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4月, 2024の投稿を表示しています

みんな若い頃があった

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父の百箇日法要と納骨が無事に終わりました。 それにしても私は、親戚に対してものすごい思いこみがあったんだと、 この年齢になるまで気がつかなかったことに、 ちょっと衝撃です・・・ 自分が思ってきたものって(あまりよくない捉え方)、 一体何だったんでしょう。 今になってわかるものって、 あまりにも遅いというか・・・ それでも、自分が生きている間に気づけてほんとに良かった。 今日の法要で、今まで抱いていた親戚へのイメージが崩壊し(そう、ガラッと変わった)、 大家族の中で育った父がいたこと(12人兄妹なんです)、 お互いに迷惑をかけたりかけられたりしながら、支え合いながら、 おもしろおかしくたくましく生きてきたんだなあと、 それを本当にしみじみと思いました。 自分の知らない父の若い頃の話は、 (それを話す、いとこたちももう70過ぎてる) あまりにもぶっ飛んでいて、もう爆笑。 中学か高校生かのまだ子どもの甥っ子たちに、 任侠(やくざ)映画を見せにいったり、自分の推しの政治家の演説会に連れていったり、 普段おだやか~で優しい父とのギャップが、当時理解不能だった話。 それだけ可愛がってくれたし、男気がある人だったと。 私はなんとなくそういう父の行動がわかる気がして、 男気もそうだけど、いいと思ったらみんなにいいと言い、突っ走っていくところが、 あ、自分も似ているな・・・って思った。 みんなやんちゃな子どもだった頃があり、 さみしく泣いていた子どもだった頃があり、 そして、自由で自分らしくいた頃があったのだと思います。 父は、そういう自分らしさを最後の最後まで忘れなかった人でした。 そして母にも。 子どもの頃があって、若い頃があって、 父と出会い家庭を築いて、いろんな苦労があって私たちを育ててくれた。 がんばって生きてきた、それだけでもう充分。 母の兄妹や親戚にも、みんなにありがとうって思ったのでした。 今抱く感謝の気持ちを、もっと自分が若い頃に持てていたら・・・ なんかとても悔しい。 でも、今の自分でなければこんな風に感じられなかったと思う。 ご先祖のみな様に会う日まで、 楽しく自分らしく生き切ったことを話せるようでありたいです。 そして、今度親戚の子たちに会ったら、 父がしたように?自分がいいと思うことをしてあげたい。 冠婚葬祭って、そういうつながりを思い出すためのものなんです

救っていきたい部分はどこか?(強みと弱みについて)

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強みを生かす、という考え方があります。 自分がどんなことに興味を持ち、 それを探求しようとする力を持っているのかを知り、 より自分が幸せになるために、 また、自分の成長へとつなげていくために強みに目を向けていこうとする哲学です。 強みを生かしていく人生って、とても華があり、力強く希望が見えます。 それをしたら自分に自信がついてくるのだと思うし、 元々備わっている力でもあるので、生かしやすいという利点があって、 得意とする資質だからこそ気持ちも前向きになります。 でもその一方で、 強みを生かしながらも、苦手なことにも向き合えていけたらいいなとか、 もっと違う考え方捉え方ができたら、どんなに楽に生きられるだろうか・・・ と思い悩む人も多いと思うんです。 『強み(得意なこと)』と『弱み(苦手なこと)』 実はどちらも、自分の心の中のパターン。 私はそこを知ることがとても大事なことだと感じます。 強みと感じるものと弱みだと思うものは、なぜそう思うのか? 何かしらの経験やこれまでの環境が、そう自分を判断させていて、 特に、弱みだと思っている部分は、実際の得手不得手もありますが、 心理的に自分がこれまで思いこませてきたものがあるからなんです。 強みを生かすということについては、人は前向きで積極的です。 自分もこの話をすると、相手の方の表情が明るくなり、 何かすっきりしたような晴々とした感じを受けるので、こちらとしてもそういう話は楽なのです。 元々得意なことについて深めていくわけですから、そこには重たい空気はないし、いい気分になりますよね。 でも、それとは逆に、 弱みの話って少し暗くて真剣な感じがあります。 だから、強みの話は好きだけど弱みの話ってあまり深めていきたがらない方が多い(←自分はそうだった)。 でも、この、目を向けにくい部分、あまり見たくない部分、気持ちがなえてくる部分が本当はとても大事な部分なんじゃないかって思う。 一番救っていきたい部分は、弱みを感じている自分(パターン)そのもの。 輝かしい強みの奥の奥に、いつも弱みはしまわれたままなのだ。 今はいろいろな心理テストのようなもので、 自分はこんな人間なんだと外から知る情報にあふれています。 そしてそこへの向き合い方や解決方法も、 思考的なものが多いため、すぐに同じところに戻りやすいのではないでしょうか? そこを、思考

あの美容室へ、再び

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先日飛び込みで入ったオレンジカラーの 美容室 。 再び、母を連れて行ってきました。 私もうん十年前は美容師のはしくれだったので(ホントに、はしくれ)、 技術とかセンスとかどんな商品を扱っているかで、 それなりにいろいろわかる部分があります。 で・・・、やっぱりここのお店、なんかいい!と思いました。 (なんかいい!という表現も失礼かもしれませんが) 今日は、白髪染めとパーマどっちにしようかと迷っていました。 というのも、時間がかかると母も疲れてしまうので、 とりあえず髪がぺったんこにならないようパーマをお願いしました。 私が一旦帰ったあと、 母はパーマが取れていることより、白髪が気になると美容師さんに訴えたらしく、 結局どっちもやっていただいていたのでした。 えー、すごーーーい! しかも、思ったより短時間で、 ちょうどいい色合いに白髪を染めてもらってのしっかりパーマ。 前回同様、ボリュームたっぷりのブローで仕上がって、希望通りです。 私はこのブローの仕上がりが本当に素敵で惹かれます。 そしてもっと感動したのが、 な、な、なんと、送迎のサービスをするというではありませんか! 若い方には無いサービスかもしれませんが(母は88歳)、 これは本当に涙が出るほどありがたく、 次回はお願いすることにしました。助かりますう~~~ 美容室の役目も時代と共に、ここまで進化したのか?と思いました。 お客様が喜ぶだけでなく、 お客様の家族が喜ぶことまで考えられるということが、 それがビジネスだとしても私はとってもうれしく思いました。 今日は、兄も帰郷していたので、 母は私と兄から、とにかく髪がステキだと一日中絶賛され続け、 かなり若返ったような気がします。 美容師さんありがとうございました。 お母さんの笑顔が家族の幸せ! 50過ぎた子どもたちにとっても、そこって変わりないですね。 こんなイメージのお店

仕事の不満

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以前は仕事について、本当に文句ばっかり言っていたように思います。 自分がしたいことができない、自由にやれない、好きな仕事ではない、上司の理解がない、誰もわかってくれない。 考えるときりがないほど不満がありました。 楽しい日もあるにはあるのに、そうじゃないことに注目してしまう。 それが、今はあまり感じなくなっているのはなぜか? 何が昔とは違うんだろうと考えていました。 会社のしていることも、自分がやっていることも、人も、そんなに変わっていないのに、 不満が出てこないのはどうしてか。 と言っても全くないわけではないですし、 それなりに愚痴も出たりはします〜。 でも以前のそれとはその中身というか質というか、 不満というものの意味付けも違っているような・・・ 一番の理由は、 何を大事にしたいのか?というところが大きいかもしれません。 自分はそれをするとき、どうありたいのか? これをいつも考えているというか、 瞬間的に反応しているように思います。 情熱をもって、世の中のために、この仕事を私はやりたいんです! と言える仕事はそんなにはないと思います。それがあたりまえ。 だからといって、本気にはなれないから、やりたいことでもないから・・・ということで、 大切な一日一日を過ごしていいのか? こんないやいやの心持ちで、 あたり障りのない浅い考え方で、 関わる人とは波風立てない程度にしか向き合わず、 心が入らない言葉のやり取りをして。 そういう自分って・・・ 全部が一つ一つ、それでいいのか? そこに、自分がいる限り、 納得することやこうあるべきというガチガチのものではなく、 どっちでもいいという無責任な感じでもなく、 この条件ならこれくらいの仕事でいいでしょう・・・では決してないんだなあと。 今の自分で、 精一杯これでいいって思えることを大事にしたいのだと思いました。 やってみてうまくいかないことも山ほどあるし、 あの時の自分は何だったんだと、 立ち止まって考えたときに、少しまた自分を知れる。 そういう気づきを与えられることが、今は嬉しくもあり、ありがたく感じます。 自分を大事にするように、 相手のことも他のことも今あることに向き合っていこう。 結果よりも何よりその過程を大切にしたいです。 結局、なぜ仕事への不満がなくなったかの説明になっていないかもしれませんがー 前よりも好きになった

話を聴く

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長年やっている福祉の仕事の一つに、就労定着支援というものがあります。 精神疾患など抱えている方が、その会社で安心して働けるようにいろいろとサポートしていくというもの。 この仕事で最近あらためて思うのが、 『話を聴く』ということの精神的効果(効用?)です。 聴いてもらう側の、相手の方にとって、 なにかしらの変化がもたらされているように思います。 話を聴いてもらうと心が軽くなる。 っていうのはあると思いますが・・・ 普段お薬をたくさん飲んでいる方とか、 発達障害の傾向が強い(それで二次障害として精神疾患が発症する)という方もいますので、 そういう不安定な状態の方であってもなお、 聴くことで変わっていくというのは、これ、すごいことなんじゃないかと思うのです。 特別な治療でも何でもない「聴く」だけ・・・ 話を聴いてもらっているうちに頭が整理されていくということはあると思うので、 職場で自分がおかれている状況や、自分の役割を客観視できるというのはたしかにあります。 でも、自分自身がどういう人間であるか、 ゆがみなく理解していくというのは、なかなか一人ではできないこともあると思うのです。 特に、自分がそのときどんな気持ちになっているのかと感じていくのは、 まずもってほとんどの方が意識しません。 自分がどんな気持ちになっているか、 それはどうしてそうなるのか?と誰かに聴かれてはじめて、 だんだんと他人ではなく自分に目を向け、自分だけを見ようとし始める。 そんな自己観察する作業を自然にやっていくようになることがすごいと思っています。 その間、私がしていることと言えば、 本当に話をひたすら聴いて、たまに質問をし、感じたことを伝える。 それはその人に何が起きているのかを知りたいという気持ちがあっての『聴く』であり、 その方自身も聴いている私以上に、自分のことを知っていくのが面白く感じていく。 この連作が支援の過程で起こっているんだと思いました。 本来、自分を知ることは楽しいこと! だれでも本当は自分自身に一番興味があるのだと思います。 意外な一面を知ったり、思ったよりもいいところを発見したりすると嬉しいし・・・ それなのに、 嫌な面、かっこ悪い面は見たくないという心理が働き、 そこを見たくないがために全てを見れなくなってしまっているのかもしれません。 私は私で、対面になると何かスイッチ

ねことわたし

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気持ちはのんびり行こう・・・と決めてから、 実際にはあれこれやってはいますが、 のんびりしている時の感覚(一つ一つ楽でいる感じ)をつかめてきました。 こんなふうに意識が変わると、体の感じ方まで変わっていけるんだと、 忙しさの中から教わった気がします。 疲れやすい自分はダメだとか、 体力がない自分もダメと思うパターンにゆっくり語りかけ、自分で心をケアしていく。 少しの時間で休む、寝る、といったことをする。 そうやって、『語りかけ』と『動き』を合わせていくと、 本当に疲れ方が全然違います! 疲れたというのは肉体のことであっても、 疲れている自分はダメだという決めつけもやはりあるため、 そこに、あなたはそう思っているんだね~って言えるのは、 自分自身へ対しての愛なんだなあと思いました。 この愛を感じる気持ちって、自分へ思いもよらぬ変化をもたらします。 なんと、ここ何十年と変わらなかった犬派の私が、 この数日で、 あれ?猫ってこんなに可愛いかったっけ・・・と思うようになったのです。 知人のにゃんこを見ていると、惹かれるものがたくさんあります。 色も、太い腕(手)も、スタンンプのような肉球も。 じーっと見つめる目、そして犬とも共通ですが後頭部のラインが本当に素敵。 後頭部って、人もそうですがそこに哀愁というか、人に見せずにきたものを感じます。 そして、だんだん猫と自分って似ていたんだなと思うようになりました。 意味不明な行動や、誰に何と思われても平気な態度、 本当は一人でいたいけど少しはかまってほしい気持ち。 そして、たった今これをやっていたのに秒で違うことをやりはじめる気ままさが、 猫そっくりだったと思いました。 そうなると猫もわかるのでしょうか。 昨日はついに、はじめて入ったお店の猫が、 店主もびっくりするかの行動でこちらへ寄ってくるのです。 その後も少し離れたところからじーっとこちらを観察。 そこには、猫と私との見えない交流がありました。 ほんわかするような交流が・・・。 もしかすると、 今までは、猫のように生きられたらな~と思う気持ちと、 反面自分にもある猫のような性質(のんびり気ままに生きることとか)が、 どこか許せなかったのかもしれません。 それが(そのパターンが)、今はどんなふうに生きていっても大丈夫だと、 それで本来の自分なんだ、と受け容れられるようにもなって

一息つこう

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毎年春先は眠気がすごくて、寝ても寝ても眠れてしまう。 今年もそんな季節が来たな~と思っていましたが、 これは、いつもの「それ」とはなんか違う・・・ 年明けから父のこと、母のこと、 一人でたくさんやることがあって、 同時に講座もスタート。 走り続けて息つく暇がなかった。 なんかすごいがんばっていたな自分。 ずーっと今日まで休みなく来ていたことに気づき・・・ (カレンダー見てぎょっとした!) これはもう疲れていないはずがないし、眠いはずだ! あともう少し。 百箇日法要が終わったら、ゆっくり一息つきたいです。 何も予定を入れない休日を、とにかくだらだらと過ごしたーい。 あともう少しがんばったら・・・? いやいや、もう今から気持ちだけはのんびりいこうと思います。 桜もまだキレイに咲いています。 明日は、花をじーっと見て、ゆっくり歩いて、 動きながらも自分を休ませてあげよう。 こういうときこそ、たくさん一息つこう! 見たことない世界!

はっきり言う人

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こんなことを言ったら相手からどう思われるだろうか?と思う人は多いと思います。 どう思われるか?というのは、嫌われるか、不快にさせてしまうか、怒らせるか、困らせるか・・・ といったネガティブな反応をされたくないと思っています。 ネガティブな反応、感情、感覚を持たれることが悪いことであると思っているから、 それらを相手に与えたくないと思っています。 また、自分が悪者になってしまうのも絶対避けたい・・・と。 それくらいネガティブなものに対しての悪者感、拒否感、否定的な感情ってあるのだと思う。 でも、そう思っていない人もいます。 どう思われるか?の世界にはいない人(自分のパイプに他人を入れない)。 先日、久しぶりに眼科に行ったら先生が替わっていて、 先生のご子息らしき人がはじめて診察をしてくれました。 いつもの先生はゆったりとしていて、物腰が柔らかくやさしく話す方。 でも、今度の先生は間髪入れず、まさにはっきり言う方でした。 DR:前回から随分あいてますね。目薬(緑内障の薬)ちゃんと差してないですね。 私:結構忘れちゃうんです~ DR:目薬をしないときは、目が悪くなっていると思ってください。 私:あ、はい・・・(動揺して目線が下を向く) DR:下向かないで、まっすぐ見て。 (診察が終わり) 私:いつも目薬を差す前にコンタクトを入れてしまって、それで目薬させないんですよ~ DR:そうならないようにしてください。 とまあ、私の言い訳に一切先生からの共感はありません。 おばさん特有の、照れながら笑いながらの話にも、ばっさりです。 妥協もなければ、甘やかしもなく。 でも、先生の言っていることは全部その通りだと思いました。 薬局に行くと、隣りの窓口で話している薬剤師さんに患者さんが、 「そうなんです~なんか、もうはっきりものを言う人で~」 という会話が聞こえてきました。 きっと、苦情とまではいかなくても、 以前の『やさしい先生』から『きびしい先生』に代替わりし、 戸惑っている患者さんもいるのだろうなあと思いました。 以前の自分だったら、その窓口で話している人のように同じことを思ったかもしれません。 そして、それを誰かに言わずにはいられない(ちょっと聞いてよ~みたいに)。 でも、言われたことをやらずに目が悪くなったと平気で言ってくる患者さんに対して(←自分)、 先生がはっきりともの申す

「私」とパターンの関係

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岩手クラスのセミナー、今回も充実かつ内容が圧巻でした。 毎回、パターンへの語りかけについて新たな視点を学ぶことが多いです。 暴れているパターンへ「私」が理解を示し、これから「私」があなたを守っていくと伝える。 これが語りかけ(超簡潔に言うと)・・・なんですがー、 そこへ向かう姿勢そのものが、とても神聖なものであると教わりました。 実際に自分が描く神聖さを持って語りかけをしてみると、そこには互いに真摯に向き合う静けさと、 「私」の存在が以前より大きくなっているように感じました。 10年前の「私」とは、 それはそれは小さな点でしかなかった(吹けば飛ぶような・・・)。 「私」って誰? これが自分なんだと思ってきた自分とは、単なるパターンであったと知り本当の「私」で生きていなかったと知る。 そうか、自分がダメなのではなく、 心の中に「自分はダメだ」というパターンがあるだけだとわかったときの、あの安堵感と解放感。 そしてじわじわくる感動は今はもう日常的になっています。 パターンのケアをせっせとやってきた「私」は、 いつの間にか、空想でのいるのかいないのかわからない存在ではなく、 太陽のようにあたり前にもう遥か昔からそこにいた存在だったんだと、あらためて感じたのでした。 そんな「私」なのですから、 よりパターンのことを理解できるだけでなく、 「私」とパターンの信頼関係も築かれてきたのだと思います(もう一方的ではない)。 パターンは、幼い子どものよう。 だだをこねて、お母さんに振り向いてほしくてあの手この手で困らせることをします。 何とか自分の思い通りにしようといつも必死です。 そんな、たった一人でがんばって生きてきたパターンが「私」への信頼を示し、少しづつかたちを変えてきている。 自分に気づきをもたらすために協力をしてもらっているかのような、 ある意味自分の先生のようになっているのだと感じました。 毎日出会ういろいろな人から自分が育てられているように、 パターンにも自分は育ててもらっているのですね。 感情に目を向け、パターンを探す。 たったこれだけのこと(でも、果てしない)日々の積み重ねが自分を救っていくのだ。 一般的には、感情を感じて受けとめるということをほとんどしないと思います。 でもこれをずーっとしてきた自分にとって、もう感情は友達のようでもあり(こんにちは~みたいに)、

夢を追いかける

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先日、美容学校時代の友人と何年ぶりかで再会しました。 父が転勤族だったので、私は転校が多く地元の友人(幼なじみ)というものはいなくて、 そのことが少し寂しいような感じもあったのですが、 その友人の存在はどこか幼なじみのような感じがあります。 でもよ~く考えてみたら、たった一年間の学校生活。 そう、ほんのちょっとしか一緒にいないんですよね。 なのに、再会は一瞬で夢を追いかけていた頃の私たちに戻り、 懐かしくてわくわくして、そしてとても落ち着きます。 思えばこれまでも、お互いの節目に、何かの夢に向かっている時に会っていたのかも。 そういうふうになっているのかもしれないなあと思いました。 今回は、お互いにもう子育ても終えて、仕事も引き際を考えるような年齢になっています。 もうそんなに若くはないけれど、まだまだ動けることは動けるし、 なんなら子どもような遊び心も健在で、 逆におばさんだからこその図々しさと大胆な行動力もあります。 一番の変化は、仕事という概念ががらっと変わったこと。 自分以外のもののために自分を働かせたい!と思うのです。 夢を語りながら、 共感したことは「考える」より「感じる」でやっていこうというもの。 よーく考えるのではなく、ほぼほぼ直感で、これいいんじゃないの! と思うものをとにかくやってみる。 自分のセンサーを信じ切っているところが似ているなと思いました。 年齢がいくと、怖いものがなくなる・・・と言いますが、 それでも何かしらのパターンは誰にでもあって、 それがブレーキとなることは多いと思います。 でも、そのパターンを超えるパターンがまた年齢と共に育ち・・・ 例えば、昨日の日記にも書いたような、 ●認められたい、というパターンがじゃまをしようとする一方で、 簡単にそれを超えるような、〇認められなくても全然平気、というパターンも同時に育っているのです。 先輩方を見ていると、 黒パターン(陰)よりも、白パターン(陽)の方が大きくなりすぎて、 それもまた陽極まりて陰となる状態を見ることがあります。 バランスを取っていくはずの白パターン選びであっても、 それが大きくなりすぎれば、また黒にもなるということです。 白だけでも、黒だけでも、どちらも、 思いこみの強さ、信念、価値観といったパターンであることには変わりないんだなと思いました。 だから、黒も白もどちらも自

認められたい

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ああしよう、こうしようと思うことはありますが、 これはもうやらない、と思ったことがありました(やるのではなく、やめる)。 他人から認めてもらおうとすること。 それをもうやらない。 もうこれを選ぶのはやめようって思いました。 認められたくて、カッコ悪いところを見せたくなくてやっていた自分。 すごいねって思われたいと、心のどこかで思っていたのだと思う。 これまで何度となく、認めてもらいたいというパターンが心を支配し苦しめてきたことは数知れず・・・です。 本当にもう使いすぎでしょう~って思うほど、ずーっと使ってきました。 なぜ、それほどまでに他人から認められたいと思ってしまうのか。 自分が自分を認めることが、全くと言っていいほどできませんでした。 そして自分が主役ではなく、 他人から言われることを信じ、それを自分軸にしてきたように思います(←これがパターン)。 でも、いざ他人に認められるようなことを言われたとしても、 結局は自分の思うようなものではないので満足せず・・・。 そうなるともう、のびのびした自分ではなくなっているのでした。 今、自分はのびのびやれているかどうか?この問いかけは、 パターンを見つけられるだけでなく、自分のありたい姿、原点に帰っていけます。 パターンにしばられ、パターンを満たすためにやるのはもうやめる。 それは、もうしない、したくない。 パターンに「黙りなさい」と言えるのは自分だけです。 わたしってすごい。偉い。がんばっているね。 大丈夫やっていけるよ。こんな日もあるさ。わたしだったらできる! そう褒めたたえ、励まし、ねぎらい、自分で自分をちゃんと認められたとき、 本当にすっきりと晴れた心で次へ進めます。 青空に両手を伸ばし、体いっぱいにのびをするように。 忘れた頃に顔を出すこのパターンへは、 これからもしっかり語りかけていこうと思いました(パターンよ、出てきてくれてありがとう!)。 ソールブランチシンチョウ

場の空気

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はじめて講座は、定員4名様までとしておりましたが、 いかに自分が不器用かつ未熟か・・・ということがよーくわかり・・・ お一人の方と向き合うスタイルが今は自分ができる精いっぱいだと感じました。 それで、今回からは1名様と限定させていただいております。 (お友達といらっしゃる場合はこの限りではありません) 心のからくりを一人でも多くの方へお伝えしたいし、 自分を知って、少しでも楽にのびのびと、心軽く生きてほしい! その気持ちは変わりありませんが、 その方に合った伝え方というのがある気がしています(そりゃそうだ!)。 そこで、しばらくは定員1(~2)名ということで、 カウンセリングに重きを置いての講座となります。 まず話を聴いてほしーい!という方は、 どんなお話でもお聴きします(本当にどんなお話もOKです)ので、ぜひいらしてください。 会場の一つ紫波町オガールですが、 2階の大きな窓からぼーっと外を眺めているだけでも気持ちがいいお部屋です。 部屋の清潔感や陽が入っての明るさ、適度な広さに静けさ、 普段よく換気もされているためか空気の流れもよいです。 そして、トイレがわりと近くにあるというところも使いやすさのポイント(しかもキレイ)。 その空間が持つ良い『気』に、自分が助けてもらっているなあと思いました。 はじめは、これから何がはじまるのかな?という期待と不安と緊張とで、 少し荒々しいような『気』が動いているように感じます(私が緊張)。 それがだんだんと、空気がまあるくなって、 一つの大きな円がその場を包んでいるような、そんな暖かな感覚に変わっていきます。 自分のエネルギーと相手の方のエネルギーと、そこをつなげてあげたい?と思う何かが手助けしてくれている気がするのです。 良い心を使っていきたい、良い気で満たしていきたい・・・ そんな願いが、小さな空間を飛び出して宇宙まで届いていそう。 そもそも、自分一人でやれるものなど一つもないです。 自分の向かう姿勢ってとても大事であるとこの頃特に感じます。 おかげ様で本当に少しずつですが、 人前で話すという経験をしたからこそわかることがあると思いました。 いろいろなことをその場でリアルに感じながら、心を軌道修正し、 楽しく良い講座ができるようになっていきたいです。 まだまだな私ですが、これからもどうぞよろしくお願い致します! 2F アト

何があっても

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こうなったら怖いな、と思うものはいろいろあります。 どうしてそんなに恐れるのか? その先、自分がどう生きていけばいいのかわからないから、なんだと思う。 もしも仕事を失ってしまったら? まず、お金どうするの。人とのつながりどうなるの。 仕事を失うって、他にもいろんなことを失っていくのかもしれない。 でも・・・ 『失う』だけの世界ではない、ということもわかっている気がします。 失うこととは正反対の世界も必ずそこにあると思っています。 もしかしたら、自分の本当にしたいことがはっきりわかるかもしれないし、 今まで経験したことのないような豊かな時間が用意されているのかもしれない。 そんなふうに意識を向けると、 どうにかなるかもしんないなって思います。 また、家族のだれかが死んでしまったら? これも耐えがたい恐怖です。 実際に父が亡くなってどうだったのかといえば、 すごく寂しいけれど、 父は喜んで旅立ったような、今は安心しているような、 それどころではないほどあの世で何か一生懸命になっているような、 そういうものを感じて、人が死ぬということが以前よりも不幸せなことではないとわかった気がします。 だから寂しいけれど、寂しさは持ちながらもなんとか前を向いてやっていくのだと思う。 そして、自分が病気になってしまったらどうなってしまうか? これも、病気であっても精一杯生きられるまで生きるだろうなと思います。 今より深く自分を見つめながら、自分のために誰かのために寿命がくるその日まで生きる。 思うような体調や体力ではないとしても、やはりそれなりに暮らしていくのだと思います。 こうして想像してみると、 何があってもやっていけるかもしれない、自分。って思う。 どんなに怖いことが起きても、 あなたは怖いって思っているんだね、とちゃんと言える「私」でありたいです。 怖いからこそ、不安だからこそ、 これまでがんばって生きてきた自分に堂々と胸を張りながら、 のびのびと、軽やかに、自分にしか生きられない人生を歩くのだ。 それができる自分になってきているのかも、と思っているし、 そうなっていきたい・・・です。 甘いのとしょっぱいの