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12月, 2019の投稿を表示しています

昭和家族の年末年始

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明日はもう新年。 いつもより少しだけ台所をきれいにし、スーパーへの買い物も行ってきました。 今年最後のチラシ配りも何とかできて、ほっとしています。 大晦日の夜から元旦にかけての街の静けさ、とてもいいですね。 そして、正月と言えば、餅。 今年もくるみをすって、くるみ餅にして食べることをすごく楽しみにしています。 あと、食材としては、いくらとセリがあると私の中では、ぐっとお正月気分あがります。 年越しそばやお雑煮にのっけて食べたいなあ 自分が小さかった頃、大晦日は決まったルーティンがありました。 夕方になると、父からお風呂に入るようにと促されるのですが、そのとき必ず 「一年の垢を落としてきなさい」と毎年の決まり文句が・・・ どうやって一年分の垢を落とせるんだ?と、こちらも毎年思うのでした。 父と母は着物に着替え、母は着物の上に白い割着を着ていました。 私はその母の姿がとても好きでした(美しかったし、誇らしかった)。 そして、神棚に二礼二拍手一礼をし、 待ちに待った夕飯では、父がはりきって今年の我が家の10大ニュースの話をする(これが年頃になると、面倒くさかった)。 その後は、紅白歌合戦を見て、途中こたつでうたた寝しながら(後半、演歌歌手だと寝る)0時を回って正座して、新年の挨拶。 こうして振り返ると、結構、厳格な昭和の家族だったのかもしれません。 両親の大晦日、正月とはこうであるべき・・・ というものに何の疑問もなく暮らしてきたんだなあと感じます。 幸いにも?夫にはそのこだわりが全くなかったので、小さい頃からの習慣は、ほとんど自分が楽なように変えてしまいました(餅を食べる以外は)。 今年一年、ブログを読んでくださり本当にありがとうございました。 どうぞ、皆さま、良いお年をお迎えください。

やすらぎのポーズ

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昨日は今年最後のヨガ教室でした。 たくさん汗をかいた後は、少し長めのやすらぎのポーズで休息をします(ポーズ名はヨガによって違うらしい)。 仰向けに寝て、足を少し開き、手も体から離し、目を閉じ、完全な脱力状態。 このやすらぎのポーズが楽しみで頑張る一時間、といっても過言ではないくらい、 まさにやすらぎのひとときなのです(必死で寝てしまわないようにしている人、多いと思う)。 インストラクターの先生が、体の名称を言いながら力がちゃんと抜けるように誘導してくれるのですが、 「眉間の力身を手放し・・・」 と言ったときのこの部分、パターンの語りかけをしている時の自分の体の状態と、とてもよく似ているなあっていつも思うのです。 「そんなあなたのことを・・・」 と語りかけワークの中で、本当の「私」がパターンへ理解しているということを伝えていくところがあるのですが、 そのときの自分の眉間が、なぜかとても広がっていくのを感じます。 やすらぎのポーズのときの、この眉間が広がる感覚は、 考え事から放されて、体と心が一つになっていくような大地に沈んでいく心地良さ。 語りかけワークのときは、 少し目の前が柔らかく、明るく開けていって(まぶしさはない)、とても落ち着いた感じがあります。 こうして詳細に表現してみると、ちょっと違うところもありました・・・ 共通しているのは、インストラクターの先生から発せられる言葉と、自分が発する言葉、どちらも言葉が体を変化させていくということ。 言葉の持つ力が五感を通して体に影響を与えている。 すごいなあと思います。 眉間からはじまる(広がる)世界。 感じ取る私の体も、すごい・・・偉い・・・ちゃんと機能していることに感謝。 来年も汗をかきかき体を動かしていきたいです。

ひとりで生きる

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江原啓之さんの本を、本屋さんで立ち読みしました。 どの本に書かれていたか忘れてしまいましたが、 子どもが巣立った後に生じる、ぽっかり心に穴があく『空の巣症候群』の相談話。 外国では、往々にして、夫婦の絆の元に子どもが存在しているという考えに対し、 日本では、夫婦関係をおろそかにして子どもへ愛情を注ぐ、ということがあるので(一概には言えないとは思うが)、結果としてそうなってしまうということ。 子離れできない親にとっての、子どもの自律は、 子育てを終えたという安心感よりも、喪失感や虚無感、その後の孤独感というものに悩まされてしまうようです。 江原さんが言っていたのは、その孤独感を手放しなさい、というものでした。 自分が作り上げたものは、自分で責任を持ちなさいという意味なのでしょう。 そして、もう子育ては終了したんだという自覚と誇りをもって、自分のための人生を生きていくということ。 振りかえってみれば、 毎日食事を作り、お弁当を作り、洗濯をし、PTA行事に参加し、部活の送迎をし、子どもを通して人間関係もそれなりに培ってきた・・・ コミュニケーション力、社会性、同時に2つ以上のことを行うスキル、忙しさの中で楽しむ力、体力気力、など、 ひとりで生きていく力は、充分に養われてきたことに気づかされるのではないかと思います。 子どもの自律が、孤独へつながり、自分を苦しめるもの(悩ませるもの)ではないことが分かります。 そしてまた、それをきっかけに、これまで見ないようにしてきたものに目を向ける生活が始まるかもしれません。 こうした『空の巣症候群』は、夫婦、自分と親、仕事、社会など対象となるものは、さまざまあると思いました。 対象となることへの期待が強ければ、落胆も大きく失望も深いかもしれません。 人と関わりながら生きることは避けられませんし、そういったつながりがあって豊かな人生になることも知っている。 だからこそ、人と共に生きる中で、ひとりでも幸せに生きられる術を得ていなければならないのだと感じました。 相手がいて幸せになれる人生ではなく、 ひとりで向かう先はどこなのか、どうありたいのか、 少しずつ、志なるものを確立させていきたい、そうなっていきたいです。 クリスマス、お正月と、家族や自分が出会った人たちのことを思う機会が

クリスマスプレゼントの論文

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思いがけず、卒論の協力をさせていただく機会がありました。 発達障害における職場定着についてです。 発達障害でありながら定着して働いている方たちと、その企業担当者へも協力していただきました。 ヒアリングやアンケートを元に、とても素晴らしくまとめていただき、ご本人たちや企業側の自分が知らなかった一面を見聞きする機会となりました。 とてもありがたいことでした。 普段、インタビューを受けるなんてこと、滅多にありませんので、 密かに、これは楽しいかも・・・と思っていたら(興味本位で申し訳ないが)、ご本人たちもやはり楽しそうでした。 「もし話したくないことがあったら、無理に答えなくてもいいですよ」 と言われても、皆さんデリケートな問題ほど、詳細に丁寧に答えていたように思います。 他人に話すことで、過去の自分が客観的に見えたこともあったかもしれません。 後から振り返って感想を聞くと、 「自分の経験が、世の中の役にたつのかもしれない、と思うと嬉しかった」 こんなことをさらっと言うなんて・・・ とても誇らし気で、まぶしく見えました。 卒論は、恥ずかしながら自分が答えた部分もありました。 それに対しての学生さんの考察や感想を読むと、他人が感じ取ったものというのは、元は自分のことなのに、何か別のものに変換されるような感じがありました。 肉じゃがを作ったのに、翌日、つぶされて肉じゃがコロッケになっているような(具材は同じなのだが、美味しさが増す)。 そのあたりが、受け取った側の感性というか、個性が表れるのですね。 私が、障害者雇用に対しての古い価値観の殻を、企業がどうしたら破れるのかあの手この手で模索している部分について、 批判的な気持ちはあっても、関係性を決して崩さないようにむしろ親しくなっていこうとするのは、あくまでも自分の仕事は橋渡し役だからということ(安心して渡ってもらう橋)。 この、自分が言葉にはしていない部分を、学生さんが正確に、 いえ、そこに含まれる心情を想像し読み取ってくれたこと、的確に言葉で表現してくれたことにとても感動してしまいました。 素直にうれしかったです。 これは、私にとってのクリスマスプレゼントだなあって思いました。 その橋渡し役、と言っている私ですがー 本当に本当に数えきれないほどの失敗があります。

どんな暮らしはどんな働き方か

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自分が得意なこと、好きなこと、やりがいを感じられること、そういうことを第一に考えて就職先を決めていくものだと思っていましたが、 『どんな暮らしをしたい』で考えて良いという境野今日子さんの記事を読んで、なるほどなあ・・・って思いました。 なるほど、と思ったくらいなので自分はそうしてこなかったと思っていたのですが、 若い頃を思い出してみると、ありました。 初めて就いた仕事の、美容師がそれに近かったです。 手に職を付けたい、最先端の技術を磨きたい、とか言って東京へ出るための口実を考えたと思いますが、 なぜ美容師だったのかという本音のところは、 髪の毛を好きな色に染めて好きなヘアスタイルができるし、好きな格好ができる、 そんな毎日が許されるのは、美容師しかいないと思ったのでした。 その後、好みは年齢と共に変わりましたが、 どんな服を着て仕事へ行くのか・・・ということが自分にとって重要なポイントになっているのは、今も昔も変わりないように思います。 スーツやかちっとした服、ヒールのある靴で仕事をすることは耐えられません。 要は、体にストレスのない楽な服(体型は崩れるが)。 自然素材のものを好きで着ているので、 仕事でも普段着とさほど変わりない服装がいいし、色も好きな色だと落ち着きます。 どんな暮らし、を考えられる人は、自分を幸せにするルーティンがあったり、 自分のための時間の使い方を知っていて、趣味などが必ずあったりするのでしょうか。 そう考えると、ルーティンも時間の使い方も、自分にはこれといった自慢できる趣味なども、特に思いつかないのですが、 その代わり、仕事をしているときはどう在りたいか、どう時間を使おうか、これやりたい(趣味に近い感じなのか)、 働いていることが楽しいんだなあと思います。 そうして、仕事をより快適に行いたいために、家でゆったり充電できる環境(暮らし)がしたいと思うところがあります。 ときどき小旅行でリフレッシュして、きれいなものをたくさん見て、美味しいものをたくさん食べ、歴史を感じて今を感じ、自然の中に漂う・・・ 出来るだけ長く働いて暮らしたいと思うからこそ、だと思います。 今は良い仕事をするための暮らし方、になっていますが、 段々と、やってみた

忘年会の後はお勉強

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『魂の道場』 岩手クラスの仲間との初めての忘年会は、とてもほんわかとした楽しい時間でした。 私たち7名なのに、20名くらい入りそうな広いお部屋で笑ってしまいました。 その後の勉強会は、就活や仕事についてのテーマで皆さんの考えや体験したことなど語り合いました。 自分だけの経験では決して思いつかなかった視点や、感じ方に刺激されまくりました。 はじめてファシリテーターなるものを設けてやってみたのですが、それもとても良かったです。 楽しんだあとは、お勉強。よろしくお願いします! というメリハリ感が、集中力、意識共にぐっとあがり(忘年会とは違う楽しさを感じながら)、 一人一人のお話も何か安心してじっくり聞けたように感じました(これはファシリの方への信頼のたまもの)。 その安心感もあってか、今まで以上に、その人の話している内容がすーっと自分の胸に入ってくる感じもありました。 あーそういうことだったんだ、と点と点が繋がっていくような感じがありました。 ぽつりぽつりと聞く体験談と、持っているパターンと、いろんな表情や話し方、今発言している内容等々、 部分部分で見て受け取っていたものが、その人という大きな存在、全体像として形となって見えた。 また、文章をみんなで読んでいくという時間があったのですが、 皆さんの声の美しさに、魅せられました。 心に響くように流れるような音読が素晴らしいのです。 この素晴らしい音読のおかげで、本題が(結構長い文章だったのだが)またしても自分の胸の中にすーっと入ってくるような、染み渡るような、魂が揺さぶれるような・・・ 一人で家で読んでいたときとも違う内容の入り方だったように思います。 一人で学ぶことにも良い面はたくさんありますが、 こうしてグループで学ぶことで得られるもの、高められるもの、今の自分に必要なことがわかります。 感受性、受容性、統合力、結集力、協力、思いやり、尊重、感謝、包容力、想像力、柔軟性、考察力、観察力、発信力、ユーモア、知恵・・・ たくさんの資質を、特にこれまであまり使ってこなかった資質も使い、育てていきたいです。 皆さん一年、本当にありがとうございました。 来年もまた魂の成長をめざして・・・いろいろ練習させてくださーい。

忘年会の予定

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今日はこれから岩手クラスの忘年会(ランチ会)です。 全員揃って食事するのはとても久しぶりで(たぶん)、旅行に行く数日前のように楽しみにしていた自分がいます。 今朝、思い出したことがありました。 もうかなり前のことなのですが、12月になると何件もの忘年会(飲み会)の予定が入っていました。 今思うと恐ろしいです。 個人で会うものを含めると4~5件あったと思います。 会社関係の人、友達、ママ友、サークル仲間等々、自分から誘ったものもあったと思うし、誘われたものはほぼ断らなかったからです。 案の定、1件くらいはいつもドタキャンのようになってしまい(体調不良で)、 申し訳なさから新年会と称して翌年に約束をし直すということもあった。 何が恐ろしいかというと、 『断れない自分』と、『予定がびっしり入ることに満足していた自分』にです。 ●よく思われたい というのがあったと思います。 せっかく誘ってもらったんだから、関係性を壊したくない(壊れるのが怖いと思っていた) のりが悪いと思われたくない 誘ってもらったということは、自分は慕われている、信頼されている、だからそれに応えなきゃだめだ・・・ という理由から、飲み会に関わらずその動機で人との約束をしていました。 もう一つは、 ●予定があるのは充実していること、というパターン。 予定があるということは、それだけ自分にやるべきことがあって、やりたいこともあって、他人から求められるものもあって、 生きている実感を、スケジュール帳を見て実感していた自分がいたかもしれません。 この思考パターンは私の20代の頃確立されていったと感じるところがあります。 22歳でがんになり、その後も再発があり、後遺症があり、 入院と自宅療養を繰り返し、交友関係も次第に希薄になり・・・ 一般的には社会人としていろいろな経験を積み始め、若くはじける行動力で、楽しいことたくさんあったであろうこの時期に(これも自分のパターンだが)、 スケジュールが真っ白な生活。 この予定がないということが、世の中に必要とされていないことと同じ、というものすごい寂しさを感じていた自分がいました。 ですので、その頃の反動?のようなものもあったのかもしれません。 断れない自分は、最近はあまり顔を出してきません(特に、飲み会に関

悪口や愚痴を言う人がいたら

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発達障害や精神障害の方と、苦手な人とコミュニケーションを取るにはどうしたらよいか、というテーマで考えました。 苦手な人ってどんな人? 言い方がきつい人、自分の自慢ばかりする人、考えを押し付けてくる人、話しが長い人、等々出できた中でも、 悪口や愚痴を言う人、というのがありました。 そういう人たちから、その場の空気を壊さないように離れるにはどうしたらよいのか。 誰しも経験する、このシチュエーション。 発達障害の方にとって、その場の空気というものがまずはどういう空気なのか、察するということ自体苦手な方が多く、 適当に話を合わせるとか、話しをそらすとか、さりげなくその場を離れるとか、 出た意見の通りにはいかない、となかなか難しいと頭をかかえます。 また、精神障害の方にとっては、相手からどう思われるかに神経をすり減らし、自分はどうしたいというところまで考えられず(考えすぎて分からなくなる)、疲れ果ててしまうようです(疾患の違いにより一概には言えないが)。 他人の悪口や愚痴話に交じることなく、でも話している人たちにも悪く思われないようにその場から離れるのが理想、 というところはほとんどの方が思うところでした。 他には、会話に入らなければ自分の立場が危うくなるから、一緒になって悪口を言った方がいいという意見もあれば、 悪口はよくないから言わない方がいいと言う、という真逆の意見や、 悪口を言われた人の良いところも教えてあげるという意見もありました。 自分の気持ちに正直になるのか、ならないのか、という論点に入ったかと思った矢先、 なぜその人たちは、そんな悪口を言わなければならないのか、その人とどんなことがあったのかを聞きたい、 という新たな意見が出ました。 なるほど・・・ さらに、聞いた後にその場にいたくなければ離れる、だそうです。 相手を理解し、尚且つ、自分の気持ちに正直な行動も取れる。 なかなかいいなあと思いました。 どの意見も誰も否定することなく、ただあるものとして受け止めていくと、 もしかして、正解ってない・・・ ということをみんなで実感したのでした。

報われたい

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このところの自分のテーマである、 ●報われたい、というパターン 。 そもそも、このパターンがあるからといって、「私、報われたいんですよ」って普段口にしたことはないです。 「絶対に報われたいんだけど」と思いながらやっている自覚もない。 それなのに、この パターン が確かに存在しているということがわかります。 「報われる」の意味は、 努力や苦労により、それに見合った成果や成功、それ相応の結果が与えられること。 自分がそれだけの努力をし、苦労をし、こんなに頑張っているんだ、という認識があるということになります。 この場合の努力って何かの我慢の上に成り立つ苦しさを感じました。 だから、もどかしさ、いらだち、無力感、寂しさという感情で訴えてくるのでしょう。 そして、それ相応の結果が与えられる、というくらいなので、 当然成果が出るだけのことを自分はやったんだという自負の強さ。 うぬぼれとか、過大評価に近いかもしれません。 成果を出すために(その目的で)やったという動機もあります。 抑えて抑えて、そう思っていないと偽り、演じ、認めたくないものがパターンであることが多いです。 口に出したこともないし、そう思ってきた自覚がないというのは、 それだけ、根深いものだったのかもしれません。 そんな心の奥深くに閉じ込められていたパターンが顔を出したということは、 もう自分がそのパターンに向き合える準備ができたということでもあります。 パターンは、今ならば充分気づいてもらえるということが(絶妙なタイミングが)わかるようです。 それは喜ばしいことでもあり、 パターンがいてくれたから気づくことができたということに、感謝だなあと思いました。

白パターンもいろいろある

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一つ仕事に取り掛かるたびに、もどかしさやいらだち、無力感、寂しさなど感じながらやっていることがあります。 ●報われたい、と言う パターン です。 この黒パターンのままで仕事をし続けていると、気持ちが沈んだり、冷静さに欠けたり、目先の成果に捉われてしまうことが多いので、 早くに白パターンを選んで行動したいと思ってしまいます(早くこの状況を変えたいという焦り)。 でも、なかなか胸のあたりにすとーんと落ちる白パターンを見つけられずにいました。 早く・・・というところが危ないポイントで、 ゆっくり、丁寧に丁寧に今の自分にとって、すとーんと落ちる言葉をつなぎ合わせていくことが大事でした。 〇もしかしたら、もう報われないことがあったとしても、 大丈夫でいられる「私」になってきているのかもしれない 「もしかしたら」と「かもしれない」を使うことで、黒から白へ少しずつ変化していっていいんだよ、という今の自分に無理がない言葉です(この長さがまたいい)。 やっと、安心してパターンを選び変えることができました。 この言葉を口にしたときの、お風呂に浸かっているときのような心地よさ、温かさ、肩の荷がおりていく感じ。 この感覚を頭だけでなく、全身にしみこませながら、じゃあどんな行動を「私」はとっていくのか。 成果が感じられなくても、思うような相手の言葉がなくても、今自分がやれることを誠意をもってやっていこうと行動していく。 そうして、また次の段階へと選ぶ白パターンもまた変化していきます。 〇もうそこに居続けなくても大丈夫 報われるのかそうでないのか、ということだけの世界に住み続けなくてもいいし、そこから離れても大丈夫な自分になっている、という白パターンの言葉です。 今はまたこちらの言葉がよりすとーんと胸に落ち、 感覚としてはさっぱりとした明るさが加わった感じがしています。 一度選んだ白パターンが進化していく。 自分に向き合う過程で、パターンの微妙な部分、繊細な部分を言葉としてどう表していくか、それがパターンを理解する力にもつながっていくように思いました。

現実って何?

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毎日、人と関わらない日はないかもしれません。 このとき何かしらの感情(嬉しい、楽しい、悲しい、イラッとしたなど)が大なり小なり感じられます。 それは自分の五感を通して発生するものですが、 どこか現実のことなのに、非現実のような、深刻さを感じられないような・・・ これが全てではない、という何か平穏なものに包まれる感じがたまにあります。 そういう感覚が続くときは、いつもよりも客観的に物事も見えているかもしれません。 これは自分に関係なくて相手に起きていること、 これは相手に全く関係なくて自分のことだな、という区別がぱっとわかる感じのものです。 非常に冷静に、感情も動いているのか動いていないのか、ただじーっと見ているような現実味のない感じ。 現実って一体何なんでしょう。 まぼろしとどう違うのか(違うということは頭ではわかるが)? こう思うのは、おかしいのかもしれませんが(しかもうまく伝えられない)、 ただ電車の窓から流れる景色を見ているような・・・ ときどき、そんなふうに感じることがあります。 現実とは、厳しいもの、甘くないもの、日々自分がやらなければならないもの といった固定観念(これは自分のパターン)が、少しずつ変化してきています。 厳しいものには変わりないけれど、その厳しさの中にも安らぎや幸せを感じている。 甘くないのは、本当に甘くないのだけれど、それは辛く避けたいだけのものではない。 日々自分がやらなければならないことも、義務ではないことへと少しずつ変わってきている、ということかもしれません。 今日は、たまった洗濯がある。 こういう現実も普通にあります(これはまぼろしじゃない)。  

自分が作りだす

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昨日は、岩手クラスでたくさんのことを学びました。 少しずつ振り返りながら、頭から胸のあたりへ落としていくように整理をしています。 『自分を作っていく』 という言葉が心に残りました。 これまで、自分というものを意識的に作っていくというよりは、 何かの経験を積みながら、いつしか作られていった、という感じに近かったと思いました。 まだ経験していないとか、過去に経験がないとか、経験のあるなしは、自分の責任ではないところで起きているかのように受け止めていました。 この考えでは、人生に起きることを自分で制限しているのと似ています。 やはり、自分に経験させる、そういう自分を作っていくのがいいなあと感じました。 本気になればできる、という、 本気になってから、そうなってからやるということの意味も考えました。 ただの事実としての本気(本当の気持ち、真剣な気持ち)とは違い、この本気にはとても曖昧さが感じられます。 誰が決めたものでもない、期限も責任もない、実体がないようなものです。 本気というのも気持ちの一つですので、実は自分で作り出すことができるのだ、ということを学びました。 だから、本気になればできる、のではなく、 本気という自分を作る・・・それが『自分を作っていく』ということ。 これには、目から鱗が落ちました。 そしてさらに、自分を作っていこうとする時、作ると決めることが大事なようです。 決めた。という覚悟です。 もしかしたら、決めたのに、ダメだった、何かうまくいかなかった、思うように行動が伴わなかった等々あるかもしれませんが、 ここも一度や二度ではあきらめずにやっていくことが、自分を作っていく工程で大事な部分です。 結果よりも、決めた→そして行動した。ここに価値を感じます。

麻雀で鍛える

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利用者さんと一緒に麻雀をしました。 まだ役(点が取れる条件)がよくわかっていないので、負けっぱなしなのですが、とてもおもしろいです。 今日は一人足りない、ということで自分から率先して仲間に入れてもらいました。 何でもそうなのでしょうが、 麻雀をやればどんな人か大体分かると、麻雀歴大ベテランの人たち皆さん言っています。 その意味が何となく分かる気がしました。 それで、私の場合どうなんでしょう、と観察。 単純なところでは、『顔に出やすい』というのが、まずわかります。 もしかしたら、これいけるかも(リーチできる)と思うと、 嬉しくて顔がにやけてしまう(または口元が動く)のです。 はいはい、来ましたよーって言いたい気持ちを必死に抑え、 思わずどこかに力を入れずにはいられません(自らを落ち着かせるために)。 我ながら小さい頃からそうだったと、いわゆるお調子者の気質ですね。 嬉しさや、楽しさを表現しないってとても大変です。 自分の中によく表れてくるパターンも見えてきます。 負けたときの言い訳を結構早い段階で、ちょこちょこ入れてくる自分。 (いいパイが回ってこないから)これは負けても仕方ないよねーって言いたいのでしょう。 ●できない人と思われたくない ●できる人と思われたい という種類のものです(かなり恥ずかしいが、事実)。 こうして遊びとはいえ、いろいろ表面化してくるようです。 私から見ると麻雀とは、かなり黙ってやるもの、というイメージですので、 皆さんのいつもの空気感を壊さないように(郷に入っては郷に従え)、 そこは気をつけながらやっています。 麻雀をしていていつも思うのは、普段使っていない脳の一部を使っているんじゃないかということ。 それほど、終わった後は、もうこれ以上思考できません・・・ と思うほど頭を使い果たした感があるからです。 すごく集中力が鍛えられます。 そして戦いの後は、同じ釜の飯を食ったかのような、不思議な親近感が増していくのでした。

見返りが欲しかった

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先日から自分のテーマとなっている、 再び訪れたつらいこと について。 悲しかった、寂しかったという感情を見つめています。 他人のために、一生懸命やったことが、まったく報われなかった。 本当ならば、自分がしたことによって、 喜ばれ、役に立ち、感謝され、信頼関係も深まり・・・と思っていた。 でも、自分が欲しかったものとは真逆のものが与えられた。 私は、見返りを求めていたんだと思います。 これをやったら、喜ばれるはずとか。 一生懸命やったのだから、感謝されるべきだ、とか。 それなのに、感謝はされない、批判はされる、恨まれる・・・ だからこんなにも、悲しくて寂しくて、つらいと思ったんだと思います。 自分という人間の評価を、他人からつけてもらおうとしていました。 自分には自信がなく、信頼することができなかったのです。 だから、他人から高い評価をつけてもらうために、 他人へそれ相応の対応をして、がんばる。 関係性を未熟な自分が壊してしまったことへの悲しみや寂しさ。 それも確かに一部あるかもしれませんが(自分の パターン のために壊してしまったこと)、 でも、この関係性とは、見返りをもらえる関係性だったのかもしれません。 『依存』の上に成り立つものです。 他人から喜ばれるために(それを自分の喜びとするために)、他人によりかかって生きていた自分がいたんだなあって思いました。 もう少しじっくり時間をかけて、語りかけをしていきたいです。

なんとか続いています・・・

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約一か月ぶりのヨガ教室。 すっかりカチコチになった体で、今日は覚悟して行きました。 ひと月も体を動かしていないと、 肩がガチガチになります(すっかり肩こりの人になってしまった)。 肩だけでなく、すべての筋肉が硬くなってしまっていて、 ちょっとひねるポーズも、脇腹がつりそうに・・・ 『筋肉はがし』と言われるマッサージは、左右で痛さが違っていて、 足って両方均等に使っているつもりだったのに、右ももがすごく痛かったです。 もともと無い私の腹筋と、足の筋力は、ほぼプルプルふるえっぱなしでした。 緊張と弛緩。 呼吸さえきちんとしていれば、吸って(緊張)吐いて(弛緩)自然に動作と合わせることができる・・・はず、なのですがー 体勢がきついと、つい息を止めてしまっているのですね。 インストラクターの先生方が、気持ちよさそうになめらかに動くのは、この呼吸にあるようです。 気持ちよさそうなのもそうですが、 先生方(みんな美人)、お仕事とはいえ、 いつも笑顔でさわやかで、動作も姿勢も美しく、声もよくとおり、惚れ惚れします。 ヨガで体調不良が良くなったという経験が皆さんあり、 体の変化に伴い、心の安定と前向きな姿勢が身についたということも、どの先生方も話されています。 やはり、心と体は離そうにも離れられないもの、連動していくものなのですね。 レッスンの最後には、先生が感謝の言葉を述べるという時間があります。 呼吸を整え、目を閉じ、合掌をして、 ーーー今日、こうして皆さんとヨガができたこと、ヨガができる環境がここにあることに感謝致します。皆さんの一日が、今日も愛であふれていますように。--- たくさんの人の協力があってはじめて、自分はヨガに来れているということ、 ヨガができる体が今日もあるということ、 そして、たくさんの愛が自分に、地球に、宇宙に注がれているということ。 先生によって選ぶ言葉がちょっとずつ変わり、また、その人らしさが出ます。 手を合わせて祈る、この瞬間が私はとても好きです。 今年の目標4項目のうちの一つでもあった、ヨガを続ける。 まずは続けられているという点で自分としては頑張ったかなあと思います(唯一の汗かく運動)。 今年残り少ないレ

離れていってしまった人

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以前経験した、とてもつらいこと。 また再び、それに関わる出来事がありました。 その時と同じ「つらい」を感じとり、怖がっている自分がいました。 信頼されたい いい人でありたい 自分がいかにその人たちのことを思ってやったことか、 自分をわかってもらいたい・・・ そんな パターン で接した結果、関係性はだんだんと悪くなり、 最後は離れていってしまった人、で自分の中で区切りをつけたような感じでした。 その頃は、頭の中が日々ぐるぐるし、ケアしないパターンが積み重なり、どこから手をつけたらいいのか・・・ こんなに混乱させてしまったことに、後悔の念でいっぱいでした。 でも同時に、苦しさから解放されたほっとした自分がいたのを覚えています。 顔を会わすことがなくなると、 パターンも暴れる必要がなくなり、 次第に、その後悔した経験を(同じ失敗を)しないように意識するようになりました。 それはそれで、知恵として身につき、役に立っていた部分もあったかもしれません。 でも、乗り越えたものではなかったので、 辛いことの中にあった、自分を知るというこの上なく大事なことを、 ただ先延ばしにしていただけだったんだと、今になって思いました。 つらいと感じたことを思い出していく作業。 全部パターンでのやりとりで(相手にとっても、自分にとっても)、 本当の「私」ではないところで起きているだけなのが分かります。 その頃は、なかなかパターンと「私」を分離することができませんでした。 語りかけも途中であきらめてしまい(強い意志を持ってやろうとしていなかった)、 パターンに飲み込まれてしまっていた。 そんな勇気がなかった弱い自分。 再びの出来事に、あの時の自分なのか、今の自分が感じているのか、 怖い、と思った途端にパターンが勢いづいていくのが分かりました。 そんなとき。 偶然つけたTVに、その人とすごく似ている人が出ていました(よく見ると似てないのだが)。 笑ったときの雰囲気がそっくり。 そのくったくのない笑い顔に、胸のあたりがざわざわし、 怖いような、でもちょっと違う感覚がおこりました。    何度も、その似た人を見ているうちに、 「あー、以前はよくあんな風にあの人笑っていたなあ」 怖い顔、苦しそうな顔、落胆した顔、そんな顔しか思い

黒か白か、選択してみる

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今日はきりっと、冷たい空気が肌に突き刺さるような寒さでした。 肉まん、あんまんが美味しい季節ですね。 昨日の続き で、 ●自慢した自分は最低だ という パターン に語りかけをしました。 これだけでもかなり、落ち着く感じがあります。 パターンが、やっと自分の存在に気づいてくれたという、ほっとしたような気持ちになるからです。 今日はその後、黒●パターンに対する、白○パターンもつくってみました。 この世は陰陽という2極でできていますので、黒があれば白もある。 ○もしかしたら、自慢することが最低だと決めつけなくてもいいのかもしれない という白パターンを作り、選んでみました。 実際には、黒パターンの部屋に入る本当の「私」と、 白パターンの部屋に入る本当の「私」とで、部屋に入ったときの感覚を味わって、心地よい方を選ぶというものです。 このシンプルなやり方は、小さな選択をするときにも使うことができます。 今、肉まんを食べるか否か・・・とか。 気をつけなければならないことは、 本当の「私」で意識的に選ぶということ。 なんとなく~では、パターンが(思考で)選んでしまうことがあるからです。 頭ではなく、胸のあたりに意識を集中させ、隣り合わせの二つの部屋を作り、 入ってはただ感じる、というものです。 今回の白パターンは、今の自分にとって無理がなく、 ああ、そうだ、最低ではないよね・・・ と実感できるものでした。 ふわっと軽く体が浮くような、肩の荷がおりるような安心感。 そうしたら、ここで終わらず、この感覚を実際の日常へ行動として移していきます。 例えば、今の私ならば、 今日ちょっと褒められたことがあったのですが、否定しないで受け取るということをしました。 直接的な自慢をする行動ではありませんが、 自分の自慢であることを認めるような、そこに謙遜はなかったように思います。 これができた今日は、ちょっと清々しさがありました。 こうして、パターンについて、書かれたことを読むと そんなに複雑で難しいワークでもなく、それだけ?と感じる方も多いのかもしれません。 ですが、実行するとなると別。 実行がなければ、無意味といっていいほど、頭での理解だけでは状況が変わるということはありません。 さらに、自分のものとしていくことは、

理想の自分は、みっともなくないこと

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自慢するのはかっこ悪い、みっともない、と思っている自分(これも パターン )がいます。 理想は、自慢しない人で、 謙虚でさり気なくすごいことをしていて(すごいことって何なのか)、 努力しているところを他人に見せない人、嫌味のない人がいいって。 だからそういう人になりたいなあ、と思っている自分がいました。 ・・・こうして文字にして書いてみると、 そう思っていることの方がよっぽどかっこ悪い。 と客観視すると思えてくるのですが、 これはパターンですので、思考で簡単に処理してしまわないようにしたいと思います。 話を戻しますと、 自慢するつもりじゃなかったのに、うっかり自慢をしてしまったんです。 言った後に、 「これって、私ってすごいでしょ、と言っているのと同じじゃん・・・」 そう気づいた瞬間、ものすごい恥ずかしさと、嫌悪感が走りました。 そして、その発言を何とか打ち消したいと思い(自慢していないということを訴えるかのように、しゃべりは続く)、 さらにみっともない感じになってしまいました。 他人の自慢話を聞くことも(程度にもよるが)、そんなにいい気分ではないし、 ましてや自分が自分の自慢をしたことによって、他人から軽蔑されてしまうのは耐えられないと思いました。 自分は、人様の前で自慢するような人格の低い人間じゃないですよー と思いたいのですね(これこそパターンなのだが)。 だから、その後に、これは自慢じゃないですよ的な、見苦しい取り繕い方をしてしまい、完全にパターンと同化して行動したのでした。 ●みっともないことをした自分は最低だ 何でみっともないことをした自分は最低なのかは、 自慢するのはみっともないことだと思うし、 謙虚でなければならないと思うし、 自慢していないかのようにふるまった自分は人格が最低なんだって思うからです。 ●自慢すべきではない でもいいかもしれませんし、 ●自慢することは最低だ というパターンもありそうです。 似た言葉ですが、ニュアンスが変わってくるので、どれがしっくりくるか・・・ その時の感情をよーく思い出しながら、 しっくりくるパターンに語りかけをしていきたいと思います。 ところで、今日は小雪が舞っていました。 今夜もかなり冷え込んでいますので、 みなさんも、風邪に気

ふつうの休日

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今日は休日出勤の代休。お天気は雨。 せっかくの休みなので、朝寝坊をしたいと思っていましたが、早く目が覚めてしまいました。 朝ご飯を食べて、夫を送り出してからまた寝ました。 お昼ごろ、今日は何をしようかなあ、って考え(もうすでに半日過ぎてるが) 約一年ぶりにやや近所にあるケーキ屋さんに行ってみました。 そこでダークチェリーのショートケーキと、こだわりコーヒー(普通とこだわりと2種類ある)を注文し、 ケーキは全体的に甘さ控え目で、すごく美味しかったです。 食べていて、思い出したのですが、 確か一年前も同じケーキを食べたなあ~ 一度美味しいと思うと、同じものばかり食べる冒険心がない自分に気づきました。 その後、整形外科に寄って、 なんと今日は先生相当忙しかったのか、椅子に座らずにカーテンの影から現れたと思ったら、 「まだ痛い?」 「ほぼ痛くないです」 「しびれは?」 「おかげ様で、あれから直ぐよくなりました」 という会話が立ったままあって(私は一応丸椅子に座っているが)、 「薬もう少し飲んでね」 と笑顔で言われて終了。 その後の看護師さんとの会話の方がむしろ長く、早く終わって良かったと思い帰ってきました。 家に帰ってからも、特に家事もせず(たぶんこの後もやらないだろう)、 これといった休日にしかできないことをするわけでもなく・・・ とてものんびりと、ほんわかした一日となり、良かったです。 休日は充実させたい、または、充電させたい、 という気持ちがいつもどこかあったように思いますが、成り行きに任せたごく普通の一日に幸せを感じました。 ケーキ屋さんにはクリスマスのオーナメントや小物が並び、 そうだった、もう師走なんだあ・・・ あと少しで年末が来るという、この早さにびっくりですね。 今年こそは、家の掃除を早めにやっていきたいなあ

想像でしか分からないとしても

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自分が経験していないことは、どんなにがんばっても想像でしかわかりません。 その想像も、自分が経験してきた人生の出来事の中で、唯一近いものを探したぐり寄せ、 精一杯イメージをし、 そのときの感情を呼び起こし、 きっとこんな気持ち、こんな状態なのではないかなあ と思うだけなのだと思います。 自分が経験したことでさえ、100%理解したといえないことばかりですから、 他人の人生なら、数%・・・ すごく大雑把に、「辛い」「悲しい」「寂しい」というように、 どれかの感情に当てはめてはみるものの、むなしいくらいその感情の濃度や細かい部分が分かっていない。 障害を持つ親御さんから話を聞く機会が与えられましたが、 自分にはもしかしたら、どれだけやっても(この仕事を続けていったとしても)分かることがないのかもしれない、と思いました。 また、今までも、堂々と相手の気持ちと大きく外れたところで話しをしていたのではなかろうか・・・ と、胸がしめつけられる思いがしました。 少しでも相手を分かりたい、理解したいという純粋な気持ちで接してきたつもりだけど、 やっぱり、自分の経験ではないから、分かるはずがない。 「理解したい」という自分が発してきた言葉そのものが、何か薄っぺらで、無機質な言葉のように感じました。 それでも、 知りたいという気持ちが、ずっと自分の中にあることも事実です。 どんな思いでこれまできたのか、今があるのは、どんなことがあったからなのか、 ご本人と親たちの望んでいること(これは、本当の「私」が望むことを想像して)、 未熟な自分がたくさんの人を介して、教えてもらっていることは、 本当にありがたくて、関わらせてもらえる環境に感謝です。 私にもし、誰かのこの経験、誰かのこの人生を、与えられたとしたらどう生きただろうか。 他人の人生に触れるたびに、想像し、考えます。 一人につき一つの人生ですから、 自分の代わりに、他の人生を経験してくれているように思うのです。 私の代わりに、あなたがこの経験をしているんだと。 だからこそ、その人の生き方を知りたい、思っていることを知りたい、 と願ってしまうのかもしれません。 人を知りたい、という興味が自分にはとてもあり