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半分天国、半分ここ

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今日は吹雪の一日。 すっかり窓の外は銀世界になりました~。 外出先で、ふと父のことを思いました。 手が冷たくなっていないだろうかと、元気でいるかなと急に会いたくなりました。 コロナで面会禁止ではありますが、ホームに寄ってみてガラス越しでも姿を見たいと思いました。 玄関先で、母もお世話になっている往診の先生とばったり、 また、いつも明るく父に接してくださるスタッフの方もいたりと、 思い切って寄ってみて良かったなあと思いました。 健康管理は元より、家族のようにわたしたちの代わりにお世話してくれて、 どんなにお礼を言っても足りないくらい、父を取り巻く方々には感謝しかありません。 そして父はと言えば・・・ 最近体調がよくなかったらしく、手がとても冷たくなっていたそう(予感的中)。 体が冷えていたと思ったら昨日は微熱もあったので、 スタッフの方も連絡しようかどうしようか迷っていたところだったそうです。 今朝は落ち着いてきて、車いすに座ってうとうとしていました。 わたしに気がつくと、父の小さな目がちょっとぱっちりと開いた感じがしました。 スタッフの方が「あの人はだあれ?奥さん、娘さん、誰かなあ」と話しかけると、 「うーん、娘だ」 偶然、当てた?としても、 わたしはもうこの上なく嬉しかったです。 手をさすってあげたかったけれど、それは叶わず・・・ マスクを外して笑顔を見せ、たくさんたくさん手を振りました。 いつだったか、夫が、 「お父さんって、半分天国に行っているようなもんだよなー」と言ったことがあって、 何て失礼なこと言うのよ、と思ったことがあったのですが、 あながち・・・当たっている。 それくらい父はどこの世界にいるんだろうと会うたびに思います。 ちょとしたことで笑い、とても楽しそうにしていることがあり、 確かに本当にどこか遠くを見てすごく幸せそうな顔をしているときがあります。 かと思うと、急に険しい顔をして、不穏な空気が流れ・・・ 父は時々わたしを叱ったり、たしなめたり、あきれるような顔をしたりもします(一体わたしが何をしたっていうのか・・・)。 でもそうされると、不思議に自分も、 心あたりがあることを思いながら、振り返ったり反省したりするのです。 父も、父のそばにいる方々も、みんなが穏やかに新年を迎えられますように。 そして皆さまも、良いお年をお迎えくださいね。

誤解を招いてもいい

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まさか、自分がこんなことを言う人間だとは・・・ と思うようなことがありました(気づいたら話していた自分にびっくり)。 人の死(自死)について話す自分がいました。 真実かどうかは当然のことながらわからないものを、 自分がたとえ信じているからといって、誤解を招いてもおかしくないことを他人に話すというのは、 以前の自分にはなかったと思いました。 そんなあやふやなものを他人に話すなんて、危険極まりない・・・というのが、これまでの自分だった。 たまたま、そのときは、死についてだっだけれど、 自分が人生の中で受け取ってきたものの中で、何度も練り直し、体験し直し、挑戦し失敗し、 そして今現在、たどり着いたものがあるとしたら、 それは自分だけの哲学となって自分を支えていることがあるかもしれません。 その哲学を作り出したものは、自分にしか分からない体験からくるもので、 論理的ではなく感覚的なものかもしれません。 いろいろ感じてきた自分が持つただ一つの考え方。 でもそこに、『自分がただそう思っている』ということを伝えるのに、 そんなに構える必要があるのだろうか、ということだと思います。 誤解を招いてもいい、という、 誤解は悪いことではない『誤解』に対しての意味付けも変わってきているのだと思います。 これまでたくさん自分も他人に誤解をしてきたし、 他人からも本当は違うんだけどなあ、と思うこともたくさんあった。 そうした経験を積み重ねてきて、 どう思われてもその人が思うことは自由である(パターンはどれも存在していいのだ)ということが、 このところ、実感として体験できてきたからかもしれません。 そして、うまく話せない、できないということがあっても、 それも成長過程の自分ということでいいのではないか、と思ったりします。 これから先も、何を感じてもいいし、何を考えてもいい。 そこから、選びたいものは何であるのか。 その選んだものが行動となって、形となって、また次の選択に大きく関係し影響していきます。 この『繋がり』は永遠に続くものだと感じました。 だから、 たった一つの選択であってもどっちを選んでいくのか大事にしたい。

10年やってきた

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 お孫さん(生まれたての赤ちゃん)の子守りで寝不足だったというYさんがファシリテータ。 「根拠はないけれど、やっていかれる」という誘導をYさんの美声でやってもらい、 みんなでしばし陶酔しました。 今の「私」が気持ちよく感じるポイントというのが、それぞれに違っているところもいいなあと思いました。 また、いつもこの「やっていかれる」ということが心地良いものであるとは限らず、 その時の正直な感覚を大事にしながら、 今はここよりも、パターンの語りかけを丁寧にやっていこうということもあるはず。 そういう話ができることもまたいいなあと思いました。 岩手クラスがスタートしたのが、 忘れもしません東日本大震災が起きた2011年3月でした。 いろいろな価値観が崩れ始め、お互いの発言に感化されながら(自分の立ち位置を探りながら?)の勉強会は、 今思うとおかしいくらいに共通していたものがありました。 それは、「自分だけができていない・・・」という強烈なネガティブ感情。 自分もそうです。 自分の理解力では、自分の脳みそでは、自分の魂レベルでは無理なんじゃないか・・・ と何度も思ったことが思い出されます(クラスの仲間と比べるパターン)。 そういう自分でOKだったのに、と今だから笑って言えますが、 もし、自分ができていないところを正しく分析するのであれば、 パターンと「私」との分離ができていなかったという、その一点だったように思います。 今も常に分離ができているわけではありません。 だからこそ、魂の成長を目指していきたい気持ちが無くならないのだと思うし、 パターンをすべて許していけることを自分はやっていきたいのだと思いました。 Yさんが、泣く赤ちゃんを抱っこして、 「泣いても、おしっこしても、うんちしても、何してもいいんだよ~」 って言ってあげるそうです。 赤ちゃんはとても安心するのでしょうね、じーっと目を見て泣き止んだりするそうです。 そんなふうに自分(パターン)にも、よしよしって、 どんなあなたであってもいいのよ~って、 言ってあげればいいんだ!と思いました。 今日はみんなの10年前の自分との違いを聞けて、すごく良かった。 成長をお互いに実感できたことで、またこの10年の変化にこだわらずリセットして新しい年を迎えたい。 岩手クラスでこそ自分はやってこれた、と

どっちもいい

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今年のクリスマスは、いつもと少し違った時間を過ごせたなあって思いました。 仕事帰りにダッシュでスーパーへ寄り、 家に着くと、息つく間もなく台所に立って玉ねぎの皮をむき始め~ こういう時こそ、出来合いのものを買ってもいいのに、 なんか今日は『ほっとするような美味しさ』が食べたいなあと思い、 全部手作りしたいと思いました(夫が「え、今から作るの?」という反応をしていたが)。 あれもこれも作るには、時間が遅くなってしまっていましたが、 気持ちは焦ることもなく、 料理を作っていることがとても楽しいなと思いました。 途中から娘も手伝ってくれたので、さらにわいわいと笑いこけながら、 この際、買ったケーキの他にもアップルパイも焼こうか!ということになり・・・ (夫の「え、もういいんじゃね?」という顔がまた可笑しかった) 結局、自画自賛ですが、全~部すごく美味しかったです。 食べてくれる人の好みを考えながら、 自分も作ることを楽しんでいる時間って、本当に贅沢だと思いました。 この『時間に贅沢を感じた』というところがいつもと違っている感じがしました。 食べて喜んでもらって自分も美味しく食べられたら、あ〜幸せ・・・というのはあったけれど、 幸せを越えたもったいないような時間。 させてもらえる、身に余る光栄という感じです。 今日はもう普通の日。 スーパーで焼き餃子を買って帰りました。 あとはご飯があるし、味噌汁あるし、漬物あるし、で終わり。 超手抜きの日でした。 贅沢というのは、 物にしても時間にしても、ごくたまにあるだけがいいですね。 そして、どちらの日(平凡な日も、贅沢感じる特別な日も)にもその時の幸せがあります。 今年のクリスマス、この『どっちでも幸せ』を感じられたことがすごく良かったなあと思いました。

パターンに届く語りかけ

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自分のことを理解してほしいと思うときに、 自分がそう思われたいという願望が入っていることがあります。 その願望とは、どう見られたいのか、というところ。 例えば仕事をしているときは、 できる人と思われたいとか、ミスがない人とか、信用できる人とか、 実際のところはその逆に近いんだけど、そう思われていると困るから、 『そうじゃないと思ってほしい=理解してほしい』になるのかもしれません。 これはパターンが、自分はできる人ではないと思っているので、 できる人でなければこの職場ではやっていけないと、パターンが信じてやまないということ(この時「私」は全く思っていないのだが)。 きっちりミスなくやれる人でなければだめ、 信用してもらえるような人でないとだめ、 あれはだめ、これはだめ、パターンはなかなか自分にOKを出さず、 見られたい自分にならないことを許すことができません。 それなのに、です。 自分は自分のことを許せないし受け入れていないのに、 他人には許してほしい、大きな心で温かく受け入れてほしいなあって思っている。 だから、その願望が叶わなかったときに、 「あー理解されていないわ、わたし・・・」とまた思うのだ。 パターンへ語りかけをしていると、 自分を否定するパターンたちが、自分たちはどんなに傷つき、つらい思いをしてきたのか、 気づいてほしいと思ってきたのかが語ることでやっとわかります。 「今まで一人にしてきてごめんなさい」 「無視をしてきてごめんなさい」 「ずーっと気づかずにいてごめんなさい(または、気づかないふりをしていてごめんなさい)」 という言葉を「私」はパターンへ言ってあげたくなる。 「ごめんなさい」という言葉ってとても温かいです。 たくさんの悲しい思いを受け止めて、そしてこれからはどうしていきたいのか、 パターンにやさしく聞いているような気がします。 この一方的ではない感じ。 伝えた先にパターンと「私」との間に通い合うものがあるとき、 やっと次に進める感じがします。 語りかけた言葉がパターンに届いたとき、 本当に理解してもらったという安心感があります。 それは、そう思われたい、見られたいという緊張感が走るようなものとは全然質が違うので、 本当に何の疑いもなく、ほっとする感じです。 この感じはやはりいいなあ~って思います。 だから何度でも語ってあげたいなあと思います。

沖縄の香り

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去年、沖縄に行ったときに買ってきた月桃の香りがする石鹸。 わたしにとって、月桃の香りが沖縄の香りとなっていて、南国っぽくてとても好きです。 そのお気に入りの石鹸もとうとう使い切ってしまい、 今はエッセンシャルオイルを購入し、楽しんでいます。 その香りを嗅ぎながら、 那覇の小禄南公民館でのセミナーを思いました。 コンクリートの打ちっぱなしの建物がすごく味がある公民館。 開けっ放しの窓から気持ちいい風が入ってきて、 建物の中であって中じゃないような解放感が本当に素敵なところ(沖縄の方たちの心も解放感いっぱい)。 今日も盛岡、キンキンに冷えた肌に突き刺さるような寒さで、 県南では雪が50cmも降っていますし、 こういう冬こそ沖縄、また行ってみたいです。 その沖縄セミナーでのノートをぱらぱらめくると、 『打たれ強くなる』という文字が目に飛び込んできました。 そうそう、確か、打たれ強くというのは打たれて我慢し続けていくこととは違うのだ、 ということを先生から教えられました。 どう強くなっていくか、何を持って強さとするのか、 それは相手を理解することへ自分が向き合う力だと、今一度考えました。 なぜ相手がそう言ってきたのか、 なぜ自分にそうしてきたのか、 何度も何度も、相手が投げかけてきたときに、 跳ね返すように受け止めるのではないし、 我慢して受け止めるということでもないと、確か言われたような気がします(キャッチボールをイメージして)。 相手が持つ、孤独や寂しさや不安感、または苛立ちや悲しさなど、 そういう感情を持った相手の内側にあるものをそのまんま理解してみたい、とやってみる。 もしかしたら、言葉とは真逆な気持ちかもしれないし、 言葉にならないもの、表現できないもの、自分でもわかっていないものを投げかけたのかもしれない。 そういうものに自分はやわらかく、すーっと偏見なく素直に受け止められる力をつけていきたい。 それが、打たれ強くなっていく・・・ということ。 そんな力をわたしもつけていきたいと、思ったことを思い出しました。 受け取る相手として自分がふさわしいかどうか、というのもありますが、 自分が(本当の「私」が)そうしたいのかどうか、というところだと思います。 今年もあと一週間ほど仕事をしたらお休みに入りますので、 この月桃の香りに癒されながらも、 残りの時間を打たれ強く、ふ

補聴器、するしない

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母は耳が遠いです。 母としては、聞こえていないことへの不便さを普段感じていないので、 耳が聞こえていないよーという話になると、とても嫌そうな顔をします。 以前、補聴器屋さんに行って試しにちょっと入れてみたのですが、 その時も、今にも泣きそうなくらい耳がいずくて(違和感がすごいという岩手の方言)、 なんでこんなにいずいことしなきゃならないのか、と訴え、 母には補聴器は無理なんだと思いました。 母は聞こえていないことに何のひっかかりもないので、 本当にごく限られた自分へ届いている音の世界の中で暮らしている、といえます。 他に誰かが何か話しているように見えても、 聞こえていないその内容を知りたいとか気になるとか、そういうことがあまりないようです。 一人暮らしですので、 テレビを見るにもボリュームを全開にして聞けばいいし、 たとえ誰かが家の中に入ってこようとしても、 驚きはしてもそれは困ったこととか危険なこととは思っていない様子。 そんな母を何年もみてきて、 危なっかしいところもありますし、 それで人から誤解を招いたり(一方的にしゃべる人みたいに)、 時にはわからないままにすることで、損をすることもたくさんありました。 ですが、自分の耳に入ってきた情報だけで生きていくというのも、別に悪いことではないのかも・・・ と思うところもありました。 でも一方で、 今のわたしは、母と一緒にいて会話をすること自体が身体の負担になってきていることも感じています。 大きな声をずっと出し続けて喉が痛くなってしまったり、 そうでなくても理解力が落ちてきている母へあれこれと大事な用事を何度も伝えたりしていると、 もうぐったり疲れてしまうこともある。 そして思ったのが、 白の感覚を選びながら、補聴器をつけてもらうということはできるだろうか、ということ。 一般的には、防犯の面や認知症の進行具合を考えて、 耳はやっぱり聞こえていた方がいいという話になるのかもしれませんが、 わたしのためにつけてもらいたい(母との会話を楽しみたい、自分の体の負担にならないようにこれからもお世話をしていきたい)、 という気持ちを母に伝えてみようと思いました。 母に対してのこれまでのパターンには、 ●ちゃんと話を聞いてほしい というものがあります。 それに対しては、 〇自分がカバーしていこう(大きな声で話していこう) というと

この感覚を信じて

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そうなることが相手にとって一番いいことだと思っているのに、 相手がそこを選ぼうとしないとき(そこには抵抗しているとき)、 何だかがっかりしてしまった・・・。 どうしてこんなにがっかりしてしまったんだろう、と考えると、 読みが外れた(自分は間違っていた?)というところの自分と、 そうなってくれなかった相手にがっかりしたんだと思う。 相手にとっていい結果になると信じていたことがあって、 それが、違っていたということを認めたくない自分(パターン)がいました。 こうなってくれたら、相手が幸せになり自分は満足する、安心できる。 これって相手の幸せではなくて、 自分の幸せ、満足、安心の形を押し付けていたということ。 相手が気づいていない自分の能力や魅力、長所を自分ならば知っているという自信がありました(これも相当なうぬぼれ)。 だから、そこが生かされるような方向へ引っ張ってあげたいと思う気持ちがあったんだと思う。 でも、あたり前だけれど、 どっちに進むか選んでいくかは本人が決めることで、 自分がどうしてそこを進める、選べる、これが一番いいと思ってしまったんだろう。 「~してあげたい」って、それって自分の中の誰がやっていることなのか、 本当によく観察していかなければならないですね。 本当は、はじめから相手はそこを望んでいなかったことに、 薄々気づいていたんだと思います(本当の「私」は知っていた)。 でも、パターンがそうしたくなかった。 ●自分の望む相手であってほしい というパターンのケアをして、 〇どんな相手であっても大丈夫 という白を選び、その感覚にひたる・・・。 なるべく長く長く、薄くても長~くそこの感覚を消さないようにして相手と話してみました。 途中、パターンが顔を出してパターンが口を開いているときがあり、 そういうときの相手はちょっと頑なになっているので、すぐに「これじゃない」(話しているのは「私」じゃない)とわかります。 もう一度、 〇どんな反応があっても大丈夫 〇そのままで充分やっていかれる この、全く目には見えないものを感じ取っていくということ。 すごく不思議な感覚です。 不思議なんだけれど、誰にでもこのセンサーは備わっていて、 本当に簡単に一瞬にして、いい感覚も悪い感覚も自分が作れるものでもあるし、 そこからまた変えていかれるものなんだなあと思いました。 白を選ん

オーラがある人

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その人のオーラを感じるという体験があまりないのですが、 先日、(色は見えないけれど)たぶんこれがこの方の持つオーラなんだろうなと感じたことがありました。 はじめはちょっと圧倒されるような感じもありました。 その後、洋服の色に目が行き、その色がその人を表す内面にも見えてきます。 話を聞きながら相手の目を見ているわけですが、 その目がとても真っすぐなことに気づき、芯の強さを感じるけれど同じ人間なんだということも思いました。 相手の方も、わたしの目をじーっと見て話すので、 一対一で魂同士が対話しているかのような感じもありました。 ワイルドな髪形も、ちょっと派手な色の服も、足を組む姿も、この人らしさではあるけれど、 もっと内面的な部分を受け取りはじめると、 見た目の色や形はこの方をちょっと力付けてくれるものだったり、 より良い方向へ連れていってくれるものだったり、 力を抜いてリラックスさせてくれるものだったり、 そういういろんな役目というか、助けているものというか、 だからこういう見た目になっているのかなと思いました(一番この方の「今」に合っている)。 対話をする時に、 自分に抵抗感があれば、相手も抵抗感を持ってしまうことがあるように、 自分が相手の世界へ入ってみようと思うと、扉を開いてくれるような気がします。 そこで見たものをそのまま受け止め、 うわ~っと心が楽しく明るくなるようなものは一緒に楽しみ、 自分には無いものがあったらよく聞き観察をし、 知恵としてしっかり学びたいと喰い入るように聞くこともある。 それが自然に何のひっかかりもなく行われるのは、 きっと自分が空っぽになっているときなんだと思います。 昔々の自分だったら、オーラを感じる人の前では話など全く入ってこなかったと思う。 その人の見た目に振り回され、 内面に入って行こうとはしなかったと思います。 それが、今は少しだけ魂の存在を感じ、 仮の姿もそれはそれで見据えて、 いいとか悪いとか判断することも忘れている。 自分がその人にどう映るのかどうか、気になって仕方なかったと思うけど、 それもない・・・。 もしかしたら相手の方がそうさせているのかもしれませんが、 それでも、相手を見ている自分は、 どんな自分であってもいいということも感じました(何を感じてもいい)。 自分を受け入れられたときに、同時に相手も受け入れられて

一人じゃない

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通勤時の車の中では音楽を聞いています。 外に聞こえないのをいいことに、大きな口をあけて歌っています(顔でバレてますかね)。 いろんな歌手のいろんな曲がシャッフルされているので、 今日は何の曲がかかるかなあ~って楽しみな時間。 到着するまでに『今日の一曲』じゃないですけど、 この歌のここの歌詞になぜか今日は響くなあ~って思うことがあります。 今朝は、セカオワの『RPG』のこの部分、   ♪ 空は青く澄み渡り 海を目指して歩く    怖いものなんてない 僕らは一人じゃない 何度も聞いていた曲でしたが、はじめて歌詞が胸に染み込むように入ってきて、 この部分にじーんときた。 今自分の目の前に、その通り青い空が広がっている。 どんなに雲が厚くても、その雲の上にはちゃんと晴れた空があることを知っている。 そうして、 いつもこんな風に今までもずーっとこの澄んだ青空の下、自分はやってきたんだと思ったら、 何だか泣きたくなってしまうほど、幸せを感じました。 それは一人ではないという心強さ、温かさでもあります。 目的地にたどり着くまで歩いて歩いて、 これからもずーっとそこに向かって、歩いていけるんだという嬉しさ、喜びも感じました。 歌に込められたものは自分の解釈とは違うものだと思いますが、 この、ぐーっとこみ上げてくる感覚、 守られているような、励まされているような、 それでいいんだよと言ってもらっているような・・・。 大きなものに包まれながら、 これからも歩き続ける自分は、そう、一人じゃないと思えるのです。

初心忘れるべからず

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初心忘れるべからず。 ことわざとか(四字熟語とか)あまり知らない自分は、 好きな言葉は?と聞かれると、 思いつくこの言葉をワンパターンのように答えていたように思います。 (もう一つ好きな言葉がありますが、それは次回にでも~) 辞書をひくと、 始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを忘れないこと・・・という意味なので、 何に対しての初心なのかと考えると、 結婚した頃の、子どもができた頃の、この仕事をはじめた頃の、等々思い浮かべることができます。 先日ある理学療法士の方が、 患者さんやご家族、また自分自身に対して、 行き詰ったときはいつも『初心に帰る』ということを思い出すと話していました。 この職を目指した頃、どんな気持ちでやっていこうと思ったのか、 そのときに感じた新鮮な発見や喜び、学ぶ姿勢など思い出して・・・ というお話かなと思ったら、ちょっと違っていたんです。 初心というのは、この世に自分が誕生したときの気持ち、決心、なんだそうです。 生まれた時の気持ち、決心など覚えているはずがないのですが、 もし自分の意志で誕生してきたのならば、 きっと何かこの世で成し遂げたいと思うものがあって、 今度こそはそこに挑戦したい、そこから逃げずにいこう、という気持ちがあって、 この日本という国を選び、この両親で、この環境のもとでこの仲間と学んでいこうと自分が決めたということになります。 その方も、そういうものを信じ、 すべての経験がその達成のために必要なものばかりなのだから、つらい時こそそれを忘れずにやっていけば、 本当の「私」が望む生き方にとても近いものになるということなのだと思います。 もし、そんな生き方ができたら、 今を生きることに真っ直ぐになれる、迷いはなくなるのではないかと思いました。 そして、今世はできると思ったからやっている(生まれてきた)といえるかもしれません。 どうして今こんなことが起きているんだろう、 どうして今こんな気持ちでいるんだろう、 どうして今この人達たちと関わっているんだろう、 どうして今、こういう自分なんだろう。 その答えが初心にあることを思い出してみよう(実際は考えてみるになるかな)、ということ。 よく出てくるパターンの中に、それが何なのかヒントが隠されてあります。 あらためて、この言葉が好きになりました。 だから今日も、小さな引っかかりに、素直にその場で語

苦手なこと

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師走に入って、年内にこれをやってしまおう!と言われる仕事が増えてきました。 考えただけでもうすでに忙しくなっていて、 余裕がなくなるだろうなと想像する自分。 頭の回転が追いつきません・・・。 以前、友人から、仕事って忙しいものだと決めつけていない? と言われたことをはっと思い出しました。 仕事をしているって普通忙しいでしょう、とその時思いましたが、 時間をどう使うのか、どういう気持ちで取り組むのかで感じ方は全く変わるということはわかっているつもり。 それでも、やっぱり忙しい現実があるのは、 自分の容量(キャパ)を超えているんだなあって思います。 なかなかこのキャパというのは自分ではわかりにくく、苦手としているところです。 ここまでやったら疲労がはんぱないとか、倒れるとか、ミスが出るとか、いらいらするとか、 家事がどうでもよくなるとか、スーパーの総菜が増えるとか、寝ているようでちゃんと寝ていないとか・・・。 要するに、その後どうなっていくのかがわかっているようでいて(体験済みなんだけど)、本当にはわかっていない。 優先順位を決めて動くのも苦手です(目に入ったものからやりたくなる)。 年々、気持ちと身体がついていっていないということもある。 自分はできると思いたいパターンもあるかも。 実際には忙しさは嫌ではないところもあって、ちょっと師走ってわくわくします。 でも、そのわくわくが(楽しんで終わりたいが)、後半ばてる。 これでも、少しだけできるようになっていることは、『あきらめ』です。 やるだけやってできるところまでで良しとする、 というように取り組み方は変わってきているように思いますが、 この『やるだけやって』がくせもの。 これが日常的に多すぎるな、と最近思うようになりました(仕事ではね)。 やるだけもやらない・・・も増やしていっていいかなと今年は思っています。

でも、軽いわけではない

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昨日の続きになりますが、 身体の不具合にパターンは反応しなくとも、 別の事態には反応するパターン(昨日でいえば、ちょっと落ち込んだというところ)が出てくるのは、 何も不自然なことではないです。 どこがどう不自然じゃないかというと、 パターンって、その時々で、もっと言えば一瞬一瞬で顔を出すものが違ってくるからです。 体調不良のときは、もうここがパターンの出処だと、ここが原因と決めつける感じを持っていて、 全部微妙に違うパターンをひとくくりにしようとしていたことが多かったように思う。 身体の不調こそが、パターンの大元なんだと。 どんな感情も、全部そこにくっつけやすいのかもしれません。 パターンのケアって、 出てきたものをとにかく一つずつ語りかけていくところから始まるのですが、 どこか人間って効率性をこんなところにも求めてしまって、 そんな小さなものよりも、根本的で大きなもののケアをしなければ何も変わらないと思ってしまうのでしょうか。 今回、軽いわけではないけれど重いわけでもないというところをよく感じてみました(考えるのではなく、感じる)。 やはり軽さがない(足りない)のならば、 これまでのパターンらしいパターンではないのかもしれないけれど、 小パターン(小さめのパターン)がそこにはあるのだと思います。 引っかかり方が弱い、ごくわずかに感情が動いた、といった感情の波が小さなパターンです。 こういうとき思うのが、 『快ですか?不快ですか?』という二者択一。 これが一番シンプルでわかりやすい。 パターンが大きかろうと、小さかろうと、ほとんど感じない(重くもないけど軽くもない)状態であっても、 やはりパターンはパターンであって、「私」ではないのですから・・・。 ここを曖昧にしないで行けばいいって思いました。

重くも軽くもなく

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朝起きると、体が重く調子があまり良くないなと感じた日、 さらに家でも外でもちょっと落ち込むようなことが続きました。 今日はずっとこんな感じ(何かうまくいかない日)で行くのか・・・? 不調に注目していれば、 何かパターンが引っかかったかもしれませんが、 調子は良くないけれど、それでもいいというか、 「ああ、そうなんだ(不調なんだ)」とそれだけの感じもありました。 静かに過ごそうと、いつもより落ち着く感じもあります。 ゆらゆらゆれる水面のように。 波が立たず、かといって波が立ったらどうしようということも思わず、 身をまかせるような感じを、 なんだかこれまでもこういうことがあったなあと思い出しました。 調子がよくないというときでも、 そこに必ずすべて影響されるとは限らなかったなあと。 体調の悪さが、心を一旦静めてくれるような、 そういう体の使い方もあるのかもしれないと思いました。 この感じって、何なのか。 パターンの重さを受け止めた・・・のに近いかもしれません。 それならば、パターンのケアを充分にしてあげようということなのでしょうが、 重いことは悪いこと、避けたいこと、ダメなことという概念が薄れ、 あ~重たいなあ、で終わっている・・・そんな感覚が今の感覚です。 すぐに何とかしなければ、軽く楽にしてあげたい、 という感じとは違うもの(かといってケアしないのではない)。 この感覚の正体がちょっとはっきりわかりませんが、 白パターンのような軽さはないけれど、 しいて言うと、重くも軽くもない、という状態なのかな。  

よい状態って

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今これを言っていいのかなどうかな、と悩みました。 悩んでいるのは「私」じゃなくて、パターンなのですが・・・。 話すタイミングは果たして今なのかどうか、 今じゃない方がいいのか、 もっとよく考えてからにした方がいいのか、 でも、今気になるんだよなー、 といろいろ思いながら、なかなか話せずにいました。 こういうとき、 頭の中もぐるぐるしているけれど、胸のあたりのモヤモヤもすごい。 この気持ちを早くすっきりさせたい、というのもパターンです。 すべては自分をよい状態で整えていたいからなのだと思いました。 話すタイミングを頭で考えたり、肌でも感じ取ったりしながら、 自分の口から出るときには、できるだけちゃんと伝わるように話したいと思っている(グットタイミングで話したい)。 単純に、 話したことで自分が嫌な思いをしたくないとか、 相手に嫌われたくないというパターンがそうさせています。 タイミングがいいか悪いかよりも(その問題よりも)、 このぐるぐるとか、モヤモヤとかをどうするのかだと思う。 自分の思う通りにならなかったとしても大丈夫、という白パターンも確かにあるし、 そして、良くない大丈夫じゃないと思う黒パターンもいます。 このどちらでもOKだ、というところに行きたい・・・。 自分をよい状態にするというのは、 何かプラスに物事を運べるようになっていくことのように思いますが、 そうではないんだと、また気づかされたような感じがしました。 どんなパターンがあってもいいし、 どんな結果を受け取ってもいいという、 すべてに許しを持つ「私」でいることの心地良さ、心の軽さがある状態と、 パターンが騒がない状態に仕向けることとは違う。 ここを混同してしまっているんだなあと思いました。

楽しみ方いろいろ

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『乱世少年』(著者シャオ・ユイシュエン 訳者石田稔) という中国の文化大革命の時代を描いた児童文学の本を読みました。 児童文学というけれど、とても残虐な場面が度々描かれていて、 子ども(小中高校生)が読む本にしては、あまりにも衝撃的で切なすぎるところもありました(でもベストセラーなんだそう)。 中国人の知人に聞くと、 小説だからといって大袈裟にしたものでも何でもなく、 主人公の少年の目に映ったもの、経験したものそのままにその時代に起きていたことが描かれているということ。 日本の歴史で似ている時代を想像するとしたら、戦時中になるのだと思いますが、 自分たちも戦争を経験していない世代ですので、 戦争を知るというときに、たしかに残酷な事実を避けては伝わらないので、 こういう部分はとても大事なのかもしれません。 この本を読み終えたときに、ハッピーエンドではないけれど、 少年たちにとってこれからの未来がある、 大人たちにとっても生き抜くことそのものが希望になっていくんだと感じました。 小説自体は、登場人物のキャラクターを想像していくのが結構むずかしく(日本人ではないから)、 それゆえにすごくおもしろかったです(挿絵の版画がまたおもしろい)。 そう、残虐なことが起きるんだけど、非情なことが起きるんだけど、 そこに浸り続けるわけにはいかない、ということなのか。 以前読んだナチスを描いた『夜と霧』(著者ヴィクトール・フランクル 訳者池田香代子)もそうでしたが、 絶望の中には光は見えないけれど、 自分という人間の中にはいつも光は存在していて、 そしてそれは、見ようとして見えるものというよりも、 見えずして暗闇の中から感じとってしまうものが何かあるのかもしれないと思いました。 そういう時代に生まれてしまった人たちは(これも魂が自ら選んだのだと思うが)、 精神性を高めるためだけにこの世に生まれてきたとしか言いようがないような、 人生は修行という言葉がこれ以上ないほどあてはまるような、 生きる目的がすごくはっきりしているように思います。 人生の目的を知りたいと思う人はたくさんいると思うけれど、 精神性を高めるためだよと言われ、 ああそういうことかと、わかったから全てを受け入れられるかは別です。 自分だったらそんな過酷な時代に、どう生きていくんだろうか。 もしかしたら、もうすでにそんな時代も

なんとかかんとかやっていく

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久しぶりに海を見ました。 広くて大きくて青い海は、とてもおだやかですごく気持ちいい~ ずーっと見ていると心が落ちついてきます。 そして、風のようにふわっと、自分がどんどん軽くなっていくようでした。 三陸の海を見ていると、 やはりあの時のこと、震災を思い出します。 あの日、街をのみ込んだ真っ黒い津波。 信じられないほど恐ろしく姿を変えた海が、 今は目の前で、静かにきらきらと波うっています。 津波伝承館にはじめて行きましたが、 入ってすぐに心臓がばくばくしてきて、映像を見ていると胸が締めつけられそうになりました。 たくさんのものを奪っていった津波。 被災された方々はどんなに辛く絶望的な気持ちになったのだろうか・・・ 館内を順路の通りに歩き、 気持ちがどんどん沈んでいくようだったのですが、 それだけで終わることはありませんでした。 展示されたパネルには、その後の人々の変わりゆく姿もあったのです。 時を経て、人々が動き出し、 ほんの少しずつでも笑顔が戻り、 希望の光りがそこに小さく灯されていく・・・ こうやって人って、 どうにかしてでも生きていくようになっているんだと思いました。 これから先も、 自然災害やコロナのような、 自分にはどうしようもできない出来事に遭遇することもあるでしょうし、 たった今幸せを感じている自分が、その一寸先にはどん底を体験するかもしれない。 またそのどん底から、そのときには想像すらできなかった生きる力をふりしぼっていくこともあるかもしれません。 自分を信じたり信じられなかったりしながら、 それでも、なんとかかんとかやっていく。 お金持ちでもない、派手さもない、何か人の上に立っているわけでもない、 失敗したり、もう何やってんだわたしと思うような、じたばたしている自分であるかもしれないけれど、 それでも、「大丈夫、何とかやっていける」と 海を見ていたら励まされたような気がしました。 この(根拠はないけど)何となくやっていかれるという感覚、とても好きです。 帰りに、自分の家が近づいてきたときも、 あの青い海を思い出すと、この気持ちが追いかけてくるようでした。 もうだめだ、もういやだ、あー疲れたって思うときも、 「それでいいから。それでもやっていかれるから」と言ってあげよう。

コロナ、再び

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ZOOMで岩手クラスの勉強会をしました。 今日は日中でも気温が上がらず、すごく寒そうな感じだったので(一歩も出てないけど)、 温かい部屋でぬくぬくとコーヒーを飲みながらできるオンラインはありがたいです。 勉強会では、先月の振りかえりをみんなでして、 その後、語りつくしているようでどこか語りつくされていないような、 コロナに関わるパターンのケアの話題になりました。 今の自分はどうかと、 最近はほとんど考えることもなくなってきたと思っていましたが、 ●コロナのせいにするな(してはいけない) というパターンがありました。 確かに、物理的にそうなってしまったという事はあるかもしれないけれど、 本当にそれだけが原因か? それがなかったらすべて順調にいっていたのか? と自分にも他人にも突き詰めてみたくなるパターンがあります。 そのせいで仕事ができないとか、何かができないとか、 人間関係がぎくしゃくするとか、ストレスがたまるとか、不安定になるとか、 もうあきらめようとか、どうせやってもうまくいかないとか・・・ ここにつなげるのはもうやらない、と思っていましたが、 自分や他人が、ここにつなげようとするのを感じ取ると、 このパターンが反応していたかもしれません。 常に自分以外の何かのせいにしたくなるというところから、 自分以外のものには一切原因はない(すべての答えは自分の内にある)というところへ、 みんなが気づき、向かいはじめているように思います。 その移行期に、 まだ自分はこんなところで迷っているのかと、 やっぱり自分はダメな人間だというところにしがみつきたいパターンもいるように思う。 そしてそのダメだと思うパターンの方を選んでいる自分や他人を、 また否定したくなるパターンがあるのだと思います。 その時、本当の「私」はそこには不在で、パターン同士であっちに行ったりこっちに行ったりしているように見えます。 現実的にはいろいろあっても、それでも何とかやっていかれる・・・ という『大丈夫』と、 何があっても大丈夫、と思える現実的な根拠がある・・・というのとでは違います。 はっきりとした根拠や理由がないことへの不安が募るということは、 「私」以外のところに頼りたいと思っているからで、 言い返すと「私」のことは信じられないからということにもなります。 本当の「私」よりも、テレビで言っているこ

気になったこと

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前回の続きです・・・ 何となくうまくいっているような気がするときのもう一つの共通点は、 気になったことをそのままにしておかない、です。 何か気になるということは、知りたいと思う気持ちがそうさせているのだと思うので、 相手に確かめてみたり、他の誰かに聞いてみたり、 調べてみたり、行ってみたり、やってみたり、 さくっとやってみるといいような気がします。 そのままにしておくのが良くないということではありませんので、 そのままにしておく(無視をする)というところを、 パターンでやっていないかどうかという点なのだと思います。 何でもかんでもその場で解消しなければ気がすまない、というものとは違い、 この引っかかりを持ったまま、自分は先に進めるのか? そこは直感的にわかるものがあるように思います。 パターンがひっかかるということであればケアしていくことになりますが、 ん?今のは何? ちょっと分からなかった・・・と思うことは結構ある。 何かこれはそのままにしないほうがいいような気がするという予感がしたら、 その予感はあたったりしますよね。 ほんの小さな、些細な引っかかりであれば、 聞くとか話すとかいう行動にも、そこへの重さがあまりありません。 案外、時間が経つと、軽そうだったものもずっしりと固く重くなっていくこともありますから、 軽いうちに解決してしまうのもいいなと思います。 そこで解決されないものは、それはそれでいいくらいに考えて。 パターンのケアと本当にこれはよく似ています。 引っかかったことをその時にケアしていないと、 もうどこに引っかかったのかさえもわからなくなってしまい、 あとになって、 なぜ自分はあのとき気になっていたくせにそのままにしてしまったんだろうと思う。 だから気になってしまったその事実は、大事にしたいです。 最近何となくいい感じ、うまくいっているときのこの二つの共通点(話を聴く、気になったままにしない)は、 対相手だけでなく、もの、身体でもあります。 そして今回、これらを見つけたには見つけたけれど、 またそこは意識せずにやれたらいいなあとも思います。

たくさん話を聴く

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最近、何となくいい感じかなあ(うまくいっているなあ)と思うときの共通点について考えてみました。 二つ思い浮かんだことがあって、 一つは、相手の話をちゃんと聴くということ。 できているというより、そう意識してずっと練習しております。 仕事で、精神障害のある方とその方が働いている企業との間に入っていろいろな話を聞く機会が多いのですが、 ある意味、両者にとって中立な立場でいるようでいて、 実際はどちらの側の味方でもあるという微妙な立ち位置でもあります。 というと、どちらにもいい顔をしている感じもありますが(実際そうかも・・・)、 どちらの話もちゃんと聴いていくと、 自然に今目の前にいる人の言い分は間違っていないと思いながら聞いている自分がいます。 例え嘘をついているとしても、その嘘を聴いてみようというくらいに、 全部まるごと(表情やしぐさも含めて)受け止めたいと思って聴く。 ちゃんと聴いていないときは(または聴き方が浅いときは)、これが無いのです。 何か他に正解があって、間違ったことを言っているなこの人・・・と感じながら聞いているのだと思う。 雇用する側とされる側、お互いの立場での感じ方考え方があるので、 両者の話を聞いての『事実』はどうなのか、ということをある程度見つけられたら、 その『事実』についての感じ方考え方の違いはそのままにしてもらっていいと、 一旦は何の解決にもなっていないように見えるのですが、 それぞれの立場での話をよく聴き受け止めることができると、 そこには否定というものが無くて、 相手の方の捉え方がそのまま違和感なく、自分の中に入っていくのを感じます。 その人にとって今、これが正しいと思っていることは何なんだろうと想像しながらお話を聴いていく感じです。 それは自分自身にとっても同じで、 自分が今何を正しいことと思っているのか、 そこに向かわせようとしていないか、自問したりもします。 また、話を聴いていくうちに、内容が二転三転して複雑になっていくこともあります。 一見、言うことが違ってきて、何なんだ?と思うのですが、 言うこと感じることが変わってくるというのは、むしろ自然なことなんだなあと思うようになりました。 言っていることが矛盾していても、 矛盾はその人の心の奥底にあったいろいろな気持ちの表れであり、 視点の広がりでもあり、どれもその人にとって本当のこ

心と身体のつながり

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先日の岩手クラスでの話の中にあった、 完全な肉体よりも100%の精神性、というところはとても腑に落ちるものがありました。 完全な健康体は生まれもったものもあるし、老いていくことも避けて通れませんが、 本当の「私」とパターンは誰にでもあり、精神性ならばその人なりに高めていくことができます。 心と身体はつながっていると、 体験として知っている人は多いと思いますが、 この『つながっている』ところに注目しすぎると、 身体の不調を、心の不安定さ精神性の低さ、 といったマイナスな捉え方を常にしてしまうことになると思います。 そうなると逆もあって、 体調がいい人は、いつも安定していて精神性が高い人みたいになってしまう・・・。 本来はその事象には、プラスもマイナスもなく、 不調という事実(体験)が今そこにあるだけで、 不調だから何?・・・っていう何の意味もそこにはありません。 体調を崩す原因となったことなどはあるのでしょうが、 それ以上に意味をつけてしまうのは、人が頭でやっていることです。 だって自分がだめな人間だから具合が悪くなるんだとか、 心が弱いから、身体が弱いから、パターンのケアができていないから(これは自分が陥りやすいやつ) といった捉え方をもしいつもしていたら、 それは辞書にある言葉に、さらに自分だけの意味を勝手に付け足しているという状態です。 頭ではわかったつもりでも、どうしてもそこにマイナスのイメージを持ってしまう時があります。 そのときは、 『自分を成長させるために最も適した現象』と意味付けしてもいいかもしれません。 これは今の自分に、一番大事なことを教えてくれようとしていると考えれば、 早く去ってほしいもの、やっかいなもの、不要なもの、すぐ薬で消してしまえば良しとするもの、 ではないことを感じ取れると思う。 また、何かに引っかかっているパターンが見つかるかもしれない。 不調だからこれを止める、避ける、変える、動く、動かない、休む・・・といった行動は自然なことですから、 動物のようにただただ身体に忠実になっていけたらいいですよね。 ここ痛い~、ここ治りが悪い~、 あ~もう早くすっきりしたい、楽になりたい。 と軽々言える相手がいるということは、実はありがたいことです。 口に出せるとパターンのケアがしやすくなります。 もうすでに心の声がもれているわけですから、 あとは

好きな理由

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TVドラマをよく見ています。 しかも録画したものを、他を寄せ付けないものすごい集中力で見ています(家族がひく)。 ですから、よく泣きますし、腹が立ちますし、ものすごく嬉しくなりますし、 見終わった後も、その先の展開を真剣に想像し、何度も書き換えたりしています(脚本家か?)。 ドラマなんだから・・・と我に返って妄想を止める。 最近のもので好きだったものはと言うと、 『恋はつづくよどこまでも』『ハケンの品格』『MIU404』『私の家政夫ナギサさん』 『おじさんはカワイイものがお好き』『天使にリクエストを~人生最後の願い~』『半沢直樹』・・・まだあるかも。 主題歌がまた良かったりします。 この趣味嗜好で(恥ずかしながら)自分の性格がほぼ分かってしまいそうですね〜。 今年一番、はまったなと思うのは、NHK朝ドラの『エール』。 見ていない方にはすみませんで終わってしまいますが(内容も割愛してすみません)、 見ている方にはわかりますよね、あの面白さ! ドラマのタイトル通り、 人を応援したいと思う気持ちと応援される気持ち、 エールの力が人に奇跡を与えます。 その時代らしい逆境を乗り越えていく登場人物たちを、見ている側も応援したくなるのです。 個人的には今週は、 鉄男(中村葵さん)と幼い頃別れた弟との再会シーンには号泣でした。 はっきり言って、役柄とはいえこの俳優さんのファンになってしまいます。 鉄男の福島なまりがまたすごく良かった。 昭和のセットも、昭和の服装も髪形も見どころです。 物語の前半では、亡くなった志村けんさんに会えたり、 朝ドラ初の男性ヒロイン(窪田正孝さん)を起用したりと、 何かと新時代へ感慨深いドラマとなりました。 もうすぐ終了ということで、寂しいなあ。 どうしてこんなにドラマが好きなのか?と考えましたが、 たぶん、人生は何があっても素晴らしいもの、 ということを疑似体験できるものがドラマにはあるからだと思います(映画も)。 それをほんの一部分であっても味わいたい、ひたりたいのかもしれません。 また、泣く気満々で見ているわけではないのですが、 泣くだけ泣いた後のあのすがすがしさは、結構好きかもしれないです。 恋愛ドラマもたくさん見ているので、 そのへんは単にドキドキものに惹かれるおばさんだからというのもあるな・・・。

一期一会のクラス

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今日は岩手クラスのセミナーの日でした。 今回も宿題があったのですが、 この宿題で問われていることの解釈が自分はずれていて、 答え方が違っていたということがありました(話すまで気づかなかった)。 こういうことは、仕事でも私生活でもたまにあります。 周りの人たちが普通に難なく答えていることに対して、 一人質問されていることとずれたことを言ってしまう、ということがある(質問した人が困っている状況)。 なぜちゃんと答えられないのか? 単純に考えれば、ちゃんと話を聞く、文章を読む、 そういう基本的なところ(理解力や国語力の問題)もありますが、 何でもかんでも自分の感覚で受け取っていい、ということに重きをおき、 またその感覚で捉えたことが正しいと思っている自分がいたかもしれないと思いました。 少しまた違うのかもしれませんが(この話もずれていませんように)、 基本に忠実にやるよりも、 おおよそのことが合っていればよしとする傾向が自分にはあります。 語りかけのワークを教わったときも、それが身につく前にオリジナル的な言葉を使い、 ワークの意図が変わってしまったことがありました。 先生から、「この通~りに、やってください」 と念を押されたことを思い出します。 大体こんな感じでいいだろう、というのが中心にあって、 すっかり理解しよう、分かろう、ちゃんとやろう、 またはもう一度確認する、自分の解釈を疑ってみる、疑問があったら解消させる等々 そういうところの詰めが甘い・・・。 大体わかれば「わかった!」と言い、 大体こんな感じというところで自分にOKしている。 こういう性格、癖、パターン、資質、いろいろな特性が自分にはあるとあらためて感じました。 そして、こういうアバウトな、いい加減な、考えが浅い、早合点な、ごまかし傾向なところに、 時に助けられてきた自分がいたことも事実。 自分を知ることの材料は、あちこちに転がっています。 セミナーでは、その学ぶ内容そのもの以外にも、 仲間の話を聞いている最中に、自分の中に引っかかるパターンを見つけたり、 自分の発した言葉で自分のことをより客観視できて自分を知る、ということがあります。 そこがとてもいいなあと思う。 そして今回、先生からのたくさんの言葉の中で胸にぐっときたこと 「いつかは自分も来れなくなる日が来て・・・一期一会ですね・・・」 そうだよな・・

病院というところ

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健康診断でひっかかってしまい、 20代の頃お世話になっていた病院(ガン治療で入退院をしていたところ)で検査をすることになりました。  当時は、患者さんで待合に座れるところがなくなってしまうほど、廊下までぎゅうぎゅうに混んでいて、 待ち時間が3~4時間というのがあたり前でした。 わたしの担当医の先生は、1日に何百人という患者さんを診て、その間に入院中の患者さんも診て、 ものすごい忙しさだったと思います(先生はいつもパタパタしていた印象)。 あれから医療の在り方も随分変わり、 今は紹介状だけの患者さんを診て、他は地域のかかりつけ医へ移行していく形態になったため、 当時にくらべたら全然ゆとりがあります(座って待つことができる)。 そのゆとりのためなのか個人的なものなのかわかりませんが、診察時の応対も大きく変わっていました。 まず、「こんにちは。はじめまして」という挨拶があってびっくり。 丁寧な所見の説明、しっかりと目を見て診察、 終わるとまた「お待たせして本当にすみません。お大事に」という言葉が続く・・・。 口にはしませんが、いえいえ先生こそお疲れさまです・・・。 誤解があるといけないのですが、当時のドクターは無礼だったということを言いたいのではないですよ。 当時はあの方法しかなかったのだと思いますし、 それでは破綻してしまうと、長い年月をかけて今の形態に改善され、 医療者の方たちも少し余裕が生まれてきたんだなあ(といっても忙しいのでしょうが) と感じました。 病院に行くというのは、誰しも何かしら不安を持っているわけですから、 多少待たされても、診察してもらったらほっとした~ というところは大事なところですよね。 不安の原因がわかり、今の身体の状態を知ることができるというところが、 わたしにとっての「病院」なんだと思いました。 当時の自分は、入院も長かったのですが、外来治療も長く通い、 本当にたくさんの先生方、看護士さん、技師さん、助士さん、受付の方、また病気を通して知り合ったたくさんの患者さんたち、 本当に数えきれない人と出会い、あちこちでお世話になったことを思い出しました。 今回の担当医の先生からも、自分のお世話になった先生の名前を出すと、 「あ~○○先生に診てもらっていたのですね、私もお世話になりましたよ」と懐かしそうに言っていました。 治療が終わってから本来は経過

よ~く考えて

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どうしても気が向かない・・・というのは、 何かしらのパターンがブレーキをかけているときもありますが、 よく考えてみればやれないこともないし、やった方がむしろいいと思える場合があったりするのに、 それでも気が向かないというのは本物のような気がします。 本当に本当にそこに理由はなく、気が進まないときは、 そのまま成るようになるという感じで動かないという方が良かったりします。 こういうのが第六感というのか、野生の勘というのか、本能というのか。 気が向かない、ということをとても大事にするようになりました。 明日にのばしてもいいことはのばし、 誰かに頼んだ方がいいことは頼み、やらなくても他人に迷惑がさほどかからないのならしない。 場合によっては、それで死ぬわけではないくらいに考えるときもある。 気持ちがそちらの方向へどうしても向かわないというのは、 それ以外の何か向かうべき方向(向かいたい方向)があることも感じます。 ただ、それが何なのかまだわからないので、 とりあえず言えるのは、これではないという消去法。 人間の持つエネルギーは無限だと思いますが、 注がれる先は、自分に向き合えば向き合うほど、 ここ、っていうはっきりとしたところに注ぎたいと思うのかもしれません。 それがわかるまでは、おおよその方向で行き、 気が向かないものには目もくれず・・・でいいのかなと思う。 「よ~く考えて」と言われたのですが、 考えるとわからなくなっていくので、よ~く感じようと思い直しました。 やりたいのかやりたくないのか、二つの部屋へ入ると完全にそれがわかります。 やっぱり、よく考えなくて良かったなあと思う今日一日でした。

期待する動機

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相手に期待をしてしまうということがあります。 そうなってほしいという願望がはじめにあって、 どちらかと言えばその願いが叶いそうなとき、そうなったときの喜びまで想像しています。 期待そのものは、いいも悪いもないのですが、 期待しはじめると、そうなってほしいという気持ちを自分自身であおぎ、 自分自身で妄想し拡大させ、叶ったその先のことまでも決めつけてしまっています。 そして期待がある分、そうならなかったときに、 後悔、怒り、悲しみ、落ち込み、裏切られたと思ってしまう。 期待している時間を、 この先どうなるのかなあと楽しめる時間にできるといいと思いました。 ちょっとだけその期待感をおもしろがって楽しむ。 そこで終わることができればいいし、 期待しているその時から、その後の結果はどんなものが来ても大丈夫と思えたらいいのに・・・。 でも、それは思考で考えているから言えることで、 実際は期待が外れた時にはじめて、 ああ自分は、期待通りにならなかったときのことは全く考えていなかなったんだ(考えたくなかったんだ)と気がつきます。 相手に期待してしまったその動機を考えると、 その期待が期待だけでは終われない理由が見つかります。 それは、ほとんどのものが、自分はそれで安心したいというもの。 人は安心したいのだと思います。 『自分のために相手に期待している』ということに気づきます。

生まれたときから

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本当の「私」、という言葉がこのブログでもよく出てきますが、 この言葉をカウンセリングの先生からはじめて聞いたとき、 じゃあ今まで、本当の「私」はどこにいたんだろうと思ったことがありました。 でも実は、生まれたときからずーっと「私」は一緒にいたのです。 むしろ生まれたときは「私」そのものでしかなかったのかもしれない。 それから、いろいろなことがあって家族や周囲の影響を受けながらパターンというものが作られ、次第に大きくなっていき、 「私」の存在を忘れてしまうほどになってしまった(意識できなくなった)。 それでもかすかに感じる「私」という存在に助けられ、 パターンが日々いろいろなことを感じ、考え、それが自分自身だと思っていたことを知り、 これからはもう本当の「私」で生きようとした時から、 人生は大きく転換していくのだった。 パターンという言葉や本当の「私」という言葉を使わなくても、 たとえ心のからくりを知らないとしても、 自分の中にもう一人の普遍的な存在がいて、 それが自分を支え、励まし、助け、許し、力をくれていることを感覚的にわかっている人はいると思う。 他人でもなく、どこかの神様でもなく、自分の中にある何かが・・・。 でも、そういうことも全くわからないとしても、何の問題ないということも何となくわかってきた気がする。 それくらい、すべてがその魂に合った人生を歩いていくだけなのだと思うのです。 どういうことを知っているから幸せだとか知らないと不幸とか関係なく、 みんなが魂の成長を願って生まれてきたのだから、そこにふさわしいものが淡々と与えられていくだけなんだって。 「私」で生きるとき、 そこから広がる世界は「私」が見ているものであることには変りない。 宇宙のかけらのような、小さな小さな存在である自分がやっていることは、 とても大きな意味を持ち、また一方では何の意味も持たず、 どちらでも周囲に影響をもたらすものであると思う。 だから、一日の中の少しでも多くの時間を「私」でいられるように過ごしていくことは、 自分だけのものではないのだ。 この世に、この地球に日本という国に、この土地で、この家でこの家族の中で、 そして今あたえられた人と環境の中で「私」として生きていくことの、 責任のようなものを感じました。

どこまでも歩こう

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休日は喫茶店によく行きます。 でも、以前と少し変わったのは、 行きたいお店まで、家から車ではなくなるべく歩いて行くようになりました。 運動不足は今はじまったことではないのですが、 わたしの周りでなぜか健康ブームが到来していまして(筋トレ、自転車通勤、ランニング等々)、 軽くヨガをすること以外、全く運動らしきことをしないわたしも、この波に乗ろうかと・・・。 最初は、「どれどれ、盛岡駅から歩いて帰ってみるか~」と軽い気持ちでした。 しかしこれがなんと情けないことに、 半分も行かないうちに足が痛くなり、 何だかお腹も痛くなるし(完全に身体が驚いている)、息はあがるしで、 ちょうどいいタイミングでやってきたバスに迷わず乗り込んだのでした(完全にモヤシだった)。 確か数年前は、駅近くでお酒を飲んだ時、酔い覚ましにと歩いて帰った記憶があり、 あれは酔っていたから家まで到着できたのかどうか分かりませんが、 とにかくその頃から比べて、足腰が相当衰えているなあ~と感じました。 これはやばい・・・ということで、 今日も、お目当ての喫茶店を目指して歩きました。 まだ足は痛くなったり、息もあがりますが、ちょっとずつ疲れにくくなってきた感じです。 スマホにキロ数と歩数が表示されるので、 数字を見ると俄然やる気も出て楽しくなってきています。 普段、どこに行くにも本当に見事に車ばかり。 この調子でいくと、たまに東京なんぞ行ったもんなら、駅の構内で力尽きてしまいそうです。 まだまだたくさん行ってみたい場所もあるし、 ちょっと遅い気づきではありますが足だけは鍛えていきたい。 それにしても、歩いていると車ではまったく見ていなかった景色が広がりますね。 場所によってお店の匂いや何か植物の香りもふいに漂ったり、子どもの声、鳥の鳴き声、生活の音も聞こえてきます。 途中、公園で一休み。 今日は、落ち葉の上をかしゃかしゃ歩く音も心地よかったです。

パターンにはできない

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●平気なふりをしてはいけない というパターンの頭のままに人と接してしまうと、 平静を装うあなたは間違っている、 だからこうした方がいいああした方がいいみたいな言葉が出てきて、 単なる説教になりかねない。 相手の苦しさを何とかしてあげたいと思う気持ちがあったとしても、 「平気なふりは苦しいでしょう」 「無理しない方がいいよ」 と、優しい言葉の裏にも相手のやっていることをどこか批判したいのだということがわかる。 よく言われる課題の分離で考えたとしても、 他人である自分には本当は何の関係もないこと。 その方がどんな態度で臨もうと(平気を装うのか、ありのままでいくのか)、 それは自分の問題ではないとわかる。 けれど、 自分の問題としてそこに注目してしまうのは、 相手を見て感じるこの胸のざわざわがあるから。 自分の中で起きている確かな動揺に、いろいろ考えずにはいられなくなってしまうのです。 例えば、課題の分離は頭でやっていることで、 パターン(胸のざわざわ)は心と身体で起きていることだから、ここには嘘をつけない、ということでもある。 もしも、パターンに引っかかっているとすぐに気がついていたら、 相手に何か言えるような状態ではないと、自覚することが必要だったかもしれません。 自分のパターンのケアして、心を定めていくことの方がずっと大事だったんだと思う。 心が定まったら、自然にいいと思える言葉(その人にかけたい言葉)が出てくるものだし、 そうやって言葉と共に、純粋な気持ちも伝わっていったと思う。 ただただ話を聞くということは、 パターンにはできないことなんだとあらためて思いました(表面的には聞いてるようにできたとしても)。 だからさ〜とか、 それで本当にいいの?とか、 わかるわかる、わたしも経験してきたよーとか、 心の内ではなんと、耳障りな合いの手が入ることか。 このあたりの違いをはっきりと感じ取りたいものです。 「感じる取る」ということは、とてもシンプルなことだからそこに理屈はない。 もう少しこのパターンには語りかけていこうと思います。

平気なふりをしてはいけない

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とても具合が悪いときでも無理をして働き、 無理をして人と付き合い、無理をしてそこに行く。 どうしてそこまで?と悲しいとか可哀そうとかいうより腹が立ちました。 返ってきた答えに、またわたしのパターンはざわざわ・・・。 「だって、できない人だと思われたくないから」 もう何十年とそうやってきたので、 そうでなければ他人から認められない、 というものが信念としてあるようでした。 自分もかつてそういうパターンがあったし、 そうしなければ生きていけない、生きている価値がないとすら思っていましたから、 すごくよくわかる。 でも、もう少し掘り下げていくと、自分はその人の何にざわざわしたのか? パターンにスイッチが入った瞬間はどこか(どの瞬間で感情が動いたか)? かつての自分を見るような人が目の前に現れたとき、 パターンが一気に騒いだ。 それは、無理をしていること自体にではなく、 平気なふりをし続けているその方の表情を見たときに、感情が動いたんだと思いました。 つまり、自分もそんな表情をして、大変そうに見えないように神経をめぐらし、 本当は深呼吸もできないほどに苦しいのに、 全然平気にやっていますよという仮面をかぶり、演じていたからです。 そのときのつらかった感情、自分を責める自分がまだそこにいたんだと思いました。 かつての自分。 と過去形にしてしまっていましたが、 できない人だと思われたくないために平気なふりをして、 一生懸命頑張っているパターンは今も生きているんだなと思いました。 そしてそのパターンが、平気なふりなんかするんじゃないと正論で言ってくる。 気がつくと、 自分はその人を前にして(鏡にして)パターンだらけでした。

どう思われるかの世界

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人からどう思われているか気になってしかない、という方は多いと思う。 というより人の目が全く気にならない人などいない、人間ですから。  どう思われるか、というのは、 嫌われたくないとか、いい人だと思われたいとか、 できる人だと思われたいとか、バカだと思われたくないとかいろいろあると思いますが、 それは、これまでその方がどんな体験をしてきたか、 そこでどんなことを他人から言われてきたのか、 自分はどんな思い(感情や感覚)をその体験で抱くことが多かったのか、 そうなりたくない、傷つきたくない、という恐怖から逃れたいために生まれる感情と思考なんだと思う。 他人がただあなたのことを勝手にそう思っているだけなのだが、 それが自分のすべてとなってしまい、他人に自分という人間を決めさせている状態。 そして、本来の自分ではなくてもいいと、そう思われるために必死に演じている場合もある。 本当は違う意見を言ってみたいけれど、 出しゃばらない人、協調性がある人と思われたいから本当の自分を抑えたりする。 自分を知られたくないと思うときも恐怖は生まれている。 どちらにしてもやっかいなことは、 どう思われるかと考えることが呼吸をするかのごとく、自分の一部となり、 そう考えることに何の疑問も違和感も持たず、それが自分の性格なんだと思い込んで生きているということ。 そうならない自分(気にとめず生きられる自分)は自分ではないかのように信じているのだ。 どうしたら、その世界から抜け出せるのか。 その世界は、本来の自分のありたい生き方を取り戻すために、気づいてもらうために見せられているのだと思う。 だとすれば、もうここの世界は充分やり尽くしたと思えるかどうか(もうわかりました〜って)。 他人を気にしない日はないかもしれないけれど、 他人とは関係なく生きてみたい自分がいることを感じられる時も必ずあると思う。 一人でいるときのすっかり安らいでいられる自分、 何かをして楽しくて大笑いしてしまう自分、 失敗したけど、まあがんばってるなあと身体をさする自分。 どっちの感覚を持って生きたいのか、ふと立ち止まり、 どちらが心地よいのか無理がないのか感じてみる。 それは、こう思われて良かったという恐怖から逃れた安心感ではなく、 こう思われたことに傷ついたから、今度はもっと気にかけて生きようとがんばることでもない。 もっと