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11月, 2020の投稿を表示しています

よい状態って

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今これを言っていいのかなどうかな、と悩みました。 悩んでいるのは「私」じゃなくて、パターンなのですが・・・。 話すタイミングは果たして今なのかどうか、 今じゃない方がいいのか、 もっとよく考えてからにした方がいいのか、 でも、今気になるんだよなー、 といろいろ思いながら、なかなか話せずにいました。 こういうとき、 頭の中もぐるぐるしているけれど、胸のあたりのモヤモヤもすごい。 この気持ちを早くすっきりさせたい、というのもパターンです。 すべては自分をよい状態で整えていたいからなのだと思いました。 話すタイミングを頭で考えたり、肌でも感じ取ったりしながら、 自分の口から出るときには、できるだけちゃんと伝わるように話したいと思っている(グットタイミングで話したい)。 単純に、 話したことで自分が嫌な思いをしたくないとか、 相手に嫌われたくないというパターンがそうさせています。 タイミングがいいか悪いかよりも(その問題よりも)、 このぐるぐるとか、モヤモヤとかをどうするのかだと思う。 自分の思う通りにならなかったとしても大丈夫、という白パターンも確かにあるし、 そして、良くない大丈夫じゃないと思う黒パターンもいます。 このどちらでもOKだ、というところに行きたい・・・。 自分をよい状態にするというのは、 何かプラスに物事を運べるようになっていくことのように思いますが、 そうではないんだと、また気づかされたような感じがしました。 どんなパターンがあってもいいし、 どんな結果を受け取ってもいいという、 すべてに許しを持つ「私」でいることの心地良さ、心の軽さがある状態と、 パターンが騒がない状態に仕向けることとは違う。 ここを混同してしまっているんだなあと思いました。

楽しみ方いろいろ

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『乱世少年』(著者シャオ・ユイシュエン 訳者石田稔) という中国の文化大革命の時代を描いた児童文学の本を読みました。 児童文学というけれど、とても残虐な場面が度々描かれていて、 子ども(小中高校生)が読む本にしては、あまりにも衝撃的で切なすぎるところもありました(でもベストセラーなんだそう)。 中国人の知人に聞くと、 小説だからといって大袈裟にしたものでも何でもなく、 主人公の少年の目に映ったもの、経験したものそのままにその時代に起きていたことが描かれているということ。 日本の歴史で似ている時代を想像するとしたら、戦時中になるのだと思いますが、 自分たちも戦争を経験していない世代ですので、 戦争を知るというときに、たしかに残酷な事実を避けては伝わらないので、 こういう部分はとても大事なのかもしれません。 この本を読み終えたときに、ハッピーエンドではないけれど、 少年たちにとってこれからの未来がある、 大人たちにとっても生き抜くことそのものが希望になっていくんだと感じました。 小説自体は、登場人物のキャラクターを想像していくのが結構むずかしく(日本人ではないから)、 それゆえにすごくおもしろかったです(挿絵の版画がまたおもしろい)。 そう、残虐なことが起きるんだけど、非情なことが起きるんだけど、 そこに浸り続けるわけにはいかない、ということなのか。 以前読んだナチスを描いた『夜と霧』(著者ヴィクトール・フランクル 訳者池田香代子)もそうでしたが、 絶望の中には光は見えないけれど、 自分という人間の中にはいつも光は存在していて、 そしてそれは、見ようとして見えるものというよりも、 見えずして暗闇の中から感じとってしまうものが何かあるのかもしれないと思いました。 そういう時代に生まれてしまった人たちは(これも魂が自ら選んだのだと思うが)、 精神性を高めるためだけにこの世に生まれてきたとしか言いようがないような、 人生は修行という言葉がこれ以上ないほどあてはまるような、 生きる目的がすごくはっきりしているように思います。 人生の目的を知りたいと思う人はたくさんいると思うけれど、 精神性を高めるためだよと言われ、 ああそういうことかと、わかったから全てを受け入れられるかは別です。 自分だったらそんな過酷な時代に、どう生きていくんだろうか。 もしかしたら、もうすでにそんな時代も

なんとかかんとかやっていく

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久しぶりに海を見ました。 広くて大きくて青い海は、とてもおだやかですごく気持ちいい~ ずーっと見ていると心が落ちついてきます。 そして、風のようにふわっと、自分がどんどん軽くなっていくようでした。 三陸の海を見ていると、 やはりあの時のこと、震災を思い出します。 あの日、街をのみ込んだ真っ黒い津波。 信じられないほど恐ろしく姿を変えた海が、 今は目の前で、静かにきらきらと波うっています。 津波伝承館にはじめて行きましたが、 入ってすぐに心臓がばくばくしてきて、映像を見ていると胸が締めつけられそうになりました。 たくさんのものを奪っていった津波。 被災された方々はどんなに辛く絶望的な気持ちになったのだろうか・・・ 館内を順路の通りに歩き、 気持ちがどんどん沈んでいくようだったのですが、 それだけで終わることはありませんでした。 展示されたパネルには、その後の人々の変わりゆく姿もあったのです。 時を経て、人々が動き出し、 ほんの少しずつでも笑顔が戻り、 希望の光りがそこに小さく灯されていく・・・ こうやって人って、 どうにかしてでも生きていくようになっているんだと思いました。 これから先も、 自然災害やコロナのような、 自分にはどうしようもできない出来事に遭遇することもあるでしょうし、 たった今幸せを感じている自分が、その一寸先にはどん底を体験するかもしれない。 またそのどん底から、そのときには想像すらできなかった生きる力をふりしぼっていくこともあるかもしれません。 自分を信じたり信じられなかったりしながら、 それでも、なんとかかんとかやっていく。 お金持ちでもない、派手さもない、何か人の上に立っているわけでもない、 失敗したり、もう何やってんだわたしと思うような、じたばたしている自分であるかもしれないけれど、 それでも、「大丈夫、何とかやっていける」と 海を見ていたら励まされたような気がしました。 この(根拠はないけど)何となくやっていかれるという感覚、とても好きです。 帰りに、自分の家が近づいてきたときも、 あの青い海を思い出すと、この気持ちが追いかけてくるようでした。 もうだめだ、もういやだ、あー疲れたって思うときも、 「それでいいから。それでもやっていかれるから」と言ってあげよう。

コロナ、再び

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ZOOMで岩手クラスの勉強会をしました。 今日は日中でも気温が上がらず、すごく寒そうな感じだったので(一歩も出てないけど)、 温かい部屋でぬくぬくとコーヒーを飲みながらできるオンラインはありがたいです。 勉強会では、先月の振りかえりをみんなでして、 その後、語りつくしているようでどこか語りつくされていないような、 コロナに関わるパターンのケアの話題になりました。 今の自分はどうかと、 最近はほとんど考えることもなくなってきたと思っていましたが、 ●コロナのせいにするな(してはいけない) というパターンがありました。 確かに、物理的にそうなってしまったという事はあるかもしれないけれど、 本当にそれだけが原因か? それがなかったらすべて順調にいっていたのか? と自分にも他人にも突き詰めてみたくなるパターンがあります。 そのせいで仕事ができないとか、何かができないとか、 人間関係がぎくしゃくするとか、ストレスがたまるとか、不安定になるとか、 もうあきらめようとか、どうせやってもうまくいかないとか・・・ ここにつなげるのはもうやらない、と思っていましたが、 自分や他人が、ここにつなげようとするのを感じ取ると、 このパターンが反応していたかもしれません。 常に自分以外の何かのせいにしたくなるというところから、 自分以外のものには一切原因はない(すべての答えは自分の内にある)というところへ、 みんなが気づき、向かいはじめているように思います。 その移行期に、 まだ自分はこんなところで迷っているのかと、 やっぱり自分はダメな人間だというところにしがみつきたいパターンもいるように思う。 そしてそのダメだと思うパターンの方を選んでいる自分や他人を、 また否定したくなるパターンがあるのだと思います。 その時、本当の「私」はそこには不在で、パターン同士であっちに行ったりこっちに行ったりしているように見えます。 現実的にはいろいろあっても、それでも何とかやっていかれる・・・ という『大丈夫』と、 何があっても大丈夫、と思える現実的な根拠がある・・・というのとでは違います。 はっきりとした根拠や理由がないことへの不安が募るということは、 「私」以外のところに頼りたいと思っているからで、 言い返すと「私」のことは信じられないからということにもなります。 本当の「私」よりも、テレビで言っているこ

気になったこと

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前回の続きです・・・ 何となくうまくいっているような気がするときのもう一つの共通点は、 気になったことをそのままにしておかない、です。 何か気になるということは、知りたいと思う気持ちがそうさせているのだと思うので、 相手に確かめてみたり、他の誰かに聞いてみたり、 調べてみたり、行ってみたり、やってみたり、 さくっとやってみるといいような気がします。 そのままにしておくのが良くないということではありませんので、 そのままにしておく(無視をする)というところを、 パターンでやっていないかどうかという点なのだと思います。 何でもかんでもその場で解消しなければ気がすまない、というものとは違い、 この引っかかりを持ったまま、自分は先に進めるのか? そこは直感的にわかるものがあるように思います。 パターンがひっかかるということであればケアしていくことになりますが、 ん?今のは何? ちょっと分からなかった・・・と思うことは結構ある。 何かこれはそのままにしないほうがいいような気がするという予感がしたら、 その予感はあたったりしますよね。 ほんの小さな、些細な引っかかりであれば、 聞くとか話すとかいう行動にも、そこへの重さがあまりありません。 案外、時間が経つと、軽そうだったものもずっしりと固く重くなっていくこともありますから、 軽いうちに解決してしまうのもいいなと思います。 そこで解決されないものは、それはそれでいいくらいに考えて。 パターンのケアと本当にこれはよく似ています。 引っかかったことをその時にケアしていないと、 もうどこに引っかかったのかさえもわからなくなってしまい、 あとになって、 なぜ自分はあのとき気になっていたくせにそのままにしてしまったんだろうと思う。 だから気になってしまったその事実は、大事にしたいです。 最近何となくいい感じ、うまくいっているときのこの二つの共通点(話を聴く、気になったままにしない)は、 対相手だけでなく、もの、身体でもあります。 そして今回、これらを見つけたには見つけたけれど、 またそこは意識せずにやれたらいいなあとも思います。

たくさん話を聴く

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最近、何となくいい感じかなあ(うまくいっているなあ)と思うときの共通点について考えてみました。 二つ思い浮かんだことがあって、 一つは、相手の話をちゃんと聴くということ。 できているというより、そう意識してずっと練習しております。 仕事で、精神障害のある方とその方が働いている企業との間に入っていろいろな話を聞く機会が多いのですが、 ある意味、両者にとって中立な立場でいるようでいて、 実際はどちらの側の味方でもあるという微妙な立ち位置でもあります。 というと、どちらにもいい顔をしている感じもありますが(実際そうかも・・・)、 どちらの話もちゃんと聴いていくと、 自然に今目の前にいる人の言い分は間違っていないと思いながら聞いている自分がいます。 例え嘘をついているとしても、その嘘を聴いてみようというくらいに、 全部まるごと(表情やしぐさも含めて)受け止めたいと思って聴く。 ちゃんと聴いていないときは(または聴き方が浅いときは)、これが無いのです。 何か他に正解があって、間違ったことを言っているなこの人・・・と感じながら聞いているのだと思う。 雇用する側とされる側、お互いの立場での感じ方考え方があるので、 両者の話を聞いての『事実』はどうなのか、ということをある程度見つけられたら、 その『事実』についての感じ方考え方の違いはそのままにしてもらっていいと、 一旦は何の解決にもなっていないように見えるのですが、 それぞれの立場での話をよく聴き受け止めることができると、 そこには否定というものが無くて、 相手の方の捉え方がそのまま違和感なく、自分の中に入っていくのを感じます。 その人にとって今、これが正しいと思っていることは何なんだろうと想像しながらお話を聴いていく感じです。 それは自分自身にとっても同じで、 自分が今何を正しいことと思っているのか、 そこに向かわせようとしていないか、自問したりもします。 また、話を聴いていくうちに、内容が二転三転して複雑になっていくこともあります。 一見、言うことが違ってきて、何なんだ?と思うのですが、 言うこと感じることが変わってくるというのは、むしろ自然なことなんだなあと思うようになりました。 言っていることが矛盾していても、 矛盾はその人の心の奥底にあったいろいろな気持ちの表れであり、 視点の広がりでもあり、どれもその人にとって本当のこ

心と身体のつながり

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先日の岩手クラスでの話の中にあった、 完全な肉体よりも100%の精神性、というところはとても腑に落ちるものがありました。 完全な健康体は生まれもったものもあるし、老いていくことも避けて通れませんが、 本当の「私」とパターンは誰にでもあり、精神性ならばその人なりに高めていくことができます。 心と身体はつながっていると、 体験として知っている人は多いと思いますが、 この『つながっている』ところに注目しすぎると、 身体の不調を、心の不安定さ精神性の低さ、 といったマイナスな捉え方を常にしてしまうことになると思います。 そうなると逆もあって、 体調がいい人は、いつも安定していて精神性が高い人みたいになってしまう・・・。 本来はその事象には、プラスもマイナスもなく、 不調という事実(体験)が今そこにあるだけで、 不調だから何?・・・っていう何の意味もそこにはありません。 体調を崩す原因となったことなどはあるのでしょうが、 それ以上に意味をつけてしまうのは、人が頭でやっていることです。 だって自分がだめな人間だから具合が悪くなるんだとか、 心が弱いから、身体が弱いから、パターンのケアができていないから(これは自分が陥りやすいやつ) といった捉え方をもしいつもしていたら、 それは辞書にある言葉に、さらに自分だけの意味を勝手に付け足しているという状態です。 頭ではわかったつもりでも、どうしてもそこにマイナスのイメージを持ってしまう時があります。 そのときは、 『自分を成長させるために最も適した現象』と意味付けしてもいいかもしれません。 これは今の自分に、一番大事なことを教えてくれようとしていると考えれば、 早く去ってほしいもの、やっかいなもの、不要なもの、すぐ薬で消してしまえば良しとするもの、 ではないことを感じ取れると思う。 また、何かに引っかかっているパターンが見つかるかもしれない。 不調だからこれを止める、避ける、変える、動く、動かない、休む・・・といった行動は自然なことですから、 動物のようにただただ身体に忠実になっていけたらいいですよね。 ここ痛い~、ここ治りが悪い~、 あ~もう早くすっきりしたい、楽になりたい。 と軽々言える相手がいるということは、実はありがたいことです。 口に出せるとパターンのケアがしやすくなります。 もうすでに心の声がもれているわけですから、 あとは

好きな理由

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TVドラマをよく見ています。 しかも録画したものを、他を寄せ付けないものすごい集中力で見ています(家族がひく)。 ですから、よく泣きますし、腹が立ちますし、ものすごく嬉しくなりますし、 見終わった後も、その先の展開を真剣に想像し、何度も書き換えたりしています(脚本家か?)。 ドラマなんだから・・・と我に返って妄想を止める。 最近のもので好きだったものはと言うと、 『恋はつづくよどこまでも』『ハケンの品格』『MIU404』『私の家政夫ナギサさん』 『おじさんはカワイイものがお好き』『天使にリクエストを~人生最後の願い~』『半沢直樹』・・・まだあるかも。 主題歌がまた良かったりします。 この趣味嗜好で(恥ずかしながら)自分の性格がほぼ分かってしまいそうですね〜。 今年一番、はまったなと思うのは、NHK朝ドラの『エール』。 見ていない方にはすみませんで終わってしまいますが(内容も割愛してすみません)、 見ている方にはわかりますよね、あの面白さ! ドラマのタイトル通り、 人を応援したいと思う気持ちと応援される気持ち、 エールの力が人に奇跡を与えます。 その時代らしい逆境を乗り越えていく登場人物たちを、見ている側も応援したくなるのです。 個人的には今週は、 鉄男(中村葵さん)と幼い頃別れた弟との再会シーンには号泣でした。 はっきり言って、役柄とはいえこの俳優さんのファンになってしまいます。 鉄男の福島なまりがまたすごく良かった。 昭和のセットも、昭和の服装も髪形も見どころです。 物語の前半では、亡くなった志村けんさんに会えたり、 朝ドラ初の男性ヒロイン(窪田正孝さん)を起用したりと、 何かと新時代へ感慨深いドラマとなりました。 もうすぐ終了ということで、寂しいなあ。 どうしてこんなにドラマが好きなのか?と考えましたが、 たぶん、人生は何があっても素晴らしいもの、 ということを疑似体験できるものがドラマにはあるからだと思います(映画も)。 それをほんの一部分であっても味わいたい、ひたりたいのかもしれません。 また、泣く気満々で見ているわけではないのですが、 泣くだけ泣いた後のあのすがすがしさは、結構好きかもしれないです。 恋愛ドラマもたくさん見ているので、 そのへんは単にドキドキものに惹かれるおばさんだからというのもあるな・・・。

一期一会のクラス

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今日は岩手クラスのセミナーの日でした。 今回も宿題があったのですが、 この宿題で問われていることの解釈が自分はずれていて、 答え方が違っていたということがありました(話すまで気づかなかった)。 こういうことは、仕事でも私生活でもたまにあります。 周りの人たちが普通に難なく答えていることに対して、 一人質問されていることとずれたことを言ってしまう、ということがある(質問した人が困っている状況)。 なぜちゃんと答えられないのか? 単純に考えれば、ちゃんと話を聞く、文章を読む、 そういう基本的なところ(理解力や国語力の問題)もありますが、 何でもかんでも自分の感覚で受け取っていい、ということに重きをおき、 またその感覚で捉えたことが正しいと思っている自分がいたかもしれないと思いました。 少しまた違うのかもしれませんが(この話もずれていませんように)、 基本に忠実にやるよりも、 おおよそのことが合っていればよしとする傾向が自分にはあります。 語りかけのワークを教わったときも、それが身につく前にオリジナル的な言葉を使い、 ワークの意図が変わってしまったことがありました。 先生から、「この通~りに、やってください」 と念を押されたことを思い出します。 大体こんな感じでいいだろう、というのが中心にあって、 すっかり理解しよう、分かろう、ちゃんとやろう、 またはもう一度確認する、自分の解釈を疑ってみる、疑問があったら解消させる等々 そういうところの詰めが甘い・・・。 大体わかれば「わかった!」と言い、 大体こんな感じというところで自分にOKしている。 こういう性格、癖、パターン、資質、いろいろな特性が自分にはあるとあらためて感じました。 そして、こういうアバウトな、いい加減な、考えが浅い、早合点な、ごまかし傾向なところに、 時に助けられてきた自分がいたことも事実。 自分を知ることの材料は、あちこちに転がっています。 セミナーでは、その学ぶ内容そのもの以外にも、 仲間の話を聞いている最中に、自分の中に引っかかるパターンを見つけたり、 自分の発した言葉で自分のことをより客観視できて自分を知る、ということがあります。 そこがとてもいいなあと思う。 そして今回、先生からのたくさんの言葉の中で胸にぐっときたこと 「いつかは自分も来れなくなる日が来て・・・一期一会ですね・・・」 そうだよな・・

病院というところ

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健康診断でひっかかってしまい、 20代の頃お世話になっていた病院(ガン治療で入退院をしていたところ)で検査をすることになりました。  当時は、患者さんで待合に座れるところがなくなってしまうほど、廊下までぎゅうぎゅうに混んでいて、 待ち時間が3~4時間というのがあたり前でした。 わたしの担当医の先生は、1日に何百人という患者さんを診て、その間に入院中の患者さんも診て、 ものすごい忙しさだったと思います(先生はいつもパタパタしていた印象)。 あれから医療の在り方も随分変わり、 今は紹介状だけの患者さんを診て、他は地域のかかりつけ医へ移行していく形態になったため、 当時にくらべたら全然ゆとりがあります(座って待つことができる)。 そのゆとりのためなのか個人的なものなのかわかりませんが、診察時の応対も大きく変わっていました。 まず、「こんにちは。はじめまして」という挨拶があってびっくり。 丁寧な所見の説明、しっかりと目を見て診察、 終わるとまた「お待たせして本当にすみません。お大事に」という言葉が続く・・・。 口にはしませんが、いえいえ先生こそお疲れさまです・・・。 誤解があるといけないのですが、当時のドクターは無礼だったということを言いたいのではないですよ。 当時はあの方法しかなかったのだと思いますし、 それでは破綻してしまうと、長い年月をかけて今の形態に改善され、 医療者の方たちも少し余裕が生まれてきたんだなあ(といっても忙しいのでしょうが) と感じました。 病院に行くというのは、誰しも何かしら不安を持っているわけですから、 多少待たされても、診察してもらったらほっとした~ というところは大事なところですよね。 不安の原因がわかり、今の身体の状態を知ることができるというところが、 わたしにとっての「病院」なんだと思いました。 当時の自分は、入院も長かったのですが、外来治療も長く通い、 本当にたくさんの先生方、看護士さん、技師さん、助士さん、受付の方、また病気を通して知り合ったたくさんの患者さんたち、 本当に数えきれない人と出会い、あちこちでお世話になったことを思い出しました。 今回の担当医の先生からも、自分のお世話になった先生の名前を出すと、 「あ~○○先生に診てもらっていたのですね、私もお世話になりましたよ」と懐かしそうに言っていました。 治療が終わってから本来は経過

よ~く考えて

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どうしても気が向かない・・・というのは、 何かしらのパターンがブレーキをかけているときもありますが、 よく考えてみればやれないこともないし、やった方がむしろいいと思える場合があったりするのに、 それでも気が向かないというのは本物のような気がします。 本当に本当にそこに理由はなく、気が進まないときは、 そのまま成るようになるという感じで動かないという方が良かったりします。 こういうのが第六感というのか、野生の勘というのか、本能というのか。 気が向かない、ということをとても大事にするようになりました。 明日にのばしてもいいことはのばし、 誰かに頼んだ方がいいことは頼み、やらなくても他人に迷惑がさほどかからないのならしない。 場合によっては、それで死ぬわけではないくらいに考えるときもある。 気持ちがそちらの方向へどうしても向かわないというのは、 それ以外の何か向かうべき方向(向かいたい方向)があることも感じます。 ただ、それが何なのかまだわからないので、 とりあえず言えるのは、これではないという消去法。 人間の持つエネルギーは無限だと思いますが、 注がれる先は、自分に向き合えば向き合うほど、 ここ、っていうはっきりとしたところに注ぎたいと思うのかもしれません。 それがわかるまでは、おおよその方向で行き、 気が向かないものには目もくれず・・・でいいのかなと思う。 「よ~く考えて」と言われたのですが、 考えるとわからなくなっていくので、よ~く感じようと思い直しました。 やりたいのかやりたくないのか、二つの部屋へ入ると完全にそれがわかります。 やっぱり、よく考えなくて良かったなあと思う今日一日でした。

期待する動機

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相手に期待をしてしまうということがあります。 そうなってほしいという願望がはじめにあって、 どちらかと言えばその願いが叶いそうなとき、そうなったときの喜びまで想像しています。 期待そのものは、いいも悪いもないのですが、 期待しはじめると、そうなってほしいという気持ちを自分自身であおぎ、 自分自身で妄想し拡大させ、叶ったその先のことまでも決めつけてしまっています。 そして期待がある分、そうならなかったときに、 後悔、怒り、悲しみ、落ち込み、裏切られたと思ってしまう。 期待している時間を、 この先どうなるのかなあと楽しめる時間にできるといいと思いました。 ちょっとだけその期待感をおもしろがって楽しむ。 そこで終わることができればいいし、 期待しているその時から、その後の結果はどんなものが来ても大丈夫と思えたらいいのに・・・。 でも、それは思考で考えているから言えることで、 実際は期待が外れた時にはじめて、 ああ自分は、期待通りにならなかったときのことは全く考えていなかなったんだ(考えたくなかったんだ)と気がつきます。 相手に期待してしまったその動機を考えると、 その期待が期待だけでは終われない理由が見つかります。 それは、ほとんどのものが、自分はそれで安心したいというもの。 人は安心したいのだと思います。 『自分のために相手に期待している』ということに気づきます。

生まれたときから

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本当の「私」、という言葉がこのブログでもよく出てきますが、 この言葉をカウンセリングの先生からはじめて聞いたとき、 じゃあ今まで、本当の「私」はどこにいたんだろうと思ったことがありました。 でも実は、生まれたときからずーっと「私」は一緒にいたのです。 むしろ生まれたときは「私」そのものでしかなかったのかもしれない。 それから、いろいろなことがあって家族や周囲の影響を受けながらパターンというものが作られ、次第に大きくなっていき、 「私」の存在を忘れてしまうほどになってしまった(意識できなくなった)。 それでもかすかに感じる「私」という存在に助けられ、 パターンが日々いろいろなことを感じ、考え、それが自分自身だと思っていたことを知り、 これからはもう本当の「私」で生きようとした時から、 人生は大きく転換していくのだった。 パターンという言葉や本当の「私」という言葉を使わなくても、 たとえ心のからくりを知らないとしても、 自分の中にもう一人の普遍的な存在がいて、 それが自分を支え、励まし、助け、許し、力をくれていることを感覚的にわかっている人はいると思う。 他人でもなく、どこかの神様でもなく、自分の中にある何かが・・・。 でも、そういうことも全くわからないとしても、何の問題ないということも何となくわかってきた気がする。 それくらい、すべてがその魂に合った人生を歩いていくだけなのだと思うのです。 どういうことを知っているから幸せだとか知らないと不幸とか関係なく、 みんなが魂の成長を願って生まれてきたのだから、そこにふさわしいものが淡々と与えられていくだけなんだって。 「私」で生きるとき、 そこから広がる世界は「私」が見ているものであることには変りない。 宇宙のかけらのような、小さな小さな存在である自分がやっていることは、 とても大きな意味を持ち、また一方では何の意味も持たず、 どちらでも周囲に影響をもたらすものであると思う。 だから、一日の中の少しでも多くの時間を「私」でいられるように過ごしていくことは、 自分だけのものではないのだ。 この世に、この地球に日本という国に、この土地で、この家でこの家族の中で、 そして今あたえられた人と環境の中で「私」として生きていくことの、 責任のようなものを感じました。