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6月, 2023の投稿を表示しています

失くしもの

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いつも行くスーパーのポイントカードを、失くしてしまいました。 最近はもっぱら、セルフレジを使っていたので、 もしかしたらお店に忘れてしまったのかなと思い、 いざ、サービスカウンターへ。 「あの~、忘れ物で届いていませんか~?」 ってこのせりふ、今年に入ってすでに3回目なのです。 また、あの人来たわ~ と思われているんだろうな。 なんといっても、この短い期間に3回目ですから。 私、バカなんです・・・と言っているようで恥ずかしいのだけれど、 家を探してなければ、ここにある可能性大なのです。 店員さんはすぐに、 少々お待ちくださいね、と言ってファイルを取り出し・・・ そこにはずらーっと並んだポイントカードが、 なんと2~30枚ほどあったと思います。 自分だけじゃなかったんだ!! カードを失くす人って、こんなにたくさんいたんですね。 連絡がつかない方もいるようで、 取りにこない方のカードはどんどんたまっていくそうです。 ちょっとびっくりしましたが、 自分のような抜けている人が、 世の中にこんなにいるんだとわかり、ややほっとしました。 結局、ポイントカードは見つからなかったのですが、 でもきっとどこからか、忘れた頃に出てきそうで、 まだ再発行せずねばろうと思います。 次は、自分の買い物したときの動きをよーく観察したいと思います。 どうやってカードをこうも失くすのか。 そこには、失くして当然の動きがあるのだと思う。 毎回、くせのように同じ行動をとっているのだと思います、ほんと懲りずに。 つい黒パターンでリアクションをしてしまうかのように、 無意識のしぐさがあるだと思います。 今度こそ学習したいと思います。

そんなあなたでこれからもいいですか?

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前回のつづき~ やりたくないと思う仕事をどうするか? こういうのに興味ないし、考えも浮かばないし、もうやる気が出ないんだよな~ と思ってはいるけれど、 お金のため、家族を養うため、生きるためにはしかたない。 って思いながら働いている人はたくさんいると思います。 でも、それだけではあまりに苦しいので、 そういうことは考えずに(感じないように)やっているとか、 仕事ってそういうものだ(自分がやりたいことだけできるわけではないし、むしろ逆) と思って、割り切ってやっていくこともできます。 でも、むりくりの割り切りは長続きしませんので、 やはりそこは、割り切ってやろうというのではない考え方もできます。 自分に与えられた役割をはたそう、 今日はこの人のために(この業務を成しえるために)やろう。 って、なにかしら意識的に自分への課題や目標を立て、 それをやると決めてやっていく。 こういう仕事の仕方をしている人もいると思います。 だけど・・・ これでもまだ、時折ため息がでてしまう日もあるのです(←自分のこと)。 今日は、こうしよう。 昨日はこうだったけど、今日はここを意識的にやっていこう。 そうやって毎日具体的にやってはいるけれど、 そもそも本来の「私」の軸ってどこにあるんだろう・・・ということ。 自分がやりたいと思うことだけやれるという仕事はない。 たしかにそう。 やりたいと思う仕事にだって、思い通りにいくことなどないのですから、 それは頭ではわかるし、ケアをしていけばいいとも思う。 では、 自分がやりたいと思う『こと(仕事内容)』は選べないけれど、 自分がやりたいと思う『自分のあり方』だったら?どうなんだ。 そこなら・・・ そうです、自分の好きなように、あり方ならば選べるのですね。 自分の軸は自分で立てられるのです。 どんな仕事であっても、選べるのは、自分のあり方だけ。 (だからその話はもう、何回も先生から教わってはいるんだが) 毎日宣言していた目標も、意識していた課題も、 すべてがそこに通じるためのものでした。 今、本当にそこをくどいくらい考えています。 相手も変えられない、仕事も変えられない、環境もなにもかも。 やらなければならないことが決まっている・・・となったら、 結局、そこしか自分が変えられるもの、変われるところはないのですね。 その言動は、本当に「私」がしたい言動

やりたいことではないことを、どうするか?

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自分の与えられた仕事について考えています。 細かい不満がたくさんあって、 本当に自分のやりたいことじゃないとやりたくない・・・と思う自分がいます。 じゃあ、本当に自分のやりたいことというのは? こういう自分でありたいから、こういう仕事がしたい。 と思っていたのですが・・・ 自分のあり方を叶えるために、 そういう自分になるために、 自分以外のところに、こうあってほしいという条件をつけていたように思いました。 好きなことだったら、確かに仕事は楽しいかもしれません。 アイディアも浮かぶでしょうし、 楽しいから自分の思うようなあり方でもいられるのかもしれない。 でも、興味関心とは、 外側のもの、物質的なもの、目に見えるものばかりではないようです。 物事そのものではなく、 そこへの自分の関わり方です(これがあり方というものか?)。 自分はそこにどのように関わろうとするのか。 自分という人間を使って何ができるのか。 そうすると、 仕事の対象となるものは、そんなに重要ではなくなってきます。 それよりも、自分の資質、少しだけ得意なこと、少しだけできること、 といったものに目が向きはじめます。 そして、それらを使いながら、 「私」がおもしろいと感じることをしてみる。 また、それらは、 簡単には手に入らなくてもいいと思っているところもあります、不思議と。 おもしろい・・・というのは、そういうことなんだと思います。 簡単じゃない。 すぐ達成できる、結果が出る、というものとは違う世界。 良かったのか悪かったのかもよくわからないという世界。 でも確かに、 自分を十分使ったという感触があり、 そこに、自分は向かっていったんだ! というこの感覚なのかもしれません。 自分のやりたいことじゃないから、やらないというのは、 一見、自分に正直に生きているようにも見えるかもしれません。 でも、やっていることが、 不満を言ってるだけだという現実ならば、 それは自分のあり方とは違うんですね。 どんな仕事でも、自分だけが感じるおもしろさは見つけられる。 そこに「私」を使って、行動していきたいです。

今ここにいること

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『心のこと』をどうして学ぼうと思ったのか。 3日坊主の私が唯一、 だれからなにも言われなくてもやっていること。 そこには、発見があって、感動があって、 また疑問があって、苦難があって、心が折れて・・・ でも、また起き上がってやってみる。 そういう終わりのないおもしろさが、私を引き寄せているのだと思います。 セミナーでは、先生から出されたプリントの中に、 10年ほど前に渡されていたものがありました。 自分はその当時、なんどもなんども読んでいました。 そしてその後も、度々読んでいたはずなのですが~ 今まったく、別の言葉としてひびいてくるものがあります。 (一部抜粋) ――自分の幸福は今ここにはなく、未来や別のどこかにあり、 それを達成するための衝動は絶え間ない活動を引き起こし、 心身は休まることはありません。 現実がどうあるかが問題なのではなく、 あなたの在り方があなたの肯定感を決定します。 自分が幸福で価値あるものであるために、 自分の外側を何ひとつ変える必要がないのです。―― プリントの中にあったその言葉は、 そのときと変わっていないのに、 全身に染みこむように入り込み、伝わり、 まったく違った捉え方がありました。 こういう人間関係ではなく、 こういう仕事ではなく、 こういう体や容姿ではなく、 こういう毎日ではなく・・・・と、 自分の今ここにあるものに対し、何かの条件をつけて、 気づくと、相手や結果に期待をし失望をしていたのだと思いました。 本当に、これでは心と身体は休まらないはず。 望む現実があろうとなかろうと、って、 そもそもそれはパターンが考えた望む現実です。 今ここにしかいない自分であるはずなのに、どこを見ていたのか・・・ 自分はこのままでやっていける。 充分、今ここにいる自分で。 最善なものに囲まれて。

骨身に染みた

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岩手開催の合同セミナーが無事終わりました。 同じ学びであっても、それぞれが今の自分に必要なエッセンスを、 しっかり受け取った2日間(3日間?)だったと感じました。 知りたい、学びたい、 そして、なんて自分はわかっていなかったんだ! ということに気づきたい・・・という気持ち。 一人一人のお話に、耳を傾け、 いつもより増して、話に集中し、 どう自分の中で吸収させればいいのか。 途中、先生の話を含め、 ん??どういうこと、それ?? っていう場面も多々ありました(一応うなずいて聴いてはいたが)。 それはきっと、こちらの準備ができ次第わかることかもしれません。 考えずに感じる。 そのぼんやりと感じた点と点とがつながっていくことを思うと、 どれだけ人間は可能性に満ちあふれているんだ!と思いました。 だから今はわからなくても、 自分の魂が望むままに、日々自分を見ていこうと思います。 自分と天がつながっているパイプ。 本当に自分以外の人を入れてはいけないと思いました。 いろいろなことがたくさん起きているかのように見えるけれど、 見るべきは自分だけです。 やるべきことをやらず、 または、言うべきことを言わず、行動に変えず、 そうやって思い通りにいかない不満をもっていても仕方ない。 まぼろし~・・・を追いかけてはいないか? ときどき、人差し指を振って、確かめようと思います。 今回、これが本当に骨身に染みたのでした。 骨身に染みた・・・ といえば、もう一つ。 どうしてこうも、皆さんやさしいのでしょう!!! カウンセラーというそのマインドだけではないです。 自分が言わないまでも、いろいろなことを察し、 本当に真摯に深く寄り添い、 話を聴いていただいたこと、とてもとても感謝の気持ちでいっぱいです。 先生、皆さま、ありがとうございました。 さあ、明日も、 肩の力をぬいて、 この道のおもしろさを探求していこうと思います。

全然わかっていない

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写真は、車の渋滞しか見えませんが、 実はそのはるか遠くに、チャグチャグ馬っこたちの行列があります。 なぜか昔から、チャグチャグ馬っこの日は晴れる、という迷信があり、 先週はずっと雨が続いたのに、この日は見事に晴れました。 今週はいよいよ岩手クラスの合同セミナー。 お天気が晴れてくれるといいのですが、 よく考えれば、学ぼうということにお天気は関係なかったですね。 雨が降りそうなお天気だと、 最近なんだか体調が思わしくなかったり、 頭が痛くなったり、 注意力が散漫になったり。 ベストな状態で学びたいというのは、これもパターンなんだろうなあ。 そして、今週はなんでかな? ぎりぎりまで仕事もプライベートも、 まさか、こんなにも多忙になるとは思ってもみませんでした。 理想は、ゆったりとした気持ちで、 落ち着いた毎日の中でセミナー当日を迎えたかった。 それで、思ったのは・・・ 理想とは、 やはりパターンの理想なんだなあということ。 変わるお天気も体調も仕事も出来事も、 自分で変えられない部分は受け入れ、 変えられる部分は冷静に変えていけばいい。 わかっているのに、そうなっていないんですよね。 いいえ、全然わかっていないのだと思います。 結局、どうであっても、 自分のあり方をいつも問われるのだなあと思いました。 残り数日、 落ち着いて、自分を見る。 早く寝る!

うれしい気持ちの落とし穴

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他人から感謝されて、すごくうれしかった!というとき、 それを望んでいた自分がいたことに気づきます。 うまくいかなかったらどうしよう、っていう不安が元にあって、 その不安が、『感謝される』ということで解消されて、 相手の方のことより、自分自身にほっとしたのかもしれません。 そしてもう一つ、 自分が普段からいいと思っていること(自分の価値観や正義感)を、 『感謝される』という行為によって、証明されたんだと、 自分がしたことは正しかったんだと思うことで、 そこに存在価値を感じて、喜んでいるのかもしれません。 だとしたら、その喜びは、 本当に「私」が望んでいることなんだろうか・・・ 素直にうれしい。 と静かに思うときと、 だよね~、本当にそうだよね~、ってある種の胸の高鳴りが生じているときとは、 まったく別の性質のうれしさのような気がします。 後者は、自分を正統化させたいときに現れるうれしさ。 本当の「私」の純粋な喜びではなく、 自分の中の、そうなってほしい、そうなるべき、そうならないと困る・・・的なパターンが、 自分の(パターンの)思い通りになって胸をなでおろした。 そして、勝ち誇ったようによろこんだ。 というものだったと思います。 そういう(パターンの喜ぶ)うれしさは、 いつまでも、良かった良かった・・・と振り返りながら、 というより引きずりながら(過去の栄光にすがる人のように)、 そして、次も、これからも、こうなりたい!と、 また新たなパターン●感謝されるような自分でなければならない を強化していくように思いました。 感謝されたというのは、一つの事象に過ぎず、 その一瞬の出来事に自らも感謝の気持ちをもって、次に進めるとき、 それが本来の自分のあり方(そうなっていきたい姿)なんだと思います。 今、自分のやれることをやっていこう。 とだけ思い、進んでいく。 うれしい気持ちというのは、大いに持ちたい感情の一つですが、 いつまでもそこに浸りたくなるようなときは、 自分としては要注意な感情です。

いつもとは違う選択

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先日、久しぶりに兄が帰郷しました。 帰ってくると大体そうなのですが、 お互いの仕事のことや、今興味があることへの話など、 それはもう尽きることなく、お互いしゃべり通します。 母は母で、兄が家にいるというだけでとても嬉しそうでした。 何より驚いたのは、まさかの鼻歌! 本人は無意識だったようですが、 何年ぶりだったのでしょう。 母の鼻歌を聞けた私は、何度も「それなんの歌?」と聞いてしまいました。 兄は、母のためにご飯を作ってくれたり、 歯医者に付き添ってくれたり、 帰郷して自分もゆっくりしたいだろうに、いろんなことをやってくれました。 私はちょうどこの頃、体調がすぐれず・・・ それでも、車を運転しない兄の代わりに、 いろいろ動こうと思っていたのでした。 でも、兄の「自分が来たときくらい、ゆっくり休んで」 という言葉に甘えてみようかなと、いつもとは違う選択をしたのでした。 これが・・・ とても良かったです。 兄が帰ってくるというときは、当然のように、 どこかに食べに行ったり、どこかに出かけたり、 いつも以上にいそがしく動いていた私。 そうしないと、気が済まないのです。 だって、わざわざ帰ってきてくれたんだから、それくらいはしたいと思う。 でも、今回は、兄に任せるところは任せながら、 いつもの自分の生活のペースでやってみてもいいかなあと思ったのでした。 そして、そう決めると、なんだかゆったりとした気持ちで過ごすことができました。 相手のために動いて気をまわして、そして疲れた。というとき、 本当に相手のために、 という気持ちだけではなかったのだと思いました。 かと言って、 相手を思っていないというわけではありませんが、 純粋にそれだけではない、ということです。 相手に満足してもらいたい。喜んでもらいたい。 じゃあ、それはなぜ?? そうすれば、自分がまずは安心するし、うれしいし、満足する。 そして、また兄もちょくちょく帰ってきてくれるかもしれない・・・ という期待を持ってしまうのです。 兄がちょくちょく帰ってきてくれると、どうなる?? 帰ってくるたびに、自分の大変さをわかってもらえる。 私、がんばっているんだよって見てもらえる。 話を聞いてもらえる。ありがとうね、とやさしく言ってもらえる。 ここなのだと思います。 兄に対しても、 自分のしていることを褒めてほしい、ねぎらってほし

不調になっても

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進む道が「私」の意志から逸れていくと、 体が先にストップする。 ということ、ありませんか? なんかこれ、したくない・・・と思っても、 体がとりあえず元気だと、気持ちと反してやれてしまうことがあります。 でも、本当にこれをやってしまったら、 ちょっと取り返しがつかないとか、 このままでは自力で気づくことがないだろうとか、 ここが限界だと天が(「私」が)判断するとき、 先に進めないように体を動けなくするのだと思います。 行くな、やるな、しゃべるな、会うな、食べるな、仕事するな、出かけるな、関わるな、考えるな。 これらを止める力というか、諦めさせるためには体の不調が最適なんだと思います。 そうして、寝たり、休んだり、やめたり、ということをして、 静止の時間をつくるって、 大事なことではないかと思いました。 いつも、前進ばかりでは息が切れてしまいます。 止まっているように見えても、振り返ればそれが熟成時間だったり力を蓄える時間だったりします。 そして、不調になって良いこと。 といえばー なんといっても、思考がストップすること。 余計なことばかり考える頭は、 考えることをやめ、というより、考えられなくなるのだと思います。 ある意味、何かしたくなるまで、じーっとその時を待つことができる。 いつもより増して、待つ力が育てられていくような気がします。 体調不良だからこそ成せる技です。