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「決める」と「決めつけない」

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今日は久しぶりに何の予定もない休日だったので、 好きなことだけして過ごそうと決めました。 最近、この「決める」ということを意識してやっています。 そして、誰が決めているのか? というところを感じながらの「決める」です。 好きなことは何かなあ。 何をしたいかなあ。 ここで私は頭を使って考え抜いてしまう癖があるので、 なるべく感じるままに過ごしたいと思いました(←ここも練習中)。 まずは、久しぶりに夫の弁当ならぬ、おにぎりを握りました。 そして、母へ届ける煮物のおかずも一品作りました(楽しい~)。 そして、今上映している映画の予告編を見ながら、これは見たいかなと思う映画があり、 ネット予約がうまくいかなかったので、まあ行ってからでも席は取れるだろうということで、 とりあえず大通りまで行きました。 その途中に気になっていたカフェへ寄ってランチをしたのですが、 なんとここで、履いていたスカートを汚してしまい、 このまま歩いていくのは、ちょっと嫌だなと思い(早く汚れを落としたいしー)、 ということで、結局、映画は断念して家に帰ることに・・・。 家に帰って洗濯機をまわし、窓を開けて部屋に風を入れ、 涼みながらアイスクリームを食べ、録画していたTVを観て、 その後眠くなってお昼寝をしました。 目覚めるまでがっつり2時間。 なんだかすごくすっきりしていたのでした。 振り返れば、なんてことのない一日だったようにも思うのですが、 でも、そのどれもが良かったなあと思いました。 映画のチケットも、ネットで取れなかったからこそ家に帰れたのだし、 チケットを買っていたら気になるスカートのまま行くしかなかったし、 もしかしたらせっかくの映画なのに、寝てしまっていたかもしれない。 そして、絶対観たい映画だったのではなく、 話題の映画を観れば、何だかいい休日を過ごせたような気持ちになれる? そんな感じがあったのかもしれません。 つまり、パターンが描く充実した休日の過ごし方・・・だったのかー。 さわやかな風を感じながらの昼寝ができたことが、 そっちが、私のしたいことだったんだなあ~ ささやかな贅沢であり、幸せ感じました。 好きなことをすると決めていると、予定外のことが起きてもなお、 やはり自分が好きなように一日を過ごそうとする。 そういう何かが働くのかもしれないし、 そう決めているときは、同時にパター...

パターン発見器

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ネガティブな感情が湧いたら、それはパターン。 (ポジティブにもそれはあるが、ここではややこしくなるので割愛)。 ちょっとでも、イラッとしたり、もやもやしたり、 はあ〜なんで〜ってため息や眉間にシワが寄ったら、 はい、今のパターンですよー!ってこと。 何のパターンだ?と探しています。 これを四六時中やってみていると、 一日の中でいろいろなパターンが出てきて、 悲しくなったり悔しくなったり苦しくなったり・・・と、 出てきたパターンへの反応が終わる前にまたかぶせるようにして次のパターンへ、 しっかり反応している自分をみます。 今はパターン発見器のようになって、ひたすらパターンを発見しています。 そしてその中でも、 たまにビックウェーブ(大きなネガティブ感情)が来ることもあって、 そういう時は、 きたきた、でかいな、このパターンは・・・と、 飲みこまれそうになって、 とりあえずぐっと口を閉じて(パターンで余計なことを言いそうになるから) これはパターンだなと意識しながら手を動かしています。 そうやって日に何度でも、 「そうだよね、あなたはそう思っているんだよね」と、 「そう思ったままでそこにいていいよ」と声に出したり心の中で言ったりしています。 この繰り返しを毎日何度も何度もしているうちに、 やっと「私」とパターンの分離感が出てき始めます。 パターンなんだから、そこにいていい。 ああ、ここをずーっと頭でやっていたかもしれない・・・って思いました。 頭でやっているときは、 いつまでも苦しいしつらいし、その苦しさつらさから逃れたいために、 「そんなことないよ、あなたは〇〇だから大丈夫だよ」と、 プライドを登場させていたのかもしれない。 見たくないパターンがあったのだ。 見たくないパターンはすべてにおいての、見ないようにするためのプライドとなって、 すっかり隠れてしまうものなんですね。 そして隠されてしまうと、 元の自分へ戻っていくことがわからなくなってしまう(こんがらがった糸みたいに)。 これをほどいていくのに、 今動いた感情を見るしかない。 東所沢へ寄り道 ケロロ発見!

決め直す

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気づいたら、日記がかなり止まっておりました。 もうGWもとっくに終わったのに~ この感じだと2025年もあっという間に過ぎてしまいそうですので、 気を引き締めて今日から過ごしております。 魂の道場 (茅ヶ崎)では、 まさにそんな気が引き締まる(というより、体が震える)ような思いがしました。 セミナーの最中に出てきた単語、 「能力」「適材適所」「為せば成る」「できる、できない」 そんな言葉にどうしてざわざわするのか? どうして今までこの引っかかりに語らないできたのか? これが、プライドが邪魔をしているっていうこと。 って、言われないと気づけなくなっていた私。 パターンをパターンだと思えないでいたんだな。 これはパターンなんかではなく、 それが自分、それがずっとあたり前だったと、 その思いの通りに、本当に自分はそうなっていったのだと思いました。 (だって、小さい頃から、私ってそうだったんだもん←と信じて疑わない、それもパターン) プライドって、それを持ってして自分を成り立たせようとする隠れ蓑(みの)なのだ。 思考を使っていると、そんな隠れ蓑に全然気づけないのだと思いました。 自分の黒パターンを覆い隠し、 ネガティブな感情が湧いているのに、そっちに目を向けないように仕向ける。 ほんとに長い間気がつくことができず、 今までちゃんとケアができていなかった・・・ もう、自分を決めつけてはいけない。 ネガティブな感情が出たらすぐに、 それを見逃さずにやっていこう。 決めつけというのは、本当にそうなるように人格を作っていくのだと思いました。 人より劣っていると決めつけ、能力がないと決めつけ、自分にはできないと決めつけ、 知らず知らずにそう決めつけた自分で生きていく。 それは、決して謙虚でも何でもなく、 自分の可能性をただただ狭めていることだった。 ここからいろんなパターンへとつながっていたことも、 パズルのピースがはまったかのように、 あーそういうことだったんだと知る。 ・・・だとしたら、やっていくことは一つ。 もうそのパターンで生きる続けること、自分を決めつけるのはやめたい。 また、決め直しをしていきます。 水筒買いました~(お水も入れてもらいました~)

1日分の尊さ

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今年のGWは、TVで見るニュースや自分の周囲を見ていても、 過ごし方がこれまでと違っていたように感じました。 連休=旅行というよりも、近場や自宅で過ごしたり、 買い物やレジャーよりも、自然にふれあうことを満喫したり、 経済的なところもあってか、休日の過ごし方を変えたという方も多かったかもしれません。 世界の動向、政治経済といったものにはうとい自分ですが、 そんな自分ですら、 モノの価値や、食べもの、どこで何を買うか、これからの暮らし等々、 人が(自分が)本当に大事にしたいものは何なんだろう?って、 みな考えるようになっている気がします。 今年も3分の1が過ぎましたが(本当に、時が経つのが早い!)、 実は今年に入ってから自分も働き方を変えました。 週のうちの1日会社勤めを減らしました。 自分の想定では、 その1日があれば、もっと時間的に余裕が生まれ、 母親の介護も多少ゆったりできるようになり、 体力的にも体調的にも自分自身が楽になる。 カウンセリングに関することもライフワークも無理なくやっていける。 そういう時間の流れに変えていきたい。 ・・・と思った年のはじめでした。 それが、母の骨折でその1日は必須の1日となり、 それはそれで私にとっても家族にとってもとても濃い時間になり大いに良かったのです。 でもそことは別に、今自分にとって大事なことって何だろうと、 時間とは関係がない、自分の中で生み出すゆとりが、 この1日分の尊さから感じられるようになった気がします。 自分は予定を入れ過ぎてしまう傾向があり、 今年は密かにそれを止めることをサブテーマとして掲げていました。 詰め込んではこなして、こなせるとまた予定を入れて~(疲れて〜) そうやっていろんな体験をしてこそ自分は成長していけるのだ。という思いこみがあったように思う。 でも本当にこれ、単なる幻想でした。 まだまだ予定がない日を作るのが難しいけれど、 だけど、積極的に「私」にとって大切だと思うことに絞ること、 自分の生活に見合うように、心と体に沿うように丁寧にやっていこうと思います。 お蕎麦屋さんの窓から 散りゆく桜もきれい! 

優しくありたい

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先日、病院の待合室で、認知症なのかな?と思うような方がいて、 家族らしき付き添いの方に何かいろいろ言われながら診察券を出していました。 連休前とあって、患者さんが待合室に入りきれないほどいて、 あきらからにその付き添いの方がイライラしているのがわかりました。 誰だってこの混雑ようを見たら、それは分からなくはない。 けれど、その付き添いの方は、 おそらく自分の親か義理の親なのか? そのおじいちゃんにずーっと何か言って怒っているのです。 ほら、早く早く、早くして!それじゃないでしょう~ 〇〇だって、さっきも言ったでしょう! 〇〇を忘れてきたの?何やってんの、もう~~~ (しかも、結構大きな声で言っている) 横で聞いていて、胸が苦しくなりました。 何も、そんな言い方しなくても・・・ あきらかに、もうそういうことができないんだから。 そのおじいちゃんが、本当に気の毒でかわいそうだと思いました。 あんなに言われても怒鳴られても、 ただただ言われっぱなしで、うつむいて何も言い返しません。 もうそれが日常で、慣れているのか? 言ったら、言ったで、倍返しになるから黙っているのか? お世話になっている身だからと、抵抗しないのか? 言われて当然だと、もうあきらめているのか? それとも、そうなってしまう(怒りたくなる)相手の気持ちが、 理解できるからなのか・・・? 私だけでなく、座っている人たちもそのやり取りを見て、 何か言いたいけれどちょっと様子を見ているような雰囲気が待合室にありました。 この光景を見て、何も感じない人(パターンが騒がない人)って、 いないんじゃないでしょうか。 どこに何を感じるかはそれぞれだと思いますがー、 怒っている人が一人いるだけで、まわりに与える不快感は相当なものだなと思いました。 驚いたのはここからで、 そんなやり取りが、なんと一組ならず、 自分が病院内へいた時間で何組もあったことがびっくりでした。 (脳神経内科ということもあり、たぶん皆、認知症患者さんかなと思う) そういう光景を見て気分が悪くなる自分の心を見ていくと、 お年寄りには優しくするべき、敬意を持つべき、もっと寄り添うべき、 弱い立場の人をそんなふうに接するべきではない等々のパターンが騒いでいるのだと思う。 そんなことがあっての翌日です。 母親から、〇〇を持ってきてほしいという電話がありました。 ...