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9月, 2020の投稿を表示しています

話の中の真意

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この数日、テーマにしていた『傾聴』を意識してみて感じたことがありました。 話を聞くって、 たったそれだけのことなのに、その人をとても大事にしている自分を感じます。 このときの自分はとても血が通っているようにさえ思う(ちゃんと心がある人であるという実感)。 話の内容も、あたり前ですがよくわかる(入ってくる)ということもあって、 その話のどこかの部分にとても意味を感じることもあるし、 その人のその話をもっと聞きたいと思うこともあります。 その人がその話をするのには、 本当はここが言いたいということが必ず一つはあるように思いました。 言いたいからしゃべる、ということですよね。 直接的に言うには遠慮があったり、 又は言いたいことをどう表現したらいいのか本当にわからないということもあるだろうし、 言いたいことまでたどり着くのに遠回りしすぎて、言わずに終わってしまうということもある。 でも、話す方は、 真意を汲み取ってほしいと思いながら(無意識に)話していることって多いのではないかと感じます。 そして最終的に、聞く耳を持っていないとどうなるのか? なんだかいくらでも自分へごまかしができてしまうような気がしました。 しっかり聞くと、知らなかったと言えない自分がいて、 もしかしたら、いつでもちょっとごまかしの効く自分でいたかったのかなあと。 ですが、人の話を聞くということをちょっと意識しただけで、 知ったことでより安心を得られることの方が多い・・・とわかった気がします。 理解しようとしていることそのものが、すでに安心をもたらしてくれるかのよう。 100%「わかっているよ」はできなくても、 「話してくれてありがとう」という関係性はとてもいいものだなあと思いました。

形だけの傾聴

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先日、ものすごく夫を怒らせてしまったことがありました。 何に怒ったかというと、わたしが話を聞いていないということにです。 それは自分にとっても、最近人の話をちゃんと聞けていないという自覚があり、 いつかここに真剣に向き合わないと後悔することが起きるのではないかと思っていた矢先のことでした。 たまたまその怒られた時の直後に、心理学を学ぶ時間があり、テーマはどんぴしゃの『傾聴』。 講師の先生が言う「一番近しい人にこそ、傾聴はできていない」に、耳が本当に痛かったです。 職場でも何かにつけて出てくる、傾聴という対人間での基本的姿勢。 まだその人のことを知らないうちは一生懸命話を聞いているけれど、 特に家族に対しては、もう性格も考え方もやっていることもだいたいわかっているという思い込みで、 右から左に聞き流すことが多かったと思いました。 そして話の内容によって、これは大事なこと、これはそうでもないことと振り分けていたんだと思う・・・。 形やスキルをおよそ身につけているだけに、たちが悪く、 しかも、それを自分でもうすうす自覚していたのに、直せなかった。 どんなに話を聞いたと思っても、 聞いたことを忘れてしまうということが自分にはよくあると、今まで思っていました。 年のせいもあるかもしれないけど、 わたしって、忘れっぽいよな~、抜けているよな~、まあ仕方ないか~と。 でも、それはちょっと違ったのかもしれません。 ちゃんと聞いていたけれど忘れてしまったことと、 はじめから聞こうとしていないから忘れていることの違いは、 相手にはわかるのだと思いました。 もちろん、後者だったので怒られたということなのです。 後悔先に立たずですが、猛烈に反省しました。 また、話を聞いてもらっていないことがどんなに腹立だしく悲しく寂しいことであるか、 夫の怒りで教えられたように思います。 パターンが何度も顔を出しているのに、 一向に「私」から話しをちゃんと聞いてもらえていないと思うとき、 パターンは話しを聞いてもらえたと思うまで、いつまでだって訴えてきます。 そして理解してもらえていないという寂しさは、いずれ怒りとなって爆発する。 それと似ていると思いました。 その日から、 話を聞くときはなるべく手を止め、テレビがついているときはテレビに集中しないように、 聞き逃しはスルーしてごまかさず、しっかり聞いたぞ

腹をくくる

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何日も前から今日のある仕事をどういうふうにしていこうかと、 行く前に、ちゃんと決心をして臨まなければとすごく悩んでいました。 これまでの経過を振りかえったり、今後どう進んで行けばいいのか、考えることは山ほどある。 時間のあるときにじっくり考えていこうと思いながら・・・あっという間に今日を迎えてしまった。 今日は今日で、今やることがいっぱいあり、 結局、その場所に到着してから車の中で数分間、腹をくくった。 これからの時間は、ある人のために「私」が話す、「私」が守る、という決心。 そして、伝えるべき相手のことを信頼して話そう(魂同士の対話にしよう)ということを決めました。 自分の持ち合わせた言葉だけを頼りに、 「私」がその言葉を選びながら、 そして相手への信頼というなにか包まれるようなものを感じながら、 思った以上に伝えたいことや聞きたいことが言えたのではないかと思いました。 誰かのために、というのは、 自分の身体、口、声を使って、 その人が言いたくても言えずにいたこと、言葉にならないけれどはっきりと感じているものを思い出し、 「私」が代弁していく作業だったように思う。 同情でも同調でもなく、共感。 共感するって今自分がそうしているのかどうか、よくわかっていないところがあったのですが、 「私」がやっていることが、これがそうだったんだと、やっとわかったような気がしました。 今日の時点で解決できたわけではないけれど、 今の自分の全力はここまでなんだと思いました。 こうしたいという気持ちも何もなくそこに自分が居れたことも良かったなあ、と。 このところ、こんなふうに腹をくくることが続いています。 まるで、そういう経験が自分には必要と言われているかのよう。 胸がぎゅーっと締め付けられたり、心臓がばくばくしたり、 不安な気持ち、逃げたい気持ち、何も考えたくない放心状態のときもある。 かと思えばものすごく考えてみたり、また誰かに助けを求めてみたり、 いろんな日があります。 でも結局仕事だから逃げられない(本当に逃げようと思えばできるのだが)、やらざるを得ないというところが、 また何とも言えない設定です。 自分が人生に起きることを設定しているといいますが、本当にそうだなあと思う。 また明日も、設定した出来事に向かってがんばっていこう。

SWITCHに共鳴

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先日、TV番組『SWITCH ーインタビュー達人達ー』で、 エレファントカシマシのボーカル宮本浩次さんと、左官職人の挟土秀平さんが対談していました。 おお、なんという夢の組み合わせ・・・どちらも気になる存在の人。 自分の個性を充分に知り、隠すことなく表現しているところが好きです。 狭土さんは、左官の技術や芸術的センスもすばらしいけれど、 壁の材料となる土に対しての考え方がまたすごいのです。 この地球上で一番古くからあったもの、人類よりも生物よりももっと前からその歴史を刻みながら今にあるもの、 それが土だと言っていました。 そんなふうに土を捉えたことがなかったです。 自然界のものを使い壁を塗り、建物を復元し、人を癒し生活を支え、 またそれらはいつか朽ちて大地へと還り、跡形もなく消えていく。 この方の作品を見ていると、そんな自然のサイクルの中で自分たちも生きているんだっていうことが伝わってきます。 土を触ると何とも言えない安堵の気持ちになったり、先日の漆喰塗りが楽しくて仕方なかったり、 循環する地球のエネルギーをもらって生きているのが人間なんだ、と今さらながら思いました。 ※ 左官 挟土秀平 日本に生きる想い。 そして、ソロでエレカシ以上に成功したいと言い切っていた宮本浩次さん(バンド以前から、歌が好きだった自分に戻るためらしい)。 歌を心で歌う人はたくさんいると思いますが、 ここまで全身全霊で歌っている人っている?と思うほどの真っすぐさに惹かれます。 社会に染まらないありのままのイメージがありますが、 ちゃんと大人の世界に彼なりの感性で向き合いながら、時に変わりながら、時に人に笑われながらも、 最終的な夢は「大スターになりたい」と真顔で口にしてしまう正直さ。 この方の話していること、表情しぐさ真剣さを見ていると、 こういう大人であり続けたいといつも思ってしまいます。 二人とも本来の自分の持っている力をとても信じているように思いました。 真っ直ぐな自分の中から生み出されるものだから、自信を持てるということだと思う。 それぞれが語る言葉の中に、本質と本質とが共鳴する瞬間がありました。 そして、自分もテレビ越しにそこに交じわって、 はっとするような感動や感覚をともに味わえた感じでした。 この番組、ファンにとってはたまらなかったと思います・・・楽しかったあ!

かけがえのない時間

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あんなに暑かった毎日でしたが、夜は半袖では肌寒く、深まる秋を感じる今日この頃。 夫が帰宅してから、買い忘れたものを思い出し、 これから晩御飯というときにスーパーに行ってきてもいいかと聞きました。 そんなにお腹空いていないから、いいよと言われ、 それならばたまには一緒に歩いて買い物に行きたいな~と思ったわたし。 仕事で疲れているであろう夫に、 いや、もしかしたら夫もたまにはスーパーまで歩いて行きたい気分かもしれないと(やや強引なイメージ)、 本当にダメもとで声をかけると、 なんと以心伝心なのか、わたしの願いが叶いました・・・。 家から近くのスーパーまで歩いていくのって(徒歩10分)、いつ以来? 途中、車では決して通ることのない路地や、アパートの横を近道だからと失礼しながら、 ちょっとした探検気分。 エコバックではなく、いつもの車の癖で買い物かごを持っていってしまったので、 重さを考えずに買ってしまった後、 そうだ、歩きだったんだ・・・と気づく。 ずっしりくる買い物かごの端と端をお互いに持って、すっかり暗くなった夜道を戻りました。 足元も見えなくなっていたので、 あ、そこに縁石があるよーとか、段差になっているよーとか言いながら、 こんなしつこいくらい転ばないように声をかけ合うって、若い時はなかったなあ。 いつか、年を取ってどちらかが歩けなくなったり、病気したり、一緒に暮らせなくなったときに、 今日のことを思い出す日が来るのだろうと思いました。 スーパーの買い物かごを一緒に持って歩いた、月夜のささやかな幸せを。 あの頃は、まだ元気に一緒に出かけていたねって懐かしく思う日が来るのだろうなって。 そんな話を夫としながら、 夫はあっさりと、「そりゃ、そういう日は来るさあ」。 どこかもう覚悟?あたり前?その心境が想像できているという感じでした。 無意識に二人で過ごしている時間も、 二人でなくなったとき、 あの時間は本当にかけがえのない時間だったのだとしみじみ思う日が来る。 そして、もっと幸せなことは、 そういうことをまだ身体が動いて元気な今時分から実感できる心を、お互いに持っていることが、 ちょっと嬉しく思いました。 元気でいてほしい人が老いていく姿、そのときのお互いの生活、そのときの感情を想像できるのは、 先を歩き背中を見せてくれる両親たちのおかげかもしれないなあと思います。

らせんの上を歩く

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小さい頃、とても嫌なことがあったとき、 今はこんなだけど、次はきっといいことが待っていて、 そして、そのいいことの後には、また嫌なこと悪いことが起きて、 いいことと悪いことって交互に繰り返していくものだと思っていた。 嫌なことから逃げずにちゃんと頑張って乗り越えれば、必ずご褒美をもらえるけれど、 そのご褒美をもらっていつまでもいい気になっていると、また次の試練を与えられる。 そういう法則があるような気がしていました。 これはあながち間違っていないようにも思いますが、 今思うことは、 ちゃんと頑張っているのはパターンではなく「私」で、 「私」で頑張ったからご褒美を受け取る「私」がいる。 そして、いい気になっているのは「私」ではなくパターンで、 次の出来事を試練(嫌なこと)と感じてしまうのもパターンだということ。 いいことと悪いことは規則的に繰り返すという法則があるのではなくて、 自分にとっていい悪いを決めているパターンがあるということです。 本当の「私」がしっかりと存在していくことで、このいいこと悪いことの区別がつかなくなっていくという感じがします。 「私」が成長して大きくなっていくために、パターンを包み込めるようになるために必要なことが起きていく、 それがいいこと悪いことと表現していること。 成長というものは、右肩上がりの一直線の矢印ではなく、 らせん状に上昇していく形であらわすことができます。 このらせんというところがとても面白いところで、 ぐるっと回ってもとに戻っているということはありません(ループのように出発点と終着点が同じではない)。 以前と同じような出来事が起こり、成長していないんじゃないか自分?と感じてしまうことってありますが、 それは、戻っているのではなく、 また少しだけ進んだ自分にふさわしく、乗り越えたと思うような出来事で確認しながら進んでいるのです。 人間の身体も、植物もこのらせん状のエネルギーで成長し、 お腹の中の赤ちゃんでさえも、生まれるときにらせんを描くようにしてお母さんのお腹の中から出てくると言われたりもします。 生命の基本的な要素であり、生き続けていれば戻ったり停滞したりということは厳密にはないということかもしれません。 自分が今このらせんの上のどのあたりを歩いているのか・・・ 焦らないで、急がないで歩いていきたいです。

『つらい』ということ

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普段、他人と比較することをちょいちょいやっていたりするのに、 なぜか『つらい』と感じた真っ只中に、他人とそのつらさを比べることはあまりしません。 どんなに壮絶な人生を見聞きしたとしても、 今自分が苦しいと思っていることが、他人との比較で消えてなくなるということはないです。 さっきまで他人の人生をすごいなあ、自分なんてまだまだと思っていたのに、 もう自分の大変さで頭も心もいっぱいになっている。 でも、その時は確かに自分は(パターンなのだが)、本当につらいのだ。 そして、つらいと思うときは、 見るもの感じるものすべて、これから先もずーっと続くと思ってしまうし、 今すぐどうにかしたいし、またどうにもならないのかもしれないと思い、その気持ちがさらに苦しくさせる。 過去となった事柄を振りかえれば、大変だったけれど、あれがあったから今があるということは分かります。 つらいことばかりは続かないことも知っているし、 人生には無駄なことなんてなくて、そのことがあって少しだけ変われた、成長したのではないかと思えたりする。 でも、変われた、成長したからこそ、 またつらいことは形を変えてやってくる・・・ こうなってくると、『つらい』って一体何なんだろうって思うのです。 それはただの感情の一つであるけれど、 自分がそう思いたい(感じたい)と思っているものなのかもしれない。 感情はどこか勝手に湧いてくるものだと思っていますが、 実は自分がこの感情を選んでいるのではないかと思うことがあります。 そう感じたくないと思えば思うほどに、 いつでも簡単にその感情につかまってしまう。 そして、この『つらい』と感じるところから、自分に対してのケアが始まっていくため、 欠かせない感情となっているようにも思います。 だから、この感情がいやなんだけれど、いやじゃないという複雑な気持ちがあります。

家族のためなら

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家族のためなら頑張れる、家族だから守りたい、家族のことが大好き・・・ と思うことは真っ当な感情だと思う一方で、 悲しい思いをさせたくない、苦しむ姿は絶対に見たくない、 家族が笑顔になるためなら自分は何でもしたいって、 どうしてこれほどまでに、自分よりも家族に幸せになってほしいと願うのか。 自分が苦しみを引き受けることによって、家族の苦しみを和らげることができるのならば、 わたしは喜んでそうしたいと子どもの時から本気で思っていた。 だけど・・・ それでもし本当に神様が、あらゆる苦しみから家族を救ってくれたとしたら、 自分はそれが生きるうえで最も尊いこと、幸せなことなのだと本当に思えるだろうか。 本当の「私」ならわかっている。 そういう生き方を今回選んでこの世に誕生して来た人もいるかもしれませんが、 少なくとも自分はそのためだけに生まれてきていないって、そういう気がしています。 自分が自分の課題をクリアするために最もふさわしい家族を選び、 その家族とどう関わって、何をすることができて、 どこまでが自分の役割で、どこからは自分の範ちゅうではないのかを知るために、 「家族のためならば・・・」という感情から教われることはたくさんあるのではないかと思う。 ●家族のため、というパターンは、 〇家族のためではない、もしくは家族のためにならない、という白もあります。 ●自分の家族にだけは、というパターンは、 〇自分の家族でなくても、もしくは自分の家族以外の人に、という白もある。 わたしが両親にしてもらったこと、兄にしてもらったこと、夫に子どもにしてもらったこと、 全てを返すことはできないかもしれないし、 『返す』というのはしてくれた人以外へ、この地球上の誰かでいいのだと教えてもらいました。 むしろそれがちょうど良いのだと・・・。 だから、近所のおじさんとか家の前を通る子どもたちとか、 職場の同僚とか利用者さんたちとか、 よく行くお店の人とかちょっと知り合っただけの人とか、 愛を注ぐ相手は、無限にいるということになります。 家族には幸せになってもらうこと以外の選択肢はないって、そう思うこと自体がとても苦しい。 自分が悲しみたくないから、つらくなりたくないから、大切な人のそういう姿を凝視できないだけです。 自分の弱さを愛情とすり替えていたような気がします。 そうは言っても~ 家族はやはり

分からないことを聞く

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先日の岩手クラスの『魂の道場』で、 自分自身のあり方がいくつか変わってきたなあと思うことがありました。 一つは、 話しをする前に事前にノートへまとめるようにしていたのですが、 自分の経験したことなのだから、今の自分がその経験にひたりながら話してみようと思うようになりました。 また、セッションの合間もあまりノートを取らなくなり、 ずきーんと胸に響いたことだけをさっと記す程度で、 終始その場で感じることを大切にしながら皆さんの話を聞き、ワークを受けているような気がします。 そしてこれは自分にとってとても大きな変化だと感じているのですが、 以前よりも、分からないことをそのままにしなくなったように思います。 ということは、今まではよく理解できていなくてもそのままにしておくことがありました(バレていると思うが)。 働いていても、学校でも、家でも、どこでも、 あちこちで「分からないことは聞きなさい」という言葉は耳にしますが、 実際にこれが難なくできる人は少ないように思います。 分からないばっかりに恥をかいたりバカにされたり、という経験は誰にでもあると思うのですが、 それらが、分からないことを知られたくないというパターンも作り出しています(そして、知られたら恥をかくという堂々巡り)。 分からないことに重きを置かなくなり(ふれない方がいいと思い)、曖昧なまま知らない方が楽だと感じることもあると思う。 知ろうとすることは、今以上に何かしなければならないことがあったり(聞くというハードルがまずある)、 聞いたことを理解しなければならないこととか、考えなければならないこととか、やることが増えるということもあるかもしれません。 つまりは、分からないと思った時点で、これ以上に面倒になるのがいや・・・という感覚に近い。 道場での学びは、この面倒なものへの挑戦だと言えます。 または、面倒だと思っていること全ては自分の持っているパターンだと気づくことでもある。 先生はいつもわたしのレベルまで降りてきて、質問に答えてくれてます。 たぶん前に聞いたことがあるような、と思われることにも根気よくつきあってもらい、 分からないことを聞くってこんなに楽しいものなのかと今では思うほどです(たとえよく分からない答えだったとしても)。 自分が大事にしたいと思うことに対して知りたいという感覚は、とても純粋なものなんだ

もう変わり始めている

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人は自ら環境を変える、ということに抵抗があるのかもしれないと思いました。 今いる場所が本意ではないとわかっていても、 自分の可能性を広げるところが、ここにはないかもしれないと感じても、 自分から変わる(行動を変える)というところには、それ相応の確信と後押しが欲しいのかもしれません。 なぜでしょう、変わりたいと思っているのに・・・。 今と違う自分になることが怖いということではなく、 変わるときに対峙するであろう、自分の弱さ、頑固さ、臆病さ、見栄、無力感、不信感(自身に対しての)。 それらに自分はきっと耐えられないだろうと信じているからでしょうか。 信じているからそこに執着し意識が集中し、『きっと耐えられない』が拡大していくようです。 おどおどしながらでも、キョロキョロしながらでも、ぷるぷる震えながらでもいい。 自分の可能性が広がる場所へ向かって歩く様は、 もうそれ自体が、すでに変わり始めた進化した自分なのだ。 進化しはじめた自分の周りにいる人へも、その影響は大きく、 これまで考えもつかないような関係性を生み出していくことになるかもしれない。 自分の弱さ、頑固さ、臆病さ、見栄、無力感、不信感があったっていい。 自分は少しずつ、一つずつなら耐えていけるのかもしれない、 そういう感じで進んでいけば大丈夫かもしれない、と思いました。 そう、この『大丈夫かもしれない』を大きくしていきたいのです。 クラスの仲間のそれぞれの歩みが、自分を後押ししてくれます。 他人の変化にはとても敏感ですが、自分自身も変わってきているということを認めていきたいです。

自分が引き受ける

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ある方が病気をする前、 休日出勤はあたり前で、帰って寝るだけの日もあって、 上司が月末になると売り上げのために無理難題を言ってきて大変だった、と言っていました。 しんどいなあと思いながらも「わかりました。やってみます」と言って期待に応えようとして頑張っていた。 働き方改革があたり前の風潮になりつつある今、 その方も「こんな働き方、今の人には信じられないよね」と笑いながら、 あの頃はできませんとは言えなかったし、しかも上司からの頼まれごとならば断るなんてあり得なかったと言う。 わたしは話を聞いているうちに、 それだけ無理して働いていたのなら、上司の方は倒れたときに少なからず責任を感じたのではないかということを話しました。 わたしの受け取り方は、その方が何十年といた職場を否定するような感じだったのかもしれません(働きすぎて、病気になったんじゃないかと言いたかった)。 また一方では、そこまでして仕事を断らないのは、自分がよく思われたいという気持ちが強かったからではないかということも言いました。 わたしは感じたままに話した後、とても後悔をすることになります・・・。 話をさえぎるようにその方は、 「私っていつも人に恵まれているんですよ・・・」 と言うのです。 どれだけ大変な仕事かということを上司はわかっている。 承知の上で、自分ならばやってくれる、という上司からの絶対の信頼が自分にはあったから。 今回は無理かもしれないとわかっていて、 でもそれをあきらめずに黙ってやろうとするのが自分だということもわかっていた。 だから「いつも申し訳ない」というねぎらいのことばがあったし、 それを達成できたときは、本当に喜んでくれて、褒めてくれて、また次もみんなでがんばろうってなる。 よくご飯も食べに連れていってもらった。 「あ~もう疲れた~」と思うときもあるけど、なんかすごく楽しかったんだよね・・・と言っていました。 この話を聞いて、 本当に一生懸命生きてきたんだなあとわたしは敬意の気持ちでいっぱいでした。 たとえ、それが病気を発症する一因だったかもしれないとしても、 あの頃の自分を誇りに思い、 今でも自分は人に恵まれていると感謝し続けていることがこの方自身を支えていると思いました。 そこには後悔などないのかもしれない。 自分が確かにやり続けてきたこと、それが自分そのものだったと言えることが

一周回っていつもの顔

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このところ、めっきり手元が見えにくくなってしまい、 ついに老眼鏡(おされな言い方をすれば、リーディンググラス)を買いました。 普段コンタクトをしているので遠くは見えますが、近いところはその分見えなくなってきて、 本を読んだり、スマホを見るときも文字がぼやけたまま勘で読んでいたところがありました。 その勘に頼って読むのも、そろそろ限界・・・。 でも、メガネを新しくするって楽しいですね。 どんなフレームがいいのか、店内片っ端からかけては外しを繰り返し、 全身を鏡でチェック(こういうときは顔だけ見ずに、トータルで見た方が良いそう)。 思い切っての、今まで選んだことのない色、ブルー系とグリーン系で悩みましたが、 店員さんの「ブルーの方が若々しい感じですね」の一言でこっちに決定(若いに反応)。 これで新しい自分と出会えるなあ~なんて、初々しい気持ちになってしまいました。 こうして、できあがった老眼鏡と今までの遠近両用メガネを並べてみた。 ん・・・? 色は違えど・・・同じ形じゃん。 全然変わってないじゃん。 結局、自分の顔に似合うものって、これだけメガネがあっても、大体は決まった形になってしまうのでしょうね。 鏡を見たら、いつもの見慣れた自分がいました。 パソコン用のブルーライトカットを次は新調したいと思っているので、 今度こそは、もうちょっと違う顔になるようなフレームを冒険してみたいです。

安心感か優越感か

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人から愚痴を聞いたり、不満を聞いたり、思うようにいかないことを聞くとちょっと安心するということがあります。 自分が何かつらい状況、大変な状況にあるときにそういったふとした会話で、 自分一人がつらいわけじゃないんだ~と解釈して気持ちが楽になる感覚です。 少し飛躍しますが、他人の不幸は蜜の味・・・のことわざのように、 自分に強いコンプレックス(こうなりたいという強いパターン)があったり、 他人より優位に立ちたいと思うパターンがあったりすると、 自分と同等かそれよりも大変そうな人を見ると、その人よりわずかでも優位に立ったような、自分が感じている大変さの捉え方が変わることがあります。 そういうパターンがあまり大きくない人ならば、ただの話(相手がそう感じている話)として受け取り、 自分がほっとする~なんて気持ちにはならないのだと思う。 でも、人間でいる以上ほとんどの人が普通にもっている感情で、 人と比べることで、自分の状態(幸か不幸か)を無意識に決めてしまうことはあります。 自分がどう?ではなく、 相手と比べてどう?もしくは相手から見た自分ってどうよ。 そこで得られるのは安心感というより優越感であって、 優越感というのは完全にパターンが喜ぶものでもあります(心が安らぐというより、心が舞い上がる感じ)。 これは、麻薬のようなものかもしれません。 手っ取り早く安心(優越)も得られるが、切れると不安にかられてしまうもの。 いっとき気持ちよく楽になっていく自分もいるのだけれど、 心の底ではもやもやしたものが確実に蓄積され、 そのもやもやを早くどうにかしたくて、また他人から自分を楽にしてくれる言葉が発せられることを期待さえしている。 自分がどんな人と付き合うのか、誰と話すのか。 どんな考えを持つ人が多くいる職場を選び、 どんな感覚を持つ人たちと関わっていきたいのか、 また、自分が望んでいない環境の中でどういう在り方で自分はやっていきたいのか、 時々立ち止まって考えていくことは大事だと感じます。 今ある自分をとりまく環境(人間関係)は自分がつくってきたものだといいますが、 全てではないにしても、 自分が選んでいる黒パターンで、その黒パターンが言いたいことを口にしていると、 そこにとても見合う人とつながっていく。 仕事の中では、あえて今はこの言葉を選ぼうと決めて話すこともあるでしょうから、

見ているものの違い

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数字が苦手という方はいると思いますが、わたしは『超』がつくほど苦手です。 結婚してから付けている家計簿も、ほとんど意味をなさないほど適当なものだし、 当然のことながら学生時の数学は散々なもので、 子どもには申し訳ないくらい算数でさえもちゃんと教えてあげられませんでした。 そんなわたしが、職場では現金管理を任されていて・・・ 月末はいつも「今月も合うわけがない」という前提のもと、伝票と現金を照らし合わせ、数日格闘が続きます。 なのに・・・、ここのところ状況が変化してきました。 「あーなんでこうも計算が合わないんだろう」とぼやいた時に同僚から、 「合わないなんてことはあり得ないですよ」という一言があったのです。 この何気ない言葉に、とても衝撃が・・・。 まるで1+1=2以外に答えはありますかと言わんばかりの、何寝ぼけたこと言っているのかと言われたような、 自分の見ているものって何なんだろうと感じたのです。 『お金』ではなく、『とてつもなく自分を混乱させるもの』だった。 この時から、現金管理への苦手意識はまぼろしだったかもしれないと思うほどに、数字が合うようになっていきました。 たぶんこのからくりは、 声に出してパターンのケアをしたわけではないのですが、 ●計算が合うはずがない、というパターンの話を聞き理解し、 〇計算は合うもの、というパターンを選び変え~とここまでを瞬時にやったのではないかと思うのです。 そして、選び変えた落ちついた気持ちでコツコツと日々の照らし合わせを行っていったら、 ぴたっとイーブンで数字が揃うことが当然になっていった(そしていちいち驚かなくなっていった)。 こういう現象が起きたのだと思います。 このぴたっという感覚は、とても気持ちがよくて、ほっとします。 この感覚を持ってお金を数える、電卓をたたく、伝票をめくる、支払いをするといった作業はことさら楽しさまで感じられます。 こうして取る行動がパターンの選び変えの前後で変わっていないとしても、 結果を導くその行動への動機と姿勢はあきらかに変わったのではないかと思いました。 たかが計算だけど、 「私」が見ている数字はもしかしたら、 パターンで(苦手意識を持ったまま)見ていた数字とは違うものなのか???