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一歩を踏みだす勇気

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自分に必要なもの・・・ 真っ先に頭にうかぶものは【勇気】です。 自分がケアするパターンを見つけたとしても、 そこから実際に言動を選びかえていくには、実践という勇気がいるからです。 本当の「私」が選択したものは、 なんとも言えないやすらぎ、広がり、こころの軽さを感じます。 その感覚にひたりながら、 実際の言動を考えていくのですが、 ここでもやはり、広がりや軽さを感じられるものはなにか?と選んでいきます。 でも、さっきまでパターンが騒いでいたものにふれると、 そのパターンでいることに慣れ過ぎてしまっているので、 変わるという勇気がしぼんでしまいます。 怖くなってしまって、また心はふさがり、 重たい空気に包まれてしまうのです。 ここから抜けるには、 あの「私」が選んだ感覚を思い出すこと。 そして、一歩を踏みだす【勇気】なのです。 いざ、勇気を持つと自分が決めると、 本当におどろくほど、というか、 あっけないほど、 この行動をしてよかったと思う結果につながります。 今までとは違う道が、どんどん目の前に広がっていくような感じがするのです。 それは、 もう大丈夫!ガンガン行けるぞ、 という派手なものではなく。 そうだよね、こんなふうな気持ちでいたかったんだよね、という、 ささやかでありながらも、進みたい道を自然に進めるよろこび。 といったらいいでしょうか。 いろんなことを日々思い出しながら生活しているのだと思いますが、 こういう感覚を日に何度も思い出すということは、 カウンセリングを通して学んだことの一つでもあります。 知識とはちょっと違う、自分が感じとるというもの。 パターンを選びかえることに勇気がいるものと、 そうでもないものと、パターンの根深さでいろいろあります。 今年も残りわずか・・・ 勇気を使っていこうと思います。

親としては・・・

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Xmasが近づくと、 娘の誕生日とあわせて洋服のプレゼントを一緒に見に行きます。 娘としては、買ってもらうのだから、 普段買わないようなものにも目がいくし、 私は、実用的に仕事でも着れるようなものがいいんじゃないかと眺めています。 何回も試着をし、 やっとセーターと流行りのベストをプレゼントしました。 この時間が、毎年とても楽しくてうれしくて・・・ たぶん娘がいい歳になっても、 わたしの収入が減っていっても、 小さくかたちを変えても、このお祝いは続くのだろうな~と思います。 娘と離れて暮らすようになって5年。 夫には車関係の用事で、私には食糧の調達で、 ちょくちょく帰ってきます。 娘が帰ってくると夫は、 しっぽ全開にふる犬のように大喜びです。 でも、私とふたりでどこかに出かける話を聞きつけると、 これまた飼い主が出かけてしまうのを察した犬のように、しょんぼりしています。 そのわかりやすいリアクションをみて、ゲラゲラ笑う娘と私。 そんな日常に幸せを感じています。 以前は、『親』という言葉を自分が使うことに、 ためらいというか、 申し訳なさというか、 心に何か引っ掛かるものがありました。 親としては・・・子どもにこうなってほしい、 というフレーズをよく耳にするとき、 確かに自分も親なんでしょうが、 本当に親らしいことをしてきたか?というと、 自信がありませんでした。 『親』というには血のつながりだけではないのは、わかっていても、 母親として欠けているものが自分にはあるんだと思うと、 とても複雑な気持ちになります。 もしも、出産という経験があったら、 もっと正しい愛し方(とにかく愛情たっぷり)で育て、 娘はもっともっと幸せだったのではないか・・・ という思いが心の奥にずっとあります。 あのとき、もっと抱きしめてあげればよかった。 あのとき、どうしてもっと話を聞いてあげなかったんだ。 あのとき、あきらかに娘をにくたらしいと思った。 親だったら、ちゃんと抱きしめてあげただろうし、 小さな子どもの話は聞いてあげただろう。 にくたらしいなどと、そういうことを感じる自分であってはならないと、 そう思う母親などこの世にいないのだと思っていたからです。 3歳から急にママという存在の人が現れ、 私も急に子育てがはじまり、 元々親子だった夫と娘の仲のよい関係にやきもちをやくこともありました

南部湯守の宿

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つなぎ温泉 に行ってきました。 この日をどんなに待ちわびたことでしょう! 地元ですから、車で30分ほどで到着。 なんかもう、気持ちがうっきうきで、 箸が転んでもおかしい年頃・・・ではないはずなのに、 楽しくてしかたありませんでした。 料理も温泉も、部屋でM1を見ながらくつろぐ時間も、 すべて大満足でした。 帰るときは、まだまだここに居たーーーい! 延長料金っていくらかかるんだろ? と、ホテルの人に聞いてみようかと思ったほど。 (それは無駄使いだ、と思い直す・・・) 雪景色を眺めならの露天風呂って、 本当に気持ちがいいですね~最高でした。 で、・・・ なんでこれほどまでに楽しいんだろう、とふと思いました。 おもしろいだけでなく、 温泉で身も心もあたたまり、くつろぎ、 この大自然の恩恵に、疲れもすっかりとれていくようで。 たぶん、わたし、 今日までがんばったんだろうな。 と思いました。 (自慢したいのではないですよー) がんばったこの3か月あまりのことを思い、 それへのご褒美をもらったように感じたのでした。 こうして、自分自身が、 素直にうれしいとかほっとするとか、 感じられたことがよかったなと思いました。 温泉に泊まりに来れたというのも、 両親が何事もなくこの2日間いてくれたということもあるし、 会社も休みをとれたということもある。 また、夫も元気でいてくれたから一緒に行くことができた。 そういういろんな条件がそろって、 温泉を満喫できたのだということで、 喜びもひとしおだったのかもしれません。 感謝したいです。

みんなで共鳴

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今日は今年最後の、いわてクラスの勉強会でした。 なにを勉強したか・・・? 内容をはしょりますと、 自分が一秒一秒、どんなカードを選んでいくのか! それにつきると思いました。 そのために、パターンのケアをとおして 本当の「私」を育てていきたいですね。 そしてまた、自分から発せられるものが、 よりクリアになって、よりよいものであれば、 それをサポートしてくれる、後押ししてくれるものも動き出します。 今日は、それらをあらためて考える機会となり、 とてもとてもよかったです。 それもこれも、そこに集まる人の、 よいものを選んでいきたいという素粒子たちが、 共鳴し大波を起こし、結果を導きだしたのだと思いました。 先月のセミナーに参加できなかった、 Yちゃんのおかげです! みんなでYちゃんに学んだことを伝えるという今日の勉強会。 実は自分が一番ためになった・・・のでした。 みんなの板書での説明が、 おもしろくてわかりやすくて、素晴らしかった。 誰かの不調があって、 自分たちがより学びを深められた・・・ということがあるので、 自分一人に起きていることではなく、 いいこともそうでないことも、 常に誰かに影響をあたえているのですね。 そして、 来年の岩手合同セミナーにむけての役割分担も、決定! どきどきしながら、 7人で発信していこうと思います。

小学生の忘れもの

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今日はとても寒い一日となりました。 雪もけっこう降りましたので、朝は道路も渋滞となって、 遅刻しないかどうか、祈りながら出勤しました(なんとかセーフ!)。 よく見る夢で多いのは、学校や職場に遅刻するという夢です。 時計を見ると、完全に間にあわない。 というより、もう数時間は過ぎてしまっていて、 遅れた言い訳を必死に考えている・・・というものもあります。 そこにプラスαで、忘れものがある。 というのもよく見る夢です。 遅れたぶんざいで、さらに持ってくるの忘れた! それはそれは、ひやひやもんです。 あーーーまたやってしまった、 と夢の中でひどく落ち込んでいることもあります。 おそらく、この手の夢を見てしまうのは、 小学生の頃の強烈な思い出にあると思っています。 体育でスキーの授業がありました。 たしか小学2~3年生だったと思うのですが、 前の日から、よくすべるようにとスキー板にロウをぬって準備をしていました。 スキーは結構、子どものレベルでは滑れていた方だったので、 得意なところを見せたいという気持ちで、 うきうきしながら朝を迎えたと思います。 当時は時代がまだ、車を運転しないお母さんが多かったので、 今のように、学校に子どもを送っていくとか、 スキーを運んであげるということもなく、 子どもたちはみな、親に頼らず、重たいスキーやスキー靴を自分で持って、 息を切らしながら登校していました。 2日間にわたって運ぶ子もいましたが、 わたしは持っていく日の話をちゃんと聞いていなかったのか、 1日で持っていくことになりました。 雪道で、ただでさえ歩きにくい中、 学校にやっとの思いで到着するとー みんなの様子をみて、すぐに顔が青ざめました・・・。 ラ、ラ、ラ、 ランドセルわすれた!!! 一目散に、家までの近道を泣きながら戻ります。 雪にずぼずぼ足をとられながら(長靴の中に雪が入って冷たかった)。 だれも歩いた足跡などない、まっさらで真っ白い雪におおわれた広い畑。 そこを少しでも近道したくって、 対角線上によこぎり、ひたすら家を目指して歩く。 本当だったら、こんなきれいな雪の上を歩けるなんて、 そんな贅沢めったにないことなのに。 味わってはいられない。 足跡がないところって、 早く歩きたくても、ずぼずぼ入って歩けないんですよね。 全然進まない!というもどかしさに、また泣く小学生のわた

引き出しを忘れるな

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先月から、ある新しい仕事に取りかかっています。 その動きが今月に入ってより具体的になり、 自分の気持ちは、 そこにぐーーっと集中している感じがあります。 自分が想定していなかったこともいろいろ起きて、 他のことはもう何も考えられず・・・ 頭がパンクしそうになっています。 当然、そういうときは、 なにかしらのパターンにも引っかかっていてー。 ●(能力がないから)自分にはできない ●(やることがいっぱいで)一人では無理 ●(センスがないから)自分にはつくれない ●(経験がまだまだだから)自分には書けない と、どれもこれも『自分にはできない』というパターンのすりこみが、 あらためてすごいなあと思いました(感心してしまった)。 自信などはじめからなかったけれど、 自信がないからできないと言っていたら、 一生なにもできない。だから、やる。 しかし、そもそも、 今自分がはじめようとしていることは、 本当に自分がやりたいようにやっていけるものだろうか。 この選択は間違っていなかったのだろうか。 周囲の反応に、 また胸のあたりがざわっとしているときがあるのです。 ぶれずに突き進むーって、 とてもかっこいいことだけれど、 こうして迷いながら、悩みながら、 心臓がばくばくしていながら、 相談してみて相談しなければよかったと思いながら進んでいる自分は、 はじめの勢いがゆらぎだし、 パターンのケアを毎日している状態です。 結局は、自分がどう在りたいか。 本当にそれにつきる。 すべてが自分の思う通りにはできないけれど、 今、自分がやっていることの目的を見失わないようにしたい。 あたえられた環境でまずはやってみよう。 失敗を恐れず、自分らしくやってみよう。 なんか違う~~って思ったら、 ぐいっと方向転換をしていこう!とあらためて思いました。 そして、自分の中にある本当の「私」を信じて。 変えられることと、変えられないことを見極めていこう。 こうして日記を書いていると、 自分の引き出しって結構たくさんあるのに(誰にでもあります!)、 自ら開けてみようとしないだけかも・・・と思いました。 ・根拠はないけれどやれそうな気がする ・黒パターンに『だまりなさい!』と言う ・大元とわたしはパイプでつながっている ・わたしは白パターンを選ぶ、選ぶ、選ぶ ・自分は非凡な人間です! などなど、まだまだありました

みんなちがって

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人それぞれでいい!と思いました。 みんなちがって、みんないい・・・ と言ったのは、詩人の金子みすゞさんでしたね。 先日、自分と意見がまったく逆の話が出て、 わたしは自分の考えについてあれこれ話しました。 それを聞いた相手は、自分はそうは思わないと、 やはりあれこれ言ってきます。 どこまでいっても平行線のまま。 でも、翌日、もう一度相手の言ったことを考え、 この違いは、経験の違いなんだと思いました。 相手が経験していることを自分はしていない。 また逆もしかり。 だから、それぞれが体験したことをもとに考えると、 答えが違うということだったと思いました。 また、今日は、かかりつけ医のところに行ってきました。 先生は、最近急激にコロナ感染者が増えたこと、 インフルエンザと同時にかかった患者さんがいて、 市内の病棟がもういっぱいになってきて大変な事態になっていること、 こんな状況なのに、岩手県民はもう自粛することを忘れてしまったのか、 忘年会なんてしているところもあるし~まったく! と言っていました。 先生が、話した内容よりも、 診察時に結構な時間、患者であるわたしとおしゃべりをしたことに、 正直おどろきました。 しかも、 会社の忘年会で、わいわい楽しく飲んできたばかりの自分。 先生が、まったくけしからん!と思っている人間が、 今、目の前に座っていますよ・・・ 自分が思っていること、感じていること、していること、 それらとは違うものをもっている人たちがいます。 その違いがあっても、こうして関係性が築けていて、 なるほど~と思えることもあって、 適度な刺激や発見をもらい、 違いを知ることが、自分を豊かにしてくれているような気がしました。 そして、そこに、違いを悪とせず、 どちらが正しいということも思わず、 ただただ話を聞いていく。 すると、相手が違っているという視点から、 自分が違っているという視点にもなるなあと思いました。 世間一般的には、相手の言っていることが多数派で、 自分はごく少数派。 それだけのこと、といえばそうです。 多数派も少数派もどっちもいい、ということですね!

心と体はつながっているという意味

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心と体はきっても切れない関係があります。 ・・・って言ってしまうと、 体調不良は心の問題と、そこにフォーカスしてしまう方は多いように思います。 自分は心が不安定だからだめなんだとか、 心が弱いからだとか、余計に考えてしまうのです。 道場では、そう思っているのは『パターン』であると言い切ります。 そう思う気持ちも、実はとても大事な存在であり、 消さなくていいものであり、 むしろ、そう思っていていいのだという考えです。 それは、『心に問題があるから体調不良になるんだと思うパターン』も、 自分自身であるからです。 体調不良は心の問題だ・・・ と世間一般的に理解されるようになってきて、 それが心に向き合うためにいい面もあるのですがー 一方で、体調不良だということすら、 なにか罪のように、言えなくなってしまう風潮もあるように思います。 ちょっと具合が悪いんです、休みたいんです、疲れてしまったんです、 と言ってしまうと、 自分が(自分の心が)問題を抱えていますと認めてしまうような、 怖さもあるのかもしれません。 なにか悩んでいる? なにかあった? と、他人に知られてしまうことの、恥ずかしさのような、かっこ悪さのような、 自分の弱さを知られたくないと感じてしまう人もいる。 そう、弱いことはだめなことという思いこみも、 パターンであるだけで、本当の「私」はそこにだめという判定はしません。 心と体はつながっているということの、 本当の意味はなんでしょう。 心が悪いと体が悪くなる、心がいいと体は悪くならない。 という両極端な感じのものが、意味付けされていると、 かなりしんどくなってしまいますね。 そうなると、 元気はよくて、元気じゃないことは悪いこと、 にもなってしまいますよね。 これは、子どもは元気が一番とか、 早く元気になってね、とか、これも、 元気になることがいいことで、それ以外の状態はだめなんだよ! という教えみたいだなと思いました。 さらに、元気=正しく生きている、それ以外=間違った生き方、 みたいにもなっているのでしょうか。 大人になっても、 体調の良し悪しで、なんとなく人の心の状態まで同様に捉えてしまいがちですが、 体調が悪くても気持ちが前向きになっているときもあれば、 健康なときよりも心おだやかに過ごせることもあるのです。 心と同様、肉体も巧妙で繊細で非科学的ですので、

自分勝手にやってみる

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今朝は雪が降りました。 すぐにとけてしまうような小雪でしたが、 今年も長~い冬が来るんだなあと、ちょっと覚悟した朝でした。 今日は、世のため人のため、 そして自分のために仕事をしているという話を聞きました。 世のためと人のためというのは、 自分が充分幸せでないと、なかなかそうできないものです。 でも、もっと違う領域では、自分のことなどどうでもよくて、 人のため誰かのために生きている・・・ という人もいるのだと思います。 そこまで自分はいっていないので、 まずは自分がハッピーな気持ちでいられること。 そこを大事に、いろいろなことを判断し、決断し、行動していきたいです。 福祉の世界で働いていると、 いつも困っている誰かのために、 考えたり、動いたり、なにかしてあげているように見えるかもしれません。 人についてはよーく考えるけれど、 自分について、今自分はどう思っているんだろうか? などと、いちいち考える人は少ないと思います。 でも、そのわりには、 自分の都合で相手にしてあげていることってあるように思います。 自分の都合というのは、 自分がしてあげたいと思うことだけするということ。 したくないことはしないのです。 これって、自分勝手だと思われるかもしれませんが、 自分も万能ではない普通の人間ですので、 自分ならこれはできるけど、これはできない・・・ でいいのだと思います。 さらに、それをするときの基準は、 それをやって自分がおもしろいと感じるかどうか。 楽しいと思えるかどうか。 それをする、やる気に満ちあふれているかどうか。 そういう判断でいいのだと思いました。 そういうある意味、自分勝手さがあってもいいのだと・・・ 自分勝手という意味付けが変わってきたように思います。

心が笑う

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いつもの何気ない会話をしていたとき、 わたしはこの人から助けてもらっている・・・ と感じました。 これまでも、 感謝してこなかったわけではないのですが。 何かをしてもらったという実績?や、 してもらったことの内容ではなく、 なんというか、 心のリセットをしてもらっているなと感じたのです。 それも、いいタイミングで。 いつの間にかパターンでやっている自分。 パターンで行動しているときは、疲れます。 そんなときは、その行動をストップし、 何も考えずにぼーっとして一点をみているような、 そんな時間が一日の中であります。 そういうときは、 魂がしばしの休息に入っているのではないかと思うほど、 現実であって、ちょっと現実から離れている感じ。 そこに、ときどき、 ふっと心が笑うような、 心がポッと温かくなるような声かけを、 その人はしてくれるときがあるのです。 むろん、本人は何もそんなこと思って 声をかけてはいないのでしょうが。 なにか問題を解決するとか、役立つ知識を得るとか、 そういうことではないもので、 人の役に立てるっていいなあと思いました。 そこで、その人に日頃の感謝をこめてお菓子を渡しました。 仕事を手伝ってもらったお礼に~という理由をつけて、 奥さんにどうぞ!と。 それがまた、なんで奥さんに? と笑って、ちょっと喜んでもらえたので、 素直に自分はうれしいなあと思いました。 見渡せば、自分を励ます人、鼓舞する人、ねぎらう人、 支えてくれている人、助けてくれる人がいます。 見えないものたちに守られていることは、感じていたけれど、 見えている方たちにも、 支えられているんだなとあらためて思ったのでした。

複雑に見えるものを、簡単に

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おかげさまで父も小康状態になり、 食事のときはベットから起きて、車椅子で食べられるようになりました。 食事のときの姿勢ってとても大事なんですね。 まっすぐ体を起こすというだけで、 大部スムーズに喉を通るようになりました。 食べれる姿を見れるのは、本当にありがたいことです。 ばたばたした日々が続きましたが、 こういうときに限って(これって宇宙の法則なのか?)、 本当になんで今なのか!と思うほど、急ぎの仕事が入ってきます。 しかも、これまで対応したことのないものが・・・ 先日の、延命治療をするかどうかのせっぱ詰まった状態のとき、 私は一人、少し薄目を開けた父に向かって、語りました。 これからどうしたらいいか、心細く思っていること、父ならどうするのか、 そして仕事のことも、 とにかくたくさんのことを父に話し、泣きました。 すると、父は突然、かすれた声で か・ん・た・ん・だ・・・ 「・・・簡単だ」と言ったように聞こえたのです。 ん?今のは、なに? 簡単だって言った? それって、どういう意味なのか、意味はないのか、 偶然言っただけなのか。 そのときはわかりませんでしたが、 今になってふりかえると、難しいことじゃないぞ、と言いたかったのかなと思いました。 自分が感じたこと、思ったことをそのまま行動にとっていった数日間。 もちろん、パターンはさわぎ、感情も静まらないこともあったけれど、 なにかとてもスムーズにいろいろなことが進んでいったなあと思います。 簡単なことだった、とは言えませんが、 自分がそう思っていると誰かが動いてくれたり、 動いたことにつながって、また自分が落ちついて選択できたこともあった。 いろんなことが続いたけれど、 複雑にしていかなかったことが、とても良かったと思いました。 一つのことに感じる心があって、 それを軽く明るく広がっていくようにすると、 自分の取る行動が決まります。 そして、そこから、 また違う一つを感じては(パターンが動いては)、 本当の「私」が決めていく作業が続きます。 ときに思考をフルに使って、考え抜くという場面もありました。 考え抜くというそれも良かったかもしれません。 この2週間は、父のことと、仕事のことは、 別なことのようでいて、つながっていたのだと思いました。 感じた心を落ちつかせ、自分を強くもって、考え判断していく。 起きている出来事

祈るということ

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今日もまた父に驚かされました。 朝から訪問に来ていた看護師さんの顔を見て、 「おなか、すいた・・・」 人らしい言葉がついに出ました。 ついに食欲がでてきたのです! この一週間、 父はまだご飯を口にすることができませんでしたが、 昼食になると、今度はミキサー食をほぼ完食したのでした。 夕飯は、さらに食欲が戻ったのか、 食べさせようとした看護師さんのスプーンを奪い取り、 自分で食べたのだそうです。 父は、三途の川の手前でかろうじてとどまり、 そのうち、おなかがすいてきて、 こちらの世界に帰ってきてくれたんだと思います。 連日の歌や踊りも、まだこっちの世界にも楽しいことあるなあと、 思ってくれたのかもしれません。 むせて誤飲するのが怖いと思うと、 なかなかご飯を食べさせるというのは、 介護する側は勇気がいるのだと思います。 でも、もしも喉が渇いたり、おなかがすいたって父が思ったのなら、 むせるかもしれないけれど、食べさせてあげたい。 訪看さんと私たちの価値観が一致し、 父が食べたいと思ったときに食べられるように、 体制を整えてもらいました。 父のことで毎日の祈りも、すっかり長くなってしまいました。 具体的にお願いしたり、具体的に宣言したり、 今日一日を乗り越えたことに感謝の気持ちを伝えたり、 この時間は心の落ち着ける時間でもあります。 そして『祈る』ということについて、あらためて思ったことがあります。 祈りには、祈るその動機があって、 それが、天の意思に添うものであれば、望みは叶うのではないかということ。 天の意思は自分の意思でもあります。 そして、本当にたくさんの守ってくれているものたちがいるんだと思いました。 怖いと思うことに向き合うと、本当は一人ではないことに気づかされます。 向き合わないから、ずっと怖いんだと思う。 そこには、普段人と関わると顔を出すことがある、 ●どう思われるだろうか などというパターンの出番も不思議とないのです。 私は、父のおかげで、 父からでないと学べないものを今、教わっています。 だから、その大切な学びを、 もう少しだけ続けさせてもらえないでしょうか・・・ と祈っています。 これは、父から生きること、死ぬこと、どちらも学びたいという、素直な気持ちがそうさせています。 自分が取る行動もみな、その動機の上で動いているので、 以前の自分よりは少し

父からの遺言

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父の容体が少し落ち着いてきました。 兄が帰郷し、兄だとわかっているかどうかは知るすべもありませんが、 一瞬頬がゆるみ微笑んでいたかのようでしたので、 おそらくわかっているんだと思います。 父は先月88歳を迎え、 私たち兄妹は、自分たちの年齢の分しか親のことを知らないし、 それでも結構な年なのでそれなりに父のことはわかっていたつもりでした。 がしかし、ここに来てはじめて知る父親の顔があったのです。 それは、 芸達者だったということ。 それを知ったきっかけはヘルパーさんの一言でした。 今日は少し調子が良かったですよ、と言われ、 私たちは「え?この状態のどこが良かったと言うの?」 と、にわかに信じがたかったのですがー・・・ ヘルパーさんが父のそばで、 ♪もしもしカメよ~ という歌をうたったときに、父が続きの♪カメさんよ~ と歌ったというのです。 声にならないような小さなかすれた声だったと思いますが、それでもその後、 首を縦に動かしながら音頭をとっていたそうなのです。 普段、父はヘルパーさんたちから、 「癒されています」とか、「なごみます」とか、「励まされています」とか言われていて、 そこまでは何となくわかるのですが、 「指揮がうまいんです」という褒め言葉が確かにありました。 ん?指揮って、指揮者ってこと? 懐メロなどがデイサービスでかかると、 ご機嫌になって指揮者のように手を振っていたようなのです。 それがうまいと、お世辞でしょうが褒められていました。 紅白歌合戦は毎年見ていたし、歌が好きなのも知っていたので、 まあそういうこと(指揮者みたいな動き)もするんだろうな~というのはありました。 でも、♪もしもしカメよ~カメさんよ~♪にはちょっと驚いてしまったので、 私と兄はすぐさま、父の好きそうな昭和歌謡曲をかけてみることにしました。 すると・・・ 反応している・・・!!! 突然、パチリと目を開け、 手を壁に向けてなにやら踊りらしき動きをするではありませんか(もちろん寝たまま)。 すごーーーーーい、お父さん!!!どうしたの!!! さらに兄が 青森民謡『南部俵積み唄』 をかけると、 まさかの手拍子をし始めました。 父が若かりし頃、会社の余興で大黒様の格好をして踊ったときの写真があるのですが、 あの踊りを再現しているかのように、 しなやかに指先を揃え、しのらせ、リズムにのって手を

父と母を守りたい

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父が誤飲性肺炎を起こして3日目。 先日会ったときは、歩行器につかまって元気に歩く訓練をしていたので、 急に寝た切りになった父を見たとき、とてもショックでした。 普段から、もうまともな会話はできていませんが、 それでも奇跡的にというか偶然なのか、 ごくたまにわかったようなことを言うときがあり、 周囲にいる人たちを驚かせる(または笑わせる)ことがあります。 でも、今回はそんな奇跡はいまだなく・・・ ただ口を開いて、私たちに目を合わせるでもなく、 どこか一点を見つめ、うつろな感じで寝ています。 昨日は鼻から酸素を入れている管が嫌だったのでしょう、 管を外そうと手を伸ばしては、母に怒られていましたが、 今日はその元気もなく、手をにぎっても握り返してきてくれません。 こうなってくると、 いよいよもって、自分のできることは何だろうって考えます。 失う怖さと不安と、とてつもなく寂しさがこみ上げてくる自分自身を感じ、 それは父とお別れしたくないという気持ちがあることを知ります。 だから、それに語るのでした。 あなたは、お父さんとお別れしたくないって思っているんだよね。 だって、お父さんが大好きだし、 もっとお父さんと一緒にいたいし、 お父さんがいなくなっちゃったら、自分の最大の味方がいなくなってしまう、 ってあなたは思うからなんだね・・・ 怖さと不安と寂しさでいっぱいの自分。 そんな自分を「私」はしっかり受け止め、 「私」が守っていくから大丈夫だと、一人ぽっちにしないからと、 両手を広げて抱きしめる。 父は・・・ 父は今、何を感じているのでしょうか。 私と同じことをもし感じているのなら、 「大丈夫だよ、お父さん。私がついているからね」 と言ってあげたいです。 そして、不安でいっぱいの今にも泣きそうな母にも、 「大丈夫だよ、お母さん。私がついているから心配いらないよ」 と言ってあげよう。 私にできることを精一杯する。 今日まで自分を育ててくれた両親に、今度は私がしっかり守ってあげたいと思います。

自分にとっての答えでいい

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先日、夜中に吐きました(お食事中の方、すみません)。 普段滅多に吐かないので、自分でもびっくりしましたし、その苦しさはもう地獄・・・ まるで何か体の中に、得体の知れないものが憑依していたんじゃないかと思うほど、 これでもかというくらい吐きました(って、何度もすみません)。 あれから、なかなか体調が戻らず、 お腹に力が入らない感じがあるので、静かにそろりそろりと動きながら過ごしております。 今回のこの事態ですが、 この身を削ってみて感じたことがあります。 自分が欲していないもの、望んでいないものは、 もう本当に受け付けなくなっているのだということ。 ああ、自分は受け容れられない、あれはあきらかに違和感だった、と思うことがありました。 天の意思、神の意思、自分の意思は、 ちょっとのことでもごまかせないのです。 ごまかしていいものも、もちろんあるとは思いますが(意識的にそれをすれば)、 そうしてはいけないものに対しては、こんな風に全力で教えてくれるのか・・・ と思いました(食べ過ぎだけではなく!)。 本当は、何かすっきりしないものがありました。 あのとき嫌な感じがあったんだけど、それが何なのかがわからなかった。 そっちに進んでしまったからもう戻れないとか、 頭で考えて、これはいいことなのか? 無理に納得させようとしてはいないかとか、 なんか違う感じもしないでもないけど、答えがわからないからまあいいかとか、 そういうことがもう、自分のある一線を越えてくると知らせてくれるようになっているのかもしれません。 それはやめなさい・・・と。 自分でも違和感をちゃんと感じていれば、すぐに方向転換することはできます。 だけど、その違和感というものが、ものすごく巧みに人の情をかえしてやってくると、 自分の中にある根強いパターンたちは、感覚をすり替えようとしてくるのです。 こんなにあなたを応援してくれているのだからとか、 それは絶対にいいことでしょうとか、 それはあなたに必要なことなんだとか、 こちらの感覚を麻痺させるかのように、自分を洗脳させようとするのだと思いました。 洗脳は、それに気がつかないから洗脳でー。 あれ?ちょっと何か変かもしれない、しっくりこない、なんだこのもやもやした感じは? と確かにもやもやを感じてはいるのですが、 それが何かはすぐにはわかりませんでした。 一方で、あまり

正しいというパターンについて

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自分は正しいと思っている人は多いと思いますが、 自分がそう思っていることに気がついている人は、とても少ないのではないでしょうか。 自覚がない・・・というところです。 言われれば、気がつくのかもしれませんが、 そうそう面と向かって「自分のこと正しいと思っているでしょう」とは言えませんし、 もしも言えたとしたら、相手は自分を否定されたという感情が先立ち、 冷静に自分の思っていること、していることを「間違っているのかもしれない」とは思えないかもしれません。 この間違っているかもしれない、とは思えないということが、自分が正しいと思っている何よりの証拠です。 自分が正しいと思っているとき、心の内側では何が起こっているかというと、 まず大体が話を聴いていない、自分が話すことばかり考えている、相手は間違っていると思っている、 そして、相手に対してパターンが引っかかりまくっているのです。 全部そうだとは言いきれませんがー。 でも、おおかた人への言動にパターンが引っかかるとき、 自分の考えや行動の方が正しいと思うから、えーなんで?って引っかかるようです。 その人の考えも感情も受け容れられないと感じ、否定と拒否をしている状態です。 そういう時でも、相手の言っていることも一理あるなと思えることもあります。 自分には考えつかなかった話を聞いてしまうと、 自分よりも相手の方が正しいのかなと思うことはありますよね。 相手の方が優れているのかもしれないとか、自分の方が何か違っていたのだろうかと思ってしまいます。 ここで、素直に自分と相手との違いだけを認められたらいいのに、 相手を認めるどころか、自分は正しいというプライドは傷つき、 否定されたパターンはますますざわざわ落ち着かなくなってしまうこともあるのです。 一体いつから、正しいとか間違っているとか、判定するようになったのでしょう。 判定している意識はなくても、 やっていることは、自分が正しいから相手にも正しくあってほしい、なのです。 賛同してほしい、共感してほしい、自分がやっているようにやってほしい、 自分が思うことを認めてほしい、そして、自分が正しいということをわかってほしい! 正しさなど時代によっても違うし、 人それぞれのものだし、条件が変わればがらっと変わってしまうものだし、 とても曖昧なものなのに、 自分については、どうしてか正しくあ

素粒子でできている自分が創りだす世界

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先日は、沖縄から参加されたHさんのおかげで、 秋晴れの中、紅葉を眺めて歩く気持ちのよい一日を過ごすことができました。 盛岡八幡宮の高さから振り返る景色。 大きな赤い鳥居の向こうにもかつてあった長い参道が続き、 「参道」は「産道」なんだと、どこかの宮司さんが言っていたことを思い出しました。 生まれてくる赤ちゃんはみな、 それ相応の覚悟を持ちながら、お母さんの産道を通ってくるのだと。 参道を歩くたびに一歩、また一歩と私たちも生まれ変わっていくのだそうです。 そんなことを思い出していると、目の前にはなんと~ 結婚式に向かう花嫁さんと花婿さんが! この日は11月5日。良いご縁の日(いいごえん)だったのでした。 そして、神社といえば、やっぱりおみくじ。 HさんとKちゃんは大吉で、自分は末吉。 道場の合宿が終わったばかりで、心はまだほやほやに、 「ひたすら突き進め」という言葉が熱く心に刻まれておりました。 がしかし・・・ ここにきて、「慎め」「控えめに」というおみくじに書かれた神の御言葉。 えーーー、どっちを信じればいいんだーーー! 迷いましたが、「慎みつつも、突き進もう!」にしようとひらめきました。 沖縄には紅葉があまりないそうで、 歓声をあげて写真を撮りまくるHさんのスマホは、 あっという間に紅葉した木ばかりがずらーっと並んでおりました。笑 本当に楽しそうで、嬉しそうで、こちらも楽しくて嬉しく、幸せ感じました。 あれからまた一段と秋も深まり・・・ あちこちで起きているエネルギーの違いを、以前よりも敏感に感じとっています。 雰囲気の良し悪し、やる気の有無、緊張感の有無、楽しさの有無、 ここはどんな素粒子の集合体なのか?・・・と考えるのが面白いです。 物理はあまりよくわからないのですが、人間も素粒子の集まりなんだそうですね。 ということは、少なくとも、自分が選んだもので、 自分の居場所を良くも悪くも創り変えていくことができる。 そういう物質化が叶うということですよね(教わったことを自分なりに復習)。 例えば、とある古民家の囲炉裏。 豊かさを感じ、落ち着きを感じ、そして敷物の民藝独特の色彩に心が躍ります。 そうです、心が躍るのです。震えるのです。 そこに集う者たちへ、心躍る感覚を伝染させていき、 その素粒子の集合体は、 ポジティブな感情や対話を生み出し、その場を創り上げていくのだ

なんだかすごく大事なことを教わった気がする

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2日目は怒涛の如く終わり・・・ついて行けているのかどうなのか、 これからの数日間で学んだことを咀嚼していこうと思います。 新しい言葉、もう随分前から知っている言葉、そういう意味だったのかと知る再編成された言葉、 いろいろ出てきましたがー、 このままの自分でいいんだというか、 むしろ、自分を変えてはいけない、変えようとしていくことではないということが、 ほんの少しずつ、落とし込まれたような感じがあります。 このままの自分・・・というのは、黒パターンのままで居続ける自分をゆるすということとも違い、 選び変えられるものは白へ選び変えながら、 この「私」という素材、特性のまま、 すべてが揃っている自分だから、この「私」でやっていけばいいんだという感覚です。 この顔で、この体質で、この個性で、この環境で、です。 どんな風に自分が変わっていきたいというものが薄れ、もうそういうものが無い感じさえします。 だから、堂々と自分が選びたいカードを手に取り、 今やりたいと思っていることに突き進んでいこう。 もしかすると、とてもシンプルなところに立ち返ったのかもしれません。 やりたいと素直に思うものを選んでいく日々。 こんな自分には無理とか、そういう環境にないから、 いつか自信が持てるようになってからならば・・・等々は「私」を否定する余計なもの。 この条件で、今回の課題を乗り越えようとセッティングして来ているのですから。 つまづいてもまたやり方を変えて進めばいい、走りすぎたら止まればいい、 どうなっていくのか(どうなっていかなければ)なんて考えなくてもいい、ということなのです。 先生も何度も言っていましたが、本当にちょっとこれは、今までと違う流れのようです。 なんだかすごく大事なことを教わっているのだけれど、 どこかそういうことをずーっと前から知っていたかのような感じも、かすかにあるのです。 とても現実的な話をしているのに、神聖な感じ。 また神聖であるけれど、科学的にも実証されつつある話。 やっぱり、そういうことなんだ・・・という静かに静かにわかるような伝わってくるような感覚もありました。 まずは、今年残りの2ケ月。 自分を変えずに変わっていく?この目の前がひらけていく感覚を大事に、過ごしていこうと思います。

一秒で選ぶカード

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今日は道場の合宿一日目でした。 というと、寒空で滝行でもしているのかと思われるかもしれませんが・・・ いつものように各自の近況報告からスタート。 今回は、道場のみなさんが各ブログで名言しています「しとめる」という言葉に、 知らず知らずのうちに感化されていたのか、 それとも、これまでの自己観察と自己探求をやってきた成果というのでしょうか、 年末に向けての、それぞれの仕留め方が本当に見事でドラマティックでした。 人の一生を映画に例えてみたら、 平穏で幸せ家族で、お金にも困らず、仕事にも困らず、いつもポジティブに生きている人生など、 なんのおもしろみもありません。 嫌なことがあって、大嫌いな人がいて、ネガティブな出来事があって、一難去ってまた一難。 そうやって、向き合いたくないものに向き合い、もがき、そこをどう越えていくのか・・・ そういうストーリーがあった方が断然おもしろいし、感動があるということがわかります。 苦難を乗り越えました!ではまだ終わらない、山あり谷ありの人生が続く方が、 「私」を輝かせるものであることは間違いないのだ。 ということが、今日の学びだったように思います。 一瞬一瞬、一秒一秒、 宙にばらまかれた選択のカードのどれをつかみ取るのか。 日々、それらの連続で自分が創られていくのです。 量子力学の考え方に触れ、未来に向かっての進み方を教わることができました。 自分は「手放す」というワードをそこに念じ、 唱えるほどに、何を手放しいくのか、たった一秒の中に手放す自分を感じ取り、 それはスローモーションのように自分の力強さを確認できたような気がします。 今日は沖縄よりHさんが参加して下さいました。 夕飯は東家さんのおいしい蕎麦定食をいただき、沖縄あるある話とHさんのおかしな話で盛り上がり、 本当に幸せ感じる楽しい夜でした。 明日はまた一瞬一瞬、一秒一秒、 自分の魂を成長させていくためのカードをつかみにいきたいです。

一緒にご飯を食べたいということ

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一緒にご飯を食べると、ちょっとだけその人との距離が縮まることがあります。 普段よく会っているような人であっても、 お腹が空いてご飯を食べる・・・という本能的なひとときを共に過ごすことで、 (そのご飯が美味しければなおのこと)それだけで少し嬉しいような、ほっとするような気持ちになります。 できればそんな気持ちにその人となりたくて、自分は誘ったのかもしれません。 じゃあどうして、そんな気持ちになりたかったのか(相手にもなってほしかったのか)? という理由をみていきます。 何となく、最近、ちゃんと話しをしていないなあ あのとき何を考えていたのかなあ 楽しく、仲のいい関係でいたいなあ そして、たどり着いたところは、自分はどう思われているんだろう・・・ つまるところは、●よく思われたい、という小さなパターンがくすぶっていたんだと思いました。 そのパターンを満たしたいために、自分は声をかけたんだと。 ですが、その自分の中にある黒パターンに気づいてしまうと、 たちまち心は落ち着きを取り戻したかのように、その後の選択肢が変わっていきます。 相手がどんなことを考えていたのか、ただただ知りたい、聴いてみたい、だけに転換されるのです。 そこでもしも、わからないことや、不安に思っていることがあったら、 自分が答えられる事であれば答えたいと思いました。 それは、自分にもその人が感じているであろうことへの葛藤が、 同様の経験があるために、少しわかるような気がしていたからです。 自分にも似たような経験があり、そのときの自分が思っていたことと、 その人の思っていたことはどう違うのか。 もしも、自分が想像できなかったような考えであったら、その考えはどこからくるのか。 純粋にそこから学びたいということへ、変わっていった感じがありました。 これは、完全に自分のために・・・なんだな、と思う。 自分がどう思われているか?というパターンが小さくなっていくと、 自分自身の話す内容もまったく違ったものになっていきます。 もうパターンを満たすためにがんばらなくてもいいので、 ゆっくりとご飯を噛みしめながら、 そして、出てきた話もかみしめながら、それに反応して答える自分は、 言葉足らずなところもあったけれど、とても自然な自分であると思いました。 そして、相手の話から、さらにまだ気がついていなかった、他のパターンも見つ

写経のように

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先日、書道の先生Yさんのご指導のもと、勉強会で写経をしました。 本来は、何か祈りたいことがあって、それを願いながら108枚書いていくのだそうです。 時間の制限があって数行しか書けませんでしたが、 残りはぜひ週末に小筆を準備して完成させたいと思いました。 とても集中した時間。 何十年ぶりで小筆を持った手は震えに震え、思うように書けませんでしたが、 行を追うごとに、少しずつ心は落ち着き、はらう、とめる、はねる、真っ直ぐひく、などなど、 小筆の良さが出てくるようになりました。 はじめはボールペンで書こうとしていたわたしですが、 Yさんから勧められた通り、筆で書いて良かったです。 このどうにも扱いにくく、何一つ思うように書けない段階から、 ほんの少しずつですが、筆が持ちやすくなり、文字の一部分が2回目よりは3回目、というように、 形が整い出すと、とても気持ちよく、心も整っていく感触がありました。 今日は、この写経のように、 どうか○○なりますように・・・と祈りたい心境のことがありました。 まさに一文字一文字を震えながら書いたあの緊張感と同じだったのです。 自分で話しながら、自信がなくてもうまく話せなくても、 まずは何とかこの緊張しっぱなしの自分のままでやってみる。 そう決めて、その通りやれたということに、自分でも少し驚きました。 そして、緊張や怖さとともにいることは、そんなに悪いことではないんだなと思いました。 写経のように、下手なりにもやってみるということが大事なんだと・・・。 ここで満足せず、精進していきたいです。          なぞっているので、それなりには見える・・・

問題の解決

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問題の解決に向かっていろいろ手を尽くしたときに、 もう何もやることが無い・・・という静まりかえる瞬間があります。 あれだけ悩み、何度も心の内を確認して人と対話を重ね、 それでもどうしようもない(良いと思える方向に進まない)ということがある。 この心の静けさを感じると、 もう流れに身を任せようという気持ちにやっとなる。 自分が意図しないような、想像の範ちゅうを越えているものが、 これを動かしているんだと考えた方が何だか落ち着くので、 もう手放してみようと思うのだと思います。 特に他人の問題に関わっているときはなおさらです。 自分の責任があったとしても、 主役はその人なので、自分が脇役として登場するにふさわしくないと、 舞台から降ろされ・・・あとは自分の出番を待つだけ。 本当はもっと早くに気づけることもあったと思うけれど、 いろいろ手を尽くすという体験が、 自分には必要だったんだということも何となくわかります。 この人とこういう対話が必要だったんだとか、 今まで見えていなかった一面を見せられて、 自分の思考パターンがこの人はこういう人と決めつけていたふしがあったんだなあとか。 結果として、そういう思考がいろいろじゃまをしていたんだなと思いました。 そうやって気づかされて、やっと心は静まるんだと。 これはこの問題がマイナスでもプラスでもない、 ただ、それぞれの立場で「そうしたい」というだけのこと。 中立に立ってみるとわかるような気がします。 時間をかけて、いろいろ動いて、感じて、悩んで、考えて行動を重ね、また感じてみる。 ここまでやって気がつく。 問題を大きくしてしまったのかもしれないという思いと、 ここまでしないと自分は気づけなかったんだなと、またそういう自分を知る。 静けさの中で、大きな作品を見ていているような、 一連の出来事をやっと客観的に見れたような、 これをしているのが、本当の「私」なんだと思います。

夢の中での黒パターン

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今朝、ああ、夢で良かった~と思い目が覚めました。 内容はちょっとブログではお伝えできませんが、 これがもし現実だったら、おそらく会社を辞めなければならなかったと思うようなこと。 相手にわたしは「あなたのことが大嫌いだから、こういう行動に出ました!」 ってカンカンになって自分が言っているんです。 うお~~~~、なんと真っ黒な自分・・・。 周囲にいた人からすればこれはもう、言われた相手ではなく、言った自分の方を軽蔑すること間違いなしの状況。 冷たい視線が突き刺ささります。 仕事に私情を持ち込むなと言われますが、 この夢を見て、夢で良かったと思う一方で、 私情で仕事をしていない人など、実はいないのではないかと思いました(大なり小なりですが)。 この夢の中の自分ほどではないにせよ、 「はい、そうですね、そうします」 と言っている心の裏側では、全然そう思っていないけれど、そうした方が穏便にいくから従うことを選ぶ。 そこに感情がある限り、選んでいるようでも選びきっていないことがあるのです。 これが、私情を持ち込むということなのかと思いました(目には見えない持込み)。 自分の(パターンの)ケアをしていくと、 そこが、私情を持ちつつも、そうではないもの、本来はこういう気持ちで仕事をしたいというものが勝り、 その気持ちで判断をするとどういう言動を自分はとるのか?と考えます。 はじめに心で感じて、次にどうしたいかの選ぶという意思が働いて、実際どんな言動を取るのかをまた考えるのです。 そしてその言動を取った自分は、最後はどんな気持ちになっているのか(はじめに戻る感じ)感じたものをイメージをする。 私情(感情)の大小はあるにしても、 私情をはさまずに思考だけで選択をすることもできます。 その時は、自分はこうしたいけれど今はこうするんだ、という覚悟が必要。 覚悟なしで黒を選ぶというのは、何よりも自分自身がすごく気持ち悪いものだし、 後悔しやすいものです。 夢から目が覚めてしばらく経って、 あの時、会社を辞めなければならない、とは思ったけれど本当にそうなんだろうかと考えました。 謝るという行動に出ることもできるし(もちろん充分に自分のケアをしてから)、 そんなことがあって信頼が地に落ちた自分を、あえて観察しながらやっていくということもできる(これは結構きついかもしんないが)。 そして、もしも辞