失敗もし、 それでも何とか今日までやってこれた大人の自分が今はいます。 優しさも強さもユーモアも、いろんな要素がまじりあってあの頃よりはたくましくなっている自分。 今にも壊れてしまいそうな心もとないその子を助けたい。 どんな話も聞いてあげたい。 今の自分ならばわかってあげられる。 氷が溶けるように本当に少しずつ少しずつ、 焦らずゆっくりと何が怖かったのか、何が不安だったのか、本当はどうしてもらいたかった? 少しずつ理解を深めていく。 安心してもらえると、こちらもほっとするような感覚が生まれてきます。 そしてその感覚とともに、 その子の見ている情景が変わり、表情が変わり、心は澄み渡るように広がっていくのでした。 インナーチャイルドのケアは、とても大事なものなんだと思います。 いろいろなパターンに引っかかるときに、 その核心にあるものが子ども

風通しよく

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風通しのいい関係って、いいなあ~と思います。 思ったことを何でも言い合える、嘘のない関係? 思ったことが言えてないというのは、 誰かに遠慮しているとか、悪く思われたくないとか、勘違いされたくないとか、 どう思われるかが気になって何も言えなくなるということ。 だから、そういうことを考えずに話せるというのは、 お互いに理解し合いたいという気持ちが根底にあってそうなるものかもしれません。 また、嘘があるとかないとかいうところに焦点がいくのは、 関係性を築くときに、 正直でありたいという、心と発する言葉を一致させたいという気持ちがあるように思います。 また、正直さはあった方がいいとは思うけれど、 嘘をつかなくて済むような関係というのは、 どう思われるか自分が心配しないで済む関係のことを言っているのかもしれません。 なんだかそっちは、保身的だし相手にゆだねすぎているように思います(自分ではなく相手次第)。 思ったことを言えないというとき、とても息苦しさを感じます。 言ってしまったら何かよくない状況になると思っているので、そうなることを恐れ我慢するので苦しい。 自分が言った言葉で相手を傷つけたらどうしよう、 相手を不快にさせたらどうしよう、 相手が自分を嫌ったら、自分から離れていったら・・・ これは、我慢させられる相手がいるからそうなるように聞こえますが、 全て自分の(自分が起こしている、創り出している)話なんだと思います。 相手が傷ついたら、自分が悪者になるのが怖い。 相手が不快に思ったら、自分が責められているようで辛い。 嫌われたらもう生きていけない、離れていったらひとりぼっちになってしまう、もう安心できないなどなど。 自分が怖い思いをしたくなくて辛い思いをしたくなくて、 孤独で不安にならないことを望んでいるからなのだ。 または、その望んだ状態があることが幸せなんだ(それ以外はダメ)と思っている。 だから風通しよくしたい、と思ってみても、 先頭をきってそうするには勇気がいるし、 もしかしたらリスクがあるかも、大変な思いをするかも、 今のままの方が傷つかないで済むし~って、ちょっとひるむときがあります。 そう思うこと自体がパターンであるのですが、 人って、大変なことはできるだけ避けて生きたいと思ってしまうのだ。 ただ・・・ その『大変なこと』を越えて吹く風は、このうえなく爽や

期待はずれ

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夫婦のかたちはいろいろあります。 これからあと何年何十年一緒に暮らすのだろう~と思うと、 どんな夫婦でありたいか? わたしたち、もそうですが、 まずわたしはどうありたいのか?を考えてしまいます。 先日、たぶん自分では夫の返ってくる言葉がなんとなく想像できていたので、 その返ってくる答えをどこか期待して話していたのだと思いました。 それが・・・ 期待外れの、まったくもってわたしの気持ちを理解していない、 パターンに引っかかりまくる答えしか返って来ませんでした。 わたしはあまりにも腹が立って無言になる。 でも、無言(無視ともいう)状態のわたしに対して夫は食い下がります。 なんで黙ってんの? 図星だから腹が立つんじゃないの? ず・ぼ・し・だ・か・ら・・・ という夫の言葉が胸にささりました。 ●わかったようなことを言われたくない ●そんなふうな言い方をされたくない ●(図星と言われた内容を)自分はそんな人間ではない というあたりのパターンが大暴れです。 「わかってもらえないと思ったら悲しくなった!」 と伝えると、 「もっと話してくれないとわかんない」 と言われました。 もしかしたら、結果的に自分の望む答えが得られなかったとしても、 自分がここまで話せたのだからと思えれば、それでOKだったのかもしれません。 言えた・・・ということがとても大事だった。 「そうじゃないよ~」「こう思ってるんだってば~」「こう言ってくれー」 などなど口にしながら、あきらめずにたくさん話せばよかったんだと思いました。 またのチャンスのときは、 相手にわかるように、正直なそのときの自分の気持ちも伝えながら話そうと思います。 ひとつ屋根の下で暮らすもの同士、 話せないでいることがあるというのは、気持ちが晴れないものですね。 とことん話し合える夫婦、 理解し合おうとする夫婦、 究極は~、お互いがそのままでいいと思える夫婦に、少しでも近づけたらいいなあと思います。

愛を学ぶ

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ネガティブさが人とのつながりを強いものにするといいます。 ポジティブなことよりも、 悲しいこと、つらいこと、寂しいこと、傷ついたこと、腹が立ったことなどの方が、 共感しあえるものの深さが違うのだと思います。 ネガティブなことをひとりで抱えるのはそれだけつらく、共感で救われるような気持ちになるからかもしれません。 どれくらいの悲しさであるのか、つらさであるのかは、 人によって言葉で計れないもののはずなのですが、 共感してもらった、と感じると、 自分のそれを理解してもらったような気持ちになってしまいます。 そして、話を聞いた方も相手のその痛みに寄り添いたい、優しくしたい、 という思いがわいてくるような気がします。 もし、その人と同じことをされたら・・・と想像しました(愛されていないという話を聞いた)。 とても寂しく、悲しく、どうして愛してくれないんだという怒りがあるのだろうなと思った。 自分を愛されるに値しない価値のない人間だと思ってしまうかもしれない。 事実はどうなのかわからないけれど(本当は愛されていたかもしれないし)、 少なくとも自分がしてほしいこと、ささやかな望みさえも全く叶えられなかったとしたら、 これからどうやって生きていったらいいのだろう・・・と、 深い悲しみの果てに、生きる気力さえも失ってしまうかもしれないと想像してしまいました。 同じ体験をしていなくても、 その人のそのときの気持ちと同じような気持ちになってしまうことがあります。 たとえ想像での共感であっても、 そう感じた瞬間に、これまでのその人のやってきたことや口にしてきた過去のことさえも、 少し理解できたような、 体験がその人を作ったのだと思ったのです(これもその人のパターンではあったが)。 そして、とても小さな子どものように見えました。 きっとその人のインナーチャイルドは、 ずーっとそこにいたまま同じ情景をいまだに見続けているのかもしれない。 助けに行く方法をその人が知っていたら、 自分が教えてあげられたら・・・ 「つらかったんですね」と言うのが精一杯でした。 でも、 自分には、心と体と魂をいつも見守ってくれているものたちがいます。 だからきっと、その人にもどんなときもずーっと見守っていてくれる方々がついている。 どうか、その方たちへ、 あまり悲しい思いをさせないでくださいと心の中で祈らずにはいら

白で変身

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パターンには黒と白があります。 ※あらためて、パターン(黒)とは、 こちら をご覧ください 今日たった一日の中でも、 あきらかに黒パターンだなこれは、と思ったものは、 ~すべき、~してほしくない、~さんが嫌い・・・ というものがありました(パターンは一つだけというわけではない)。 こだわりが強くって、自分のことしか考えていなくって、決めつけにかかり、執着しているのが黒パターン。 もやもや、ムカッ、イライラ、がーん・・・ 違和感、怒り、憎しみ、落胆、そして寂しさなどを感じているのは、黒パターンに反応している証拠です。 一方、白を選べたな、と思った行動もありました。 「もしかしたら、○○ができる自分になってきているのかもしれない」 「もうそこにこだわらなくてもいいのかもしれない」 といった考え方ができて、 そこには広がり、柔らかさ、明るさ、軽さを感じられたときです。 白には黒のような心の引っかかりは一切ありません。 白を選んではいても、数時間後にはまた黒と迷う・・・ということが繰り返しされます。 どちらも『自分』で、どちらがいい悪いではないのですが、 どうして黒ではなく、白を選ぶ練習をしていくのかというと、 白を使っていくことは、断然今までと違った自分の可能性を広げられるからなんだと思いました。 黒のように、自分ってこういう人間なんだから~という決まりきったものではなく、 こんな選択だってできる、こんな自分もいるんだ、 という『新しい自分』に変身することが白にはできるのだと思います。 しかも、ごく自然に無理がなく変われるもの。 黒では変われないのです。 自分の黒の部分、真っ黒な部分というのものは、 いつも同様の課題や壁にぶちあたり、 なんて自分はいつも同じようなことで悩み苦しむのだろうか・・・と思うもの。 あまりにも人生の中で何度もそれが起きるので、 それが自分らしさでもあるのか?と思ってしまうほどでした。 性格は変えられない・・・と誰が言ったのかわかりませんが、 そういうものだから、人生そんなものだからと、 開き直っていた時期もありました(そうやって巧妙に納得させる力が黒にはある)。 でも今は、 「私」が何を選ぶのか、いつでも変えられるのだと知っているので、 性格は変わる、人生も変わる・・・それは白パターンを選んでいるからだとわかります。 自分らしさというものは、黒パ

したいことをする

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我が家の小さな庭は、夏から手つかずになっていました。 ひたすら枯れるのを待っての庭掃除をしました。 まじまじと伸びた雑草をみつめ、久しぶりに土をさわり、枯れ草の匂いをかぎ、 ときどきお尻をついて休憩し・・・見上げると快晴の秋晴れでした。 こういう瞬間に幸せ感じます。 気が向いて雑草をむしるように・・・ おもむくままに、本当にしたいことだけして暮らせたらどんなにいいだろうか~ と思いました。 と同時に、 そうやって暮らしていけばいいさ!という心の声が聞こえたような気がします。 やりたくないことをやらない・・・というのもあるけれど、 したいことをしていこう・・・なんだと思います。 なぜならば、 やりたくないと思ってもやらねばならないことも多少はあるからです。 例えば掃除洗濯とか、仕事に行くとか。 毎日の生活のところで考えると、 これはやりたくないことで、これはやりたいこと、 というように特に意識をしなくても、自然にしていることはさほど嫌なことではないのかもしれません。 今縁あってやっている福祉の仕事も、したいことの一つではあります。 正確にいえば、その中の相談業務が好きなのだと思う。 でも、一番したいことはやはり、 カウンセラーとしてのカウンセリングの仕事。 自分自身へのカウンセリングと、 それを使っての他者へのカウンセリングです。 相談とは違う、ひたすら自分の内面を探求していくのがカウンセリング。 他人のための時間であって、自分の時間が流れているかのよう。 先日の合宿でのテーマ『勇気』が、ずーっと頭から離れません。 それほど、自分って勇気を意識して使っていなかったのかも・・・。 そして、それに見合う自信もない・・・ でも、自信なんて、 いつまで経っても、どのレベルになっても持てないものなのかもしれない。 自信があろうがなかろうが勇気を持つ、と教わりました。 「私」の意志で何かを選ぶことは、勇気そのものかもしれません。 今週もハードな業務内容が多く(パターンのケアが必須です~)、 こういう時こそ、起きていること、人、に惑わされずに自分を見ていこう。 それが自分のしたいこと!

枠にとらわれない勇気

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岩手クラスの合宿後半。 今朝は少し早めにスタートし、大人の社会科見学をしてきました。 色鮮やかな紅葉に魅せられながら、盛岡の歴史にふれることができ、 みんなで行けたこともとても嬉しかったです。 地元に住んでいて知らないことって多いですね。 燈台下暗し・・・報恩寺というこんな由緒ある美しいお寺があったとは。 今日来れて本当によかった。 五百羅漢のお堂を拝観しました。 座禅を組んで静かに瞑想しているような一般的な羅漢像とは違い、 それぞれ表情もしぐさも座り方もみんな違う個性豊かな羅漢たち(仏ではなく生身の人間だそう)。 どこか魅かれてしまう気になる羅漢像を直感で三体ほど探し、 その特徴や雰囲気、印象から今の自分へのメッセージを受け取りました。 羅漢の姿は自分の鏡。 自分にだけ感じ取れるものがぞれぞれにあり手本となってくれているようでした。 自分が選んだものは、修行僧なのに、これってどうなの?と思うようなお方たち。 個性的な洋服を着こなす人、片膝立てた行儀の悪い人、口をあけてのけぞって笑う人。 どれも『枠にとらわれるな』と言われているような気がしました。 そして、そこに関連して・・・ 今回の合宿の(自分の)テーマは『勇気』だったように思います。 枠にとらわれない勇気。 他人に言えていないことを言う勇気、核心をつく黒パターンに向き合う勇気、 白で行動する勇気、自信が持てないことへの勇気、などなどこの学びをする上でも欠かせない資質です。 そして個人的には、 母を失う寂しさに向き合う勇気、 そしてどんな不安とも共にいられる勇気が必要だと感じました。 本当の勇気を使ってこなかったことに、愕然とします。 こんなにやっていないんだ、自分・・・ そこにはなんとまあたくさんの言い訳があったことでしょう(焼肉食べながら、言い訳のオンパレード)。 ーーー勇気は汝を正しい道に導くーーー (ベートーベンの言葉) 本当の「私」が選ぶにしても、それを行動に移すにしても大きな勇気がいるのです。 でもそれを持たずして、何一つ叶えられるものはないのだと思いました。 とても怖い・・・けれど、やるしかない。 だって、そこに行きたいという魂の声を知っているから。 至らない平凡な自分であることを知り、 そんな平凡な自分だからこそ勇気を出してがんばっていこうと思いました。 先生、クラスのみなさん2日間ありがとうござ

過去は終わっていない

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今日は岩手クラスの合宿1日目でした。 普段よりもじっくりと一人一人の近況について話しましたが、 先生からするどい問いかけが入ったり、新しく聞く話があったり、自身の成長を感じられる言葉があったりと、 いずれにしても、どんな話も今の自分に突き刺さるような内容でした。 今回わたしは先日出てきたインナーチャイルドの話をしました。 チャイルドと言っても20代の子です。 その子の背中をさすり、 「大丈夫だよ。ひとりぽっちではないからね」 「本当に大丈夫?」 「本当に大丈夫だよ、わたしがついているよ」 そんなやり取りをしていましたが、 この話しているときに涙が出そうになってしまいました。 このじーんとこみ上げてくるもの。 もう大丈夫と何度も何度も言ってあげたと思っていたけれど、 もしかしたらもう少しこの子の側にいてあげてもいいのかもしれない、って思いました。 移りゆく秋の空を眺めながら(そういう風景の中にいる子)、 元気になったその子が「もういいよ」と言ってちょっぴりたくましさを感じるくらいまで、 あと少しだけ側にいてあげたいと思いました。 過去のことだけれど、終わっていなかった。 ずーっと長い間、病気を克服したから?今は元気な体だから? だからもう過ぎ去ったこととして、単なる思い出として終わっていた。 あの頃、誰にも自分の寂しさ、怖さ、不安な気持ちを言わず、 一人ぽつんと真っ暗なところにいる自分を助けてあげることなく、時が流れていった。 この子は取り残されたまんま、何も変わらず何十年経ってもそこにいたんですね。 むしろ、あの頃よりももっと寂しい思いをしたまま、そこにいたような気がしました。 インナーチャイルドというと、 一人では生きていけないような本当に小さな小さな子どもというイメージがあるかもしれません。 実際に助けを求めてきた子はそうでした。 でも、もっと大人になってからのインナーチャイルドも出てくることがあるそう。 そういう時は、体が大人だからと躊躇せずに、 過去に閉じ込められている自分がいたら、ちゃんと今の自分が助けに行きたいと思います。 明日は、どんなワークがあるのか、 先生から仲間からどんな言葉が自分の魂に届くのか・・・ とっても楽しみです!

過信する

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自分のことを過信していました。 自分の実力を過大に評価していたのだと思いました。 この自分が判断したことなのだから、大丈夫・・・という、 こ・の・じ・ぶ・ん、というところ。 自分自身を信用して疑わないという、決めつけといったらいいでしょうか。 なぜ、自分を過信するようなことになったのか? これまで、充分努力してきたことであったし、正直にやってきたことだったし、 結果を出して少しずつ自信がついてきたものだったと思います。 そうやって積み上げてきたものが確かにあったのかもしれませんが、 いつの間にかその仕事に対して、 「自分」を信じてやるというより、 「やってきたこと(やり方)」が正しかったと信じてやる自分、になっていたのだと思います。 今目の前にある現実を受け入れると、 どこかに本当に小さなものだったけれどやはりすっきりしないものがあったのです。 それを、打ち消したいがために根拠を絞り出していたように思います(間違っていない理由を探すため)。 今までうまくやってこれたからといって、 そのやり方がこれからもずっと正解とは限らない・・・ という単純なことに全然気がついていなかった。 自分を信じてやっていこう、というときの「自分」とは、 それが間違っているかもしれないと思える、 今までのことをゼロにできる、 いつでも方向転換できる、そういう「柔軟な自分」でした。 その柔軟さがなくなったとき、 うまくやってこれたことに固執してしまったのだと思います。 暗示をかけるように、自分がやってきたことを信じて大丈夫と、 今までのうまくやってきた自分から、どうなるかわからない自分に変わっていくことが、 ちょっと怖かったのかもしれません。 そして心の深いところで、過信している自分自身に気づいていたからこそ、怖かった、 そうじゃない住み慣れた自分の位置ばかり見ていたかった・・・のかもしれません。 信じることと過信することの違い。 ありたい自分となりたい自分の違い。 今まで必要だった経験から、異なる経験へと変化するとき、 覚悟しての勇気がいります。