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9月, 2023の投稿を表示しています

ダメなところしかない

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仕事の話になりますが・・・ とある研修の内容を考えています。 とある・・・といっても、こころのケアに関するものなので、 普段自分がしていることをお伝えする。 ということではあるのですが、 これが、なかなか完成させられません。 もうそろそろ、あとは練習するだけ~ という段階に入らなければと思うのですが、 一つ完成させて読みあげると、また一つ二つと、直しが出てきます。 この言い回し、なんかしっくりこないな、 これだとちょっとわかりにくいかな、 等々、毎回よしOKということがないんですね(永遠に続きそう・・・)。 もういいかげん自分でも疲れてきて、 一旦休止に入ったりもしました(数日間、放置)。 開催期日が延期になったということもあって、 ゆとりが持てるどころか、 ますます模索し続けています。 それだけでなく、●人前で話すのがこわい というパターンに毎日語りかけをしています。 はじめの頃よりはだいぶ、 〇今の自分で、精一杯でやっていこう を選び、気持ちが軽くなってきましたが、 それでもふいに、おお~ダメだ緊張する・・・と落ち着かなくなることも。 こんな自分ではありますがー、 いろいろ頭も使い、直観も使い、語りかけもし、 ここに来て思うことは、 もがきながらやっていること、このプロセス自体が、 自分にはよい経験になっているということ。 それだけは、よーーーくわかるような気がします。 青くなるほど、意味のはき違えをしていたことも今回発見しました。 なんとなくわかる、で自分は大丈夫でも、人に伝えるには不十分です。 また、本当にいやになるくらい、 なんか表現がとぼしかったり・・・かみかみだったり。 ダメなところしか今のところありません。 だからこそ、がんばれるというのは良かったなあと思ったりします。 そして、もう一つの発見として、 ●人前で話すのがこわい というパターンの言い分が、当初と変わってきているということ。 はじめのころは、 声がとにかく出なくなることへの恐怖もかなりあったのですが、 それは全然パターンとしては、言わなくなり。 そのかわり、パターンも核心ついたことを言うようになってきました。 そういう変化もおもしろいなあと思います。 どうしたら少しでも興味をもってもらえるだろうか。 少しでも参加した方のためになってほしいと、そこを考えてしまいます。 自分というこの体を、

用意周到

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ある仕事の予定がキャンセルになって、 ちょっとほっとしている自分がいるとき、 自分の本音が見えたりします。 本当は、行くのが怖かったんだな・・・と。 また、突然に入った予定に、 もうやるしか選択しかなく、 勝手に体や口が動いた自分をふりかえり、 こんな自分がいたんだな・・・ と思う(火事場の馬鹿力だったのか)。 どちらも自分でした(予定を入れた)ことなのですが、 後者のような体験の方が、おもしろさがあります。 一般的には、用意を周到に行えばたいていのことは、 それなりに進むような気がします。 持っていくものも準備万端で、何を言えばいいのかとか、 会う相手のことも調べる時間もあって、 シュミレーションできるから、不安も薄れるし。 でも、準備する時間もなく、 どんな相手なのかもわからず、 こういうとき、何を自分は優先していたのだろうかと振り返ると、 まずは、ちゃんと話を聞こう、でした。 またそう心が定まると、その後は心が落ち着き、 これから始まることが、何か楽しみにもなってきたように思いました。 わからないことが怖い、というのもありますが、 わかっていけるかもしれないと思うと、 希望が広がり、気持ちが軽くなります。 ああ、これって白を選んでいるときと同じだと思いました。 パターンのケアをしているときに、 黒から白を選ぶということをしますが、 そういうときではなくても(突然のことでも)、 瞬間的に白を選ぶということを、これまでもやっていたんだなあと 今更ながらですが、感じたのでした。 目の前の出来事に、 どんなカードを選んでいくか?って、こういうことだったのだ。 そして、「話を聞こう」は、 「もっとあなたが知りたい」になり、 「私も、丸裸になって話そう」になって、 その時間はとても自分にとって、意味あるものに変わったと感じました。 これは、前者であってもできたかもしれません。 準備とは、心の準備だったんだと思いました。 そこを軽くみていたんだな・・・と。 後者のようにカードを引き続けると、 こんなふうにとても充実した時間に変わるという体験。 急な予定に教わりました。 公園を散歩

そのこだわりがなければ

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自分の心の中と、自分が発する言葉や行動を一致させると、 それはとても自然で、とても自由であることを感じます。 〇もうそこにこだわり続けるのはやめよう これは、いろいろなパターンに対してオールマイティに使える白ですが、 このこだわりさえなければ、 これがなかったら~ 随分といろいろなことが楽になることか。 自然体で生きるということはどういうことか。 自由で身軽さを感じられるようでありたい。 そこに今自分が必要なのは、 こだわらない精神かもしれないと思いました。 こだわらないことに、こだわる。 というのは、また違うけど・・・ ぎゅーっと何かが自分を縛っているような感覚があったら、 体でいうと、肩こりや胸のつかえ、気を張っているような。 どこかに窮屈さを感じたときは、思い出してみようと思います。 それと同時に、 縛られていたものへの理解とねぎらいと、それがあったからこその感謝も。 それがあって、そこに目を向けることができる。 後悔するようなことも、あーやってしまった!と思うようなことも、 やはり、パターンは無くならなくてもいいのだなあと思いました。 そう思うと、自分の発する言葉がまったく違ったものに変わっていきます。 私は首のヘルニアがあるので、 結構、これがまたちょうどいい感じに?痛みだすときは、 サインだったりします。 首が回らないほど忙しく何かやっているとき、 忙しいというのは、こだわっているものがたくさんあるということなのだと思う。 自分で自分の首をしめている、っていうのもあったり。 昔の人は言い当てていますね・・・ もう、そこに居続けるのはやめよう。 解放された軽さにひたってていきたいです。 おやつの時間

新しい朝を迎えたら

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●この人嫌い、と思っているパターンの語りかけをしています。 この手のパターンに限ったことではないのかもしれませんが、 誰かが、き・ら・い、というとき、 まずは、その怒りや嫌悪感が強すぎて、 なかなかパターンの言い分も支離滅裂だったりします。 でも、感情に飲みこまれているときは、 つかみどころがないような言い分が続くので、 それでもどこからでも、話しを聞いていきます。 パターンが騒ぐというのは、 それ相応の理由がもちろんあるのですが、 それは、そうなんだけれど・・・ 「私」を使わなかった時間が長かったんだなあと思いました。 小さな怒りを感じていたのに、 それを無視し続けた結果、パターンが巨大化してしまったように思います。 なんでもそうですが、 ほったらかしにしていたばかりに、 収拾がつかなくなってしまった・・・ということはよくあります。 中身もより複雑化して、 この糸、二度とほどけないんじゃないかと思うくらいからまっている。 もっと早くパターンの言い分を聞き、 せめて、時々でもいいからパターンに語りかけていたら・・・ ここまで大きくなっていなかったかもしれません。 すでに何度も感情が揺さぶられていたのに、 ほっといていたのは、「私」ではなく、 自分に向き合いたくないとか、そんなパターンは自分は持ってはいない(認めたくない)という、 これもまた、パターンでした。 でも、それに気づいた時から、 またやっていくしかありません。 何度でも、気づいたらやり直していくことができるのです(と言い聞かせ)。 朝、目が覚めて、 今日もまた、新しい朝を迎えられたということは、 そういうことを新しくやっていけるということなのかなと思いました。 盛岡フォーラム 朝は空いてます

嫌いな理由

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映画「こんにちは、母さん」おもしろかった 以前すごく嫌いだった人がいて(今もたまにパターンは騒ぐが)、 もうここまで人を嫌うことってないんじゃないかと思っていました。 思っていたんですが・・・、 久しぶりのこのパターンの騒ぎように、 こんなに腹が立ってしかたないのは、なぜだろう? とひたすら感じてみたいと思いました。 この怒りの感情をすぐにケアはせず・・・ というより、すぐにケアなどできません。 感情の波が、もう荒波も荒波。 「私」自身が飲みこまれているので、 そのままイライラを感じながら、必死で暴言を吐かないように、 一応そこは理性で、嵐が去るのを待ちます。 大嫌いだと言っているのは、パターン。 それは本当の、本来の「私」が思っていることではないので、 「私」とパターンを分離していることに意識を向けます。 「あなたは、怒っているんだね」 「あの態度は本当にゆるせないって、あなたは思っているんだね」 この「あなたは・・」と擬人化して言ってあげるだけで、 これだけで、怒りは自分と離れたところで起きているような感覚が生まれます。 そのあと、 じっくり、怒っている、大嫌いだ!と叫んでいるパターンに語りかける。 以前の嫌いと、今回の嫌いには共通のものがあるんだと思いました。 相手が自分と違う感情や感覚をもっていることを、 まのあたりにしたというところです。 世の中には、自分と違う感情や感覚を持つ人などいくらでもいます。 たとえ同じ悲しみでも、 その感じる深さや表し方がまったく同じという人はいないので、 自分と同じ気持ちになってほしいという方が無理なこと。 なのに、なぜ、自分と違う感情や感覚、表現をしただけで、 こんなに心は騒ぐのか? そこには、立場が関係していると思いました。 同じ(ような)立場であるのに、 同じ(ような)立場であったのなら、こう思うはずだ、こう言うべきだ、 という決めつけが自分の中にあったのです。 そこが同じどころか、真逆な反応や言葉や、行動があって、 私の心の中に住んでいるパターンが、猛烈に反論している・・・という感じです。 【パターンとは】っていうお手本になるような出来事だと思いました。 ~すべき、~してはいけない、~が普通、~なはずだ。 というものが、ことごとく叶えられず、 さぞかしパターンは怒り心頭だったことか。 自分と同じであってほしい。 同じよ

どう感じているか、の練習

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盛岡城跡公園となりの桜山神社 無意識ですが、 普段、いかに他人の反応をあてにしていたんだろうって思います。 あまり反応がないことが続いてみて、それを実感しました。 何か言ってほしいとか、反応してほしいとか、 こんなに周囲はどう思っているのかが、気になっている自分がいたんだと知ります。 それで今、八幡様のお祭りがはじまっているのですが、 祭り好きの私は、市内をねり歩く山車が近づいてくると、 もう居ても立っても居られなくなり、 山車を探しに行きたくなるんです。 そばで話していた人をほっといて、外に飛び出し、 山車だけを追いかけ、見れてよかった~と満足して帰ってくる。 (後から、ほったらかしにしたことを謝る) そういうときの自分って、 誰にどう思われるかなど、 まったくなんにも思わないでやっています。 周囲のことが目に入らないし、 何か言われたとしても、 あんまり気にかけないと思う。 それだけ、自分のしたいことに夢中。 他人の反応を気にしているというのは、 そこに、自分を主としたものが、 いまいち薄れている状態なのではないかと思いました。 自分の意思だけでいる、やっている、そういうものではないと感じます。 自分の意思だけではないというのは、 やらなければならないとか、やった方がいいだろうとか、 やるならこんな風でありたいとか、 パターンが顔を出していますね。 細々とした条件がついているんだと思います(これも無意識に)。 また、他人の反応を参考に、より良いものにしたいとか、 もっと何か模索していきたいとか、 そういう気持ちもあり、反応を知りたいということも確かにあります。 ただ、今自分が感じているのは、 そういうものとは違う感じがする・・・ もっと自分自身が感じることを中心にしてみたいと思いました。 自分自身の違和感、またはおもしろさをもっと大事にしたい。 わくわくすることならば、 周囲の反応が気にならないのはあたりまえ。 でもそういうことばかりではない日常で、 自分は今、どう感じているのか?というところに常にいたいのです。 反応を気にする自分(パターン)を主とするのか、 「私」が感じたことを主としてやっていきたいのか。 あらためて、 反応があるときもないときも、自分はどうか?と感じる練習が必要だなあと思いました。

これからも一緒に

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ベランダから見た花火 夫が日曜大工をしていました。 木でできた2階のべランダが、ここ数年手入れを怠っていたので、 かなりボロボロに塗料もはがれ、カビの黒さも目立ち、 なんとも残念な感じの古家になっていました。 家を建てたばかりのころは、 かなり熱心に手入れもし、掃除もゆきとどき、 設計士さんからも、こんなに家を大事にしてくれていて、うれしいな。 とよく言われたものでした。 でも、年月が経ち、 動くのもおっくうになってきた年齢に入り、 そして、何よりもその設計士さんが亡くなってからは、 私たちも家のことを相談する人がいなくなり、 気になる箇所があってもそのままで暮らしていたのでした。 ベランダは、グラインダーで表面を削り、 そのあとキシラデコール塗装します。 私は、夫がやることのお手伝いをしたいという気持ちはあるのですが、 大体が、じゃまになるだけだとわかっていますので、 本当に手が欲しいと言われるまで、そばで待機。 そばにいても、やっぱり何かとじゃましていることが多く、 何度も怒られたり、注意されたりしてしまいます。 それでも終わってみると、一緒に完成させたという達成感がありました。 (ハシゴを支えるくらいしか、やってないけど) そして、夫から言われたのは、 「何にも役には立っていないけど、居れば気持ちが和むな~」 ハシゴに乗るので、危ない作業でもありましたので、 この緊張感のあいまに、夫が和むことができてよかったと思いました。 どんなかたちでも、役に立つというのは、 自分が嬉しいというより、相手にとってよかった、です。 この感覚久しぶりに味わいました。 設計士さんとお別れしてから、 私たち夫婦は、心に大きな穴があいたように、 一時は悲しくて寂しくて、本当に大切な人を失ってしまったんだと思いました。 でも、こうして、また家を大事にすることで、 心の中で、会話が生まれ、 設計士さんも「お~、がんばったね」と言ってくれている感じがします。 そうやって、亡くなった人とも生きているかのように会話をしながら、 その人が残してくれたものと、 これからも生活していくんだなあと思います。 なんでも言い合ったし、笑いこけたし、たくさんケンカもした。 また家のことで悩んだら、文句を言っていくんだと思います。

今の自分を理解する

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自分の感じたことや考えたことを、言ってはみますが、 なかなかそのままを伝えられたと思うことがありません。 どこか足りなかったり、多かったり、 どうしてこうなるかな? と若干違う方向へ行ってしまうということもあります。 もうちょっと違う表現はなかっただろうか? と思うのは後の祭りで・・・ ま、いっか~で終わることもあります。 でも本当は、全然よくなかったなと少し経ってから気づくこともあります。 ぴったり、しっくりくる言葉を使うって、 むずかしいものだなと思います。 単なるボキャブラリーの無さからくるものなのか。 それとも、伝えたいと思うことと、 自分の心の中にある言葉は微妙に違っているからなんだろうか・・・ だけど、いくらうまく話せないからといって、 黙っていよう・・・というのも選べない。 だから、100%ぴったりくる言葉ではなくても、 今の等身大の自分で考えつくもので、話してみようとやっています。 よく、「うまく話せなくて〜」 と言って、自分が使った言葉を否定するかのように、 もっとちゃんとした言葉があるかのように、 言い訳してしまうことがあります。 特に、相手が自分の思うような反応ではなかったときに、 うまく話せさえすれば、思い通りに事が進んだはずだと思いたいのだと思う。 一体、「うまく」って何? 何がどう、うまければいいのか。 パターンの思い通りに行くことが「うまく」なのか。 結局は、等身大の自分でしか話せないのですね。 それが少しずつ腑に落ちてきました。 それが今の自分の力量というか、状態なんだなあって。 ああ、これが今の自分なんだなって理解すると、 胸のあたりが落ち着いてくる感じがします。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 《こころのケア講座》を開催いたします 日時:2023年10月7日(土)18:30~20:00 場所:やはぱーく  矢巾町活動交流センター  3F会議室 内容:〈感情を知る〉〈パターンを探す〉〈ケアって何?〉 参加費は無料です(定員6名)。 悩みがつきない・・・ストレスがすごい・・・というあなた。 こころのしくみを知り、自分にしかできないこころのケアを一緒にしてみませんか? ・職場の人間関係がうまくいかない方 ・仕事で悩んでいる方 ・家族や恋人との関係でつらくなっている方 ・ストレス発散では何も変わらないじゃないか!と思っている方

こころのケア講座

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《  こころのケア講座  》を開催いたします。 日時:2023年10月7日(土)18:30~20:00 場所:やはぱーく  矢巾町活動交流センター  3F会議室 内容:〈感情を知る〉〈パターンを探す〉〈ケアって何?〉 参加費は無料です(定員6名)。 悩みがつきない・・・ストレスがすごい・・・というあなた。 こころのしくみを知り、自分にしかできないこころのケアを一緒にしてみませんか? ・職場の人間関係がうまくいかない方 ・仕事で悩んでいる方 ・家族や恋人との関係でつらくなっている方 ・ストレス発散では何も変わらないじゃないか!と思っている方 ・悩みはないけれど何となく心がざわざわする方 前回はじめての講座は4月でした・・・が、 お申込みがなかったために開催致しませんでした。 今回は、お申込みがあってもなくても開催しておりますので、 当日のひらめきでご参加くださる方も大歓迎です。 お申込み方法: 心理カウンセリング Rowing  の【お問合せ】フォーム または、onmnyn★gmail.com(★を@に変えて)氏名と連絡先をお知らせください。 こころを知る、自分を知るって、とても楽しいです。 ご参加、お待ちしております!

似ている体験

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先日、精神保健福祉士の実習生が職場に2週間ほど来ていました。 普段、大学生と話しをする機会などそうそうないので、 今どきの若い人の感覚にふれるのが、 とても新鮮で毎日がたのしいものでした。 はつらつとした明るい表情、学ぶ意欲、 自分の言葉で伝える力、どんな仕事もまじめに取り組む姿勢。 これって、若いから・・・というわけではなく、 その人の個性なんだなと思いました。 自分の視点とはちがったところから見えるものを、 彼女は素直に教えてくれるので、 自分がどんな面談をしているのか知れたことがよかったと思いました。 ふだんの自分を、ビデオに撮って見てみたいです。 話し方、表情、どんな反応をして、どんな癖があるのか。 なぞの動きをしているんだろうな・・・ さぞかし、爆笑だと思います。 自分が面談しているときの様子を彼女のレポートで読んだとき、 へえ~そうなんだ~と、 自分の姿を、少し離れた高いところから観察するような気分になりました。 この、少し離れた高いところから・・・というのは、 昔、自分が体験したことに似ています。 20代に入院していたころ、一度だけ病室でベットで寝ている自分を自分が見ている。 不思議な体験がありました。 よくいう幽体離脱のようなものなのか、夢だったのかわかりませんが、 この話は、なんとなく簡単に人に言ってはいけないような気がして。 (でも、だれかには言ったかも) あれは何だったんだろうと思います。 今、そのときの情景が思い出されました。 あのときは、寝ている自分を見ているというよりは、 自分を取り巻くDRや、看護師さん、 そして、空気清浄機の音とベットサイドの機械音、 ベットの周りにビニールのカーテンが取り付けられていて、 そのカーテンが人が動くたびにぐにゃっとした音をたてる(治療にじゃまだったと思う)。 そういう起きていることをただ見ている。 それだけだったなあと思い出しました。 もしかしたら、 現実世界でも、そんなふうにただ物事が起きているだけなんだと思います。 自分の心の中には、いくつものパターンがあるから、 そこにその出来事の何かがパターンにひっかかり、 感情的になったり、思考に走ったり、 右往左往しているだけなんだろうなあ・・・と。 本当に、ただそれだけ。 でも、感情を騒がせるいろいろなパターンがあるからこそ、 生きているって実感するんだと思

長いあいだ放置していたもの

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秋風ふいてます クラスの仲間に引っかかったパターンをケアしています。 これは、開示のときにも言っているのですが、 本当に、その人のせいではなく、 自分がそこへのケアを怠ってきた、やってこなかった結果なのです。 引っかからないわけがなく、 むしろずーっと引っかかっていたパターンたち。 クラスの仲間に、こうも向き合いたくない(というパターン)があったのか・・・ と本当にもう、こういう関係性は終わりにしたい。 たとえば、自分の子どものことは何一つ理解しようとせず、 外で教育を語り、一生懸命その勉強のために家を空けているようなもの。 保身の何者でもなかったんだなあと思いました。 パターンへ語りかけをしてみると、 これまでとは違う言葉を「私」は選んでいました。 普段よく出てくるパターンへの語りかけとは、何かちょっと違う。 放置しすぎたゆえの、 普段の言葉では足りない謝罪です。 そんな、あなたのことを「私」は理解しているよ。 今まで、本当に長いあいだ、あなたと向き合わずにきてしまって、ごめんなさい。 ずっとひとりぼっちにしてきて、あなたを無いものにしてきてごめんなさい。 これから「私」は、あなたを無視することはしないし、 そのままのあなたを守っていきます。 ・・・と、 長いあいだ向き合ってこなかったことを謝りました。 すーっと何かがほどけていくような感じがしました。 パターンへの語りかけは、その時々で、使う言葉が変わり、 不思議ですがそのパターンの性格や状態にあわせて、 自然にあふれでてきます。 そして、 〇もうそこにこだわり続けなくてもいいのかもしれない という白を選ぶとき、 そのこだわってきた時間の長さに、 本当にもう、そのこだわりをやめたときに、 どんなにか自分は身軽になれるだろうって思いました。 白を口にするだけで、その中にいる「私」を感じるだけで、 とても清々しく、やすらかな気持ちになります。 しばらくは、白を選ぶより、 傷ついていたパターンへ急がずゆっくりと語っていこうと思います。 そして、そういう関係性の中で学びたいと、 ケアをしていける自分でありたいと思いました。 そんなグループでの自分のあり方ができたなら、 きっとお互いがより、 自分を大事にしていけると思う。 というカードを選んだ瞬間に、 その場の空気が変わっていった感じがしました。 なぜそう思うのか、憶測は