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2月, 2021の投稿を表示しています

お世話になっている人だから

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いつも自分には、ちょうどいいタイミングで、 ちょうどよく問題が与えられているように思います。 何の心配もいらない。ちゃんと今の自分に必要なものが毎日用意されていた。 あとはその問題に向き合えるかどうかだけです。 今日の最も自分にふさわしいなあと思ったことは、 ちょっと頭にきたことがあったのですが(パターンは怒っていた)、 そのときの自分の口の利き方がひどく、考えさせられました。 しかも、相手は日頃とてもお世話になっている方。 そんな感謝の気持ちなどどこ吹く風か・・・頭にきたからそのまま言い返した。 この後、どうするのか自分・・・。 そこで、これ以上口を開いてはいけないと、緊急的な対応をしました。 まず、お口にチャック。 恩知らずの人間だったのかお前は?と自分を責めていました。 今までのことを思い出しても、 自分はこのくらいのことでは動揺しないはずだ、 と高をくくっていたかもしれません。 多少その方も嫌みっぽい言い方をするというか・・・癖が強い。 それが、パターンに引っかかったままの第一声から、 次、また次へとなんとも不快な言葉がこの口から出てしまい、 もう出てしまったものはどうすることもできませんでした。 日頃お世話になっていること、してもらかたことを考えたら、頭にきてはいけない・・・ というものではないのも分かってはいるが、 本当に心からの感謝の気持ちがあったならば、 相手の方の困っていることも察し、 そういわざるを得ない状況だったのだろうなと思うではなかろうか。 それがなく、パターンに引っかかった自分は、 お世話になっているから嫌ってはいけないというパターンもあったのだと思います。 そう、本当は嫌い、という気持ちをずっと持っていたのです。 だから、本音が出てしまったような気がします。 結局、嘘はつけません。 今は相手の方を嫌だなと思う気持ちの方(自分のパターン)を大事にみていきたいです。 相手よりも、自分がどうか?が大事なんだと思う出来事でした。

●こうあるべき

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たくさん弱音を吐き、愚痴をこぼしました(パターンが)。 この「パターンが・・・」を入れることによって、 心は少し落ち着きを取り戻します。 そして、パターンの弱音を聞き、愚痴にうなずいて聞いてくれる目の前の人は、 どんな思いであったのかもその時は想像できませんでしたが、 話し終わった自分の肩の荷は、すとんと降りたような、 ほっとしたような感じがありました。 自分でもびっくりするくらい、口から出た不満と寂しさ。 優しい人だと知っていて、わたしは甘えさせてもらったんだな・・・と思いました。 自分は(パターンは)無意識に話す相手を選んでいたようにも思います。 この相手ならば自分の(パターンの)不満を理解してくれるのではないかと。 でも実際は、「私」の求めているところは違うのです。 あなたはそう思っているというのは分かったけれど、「私」はそうは思っていないですよ、 というところがそれです。 聞いてくれる相手の「私」の部分も、そう思っていない・・・ ということが何だか伝わってくるようでした。 うーん、わかるわかる、と言って同調してほしいというのとは違って、 「あなたは、そう思っているんだね」 そこを自分でも感じ取りたかった、心に落としたかったのかもしれません。 結果的に、そこを誘導してもらったように思いました。 ここからは、何を選んでいくか? 自分がやること、自分にしかできないこと(語りかけも自分でやることだが・・・)。 ●こうあるべき ○こうあるべき、にならなくてもいい この白パターンを選ぶ自分は、 本当に肩凝りがほぐれていくような、心身の軽さを感じました。 こうあるべき、こうなってほしい、から解放されると、 どうなってもOKだし、どうしたいという息苦しさもありません。 広い世界が広がっていくようです。 話を聞いてくれてありがとう。

通じない自分

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先日友人と、 定年を過ぎてもういよいよ働かなくなったとしたら何をする?という話になりました。 友人は、今年の春で正社員からパート勤務にしてもらうとのことで、 時間に余裕ができるため、老後に向けて今から何か好きなことでもしていきたいなあ と思っているようでした。 それなのに、 肝心なその好きなこと、やりたいことというのが、全然思い浮かばなかったそうで、 それはとてもマズいことだと思ったそうです。 定年後、第二の人生を、 好きなことをして過ごしたいと思っている方は多いと思います。 その『好きなこと』というのが、旅行とか趣味とか勉強とか、習い事とか、 これまで働いていては決してできなかった(中途半端だった)ことを、 まだまだ健康なうちに思いきりやりたい、そこは後悔したくないって思うのでしょう。 だから、その何をやるのか?というのは定年に差し掛かったときにすごく考えるそうです。 と他人事のように言っている自分も、この頃考えはじめています。 自分は将来、たとえば60歳を過ぎたときに、どうなっていたいのだろうかと想像してみました。 趣味はないし、旅行はしたいけれど毎日のことではないから一番ではない。 『好きなこと』というは、 たぶん『好きな仕事』のことなんじゃないかなと思いました(今の自分が思うのは)。 まずやりたいと思う仕事を限界までやっていたいなと思うのです。 逆に言うと、やりたくないことはさすがにその年になったら、やらない自分であってほしいです。 つまりは正直な仕事の仕方ができるようになっていたい、という感じなのかもしれません。 そして、年齢を重ねると、年の功で簡単に理解できるものもあれば、 もうその年齢では理解しようにもできないもの、というのがあるみたいです。 友人が言っていました。 話題についていけないとか、感性がついていかないとか、時代についていけないとか、 「ああ、なんか通じないなこの人」と思われることはあると。 通じない・・・って、 ちょっとショックかもしれないと思いました。 自分はわかっているつもり、できているつもり、通じているつもり、 と思っていても、若い人から見れば、まったく違う人間のように見えるのかも。 でも、自分にとって大切なことは、 もしも『通じない自分』になったとしても、 理解できなくても、通じない人と思われても、「私」は全然大丈夫・・・ と感じら

めぐるめぐる

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久しぶりにロングドライブをしてきました。 市内から南方向へと、どんどん走るにつれて、 なんとまあ、もう春はそこまでやって来ているじゃありませんか。 道路が渇いていて、土が見えているところがたくさんありました。 寒い寒いと言っていても、確実に春はやってくるんですね~ すごく嬉しかったです。 まだまだ雪も降るでしょうが、 この陽気を一年ぶりに味わえたのでちょっと余裕ができました。 残りの冬を味わう余裕が・・・。 そうやって、あっという間に春が来て、桜が咲いて、 あちこちに新一年生を見かけては、自分も頑張るぞーって思うんだろうなあ。 梅雨になればちょっと冬に逆戻りするけれど、待ちに待った内陸の夏は結構暑かったりする。 でも、そんな暑さも一時で、 お盆が終わる頃には秋風が吹いて、半袖が寒く感じるのです・・・ 食欲の秋、運動の秋、読書の秋と、 一年で一番過ごしやすい季節は駆け足で過ぎ去り、 タイヤ交換をいつやろうかと思っている矢先に、空から白いものが降ってきて、 またつるつるに凍った道路と雪かきと、水道が凍結しないか心配する冬がやってくるのだ。 日本の東北のこの地に生まれて、 本当にあたり前のように過ごしてきた四季折々の生活ですが、 人生も同じだと思いました。 わくわくするようなことがあっても、必ず落ち込むようなこともあって、 時に悔しいほど怒り、泣き、絶望し、 それでも何とか暮らす中で、元気になって笑えるようになっている自分がいる・・・。 諸行無常ですね。 いいことも悪いことも人生はめぐっていく。 必ず、暖かな陽の光を感じられる日が来る。 自分に生きる力を与えてくれる。 でも、またそこにとどまることなく、次の季節がめぐっていく。 そのときどきの季節を謳歌し、 その時にしか得られないものをもらいながら・・・ でも、どう過ごすかということの選択の自由もそこにはあります。 ドライブから帰ってきたら、 やっぱりこっちはまだまだ冬で、 まあそうだよね~、まだ早いよね~って今はこっちが現実なんだと思いました。 でも、それがあっての次、ですからね。 春になったら、明るい色の服も欲しいし、 散歩も少し遠くまで行きたいし、 公園であったかいコーヒーでも飲みながら本も読みたい。 何より、あの土の匂い、草の匂いをくんくんと嗅ぎたいです。

かわいそうな人

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障害がある方が困っていると、ものすごく大変に違いないと思っていた自分がいました。 だって、ハンディがあるのだから。 ハンディのない自分が助けられることはあるだろうと・・・ 障害がある方へとどうしても目が行ってしまうのです。 でも、ハンディは誰にでも、自分にだってあります。 身体的な障害はないけれど、一般的にみても身体の弱い部分ってある。 また、不得意なこと、嫌なことをするときのストレスならば、 多少にかかわらずいつだってある。 固定化されたハンディではないにせよ、 苦痛だと感じるものは、どっちが大きいとか小さいとか測ることができないものです。 だから、障害がある方でもない方でも、誰にでも何かしらのハンディはあって、 何かしら悩める人間であることには変りありません。 そう思えるようになってから、 障害がある方だから手助けしようとは思わなくなってきている感じがします。 かと言って、手助けしないと決めているわけではないし、 困っている人がいたら、気になって何かしてみるという行動はとるのだと思う。 でも、その時の感情として、 少なくても障害があるから「かわいそう」というのは、無くなってきたように思います。 つい最近まで、本当に失礼なことなんだと思わずに、 あーかわいそうだな・・・と無意識に口に出ることもありました。 それって、自分はその人よりもかわいそうではないと思っているから、そうなってしまうのかもしれません。 それは、自分がその人より上にいて、下を見て感じているということ。 同じ人間なのに、 悩みも苦しみもある人間なのに、対等ではなかったんですね。 不思議と、同じ人間なんだ・・・と思うようになってから、 その人の苦しみを見ても、自分がそれ以上に苦しくなることは無くなりました。 その人がつらそうにしていても、 自分がそのつらさを何とかしてあげたいと思う気持ちは、以前よりもずっと薄れています。 自分の中で障害のある方はもう「かわいそうな人」ではないからです。 そうやって(何だか薄情みたいだが)、 少しずつ、自分の心が軽い状態でいられると、 自然に身体が動いてやっていた(手助けしていた)ということはあります。 そういう時は、本当に気持ちが軽くて、 その人の人生をその人の責任のもとで頑張ってほしいなあと、 心から応援したい気持ちが形となって、行動しているのだと思います。

せっかちなパターン

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●思い通りにならないことが嫌、というパターンは、 思い通りになることが良いこと、という決めつけの下で使っています。 自分の思い、考えていること、判断していること、選択したことは、 自分にとって良いこととだとパターンは思っている。 中には相手の為に、自分が思った通りになった方が断然いいのだ、 というのもありますが、 これも結局、相手の為かどうかは本人にしか本当のところはわかりませんので、 相手の為になっているように見えることで安心を得られる自分がいる・・・ ということになるのだと思います。 結果として良かったと思いたいのは、 良かったと思う自分でいなければ不安という、自分を中心にして考えています。 そして、思い通りにならないことが嫌、という時、 今、ここで、この時、今自分は安心したいのだと思います。 この先、時が経ってからの安心ではなく、 ふりかえってみての「良かった」ではなく、 今そう思いたいのかもしれません。 なんだかすごくせっかちですね。 もっと余裕をもって、 物事の成り行きをみていけたらいいなあと思いました。 良い方向に進んでいるとか、これは悪い方向に向かっているとか決めつけず、 どっちに転んでもいい、どんな展開になってもいいと、どこにも「思い」を向けない状態。 思い通りにならないことにハラハラするのは、本当に疲れます。 どうなっていっても大丈夫だ・・・ という落ち着き、ゆとり、ゆるさ、がほしいものです。 そう、そのゆるさがあれば、 思い通りになってほしいというこだわりもゆるみ、 思い通りにならないことが嫌だという気持ちも、もうちょっと待ってあげられるのかもしれません。 結果を急がず、結果を求めず、 流れに逆らわず、嘘はつかず、 その物事にあった時間をかけながら進んでいけたらいいなあ。

突き抜ける

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古本市で買った本。 ーイン・ザ・プール 奥田英朗著(文春文庫)ー その本(小説)に出てくる変人ともいえる精神科医がわたしの救世主となりました。 何かにとらわれ、奇妙な症状に取り憑かれる患者と、 なんとも無責任な発言と自分本位の行動しかとらない医者。 どうやって治していくんだろう、というところなんですが~ 一言でいうと、 患者にとことん突き抜けてもらう、です。 実際には極端すぎて、小説のようにはできないだろうと思うところもあるのですが、 でも何となくわかりますこの感覚。 突き抜ける前に、安全策や対処方法をほどこしても、またきっと同じことを繰り返すのだろうな、と。 自分が今もやもやしているものに対しても、突き抜けていないからなんだと思いました。 言いたいことを半分だけ言うとか、 思っていることを言葉を選んで伝えているとか、 やってみたけど、やりきったとは言えない中途半端なものとか、なのです。 そして、やったこと、したことが中途半端なだけではなく、 それによって、心の中が途中で終わってしまっている状態なんだなあと思いました。 悲しみの途中、怒りの途中、まだそこが感じきっていないような、抑えているような感じ。 よく、感情を爆発させるって言いますね。 この爆発も悪くないのだなあって。 何に遠慮して抑えていたんだろう・・・って思う。 手に取った本から、とても分かりやすいように教えてもらいました。 悩みに悩んだ自分を助けてくれるものは、いつもこんなささやかなものからだったりします。

芸術から見えるもの

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岩手の写真家、 唐武(からたけし)さんの回顧展 を見に行きました。 実は友人の旦那さんの祖父にあたる方だった、ということをつい先日知りました。 今もその姿を残す 写真館 は、ノスタルジックで可愛らしく、 自分が魅了されていたあの建物が、友人の思い出が詰まった場所だったとは・・・ おどろきと共に嬉しく思いました。 明治後半から大正、昭和に移る時代まで盛んに撮られてきた、美しさを求める『芸術写真』。 スマホ写真のように高画質を競うような鮮明なものとはまったく違い、 初めてみたわたしは、「え、これ、写真?」と思ったほど、 かすみがかったというか、そのぼかし技法がとても幻想的で、 くっきりはっきりの解像度の高い写真にはない美しさがありました。 よく見ようと、写真の前にどんなに顔を近づけても見えないもどかしさ・・・。 過去に存在したものをさらに時間の概念を無くして、異次元の世界に行ってしまったような、 自分が想像していた「写真とは、、、」をくつがえすものでした。 実際に存在したものであるはずなのに、絵画を見ているようなとても懐かしくも不思議な世界でした。 晩年撮影されたものは、見慣れたモノクロ写真もあり、 昔の人々の暮らしや、今も実際にある場所がよくわかるものもありました。 カラーとモノクロの違いはあっても、こちらははっきりくっきり何を写しているかが見てわかる写真。 それらを眺めていると、だんだん「見える」ということにほっとしていく自分がいました。 会場を出た後、 ぼんやりとした、線を出さない、現実であってそうではないような芸術写真と、 いわゆるその当時の様子を、記録としてとどめておく目的の写真とを比べていました。 はっきりと映し出されたもの(後者)に安心感を覚えていた自分。 どうしてそう感じたのだろうか・・・と考えていました。 自分が長く住みなれた世界は、 これはいいこと悪いこと、これが幸せこれは不幸せ、これが正しくこれは間違い、これは本物でこれは偽物、 これは見えるから安心見えないから不安、という白黒つけようとする世界なのだと思います。 それが、こうというものがなく、目でみて確かめられるものではなく、 白黒はっきりさせようとしなくていい世界がある。 もっともっと想像しなさい、と心の豊かさを求められているかのようです。 でもまだ、完全には馴染めていない自分がいて、 自分がそ

ひと安心?

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●自分の思い通りになってほしい このパターンとの付き合いは、かれこれ何十年ものなのですが、 久しぶりに、でかい・・・と思い知らされました。 パターンってさすがだ。 本当の「私」であるかのようにふるまい、 順調だと思う中の深く沈んだところにひっそり潜んでいたりします。 思い描いた通りに事が進んでいったということがありました。 ああ、まずは良かった・・・ひと安心だなあ~と思ったのは、 「私」ではなくパターンがひと安心し、満たされ、喜んでいたんです。 安堵感が強かったときには、 何かしらのパターンが隠れていたということがこれまでもありました。 順調に事が進んでいるなあというのも、パターンにとっての順調だったりするのです。 自分の思い通りではなくなる事態になるまで、気づきませんでした。 こんなに感情が揺さぶられてしまうと、 どんな感情なのかを感じることさえ、わからなくなりそうでした。 どれだけ、長い時間無意識にパターンで行動していたのだろうか・・・ 本当の「私」だったら、思い通りにならなくたって全然平気なはずなのです。 安心したのが悪いということではないのですが、 その後の思い描いていたことと違ったときの自分の反応が、こうも落胆するのかー と思うほど落ち込みました。 安心したときには、誰が安心しているのか気をつけて観察したいです。 大きく根深いパターン・・・ 無視をしていた時間も結構長かった。 それだけに、ショックは大きく悲しさ悔しさ、打ちのめされてはじめて、 パターンの存在を知る。 丁寧に語りかけをしていこう。

下手でもなんでも

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ある展開になったとき、いつもは黙ってしまう自分が、 今回はちょっと違った反応をしていました。 大体、この展開になると相手のある言葉に引っかかるのはわかっているんですが、 だからと言って、何をどう「違います」と言ったらいいのかよくわからない。 わたしには、この手の説明は無理だと思ってスルーしていました。 自分の頭では適当な言葉が見つからないし、もっとややこしくなっても困るし、 やっぱりうまく話せないなら黙っていた方が無難だ・・・と思っていた。 違う考えを示すということは、 ある程度相手も納得できるような理解できる話でないといけないと思うのです。 でもどうしたら、そのあたりがしっくりくる話を自分はできるのか、本当に難しいことだった。 自分の持つ考えが薄ぼんやりとはあるにはあるのだけれど、 薄ぼんやりだから言葉が浮かばないし、 かといって了解しているわけではないとはっきりも言えなかったのです。 それが、今回スルーしなかったということは、 わたしに何が起きたんだろう・・・としばし考えました。 話せた、ということは、 自分の考えや気持ちが、とてもはっきりとしたものになっていたからできたのかもしれません。 本当に自分の一部となって実感したものであれば、 うまい下手は関係なく、下手だろうが何だろうが話せるものなんだなあと思いました。 他人の体験を説明するのは難しいけれど、自分の体験だったら話すのに困らない、 という感じなのだと思います。 胸のつかえがとれていくように、口から何かが吐き出されていくように言葉が出てきた。 引っかかったものをスルーせず、自分の考えを伝えられたことは、 自分にとって大きな大きな一歩だったと思いました。 わかっているんだけど、言葉にできない、 わかっているんだけど黙ってしまうって、 それは、結局中途半端にしか理解していない、自分のものにしていない、 わかっていないからそうなっていた・・・ ってことだったんですね。

わかってほしい

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自分のことをわかってほしい・・・ とはっきり言うわけではないけれど、そう思っているんだろうなと思うことはあります(自分もある)。 わたしってこういう性格だから、昔からそうだったから、性格って変えられないし~、 だからこんな自分のことを理解してほしいし、受け入れてほしいって。 そして、今のこの自分のまんまでいいと言ってほしいと思っていることも伝わってきます。 「そのままのあなたでいいのよ」って、とても優しい響き。 そう言ってもらえたら安心するのかもしれません。 そうか、自分はこのままでいいんだ、何も変わらなくてもいいんだ、なんて楽なんだー・・・ でも本当にそれでずっと楽が続くはずがない、ということにも気づいている。 自分のことをわかってもらえれば、変わる必要がなくて、何もしなくてよくて、 それって本当に自分が望んでいること? わかってほしいという心の裏側には、 変わりたくても変わることがができない自分にがっかりしていたり、腹を立てたり、 もやもやしている葛藤しているもう一つの顔があるように思います。 今のままでは、何かが苦しいと思って生きている。 だけど、変わりたいけれど変われる方法を知らないから、 今まで何度も変わろうと頑張ったけど変われなかったから、 だからもう、このままの自分を受け入れてほしいって思う気持ちを、まずは落ち着かせたいのだと思う。 そして、自分をわかってもらえたら変われるかもしれないと。 もしも、わかってもらえないとしたら、どんなことが自分に起きると思っているのだろうか。 何かを誤解されてしまう、嫌われてしまう、もうそこでは生きていけないと思う・・・ わかってもらえないと、寂しい、つらい、不安でしかたない? 不安になりたくない、という気持ちは、 相手がそうさせるものではないし、こうなったら絶対安心という上限もないです。 だから安心を求めすぎてしまうと、かえって不安に目がいってしまい、 不安にならないための言動をいつもしていなければならなくなってしまう。 わかってよ、このわたしを安心させてちょうだい・・・ っていうのが『わかってほしい』の裏側の顔のようです。 わかってもらおうとしなくても、 たとえ全部安心できるものに囲まれていないとしても、 そういう自分(ちょっと不安もないわけではないけどね、っていう自分)でもいいのかもしれない、 と思えると大分心が楽

捉えたものが表れる

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しばらくの間、会っていなかった人と久しぶりに会ったとき、 以前とは何かが変わったような、違う人のように感じることがあります。 その人自身が変わったということもあるのでしょうが、 自分のその人に対する捉え方が変わりはじめたから、見えるものが変わった・・・ というのもあると思います。 捉え方って心や頭の中で起きていることだから、目には見えないものですが、 自分がその人を見るまなざしや、態度、表情、手の動き、声のトーン、息遣い、言葉の選び方等々、 そこから身体のいろいろなところへ反応して表れていきます。 そういう意味では、見えないはずだけれど、表れてしまうものです。 また、相手との違いを認め、共感し、でも自分は自分でそこにしっかりといる感覚は、 落ち着きがあって軽さがあって、とても楽だなあと感じ、 またさらに身体はリラックスして動きが自然になっていくように思います(顔も引きつらないし)。 そうやって自分に少しでも変化があると、 良くも悪くも目の前にあるもの、人、事象が変化していくことがよくあります。 だから、起きていることを見れば、 自分がどう反応していたのかが見えてくる。 どんな表情で態度で言葉で自分を無意識に表していたのか、 その身体は、起きたことにふさわしいもの?だったとわかるのではないでしょうか。 相手から見た自分って、 隠しているつもりでもしっかり身体の部分部分に表れていて、 だから心の中って、微妙なところから見透かされてしまうものなんでしょうね。 それだったら、はじめから正直にそのまんまでいきたい。 でも、どうしても何か引っかかってしまうというとき、 とりあえず、そこは相手にはわからないように隠そうと反応してしまいます。 でも、そう意識すればするほど、心地悪く感じてしまっている・・・ だからまたさらに、顔に態度に身体に表れる・・・ でも、そこから変わっていくことを、 最近よく練習させられているように思います。 実際に捉え方が少しだけでも変わりはじめると、 自分の身体の動きも少し自然になり、心地よいものになっていきます(実にわかりやすい・・・)。 心の動きと身体の動きはつながっていますね。