想像でしか分からないとしても

自分が経験していないことは、どんなにがんばっても想像でしかわかりません。
その想像も、自分が経験してきた人生の出来事の中で、唯一近いものを探したぐり寄せ、
精一杯イメージをし、
そのときの感情を呼び起こし、
きっとこんな気持ち、こんな状態なのではないかなあ
と思うだけなのだと思います。

自分が経験したことでさえ、100%理解したといえないことばかりですから、
他人の人生なら、数%・・・
すごく大雑把に、「辛い」「悲しい」「寂しい」というように、
どれかの感情に当てはめてはみるものの、むなしいくらいその感情の濃度や細かい部分が分かっていない。

障害を持つ親御さんから話を聞く機会が与えられましたが、
自分にはもしかしたら、どれだけやっても(この仕事を続けていったとしても)分かることがないのかもしれない、と思いました。
また、今までも、堂々と相手の気持ちと大きく外れたところで話しをしていたのではなかろうか・・・
と、胸がしめつけられる思いがしました。
少しでも相手を分かりたい、理解したいという純粋な気持ちで接してきたつもりだけど、
やっぱり、自分の経験ではないから、分かるはずがない。
「理解したい」という自分が発してきた言葉そのものが、何か薄っぺらで、無機質な言葉のように感じました。

それでも、
知りたいという気持ちが、ずっと自分の中にあることも事実です。
どんな思いでこれまできたのか、今があるのは、どんなことがあったからなのか、
ご本人と親たちの望んでいること(これは、本当の「私」が望むことを想像して)、
未熟な自分がたくさんの人を介して、教えてもらっていることは、
本当にありがたくて、関わらせてもらえる環境に感謝です。

私にもし、誰かのこの経験、誰かのこの人生を、与えられたとしたらどう生きただろうか。
他人の人生に触れるたびに、想像し、考えます。
一人につき一つの人生ですから、
自分の代わりに、他の人生を経験してくれているように思うのです。
私の代わりに、あなたがこの経験をしているんだと。
だからこそ、その人の生き方を知りたい、思っていることを知りたい、
と願ってしまうのかもしれません。

人を知りたい、という興味が自分にはとてもあります。
どうして?という疑問が出ると知りたくなってしまうからです。
そこから、分かりたいという探求へ入り、分かるということへほんの一歩近づくことができる。
人間が生きることの神秘、奇跡、美しさ、壮大さ、強さ、はかなさ、素晴らしさを、
あ、今ほんの少し分かりかけたのかも(見えかかった気がしたような)・・・
これをかいま見たいのかもしれません。

きっと、自分のこの願いが道から外れたものでなければ、
自分をいつもすぐそばでサポートして下さる方たち(目に見えない存在)が応援してくれるでしょう。
障害を持つ親の気持ち。分かることがないかもしれないけれど、
分かりたい気持ちはこれからも持ち続けていくと思うし、知るための行動をとっていきたいと思いました。












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