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いつもとは違う選択

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先日、久しぶりに兄が帰郷しました。 帰ってくると大体そうなのですが、 お互いの仕事のことや、今興味があることへの話など、 それはもう尽きることなく、お互いしゃべり通します。 母は母で、兄が家にいるというだけでとても嬉しそうでした。 何より驚いたのは、まさかの鼻歌! 本人は無意識だったようですが、 何年ぶりだったのでしょう。 母の鼻歌を聞けた私は、何度も「それなんの歌?」と聞いてしまいました。 兄は、母のためにご飯を作ってくれたり、 歯医者に付き添ってくれたり、 帰郷して自分もゆっくりしたいだろうに、いろんなことをやってくれました。 私はちょうどこの頃、体調がすぐれず・・・ それでも、車を運転しない兄の代わりに、 いろいろ動こうと思っていたのでした。 でも、兄の「自分が来たときくらい、ゆっくり休んで」 という言葉に甘えてみようかなと、いつもとは違う選択をしたのでした。 これが・・・ とても良かったです。 兄が帰ってくるというときは、当然のように、 どこかに食べに行ったり、どこかに出かけたり、 いつも以上にいそがしく動いていた私。 そうしないと、気が済まないのです。 だって、わざわざ帰ってきてくれたんだから、それくらいはしたいと思う。 でも、今回は、兄に任せるところは任せながら、 いつもの自分の生活のペースでやってみてもいいかなあと思ったのでした。 そして、そう決めると、なんだかゆったりとした気持ちで過ごすことができました。 相手のために動いて気をまわして、そして疲れた。というとき、 本当に相手のために、 という気持ちだけではなかったのだと思いました。 かと言って、 相手を思っていないというわけではありませんが、 純粋にそれだけではない、ということです。 相手に満足してもらいたい。喜んでもらいたい。 じゃあ、それはなぜ?? そうすれば、自分がまずは安心するし、うれしいし、満足する。 そして、また兄もちょくちょく帰ってきてくれるかもしれない・・・ という期待を持ってしまうのです。 兄がちょくちょく帰ってきてくれると、どうなる?? 帰ってくるたびに、自分の大変さをわかってもらえる。 私、がんばっているんだよって見てもらえる。 話を聞いてもらえる。ありがとうね、とやさしく言ってもらえる。 ここなのだと思います。 兄に対しても、 自分のしていることを褒めてほしい、ねぎらってほし

不調になっても

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進む道が「私」の意志から逸れていくと、 体が先にストップする。 ということ、ありませんか? なんかこれ、したくない・・・と思っても、 体がとりあえず元気だと、気持ちと反してやれてしまうことがあります。 でも、本当にこれをやってしまったら、 ちょっと取り返しがつかないとか、 このままでは自力で気づくことがないだろうとか、 ここが限界だと天が(「私」が)判断するとき、 先に進めないように体を動けなくするのだと思います。 行くな、やるな、しゃべるな、会うな、食べるな、仕事するな、出かけるな、関わるな、考えるな。 これらを止める力というか、諦めさせるためには体の不調が最適なんだと思います。 そうして、寝たり、休んだり、やめたり、ということをして、 静止の時間をつくるって、 大事なことではないかと思いました。 いつも、前進ばかりでは息が切れてしまいます。 止まっているように見えても、振り返ればそれが熟成時間だったり力を蓄える時間だったりします。 そして、不調になって良いこと。 といえばー なんといっても、思考がストップすること。 余計なことばかり考える頭は、 考えることをやめ、というより、考えられなくなるのだと思います。 ある意味、何かしたくなるまで、じーっとその時を待つことができる。 いつもより増して、待つ力が育てられていくような気がします。 体調不良だからこそ成せる技です。

ある日の晩ご飯

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何かの行動をとるとき、 それをする動機があるのだと思います。 たとえばご飯を作るとき、 自分が食べたいから作るということが多いのですが、 夫の好物だから、夫が喜ぶから作る、ということもあります。 また、外食して美味しかったから、あの味を再現したいと作ることもある。 あとは、もうこれを今日食べないとヤバい(腐る)・・・も、あります。 動機って、やはり大事ですね。 そういう理由で作ったのなら、この結果になるよな、 ってことがあるからです。 ご飯作りでいえば、 「これ、今日食べないとヤバいから作った」というものが、それ。 それでたまたま美味しく作れるときもありますが、 野菜がしなびてしまって、いまいちの味と触感になり、 夫がけげんそうな顔をして食べていました。 ああ、まずいんだろうな・・・ (水菜の鮮度がおちて、藁のようになっていた) 楽しく、満たされるはずの食事の時間が、 どよーんとした空気に包まれます。 「これ、かってえな(固くてスジが残るな)」と言われ、自分も箸がすすまない。 食後、一生懸命つまようじを使う夫。 もっと早く、シャキシャキなうちに調理すればよかったと後悔しました。 ものごとがうまくいかなかったとき、 大抵が、この動機がよくなかった。 というところに収まるような気がします。 その水菜も、安かったので2袋買ったのでしたが、 二人暮らしでこんなにいるか?という量。 外食も続き、鮮度がどんどんおちているのはわかっていました。 今日一気に食べてしまおうと、 みそ汁に、サラダに、炒め物に全部入れて作った私。 元々、夫が水菜はあまり好きでもないと知っていたけれど、 まさかここまで、しなく(固く)なっていたとは・・・。 安い!というだけで買うと、こういうことになりますよね。 毎日のご飯だからこそ、 ちゃんと美味しいものを作ろう。

落ち着きと安らぎ

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自分の声を聴く、耳をかたむける。 そして、 あなたのことを「私」は理解しているよ。 と、自分に向けて伝える、語る、ということはどういうことか? 「私」が「パターン」へ、 そうだよね、あなたは必要とされていないって思っているんだよね、 と語りはじめると、 そうそう、そうなのよ、やっとわかってもらって、うれしいよ。 っていうパターンの喜ぶような声ではなく、 ちょっとトーンダウンした暗い声が聞こえてきます。 けれどだんだんに、心は静かになり、落ち着いていきます。 そしてもう、 そのこだわりは自分にはいらないんだな。 もう、それは違うんだな。 と、別の世界に自ら歩いていくような感じがあります。 ときどきまたパターンに引っ張られそうになりながらも、 ああ、これってパターンなんだなあ と、冷静にみていられるようになり・・・ この落ち着きって、なんなんだろう? 赤ちゃんがよく、 ガーゼのおくるみにくるまって、 目をぱっちりと開いて、じーっと何かを見ていることがあります。 何も心配ごともなく、 目に映るものをただ純粋に眺めているような。 そういう落ち着きなのかなと、ふと思いました。 今も夜寝るときに、 ふかふかのお布団に入った瞬間のあの心地よさ、安心感。 ああ、気持ちいいなあ~落ち着く〜って思う。 あれは、赤ちゃんの頃から知っている安らぎの一つなんだと思います。 パターンが落ち着いてくると、 この安らぎの中、 ただ、自分に起きるものをぼんやりと眺められるようになる。 ぼんやりと・・・っていうと、 なんとなく、しっかりしろ、大丈夫か? となってしまうのかもしれませんが、 むしろ、しっかりしなくていいのだと思います。 ゆったりとそこに居てもいい。 結局、落ち着きと安らぎは、どこにあるのか? 今は、自分が学んでいるこの方法で、 そこにたどり着いてみたいと思いました。

それって、まぼろし

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昨日のつづきです。 ●(自分は)必要とされていない と思っているパターンの言い分はこんな感じです。 だって、自分の考えが通らないし、共感されないし、 むしろ反対のことを言われるし、全然自分を頼ってくれない。 自分はいてもいなくてもいいんだ。 ・・・と、パターンは言っています。 さらに、 必要とされていないというのは、価値のないこと、 人としてだめだということだと、パターンは思っています。 だけど、必要とするかしないかは、 自分ではなく相手が決めること。 厳密にいえば、相手の中にあるパターンが判断していることです。 『相手のパターン』対『自分のパターン』 という構図なのです。 一生懸命主張をして、でも誰からも共感されなくって、煙たがれて。 それでもまだ、自分が何かの役に立つのではないかと、 相手からの信頼、賞賛、評価を求めている・・・ 自分がそんなパターンに翻弄されていると、 たまたま自分と似たようなパターンをもっている人と、引き寄せられるかのように出会うんですね。 その人を見て、 ものすごく、なんとも表現しがたい、 独りよがりの滑稽な感じだと思いました。 なんでこんなに無駄な抵抗をしているんだ?って。 私もおんなじなんだ。 「必要とされる」ということに執着し、相手に求め続け、 それでもまだ気づかずもがいている。 無いものを必死で追いかけているような感じです。 ま・ぼ・ろ・し〜〜〜なのに! 以前、自分のことを、 ●わかってもらいたい、と思っていたとき(今もあるが)、 「わかってもらう」というのは、本来ないことなんだと、 それは違うんだと知って、衝撃を受けたことがありました。 ですが、衝撃とともに静かな『納得』がありました。 ●必要とされていない というのも、同じ仲間かもしれません。 そうやって他人に何とかしてもらおうというのは、本来ない。 存在しえない、違うことなのかもしれない。 そして、すべての悩みの根源である、 ●思い通りにしたい というパターンがそうなんだと思います。 これが最もありえない、まぼろし。 この世の法則と逆行している考え方です。 ただ、深いところでは、 結果すべてが、どんな生き方であっても、 思い通りに生きていたということにはなるのでしょうが・・・ こんなふうに、 そもそも、「それってないからね!」 という事象について、抵抗しているというのは、 苦し