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あの美容室へ、再び

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先日飛び込みで入ったオレンジカラーの 美容室 。 再び、母を連れて行ってきました。 私もうん十年前は美容師のはしくれだったので(ホントに、はしくれ)、 技術とかセンスとかどんな商品を扱っているかで、 それなりにいろいろわかる部分があります。 で・・・、やっぱりここのお店、なんかいい!と思いました。 (なんかいい!という表現も失礼かもしれませんが) 今日は、白髪染めとパーマどっちにしようかと迷っていました。 というのも、時間がかかると母も疲れてしまうので、 とりあえず髪がぺったんこにならないようパーマをお願いしました。 私が一旦帰ったあと、 母はパーマが取れていることより、白髪が気になると美容師さんに訴えたらしく、 結局どっちもやっていただいていたのでした。 えー、すごーーーい! しかも、思ったより短時間で、 ちょうどいい色合いに白髪を染めてもらってのしっかりパーマ。 前回同様、ボリュームたっぷりのブローで仕上がって、希望通りです。 私はこのブローの仕上がりが本当に素敵で惹かれます。 そしてもっと感動したのが、 な、な、なんと、送迎のサービスをするというではありませんか! 若い方には無いサービスかもしれませんが(母は88歳)、 これは本当に涙が出るほどありがたく、 次回はお願いすることにしました。助かりますう~~~ 美容室の役目も時代と共に、ここまで進化したのか?と思いました。 お客様が喜ぶだけでなく、 お客様の家族が喜ぶことまで考えられるということが、 それがビジネスだとしても私はとってもうれしく思いました。 今日は、兄も帰郷していたので、 母は私と兄から、とにかく髪がステキだと一日中絶賛され続け、 かなり若返ったような気がします。 美容師さんありがとうございました。 お母さんの笑顔が家族の幸せ! 50過ぎた子どもたちにとっても、そこって変わりないですね。 こんなイメージのお店

仕事の不満

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以前は仕事について、本当に文句ばっかり言っていたように思います。 自分がしたいことができない、自由にやれない、好きな仕事ではない、上司の理解がない、誰もわかってくれない。 考えるときりがないほど不満がありました。 楽しい日もあるにはあるのに、そうじゃないことに注目してしまう。 それが、今はあまり感じなくなっているのはなぜか? 何が昔とは違うんだろうと考えていました。 会社のしていることも、自分がやっていることも、人も、そんなに変わっていないのに、 不満が出てこないのはどうしてか。 と言っても全くないわけではないですし、 それなりに愚痴も出たりはします〜。 でも以前のそれとはその中身というか質というか、 不満というものの意味付けも違っているような・・・ 一番の理由は、 何を大事にしたいのか?というところが大きいかもしれません。 自分はそれをするとき、どうありたいのか? これをいつも考えているというか、 瞬間的に反応しているように思います。 情熱をもって、世の中のために、この仕事を私はやりたいんです! と言える仕事はそんなにはないと思います。それがあたりまえ。 だからといって、本気にはなれないから、やりたいことでもないから・・・ということで、 大切な一日一日を過ごしていいのか? こんないやいやの心持ちで、 あたり障りのない浅い考え方で、 関わる人とは波風立てない程度にしか向き合わず、 心が入らない言葉のやり取りをして。 そういう自分って・・・ 全部が一つ一つ、それでいいのか? そこに、自分がいる限り、 納得することやこうあるべきというガチガチのものではなく、 どっちでもいいという無責任な感じでもなく、 この条件ならこれくらいの仕事でいいでしょう・・・では決してないんだなあと。 今の自分で、 精一杯これでいいって思えることを大事にしたいのだと思いました。 やってみてうまくいかないことも山ほどあるし、 あの時の自分は何だったんだと、 立ち止まって考えたときに、少しまた自分を知れる。 そういう気づきを与えられることが、今は嬉しくもあり、ありがたく感じます。 自分を大事にするように、 相手のことも他のことも今あることに向き合っていこう。 結果よりも何よりその過程を大切にしたいです。 結局、なぜ仕事への不満がなくなったかの説明になっていないかもしれませんがー 前よりも好きになった

話を聴く

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長年やっている福祉の仕事の一つに、就労定着支援というものがあります。 精神疾患など抱えている方が、その会社で安心して働けるようにいろいろとサポートしていくというもの。 この仕事で最近あらためて思うのが、 『話を聴く』ということの精神的効果(効用?)です。 聴いてもらう側の、相手の方にとって、 なにかしらの変化がもたらされているように思います。 話を聴いてもらうと心が軽くなる。 っていうのはあると思いますが・・・ 普段お薬をたくさん飲んでいる方とか、 発達障害の傾向が強い(それで二次障害として精神疾患が発症する)という方もいますので、 そういう不安定な状態の方であってもなお、 聴くことで変わっていくというのは、これ、すごいことなんじゃないかと思うのです。 特別な治療でも何でもない「聴く」だけ・・・ 話を聴いてもらっているうちに頭が整理されていくということはあると思うので、 職場で自分がおかれている状況や、自分の役割を客観視できるというのはたしかにあります。 でも、自分自身がどういう人間であるか、 ゆがみなく理解していくというのは、なかなか一人ではできないこともあると思うのです。 特に、自分がそのときどんな気持ちになっているのかと感じていくのは、 まずもってほとんどの方が意識しません。 自分がどんな気持ちになっているか、 それはどうしてそうなるのか?と誰かに聴かれてはじめて、 だんだんと他人ではなく自分に目を向け、自分だけを見ようとし始める。 そんな自己観察する作業を自然にやっていくようになることがすごいと思っています。 その間、私がしていることと言えば、 本当に話をひたすら聴いて、たまに質問をし、感じたことを伝える。 それはその人に何が起きているのかを知りたいという気持ちがあっての『聴く』であり、 その方自身も聴いている私以上に、自分のことを知っていくのが面白く感じていく。 この連作が支援の過程で起こっているんだと思いました。 本来、自分を知ることは楽しいこと! だれでも本当は自分自身に一番興味があるのだと思います。 意外な一面を知ったり、思ったよりもいいところを発見したりすると嬉しいし・・・ それなのに、 嫌な面、かっこ悪い面は見たくないという心理が働き、 そこを見たくないがために全てを見れなくなってしまっているのかもしれません。 私は私で、対面になると何かスイッチ

ねことわたし

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気持ちはのんびり行こう・・・と決めてから、 実際にはあれこれやってはいますが、 のんびりしている時の感覚(一つ一つ楽でいる感じ)をつかめてきました。 こんなふうに意識が変わると、体の感じ方まで変わっていけるんだと、 忙しさの中から教わった気がします。 疲れやすい自分はダメだとか、 体力がない自分もダメと思うパターンにゆっくり語りかけ、自分で心をケアしていく。 少しの時間で休む、寝る、といったことをする。 そうやって、『語りかけ』と『動き』を合わせていくと、 本当に疲れ方が全然違います! 疲れたというのは肉体のことであっても、 疲れている自分はダメだという決めつけもやはりあるため、 そこに、あなたはそう思っているんだね~って言えるのは、 自分自身へ対しての愛なんだなあと思いました。 この愛を感じる気持ちって、自分へ思いもよらぬ変化をもたらします。 なんと、ここ何十年と変わらなかった犬派の私が、 この数日で、 あれ?猫ってこんなに可愛いかったっけ・・・と思うようになったのです。 知人のにゃんこを見ていると、惹かれるものがたくさんあります。 色も、太い腕(手)も、スタンンプのような肉球も。 じーっと見つめる目、そして犬とも共通ですが後頭部のラインが本当に素敵。 後頭部って、人もそうですがそこに哀愁というか、人に見せずにきたものを感じます。 そして、だんだん猫と自分って似ていたんだなと思うようになりました。 意味不明な行動や、誰に何と思われても平気な態度、 本当は一人でいたいけど少しはかまってほしい気持ち。 そして、たった今これをやっていたのに秒で違うことをやりはじめる気ままさが、 猫そっくりだったと思いました。 そうなると猫もわかるのでしょうか。 昨日はついに、はじめて入ったお店の猫が、 店主もびっくりするかの行動でこちらへ寄ってくるのです。 その後も少し離れたところからじーっとこちらを観察。 そこには、猫と私との見えない交流がありました。 ほんわかするような交流が・・・。 もしかすると、 今までは、猫のように生きられたらな~と思う気持ちと、 反面自分にもある猫のような性質(のんびり気ままに生きることとか)が、 どこか許せなかったのかもしれません。 それが(そのパターンが)、今はどんなふうに生きていっても大丈夫だと、 それで本来の自分なんだ、と受け容れられるようにもなって

一息つこう

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毎年春先は眠気がすごくて、寝ても寝ても眠れてしまう。 今年もそんな季節が来たな~と思っていましたが、 これは、いつもの「それ」とはなんか違う・・・ 年明けから父のこと、母のこと、 一人でたくさんやることがあって、 同時に講座もスタート。 走り続けて息つく暇がなかった。 なんかすごいがんばっていたな自分。 ずーっと今日まで休みなく来ていたことに気づき・・・ (カレンダー見てぎょっとした!) これはもう疲れていないはずがないし、眠いはずだ! あともう少し。 百箇日法要が終わったら、ゆっくり一息つきたいです。 何も予定を入れない休日を、とにかくだらだらと過ごしたーい。 あともう少しがんばったら・・・? いやいや、もう今から気持ちだけはのんびりいこうと思います。 桜もまだキレイに咲いています。 明日は、花をじーっと見て、ゆっくり歩いて、 動きながらも自分を休ませてあげよう。 こういうときこそ、たくさん一息つこう! 見たことない世界!

はっきり言う人

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こんなことを言ったら相手からどう思われるだろうか?と思う人は多いと思います。 どう思われるか?というのは、嫌われるか、不快にさせてしまうか、怒らせるか、困らせるか・・・ といったネガティブな反応をされたくないと思っています。 ネガティブな反応、感情、感覚を持たれることが悪いことであると思っているから、 それらを相手に与えたくないと思っています。 また、自分が悪者になってしまうのも絶対避けたい・・・と。 それくらいネガティブなものに対しての悪者感、拒否感、否定的な感情ってあるのだと思う。 でも、そう思っていない人もいます。 どう思われるか?の世界にはいない人(自分のパイプに他人を入れない)。 先日、久しぶりに眼科に行ったら先生が替わっていて、 先生のご子息らしき人がはじめて診察をしてくれました。 いつもの先生はゆったりとしていて、物腰が柔らかくやさしく話す方。 でも、今度の先生は間髪入れず、まさにはっきり言う方でした。 DR:前回から随分あいてますね。目薬(緑内障の薬)ちゃんと差してないですね。 私:結構忘れちゃうんです~ DR:目薬をしないときは、目が悪くなっていると思ってください。 私:あ、はい・・・(動揺して目線が下を向く) DR:下向かないで、まっすぐ見て。 (診察が終わり) 私:いつも目薬を差す前にコンタクトを入れてしまって、それで目薬させないんですよ~ DR:そうならないようにしてください。 とまあ、私の言い訳に一切先生からの共感はありません。 おばさん特有の、照れながら笑いながらの話にも、ばっさりです。 妥協もなければ、甘やかしもなく。 でも、先生の言っていることは全部その通りだと思いました。 薬局に行くと、隣りの窓口で話している薬剤師さんに患者さんが、 「そうなんです~なんか、もうはっきりものを言う人で~」 という会話が聞こえてきました。 きっと、苦情とまではいかなくても、 以前の『やさしい先生』から『きびしい先生』に代替わりし、 戸惑っている患者さんもいるのだろうなあと思いました。 以前の自分だったら、その窓口で話している人のように同じことを思ったかもしれません。 そして、それを誰かに言わずにはいられない(ちょっと聞いてよ~みたいに)。 でも、言われたことをやらずに目が悪くなったと平気で言ってくる患者さんに対して(←自分)、 先生がはっきりともの申す

「私」とパターンの関係

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岩手クラスのセミナー、今回も充実かつ内容が圧巻でした。 毎回、パターンへの語りかけについて新たな視点を学ぶことが多いです。 暴れているパターンへ「私」が理解を示し、これから「私」があなたを守っていくと伝える。 これが語りかけ(超簡潔に言うと)・・・なんですがー、 そこへ向かう姿勢そのものが、とても神聖なものであると教わりました。 実際に自分が描く神聖さを持って語りかけをしてみると、そこには互いに真摯に向き合う静けさと、 「私」の存在が以前より大きくなっているように感じました。 10年前の「私」とは、 それはそれは小さな点でしかなかった(吹けば飛ぶような・・・)。 「私」って誰? これが自分なんだと思ってきた自分とは、単なるパターンであったと知り本当の「私」で生きていなかったと知る。 そうか、自分がダメなのではなく、 心の中に「自分はダメだ」というパターンがあるだけだとわかったときの、あの安堵感と解放感。 そしてじわじわくる感動は今はもう日常的になっています。 パターンのケアをせっせとやってきた「私」は、 いつの間にか、空想でのいるのかいないのかわからない存在ではなく、 太陽のようにあたり前にもう遥か昔からそこにいた存在だったんだと、あらためて感じたのでした。 そんな「私」なのですから、 よりパターンのことを理解できるだけでなく、 「私」とパターンの信頼関係も築かれてきたのだと思います(もう一方的ではない)。 パターンは、幼い子どものよう。 だだをこねて、お母さんに振り向いてほしくてあの手この手で困らせることをします。 何とか自分の思い通りにしようといつも必死です。 そんな、たった一人でがんばって生きてきたパターンが「私」への信頼を示し、少しづつかたちを変えてきている。 自分に気づきをもたらすために協力をしてもらっているかのような、 ある意味自分の先生のようになっているのだと感じました。 毎日出会ういろいろな人から自分が育てられているように、 パターンにも自分は育ててもらっているのですね。 感情に目を向け、パターンを探す。 たったこれだけのこと(でも、果てしない)日々の積み重ねが自分を救っていくのだ。 一般的には、感情を感じて受けとめるということをほとんどしないと思います。 でもこれをずーっとしてきた自分にとって、もう感情は友達のようでもあり(こんにちは~みたいに)、

夢を追いかける

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先日、美容学校時代の友人と何年ぶりかで再会しました。 父が転勤族だったので、私は転校が多く地元の友人(幼なじみ)というものはいなくて、 そのことが少し寂しいような感じもあったのですが、 その友人の存在はどこか幼なじみのような感じがあります。 でもよ~く考えてみたら、たった一年間の学校生活。 そう、ほんのちょっとしか一緒にいないんですよね。 なのに、再会は一瞬で夢を追いかけていた頃の私たちに戻り、 懐かしくてわくわくして、そしてとても落ち着きます。 思えばこれまでも、お互いの節目に、何かの夢に向かっている時に会っていたのかも。 そういうふうになっているのかもしれないなあと思いました。 今回は、お互いにもう子育ても終えて、仕事も引き際を考えるような年齢になっています。 もうそんなに若くはないけれど、まだまだ動けることは動けるし、 なんなら子どもような遊び心も健在で、 逆におばさんだからこその図々しさと大胆な行動力もあります。 一番の変化は、仕事という概念ががらっと変わったこと。 自分以外のもののために自分を働かせたい!と思うのです。 夢を語りながら、 共感したことは「考える」より「感じる」でやっていこうというもの。 よーく考えるのではなく、ほぼほぼ直感で、これいいんじゃないの! と思うものをとにかくやってみる。 自分のセンサーを信じ切っているところが似ているなと思いました。 年齢がいくと、怖いものがなくなる・・・と言いますが、 それでも何かしらのパターンは誰にでもあって、 それがブレーキとなることは多いと思います。 でも、そのパターンを超えるパターンがまた年齢と共に育ち・・・ 例えば、昨日の日記にも書いたような、 ●認められたい、というパターンがじゃまをしようとする一方で、 簡単にそれを超えるような、〇認められなくても全然平気、というパターンも同時に育っているのです。 先輩方を見ていると、 黒パターン(陰)よりも、白パターン(陽)の方が大きくなりすぎて、 それもまた陽極まりて陰となる状態を見ることがあります。 バランスを取っていくはずの白パターン選びであっても、 それが大きくなりすぎれば、また黒にもなるということです。 白だけでも、黒だけでも、どちらも、 思いこみの強さ、信念、価値観といったパターンであることには変わりないんだなと思いました。 だから、黒も白もどちらも自

認められたい

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ああしよう、こうしようと思うことはありますが、 これはもうやらない、と思ったことがありました(やるのではなく、やめる)。 他人から認めてもらおうとすること。 それをもうやらない。 もうこれを選ぶのはやめようって思いました。 認められたくて、カッコ悪いところを見せたくなくてやっていた自分。 すごいねって思われたいと、心のどこかで思っていたのだと思う。 これまで何度となく、認めてもらいたいというパターンが心を支配し苦しめてきたことは数知れず・・・です。 本当にもう使いすぎでしょう~って思うほど、ずーっと使ってきました。 なぜ、それほどまでに他人から認められたいと思ってしまうのか。 自分が自分を認めることが、全くと言っていいほどできませんでした。 そして自分が主役ではなく、 他人から言われることを信じ、それを自分軸にしてきたように思います(←これがパターン)。 でも、いざ他人に認められるようなことを言われたとしても、 結局は自分の思うようなものではないので満足せず・・・。 そうなるともう、のびのびした自分ではなくなっているのでした。 今、自分はのびのびやれているかどうか?この問いかけは、 パターンを見つけられるだけでなく、自分のありたい姿、原点に帰っていけます。 パターンにしばられ、パターンを満たすためにやるのはもうやめる。 それは、もうしない、したくない。 パターンに「黙りなさい」と言えるのは自分だけです。 わたしってすごい。偉い。がんばっているね。 大丈夫やっていけるよ。こんな日もあるさ。わたしだったらできる! そう褒めたたえ、励まし、ねぎらい、自分で自分をちゃんと認められたとき、 本当にすっきりと晴れた心で次へ進めます。 青空に両手を伸ばし、体いっぱいにのびをするように。 忘れた頃に顔を出すこのパターンへは、 これからもしっかり語りかけていこうと思いました(パターンよ、出てきてくれてありがとう!)。 ソールブランチシンチョウ

場の空気

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はじめて講座は、定員4名様までとしておりましたが、 いかに自分が不器用かつ未熟か・・・ということがよーくわかり・・・ お一人の方と向き合うスタイルが今は自分ができる精いっぱいだと感じました。 それで、今回からは1名様と限定させていただいております。 (お友達といらっしゃる場合はこの限りではありません) 心のからくりを一人でも多くの方へお伝えしたいし、 自分を知って、少しでも楽にのびのびと、心軽く生きてほしい! その気持ちは変わりありませんが、 その方に合った伝え方というのがある気がしています(そりゃそうだ!)。 そこで、しばらくは定員1(~2)名ということで、 カウンセリングに重きを置いての講座となります。 まず話を聴いてほしーい!という方は、 どんなお話でもお聴きします(本当にどんなお話もOKです)ので、ぜひいらしてください。 会場の一つ紫波町オガールですが、 2階の大きな窓からぼーっと外を眺めているだけでも気持ちがいいお部屋です。 部屋の清潔感や陽が入っての明るさ、適度な広さに静けさ、 普段よく換気もされているためか空気の流れもよいです。 そして、トイレがわりと近くにあるというところも使いやすさのポイント(しかもキレイ)。 その空間が持つ良い『気』に、自分が助けてもらっているなあと思いました。 はじめは、これから何がはじまるのかな?という期待と不安と緊張とで、 少し荒々しいような『気』が動いているように感じます(私が緊張)。 それがだんだんと、空気がまあるくなって、 一つの大きな円がその場を包んでいるような、そんな暖かな感覚に変わっていきます。 自分のエネルギーと相手の方のエネルギーと、そこをつなげてあげたい?と思う何かが手助けしてくれている気がするのです。 良い心を使っていきたい、良い気で満たしていきたい・・・ そんな願いが、小さな空間を飛び出して宇宙まで届いていそう。 そもそも、自分一人でやれるものなど一つもないです。 自分の向かう姿勢ってとても大事であるとこの頃特に感じます。 おかげ様で本当に少しずつですが、 人前で話すという経験をしたからこそわかることがあると思いました。 いろいろなことをその場でリアルに感じながら、心を軌道修正し、 楽しく良い講座ができるようになっていきたいです。 まだまだな私ですが、これからもどうぞよろしくお願い致します! 2F アト

何があっても

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こうなったら怖いな、と思うものはいろいろあります。 どうしてそんなに恐れるのか? その先、自分がどう生きていけばいいのかわからないから、なんだと思う。 もしも仕事を失ってしまったら? まず、お金どうするの。人とのつながりどうなるの。 仕事を失うって、他にもいろんなことを失っていくのかもしれない。 でも・・・ 『失う』だけの世界ではない、ということもわかっている気がします。 失うこととは正反対の世界も必ずそこにあると思っています。 もしかしたら、自分の本当にしたいことがはっきりわかるかもしれないし、 今まで経験したことのないような豊かな時間が用意されているのかもしれない。 そんなふうに意識を向けると、 どうにかなるかもしんないなって思います。 また、家族のだれかが死んでしまったら? これも耐えがたい恐怖です。 実際に父が亡くなってどうだったのかといえば、 すごく寂しいけれど、 父は喜んで旅立ったような、今は安心しているような、 それどころではないほどあの世で何か一生懸命になっているような、 そういうものを感じて、人が死ぬということが以前よりも不幸せなことではないとわかった気がします。 だから寂しいけれど、寂しさは持ちながらもなんとか前を向いてやっていくのだと思う。 そして、自分が病気になってしまったらどうなってしまうか? これも、病気であっても精一杯生きられるまで生きるだろうなと思います。 今より深く自分を見つめながら、自分のために誰かのために寿命がくるその日まで生きる。 思うような体調や体力ではないとしても、やはりそれなりに暮らしていくのだと思います。 こうして想像してみると、 何があってもやっていけるかもしれない、自分。って思う。 どんなに怖いことが起きても、 あなたは怖いって思っているんだね、とちゃんと言える「私」でありたいです。 怖いからこそ、不安だからこそ、 これまでがんばって生きてきた自分に堂々と胸を張りながら、 のびのびと、軽やかに、自分にしか生きられない人生を歩くのだ。 それができる自分になってきているのかも、と思っているし、 そうなっていきたい・・・です。 甘いのとしょっぱいの

探求心と熱量

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家の中にグリーンが2つほどありますが、どんどん弱々しくなってしまい、何をどうしたら元気になれるのか? 以前から中に入ってみたかった植物屋さんがあって、 今回やっと相談することができました。 お話してみると、ああ、この方って本当に植物が大好きなんだなあ ・・・ってわかります。 そして、好きだからこそ、おもしろいからこその植物への『探求心』が半端ないです。 たぶん、自分のためにやっていたものが、いつのまにか誰かのためにもなり、 仕事にもなっていったのでしょうか(次はそこらへん聞いてみたい)。 喜び、発見、おもしろさを見出し、もっと知りたいと思う心にあふれています。 こんなにグリーンが好きなのに、自宅は育つ環境が整っていないとのことで、 なんと一個も置いていないそうです。 それもまた愛情を感じます。 植物には、水と光が大事だというのは私でもわかりますが、 もう一つ大事なのは・・・風なんだそうです。 風がないと病気になったり元気がなくなってくるのだそう。 それを聞いて、特に冬の間、全然窓を開けていなかった我が家はまずい・・・と思いました。 適度な換気、風は、人間の住まいにも必要ですし、光も水(食事)も大事。 植物好きの方ってもしかしてペット(生き物)を飼うような感覚なのかなと思いました。 私は今までどんだけグリーンというグリーンを枯らしてきたことか・・・ エアプランツは誰でも育てられるからと言われたけど、枯らしてしまいましたし、 多肉植物もいつのまにか縮んでしまっていました。 ユーカリはドライフラワーになっただけでした。 でも、ここの植物屋さんに相談すれば、きっと私でもなんとか育てられるグリーンがあるかもしれないと希望が持てます。 一人でも多くの方に正しい知識を知ってもらいたいと思い、教えてくれるのでしょうが、 たんなる知識としての情報ではないものが伝わっていく気がします。 それは、知識以上の『熱量』です。 それは決して独りよがりのものではないし、押しつけとも違う。 グリーンを育てることの楽しさが伝わりこちらも楽しくなってきます。 グリーンを買っていくお客さんに対しても、優しいまなざしでした(モンステラのことをずっとポトスだと言っていた私にも優しい!)。 今日は長年知りたいと思っていたことがわかったし、 我が家のグリーンたちも元気になりそうで、うれしい一日でした。 植え替え

たまには派手に!

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先日、母のシャンプー・ブローをしてもらいに初めての美容室へ行ってみました。 思いつきで入ったお店だったのですが・・・ ここがもう、すごい美容室だったんです! いらっしゃいませ~と、まず金髪の女性の方が現れ、お洋服も見たことのないようなド派手な色。 店内を見ると、オレンジカラーをメインに装飾もすごく派手。 そして何より、スタッフ全員が金髪で、どこでそういう洋服買うんですか?って聞きたくなるような、 全身オレンジ系の衣装(もはや洋服ではなく、衣装)を着ています。 そして不思議なことに何もかもが派手なんだけど、 なんだか楽しくなってくるような元気になるような、気持ちよい明るさなのです。 「何ここ・・・す、すごいじゃん」 戸惑いを隠しながら(目が泳ぐ)、 えーと・・・私ではなく母親の髪を洗ってブローしてもらいたいんですが。 母はオレンジ色のスタッフにシャンプー台へと案内され、 私はその間、王様が座るようなゴールドでゴージャスな椅子に座り(なんでこんな椅子がある?)、 店内をきょろきょろしながら待ちました。 美容雑誌を手に取ると、そこにはこちらのお店をプロデュースしたらしい方が載っていて、 こういう系列のお店が全国にもあり、 雑誌で紹介されていた店舗もやはりオレンジカラーで統一していました。 そして、働くスタッフも当然のようにド派手なファッションで、 そして・・・とても輝いていて美しいのです。 女性を(男性もかな)美しくするだけでなく、健康で元気で明るくするのが美容師だと書かれてありました。 だから一番に美容師たちがそうあるべきで、 美容室はそれを叶える、最高のリラクゼーションを味わえる場所であると。 出来上がった母を見て、またびっくり。 今まで見たことないようなボリュームたっぷりの、 素晴らしくかっこいいブローで仕上げてもらいました。 思わず、お母さん、すごくいいよーーーー!ステキ! シャンプーも化粧品もすべてにこだわりぬいた商品を使っているようで、 お値段もまたすごい・・・けど、 お肌にいいシャンプーというのがちょっと気になりました。 そして、こちらのお店は単に見た目を売りにしているのではなく、 気配りもすごいと思いました。 私が待っている間、 スタッフの方がさりげなく声をかけてくれたり、 なんでわかるの?と思うような自分が好みの本を持ってきてくれたり、 母にも優しく親し

寂しい理由

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今月はたくさんの方とのお別れがあり、 寂しい・・・という感情には裏などなく、 ただ素直に感じているだけと思っていましたが、 これって何かのパターンなんだろうか?と思いました。 寂しいと感じる理由には、 もっと話がしたかったのがあります。 まだまだこれからも語りあったり、笑ったり、悩んだりしながら、 時間を共有したかったのに、もうそれができないことに寂しさを感じているのです。 でも、そこにもまた、何でそう思うの?としつこく聞けば、 話をしたかったと思う気持ちの深いところには、 その人とはこれからもっと楽しいことがあったはずだし、素晴らしいことになったはず。 そしてもっと自分がその人によって成長ができて、幸せを感じて・・・と相手に期待をしていたように思いました。 自分を満たしてくれるものがこの人にはあって、 それがもう叶わないんだなあと思い、寂しさを感じてしまったのかもしれません。 もう二度と会えないかもしれない。 そう思うと、いてもたっても居られないような気分になってしまうのは、 その人からもう得られるはずのものが得られなくなってしまった・・・と思う悔しさもありました。 今までも寂しさを感じるときは、 似たようなことが心の中でうずまいていたと思いますが、 今、冷静になってその理由が見えてくると、寂しさが少しやわらいでいくような感じがありました。 それにしても・・・ パターンは、 自分をひいきにしてくれる人、褒めてくれる人、 認めてくれる人、興味関心をもってくれる人、そういう人には弱い。 なぜならばそういう人たちは、 自分を気分よく機嫌よくさせてくれるから、パターンは離したくないんですね(お別れしたくなーい)。 パターンは巧妙ですので、それとは悟られないように高揚感を持たせ、 その人のそばにいることで自分が成り立っていくかのような、そう思い込ませる魔法をかけるのだ。 自分がいい感じだと思っていたものが、 実は自分のパターンがいい感じだと思っていた・・・ということは多々あります。 そこの違いを見極めていきたいものです。 また自分を一つ知ることができたと思いました。 自分という人間を知るための材料って、 いつでもどこにでも用意されているんだな。 電気のひもにぶら下げたい

悩みがある人ない人

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ときどき、悩みはないです!という方と出会うことがあります。 明るいその笑顔は嘘ではないと思うし、使う言葉もポジティブで、 うまくいかないことがあっても、必要だから起こっているんだと理解し乗り越えている。 それはそれでいいし、 何も言うことはない・・・。 って以前は思っていましたが~ 今は少し違っています。 無理やり悩んでほしいということではもちろんないのですが、 ただ・・・悩まないより、悩むことの方が、 自分を知る上ではとてもいいことだと感じるようになりました。 自分自身を深く広く、知らない部分を知ることができるだけでなく、 物事の捉え方が変わり、人に対してもこれまでとは違う理解ができるようになっていきます。 成長する、進化する、領域が変わる・・・ そして悩むことの先に、 これまでの幸せの概念とはまた違うものが出てくる気がします。 ポジティブだけだとそれは叶わない。 悩むというのは、ネガティブな感情ですが、 自分自身へ気づいてほしいことを、感情によってサインを出しています(ネガティブって大事)。 ここが人間にしかできないすごいところ。 しかも、とても小さく一瞬の感情(ん?と瞬間に通り過ぎるもの)でも感じ取れるのです。 そういうものを、本当は日々私たちは感じ取っているはずなのですが、 普段、頭で考えることばかりしているので、 自分が受け容れたくないものは、思考でぐいっと転換させたり、 スルーして無かったことにすることもできます。 でもそれでは、せっかくの本題(本当はここを見てほしいという部分)を消してしまい、すごくもったいない。 悩み(というパターン)に気づき、 それがあることを認めるということが、 本当の意味で、楽に幸せに生きることへの出発点になるのだと思います。 そこから何を選択していったらいいか、 幸せに生きる「私」になるためにどう行動していこうか?と考える。 むしろ、この一連の作業を悩みもがくことをするために生まれてきているのではないだろうか・・・ だから、小さいことだけど、もやもやしたりイライラしている。 という方は、自分が幸せに生きるために、 自分の魂が一生懸命サインを送っているんだと思っていい。 悩みがあります!と堂々と自覚して大丈夫。 たまに、もうどれが悩みなのかがわからない・・・ということもあるかもしれません。 何に自分は苦しめられているのか、 何が

傷ついたと思うとき

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『傷つく』についての意味付け(中立ワーク)を考えてみます。 マイナスの意味付けとしては・・・ ダメージを受ける、不利になる、弱くなる、立ち直れない、動けなくなる、 耐えられないこと、苦しいこと、かわいそうなこと、人間不信になる、 相手を恨む、元気がなくなる、トラウマ、自分でそう思いこむ、ネガティブ思考に走る、保身に走る。 プラスの意味付けとしては・・・ 相手の気持ちを理解する、優しくなれる、落ち着いて行動する、立ち止まれる、 人が見える、成長する、回復する力がつく、思慮深くなる、言葉を大事にする、 自分の弱さに気づく、自分の守りたいものが見つかる、パターンが見つかる。 そして、本来は中立としてそこにあるのは、 ただ一つの体験です。 いいも悪いも意味もなく、傷ついたと思った体験があるだけ。 見えない心の中の傷はやはり見えませんし、あるかないかもわかりません。 『傷・つ・い・た』と自分が思う、決める。 そう判定をくだして自分がその状態を作っているような感じがあります。 たしかに、グサッときたことがあって、ドキッとして、 緊張が全身を走り、心臓がバクバクし、 もうだめだ、自分には耐えられない、傷ついたあ~ とそこで自分は、「はい、傷ついた人間です」と自分に判を押す。 他の誰でもなく自分自身がそう決定し宣言しているようにも見えます。 傷ついたと思うと、なぜかそれを口にしたくなることがあります。 口に出して自分の正しさを主張し、傷つけた相手を責めたいのかもしれません。 自分が責められたと思っているけれど、 そう言ったり思ったりすることで実は相手を攻撃しているのでしょうね(反撃です!)。 また、誰かに聞かれたら、そう答えることによって自分を守りたいというのもあるかもしれません。 自分は悪くない、傷つけた相手が悪い。 悪くないどころか正しかったし偉かった。 そう表明して周囲からもかばってもらい、守ってもらいたいから傷ついたと言うのかな。 傷ついたと思った時、 何を自分は守りたいんだ?と聞いてみよう。 トロイカのピロシキ

なぜ聞きたいのか?

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3月は、お別れの月でもあります。 こうして会うのも今日で最後かあと思うと、 今までたくさんその方からしてもらったこと、楽しかった思い出が浮かび、 感謝の気持ちを伝えて笑顔でお別れしたいなと思いました。 それと同時に、これだけは言いたい、聞きたいと思ったこともあり、 ずばり話してみたことがありました。 ある行動(ちょっと内容は書けませんが)をどうしてするのか?という質問に、 その人は、私からそんなことを言われたこと自体に驚き、 自分がしていることの自覚がまったくなかったことがわかりました。 ご本人からすると、何のこと?っていう話だったのです。 意外な反応というより、心のどこかで自分もそうかもしれないとわかっていたと思いました。 わかっていたけれど、そうあってほしくないと自分は(パターンは)思っていたんです。 そう、自分のパターンの問題だった。 でも、パターンの問題であっても、それはいつも一瞬のことで・・・ 日常生活を送るに支障はない。 そうやって、後回しにしてきたんだと気づきました。 今、お別れしないですんでいる人にも、 まあ、今聞かなくてもいいか~ ということがたくさんあると思います。 中には本当にどうでもいいことだったりもしますが、 大事なことは、自分がなぜそれを聞きたいのか?というところです。 本当はそこが気になって、引っかかっているのに目を向けられませんでした。 ~するべきだ、普通は~するはず、っていうパターンがあったのです。 理由を聞いて、なるほどなあって思いましたが、 それで終わらせたら、パターンとしてもがっかりすると思います。 その人に出会ったからこそわかったこと。 置き土産のようなパターン・・・語りかけしていこうと思います。 岩手の地酒 揃っています(しまか)!

パターンの代わり

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昨日の講座では、先輩の方々に囲まれてちょっと緊張しました。 年齢とか関係ないと思っていても、 やはりいろいろな人生経験をされている方々へ、 自分の話はどんなふうに聞こえたのだろうって思いました。 話の理解というより、何となくの感じで大きな枠をつかむ方は多いような気がします。 (ってまだ数回しかやってなくて言うのもなんだが) 自分がもっと相手の方に合わせた話し方ができればいいのですが、 なかなかそこは自分でももどかしいくらいアドリブが効かず、 人前で話すという経験が本当に乏しいなあと感じます。 だからこそやっていくのだ。 心のからくりには、パターンという言葉が登場します。 自分もかつては、このパターンという呼び方が、 何だか慣れない感じがあったことを思い出しました。 ここであらためて、パターンを説明しますと・・・ パターンとは、 考え方や捉え方の癖、こだわりや決めつけ、思いこみ、信じてやまないこと、 価値観、常識、世間体、エゴといった、頑なに変わらないものを言い、 誰の心の中にも存在しています(あっていいもの)。 それは、小さい頃に両親や身近な大人から言われて続けたこと、見聞きしたこと、 育った環境や教育、学校の先生、学校の友達、職場の人、 SNSやテレビの情報からもいろいろなものを自分自身へ刷り込み、 その絶対的なパターンによって人は、苦しい感情に飲みこまれていくのです。 でも、なぜ『パターン』と呼ぶのか? 自分も、なんで?って思ったことがありました。 他の言葉はなかったのかなあと。 例えば、モノサシ(物差し)。 自分のモノサシで考えている、とよく言います。 自分も他人も、自分のモノサシでしか見れなくなって、まさに決めつけやこだわりで自分基準であることに気づきません。 すべてを偏見で見ていることで言えば、『色めがね』なんて表現もあるのかも。 そういえば、『バイアス』という言葉で理解した若い方もいました。 誰かにとってはこっちの方がわかりやすい、という言葉があるのかもしれません。 自分はやはり、長年使っているパターンという表現がしっくりきます。 思考パターン、行動パターン、決めつけるパターン、繰り返されるパターン・・・ 若い人たちの話し言葉を聞いて、 聞き慣れない単語、その音の響きから、全然頭に入ってこないことがあるように、 年代によっても、また感覚的な違いからも、

そういう自分とは

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そういう自分でなければ、生きて来れなかった。 という言葉を聞くと、 自分のしてきたことを本当は悔やみながらも、 それ以外の選択は当時はなかったんだと、 『そういう自分』を肯定したい気持ちがその言葉から感じられます。 あのときはそれが正しいと思ってやっていた・・・ と自分を振り返っても、思います。 後になって、明らかに本音は違っていたとわかるのですが、 本音など関係なかったのです。 だって、他人からどう思われているかが大事だったのですから。 でも・・・これからもそうしたいのか? と問えば、そこは違います。 自分の本音は以前よりはずっと自分がわかってきている。 そこをいつも明らかにすることができれば、 もしかしたらどんな選択であっても、どうにかやっていけると今は思うようになりました。 『そういう自分』を肯定したいというのは、 他の自分がいることを認めたくない・・・と思っているからかもしれません。 パターンと共にしがみついて生きてきた、そんな自分は受け容れがたいので、 パターンとかそういうことじゃなくて~って、 時代がそうだったからとか、環境がそうさせたとか、体がこうだったからとか、 あの人が、この人が・・・というように、 やはりパターンはパターンを守ることに必死なんだなあと思います。 すべての気持ちをわかっているのは本当の「私」だけです。 だからこそ、誰よりも『そういう自分』の気持ちを理解してあげられるし、 声をかけ、労わって、励まして、守ってあげられます。 だから、怖がらずに自分を受け容れていこう。 ところで、本当の「私」が選ぶものはすべていい感覚のものとは限らない。 と師匠から教えられました。 「私」が選ぶのは、いいものに決まっているというのは、 それは陰陽の意味をはき違えていたようで・・・ どちらもあっていいように(というか、無くてはならない)、 陰と陽をぐるぐるとまわって動いて、 そうやっててバランスをとりながら、その時の最良の選択をしていくようです。 いい感じのものを選ぶ。その感覚はとても大事ですが、 そうではないもの中から見えたり気づいたりすることは多く、 だから、時にはいい感覚ではないものを選ぶことも「私」はするのですね。 やっぱすごいなあ「私」って。 先日の、 使っていきたい資質の話 ですが、 今、テーマにしている、 (謙虚さを持って)心をひらく。 これ

伝わったかどうか

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伝わったかどうかが気になる時は、 相手のことを思っているようでいて、自分のことを考えています。 相手にとって大事なことならば心配することもありますが、 よくよく観察してみると、 伝わってほしい → 理解してほしい → 自分をわかってほしい。 の構図だったりします。 自分の話すことが伝わってほしい。 なぜならば、 伝わらないと自分が悪い、自分の話し方がだめだから、自分が否定されているから・・・ とパターンは思っているんですね。 内容そのものがいまいちとか、 興味がわかない話だったということもあるかもしれません。 それであれば、逆にあきらめがつくような気がします。 あきらめきれない、気になる~、なんで伝わらないの~っていうときは、 パターンが納得していません。 問題は、伝わったかどうかが、 内容をわかったかどうかではなく、 自分自身をわかってもらえたのかどうか? で考えてしまっていることです。 これ、本当に飛躍した受け取り方だと思いますが、 自分はやってしまうのです。 それくらい、 自分がしたことに対していちいち他人からどう思われているのかを、 気にしているんです(←パターンは気にする)。 だから、ネガティブな感情がわけば、 伝わらなかったんだと思うだけではなく、 自分をわかってもらえなかったんだと思い、 がっかり感と無力感、また悲しさ虚しさを感じます。 自分じゃなければちゃんと伝わったかもしれないと思い、考え、悩みます。 そんなパターンがいても、 やはり「私」はここからどうありたいのかを決めていくしかありません。 今ここから、もう一度伝えることを見直し、 そしてパターンへの語りかけをしながら、 自分をわかってもらいたいとか、 自分を受け容れてもらいたいというのはやめると決める。 自分はのびのびと楽しく伝えられればそれでいい!を選んでいこう。 この清々しさ、軽さをもって・・・ 来週日曜日は、 こころのケア【はじめて講座】 です。 自分の、なんかこれっていいかも!楽しいかも!をお伝えしていこうと思います。 心を込めて、こころのからくりをお話しさせていただきます。 ご参加お待ちしておりまーす。 ビルのPから 岩手山

どの資質を使うか?

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クラスの勉強会で、自分が普段よく使っている資質ではなく、 これから使っていきたいと思う資質を考えることをやりました。 備わっている資質ってすごくたくさんあるのですが、 それら全部使っているのかといえば全然そうではないらしい。 モノで例えると、 使い勝手がいいモノは、ボロボロになってもなじんでいるがゆえに使い続ける。 っていうことに似ています。 新製品には今までとは違う使い方があったりして、 そういう便利さや豊かさも知ることがないまま、一生を終える・・・みたいな感じ? 生まれつきの性格や気質、能力的なものがあると思いますが、 それ以上に、誰にでも元から備わっている幸せに生きるための才能が資質です。 優しさ、慈悲、素直さ、たくましさ、正直、親切、判断力、行動力、洞察力、集中力、サポート力、リーダーシップ、積極性、意志力、健康、美、ユーモア、自然、自由、純粋さ、落ち着き、無邪気さ、達観力、生命力、受容、許し、愛、等々・・・(まだまだある) 本当の「私」というのは、 これらたくさんの素晴らしい資質で構成されています。 宇宙の法則に沿って、 わたしたちがすべてのものと調和していくために、 何一つ欠けることのない全知全能である普遍的な意識の「私」。 でも、それを知らないまま、 自分にそんな可能性あるのかな?と疑っていれば、 その思いの通り、「私」ってまだまだ小さな存在でしかありません。 本来はたくさんの素晴らしい資質があるにもかかわらず、 自分が使っているものはと言えば、ほんの一部でワンパターンなものが多かったりします。 そこで、これから、自分のあり方を問うときに、 この今まであまり意識的に使ってこなかったものにも、光をあてたいと思いました。 まずは、『謙虚さ』を持って、『心を開く』。 ここに自分は光をあてたい! 自分と違う意見の人や、違う価値観をもった人、正しさを主張する人、 断定的な言い方をする人や、自信満々の人に対して、 要は自分が苦手だと感じるタイプの人にも、すっとそれを『受け容れる』『謙虚さ』と、 『素直』に『心を開いていく』自分でありたいと思いました。 また、心を開くには、 相手への『誠実さ』と自分自身の『柔軟さ』も必要かもしれません。 そして保身に走ってはいないかどうか? と自分を確認しながら進んでいきたいです。 今の自分にとっての謙虚さとは、 控える、ゆずる、負

その手にのらないように

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あるパターンに引っかかったとき、 お、今、モヤモヤしているな・・・と、 完全にパターンが顔を出していて、今まさに大きく勢いづきそうな感じがありました。 このパターンは、時々登場するので、 察知するタイミングも素早く、「モヤモヤ」の前にすでに「小モヤモヤ」があり、 それらを観察しはじめる「私」がいます。 でも、そこでどんなにパターンが騒ごうとも、 その手には乗らない、その流れには乗っからない。 ということを「私」が選んでみます。 強い気持ちでのぞむと、ちょっとモヤモヤが一旦静止するような感じがありました。 そして、パターンが引っ込んでいったようにも思いました。 現実には何が起きていたかというと、 パターンのまま、その流れのままでいけば、 自分はきっと相手に苛立ちをぶつけていたと思います(ちょっと嫌な感じで言ってしまうとか)。 でも、そういう自分ではもういたくない。 だから、「私」はそれは選ばない、選ばない、その手には乗らない、乗らない・・・ というように念じて(心の中でつぶやいて)ちょっと黙ることをしました。 黙ったことで、少しだけ自分自身が落ち着き(←パターンが落ち着いたのだと思う)、 その後は、モヤモヤが静まり、 言いたいことをゆっくりと感情的にならずに言えたように思います。 この、一瞬の選択は、一瞬であるけれど、その後もずーっと影響します。 不快感、違和感、嫌悪感には思う以上に引っ張られてしまう・・・ っていう経験は何度もしてきてます。 また、自分がそういう行動を選ぶことにあまりに慣れすぎている。 反射的にパターンに引っかかったとしても、 何を自分は選びたいのか? どうありたいのか? そこに注視して、いつもとは違う行動をとり流れを変えていくと、 こっちの道だよ〜って開けていくような感じがありました。 パターンよりも、本当の「私」のパワーを感じた出来事でした。 白ってステキ~

鮮度が大事

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パターンが騒いで苦しいとき、パターンへ語りかけをします。 でも、すぐにできる状況ではなかったりするので、 家に帰ってからじっくりやろうって思います。 で、帰ったら帰ったでいろいろやることがあって、 寝る前にしようと思っていたら、眠くなり・・・明日にしよう・・・ と先延ばしになることがあります。 時間が経てば経つほど、 一番はじめに感じたものが薄れ、 パターンが何を言いたかったのかが、わからなくなってしまうことがあります。 どんどんいろいろな感情もわいてきて、 怖い、不安といった感情に語ろうと思っていたのが、 いろいろ考えているうちに、いや、怖いというより腹が立ったんだとか、 待てよ、ちょっと寂しさもあったなとか、 一番はじめに感じたものからずれにずれ。 一体どのパターンへ語りかけをしたらいいんだー!と迷うことがあります。 せっかく、自分を知るチャンスだったのに、パターンを見つけられそうだったのに。 もうわけがわからない・・・ということがありました。 だから、語りかけはできるだけ感情が騒いだら、時間を置かないうちにしたい。 はじめに感じたものをしっかり覚えておいて、 なぜ、そう思うの?と問いかけ、 日本語的におかしくてもいいから、 まずは思いのたけを話す(←パターンが言いたいことを吐き出す)。 この鮮度がとても大事だと思いました。 また、語りかける内容が、 ちゃんとパターンの気持ちを代弁しているかどうかも大事ですので、 すっきりとシンプルに伝わる言葉を選びます。 でも、はじめはとにかくありのままの自分で吐き出す。 他人が聞いたらどん引きするような言葉(笑)、 ドストレートで話すのだ。 あれこれよく考え抜いたものよりも、 はじめに思いついたこのドストレートなものが、一番よかった、しっくりきたということはよくあります。 頭で考えれば考えるほど、本題からはどんどん離れていくものかもしれません。 パターンに響く語りかけは、 時間を置きすぎない。 鮮度を大事にしようと思います。 のれんをくぐると、そば処

気にするパターン

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自分の心の中にあるパターンで、よく登場するものに、 ●あんなふうに言われたくない というのがあります。 相手の反応や、言われたことに、 もう~~~納得いかない、傷ついた、許せない!と、 泣いたり怒ったりしているパターンがいます。 そう思うのにはまた理由があり、 もっと大事にされたかった、尊重されたかったとパターンは思っていて、 これってそうされるに値する自分だと思っているから。 だって、相手を不快にさせたつもりはないし、 逆によく思われるようにこれまでやってきたのだし。 すごくいい人とは言えないかもしれないけれど、 あんなことを言われるほど、自分は悪くはないでしょうってパターンは思うんです。 それくらい、 相手の反応が思うようなものでないと、 パターンは受け容れられないのですね(パターンって、ほんとに許容範囲が狭い!)。 あんなふうに言われた・・・ということに抵抗しつつも、 そんなふうな人間なのかな自分は? とちょっと揺れているところもあるのかもしれません。 他人をいつも気にしているのは、いつでも「私」ではなく、パターンです。 とろろそばって美味しい

愛と希望を運ぶ「私」

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昨日は、 こころのケア【はじめて講座】 でした。 はじめて聞く話、はじめて会うカウンセラー、 はじめて自分のことを何もわかっていなかったかも・・・と感じる。 いろいろなはじめてを体験する機会として、 また、そこから心のからくりを知って、 自分を知ることに興味をもっていただけたらいいなあと思っています。 猛吹雪の中(私はすごい地吹雪に遭いました!)ご参加下さり、 本当にありがとうございました。 ーーーーーーーーーー インナーチャイルドという言葉。 ふいに出てくる子どもの頃の自分がいます。 小さい頃、とても寂しくて悲しくて、孤独でつらかった、傷ついた、怖かった、 そういう体験が誰にでもあると思います。 大人になってからもずーっとそのときのまま、 一人ぼっちでいる子どもが心の中に存在し、助けてくれるのを待っています。 その子どもに、今大人になった自分が駆けつけて何か話してあげたい・・・ そう思うけれど、その子はもしかしたら、口を閉ざし、耳を閉ざし、 大人になった私にも背を背けるかもしれません。 怖くてずーっと震えているかもしれません。 一人ぼっちで小さくうずくまって泣いている・・・ そんな思いをしてきた自分だからこそ、そうする子どもの気持ちがわかります。 小さい頃の昔の自分に、声をかけたり、そばに居てあげたり、 時には一緒に遊んであげるというのは、 たしかに現実にはできないことですが、意識はそこに向けることができます。 「怖かったよね、さみしかったよね。大丈夫だよ、ここにいるからね」 子どもは、とても弱い存在だけれど、 無邪気さ、素直さ、単純さ、明るさ、好奇心、ユーモア、 そして希望と共に前へ進もうとするエネルギーがあります。 もう十分そばに居てくれた、わかってくれた、遊んでくれたと感じると、 自分で立って歩こうとしていきます(結構あっさりと)。 そうなるまで、何度でも根気よく、 愛と希望をもった「私」が接してあげたい。 インナーチャイルドは小さな子どもとも限らず、 大人になってからの自分にもいえることです(もうチャイルドとは言えない年齢)。 そうやって、遥か昔に、 寂しがっている、つらくて孤独でずーっと下を向いている自分を感じたら、 すぐにそばに行って守ってあげたいと思います。 地吹雪の後の、静けさ