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8月, 2021の投稿を表示しています

それぞれの道を行く

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共に 『魂の道場』 でカウンセリングを学ぶ仲間、 藤岡好恵さんのホームページをご紹介します。 ~自分として生きるためのカウンセリング~ 素のままの自分 書道家でもある好恵さんの日記からは、凛とした暮らしの息遣いが感じられます。 実は以前、わたしの日記に好恵さんのご家族のお話、 写真家の唐武さん のことを書かせていただいたことがあるのですが、 好恵さん自身も芸術的センスが素晴らしく審美眼がある方なのです。 日記を読まれた方はすでに、そのあたりを感じ取った方もいらっしゃるかと思います。 みんなから『主婦の鏡』と言われる好恵さんの日常から(ご本人にとっては、普通みたい)、 何かを真似したいなと思いながら、ブログの更新を楽しみにしております。 岩手クラスの勉強会が、実践の場としてなかなか活用できていなかったとき(はじめ、自分はそうだった)、 同じ学びをしているのに、なぜ素の自分になれないのか、 なぜわからないと言えないのか、 みんなより劣っている、遅れていると落ち込んでしまう、などなど 当時、仲間と会うたびに感じるちょっと言いにくいことを、 好恵さんの方から話してくれたことがありました。 もしも自分だけがこんな気持ちでいたとしたら・・・ みんなでつくりあげる勉強会なのに、そこでの違和感を口にするというのは勇気がいること。 でも、そこに一筋の光を注いでくれたのは、 自分に正直に生きたいという思いが何よりも優先されていたからなんだと思いました。 ときにパターン全開で話もしますし、また、共に学び合う仲間として「私」を意識しての話もします。 どっちで話しても、受容してもらえるという関係性はとても貴重で、本当に本当にありがたいなあと思う。 何かを目指すときに、仲間の存在はとても大きいですが、 同時に、仲間がいるからこそ孤独を感じることもあります。 そういう感情の動きを、そのままに話せる場として活用するのかしないのかは自分次第なのでしょうね。 同じ方向を向き、同じ道を目指しているかのようではありますが、 みんな自分にしかない、自分にだけ見えている、ただ一つの道を歩いている。 お互いにそれぞれの道を進む姿を見せ合えるというのは、 「そこから学べ」ということなんだと思っています。

優しくなれない

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母に対して優しくできなかった自分に、とても悲しくなりました。 母は何一つわたしを困らせようとしているつもりもないし、無理なことを言っているわけでもないのに、 仕方ないなあ~では終わらず、しつこいくらい責めてしまいました。 これまで何度もパターンに語り、白を選んでいても、 また振り出しに戻ったかのように、腹を立てている自分(パターン)は健在なのです。 母にしっかりして欲しい ちゃんと話が通じて欲しい そんなにすぐに忘れないで欲しい 自分を困らせないで欲しい・・・ そうじゃないと、また自分はイライラして、言いたくもないことを言ってしまわなければならなくなる。 そうなんです・・・母がちゃんとしてくれないと、 母のせいで自分は優しくなれなくなっている、意地悪な人間になってしまう・・・ そう思っているのです、パターンは。 ちゃんとしてくれたら、母は、わたしから怒られないで済むのに。 ちゃんとしてくれたら、母も、わたしから優しくしてもらえるのに。 そして、母が、ちゃんとしてくれたら、自分は安心できるのに、って思っているのです。 自分の心の状態の責任を、すべて相手へ押し付けている。 パターンは、母とちゃんとした会話ができないことをとても寂しがっています。 寂しくて、寂しくて、 どこにもぶつけられない苦しさを、母へぶつけてしまうのだ。 でも、もう一人ではない。 「私」にぶつけていい。 「私」がついているし、 「私」が母へずっと甘えて生きていきたいことも知っている。 責めてしまう、意地悪なことを言ってしまうあなたのことを、充分に理解しているのです。 だから、何も変わらないくていい、そのままで大丈夫。 「私」が全部あなたを受け止め、あなたの話を聞き、あなたのことをこれからもずっと守っていきます。 安心してあなたは(パターンは)そこにいていい。 意地悪な人間になってしまった・・・と嘆いているパターンも、 「私」から何度でも語りかけをしてもらい、 まるでお母さんの腕の中で抱かれる赤ちゃんのように、 すやすやと安心して眠りにつくのだと思います。 今度は、母にあたらずに、「私」に話を聞いてもらおう。 もう一度、白を選んで、やっていこう。

営業マン

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平日のお休みの日。 いろんな人がピンポンを鳴らしてきます(しかも、昼寝の最中に・・・)。 そして本当に久々の『ぐいぐい来る人』とも出会いました。 営業マンの方だったのですが、 明るくて声が大きくて、でも言葉は丁寧で、腰が低いような、でも控え目とはまたちょっと違うような。 はじめは必要最低限のことだけ答えていたのですが、相手のペースに次第にのってしまって、 結構時間が経ってしまいました(何の契約も買い物もしてはいませんが~)。 ぐいぐいというのは、いい意味でも悪い意味でもどっちでもあると思いますが、 今日の方は、なかなか関心する部分があったので、いい意味です。 積極的なイメージが、ぐいぐいにはあるかもしれませんが、 その逆で、表面的なぐいぐいではないからこそ、話をしたくなってしまう、 そういう心へのぐいぐいです。 この調子で来られたら、まずかなりの確率でこの方の話を聞いてしまうだろうなあと思いました。 それは、褒められたり乗せられたりではないし、もちろん話が上手ということでもない。 うーん、何なんでしょう・・・ 一生懸命こちらの様子を聞きながら、たぶん何を求めているのかを考えてくれているのが、伝わってきたからかもしれません。 何かこちらが困っているようなこと、求めているところを探して、そこに応えようとして話しをつなげてくる感じです。 営業で来られること自体、向こうの都合なので、こちらは無駄な時間を取られるということになりますが、 もしかしたら、この方も「営業されるのが嫌」または「営業マンのここが嫌」という経験を充分にしているのではないかと思いました。 そこへの申し訳なさのようなものも感じられて、それが安心して話せることにつながっているのかもしれません。 相手の方への観察と同時に、自分の観察もちょっとできました。 営業マンを警戒する自分。 理由の一つに「断れない」というのがあるのだなと思いました。 第一印象で嫌い(または興味がない)と思ったのなら、もちろん断れるのですが、 何か押し付けられるでもなく、こちらの都合が悪くなるような状況でもないと、 気付いたらだんだん話が長くなって、その人の良いところも悪いところも見えるようになって、 さらに自分もいろんな話をして、ある程度「気が合う人」という認識が出てくると(仲が良くなるという状況)、 断りたいけど断れないということが起き

できているつもり

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 カウンセリングの練習ということで、 基本ワークを全部通してやってみようということになり・・・ なんとまあ、自分でもびっくりするくらい頭が真っ白になり、すご~~~く焦りました。 クライアントさんへ説明する部分、伝え方、パターンと「私」の違いを意識的に誘導していくところなど、 細かいところ、ぽつぽつと抜け落ち、省略されていたことが判明したのです。 全然なっていない(話せていない)・・・と猛烈に反省しました。 自分を知るためにいろいろなワークがあるのですが、 どれもこれも、これでは、クライアントさんにきちんと話せていないと思いました。 クライアントさんというのは、他人だけではなく、自分自身ということでもあります。 自分で自分のことをカウンセリングできるようになる、そういうワークをしているため、 本当の「私」が自分へ(パターンへ)直接語りかけ、 本当はどうなっていきたいのか、 というところを導いていけるまでが、魂の成長をめざすためのカウンセリング。 まずは自分に対して丁寧にそしてシンプルに、きちんと言葉を使うことが大切なんだと思いました。 普段、自分にしていることを他人にもしていると思う。 また自分にできていないことは、他人にもできないし・・・ 基本の『き』を今日の勉強会で振り返ることができて、本当に良かったと思いました。 自分にすることって、何においても雑に扱いがち。 家族にはご飯を作るけど、自分だけならお茶漬けでいいとか、 そういうのとは違って、 他人の話は一生懸命聞こうとするのに、自分の心の声は聞かずにスルーしてしまう、 というたぐいのものは、 これは自分を大事にしていないのと同じ。 今日は、雑になっていたワークを再点検するよい一日となりました。 できているつもり・・・ これほど怖いものはない。 みなさん、いつもありがとうございます!

支援者

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この仕事に就く前、 福祉の仕事(障害がある人に関わること)をする人をみて、 こんな大変そうな仕事をどうして選ぶのだろう・・・ と思ったりしていました。 それがいざ、自分が転職したときは、 そういう疑問があったことなどすっかり忘れ、 人と深く関われる仕事をしたい、という気持ちで探していったら、 それがたまたま障害がある人とだったという感じなのです。 おそらく他の人たちも、 人が好きで、いろんな人と関わりたいという気持ちをもって働いているのだろうなあ、 と思っていました(そこで共感しあえる方はたくさんいるので)。 でも、働いて間もなく、 支援者たちに対してときおり感じる、『違和感』といったらよいか、 支援する側とされる側にある見えない『壁』みたいなものも感じるようになりました。 たぶん、支援する側が作りだした壁といったらいいかもしれません。 「この仕事を選ぶ人って、どういう人なんだろう?」 引っかかっていた。 ある利用者さんの担当となり、担当を持つことにまだ慣れていなかった頃、 普段あまり人見知りをしない自分がとても緊張をしていました。 その方は資格を持って働いていた頭のよい人で、 病気をしてからもその部分は卓越しているように見えました。 何か一つ話をすると、明瞭かつ理性的な言い方でたびたび突っ込まれ、 わたしは言葉に詰まるということが何度となくありました。 そのうち、こちらが何を考えているのかまでも分析されているかのようで、 心を見透かされているような感じがして、次第に怖くなっていったのです。 日に日に関わることがつらくなり、 そのとき自分がとった行動は、その方を『避ける』という態度でした。 本来はもっと心の内を聞いてあげたり、困っているところを一緒に考え、悩み、 側にいるべきだったと思うのですが、 そのときの自分は、その方と関わるほどに自分のダメさ加減をすりこまれるようで、 こんな支援者なんている?と思うほど、 自分がみじめで、情けなくて、そしてとにかくその方が怖かった。 その後、大部経ってから、 「他の人には親身になっているのに、自分にはしてくれなかった」 とその方が言っていたと聞かされました。 ・・・親身になっていない・・・ 全然頼りにならない人だと思われていただろうなって、思ってはいたけれど、 その言葉をかみしめていくうちに、 自分は、何でこの仕事を選んだんだ

起きていることを変える

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先入観がなく、ただその経験をしてみる、ということがあると、 はじめからそうなっていると決まっていたかのように、 自然に物事が進んでいくことがあります。 行き詰った感じがなく、焦るということもなく、不安もなく、 自分がだたそこに身を任せていればいい、という感じに進んでいけるのです。 良くも悪くも先入観を持ってしまうのは、 誰かが言った話、事前の情報、かつてのそれへの印象、 そして何よりも、自分自身の今の状態に大きく影響しているように思います。 過去のデータよりも、今の自分の状態がどうか? そこで経験する内容は変わらずとも、自分が得たものの中身が大きく変わってきます。 かつての自分は、 自分自身が今どんな感情を持っているか(どう思った?) などと立ち止まって考えたことがなく、 どんな気持ちになっていたとしても、目の前に起こることと何の関係があるのか? 起こることは、もうすでに起こるべきこととしてそうなっているだけだ、と思っていました。 でも、自分がどういう気持ちでそこを体験するかによって、 その現実が変わる、変えられるということを何度も経験していくうちに、 どんなことを今からしようとしているかに関係なく、 自分自身の状態さえフラットになっていれば、大体のことは受け入れられるのかもしれない・・・ と思うようになりました。 これは、捉え方なのだと思います。 例えば、自分のすぐそばで誰かがイライラしはじめた、というときに、 「自分が原因で怒らせてしまったかも」と思うのか、 「何かあったのね」って、 その人に起きていることとして、眺められるのか。 そのことが起こる前から不安がある状態(不安をいつでも察知できる準備が整っている)なのか、 それとも、静けさがあって、軽さがあって、すがすがしさがあって、ほっとする感じがあって、 そういう安心した状態なのか、 いう心の状態の違いが、 起きている物事さえも変えてしまったかのように、捉え方で変わるのです。 ただ、ときとして、 先入観も役立つことがあります。 それは、誰かが言った話や情報をそのまま優劣をつけずに、単語として眺めるように受け取ることです。 単語を並べていくと、 そこにメッセージ的なもの(本来自分が進んでいこうとしている道につながるもの)が浮かび上がり、 そこに導かれるように進んでいくことがあるように思います。 導かれるというのは

「私」を登場させる

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人から相談されるというとき、 はじめに起こる感情として、小さなどきどき感が毎回あるように思います。 心臓がばくばくではない、ちょっとどきどきする感じというのは何なのでしょう。 自分を頼ってくれたことに対してのうれしさがまずあるかもしれません。 それはパターンが、自分は相手の方から頼られていると思ううれしさ。 物事を理解している人間だと思われているとか、知識があるからとか、 人として何か力を持っているのではないかと、 そういう良い評価があるからだとパターンは思うからなのかもしれません(パターンにとっての良い評価)。 もう一つは、もっと純粋なまっさらな感情。 何か役に立てるといいなあ、相手の方の不安がやわらぐといいなあ、 といった、素直に相手の方の気持ちが少しでも軽くなって希望が持てるようになってほしい、 というやわらかな楽しさをもつ感情といったらいいかもしれません。 また、不安が走っての、どきどきもあります。 もしかしたら、自分に相談したことで相手を混乱させたり、落ち込ませたり、何の解決にもならなかったらどうしよう・・・ という小さな恐怖です。 この相談をきっかけに、自分が役に立たないということになったら、自分の価値は下がるんだろうな、 という自分の真価が問われるような緊張感です。 気づくか気づかないかの小さな感情の波を分析すると、このような感じになるのだと思います。 それで・・・ 普段はこのような小さな感情の波を、無視していても、 また感じる間もなく時間が過ぎていってしまっても、 何の問題もないかのようにしていることが圧倒的に多いのではないかと思います。 いちいち、こんな小さな心の動きを気にしていたら、生きていけないというくらい、 神経質にならなくてもいいんじゃない?って誰かに言われて、それもそうだな、 で、なかったことにしてしまうのです。 でも、この心の動きを感じているのは自分なので、人から何と言われようが、どう思われようが、 やはり『自分の内側で起きているもの』として見たいと思うのです。 だって、感じてしまったのだから・・・。 このどきどき感が何のパターンであるのか? そのパターンのまま話を聞かないようにすることに注意を向けること、 ここが必要なんだと思いました。 はじめに湧き起こる感情というのは、一番わかりやすい(気をつけるポイント)一種のサインです。 道を外

見直してみよう

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お盆ということもあって、 この数日、はっと頭をよぎったものはご先祖様から言われていることではないか、 と勝手に思っては、気になっていることがありました。 自分では忘れてしまっていることだったり、 あえて考えないようにしていることだったりが、それなんです。 気になるというのは、意識下ではちゃんと「私」は知っていることなのかもしれません。 その言われているような気がしたことの一つに、 「早くやりなさい・・・」 というお告げがあります。 自分が思っているスピード(時間の感覚)ではなくて、 意識して早くやりなさいよ、今のままではダメですよ、ということなんだと思います。 自分は、そのうちやろうと焦らず先延ばしするタイプなのか、 後先考えずにすぐにやってしまわないと気が済まない衝動的なタイプなのか? たぶんどちらかといえば後者だと思うのです。 これ!と思うと待てないし、よく考えてから行動するということが苦手である。 でも、この衝動性は、とても自分に都合のよいものだけをそうしてきたんだと思います。 やらないと落ち着かない、不安、心配というもの。 または、早く楽しいことをしたい、いい気分になりたい、自分を守りたい、安心したいというもの。 やらなくてもいいもの、というのもあって(そう言われているような、これも勝手に感じたことなのだが)、 それらは、その通りやらずにいるということをしています。 問題は、さっさと早くやる(変える?行動に移す)べきこと。 今思いつくことをあげてみましたが・・・ ・8時間以上寝る(疲れたままになっている) ・お腹いっぱい食べることをやめる(体が重くなってきた) ・支払いに行く(期限が過ぎている) ・実家の掃除をする(ほこりがすごいと思ってから大部経つ) ・父親に会いにいく(コロナで会えないかもしれないが行ってみる) ・訪問看護の相談をする(なんと言えばいいか考え中のまま) ・部屋を使えるようにする(エアコン修理が止まっている) ・読みたいと思った本を読む(心にゆとりがない) こうしてあげてみると、いかにも忙しそうな自分と、 忙しいがゆえに体のメンテナンスができていない自分がいるようにも見えます。 そして、忙しいというのは頭の中のことです。 なぜ、これらのことを休みになってもやらないかというと、 お盆だからと親族に動向を合わせることで頭がいっぱいだったり、 テ

心が喜ぶもの

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わたしのはまっているもの を先日ご紹介しましたが、 今日は気がついたら生活の中にとけこんでいたといったらいいか、 そうなるほどに大好きなもの、リネン(麻)のお話になります。 あの、しゃきっとしたハリのある感触や、使っていくうちにくたっと、しわしわっと柔らかくなっていく変化。 でもまた洗うと、しゃきっと元に戻るところは(まるで、何事もなかったように平然を装う感じ)、 とても愛着を感じてしまいます。 リネンの服をはじめて着たときは、 あっという間にしわがついてしまって、なんとも残念な生地だなあと思いました。 夕方には一面に広がってしまうしわしわ感。 でも着ているうちに、 なんだかそれはそれで味が出ている感、しわ一つない洋服よりも魅力的に感じる感、 はたまた今日一日くたくたになるまで頑張った自分と重なる感・・・ というように、布と自分が一体となっているような不思議な感覚にすっかり魅了されてしまいました。 植物から繊維を取り出し、手間ひまかけて糸にし織りあげられた生地は、 麻独特の風合いと感触、静電気もおきず、肌へのストレスもなく、軽くてとても楽なのです。 光沢があってちょっとフォーマルな感じのものや、シルクのようなやさしい肌障りのものもあります。 服と体のあいだに空気が入り、体型をひろわず、 年齢を重ねても安心して着られることも良いなあと思います(ここポイント高い)。 自分にしかない、自分が好きと思える、魂が喜んでいるようなこういう感じって、 はたから見てちょっと変わっているようにも見えるかもしれません。 自分自身もこれじゃなきゃいやだという正直さが、よくないこだわりとか、 一種の偏りではないのかと、戸惑うこともありました。 それが、なんと先日見たTVで、 好みが偏ろうとなんだろうと『自分の好き』を信じて、生活にも仕事としても突き詰めている方がいて、 ああ、これでいいんだ!と勇気がわきました。 空間コーディネーターの石村由紀子さんという方です。 奈良で約40年「くるみの木」というカフェを営み、 暮らし(衣食住)の心地良い空間を提案し続けてきた方です。 石村さんの布使いはとても見事で、 そこには小さいころ祖母から教わったものが大きく影響しているとのことでした。 ーーーなんでもきれいなものを見たら目が喜び、目が喜んだら心も喜ぶーーー どうしたら自分が、そこにいるみんなが喜ぶよ

失礼かどうか

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失礼なことを言ってしまわないだろうか? そう思うと不安になっていくのがわかります。 自分が嫌われてしまったり、失礼な人だという印象を相手に持たれてしまったら、 やはりその後のしたいと思っていたことがスムーズにいかないのではないだろうか。 それによって自分だけに跳ね返ってくるならまだしも、 誰かに迷惑をかけてしまうようなことになったら、と思うと、 やはり、自分と関わる人のために失礼なことがないようにしなきゃ、と思うのです。 昔から、空気を読むとか、これは相手に言ってはいけない言葉なんだろうなとか、 そういうことを察知するということが苦手でした。 指摘をされてはじめて、そうなんだと気づく・・・ これって、そういう風に受け取られるんだ・・・ そうやって、一つ一つ、 空気を読むとか、マナーだとか常識だとか、暗黙のルールとか、失礼になっていないかどうかとか、 というたぐいのことを頑張って覚えていきました(これも、単なるその人のパターンなのだが)。 それでもいまだに、 どっちとも言い難い、中間的な感じのものが、自分の中には多いように感じるのです。 白黒つけられないようなものがたくさんある。 それゆえに、白黒つけたくなってしまうという矛盾したことをやっているのです。 どっちかはっきりさせなければならない。 また、そうした方が分かりやすくて、らくに違いないと。 これは失礼なことで、これは失礼ではないこと、 というように分かる人になっていきたい、と思っていたように思います。 でも、結局そんなはっきりとわかる物差しのようなものはなくて・・・ 相手を責めたり、非難したり、というつもりが全くないのに、 そういう風に受け取られてしまうことがあり。 他の言い方が見つからないので、今思い浮かぶ言葉を使って言ったら失礼な感じになってしまった、 というようなことがあり。 そうやってたくさんの失態?を積み重ね、もうここから抜け出したいと思ったけれど・・・ これは、どうやったら白か黒かはっきりわかるようになるのか?ということが焦点ではなく、 どうして、そこがわかる人になりたいと思うのか? というところなんだなあと思います。 失礼なことをしないとか、誰かに迷惑をかけないとか、 そういうことを考えるって、すごくまともで常識的で、 人間関係を大切にしているように見えるけれど(それも、確かにあるが)、 それがパ

はまっているもの

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ここ最近はまっているものの中に、南部鉄器があります。 岩手にはたくさん鋳物工場がありますので、鉄瓶を持っているお家は結構あるかもしれません。 煎茶を飲むときはもちろんのこと、ただの白湯が飲みたいなあと思うときも、 鉄瓶でお湯を沸かして飲んでいます。 普通にやかんで沸かすよりも、電気ポットで沸かすよりも、お湯がちょっと柔らかくなる感じがします。 コーヒーなど、南部鉄器のお湯で淹れているという喫茶店があって、 そこのコーヒーが本当にまろやかで飲みやすく美味しかったのです。 それからというもの、置物にしていた小さな鉄瓶を本来の使い方にと活躍するようになりました。 そしてもう一つ、よく活躍をしている南部鉄器に鉄皿があります。 こちらは、ガスレンジに付いているグリル(魚焼き)でも使える、超お気に入りのものです。 はじめは鮭を焼いたときに、下がくっついてしまうのが嫌で、きれいに焼くにはどうしたらいいのだろうと、 油を塗ってみたり、ホイルをしいてみたり、いろいろ工夫はしていたのですがどれも何かしっくりせず・・・ そこで、目にとまったのが、グリルで焼いたものをそのまま食卓に出せる鉄皿でした。 こんな便利で素敵なものがあるとは・・・感動でした。 お魚でなくても、肉でも何でものせて焼くことができます。 夏野菜も焼くだけですごく甘みが出て美味しくなります。 目玉焼きはさすがに鉄でわざわざ焼かなくても~、って思うけど、 楽しくて焼いてしまいます(カリっとした部分がうまいよ~)。 フライパンで焼くと何でも水分が出てしまいがちですが、鉄だとじっくりと火が通ってうま味が閉じ込められるようです。 塩をぱらっと振っただけで、あとは火にかけ放っておけば勝手に料理をしてくれる、という感じ。 焦げ目の香ばしさが大好きなわたしにはもう~~最高です。 この鉄皿の大き目サイズのものも、いつか購入したい。 あの器でステーキを焼いて食べたいなあと。 じゅうじゅう音が出ているままアツアツを食べたら、うーん、美味しそう・・・ ワサビ醤油か、粗塩をつけて食べたいですね。 食事は、年齢と共にできるだけ質素にしていきたいと思っていますが、 見た目の色どりや、どの器で食べるか、 食べるときに何かわくわくする感じがあることを、自分は大切にしたいんだなあと思いました。 ちゃんとした感があって食べるのも、非日常的で好きですし、 お店

ずれた会話

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たとえ話をして、理解が深まるということがあります。 はじめに聞いた話では、ぴんと来なかったことも、 自分の中で咀嚼し、しっくりとくるもので表現できれば、 なるほどそういうことか!と自分自身がしっかりイメージでき、腑に落ちた~となります。 でも、そのたとえ話が、何かちょっとずれている・・・ということもあります。 自分の話を相手の方がたとえ話でいい替えたときに、 ちゃんと内容が通じていたと思っていたけど、 理解と共感があったと思っていたけれど、違っていたんだ、ということがわかる。 こちらの伝えたいこと、真意は通じていないんだなっていうこともあります。 「えーと、そうじゃなくって~」 そういうときは、思わず訂正スイッチが入ってしまいます。 そしてご丁寧に説明をし直し、分かってもらうまでがんばってしまうのです。 こういうことって、これまで何度かありました。 その度に、相手のたとえ話を訂正させてもらい、あらためて理解してもらったということもありましたし、 誤解がすっかり解けて、そういうことだったのね!と、 霧が晴れていくようにすっきりとした状態にお互いがなることもあります。 でも、こうならないときもあるのです。 相手の方がわたしのその訂正に、なにか腑に落ちないような、 余計に分からなくなってしまったような、 ぽかーんと振り出しに戻ったような(何も聞いていなかったかのように)、 そういうこともあります。 こうなると、心が動揺してくるのです・・・ わかってもらうということが、こんなに気持ちの悪いものか?と思うほど、 それがパターンがやっていることだということに、やっと気がつくのです。 他人の解釈と自分の解釈が一致していないことで、何か問題でもあるだろうか? たとえ、ずれた会話であっても、 相手の方のほっとしたような、安心したような感じがそこにあったらどうでしょう。 それ以上に何か自分が言うこと(訂正すること)って必要だろうか。 このかみ合ってない会話が、とても平和だ、ということもある。 「そういうことか~」 とその方の中で決着がついているのに、なぜそこをわざわざ、 「違うんだってば~」と否定する必要があるだろうか。 こちらの意図するまま受け取ってもらえたら、それはそれでいいのだけれど、 少し意味合いは違っていても、そのことで誰かに迷惑がかかるということでもなかったので、 その方の

感情を出さない人

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いつも感情を出さず、淡々とした口調で事務的に話す人。 感情を出さないというより、 もしかして機嫌が悪いのかなと思うくらいの無表情さ。 あるとき、その方と接したときの自分の側の感情が変化していることに気がつきました。 「あの人、何を考えているのかわからない人だよね」 と言われてみて、 ああ、確かに、初めて会った人はみなそう思うだろうなあと思った(自分もかつてそう思ったことを思い出す)。 顔にも口調にも態度にもどこにも、今何を感じているのか?ということが見えないので、 感情が読み取れないって、こんなにも相手を理解することが難しくなるんだと思いました。 何を考えているのかわからない、ということは、 考えていることがわかりたい自分がいます。 だから自分の側に、すっきりしないものがあって、不安な気持ちになってしまい、 わかりやすいことが良いこと(正直だとか表裏がないのが良いこと)だと思ってしまいます。 考えていることがわかるというのは、感情を隠されていないということなんだと捉え、 相手から信頼を得られているように感じてしまうものがあったと思います。 ですから、わかりにくいというのは、その逆ということになり・・・ その人がどうのこうのというよりも、 そうされている自分は(考えていることがわからないように隠されている、と思っている)、 どこか信頼されていないような、受け入れてもらっていない感があったのです。 話す内容や、している行動だけを見ているのではなく、 表れる喜怒哀楽を見てはじめて、自分がどう思われているからそうなってしまうのか、 余計に『感情を出さない人』ではなく、 『感情を(自分に)出してくれない人』になっていました。 こうなってくると、いかに自分はパターンで人を見ているか、ということがよくわかります。 そんな一方的な捉え方から、 目に見える部分だけで人を判断し、理解しているわけではない、 ということも感じられるようになってきました。 もっと全体的なもの、総合的なものからその人が見えてくるというもの。 部分部分ではなくて、その人の持つ雰囲気、その場の空気感も含めてです。 パターンでみることをやめると、 もっと感覚的な、ぱっとひらめくような直感的な感じ方が、 たとえ感情を表に出さない人であっても、何かわかる部分もあるように思いました。 そんなことは言ってないし、そんな態度

また逢えるときまで

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母の姉である叔母のことを、わたしは小さい頃から大好きでした。 どうしてこんなに自分のことをかわいがってくれるんだろう? と思うほど、いつも気にかけてくれ、楽しませてくれ、時に叱ってもくれ、 また大いに自分のことを褒めてくれる人でした。 会いにいくたびに、「まーちゃん、よく来たね」 と満面の笑みで喜んでくれるのですが、その喜び方がすごくて、 もしかして自分はおばちゃんの子どもなんだろうか? と思ったりもしたほど・・・物心ついた頃からずっと変わらず可愛がってくれたのでした。 叔母は田舎町で美容師をしていました。 お盆に泊まりにいくと、よく白無垢の花嫁さんをつくっていました。 今思うと、なぜお盆に結婚式?と思うのですが、 田舎では、成人式もお盆に行われるので、 おそらく親戚が集まりやすいこの時期に、お祝い事をする習慣があったのかもしれません。 わたしは叔母がつくる花嫁さんのお化粧を見るのがとても好きでした。 特に、襟足を白くきれいに塗るところと、真っ赤な紅(べに)をちょっと小さめにふっくらと塗るところ。 慣れた手つきで化粧用の刷毛を動かし、時々冗談を言ってはリラックスさせて、 その人に合った色を使って美しく仕上げていくのです。 今でもはっきりと覚えていますが、それはそれは『魔法』でした。 思えば夏休みといえば、毎年叔母の家で過ごしてきました。 母親も一番年の近い叔母とはとても仲良しで、 もしかするとわたし以上に母も、可愛がってもらっていたのかもしれません。 わたしは、美容室というお店にいて遊ぶことが大好きでした。 お客さんが途切れたときは、すかさずお店の大きな鏡の前に座り、 椅子をくるくると回しながら遊んでいました。 鏡の中に手鏡を合わせると、永遠に続いて見える自分がそこに映し出されます。 鏡に背を向けて、手鏡を使ってはじめて自分の後ろ姿を見たときは、 自分ってこんな頭の形をしているのね~と、横顔を見たり、斜め角度から見たり、 変なクセのある襟足や、何度とかしてもしても分かれてしまうつむじとか、 鏡に映っている自分にとても興味津々でした。 でも、何より楽しかったのは、 カーラ―で髪の毛を巻いて、通称オカマに入り(昭和の美容室にはかかせないスタンドドライヤー)、 くりんくりんの髪の毛にセットしてもらうこと。 こんな楽しい経験は、普通はなかなかできないもの。 子どもながらに、