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一汁二菜

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このところ暑くなってきたので、夕飯はさっぱりと冷たい麺類にしています。 先週はほぼ毎日冷麺を食べました(一度はまると、飽きるまで食べようとする自分)。 キムチときゅうりさえあれば冷麺としては形になるので、 あとはおかずがあれば、それも乗っけて食べたりします。 意外と白ごまが大事で、ふりかけてあると無いとでは、ちゃんとした感が違うような気がします。 明日は、そろそろがっつりと肉にしようかなあ~と思う。 自分は食べることが好きなんだと、つくづく思います。 しかも、美味しいと思って食べていることが多いので、「食べる=幸せ」なのです。 かといって、料理人になろうとか飲食店で働こうとか思ったことはありませんが、 自分で作ったものがなんだかんだいって美味しいなと思うのです。 これは自慢でもなんでもなくて、本当に大したものは作っていないのですが・・・ 野菜を切ったり、下ごしらえをしたり、味付けしたり、揚げてみたり、焼いてみたり、 料理をしていると、一番自分が欲しているものを自然と作っていっているように思うのです。 今日は煮るより炒めようとか、塩よりは味噌がいいかなとか、乱切りもいいけど今日は千切りにしようとか、 そういう一つ一つが、自分の直感みたいなもので動かされて料理ができあがっているような気がします。 そしてまた、その食材ってそんなに多く種類がなくてもいい。 そして、名もない料理ができて、 それがそのときの自分の体や家族の体にぴたっと合っていたりします。 たまに外すこともありますが(味が想像したのとちょっと違ったとか)、 そこも楽しく食べられ、楽しく食べるって美味しさと同様、大事なことですよね。 『一汁一菜でよいという提案』(土井善晴著 グラフィック社)を読んだことがある方も多いと思いますが、 「こういう美味しさが自分はとても好きなんだ」って、この本を読んで思いました。 これまで言葉にできそうでできなかった、食に関する自分の思いを、 土井善晴さんが代わりに伝えてくれたような気がして感動しました(達人に向かって言うのもなんですが)。 でも本当に、やってみるとわかります。 自分の体と心が欲しているものって、そんなに多くはないのだということが。 あれもこれもの何品も用意しなくても、 これ食べたい、これ食べたら元気になる、これ美味しい、というものはもっとピンポイントのもので、 食べ物

今日のモットー

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昨夜はとても暑かったので、窓を開けたまま寝たら、 今朝は、小鳥たちの鳴き声が目覚まし時計の替わりとなって、いつもより一時間早く目が覚めました。 起きて鏡を見ると、自分の顔のほほに、くっきりと枕の型がついています。 ぐっすり寝たな~と思った日は、恐ろしいまでに、顔に深く芸術的な線がついて、 「たった今、起きました」という情けない顔をしていました。 でも運よく早起きしたために、朝風呂に入って、湯ぶねで「あいうべ体操」をしました。 こうして始まった今日という一日。 今朝はたしか「決めつけない一日にしよう」ということをモットーにしたと思います。 いろいろ決めつけてしまうパターンがあるので、今日は、そこを取っ払ってありのままを見ようと思った。 しかし、このモットーも朝の間だけで、出勤する頃にはすでに意識することを忘れ、 また夜がやってきて、あれ?今日は何を思って一日を過ごしたんだっけ・・・ となることが多々あります。 それなのに、ああ、ダメだこんなんじゃ!と思うわけでもなく。 また懲りずに、えーと、今日のモットーは~とまた新しい朝を迎え考え、宣言をするのです。 変に完璧主義なところがあったり、 ゼロか100の選択しかできず、柔軟性というものがまったくなかった自分だったのに、 いつの間にかこんなに適当に、というか(適当とは、ちょうどよい加減という意味だと捉える)、 何度でもやり直しをすることを責めなくなっている自分がいます。 宣言通りに全然行っていないのに、今度こそ、ってまた挑戦する朝。 懲りないというのは、もしかして柔軟さがあるってことでしょうか。 できていないことを、こんなふうに捉えるなんて・・・ 人って変わるものなんだなあって思いました。

メインの体験

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今日は母の一回目のコロナワクチン接種の日でした。 お昼を過ぎたくらいの時間で予約をしたため、 近くの喫茶店で先にお昼を食べることにしました。 そのお店は、昔からずっとそこにあって、メニューはもう何十年と変わっていないと思うのですが、 デミグラスソースのハンバーグがとっても美味しいのです(ずっと味が変わっていない)。 母にも同じものをすすめると、「こんなに食べれないわ~」と言っていましたが、 一口食べるとその美味しさに感動しまくり、ぺろっときれいに完食していました。 その後、診療所に行く途中には駅があり、 「ここって何なの?」 昭和の風情ただよう古びた駅をめずらしそうに見ていました(何回か来ているのだが)。 ちょうどホームに電車が入ってきて、ごく普通の何の変哲もないローカル線の電車ではありますが、 こんなに間近で見ることがないため、母はとてもうれしそうでした。 診療所では、お世話になっている先生が、 「どう?デイサービス行ってる?」と声をかけてくれたり、 注射が終わって、看護師さんとおしゃべりをして、母は本当に楽しそうでずっと笑っていました。 こういう他愛のないおしゃべりとか、はじめて(と思っている)の場所とか、はじめて食べるものとかに目を輝かせ、 特別なところに連れて行ってあげなくてもこれだけ喜んでくれる母に、 何かとてもありがたいなあと思いました。 お礼を言って外に出ると、もう注射したことを忘れてしまったのか、 「いいのかしら?今日はなにもしなかったわね」・・・と。 ここにはただおしゃべりをしに来たと思ったみたいでした。 わたしは少し怒り口調で「もう~注射したでしょうよ!」と言いましたが、 内心全然怒ってはいなくて、むしろちょっと幸せな気持ちでツッコミをしたかっただけでした。 ワクチン接種に関しては、 年齢が若ければ若いほど、するかしないかを真剣に考える方は多いと思います。 自分はしないと決めていたので、とても悩みました。 ただ、なんとなく母はやったほうがいいかなと思ったのでした。 ですがこうして、結果的に注射をしたことが今日のメインではなく、 入ったことのないお店で美味しいものを食べ、来たことのない(と思っている)駅に立ち寄って電車が見れた。 そしていつもお世話になっている方々とほんの少しの間、おしゃべりができた、笑った、 ということが「今日の母とわたしの体験」

すずめに教わる

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ベランダに出てみたら、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきます。 足元を見ると、羽根をばたばたさせながら、小さなすずめの子どもがチュンチュン鳴いていました。 近くの電線を、親らしきすずめと兄弟らしきすずめ何羽かが飛び交い、そのすずめを探しているようでした。 夫が庭に放してあげようと、すずめをすくい上げようとしたとき、 ベランダの真下をのぞくと、なんと野良猫がのっしのっしと歩いているではありませんか。 このタイミングで放したら、猫に食べられてしまう・・・。 そのうち親らしきすずめも、子どもがなかなか見つからないと思ったのか、 少し離れた木に飛び移り、だんだん遠くに行ってしまいそうでした。 夫はどこに放そうか迷い、わたしは必死で子すずめの存在を親に知ってもらいたくて、 「ここにいるんだってばーーー、見離さないでよーーー、気づいてよーーー」 とすずめの鳴き声をマネして、訴えました。 そうこうしているうちに、 夫の手の中から子すずめは脱出し、落ちてしまいました(たぶん植木のあたりに一旦落ちたと思う)。 野良猫はすでに通り過ぎて行ったあとだったのですが、そこからもうそのすずめを探すことができませんでした。 いつからそのすずめがベランダにいたのかはわかりませんが、 昨日はとても気温が下がり、一日中強い雨が降っていたので、 あの様子では体温が下がり、体力もかなり消耗してしまったのではないかと思います。 何羽か生まれた中で、その子だけもともと弱く生まれたのかもしれませんし、 お母さんが与えるエサもうまく食べられず、他の兄弟よりも飛べなかったのかもしれません。 なんとか無事に生きのびて、元気に育ってほしいという気持ちと、 「まあ、これが自然だからな」と言った夫の言葉に、 何もしてあげられなかった、少し悲しくもあきらめの気持ちが重なりました。 普段、自分は人間社会にいて、もし生きるか死ぬか、生活できるかどうかの話があったら、 どういう制度を使ってどんなところにつなげてあげて、 その家族が今確実に生活できるようにあらゆることを考え、手を尽くすと思います。 困難というものは、人力で「どうにかするもの」だという考え方が前提にあって、 そこができなかったとか、不備があったとすれば、助ける側の責任にもなると。 「どうにかしなきゃいけない」っていう経験を、今まであまりにもやりすぎてきたようにも思いまし

同じ人間

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今週は、目まぐるしく初対面の方と会う機会が続きました。 そういうときって、以前は何かもうぐったりして疲れてきっていたと思います。 会う前の準備から、話す内容、 また、会っている最中にも相手が今何を考えていているのか頭をフル回転させ、アンテナもピピッと立て、 常に相手の反応を気にしている感じが自分側にあったのだと思います。 それが、今はまったくと言っていいほどなくなりました。 準備こそしますが、話す内容などあまり深く考えず、 その場の空気感でなんとなくこんな感じかなというものになってきたように思います。 かなり、初めて会う人に対しての気負いっていうものがなくなってきたような。 会ってみたらパターンがえらく騒いだ、というのはありますが、 これはパターンだから、と分かっているところが以前とは違うゆとりです。 こんなふうに変われるなんて、 自分で言うのもなんですが、なんか成長しているかもしれないって思ってしまいました。 会う目的はいろいろですが、この場をいい時間、気持ちのいい時間にしようとさえ思っていれば、 なんとなくそれなりに話がすすんでいくような気がしました。 これがまさしく白の感覚。 先に、この気持ちがよい、軽い、風通しのよい、そういう感覚を持って、 その次にその場にあう会話が自然発生してくる・・・みたいな感じです。 目の前に座っている人を見て、 この人も、服を脱いだら「ただの人」だよなあ・・・って思うことがあります。 肩書がいろいろ付いていて、人脈も太いパイプもあって、 実際に仕事もきちんとやる人なのかもしれないし、実績もある人なのかもしれない。 でも・・・、服を脱いだら、自分と同じ人間であることには変りないのだ。 少し緊張する相手のときは、自分に還るため(人間であることを思い出すため?)の本能なのでしょうか、 この目線にしばしなってしまいます。 もう本当に、「ただの人」人類皆兄弟、っていう感じにしか思えない。 丸裸になって相手の前に座ってみるって、自分自身も気持ちがいいもの。 心を開き、どうぞわたしはこんな人間ですよって相手に見たいように見てもらう。 本当は何も隠すもものなんて、ないのかもしれませんね(バレていた方がいいかも)。 パターンは、隠したい、見せたくない、こんな風には思われたくない等々あるので、 ずっしり重たい鎧を着てしまうのです。 鎧を着ているから、会

一人では生きられない

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生まれてきたときも死ぬときも、たった一人だっていうのに、 生きている間はこんなにもたくさんの人と関わり合っている、ということの不思議をなぜか考えていました。 死ぬときは、もしかしたら家族や誰かがそばにいるかもしれないけれど、それとは関係なく、 息をひき取り肉体から魂がぬけていってしまうときは、もうすでに一人になっているんでしょうね。 でもその後、間もなく、あの世にいる人たちがすでに出迎えてくれるようで、 「ただいま~」って久しぶりの再会を懐かしむ、喜びでいっぱいになる、満たされるのだそうです。 だから一人でも全然寂しくも悲しくもないらしい・・・ということを聞きます。 もしも本当にそういうものだとしたら、 この生きている間の、数々の「執着」というものって何なんだろうって思います。 物質的なものに限らず、 自分を見てほしい、認めてほしい、愛してほしい、一緒にいてほしい、 ずーっと永遠に死なないでほしいということもそう。 よく思われたい、評価されたい、人の上に立ちたい、 はたまた、目立ちたくない、悪く思われたくない、責められたくない・・・ ということも全部、パターンである限り執着なのだと思います。 自分がたどってきた道を振り返ると、そこに必ず何かしらのこだわりがあって、頑ななものがあって、 絶対にこれは嫌というものがあります。 そういうときは決まって悔しがったり、不安になったり、辛くなったり、 そうならないことがものすごく怖いと思ったり・・・ それが(それら執着をいうものが)、幸いなことに、「パターン」だということに気づけているのと、 それが(それら執着をいうものが)、「正真正銘の本当の自分」なんだと、思い込んで生きていくのとでは、 天と地との差があるのではないかと思うのです。 最終的に、 自分がどうなっていきたいのかが分からずに生きていくということほど、虚しいものはないのかもしれません。 お金さえあれば、家族さえ元気でいれば、病気さえしなければ、 これさえあればそこそこ生きていけるだろうと、 一見高望みでもなく、普通の生活でいいと思うことであっても、 その、○○さえあればの○○ですら失うことがあります。 そんなときに、○○がなくても自分はこう生きていきたい、 これが自分の生きる軸なんだと思うものがあれば、 どんな弱さも愚かさも過ちも、少しずつ受け容れながらやっていけるか

思い通りにしたい

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先日書いた日記 での●思い通りにしたい、のパターンですが、 〇思い通りにならなくても自分は大丈夫、という白を作りました。 その白を作ってみたら、相手の方の話が以前よりも入ってくるような感じがありました。 その方にはこれまでどんな生活があって、どんな人との関わりがあって、何を感じてきたのか。 また今は、どんなことに影響されながら、自分の考えを確立していったのだろうか。 お話しをしていくうちに、 そこに至るまでの様子がほんの少しだけですが、理解できたような気がしました。 ああ、それなら、自分が思う通りには感じないし、考えないことも分かる・・・。 そして、自分はなぜその人が自分の思う通りになってくれないと嫌だったのかも、 正直に自分に問えば、すぐわかることでした(自分の都合だけだったのだ)。 こんなくだらない理由で、その人を自分の思い通りにしたいと思い、憤りを感じていたとは・・・ ああ良かった、自分の思い描いた通りにならなくて!と逆に安心しました。 白を選ぶと、その後に取る行動が変わってきます。 白の世界は、とてもさばさばとして、とても落ち着きが出ます。 その落ち着きが生まれると、相手を知りたい理解したいと思う気持ちも生まれ、 相手もよく自分のことを話してくれるような気がします。 そこで思ったことは、 思い通りにしたいと思うときって、もしかして相手の話をよく聞いていなかったり、 あまり深く話すことがなかったり、理解していなかったり、 そもそも自分はそういう態度でいなかったのではないかと思いました。 よくわかっていないから勝手に決める、ということをやってしまっていたのかなと思いました。 相手への理解が深まってくると、 むしろ、その方自身が思うような方向へ(選ぶ道へ)進んでいってほしいなと思うようになるのかもしれません。 今度パターンが騒いだら、 自分は相手のことをまだ知らないのかもしれない、と思い出して接してみようかなと思います。