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6月, 2021の投稿を表示しています

自分で決める

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また仕事の話になりますが、 とてもうれしいことに、一般企業へ障害者雇用が決まった方が何人かおりまして、 勢いに乗った月と言いますか、お互いが就職へ向けていい意味で影響し合い、 結果、過去にない就職者数が出た・・・という激動のひと月でした。 実習が終わり「あなたに来てほしい」と言われた日には(自分が言われたわけではないが)、 感極まって、いろいろあった月日が走馬灯のようにかけめぐりました。 コツコツとこれまでやってきた結果、本当にその方にぴったりの職場がついに現れた、という方もいれば、 面接や実習で結果が出ずにくじけそうなこともあったけれど、 今思えば落ち続けて良かったと思うほどに巡り巡ってこの職場へ、という方もいます。 また、念願の企業へ、生活ルーティンを変える、自分を変える、そんな努力を重ねて就職ができた、という方も。 いろいろな就職物語があって、またそれはスタート地点に立っただけのことで、 就職してからも山あり谷あり、例外なく皆さん、仕事を続ける難しさの壁にぶちあたる日が来ます。 でもまずは心からお祝いしたいです。 そういう他人の就職物語に登場させてもらっている自分が、いつも思うのは、 せめてこの方が何かを選択するときの、おじゃまにはならないようにしよう・・・という思いです。 背中を押す、一歩下がって見守る、言えないことを代弁する、伝わっていないことを伝える、 黒子となってひた走るなどなど、 やれることはいっぱいあると思うのですが、 最近は、この逆の、やらないほうがいいことは何か?を考えるようになりました。 というのも以前は、そこまでやるか?と思うような小さなことまで、 自分が気づいてしまったこと、その方のためになると思ったことは全部やっていました。 でもそれだと、その人が一人でやれること、やれるようになった方がいいことまで奪ってしまうのです。 さらには、人ってやってもらうことが続くと、やってもらってあたり前になり、 本当は一人でやれることもできなくなってしまう(能力が低下する)ということに気がついたのです。 これは、一言でいえば生きる力を、自分が奪い成長のじゃまをしているということ。 今は今で、どういう失態があるかというと、 自分はじゃまをしない、そして相手には失敗もたくさんしてもらう、 というところの割合が少しばかり増え、その結果、事態を悪化させてしまったこ

惰性の次は?

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自分の職場は、精神障害の方や発達障害の方が多く通う福祉施設なのですが、 なんのためにここに通っているんだろう、 どうなりたくて、自分、ここに来ているんだっけ? そんな問いかけに、答えがわからなくなってしまったと言っていた利用者さんがいました。 ああ、こういうことってあるよなあ、って思いました。 通い始めたときはきっと、ここに来たいという理由があって、目的があったのだと思います。 それがはっきりしていたから多少のつらいということがあっても、通うことができていた。 それなのに、だんだんと、あれ?自分ってなんでここにいるんだっけ? 朝が来て、ご飯を食べたら、着替えして時間だから家を出てそこへ向かう・・・ 惰性で繰り返される日常に、 自分がこの先どうなっていきたいのかわからなくなってしまう、ということはあります。 何か惰性で通っている、やっている、というと、 ちゃんと目的意識を持たなければならないとか、目標を掲げなけらばならないとか、 よくないことの意味で使われることが多いかもしれません。 でも、考えずにやっていることってある意味すごいんじゃないかと感じました。 それはそれで、すでに自分の一部になっているということで、 やっていることがあたり前になりすぎて、もう考えなくても、力を入れなくなくてもここに来れている・・・ それも、そういう段階にいるということでいいんじゃないかなと。 次の段階へ進もうとするとき、 『目的を見失う』ということがあるかもしれません。 もう昔の自分とは違っていて、今の自分でじっくり考える時が来た。 すぐに答えが出なくても、今やれていることは自分のものなのです。 この惰性を続けていってみて、新しく感じるものが必ずあるように思います。 どうして自分は、これやっているんだろう? ってわからなくなったときは、もうそこはクリアしていて、すでに次に向かって行っている。 また新たな覚悟を持って進んでいくのだろうなあと思いました。

単なる事実

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このところ、言われたことを『単なる事実』として受け取ってみる、ということを意識してやってみています。 というのも・・・、 何かを言われたときに、どうしてそれを今、わたしに、何の目的で、何の意図があっていうのだろうか、 などと言葉プラス余計なものをくっつけて考えてしまっているな、と思ったからです。 この余計なものがもれなく付いてくるというのは、自分のパターンが引っかかっているということ。 自分が嫌だと思う人から何か言われると、 トゲがあるように聞こえたり、自分を否定しているのではないかと、悪い方へ結び付けて受け取ってしまうことがあります。 でも、自分が好きだと思う人から言われると、 どこか好意的に聞こえたり、自分へのラブコール的(励ましや、肯定するようなもの)に受け取ってしまう自分がいます。 これって、どちらもパターンで受け取っている、ということ。 単なる事実として受け取っているかどうかは、 胸のざわざわがそれを教えてくれます(便利だ~胸のざわざわ)。 何もなければ、淡々と、「はい、そうですか」と次のことへ平常心で移れるのに、 そうじゃないときは、何かしらの感情が働き、体が一瞬止まり、 頭の中は、その言われた意味を猛スピードで考え始め、事実がねじ曲がっていくのです。 でも、そうやって反応している自分のことを、高い所から見下ろすように、 パターンの動きをみては何か楽しむような、展開をじーっと観察して見ている自分がいることもあるのです。 「そうだよね、あなたはそう思っているのね」 とざわざわしている自分を、穏やかなまなざしで見ているのは「私」なのだと思います。 何かと比べるわけでもなく、裁くわけでもなく、あきれるわけでもなく、 ただそこにいて自分に起きていることを見守って見ている。 「この事実には意味はない」 と受け取っていくと、本当になんということもなく時間がゆっくり流れていく感じがします。 何かを言っている相手にも、自然と真っすぐ顔をあわせられるような気がしました。 そこに不安とか、怖さとかはなくて、 ただ水の流れを見ているような静けさがあります。

悪口を言う

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先日の勉強会で、それぞれがこれまでで一番大きなパターンだと思うのは何かを聞きました。 どの方のパターンも、 それはもうちょっとやそっと語りかけをしただけでは、落ち着かないであろうことが容易にわかる、 手ごわいパターンたちでした。 そのパターンを生み出した背景に、もしかしたら前世から持ちこしてきたのかと思うほどの、 長い歴史を感じるものもありました(かく言うわたしも、そうかもしれない)。 こんな大きなパターンを持って今まで生きてきたなんて(今もその道の途中で)、 「よくまあ、がんばってきたね」ってお互いを労いたい気持ちでいっぱいになりました。 と同時に、そのパターンが今日の自分を成長させてきたことも事実です。 これらのパターンがなければ、本当の「私」で生きるということを選びはしなかったと思います。 だから、話を聞いていて、それぞれのパターンがとても愛おしいものにも感じました。 そんなことがあっての今日、自分はある人の悪口を言っていました。 ●○○さんが嫌い、という自分にとって大きなパターンが、 理性とのはざまにいながら、「でも、やっぱり嫌いなの」と、恐る恐るではありますが口に出して言います。 本当は、人前ではこんなパターンがあることなど隠したい。 だって、なぜその人が嫌いかという理由を明らかにしてしまえば、 何かもうそれを言っているのはパターンではなくなって、 自分そのもの(パターンが自分)になってしまいそうな錯覚に陥るからです(それは決してないのだが)。 本来自分が望む姿を、自ら遠ざける行為をするのは「私」の本意ではないことも、同時に感じている。 口にした後の、自分に対しての違和感。 「私」はこんなことを望んではいない・・・。 悪口を言うときに、パターンが何も考えずにそのまま訴えるものと、 口にすることで自分の本心を確かめようとするものがあるように思います。 「○○なところが嫌い」ということの中に、「図星」が隠されているのです。 その人が言うこと、やることの中に、 自分がその通りだと思うことがあって、痛いところをつかれたというのがあって、 その事実を受け入れたくない、弱く傷つきやすい自分が存在していることが見えます。 そんな自分をもう一度確かめるかのように、口にした相手の嫌なところ。 白パターンとして最近選んでいるのは、 〇事実をみてみよう、です。 今日も、パターン

楽しい勉強会

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 私たちは魂の成長を目指してこの道場へ入り、約10年もの間ともに学び続けてきた仲間であるのですが、 まだまだどうして、一人一人のことをよくわかっていないのだなあと、 むしろやっと10年目にして少しずつお互いが理解できるようになってきた感じがあります。 こんなことを言ったら嫌われてしまうんじゃないかとか、 相手を不快にしたり傷つけてしまうんじゃないかとか、 本当にいろいろな気を遣って、言いたいことを言わずにいることがいまだにあるのです。 学んでいるにも関わらず(いえ、学んでいるからこそ思う)、 まだこんな言い方しかできない自分・・・ まだこんな捉え方しかできない自分・・・と、己を厳しく責めるパターン。 一人一人の個性によって、それらのパターンがなぜあるのかの理由は微妙に違っていても、 うまく話そうとするために口を閉ざしてしまうところは、共通しているような気がしました。 プライベートの自分と仕事中の自分、そして道場で学ぶ自分は、 どこにいても「私」であることには変わりないのだけれど、引っかかるパターンたちはちょっと違います。 自分の場合は、学ぶことが好きすぎて、勉強会も最優先するあまり、 他の人たちにも自分の理想や価値観を押し付けようとするパターンがありました。 参加したらしたで、もっと自己開示すべきとか語りかけやるべきとか、 「クソ真面目か?」 なんとも重たい心で勉強会に参加しているなあと反省したこともあります。 学ぶといっても、楽しいから続けられる。 そして、なにより自分のペースで自由にやれるもの。グループであっても自由なのです。 話すのか話さないのか、見せるのか見せないのか、やるかやらないかなど、まったく自分が決めていい。 他人と同じでなくていい。 そこで誰かのことで引っかかるものがあれば、それは自分のパターンだから向き合えばよいし、 選んだ白で思うことを相手に伝えればいいのだと思いました。 そうやって伝えることが、また一歩、白の行動に自信を持てるようにもなります。 そう、この一歩を踏み出すためには心に軽さがないとできないですね。 今日はみんなの話を聞いていて、違っていることがとてもいいなあと感じました。 自分もみんなと違うところがたくさんあって、それを見せても「私」ではなくパターンだからねって見てくれる。 これって、すごいこと・・

日記を書くとき

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久しぶりに日記を書きます。 そうだ、日記書いていなかった・・・と気づいた今日(まさかのまさか)、何もネタがなかったのではなく、 反対にありすぎてPCに向かうことを忘れていました(違う用途で使用)。 この数日間を振り返ると、これぞ思考の世界、 というところに自分が居続け心身共に疲れていたなあと思います。 なんだか疲れるっていうとき、 考え事が多いっていうことなんだとしみじみ実感しました(パターンの中で生きている)。 しかも、その真っ只中は自分が考えすぎていることにすら気がつかないのです。 その大元となったのは、多すぎる「情報」です。 わからないこと、迷っていることを解決するために情報を得ようと拾い集め、 そこからまだやってもいないいろいろな憶測が成立していきます。 情報には、情報を発している側の「思惑」が少なからずあり、 その思惑にパターンが反応していたのだと思いました。 思考の渦に巻き込まれ、あれこれ考え始めると、 その考えがはたして正しいのかどうかにフォーカスされていきます。 間違いたくない、よりいい選択をしたいというパターンが、判断を誤ってはいけないと拍車をかけ、 「私」なら何を選ぶだろうか、という前に選択肢をすでに狭めてしまっていました。 そして、すでに狭められた選択肢の中から、「私」ならどうする?と問いても、 何かピンとくるものがなく、 さらに足りない情報を追い求めていってしまうのでした。 よく、気づいたらネットサーフィンを何時間もしていたということがあります。 次から次へと入れ替え立ち替え新しい情報を受け取っていくうちに、 そこに自分はいなくなってしまうような感覚です(脳だけがあって、五感がそこにはない)。 どんなに考えていることがたくさんあっても、 感じていること、湧きあがるものがないと文章にはできないものなんだなあと思いました(これは発見です!)。 日記を書いているみなさんはどうなのでしょう???

一汁二菜

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このところ暑くなってきたので、夕飯はさっぱりと冷たい麺類にしています。 先週はほぼ毎日冷麺を食べました(一度はまると、飽きるまで食べようとする自分)。 キムチときゅうりさえあれば冷麺としては形になるので、 あとはおかずがあれば、それも乗っけて食べたりします。 意外と白ごまが大事で、ふりかけてあると無いとでは、ちゃんとした感が違うような気がします。 明日は、そろそろがっつりと肉にしようかなあ~と思う。 自分は食べることが好きなんだと、つくづく思います。 しかも、美味しいと思って食べていることが多いので、「食べる=幸せ」なのです。 かといって、料理人になろうとか飲食店で働こうとか思ったことはありませんが、 自分で作ったものがなんだかんだいって美味しいなと思うのです。 これは自慢でもなんでもなくて、本当に大したものは作っていないのですが・・・ 野菜を切ったり、下ごしらえをしたり、味付けしたり、揚げてみたり、焼いてみたり、 料理をしていると、一番自分が欲しているものを自然と作っていっているように思うのです。 今日は煮るより炒めようとか、塩よりは味噌がいいかなとか、乱切りもいいけど今日は千切りにしようとか、 そういう一つ一つが、自分の直感みたいなもので動かされて料理ができあがっているような気がします。 そしてまた、その食材ってそんなに多く種類がなくてもいい。 そして、名もない料理ができて、 それがそのときの自分の体や家族の体にぴたっと合っていたりします。 たまに外すこともありますが(味が想像したのとちょっと違ったとか)、 そこも楽しく食べられ、楽しく食べるって美味しさと同様、大事なことですよね。 『一汁一菜でよいという提案』(土井善晴著 グラフィック社)を読んだことがある方も多いと思いますが、 「こういう美味しさが自分はとても好きなんだ」って、この本を読んで思いました。 これまで言葉にできそうでできなかった、食に関する自分の思いを、 土井善晴さんが代わりに伝えてくれたような気がして感動しました(達人に向かって言うのもなんですが)。 でも本当に、やってみるとわかります。 自分の体と心が欲しているものって、そんなに多くはないのだということが。 あれもこれもの何品も用意しなくても、 これ食べたい、これ食べたら元気になる、これ美味しい、というものはもっとピンポイントのもので、 食べ物

今日のモットー

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昨夜はとても暑かったので、窓を開けたまま寝たら、 今朝は、小鳥たちの鳴き声が目覚まし時計の替わりとなって、いつもより一時間早く目が覚めました。 起きて鏡を見ると、自分の顔のほほに、くっきりと枕の型がついています。 ぐっすり寝たな~と思った日は、恐ろしいまでに、顔に深く芸術的な線がついて、 「たった今、起きました」という情けない顔をしていました。 でも運よく早起きしたために、朝風呂に入って、湯ぶねで「あいうべ体操」をしました。 こうして始まった今日という一日。 今朝はたしか「決めつけない一日にしよう」ということをモットーにしたと思います。 いろいろ決めつけてしまうパターンがあるので、今日は、そこを取っ払ってありのままを見ようと思った。 しかし、このモットーも朝の間だけで、出勤する頃にはすでに意識することを忘れ、 また夜がやってきて、あれ?今日は何を思って一日を過ごしたんだっけ・・・ となることが多々あります。 それなのに、ああ、ダメだこんなんじゃ!と思うわけでもなく。 また懲りずに、えーと、今日のモットーは~とまた新しい朝を迎え考え、宣言をするのです。 変に完璧主義なところがあったり、 ゼロか100の選択しかできず、柔軟性というものがまったくなかった自分だったのに、 いつの間にかこんなに適当に、というか(適当とは、ちょうどよい加減という意味だと捉える)、 何度でもやり直しをすることを責めなくなっている自分がいます。 宣言通りに全然行っていないのに、今度こそ、ってまた挑戦する朝。 懲りないというのは、もしかして柔軟さがあるってことでしょうか。 できていないことを、こんなふうに捉えるなんて・・・ 人って変わるものなんだなあって思いました。

メインの体験

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今日は母の一回目のコロナワクチン接種の日でした。 お昼を過ぎたくらいの時間で予約をしたため、 近くの喫茶店で先にお昼を食べることにしました。 そのお店は、昔からずっとそこにあって、メニューはもう何十年と変わっていないと思うのですが、 デミグラスソースのハンバーグがとっても美味しいのです(ずっと味が変わっていない)。 母にも同じものをすすめると、「こんなに食べれないわ~」と言っていましたが、 一口食べるとその美味しさに感動しまくり、ぺろっときれいに完食していました。 その後、診療所に行く途中には駅があり、 「ここって何なの?」 昭和の風情ただよう古びた駅をめずらしそうに見ていました(何回か来ているのだが)。 ちょうどホームに電車が入ってきて、ごく普通の何の変哲もないローカル線の電車ではありますが、 こんなに間近で見ることがないため、母はとてもうれしそうでした。 診療所では、お世話になっている先生が、 「どう?デイサービス行ってる?」と声をかけてくれたり、 注射が終わって、看護師さんとおしゃべりをして、母は本当に楽しそうでずっと笑っていました。 こういう他愛のないおしゃべりとか、はじめて(と思っている)の場所とか、はじめて食べるものとかに目を輝かせ、 特別なところに連れて行ってあげなくてもこれだけ喜んでくれる母に、 何かとてもありがたいなあと思いました。 お礼を言って外に出ると、もう注射したことを忘れてしまったのか、 「いいのかしら?今日はなにもしなかったわね」・・・と。 ここにはただおしゃべりをしに来たと思ったみたいでした。 わたしは少し怒り口調で「もう~注射したでしょうよ!」と言いましたが、 内心全然怒ってはいなくて、むしろちょっと幸せな気持ちでツッコミをしたかっただけでした。 ワクチン接種に関しては、 年齢が若ければ若いほど、するかしないかを真剣に考える方は多いと思います。 自分はしないと決めていたので、とても悩みました。 ただ、なんとなく母はやったほうがいいかなと思ったのでした。 ですがこうして、結果的に注射をしたことが今日のメインではなく、 入ったことのないお店で美味しいものを食べ、来たことのない(と思っている)駅に立ち寄って電車が見れた。 そしていつもお世話になっている方々とほんの少しの間、おしゃべりができた、笑った、 ということが「今日の母とわたしの体験」

すずめに教わる

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ベランダに出てみたら、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきます。 足元を見ると、羽根をばたばたさせながら、小さなすずめの子どもがチュンチュン鳴いていました。 近くの電線を、親らしきすずめと兄弟らしきすずめ何羽かが飛び交い、そのすずめを探しているようでした。 夫が庭に放してあげようと、すずめをすくい上げようとしたとき、 ベランダの真下をのぞくと、なんと野良猫がのっしのっしと歩いているではありませんか。 このタイミングで放したら、猫に食べられてしまう・・・。 そのうち親らしきすずめも、子どもがなかなか見つからないと思ったのか、 少し離れた木に飛び移り、だんだん遠くに行ってしまいそうでした。 夫はどこに放そうか迷い、わたしは必死で子すずめの存在を親に知ってもらいたくて、 「ここにいるんだってばーーー、見離さないでよーーー、気づいてよーーー」 とすずめの鳴き声をマネして、訴えました。 そうこうしているうちに、 夫の手の中から子すずめは脱出し、落ちてしまいました(たぶん植木のあたりに一旦落ちたと思う)。 野良猫はすでに通り過ぎて行ったあとだったのですが、そこからもうそのすずめを探すことができませんでした。 いつからそのすずめがベランダにいたのかはわかりませんが、 昨日はとても気温が下がり、一日中強い雨が降っていたので、 あの様子では体温が下がり、体力もかなり消耗してしまったのではないかと思います。 何羽か生まれた中で、その子だけもともと弱く生まれたのかもしれませんし、 お母さんが与えるエサもうまく食べられず、他の兄弟よりも飛べなかったのかもしれません。 なんとか無事に生きのびて、元気に育ってほしいという気持ちと、 「まあ、これが自然だからな」と言った夫の言葉に、 何もしてあげられなかった、少し悲しくもあきらめの気持ちが重なりました。 普段、自分は人間社会にいて、もし生きるか死ぬか、生活できるかどうかの話があったら、 どういう制度を使ってどんなところにつなげてあげて、 その家族が今確実に生活できるようにあらゆることを考え、手を尽くすと思います。 困難というものは、人力で「どうにかするもの」だという考え方が前提にあって、 そこができなかったとか、不備があったとすれば、助ける側の責任にもなると。 「どうにかしなきゃいけない」っていう経験を、今まであまりにもやりすぎてきたようにも思いまし

同じ人間

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今週は、目まぐるしく初対面の方と会う機会が続きました。 そういうときって、以前は何かもうぐったりして疲れてきっていたと思います。 会う前の準備から、話す内容、 また、会っている最中にも相手が今何を考えていているのか頭をフル回転させ、アンテナもピピッと立て、 常に相手の反応を気にしている感じが自分側にあったのだと思います。 それが、今はまったくと言っていいほどなくなりました。 準備こそしますが、話す内容などあまり深く考えず、 その場の空気感でなんとなくこんな感じかなというものになってきたように思います。 かなり、初めて会う人に対しての気負いっていうものがなくなってきたような。 会ってみたらパターンがえらく騒いだ、というのはありますが、 これはパターンだから、と分かっているところが以前とは違うゆとりです。 こんなふうに変われるなんて、 自分で言うのもなんですが、なんか成長しているかもしれないって思ってしまいました。 会う目的はいろいろですが、この場をいい時間、気持ちのいい時間にしようとさえ思っていれば、 なんとなくそれなりに話がすすんでいくような気がしました。 これがまさしく白の感覚。 先に、この気持ちがよい、軽い、風通しのよい、そういう感覚を持って、 その次にその場にあう会話が自然発生してくる・・・みたいな感じです。 目の前に座っている人を見て、 この人も、服を脱いだら「ただの人」だよなあ・・・って思うことがあります。 肩書がいろいろ付いていて、人脈も太いパイプもあって、 実際に仕事もきちんとやる人なのかもしれないし、実績もある人なのかもしれない。 でも・・・、服を脱いだら、自分と同じ人間であることには変りないのだ。 少し緊張する相手のときは、自分に還るため(人間であることを思い出すため?)の本能なのでしょうか、 この目線にしばしなってしまいます。 もう本当に、「ただの人」人類皆兄弟、っていう感じにしか思えない。 丸裸になって相手の前に座ってみるって、自分自身も気持ちがいいもの。 心を開き、どうぞわたしはこんな人間ですよって相手に見たいように見てもらう。 本当は何も隠すもものなんて、ないのかもしれませんね(バレていた方がいいかも)。 パターンは、隠したい、見せたくない、こんな風には思われたくない等々あるので、 ずっしり重たい鎧を着てしまうのです。 鎧を着ているから、会