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3月, 2022の投稿を表示しています

ハードルを下げる

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今日の岩手クラスの勉強会は、 久しぶりにZOOMで友と会うことができました。 電話で声は聞いていたけれど、 やはり顔を見て、思ったよりも元気そうだったことが本当にうれしく思いました。 充分に休養してもらいたいと思うし、 その間というのは、いつもと全く違う感性を持っていると思うので、 そのとき感じたことを、次に会ったときに教えてもらいたいなあと思いました。 体が思うようにいかないとき、 その真っ只中にいる時は、他人のことがとてもうらやましく感じることがあります(自分がそう)。 普通に仕事に行っていることも、買い物に行けることも、近所を歩くことも、 顔を洗ってお化粧をして洋服に着替えて外に出るということ自体が、 特別なことだったんだと感じるからです。 つい最近まで自分だってそうやって暮らしていたのに、 それができなくなったつらさというのは、 終わりの見えないトンネルに入ったかのように、体以上に心がつらいものです。 ごく普通に暮らしている人を見て、すごいなあ、パワフルだなあとか、 幸せそうでいいなあとか感じると思うのですが、 今居る自分の場所というのは、そんなに遠く離れたところではない。 けれど、自分が普通の世界から、普通以下の世界へいってしまったかのように感じることがあります。 人をうらやましく思ったり人と比べてしまうときは、 他人へなるべくエネルギーを使わないようにすることも、 大事なことなのだと思いました。 自分の体へ目を向け、自分の心を自分が守る。 今、もしもこれをしたら『快』なのか?それとも『不快』なのか? たったこれだけの判断を頼りに、今日一日を過ごしていくのもいいのかなと思います。 他人よりも自分を何よりも優先するのです。 そうやって、 ちょっとずつ眠れる日が増え疲れが取れてきてはじめて、 外からのエネルギーを必要としたくなるのかもしれません。 やさしくやさしく、内へこもっていたかたまりの中に、そっと光を届けるかのように人から自然からエネルギーをもらうのです。 それまでは充分、内へこもっていて大丈夫。 健康で元気いっぱいで疲れ知らず、なんて日は、 もしかしたらそんなに多くはないかもしれません。 そこそこやれる、なんとかやれる・・・というくらいであればいい。 こんなふうに考えられるようになってきたということは、 心に少しゆとりが持てるようになり、たくましくもな

パターンの想像力

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ある人に対しての、とある黒パターン。 顔を見ただけでパターンが騒ぎだすのですが、 たまたま顔を会わせずに済んだという時、パターンはとてもほっとしたようでした。 ・・・が、しかしです・・・ 確かに安心しているのは黒パターン。 でも、その安心もつかの間、 その人がいないにもかかわらず、パターンは不満を言ってくるのです。 目の前にいなくても、さもいるかのように。 パターンに引っかかることをされていなくても、今、自分がされたかのように。 とてもリアルに自分の心はさわぐのです(どきどきしてくる)。 パターンには『現実』というものが見えていないのかもしれません。 起きていないことであっても、それが今起きているかのように感じることができます。 リアルに怒り、不平を言ったり、悲しんだり、悔しがったりしています。 ある意味、パターンの想像力のすごさといったらいいのか、 現実には起きていないのに、見えてしまう、感じてしまう。 一瞬にして、 過去に起きた心に引っかかりまくったことを思い出させる力が、黒パターンにはあるようです。 そうであるならば・・・ そんなまぼろしではなく、 現実を見る力を「私」が身につけていく必要があるかもしれません。 今起きていること、ありのままをみる力。 それが本当の「私」には備わっているはずですから(なんといっても神の子だから)、 その資質を意識的に使っていくことで、 まだまだ少しだけかもしれませんが、でも落ち着いて、 少し離れたところからパターンを観察できるようになっていくのだと思います。 そして、想像する力は白パターンにもあるはず。 選んだ白を、大きく静かに広がっていく白を選んだ「私」は、 白で行動していく自分をしっかりと想像しながら、 安心して白で行動していけばいいのだと思いました。 今はこの想像力を白パターンに使っていきたいです。

不安に慣れる

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先日、ある方の受診時、精神科のドクターが言っていた言葉に反応していた自分がいました。 それは、会社で嫌なことがあって気分が落ち込んでしまったその方へ、 「これからは、不安にも少しずつ慣れていこうね」 と言った言葉。 そのドクターはお人柄がそもそも優しく穏やかだということもあるのですが、 どんな状況にあっても(聞いているこちらが、それはあなたが悪いでしょって思う事態でも)、 その患者さんの気持ちをうんうんと静かに聴き、受けとめてくれます。 そして、そのあと、今のその方に合った温かな言葉をひと言かけてあげるのでした。 不安に慣れていく・・・ そう、生きていれば不安になることもあるのだから、 不安を感じるあなたでいいんだよ。 少しずつ不安と一緒にいられるように、慣れていこう。 大丈夫、慣れていけるものだよ。 今の自分の状態にしっくりくる解釈で受け取ればいいのだと思いました。 不安だなあ~と思うとき、 そうあってほしくない、という抵抗が起こります。 なぜ抵抗するのかといえば、 自分がその起こり得ることに対して、耐える力がないと信じているからかもしれません。 また、耐えることがとても苦痛でしかなくて、 そんな思いは自分の人生に必要ないと思っているからかもしれません。 必要ないと思っているのに、生まれる感情。 しかも、一日の中でも少しの不安も感じないなんていう日はないかもしれないのに、 避けたいと思っていたら、それは苦しいしつらい・・・。 不安を受け容れる、といえばハードルが一気に上がりますが、 慣れていく、しかも、少しずつでいいからね、練習していこうね、 というのはできそうな感じがあります。 他にも、 避けたい感情、嫌う感情がわいたら、それに抵抗せず、 何とかしようとせずに、ああ、自分は今こう思っているんだなあと、 そのままにしてみるのもいいかもしれません。 それを何度も繰り返し、時に、胸に手をあてて口に出してみる。 「今、自分は不安に思っているんだね」 そうやって、特別なことではなくて、深刻なことではなくて、 不安がそこにあっていい!と自分へ教えてあげよう。

春近し

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今朝は、まさかのドカ雪が降りました。 横なぐりの強い風に、水分たっぷりの重た~い雪。 寝ている間に銀世界が出来あがっておりました。 でも、お昼になって、積もった雪もあっという間にとけはじめています。 雪に一喜一憂している自分がいるけれど、 まさしく日々の生活でも同じことが起きていると思います。 この季節に降る雪は、すぐにとけるということも、 その後ぐちゃぐちゃになって歩きにくくなることも(運転も大変)、 一見晴れていても風は真冬並みということも経験済み。 それもこれも、春がもうすぐそこまで来ているからこそ!と知っているので、 口で言うほど大変だとは思ってないのです(ただ騒いでみたいだけか)。 それが、 何か不安や悩み、悲しみや怒りなど心に引きずるものがあると、 些細なことでも、気持ちが引っ張られてしまうことがあり、 雪だるま式に深刻なものを作りあげてしまうことがあります。 つらい時はこのままずーっと自分は(この状況は)、変わることがないのではないか、 自分はやっぱりダメな人間なんだというところまで信じてしまい、 動けなくなってしまうこともあるのです。 それほど、不安の種は、ある意味小さくても手ごわく思いのほか頑固で、 知らぬ間に心の中で育ち続けてしまうもののようです。 雪が必ずとけていくように、 変わっていかないことなど何一つないのに、 それは分かっているけれど、早く変わりたい、楽になりたいと思ってしまうのが人間なのでしょう。 変われない自分、同じままの自分。 そんな自分を心からゆるせるようになったとき、 いろんなことが変わりはじめていくのかもしれないですね。 最近は、元気になった友のことを、 春の陽気を感じながらふと思い出しては、 どれだけその友から多くのことを教えてもらっていたのか・・・ ありがたくしみじみ深く、本当に嬉しく思っている自分に気づきます。 また、このごろ元気がない友のことも。 今日の天気のように、春だと思えば雪が降り、またとけては必ず青空が広がることを、 一緒に感じられたいいなあと願います。 大丈夫、どうにかなっていくよ・・・という思いをいろんな空を見あげては送っています。 そして、自分自身へもしかり。 今までと何かが違っているような、今までのようにはいかないような何かを感じます。 季節の変わり目だからなのか? いろいろな感情がめまぐるしくあること

悲しいことを言わないで

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今日は久しぶりに母と夕飯を食べに行ってきました。 デイサービスもお休みになって一ヶ月。 なかなか外出をする機会もなくなり、人とも会わなくなっているためか少し元気がなく、 日々に張り合いがなくなっているようでした。 こちらとしては、さらに足腰が弱り、さらに認知症も進んでしまうのではないかという心配もあります。 夜出歩くのはどうかなと思いましたが、外食に誘ってみました。 久しぶりに夜の街を車で走っていると、 どこを走っているのか全然わからないようで、母は不安そうでもありました。 そういえば、父も全く同じ反応をしたっけな~と思い出します(「お前はわかるのか?」と何度も聞かれた)。 でも、今日入ったお店は素敵なお店だったとか、 食後のアイスクリームが美味しかったとか、 帰りに寄ったスーパーに見たこともないものがいっぱい売ってあってすごかったとか、 それなりに楽しかったようでした。 母はいつも「車っていいわね~」と、 わたしがいろいろな所へ連れていってくれるのが本当にうれしいと言ってくれます。 でも、嬉しいのは・・・全くもってこちらの方なのです。 どこへ行っても感動してくれる母。 本当に何でもない話を、しかも何回でも同じ話をしながら、 何回でも笑って明るく話し続ける母。 そんな母に自分は今もなお、大きな愛で包まれ、もらうものばかりだ。 母はこの数年で食も細くなり、小さい体はさらに小さくなり、 風に吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほど痩せて、足元もおぼつかない状態です。 母から唐突に、「あんた、体重何キロあるの?」と聞かれ・・・ 「わたしも若い時はそれくらいあったのにね~ ほんとすっかり痩せて、だんだん体重も減っていくのね。 あとはもうなくなって消えるだけだわ~」 ちょっと待ってよ、お母さん・・・ 悲しいこと言わないでほしい・・・と泣きたくなりました。 こうしてあと何年一緒に並んで歩けるのか、一緒に笑い合えるのかと思うと、 本当にこの時間がかけがいのないものなんだと感じます。 悲しいけれど、今はまだ生きているのですから、 会う度にたくさん「ありがとう」を言っていきたいと思いました。 今日も、いろんな経験をして一日を終えた。 それもこれも父と母がいてくれたおかげですし、 さらに祖父と祖母、さらにたくさんのご先祖様のおかげで今、感謝でいっぱいのわたしがいます。 芸能人のように

心に残ったもの

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岩手クラスのセミナーでは、今回も頭がぱんぱん・・・ とてもとても大事なことを教わった時間でした。 一夜明けて、心に刻まれた2つのこと(凝縮された2つ)。 『今の自分にとって、それはどうなのか?』ということと、 『鈍感になろう』です。 もうひとつ『自己開示』という大きなテーマも課せられましたが、そのお話は後日に~。 今の自分にとって、それはどうなのか? 今必要なもの?今の自分にとってどれくらい大事なこと? と問いかける。 ここを基準にすると、現在の自分がどんなふうに生きていたいのかがわかり、 シンプルでいいなあと思いました。 早速、今日、買うつもりだった洋服があり、当然のようにお店に向かう途中、 本当に本当に今の自分にとって、その服って必要なんだろうかとふと考えました。 小さなことではありますが・・・ 似たような服もあるし、まだ着られる服は他にもたくさんある。 それがあったら気持ちは確かにあがるけれど、 それを今買わないと、自分という人間が輝けないものなのだろうか。 結局今日は洋服屋さんに寄るのはやめました。 もしかしたら、来週になってあの服やっぱり着たいと思うかもしれませんが、 それより今日はスーパーに寄って、夫の何か好きそうなものでも買って帰ろうって。 そっちの方がいいと思った、それが、今の自分なんだとわかりました。 そしてもう一つは、鈍感力。 これこそ今の自分にとって必要な資質です。 最近敏感になりすぎていた自分がいたなあと、思うことがありました。 もうちょっと鈍感になってゆるくなって、 暖簾に腕押し的な自分になってみてもいいかもしれないと思っていたのです。 普段空気が読めている方ではないですが、 自分以外のことにもう少し盲目で鈍感で無頓着であったなら、 暖簾のようにゆらゆらとぶらさがっている自分だったら、と考えました。 例えば誰かに何かを言われても、 それ以上でもそれ以下でもなく、深く意味を考えず、すべて自分のことと受け取らなくてもいいのかもしれない。 それはある意味、パターンが引っかかりにくくなるということでもあるのかも。 すぐにそうなれるものではないかもしれませんが、 鈍感さを自分にゆるしてみる・・・ 「ゆるす」という言葉を使えば、少しできそうな気がします。 物事を深刻にしない。 鈍い自分でいいと言われたら、かなり今の自分は楽になりそうです。 先生から教わ

自分の代わりに

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周囲で起こるいろいろな問題、仕事の悩み、人間関係の悩み、家族の悩み、体調不良など、 自分の身代わりであるかのように思うことがあります。 自分自身のことではないのに、 自分の身に起きたこととして考えてみたくなるからです。 とはいっても、やはり自分のことではないので、 とても客観的に一歩引いてそれら起きていることを観察することができます。 感情としては冷静ですし、 少し痛みも感じたりもしますが(自分のパターンが共鳴したりもする)、 それでも一連の流れや、もしかしてこういうパターンがあるのかな、 ということが見えるような気がします。 自分だったらどうするのだろうか? ということなんですが・・・ 一番大きなところは、自分の感情に真っ先に目を向けるかどうか。 そこは変わらないように(横道にそれたとしても)、隠れている自分の中のパターンが何なのか。 自分を知る、今起きていることを知る手がかりになるから、 だから自分は何よりそこに注目します。 でも、多くの方が、そこではなく(それが悪いということではないですよ)、 起きていることを理屈で分析し(なんでこうなったんだろうと、原因を外に見出そうとする)、 人が対象であればその人が考えそうなことを考え、 事態を変えることへ知恵を振り絞り、 考えて考えて解決に向かおうとしているように見えます。 でも、最近は、 自分の気持ちが悩みの根源になっていると考える人が増えているようにも思います。 なぜ悩むのか、本当は自分の心は知っているんだけど、 そこを見たくないし、よくはっきりと感じ取れない・・・ 人が対象であれば、その人に何か自分がすっきりすること、自分を守る言葉、 正直な思いを伝えるということをやっている人もいます。 その伝える動機のところはいろいろだと思いますが・・ 本当に悩みが解決に向かう方法はいくらでもあるのだと思います。 でも、自分ならどこに向かっていきたいのか(これですべて終わるではないにせよ)、 そういうことを他人の悩みにふれながら考える機会を、 たくさんもらっているんだなあと思うことがあります。 自分だけの気持ちがおさまるところにおさまる。 これも大事なことだと思うけれど、 自分だけではなく、そこにかかわる人たちの心もおさまる、 できるだけよい気持ちに向かっていけるかどうか、 というところも同時に考えたくなっています。 それはど

これだけのために

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今日はコーヒーショップでランチをしました。 このお店はまだ3回目ですが、結構気に入っています。 オレンジ色の壁がなんだか明るい気持ちにさせてくれる店内。 窓の外の景色はさほどいいわけではないけれど(普通に道路)、 店内はこじんまりとしていて落ちつきます。 店内のどこかを見てぼーっとして過ごすことができる・・・ これってゆっくり過ごすには大事なポイントだと思います。 中には、どこか目のやり場がないような、 店内のどこを見ても落ちつかないような喫茶店もあります。 お店の人の波動なのか、テーブルの配置なのか、 窓の向きなのか、インテリアや色なのか・・・??? でもここは、スマホをいじらなくても、本を読んでいなくても、 窓ぎわの席ではなくても、気兼ねしないでぼーっと過ごせる。 そういう雰囲気がお店にあるように思います。 そしてやはり、コーヒーがとても美味しい(すっきりした味わい)。 わたくし、コーヒーが飲めるようになったのはここ数年のことで、 まったく通でもなんでもないのですが、 休日は特に、ここでコーヒーが飲みたいなあと思うことがあります。 でも、自宅からはちょっと遠いので、 もう少し暖かくなったら、バスに乗って(あえて車ではなく、バスで)、 この一杯を飲むためだけに来てみたいなあと思っています。 このためだけにわざわざ行く・・・ ということが、自分は結構好きかもしれません。 それだけのために行くなんて疲れるとか、時間がもったいないとか、 あっという間に終わってしまうことなのに・・・とは思わない。 そういうことに労力を惜しまないことが、 何か大事なことのようにも思っているのかもしれません。 行くまでの時間のわくわく感と、着いてからの楽しみと、 帰りもまたそこに行けたうれしさというか、 たくさんの発見と、景色と、新しい世界を見たような新鮮さもあれば、 懐かしい(ここに来ることになっていた自分を知っていたかのような)感覚を覚えるときもあります。 たった一つのなにか気になるもの、好きなもののために、わざわざ行こうとするとき、 行っても必ずしも目的が達成されるとは限らなかったりすることもあります。 その行ってみないとわからない、というところにもまたそそられてしまう性格のようです。 そういうことへの労力は惜しまない。 自分を豊かにしてくれるものがあることを、知っているような気がする