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7月, 2021の投稿を表示しています

記者の聴き方

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先日たまたま新聞記者の方とお話しをする機会があり、 なるほど~と思ったことがありました。 例えば自分であれば、相手の方の話を聞くとき、 『傾聴』という姿勢が基本になりながら、その方の言いたいことは何なんだろう?って考えます。 でもその方は、相手の方が発する言葉から感じられる、その人の真実は何か? を淡々と読み取っているかのように見えました。 そこに物事の良い悪いはなく、 その方にとっての事実を曲げずに聞いている、という感じです。 横で見ていた自分は、 まっすぐなまなざしが、相手の表立った目に映る人としての姿を通り越して、 体の中の声、心の内の声、脳の中で変換される声といった、 発信される場所で多少の変化をもちながら(ニュアンスが変わる)、受け取っているような感じでした。 良い傾聴ということでは、 うなずきや相づち、聴くときの体の姿勢、オウム返しに共感、などなど、 講座を受ければ、相手がちゃんと聴いてもらったなあ、と感じてもらえる聴き方を身につけることができます。 ですが、そういうものとはまったく違うもので、 聞いている側、知りたい側、受け取る側にとっての聴き方なのだと思いました。 核心をついた質問だけになってしまったり、 自分はここが知りたいんだということをただ並べて聞くだけでは、 ワイドショーのレポーターや、取り調べの尋問のようになってしまいます。 相手が自然にこの人には話してもいいかなと思う、 それが、腕のいい記者さんには何か天性のものがあるかなあと思いました。 記事にするしないにかかわらず、 「この人にとっての真実を知りたい」 そういう姿勢で人の話を誠実に聞く・・・もう、しみついているものなんですね。 誰しも、生まれてから今日までの自分の歴史があります。 それを本人に代わって、たくさんの表現をもって、言葉をもって伝えられる能力ってすごいです。 相手にとっては、話したことで、 「自分を知ることができた」という充足感がそこにはあるように思います。 あえて人に話すようなことでもないと思っているようなことも、 でも聞かれたから思い起こし、答え、 気付いたら、自分の眠っていた気持ちまでも知ることができた・・・ という感じでしょうか。 カウンセラーと記者ってもしかしてちょっと似ている?かもしれません。 人が好き、人の歴史を知るのが好き、物事への好奇心、疑問への探求心、 人

TOKYO 2020

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オリンピック、みなさん見ておりますでしょうか。 開会式での行進、 大会に出られる嬉しさを全身で表す選手たちを見てしまったら、 本当にオリンピックやって良かったなあと思いました。 たくさんの競技があってどれも全部応援したいのですが、 TVをつけた時にやっていた競技をかじりついて見ています。 その競技の一つが、体操男子団体日本の銀メダル! 決勝戦ずっと緊迫した雰囲気の中、 上位3チームが競りながらのまったくのノーミス演技がすごかった(すごいという言葉しか、もはや浮かばない)。 神業の鉄棒は、ため息がでるほど素晴らしかったです。 日本は、4人全員がはじめてのオリンピックだったそうで、誰が何の種目に出るのか、 コーチはいろいろな要素を加味しながら出場選手を選んでいるのだなあと思いました。 あくまで団体競技ですから、全体のバランスを見て、ということなのでしょうが、 予選で高得点を出した選手をあえて出さなかったり、 10代の若い選手を3番手(最終)に起用したりという、 それぞれの選手の能力を、最大限に引き出すために考えられた配置なのだなあと思いました。 体操といえば・・・ 数日前の内村航平選手の落下をニュースで見たときは、本当にショックでしたし、 とてもせつなくなってしまいました。 でも、あれほどの努力をしてきた内村選手だったからこそ、あの体験を担ったのではないかと思いました。 そして、自分のことよりも仲間の演技に感動し、 「自分はもう要らない」すでに終わっていたんだということをインタビューで言っていました。 日本中から期待され、ずっと注目をされてきて、 あっけなく失敗して終わってしまったその悔しさはあったと思いますが、 本人が言っていたように「気がついたら落ちていた」 気がついたら、もう違う場所に自分はいたんだ・・・ということだったのかなあと思いました。 まだそこにいたいと思っていても、 もう別の場所(新たな価値観、新たな役割、新たに与えられる経験)へと歩き始めていた、ということがあるのかもしれません。 自分の中にある怖さの中で戦う選手たち。 「ずっと自分と戦ってきた」と言っていた選手もいました。 自分の中のもう一人の自分が、怖い、負けたらどうしよう、失敗したらどうしよう、と震えながら、 でももう一人の自分が、大丈夫、やれるよ、あなたならできる、と肩をたたいて送り出す。 そん

パターンのすり替え

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先日、もう随分と顔を会わせていない知人を見かけ、思わず逃げてしまいました。 その方と関わりがあった頃の自分は、とても無理をして背伸びをして忖度してお付き合いしていたので、 姿を見かけた瞬間に、体が拒絶反応のように心臓がばくばくしはじめ、 くるっと向きを変え透明人間になってしまいたい(こちらの姿を見られたくない)と思いながら一目散に離れました。 そんな自分を見ていて・・・ 昔に抱いたパターンは、 やはりそのきっかけとなったことに向き合うことで、 そこでケアされていくんだなあと思いました。 人が成長していくと、以前は怖いと思っていたことがそうでもなくなっていたり、 いつもなら不安になっている自分が、それほど不安に感じなくなっていたり、 久しぶりに会った人と何だか以前とは違う、いい距離感で話ができた、ということが起きたりします。 ある出来事に対して抱いたパターンがあって、でもそのときケアを充分にしたわけではなかったのに、 いつの間にか以前のようにはパターンが騒がなくなっていたということはあるのです。 それが今回はというと、 しっかりとその時の自分のまんまなんだなあ(パターンがそのまま居た)、と思いました。 何のパターンにひっかかっていたのか、考えました。 (まだカウンセリングを学んでいなかったので、当時はパターンで見る、ということをしていなかったのだが) いわゆるママ友のわたしは、その方と関わるたびに、 何か自分の子育てを否定されているかのように感じていました。 そしてそれが、自分自身の人間性まで点数を付けられているかのような、誰かと比較されているような怖さがあり、 評価されなければ子どもにも、こんなダメな親であることで迷惑をかけてしまう、 良からぬ影響で子どもを辛い目にあわせてしまうのではないかと思っていました。 今思えば、思い込みもはなはだしいのですが、当時はそういう思いで頭がいっぱいだったのです。 つまるところは、『できた人』だと思われたかったのです。 親としての見え方もそうだし、周囲の人たちともそつなくやれている、慕われている、頼りにされている人でいたかった。 そんな親に育てられた子どもは、のびのび育っていて、みんなと仲良くできていて、 この親にこの子あり!っていうくらいのことを考えていたのだと思います。 そして、他のお母さんたちが、これまたとてもよくできた人たち

正直さとは?

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誰かに否定されたと思うときは、 自分は間違っていないと思うんだけどな~という気持ちと、 自分に正直にやってみよう、という気持ちが同時にやってくるときがあります。 前者の方は、そこに少なからず、 そう思うきっかけとなった何かに対しての否定的な感情(もやもや感)があれば、 それはパターンだと気づくことができます。 後者の方は、正直にやってみようと思うときに、 すがすがしさや、明るさや、前向きな感じ、すっと進めるようなものがあれば、 パターンがしたいのではなく、本当の「私」がそれを選び、行動へと移そうとしていることがわかります。 でも、この気持ちをちゃんと受け入れる前に、 頭の中だけでそれ以降の行動を全部やってしまうことがあります。 もやっとしたからこれはパターンだからダメなんだ、やっちゃいけないんだ、 と判断し行動を変えようとするのがそれです。 パターンがやりそうなことはもうわかっているので、それをしないように避けていこうとする自分。 でも、パターンの感情は残っているため(ケアされていない状態)、 正直にやってみようと思ったはずなのに、言っていることは何かへの否定だったり、 自分の正しさを見せたいというものが、どこかに感じる。 やはりまだ「私」ではないのです。 正直に、正直に・・・と言っている割には、 全然すがすがしさや明るさが出てこない。 結局、自分は間違っていない(自分の方が正しい)、という言動で対処しているんだなと思いました。 ただ、正直さというものも100%毎日それができるか?と言えば・・・たぶんできません。 ですがそういうときでも、 今の時点では、こっちにしよう、今の自分では、ここまで、 というような選択を意識的にしているかどうかで、結果は違ってきます。 ●正直じゃない自分はダメだ、というパターンではないところで選択していく。 そうすると、そうではない自分がいてもダメではないんだ、と少し心も軽くなります。 自分を楽にしてあげたいって考えると、 どこか本当の「私」でやっていきたいという純粋な思いから、 いつのまにか「私」で生きていない自分はダメなんだ、 というところに陥ってしまうところがあるかもしれません。 黒パターンがあっていいということを、忘れてしまっているような。 「私」は、どちらでもいいですよ~とすべてにOKを出している存在。 そこも、忘れてはいけないで

かっこ悪い自分を見られたくない

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●かっこ悪い自分を見られたくない、というパターンがあります。 自分が(パターンが)これをしたら『かっこ悪い』『みっともない』、 って決めつけている基準のようなものがあります。 それは、他人はすんなりやっていることが、自分にとってはすんなりやれない、 という場面でそう思ってしまいます。 例えば、つい先日、 お昼ご飯を食べていたときに(めいっぱい口に入れていたとき)、 話しかけられてあわてて話そうとしたら、変なところにご飯が入ってしまって(たぶん気管?)、 息ができないくらい苦しかったことがありました。 そういうとき、きっと他の人だったら、思い切り咳込んだり、胸をたたいたり、 あ~苦しかった!!!とかなんとか、涙目になりながら言う。 ということができりするのだと思います。 でも、自分はそういうことができませんでした。 他の人は自然に(しかも、生理現象だし)素直にそのままにしていればいいようなことも、できないのです。 息ができない苦しい状況にもかかわらず、 人の目の方(●かっこ悪い人と思われたくない)が優先されてしまうのです。 なるべく、平気を装い(といっても平気には見えてないと思うが)、 精一杯取り乱したりしないように、苦しさに蓋をして全力でかっこ悪さをおさえこもうとしてしまいます。 それが悪い、ということではないですが、 本当はしたかったという行動は、 ゲホゲホしながらご飯粒を飛ばしながら、ゴリラのように胸をばんばん叩いて、泣きたいだけ涙を流して、 ひどい顔になりながら、げ~~~苦しかった・・・もう死ぬかと思った・・・と言いたかった。 そういうことがあるたびに、 苦しいままに、もがくままに、なるようになるかのようにしている人を見かけると、 うらやましくなってしまいます。 このパターンで行動する場面というのは、 表面的なかっこ悪さ(かっこ悪いと思い込んでいるのは、パターンなのだが)だけでなく、 精神的な部分でもあるかもしれません。 本当は緊張して心臓がばくばくなのに、「あ~~~緊張してだめだ」 って言わないし言えない、とか。 傷つくことを言われて(これもパターンがそう思い込んでいるだけだが)、 本当はショックでうちのめされているのに、「え~~~それを言われれると傷つきます」 とは言えません。 それを言ってしまったら、かっこ悪い自分を表明するようなものだとパターンは思って

惚れ直す

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叔母が亡くなり、葬儀は家族だけでひっそり行ったと聞きました。 お線香をあげにいくと、叔父は何かとてもやつれていて寂しそうではあったけれど、 わたしたちが会いに来てくれたことをとても喜んでくれました。 夫の親族何人かへ連絡は入れたものの、来れなくて仕方ないこのご時世。 なのにやっぱり、わたしの予感は的中し、義弟だけはやって来ました岩手に・・・。 しかも朝の通勤途中で、居ても立ってもいられなくなったらしく、 そのまま会社へ行かずに新幹線に乗ったとのこと。 こういう突拍子もない行動は今にはじまったことではないのです。 さすがに若い頃は、もうなんて自分勝手なやつなんだと、突然泊まりに来られる方の身にもなってよ、 と大迷惑をしておりました。 でも今回は、わたしのパターンはあまり騒ぎませんでした。 むしろ、一人残された叔父のことを心配したのだろうなあって、 わたしの知らない歴史の中で、弟は叔父をずっと慕っていたのだなあと思いました。 しかし半分は、「なんか今日会社に行きたくなかったし~」って言うところも正直。 そう、自分の気持ちに正直に生きているだけなんだと、自分と結構似ているのかもしれないなと思いました。 何よりも、亡くなった叔母がこうしてお前たちと会えるようにしてくれたんだと叔父が言ってくれたので、 何年ぶりかで昔話ができたこと、弟のおかげで叶って良かったです。 叔母はいつも元気で華やかで、そして美人でした。 治療を受けずホスピスの道を選び、最期まで明るく気丈にふるまっていたそうです。 「本当にあいつはすごかったよ。惚れ直したよ」 叔父の言葉に、一同びっくり・・・。 50年以上連れ添った妻に対して、こんなことを言える夫って、すごくないですか?! こんなに長く一緒に生きてきて、なおも惚れ直した、っていうことがあるんだと、 わたしたちはもう衝撃を受けました(そして、大爆笑)。 妻にとっては、最高の言葉ではないでしょうか。 このような夫婦のあり方に、まだまだわたしたちは青く、ほど遠く・・・ 死にざまで生きざまがわかるとはこのこと。 叔父夫婦に教えてもらったような気がします。 たくさん笑って満足そうに帰っていった弟を見送って、 みんなそれぞれの場所で、家族元気に幸せに暮らしてほしいなあと願いました。

苦手意識

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よく苦手意識を克服する、という言い方をしたりします。 苦手だと思う自分自身の意識を、苦手ではないんだ、自分はできるんだという意識にチェンジできたら、 それは克服したと言えるのだろうか・・・ 克服するというのは、苦手だと思わなくなるということではなくって、 『苦手だと思う自分を許していく』ということなんだと思いました。 今日やっと、自分にとってものすご~く苦手なこと(仕事)を終えて、 もうすっかり心は軽く、肩の荷は降り、明日からはまたがんばっていこう!などとほっとしています。 こんな自分を見ていると、 これって全然克服なんてしていないし、克服できていない自分を許せていないのではないかと思いました。 ただの、喉元過ぎれば熱さを忘れる、状態なだけ。 苦手というのは、人前で話すということなのですが、 うまく話せない自分、噛まないで、声が裏返ったりしないで、喉がガラガラ声にならない自分。 語尾がちゃんと言いきれていて、話すスピードがちょうどよくって、なんか偉そうな感じとかは無くって、 内容がとてもいいことを言っていて、親しみやすい話し方で、ちゃんと筋道立てたわかりやすい話のできる自分。 聞いて良かった、楽しかった~と思ってくれるような心地良いしゃべりを自分は(パターンは)したいのです。 そう、こんなところを目指しているわけです(信じがたいほどハードル高い)。 これほどにたくさんの項目を叶えることは無理だと、頭では理解しているし(いや、理解してない)、 うまく話せなくたって、自分の伝えたいことをちゃんと話せたら、それでいいじゃないか! とも思うのですが(ききわけがいい子のふりをする)。 自分が伝えたいことは言えているのだろうか?と本質のところを思うし、 そもそも、そんな熱く伝えたいことなど自分にあっただろうか・・・とも思うのだ。 もしかしたら、 そんな、伝えたいという真っすぐで熱い気持ちなどなくたって、ただ聞きやすく、ただ内容がわかりやすく、 自分は『話すのがうまい人』になりたかったのかもしれません。 または、下手であったとしても心に響くような話し方ができて、 下手だけど何かとても良かったと思ってもらえるような、そういう話しのうまい人になりたかったのかもしれないです。 つまるところは、かっこ悪い自分を見るのが嫌だったのです。 「苦手だから・・・」という言葉は言い訳しているだけな

ある年齢になると

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久しぶりにイオンに行きました。 何人かの店員さんと会話をすることがあって気がついたことがあります。 店員さんたちみんな、自分よりかなり若い・・・ということ。 このおばさんに似合うようなものを選んであげよう、としてくれているのがわかります。 そして、とても優しいです、若い子たち。 これは自分より若い男性にもときどき感じることです。 なんか50歳をすぎてから、親切にされたりとても優しくされたりということがあるのです。 たぶん、自分のような年齢のおばさんって、母親とか親戚の叔母さんのような感じで、 完全に恋愛対象から外れた生きもの。 だから、女性に見られていないというか〜 恥ずかしさを感じることもなく、気を使わないのかもしれません。 かといって、まだおばあちゃんではないので・・・ 話もそこそこ合わせられ(本当はかなりずれているかもしれないが)、 うっかりミスをしても、もの覚えが悪くても、おばさんだからな~って思われているのかも。 若い子たちからすれば、なかばあきれているかもしれないし、仕方ない人種と思われているかもしれない。 さらに、いたわってあげないと、この人何もできないんじゃないか?と思われ、優しくするのかもしれません。 なんて都合いい年齢なのか・・・おばさんになるっていい!と思いました。 そんなわたしも、若い子のことを(ここでいうのは20代~30代くらい)、 何か失敗したとしても簡単に許せそうな気がしています。 これはパターンなのか、愛なのか? ところが、自分と同世代や少し年上の人に対してはどうかというと、 「こんなこともわからないのか」 と、常識という曖昧さを基準にしてその人を判断していることがあります(こちらは完全にパターン)。 自分自身がその常識的なことがよくわかっていないため、 そんな非常識な自分でさえも知っていることなのに、こんな自分でさえできていることなのに、 という考え方になってしまうのです。 そして、相手が知らなかったできなかったとなれば、 そこには考察が浅く、何かを得ようとする姿勢や努力が足りない・・・ と捉え厳しく評価してしまっているのだと思います(一体パターンって何様なんだ)。 「年をとる」の中立ワークをしてみました。 マイナスの意味付けは、 老化する、病気が多くなる、意欲が低下する、どこかが痛い、健康をいつも考える、制限がある、日々年をとった

瞑想法

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この数週間仕事が忙しく、疲れがたまっていたこともあって、 岩手セミナーの当日の朝、今日一日無事に参加できるだろうか・・・ と思うほど体の方はふらふらでした。 でも、やっぱり・・・です。 やっぱり予想通り、その心配はいりませんでした。 カウンセリングという学びは本当におもしろいです。 セミナーを終えた日の晩、 布団の下の宇宙の果てに、この疲れはすべて吸い取られていくように、 これまでになくぐっすりと眠ることができました。 自分の好きなことをするって、単純に体にもとても良いのだなあと思います。 今回、そんなエネルギーあふれる一日の中で、 わたしがとても気に入った学びを紹介します。 瞑想法の一つなのだそうですが、 私が幸せでありますように。 私が健康でありますように。 私が平和でありますように。 私が安心でいられますように。 と声に出して言ってみるというものです。 なんて慈悲深く、愛おしく、やさしいのでしょう。 なんて喜びいっぱいで私を包み込んでくれる言葉でしょう。 この言葉をずっと待ちこがれていたのかもしれませんし、 こんなふうに自分に言ってあげていいのだと、 やっとこんなふうに受け取れる自分になったのだと思いました。 この瞑想法は、自分自身へのいつくしみからはじまり、 家族、友人、職場の人、気づいたら周囲にいる人、お店の人へと行うことができ、 そしてここが最大のポイントとなるところなんですが、 自分が忌み嫌う人へ向けても同じ言葉をかけていく・・・ということをやるのです。 これは確かに「私」が望むであろう姿だと思いました。 最後は生きとし生けるものたちすべてへ愛が放たれる、ということになります。 やってみると、本当に意外や意外、パターンが嫌いだと言っている人であっても、 いいえ、嫌っているのは「私」ではなく別の存在であるパターンなんだとはっきりと区別されました。 そして、なんということもなく、○○さんが幸せでありますように・・・と言えたのです。 「私」がその嫌いだと思い込んでいるパターンそのものまでも包み込むように、です。 そこに違和感や嫌悪感、不快な気持ちなどはなく、 その人も愛される権利はあって、幸せに健康に平和に安心でいられることを願う自分がそこにいました。 とても柔らかく、あたたかく、宇宙にふわ~っと広がっていくその瞑想は、 疲れた体も、かたくなな黒パターンも無

老犬が好き

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今朝、窓の外を見ると、散歩中の犬(中型~大型犬)が突然ブレーキをかけて立ち止まっていました。 飼い主さんも足を止めると、犬はちょっと疲れたのか、そこに伏せをしてしまいました。 しばらくじーっと動かなくなって、完全に休憩している感じです。 飼い主さんが犬をなでながら「疲れたのか?」と話しかけ(ているように見えた)、 しばらくあちこちなでてあげていました。 充分に時間をとってあげると、「さあ、もうそろそろ行くか?」と今度ははっぱをかけているようでした。 この後どうなるんだろうって、 自分の好奇心と愛犬心はもうわくわくしてしまって、 外から見えないガラスをいいことに、朝起きたてのすごい格好で窓に張り付いて見ていました。 そしたらなんと、犬は立ち上がるどころか、 横にコテっと寝てしまったのです(両手両足を揃えて伸ばして、完全に寝た)。 やるな~・・・ 犬好きの自分にとっては、こういうところがたまりません。 しばし、飼い主さんはなでなでしながら説得にかかっていましたが(やさしいなあ)、 とうとう最後の手段としてのおやつやらしきものをバックから取り出し(馬に人参をぶら下げるかのように)、 犬の再び歩く意欲をなんとか復活させることに成功しました。 歩く姿はゆっくりで、たぶん老犬なのでしょうね、いつまた伏せてしまってもおかしくないスピードでしたので、 おやつを前方に見せつけながら歩きを誘導しておりました(おそらくこの事態は何度か経験済み?)。 自分は動物の中でも犬がとても好きなのですが、それもなぜか年とった犬が大好きです。 モコモコの赤ちゃん犬や、ばんばん飛び跳ねてくる若い犬ももちろん可愛いくて好きなのですが、 老犬にはなんとも言えない哀愁と味があります。 機敏な動きが無くなり、周囲の状況と関係なくとことんスローなテンポと、予測不能な行動に、 何か胸がときめくというか、癒されてしまうのです。 これは、人間でも似たようなところがあります。 お年寄りに対しての興味がなぜにこうも?と思うくらい、なんか観察したくなってしまうんですね。 自分の周囲には、子どもと関わる仕事がしたいとか、赤ちゃんがたまらなく好きっていう方はたくさんいるけれど、 お年寄りに対して「なんか魅かれる~」っていう方は(たまたまかもしれないが)あまりいません。 そのせいなのか、 人間が年をとっていくことに関心があって、魅

付き添い

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夫の診察に付き添い、食事指導も久しぶりに受けてきました。 診察の方はいつも一人で行っているため、来なくていいと言われましたが、 いざわたしも同席すると、いつもより先生の力の入り方が断然違ったらしく、 詳しく話が聞けてすごく良かったと言っていました(それだけ夫の聞く姿勢はなっていないのだろう)。 自分の体のことなのに、どこか他人ごとで、わからないことをそのままにしてくるので、 どうしてそこを聞いてこないのかと、わたしに毎回叱られるということをこりずにやっています。 そして、食事指導では「ご飯の量を減らしてください」という毎度のアドバイスにも、 若い時に食べられていたイメージで、どんぶりで食べないと食べた気がしないという回答を、 いかにもどうしようもないことのように言っている夫。 でも今回は栄養士さんも負けじと、 「せめてどんぶりを口にあてて食べないでください」「かきこまないでください」 とわたしが普段言っていることをかなり言ってくれました(もっと言って~)。 そうやりたくてもやれない理由を一生懸命説明する夫にわたしは半分あきれ、 でも、半分なるほどな、って夫も困ってはいるんだなということがわかりました。 ・・・と、ここまでは、おおよそ想定内の病院での出来事なのですが、 一つだけいつもと違っていたのは、その後仕事に行ったわたしにわざわざ送ってきた夫からのメールです。 今日は付き添ってくれてありがとうね。 年齢を追うごとに本当に素直に「ありがとう」を言ってくる夫に、 こちらもハッとするくらい温かい気持ちになります。 そういえば、診察室をでるときも、食事指導のときも、何度も頭を下げて相手にちゃんとお礼を言っていた。 外食したときもそう、会計の人に「ごちそうさまでした」とか「美味しかったです」と必ず言います。 そんなのあたり前なのかもしれませんが、 それを普通にする夫で良かったなあとちょっと思いました。 でも、欲を言えば、 もう少し食事のことも普通に言われたことをやってほしいなあと思います。