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4月, 2023の投稿を表示しています

カウンセリングっていい

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今日はカウンセラー仲間との勉強会でした。 久しぶりに、ペアを組んで30分間のカウンセリングをしてみました。 まずは、クライアント役になってみます。 わたしの場合、相談したいことはもう決まっていたので、 今、悩んでいることを、ほとんど頭を使わず、 気づいたら、ぐいぐいと不満を爆発させていました(笑。 そして、話すほどに、 自分の苦しみを目の前のカウンセラーさんにわかってほしいと、 一生懸命話している自分がいて、 話しながら、救いの言葉を求めているような自分(これ、パターンですね)もいました。 一通り、言いたいことが言えて、 少し冷静になってきたとき、 カウンセラーさんから言われた言葉に、自分のパターンがひっかかります。 頭ではわかっている・・・って思うことを言われ、 ちょっと悲しくなるというオチがありました。 ああ、やはりここを自分でケアしていこう! と最後は、自分の課題が見えた気がしました。 K子さん、ありがとう!! そして、今度は自分がカウンセラーの番です。 クライアント役のHさんの話に、耳を傾けます。 一つ一つ、こういうことなのかな?と、 言葉の意味を聞き返し、確認しながら、自分の中で咀嚼していきます。 Hさんのとまどい、もやもや、いらだち、悲しみ・・・ と、ゆれ動く気持ちも少しずつ感じられてきます。 悩むことや、そのときの考え方に共感しながらも、 Hさんが健やかにそこにいられるように、 また、Hさんの持っているもの(資質)が、発揮されていきますように。 そう思いながら、お話を聴いていました。 カウンセラーは、 聴く、話す、反応する、わからないことは訊く、自分の感情は一旦横に置く、 といったことを繰り返しながら、 純粋な共感を持ってカウンセリングを行います。 今の自分の精一杯の感性を使いながら、 少しでもクライアントさんが、 話して良かったなあ。 と、ほっと肩の力が抜けるような、 素の自分にもどる時間にしたいと思っています。 聴く側の心構えというか、 自分の純粋さの部分がとても表れる瞬間でもあります。 でも、その緊張感や神聖さが、 私はとても好きなんだと思いました。 Hさん、みなさん、ありがとうございました!! 今日は、どちらの役もやってみて、 この対話の中でおこることすべてが興味深く、 そこにおもしろさを感じずにはいられませんでした。 深く深く自分の内側を探求

他人の変化

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何年ぶりかで再会したその方は(仕事で会う方)、 とてもパパらしくなって、 やさしい笑顔がたくさんありました。 当時は、とても忙しそうで、 会うときはいつもノートPCに向かいながら話しをし、 事務的で、感情が見えず、なんだか機械のような人だなあと。 ところが、今は、 子育て真っ只中の大変さを笑いながら語り、 でも子どもたちが可愛くてしかたないという優しさが、全身からあふれます。 生まれてくる赤ちゃんの数が年々減っていることや、 物価高の話、これからの企業が地域になにができるのか。 以前はほとんど話題にしなかったことを、 自然にお互いの考えで語りあうことができました。 これほどまでに、 この方を変えたのは何? 結婚、子育て、仕事の変化、他にもなにかあったのかもしれませんが、 今まで生きてきた世界とは違う世界に、今は生きている。 そんな感じがしました。 体験というものが、確実に人を変えたのだと思います。 そして、 自分がその方をそんなふうに思ったように、 相手もわたしを、変わったなあと思ったかもしれません。 当時は、障害者雇用の問題を相談していたのですが、 わたしからは、相手の非を問題にするような話で、 受ける方は、あまりいい感じではなかったと思うし、 相手を責めるような発言もあったと思うのです。 わたしがその方を『機械みたいな人』と思っていたのは、 そういう態度をさせていた自分がいたということ。 きっと、機械的に対応しなければ、 感情的なわたしには物事が進まない・・・と思ったのではないか? 変わった相手の理由を探しだしたかと思うと、 今度は自分を観察しだす自分がいる。 最後はやはり、 自分に問うように、そこに戻るようにできているのかなあと思いました。 人の振り見て我が振り直せ。 他人よりも、まず自分を見よ。 今日の再会は、 これを思い出させるためにあったのかも。

魂のピアニスト

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フジコ・ヘミングさんのピアノコンサートに行ってきました。 今年91歳になるそうです。 TVで見たときは杖を使って歩いていましたが、 今は歩行器を使っているのですね。 ゆっくり手で押しながら、舞台のそでから登場です。 その姿は、年相応の姿といえばそうなのですが、 ピアノを弾きはじめると一変。 すべてを包み込むような優しさと強さと、 柔らかで美しい音が、私の心をなぐさめてくれます。 最後の曲『ラ・カンパネラ』は、フジコさんそのもの。 なんと表現したらいいのかわかりませんが、 ピアノとフジコさんが一つになっているかのようでした。 衣装も、今回とても楽しみにしていたことの一つ。 前半は、真っ白いレースが施されたウエディングドレスのような服をまとい、 それが、ふわふわした金髪の髪の毛と合っていて、とても素敵でした。 後半は、日本の色、深緑、茜色、山吹色が大胆に模様された着物。 よく見ると袖口を銀色の生地で縫い直し、着物だけどモダンでかっこいい。 念願叶ってのはじめてのコンサート。 この日を本当に楽しみにしていました。 今のフジコさんにしか弾けない音があり、 その音を、今の自分が聞けたということが奇跡だと思いました。 最近、日記にやたらと、 『魂』という言葉を登場させてましたが、 コンサートはまさに、その『魂』に触れるような時間でした。 音が体中をかけめぐり、 自然に涙があふれ、 悲しさとはかなさと、懐かしさでいっぱいになりました。 もっともっと聞いていたい・・・とても名残り惜しい時間でした。 音楽で、心をケアすることができます。 傷ついた心、疲れた心、悲しむ心、不安でいっぱいの心に、 言葉はいらず・・・ 音楽はやさしいですね。 ショパンが大好きなフジコさんは、 あるドキュメンタリー番組で、 「ショパンの悲しみが私にはわかる」と言っていました。 私は、音楽室に飾られたショパンの顔と、 この曲、ショパンが作曲したんだ!と最近やっと知ったくらいの、 本当に無知な人間です。 そんな自分でも、 フジコさんの、ショパンの悲しみがわかる・・・と言った言葉が、 とても美しく尊いものだと感じました。 私も、少しでも人の悲しみが想像できる人間になっていきたい。

ケアする方法

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ーケアをするー この言葉、いろいろな意味で使われていると思います。 ケアというのは、 メンテナンスする、いたわる、手入れをするということですが、 お世話をするという意味もあります。 この意味でいうと、 『自分へのケア』とは、自分が自分自身のお世話をするということになります。 では、どんなふうにお世話をしてあげたらいいか? 肉体的なところでいうと、 体を(頭も)休ませる。リラックスする。 充分に疲れをとってあげることです。 お風呂に入る、のんびり過ごす、暴飲暴食をやめる、出かけない、散歩する、適度に体を動かす、SNSを見ない、寝る・・・ ほかに、マッサージに行ったり、エステに行ったり、 人の手で何かをしてもらう、体をゆだねてみるものも、 たまにはいいかもしれません。 精神的なところも同様です。 それが自分にとって、楽なこと、ほっとすること、よい気持ちになるものであれば、 どんなことでもいいと思います。 自分だったら、 犬をなでる、花を植える、海を見る、喫茶店でぼーっとする、おいしいものを味わって食べる、美術館、コンサート、温泉、ドライブ、無心に掃除・・・ とにかく、 なんかいいなあ~、癒されるなあ~、気持ちいいなあ~、楽しいなあ~、 または、なんて素晴らしいんだあー って頭が空っぽになるような感動もいい。 心にじんわりと、自分にとってよい感情が染み入るようなことは、 すべていいのだと思います。 ほっとして、心が開かれていくようなすがすがしい感じがあれば、 かなり体も心もリフレッシュされています。 ここで一つ、大切なことがー 自分のケアをしようと思うとき、 そう思った、なにかしらの理由がかならずありますね。 なんとなく疲れた、むなしい、悲しい、寂しい、腹が立った、いらいらする、 誰かを恨む、ゆるせない気持ち、ただただつらい気持ち・・・ そういったマイナスの感情を、 まずは充分に出す、味わうということをやっていただきたいのです。 本来は、そんな自分を苦しめる感情など味わいたくないでしょうし、 そういう思いから離れたい、早く忘れたいがために、 先ほどのいろいろなケアを自分にほどこすのだ、と思うかもしれませんがー その感情は、どこにも行き場がないまま、 消えることなく、ずーっとそこに生きているのです。 引き金となっている感情をないものにしては、 自分をお世話していくことはでき

悲しみとともに

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悲しいことがあり、その感情をみています。 シルバーバーチの本の中に書かれている一節です。 ーーーーーーーー 悲しみは、魂に悟りをひらかせる数ある体験の中でも、 特に深甚なる意味を持つものです。 悲しみは、それが魂の琴線にふれたとき、 一番よく魂の目を覚まさせるものです。 魂は肉体の奥深くにうもれているために、 それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。 悲しみ、無念、病気、不幸感は、 地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。 もしも、その教訓が簡単に学べるものならば、 それは大して価値のないものということになります。 悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、 それを学ぶだけの準備のできていた魂にとって、深甚なる価値があるといえるのです。 ーーーーーーーー たしかに、悲しみというものが、 魂を大きくゆさぶり、自分自身の転換の機となっていくことは、 これまでの人生をふりかえっても理解ができないことではありません。 でも、その真っ只中にいるときは、 先など見えず、暗闇の中じーっと耐えることしかできませんし、 また、それを省略しては次の転換が来ないのかもしれません。 つらい体験でしか得られないものを、 受け取るだけの準備が今の自分にはある。 しっかりと感情と自分の体におきた感覚を感じ取り、 パターンへの語りかけにゆっくり時間をかけていく。 そんなふうに捉え、 自分自身へ語りかけられる自分であることに、 感謝したいと思いました。 人間は肉体だけではないし、 精神性だけでもない。 魂(霊的存在)という言葉に違和感を覚える方もいるかもしれませんが、 悲しい経験をしたとき、 なぜだかいつもよりも増して祈ったり、 見えないものとのつながりを感じたりする方は多いのではないでしょうか。 悲しみには、つらいだけでなく、 そういうところへのつながりを感じられる力があるかもしれません。

寄り添うべき相手

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昨日は、同じ24時間なのに、 とても長~い一日に感じました。 カウンセリングを学ぶ仲間の、それぞれに課せられたものが、 自分事のように感じたり、 ときに、冷静に客観的にながめている自分がいたり、 そこから、何を自分が得ていけばいいのか? いろいろ考えさせられる岩手セミナーとなりました。 今回のセミナーで、 これは話したい(近況の悩み)と思っていたことがありました。 自分が全く気がついていないことへの指摘をもらいたい・・・ でも、いざ話しはじめると、 ん??なんかこういうことを言いたいわけではない、と感じる。 話す前には予期していない、感情が大きくゆれます。 「自分が傷ついたっていいじゃない。 だって、自分でケアすればいいだけのことだから」 話しの途中で、先生から言われて、 なぜか、泣きたくなる自分。 傷つくことを恐れている、とは思いたくない自分がいました。 そんなはずはないと思っていた。 だって、もしも傷ついたとしても、 わたしは自分でケアすることができるから、大丈夫なんだと、 そう、思いたい・・・ 怖いと思ってはいけないパターンがいた。 こういうとき、つくづく思う。 「私」の魂は、自分の課題がわかっているんだなあって。 そこに向かうために、 問題をすり替えずに、先生の口を借りて(当然、先生には見抜かれている)、 ズバッと核心にふれていく・・・ということがあります。 自分のパターンを見逃しては、なんにも前に進めないのですね。 ひとりぼっちにされたパターンは、 そんな感情は無いものとされ、どんなに心細かったことでしょう。 ここのケアをしていない自分は、 その先のことに目を向けても、土台はぐらぐら・・・ 周囲のこと、相手のことに意識が向っているとき、 自分のケアは万全ですか?と次は聞いていこう。 一番寄り添うべき相手は、自分ですね。

仕事の合間に

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今日は朝から外まわりのお仕事。 予定変更で、30分ほどの空き時間ができてしまいました。 近くに盛岡繋温泉というところがありまして、 そこで手湯につかりました。 ちょろちょろ流れる温泉に手を入れ、 しばしの、くつろぎタイム。 実は先週もほぼ同様のスケジュールをこなし、 偶然、この手湯にめぐりあったのでした。 ご想像通り・・・ すご~く気持ちいいです。 やわらかく少し熱めのお湯が、じんわり手を温めてくれます。 お湯の流れる音が、また耳にも心地いい。 今日は、さらに温泉街(といっても閑散としていますが)を歩いてみました。 すると、 な、な、なんと、 足湯も発見!!! 誰もいない、貸し切り状態。 これはもう、入るしかないでしょう!!! さすがに、手とは違って、 足となると、もう温泉に入ったかのような気持ちよさがありました。 座って足をのばし、目を閉じるとそこはもうお風呂。 ぼーっとする・・・無の時間。 真昼の温泉(しかも仕事中)、最高でした。 肝心の約束に遅れてはいけないので、 長湯をせず、 足をふいて(こういうときハンドタオル持っててよかった!)、 ほんわかした足で目的地に向かいました。 こんな日(足湯に出会う日)、 滅多にありませんね。 お仕事がんばっているね! って、ご褒美をもらったような気がしました。 ふと思ったのが、 非日常のことがしたいと思うとき、 よし、これをするぞー!とか、 ずっと前から計画を立てていたりとか、 意気込んでするもののように思っていたかもしれません。 でも、いつでも、どこでも、 どんなときでも、 それを選ぶのは、自分なんだなあと感じます。 非日常にも、こうでなければならない。 というのがあったのですね。 環境もタイミングも、 すべて整わなければ楽しめないとか・・・ 楽しむための条件を、自分で決めつけていたのかも。 さぼりなのか、息抜きなのか。 微妙な感じもありますがー・・・ お湯につかったあのつかの間の時間は、なんだか夢のようでした。 たまには、こういう日があってもいいかな!と思います。 また、仕事中にあの感覚を思い出したいです。

どの自分がいいのか

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どうあがいても、 自分は50代なかばの、こてこてのおばさんで、 かなりいろんなことが抜けているし、 話しが通じなかったりするし・・・で、日常は大変です。 他人から尊敬されたり、 信頼されるような人間ではないし、 スマートな大人のふるまいとはほど遠く、 いつも子どものように、落ち着きがなくじたばたしている感じがあります。 そう、このじたばたさが、 嫌だと思うこともありました。 このダサくて、しっかりしていない自分をなんとかしたいと。 直したい、変わりたい、少しでもましになりたい。 その年代ごとに思ってきたのだと思います。 でもそう思い、がんばるほどに、 「何かこれって違う」という感情をぬぐえません。 そしてこの頃、なんだか、 これが自分なんだろうな。 ・・・と静かに認めてしまうことばかりが、 起きるようになりました。 変わらない自分がいるのです。 小学生の頃とほとんど変わっていない自分が・・・ いさぎよくそう思うのではなく、 もしかして、このままの自分でやっていけばいいだけなのかもしれない。 それは、周囲がどうであっても、 今のまんまの自分でいいんだと、染み込んでいく感覚です。 「私」の人生だから、 失敗してもなんでもすべてが自分のためになっていくんだと、 まだ見ぬ未来への、 怖さの中にも、楽しみがある感じなのです。 そしてこれが、 自分自身への信頼と、 見えないものへの信頼なのかもしれませんね。 自分がやっていることを自分が一番よくわかっている。 そうなっていったら、これはもう、 「私」で生きているということ。 何者かになるのではないんだなあと、思うこのごろです。

大地をふみしめる

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昼休みに散歩をしています。 ウォーキングと言いたいところですが、 なにしろ歩く速度が遅いので~ やはり、運動というより、散歩ですね。 まだ一週間ほどなのですが、 歩いてみると、 なんとなく肩こりにいいような気がします。 歩きながら、 たまに肩をぐるぐる回したり、 背伸びしたみたり、 後ろ向きに歩いてみたり・・・ 体もそうですが、 頭の中も、どこもかしこも、ほぐれてくるような感じがします。 春の香りも、いっぱい吸い込みます! また、ハアハア息がきれる。 っていうところも、ちょっといいなと思うのです。 肺が鍛えられているような感じがします。 体調の良し悪しもわかって、なんかうれしい。 血行が良くなり、 ちょっとぼーっとして、少し疲れて。 午後からの仕事に、 力がほどよく抜けて、いい感じがする。 これって、いいことずくめではないだろうか? たぶん、天気の悪い日は歩かないと思うので、 そういう昼休みは、おしゃべりタイム。 今まで、 こんな昼休みの過ごし方をしたことがありませんでした。 歩いてみたこともあったけれど、 これほどの気持ち良さは、あまり感じていなかったかもしれません。 とても、 『生きている』感じがします。 とにかく、 気持ちいいので歩きたい!という感じです。 よそ見ばかりしていたら、コケそうになったので、 ちゃんと足元も見ながら、 地に足をつけて、 母なる大地を感じながら歩こうと思います。

疲れのサイン

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今日から4月。 春のぽかぽか陽気が気持ちよい日が多くなってきました。 みなさんは、眠くはないでしょうか? 私は、この数日、 夕飯を食べてソファに座ると、もうだめです。 早いときは夜8時には寝てしまうこともあります。 そして、朝が早いかと思いきや~ そうでもなく、ぐっすりぎりぎりに起きることの方が多いです。 このような調子ですので、 気づいたらblogもこんなに書けていなかったんだと気づき・・・ 読みたいと思っている本も読めず(←即効でまぶたが閉じる)、 夜の家で過ごす時間など、あっという間の短さで一日が終わる。 休日は必要最低限のことだけやって、 あとはほぼ寝ています。 そんな毎日で思い出したのが・・・ 以前は、定期的に強力な眠気におそわれていた日々があったことです。 一日中寝ている(ご飯も食べず、トイレ以外起きない)ということがありました。 一年のうちに2~3回だったでしょうか、 本当になにかにとりつかれてしまったかのように、 眠り続ける・・・ということがあったのです。 20代の病気以降ですので、およそ20年間。 長い間、それがもう自分にとってあたりまえのことのようになっていて、 ああ、また来たか~と、 でも、こういう体になってしまったのかなと、 これをしないと自分の体はもたないんだと思っていました。 だんだんおそってくる眠気の中で、 遠くで子どもの「ママ、また寝てる」という声をかすかに聞きながら、 ああ、ごめんね・・・と申し訳なく思いながら、 でも、1日、2日と眠り続けた私でした。 そのころに比べたら、 普通に生活できることは、本当にありがたいことです。 たくさん寝て、そしてまた一日を元気に過ごせるというあたりまえのことが、 とても幸せなことなんだなあと思います。 眠気というのは、疲れがたまっているサインだと思います。 以前であれば、 忙しかったからとか、どこかに行ってきたからとか、用事が多かったとか、 そういう物理的なこともありますが、 私の場合は、考えて動き過ぎていたこと、 パターンのケアがされていなかったこと、 それが続いたことの結果として、疲れてしまうということがあります。 そこに季節の変わり目といった、体への変化もあったかもしれません。 自分がどうなってくると、 疲れた(眠い)~となるのか? この眠気で、あらためて実感する機会となりました。 春眠暁を覚