発達障害と自分
最近、発達障害をテーマとしたTV番組が多く放送されているようです。
発達障害の方の就労支援に携わるようになってから、
あ、こういうことだったのね、
と、自分にも、そして誰にでも何かしら該当することだと感じます。
特に幼少期からさかのぼると、
未だに続いている、自分でもどうしてこうなってしまうんだろう・・・
という謎の特長が私もあります。
あきれるほどの忘れ物の多さ(目の前に置いてあっても気づかない)
じっと座っていられない(どこかを動かさずにはいられないし、立って歩きたい)
ものごとへのこだわり(恥ずかしくて書けない)
家電への過敏さ(わずかな光や音が気になる)
みんながわかる会話の意味がよくわからないことがある(天然か)等々。
大人になって必要に迫られ変わってきた部分もありますが、
あげたらきりがないほど、該当していきます。
小さい頃から、そうだと理解していれば、状況も変わってくるのでしょうが、
ちょっとそそっかしいから、ちょっと元気が良すぎるんだよね、
ちょっと神経質で、ちょっと人が苦手、ちょっと変わっている・・・
この、ちょっとそうだよねで、学校時代を何とかやり過ごせたということもあると思います。
障害と診断がつくには、本人と周りが困っている、
という何かしらの辛い状況がきっかけになることが多いようですが、
という何かしらの辛い状況がきっかけになることが多いようですが、
それには「働く」ということが分岐点になっているかもしれません。
働いたときに(働こうと思ったときに)、今までずっと思ってきた「どうしてこうなってしまうんだろう」が、
自分の強味(良さ)として生かせるかどうか、
またはそこが壁となってしまったときにどうしたらいいのか、ということ。
そう考えると、就職するときに始めから起こりうることを伝えたり、
自分も周りもすぐ相談できる環境がほしいならば、
診断をもらったほうが(もし、発達障害ならば)働きやすくなるということがあります。
自分も周りもすぐ相談できる環境がほしいならば、
診断をもらったほうが(もし、発達障害ならば)働きやすくなるということがあります。
自分で自分のことを伝え、誰かに助けを求めることができる方であれば、
診断名がついてもついてなくてもいいし、
働くうえでは、発達障害という診断名の使い方(どう生かしたいのか)になってくるのかなと感じます。
働くうえでは、発達障害という診断名の使い方(どう生かしたいのか)になってくるのかなと感じます。
誰にでもどこかしら該当する特長(特性)ではあるのに、その特長をマイナスと感じてしまうことには、他人と同じ動きや考えを求められることにあるかもしれません。
違っていていい、ということを許されると、
その方の可能性は限りなく広がっていきます。
パターンの話をしてしまうと、
●自分の思い通りにしたい
これが人間ならば必ずあると思われますが、そこに引っかからない人はいない。
これが、周りにいる人たちや家族、そして本人自身も、
思い通りにやってくれない(自分の望むようにならない)
言ってくれない(うまく言えない)
考えてくれない(この考えのどこが悪いの)という言い分があり、
言ってくれない(うまく言えない)
考えてくれない(この考えのどこが悪いの)という言い分があり、
腹が立ち、悲しくなり、辛くなってしまう。
文化の全く違う外国人の方が、思った通りに何かしなかったとしても、
ああ、違うんだな・・・で済む。
そこには、新鮮、斬新、発見、等々
新しい世界を知ったような価値観の広がりや、楽しさ、
また人に対する思いやりや愛おしさも湧き起るかもしれません。
また人に対する思いやりや愛おしさも湧き起るかもしれません。
そういうことにとても似ていると思う。
●自分の思い通りにしたい、というパターンはあってもいいものですから、
そこを持ちながら(ケアしながら)発達障害の方からいろいろ教わっていけるといいなあと思います。
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