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5月, 2020の投稿を表示しています

自分にとってのアート

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いつも楽しみに見ている『日曜美術館』という番組があります。 地方ではまずお目にかかることができない、全国の美術館で開期中のものを見ることができるので、 いつもテレビの前で、はあ~・・・とか、ほう~・・・とか、 作品の美しさや壮大さ、そのエネルギーに感嘆の声をあげながら見ています。 テレビの画面ごしでも、こんなに心が揺さぶられるのに、 実際にその場所へ行って見ることができたら、どんなにか感動するだろう~ アートって、人生に癒し、励まし、楽しさ、よろこび、元気、そして時にリセット、休息をあたえてくれる。 今日見た作品の中には、なんと花粉を採取してそれを床に四角く敷きつめたものがありました(花粉症の方が見たら、くしゃみが出そう)。 花粉をふるいにかけながら、黄色よりちょっとクリーム色がかった、温かみのあるキャンバスが出来上がっていく様子は圧巻。 この作者(ドイツのヴォルフガング・ライプさん)は、牛乳や大理石、お米でも作品をつくっています。すごい発想ですね。 先日、ドライブ途中にはじめて入った喫茶店で、おもしろいアートを見ました。 『書』です。 入口に「断捨離中」と書かれてあって(営業中と断捨離中、どっちが主なのか迷ったが)、 個性が爆発した感じのマスターと、本当に物を片づけている最中ですという感じの店内、無造作に飾ってあるというより貼りつけられた『書』に、 これって、全部が(全体で)アートなんだろうなあ・・・と思った。 店内は、独特の緊張感すらありましたが(入って良かったのかなという、若干遠慮の気持ち)、 コーヒーのおいしさにだんだん居心地がよくなっていきました。 マスターは喫茶店があまりにも暇だったので、 小さい頃通信教育で習った(あまりにも田舎で習字教室もなかったとのこと)『書』を書いて時間をつぶしているうちに、 その時ひらめいた言葉や、思い、気になっていること、忘れたくないものなど、 書くことが日常になっていったそうです。 希望すれば、そのときその方が思いついた言葉、好きな字を書いて差し上げているそう。お客さんも自分で書いていいという、自由さで、何年ぶりかでお習字しました。 筆の柔らかさと、墨のぽたっとした紙に吸いつく感じが、とっても気持ち良かった。 芸術と言えるかどうかなど関係なくて、 自分の内側からわきあが

一瞬で変われる世界

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流れが変わった・・・と感じたことがありました。 これまでの重苦しくて、ぎこちない、もやっとした感じから、 あれっなんか違う、雲のすき間から太陽がのぞくような明るいきざし。 『陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となす』ということばがありますが、 重苦しくて、ぎこちなくて、ぎゅーっと縮こまっていた世界の中から、 もうこれ以上は無理、もうここから抜け出したい、助けてください! そういう苦しさの極限に達したとき、 本当の「私」(それともどこかの神様?)があらわれて、これまでの「自分」がガタガタと崩れ落ちていく。 瞬間、「新しい自分」がそこにいた、という状態。 今までと違う言葉をつかい、表情が変わり、行動も変わり、 何より、今までの選択肢はもう選ばない、選ぶ余地がないほど、もう変わっているんだ、という自分がいる。 これはわたしの感じたことなので、正しくはわかりませんが、 パターンへの語りかけもワークもすべてやっていて、そうした中で、 プラスされる何かが働くような気がしてならないです。 あの重苦しい空気の中で縮こまっていたわたしから、 信じがたいほど明るい光の中で、腕を大きく広げ深呼吸しているわたしがいる。 本当につらい、苦しい、いやだ、という世界の中にいると、 もうそこにはこれ以上はいれない、その世界には居続けることができない完全に不適合な自分がいて、 ほんのわずかに感じとれる生命力が、自ら生きられる場所を求めて、その思いだけで一瞬にその世界へワープしてしまうような感じでもある。 そこには一瞬すぎて、思考の入る余地がない、すごく不思議な感覚です。 本当の「私」って、 もしかしたら、今まで自分が感じたことがないほどの、もっともっと大きな存在なのかもしれないと思いました。 今の自分が想像している感じている「私」は、あくまでも自分の領域の中でしか感じとることができない。 もっと上の領域の住人であったら、自分とは違う感じ方、捉え方があるのだと思う。 まるで首根っこをひょいとつまみあげるかのように、こっちの世界も見てみなさい(陰から陽へ)と救いあげてくれた。 一瞬で変われる世界が、すぐ隣り合わせでそこにあることを、思い出させてくれました。

自分をゆるせない

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自分をゆるせない、ということがあります。 こんなこともできないなんて、 どうしてこうなってしまうんだろう、 他人ではなく、不甲斐ないのは自分。だから自分を責める。 相手に何か言われて、悔しかったり、落ち込んだり、悲しくなったりということもありますが、 言われてはいないけれど、自分が自分に対して罰するように言葉を投げかけているということもあります。 もっとちゃんとできなきゃだめだ、 こんなんじゃこれから生きていけない、 と自分の存在を消してしまいたいほどに、できないことがゆるせない。 『できない』の反対には、『できる』があり、両方を人は必ず持っています。 本当だったら、できるはずの自分がいて、こうなるはずじゃなくて、 もっと満足ができて、認められて、完壁に(理想の自分に)なれると思っている自分がいる。 だから、そうなっていないことが、こんなの自分ではないし、認められない。 ちゃんとした自分になるまで『ゆるせない』になっているのだと思う。 この『できる』(できるはずの自分)というのは、どこから来ているのか? 理想のかたちにぴたっとはまらないことが、そんなにゆるせないような悪いことなのか。 どうなったら、ゆるしてあげられるの? もし、『自分はこんなはずじゃない』ということを、 『こんな自分もいていい』と思えたら、どんなに楽になるだろうって思います。 自分を動画で撮影して、表情、言葉、行動等々、ある日の一日を観察してみたら、 もう見てられないって、ダメだしするのでしょうか。 それとも、へえ~わたし頑張っているなあ、健気にやっているなあって応援したくなるでしょうか。 もし、こんな自分という他人が目の前にいたら、 ゆるせないって思うでしょうか。 それとも、大丈夫、それでいいんだよって受けとめてあげるでしょうか。 どうするのでしょう、「私」だったら。 そして、本当はどんなふうに生きていきたいのでしょう・・・ そんなことを感じた今日一日でした。

本を読むと・・・

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以前、エッセイが好きで数人の作家さんの本をよく読んでいました。 その中の、少し辛口の文章が得意の作家さんの新刊が出ていました。 そこまで見ているんだという観察力、おかしいほどに自分をつらぬく姿など、 ひさしぶりにわくわくした感じを思い出しながら本を購入しました。 ところが・・・ 読み進めていくうちに、確かに視点も相変わらずするどく、 ときに世の中の流れと逆行する作者の行動も心の声もおもしろいのですが、 思ったよりもすらすらと読み終えてしまい(パラパラとページをめくっていく)、拍子抜けしてしまった感がありました。 あれ、本の好みが変わったかな自分。 懐かしいほどの、あのころ好きだった切り口、こまかな視点での文章表現が、今の自分にはあまり響いていかない。 『これはだめだ』と作者が思うことに共感して笑っていたのに、 『これはそんな、だめではないかも』に変化している・・・ 以前は、そうそう、こういう人っているよね~と眉間にシワをよせていたことが、もしかしたら、シワを寄せることがなくなってきているのかもしれない。 もうちょっとおもしろかったはずだ、とまた読み返してみましたが、やっぱり淡々と読んでしまいました。 同じ本を昔と今で読みくらべたとき、まったく違った感想(あらたな発見)が出てくるものですが、 自分の持つパターンの変化を、本の中の作者のパターンを読みながら感じたということだったのかもしれませんね。 作者と一緒にイライラしたり、はらはらしたり、頑固になったり、という自分(パターン)がいなくなってきていた。 これは、これで~ ちょっとおもしろかった。

一緒にいられるのは「私」

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苦しいとき、考えることに走ってしまうことがあります。 苦しいところから逃れるために、 自分はどう行動したらいいか、また、どう考えたらいいかを一生懸命考えたくなってしまうんだと思う。 ここは、本当に気づきにくいと思いました。 そして、考えているということは、パターンがやっていること。 パターンがやっていたんだ・・・と気づきにくい。 でも、パターンが考えたことだから、もやもやは消えないし、苦しさも変わらない。 苦しさがあるときは、パターンが考え出していると疑い、軌道修正していこう。 頭ではなく、完全に胸のあたりで感じ取るということをもう一度やっていくのです。 本当の「私」が望んでいることを、ちゃんと感覚の変化で受け取る。 こうやって、自分(本当の「私」)を信じる力も、「私」を使うことで大きくなり、 軽さ、明るさ、広がりを感じらる「私」の出番も増えていきます。 だから、「私」を使っていくというのは、この感覚を苦しさの中でも思い出していこうと思います。 「私」は、充分にパターンが安心するまで、守ってあげたいと思っている。 変わらないでそこにいていいよ、と言ってくれるし、 変わっていけるよ、とも言ってくれる。 大丈夫、大丈夫って、ずっと側にいてあげられるのが「私」です。 なんにもこだわりがないんだなあって思います。 苦しいと感じているのは「私」ではないから(「私」はとにかく軽い)、 だから、「私」はいつまでもどんなパターンとも一緒にいられるのだ。

おにぎりは、すじこが好き

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少し前の母の日、みなさんは何かプレゼントを渡したり、渡されたり、ということがありましたでしょうか。 わたしは今年母親に、突如わいた感情ですが、何かおいしいものを作ってあげたいと思いました。 いつも母親を喜ばせたいと思うと、大体、母親は外食好きなので(外に出かけて食べるという行為が好きみたい)、 落ち着きがあっておいしいお店を探して連れていくことが多いです。 だから、自分が作ったものを食べてもらうことって滅多にないのです。 また母の日って、関東に住んでいる兄が、毎年かかさず素敵なお花を贈ってくれるので、 わたしは兄に、その任務を全面的にまかせたつもりでいました(お兄ちゃん、いつもありがとう)。 わたしは、近くに住んでいるから、特別な日を作らなくてもいいんだという持論でなにもしてきませんでした。 でも、今年はつくったんです。 お弁当を・・・しかもお重につめて・・・。 ご飯だけ炊いていなかったので冷凍ピラフを使いましたが、他は手作りです。 出来上がってみると、自己満足の世界ってこのことだなあ、と思うほど充実感があり、たのしかった。 母は、蓋をあけると、 「ま、ま、ま、おいしそうだこと~~~」 何度も、冷凍ピラフについて、どうやって作ったのか聞かれましたが、 「あ、だから、それはチンだから・・・」 いつもの繰り返しの会話がありながら、本当にうれしそうな顔いっぱいの母をみて、わたしもうれしかった。 よく死ぬ前に食べたいものは何ですか?という質問がありますが、 わたしは、迷わず、母の作ってくれたすじこ入りのおにぎりが食べたい、です。 母がにぎってくれたおにぎりの塩加減とか、固さとか、すじこの大きさとか、ぴーんと張った海苔も炊き立てのお米もぜんぶおいしかった。 そして、やはり愛情がつまっている・・・口に入れた瞬間、『お母さん』を感じ取ってしまうんでしょうね。 その逆パターンで、今度はわたしがおにぎりをつくってあげようかな。 ステイホームで、手作りものに目覚めたか・・・? 普段しないことを、自然にやりたくなってしまう、そういう力が働いているのかも。

びっくりの使い方

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「もう、びっくりして」 会話の中で、すごく驚いたということを表現したくて『びっくり』は、よく使われます。 何がそんなにびっくりしたの?と聞き返すと、 「だから、そんな風に言われてびっくりしたのよー」 と続き、 え、だから何で、どういうところに?とまたまた聞き返すと、 「だって、まさかあんな風に言われるとは思わないじゃん」 何でわからないの的な感じで、これで通じていると思われるのも困るときがあります。 どう反応したらいいのか、何と言ってほしいのか、頭の中が???で、 よくこんな場面では、ぽかーんとしてしまう自分。 何気なく使う『びっくり』には、お化けかと思ってびっくりしたという使い方とは違い、 相手に対して自分の欲求が満たされなかった時や、想像と違う、期待と違う反応に対して思わず出る非難のことばなのか、と思う。 掘り下げて聞かない場合は、何かはっきりしないもやもや感が残り、 気持ちをあらわすことをごまかされたような(言った本人も気づいていないかもしれないが)、 頭にきているけど、そう言ってしまうと自分が悪者になってしまうような、 相手が悪い、間違っていると直接的なことばを使わずに感じとってほしい、 そんな意図を感じてしまいます。 その後に、びっくりさせられた相手への批判や否定、攻撃がはじまったりしたもんなら、 びっくりを強調しないで、はっきり頭にきたとか、傷ついたとか、相手が悪いとか、 はじめから言ってほしい・・・と思う自分がいる。 これも自分のパターンであるし、自分も使っているかもしれない。 自分の気持ちをまだよく見たくないとき、あまりに感情がゆり動かされ、動揺しているとき、 とっさに、びっくりした!とまず言ってから考える、ということはあるかもしれません。 とにかく、びっくりだけで会話が打ち切られるのは違和感ありありな自分。 気持ちを隠してほしくないパターンがありそう。

物件見学の果てに

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以前、賃貸不動産の仕事をしていたときの、あることを思い出しました。 毎日いろんな間取り図面を見ては、とにかく実際にそこへ足を運び、 自分の目で見て情報を集めてくることをやっていました。 建物の造りや部屋の中を、詳細にチェックするのはあたり前ですが、 そこに住む人たちの何となくの雰囲気(家族構成とか)、 駐車場の広さ、道路の車の往来、周辺の雑草とかゴミ、共有スペースの使い方、騒音(やばい人がいないか)、 他にも食料調達の利便性、ゴミ出し場所までの距離、近くのバス停や病院等々、情報をとにかくかき集めました。 そうやって、お客様の希望する条件に少しでも見合った物件を案内できるようにするのが仕事でした。 しかし、どんなに条件に近いものを案内しても、 また違うこだわりポイントが出てくるのです(見学するたびにわからなくなっていく様子)。 どちらかというと、そういう方の方が多かった。 それでも、物件がその方を選んでいるかのように(あなたを待っていました、という感じで)、決まるときは早い。 私の、数々の情報とアドバイスが、ほとんど不要だったというくらい、部屋に入ってすぐ・・・ということがあります。 「あー、なんかここ、いいですね」 なんか落ち着く、なんか良さそう、なんかほっとする、 というその方だけが感じる、『直感』というものが出たときです(「なんかね~」が頭に付く)。 あれだけのこだわりポイントがあったのにもかかわらず、 今までの条件は一体何だったんだと思うほど、その場所が、部屋の空気が、匂いが、空間が、 気に入ってしまった・・・ということ。 こういう出会いを見るのは、 その方の本来の姿というか、本当はこんな暮らしがしたいんだ(こんな人生をスタートさせたいんだ)、 という気持ちを垣間見たようで、とてもうれしくなってしまうものでした。 この、直感で選ぶとうまくいく、という感覚は、あの頃から教えられていたのかもしれません。 これからも、頭の中をいっぱいにしすぎてしまわないように、 「なんか、いい」っていう感覚を見逃さないように生活していきたいです。

やろうと思えばできる

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YouTubeを見ながら、お家で身体を動かしたりしています。 その日によって、数分間のエアロビを踊ってみたり、一時間たっぷりヨガをしてみたり、体感を鍛える筋トレをやってみたりと、 今頃か?と思われるほど、YouTubeのお世話になっています。 こうしてYouTubeさえあれば、それなりですが、結構なんでも習い事ってできるものなんですね。 ヨガ教室が休業になって、2か月。 教室に行かなくなってからの方が、なぜかヨガをする時間が増えました。 そこで・・・ 思い切ってヨガ教室をやめました。 教室に行き来する時間や、着替えをしたりする時間、予定を合わせる手間など、あらゆる煩わしさが解消され、 出費が減るのもうれしい。 部屋着やパジャマ、それ以下の見せられない格好で、気が向いたときにやれる。 この手軽さって、とてもいいです。 ヨガをするために、まずは環境を整え、リラックスできる状態を優先していた自分。 その価値観が大きくくずれました。 リラックスできそうな音楽がなくとも(YouTubeならばあるが)、素敵なインストラクターが目の前にいなくても、 多少部屋が寒くても、夫が周りをうろついていても・・・ やろうと思えばできる、ということを知りました。 以前のブログで 、 「私」が発揮できる環境ってどんなだろう?と思ったことがありましたが、 もしかしたら、結構簡単に、どこでも発揮できるのかもしれません。 だって、何でも大丈夫な「私」なのですから~ 今日という日が人生の中では一番年をとっているということなりますが、 年をとっている今が、若い時よりも身体の中からのエネルギーを感じられているような気がします。 たんに、痩せたとか太ったとか、美しいとか醜いとか、病気があるとかないとか、 そういうわかりやすいものだけでなく、もっと内側から感じられるものがある。 形にずっとこだわってきた自分は、パターンの中で動いていたのかもしれないなあと思いました。 そんな生きている実感、生命力って、どこかの場所へいかなくても条件を揃えなくても、いつもここにあったんですね。

元気もらいました

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待ちに待った岩手クラスの勉強会。 現地集合者とZOOM参加者とで、前回よりもまたみなさんの存在がとても近く感じることができました。 この勉強会を開催するまでに、実はいろいろあり・・・(意味深ですみませんが) 同じ『魂の道場』で学ぶ仲間だからといって、とうぜん同じ答えをもっているわけではなくて、 コロナへ対する捉え方も、今何を一番にするかという選択肢も、本当にあたりまえのことなんだけれど、 一人一人違っていたことに、まず私自身、軽く衝撃が走ったのが約三週間前。 そんな中、今日はみなさんの近況報告を聞きながら、 それぞれ抱くパターンの話が、自分の中のパターンと重なったり、 似ているけれど、理由としては少し違うパターンだなあと思ったり、 また、へえ~そういう感じ方もあるんだと、少しの驚きを感じたり、 はじめてその人の見ている世界を想像することができたり・・・ まるで、よそのうちの子を見るかのような感覚もありました(自分ちの子どもとの違いを感じる)。 この、よそのうちの子(みんな違うんだということ)が、また愛おしく感じた感情って何なのでしょう。 まったく否定もなければ、そうじゃないんだよと思いもしない、むしろ、 「そんなふうに感じていたんだね」 「そういうことだったんだね、よーく、わかったよ」 みなさんの話を聞きながら、 語りかけをしているときのような、たんたんとした感じの自分もいた。 それにしても、パターンっていろんな種類がありすぎる。 これだけいろんなパターンが確固と存在しているのだから、 パターン以外で行動するって、本当にすごいこと(尊いこと)だと今さらながら思いました。 でも、そのすごいことだと思っていることこそが、本来、自分がこの世に生まれてきてやりたいこと。 そう、ここを忘れたくない。 何度も何度も挑戦しながら、思い出しながら、少しずつ「私」を取り戻していきたいって思いました。 これが、コロナからわたしが受け取った、いま一番大事にしていきたいこと・・・。 今日の勉強会では、うれしいことがもう一つ。 しばらく体調をくずしていた方が、元気な顔をみせてくれました。 画面ごしだったからこそ、会えているようなまだ会えていないような、 こういうもどかしさが、意外とよろこびを倍増させてくれた(ZOOMもいいとこ

自分がいいと思える仕事

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友達が会社を立ち上げたと聞いて、お祝いのお花をもって遊びに行きました。 こじんまりした事務所は、必要最低限のものだけが置かれとてもすっきりしています。 以前借りていた方がきれいにリフォームされていたため、まるで自分たちでデザインしたかのように、明るくもとても落ち着きのある空間でした。 「うわ~自分の城だね~」 「なかなかいいでしょう~」 本当にうれしそうで、わたしも一緒にわくわくを味わいました。 開業したいと思ってから数か月、もしこの店舗が空くようなことがあれば・・・と思い描いていたそうです。 そして、次のステップへと進む原動力となったのが『あるストレス』だったと話してくれました。 そのストレスはだんだん大きくなり、本当に彼女を苦しめたそう。 それゆえに、ここからただただ逃れたいというところも越えて、 自分の好きなやり方で、自分でこれがいいと思える仕事がしたいと、心底思ったそうです。 だから、ねらっていた店舗が空いたとき、全く躊躇なく、ここから始めようと思ったのだそう。 今までの仕事をやめるときにストップがかかること、 この理由でやめたら、きっと後悔するだろうし、また同じような問題が目の前におこるだけ、と考えてしまう常識があります。 人間関係が嫌でやめること、次の仕事のあてがないのにやめること、 生活が以前より苦しくなるかもしれないのにやめること、 今、とにかく辛くてやめること、なんとなく合わないなと思ってやめること等々。 そういったことでは、また同じことを繰り返すだけだよと、言われたものです。 ちゃんとクリアしてから、次に進まなければならないと。 でも、本当に時代が変化しているとしたら、 そんな常識も、もうすでに変わってきているのかもしれません。 自分の感覚を信じて、本当の「私」が選びたいものは、楽しさ、軽さ、明るさ、わくわくするものはどっちの方向にあるのか・・・ 少なくとも、他人のセンサー、価値観、感覚では選びたくない。 「これで思いきり仕事ができる!」 彼女のふっきれたようなさわやかな顔、さらっと言ったことばが胸にズキーンときます。

気づきと希望と優しさの中で

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『魂の道場』 でカウンセリングを受けました。 先生から言われたことばの中に、自分がまったく気づいていなかったことがありました。 一つは、焦っていたということ。 もうこのパターンを早く落ち着かせて、早く楽になりたい・・・ という動機がどこかにあって、語りかけをしていたということです。 この苦しさから解放されたい、この白を選べば楽になっていくはず、今度はもっとしっくりくるものを選ぼう、というように。 何度も何度も語りかけをしているのですが(回数だけはやっている)、 そこに思考がどんどん入り込み、誰が語りかけをしていたのか?という状態になっていたんだなあと思いました。 焦っているというのは、本当の「私」ではないです。 本当の「私」ならば、ケアをすることで疲れてしまったり、頑張りすぎて息切れするような、そういうことなどない。 ●そんなパターンを持っていることが嫌、というパターンがいたということに気づきました。 もう一つは、●○○さんが嫌い、というケアについてですが、 どこが嫌いなのか、もっともっともーーーーっと、具体的に嫌いなところを見てあげなければいけなかったということ。 特に、ずーっとパターンが嫌いだといっている人だと、もうとにかく全部が嫌い・・・に省略されてしまいがち。 こんなところも、あんなところも、って自分の思い通りにならない部分を、 ちゃんと細かく代弁してあげていなかったなあと思いました。 最後に、意識から現実が創り出されていることを思い出させていただきました。 いろんな条件、手段を考えて、そこから可能な現実を創っていこうとしがちですが、 それよりも、自分はどんな意識をもっているのかが先。 今この変化のときに、これまでの経験と知識をこえて、自分が本当にやりたいと思うこと(楽しいって思うこと)を信じて、 そこだけを気持ちよくやっていけばいいと感じました。 先生のカウンセリングは、気づきと希望、そしていつもそこに優しさを感じます(厳しくも優しい)。 わたしもクライアントさんと、そういうかけがえのない時間を、本当の「私」を使って共に過ごせたらと気持ちをあらたにしました。 焦らず、早くどうにかしようとせず、そして丁寧に自分を観察していきたいと思います。 いつも、ありがとうございます。

がんばりすぎないように

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今、ケアをしている、 ●○○さんを嫌ってはいけない、の白パターンとして、 新しく浮かんだものが、 〇もうそこに居続けなくてもいい、でした。 イメージとして、荷物をまとめて「じゃあね~」と明るく言って出ていく感じ。 黒パターンの部屋に入ったときの感覚を味わっているとき、 この先もずっと、この息が詰まるような、重苦しい世界の中だけで生きていたくはない、と思った。 そして、白パターンの部屋に入ると、 今までとまったく違ったことができる、感じられる、考えられる、新しい自分になっていけるんだ、 だからもう、あの部屋に居続ける必要はないんだよ・・・ そういう声がしました。 今はこれがすごくしっくりきます。 黒パターンの真逆で白パターンを考えると、 ○○さんを嫌ってもいい、になるのですが、 嫌っていいと思うことで、なかなか心は軽くはなっていかなかった、というのがありました。 これは、嫌っていいということはちゃんと理解しているけれど、 本当は、嫌っていくこととは違う選択をしたいと思う自分がいることも感じている(嫌うことを否定するのとは違いますよ)。 かといって、 もう好きとか嫌いとか考えたり悩んだりすることに、執着しない、こだわらない、 ということ自体に、結局こだわり続けているような感じがありました。 そして、一つだけ、安らぎや軽さや明るさを感じられるとしたら、 ●○○さんを嫌ってはいけない、というところに自分がいつまでも居続けていること、縛られていること、 そこから脱出できたときの自分かなと思います。 そうなれたら、ほっとするだろうなあ。 現実には、ではその黒パターンの部屋を出ることを選んだ後は、どういう行動をとればいいのか、 まだ先があります。 好きとか嫌いとか、どっちかの感情しかないと思うことをやめてみる、 もし嫌だなと感じたら、その感情をちょっと横においておいて、休憩に入る(頭、できれば体も)。 思考をストップさせて、感情をちょっと横においておいて・・・ これをやってみています(実験段階)。 もしかしたら、パターンをおもりできずにいる未熟な「私」が、ちょっと息切れしているのかな、と思いました。 パターンのケアって、頑張って力んでやるものではないですね。 もうちょっと、ゆとりというか、隙間を作りながら

春の天ぷら

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この季節だけのご馳走、山菜をいただきました。 こごみという山菜は、いつもはおひたしにしてマヨネーズでいただいていましたが、 今年は天ぷらにしてみました。 これがもう~~~おいしすぎる・・・いくらでも食べられる・・・ 塩&めんつゆ&塩&めんつゆ、で、交互に食べる。 元々我が家では天ぷらをよく揚げます。 そろそろ揚げ物を遠慮したい年齢ではありますが、 山菜は特に天ぷらがおいしいので、ついつい食べ過ぎて胸焼けしまうほど、食べてしまいます(うう~懲りない)。 食べ過ぎるとお腹をゆるめたりもしますので気をつけなければなりません。 山菜特有の苦みやえぐみは、冬の間体に滞ったものを流してくれますので(肝臓の解毒作用)、 春の大掃除として理にかなっているようです。 すごいぞ、山菜~ でも本当に大好物の腹八分ってむずかしいですね。 そんな、季節限定の山の恵みを、あたり前のように毎年届けてくれる方がいました。 たらぽ、しどけ、こごみ、みず、うど、わらび、ぼうな、うるい等々。 その方のおかげで、名前も調理法も少しずつ覚え、 何より「春」という季節を運んできてくれているかのようで、本当に毎年待ち遠しいのです。 朝5時、6時?玄関先でごそごそと物音がしたかと思うと、 採りたての山菜が入ったビニール袋が、玄関ドアにぶらさがっているのでした。 でも・・・ その方は、去年天国へ旅立ってしまいました。 山の恵みもそれを採ってきてくれる人がいなければ、いただくことができませんよね。 本当にありがたいことだった・・・ これから毎年、山菜を食べると思い出してしまうのだと思う。 わたしも夫も大好きだった人。 今も誰かに、あたり前にしてもらっていること、特別なことだと気づかないでいること、 普通になってしまっていることはいっぱいあると思います。 今日一日をふりかえっても、 今朝のゴミ当番、自分たちの代わりに、後片付けをやってくれる近所の方がいるから安心してわたしは出勤できた。 勤務中、ガソリンが少なくなると必ずつめてくれる職員○○さんがいるから、何も考えずにすぐに車をだせた。 夕飯後、だまって食器を洗ってくれる夫がいるから、せめておいしいものを作ってあげたい?自分がいた。 わたしのささやかな日常に登場し、さり気なく助けてくれる方たちへ、

ありのままって?

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自分の心にどうしても他人が入ってきて、苦しい・・・ということがあります。 こういうときも、いつもの語りかけからはじめるのですが、 「自分の気持ちをありのまま受け入れよう」 と、自分を否定しないように一般的には言われたりします。 この『ありのまま』って・・・何なんでしょう。 今やっているパターンのケア、 ●○○さんが嫌い というのが、ありのままの自分だと仮定すると、 そのときの自分の感情に、なぜ嫌いなのかありのままの理由を聞いていきます。 いったん、「嫌いだ」と言ってしまうと、不思議と堰を切ったように、相手を責める声がこれでもかと出てきます。 これは、パターン=ありのままの自分、ということになるのでしょうか。 ●○○さんを嫌ってはいけない 「嫌い」とはっきり口にすることに抵抗感、罪悪感、道に反した感じ、己の醜さ等々、 嫌うことはいけないことだと感じてしまう自分がいるときは、ここが隠れていることもあります。 今、まさにこのパターンの語りかけをしているのですが、 なぜ嫌ってはいけないのか聞くと、 カウンセラーとしてどうなのか、そんなんでカウンセリングできるのか、 という今の自分を否定し不安にさせ、責め続けることばが出てきました。 これが出てきたときは、 やっと、ありのままの自分が姿を見せた・・・と思いました(パターンが、やっと理解してもらえたとほっとした感じ)。 「嫌う」気持ちがあっては、どこかかっこ悪いというか、何か成長していない感が否めない、と思うパターンがいたのですね。 やはり、ありのままってパターンか? ●○○さんを嫌っているパターンがあることが嫌 こういう、パターンがパターンを嫌うということもあります。 対象が他人だけでもなく、あらゆるパターンをもう受け入れたくない、という気持ちに占領され、 すべてパターンがあるから苦しめられるんだって、思っている。 この3つのパターンは、どれも何かを責めています。 そのままで存在させないように、いつも必死の抵抗です。 でも、本当の「私」は誰も責めてはいない。 どんな感情を持っていても大丈夫だと言っています。 本当は、嫌いではないかもしれないし、嫌ってはいけないわけではないし、嫌っているパターンがいてもいい。 そして、 〇もうそこにこだわり続けなくてもいい

マイペースをやめない

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久しぶりに娘と一緒に土いじりをしました。 わたしは、草むしりを目にとまったところからやりますが、 娘は端からせめていきたいタイプ。 しかもスコップを持ちだし、根っこの先っぽを突きとめて引き抜くまでが草むしり。 途中、出現する虫にわたしは息をのみながらのけぞり、どこかへその虫を移動させるタイプだが、 娘は悲鳴をあげ、自分が移動していくタイプ。 わたしはすぐ休憩したがりだけど、娘は一気にやってしまおうとする。 こうして、一つのことをやっていても、こだわるポイントがそこかしこ違っているのが、おもしろいです。 一緒に暮らしていたころは、娘のマイペースさと衝突し、イライラさせられることがよくありました。 何でこうも、相手のことを考えずに自分のやりたいようにやれるのか、 こらっ、親の言うことを聞け~、というよくありがちなパターンを自分は持っていました(今もあると思うが)。 でも、そこから救われたのもこのパターンのおかげだと思います。 どんなに自分のパターンで怒ったり、パターンが言う正論で責め立てても、娘はマイペースをやめなかった。 怒られた後も、何となく静かに水面下で(さも親の言うこと聞いてますよ的に)見えないように、 相変わらず、自分のペースで部屋のちらかし具合も勉強もおたくの趣味もすべて続行していた・・・ ここにいよいよもって、自分が向き合わないことには生きにくくて仕方ない、 と自分自身が思うようになり(もう向き合わざるをえない)、 語りかけをし、そして距離をおいた時間の中でのお互いの異なる経験が、少しずつ選ぶ白パターンの種類を変え、 また、黒パターン無くならなくてもいいかも、と感じられるようになりました。 〇親の言うことは聞かなくてもいい もう子どもを変えさせようと頑張らなくていいのですから、 この白を選ぶと、肩の力がぬけて、ふーっと笑ってしまいます。 自分の中にあるパターンが長い間そのままにされていたり、 語りかけをしているのになかなか心がおだやかにならないというとき、 そのパターンが存在していることへの嫌悪感を、感じているのに感じないようにしむけているものがあるかもしれません。 なぜならば、ネガティブなことばかり言ったり、反対に自分がどれだけ優れているか、相手より上なのか、 そういうことばかり考えたり思ったり

気持ちも行動も新しく

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今自分は、新しいことに挑戦しているような気がします。 出勤してから一日中、事務所にいる・・・という仕事の仕方(テレワークの逆を行く?)の中での模索。 企業訪問もできなくなり、また今まで利用者さんと出かける必要があったいろいろな場所へも、 今はそのタイミングをずらしています。 電話で用事が済むこともありますが、やはりちゃんと生で顔を見て、目を見て、 息遣いを感じて話しをしたいなあって思っても、今は我慢。 テレワークを取り入れている企業はとても増えていますが、 医療、介護、そして福祉の世界では、ほんの一部の業務しかそこはできないのが現実としてあります。 必要としている人が、そこへ行けなくなってしまう事態を防がなければならないので、 休業はしませんし、できる限り安全に安心して来てもらえるように、万全を期しての対策を行って開所しています。 ですから、わたし自身の外勤がなくなっても、事務所の中で今できることをやっているという状況。 ほぼ毎日、どこかしら外へ出ていた自分が、ほぼ外へ出なくなり、 精神的にも肉体的にも、業務的にももどかしさを感じます。 これまでやろうやろうと思ってできなかった資料作りなど、やれて助かることもあるのですが、 そこではない事(本来の業務)をやりたくなってしまいます。 その気持ちをまぎらすように、おもむろにストレッチをしてみたり、駐車場でぐるぐる肩回しをしてみたり、 さほど用がないのに利用者さんのところへ行ってみたり(作業のじゃまをしない程度に)・・・と、落ち着かない。 慣れない、というところから、自分だけがなかなか脱出できずにいる感じがしました。 そして、変化に弱いなあ、とも思いました。 こんな感じが約一か月続き・・・ やっとですが、 今まで見ていたつもり、分かっていたつもりになっていた・・・ ということに気づかされました。 中にいる時間が増えたということは、利用者さんといる時間、職場の人たちといる時間が長いということですから、 良くも悪くもいろんなことが見えてきます。 それは、自分自身もまわりから見られているということでもあり。 人と向き合うことを、もう少しじっくりやっていこうと思いました。 早く以前のようにまた仕事ができますように、というよりは、 より安心して、楽しく働ける人がふえてい