投稿

宝もの

道場でこれまで先生からいただいた資料をファイルしています。 この話はこんな前から、 先生がもうすでに言っていたんだなと、 あらためて読み返して驚いたりしています。 その中で、自分を知るということをあの手この手で これでもかというくらい教わっていたことに気づかされます(今も続いているけれど)。 それは、先生の自作のものだったり、 キリストが言っていたことや仏陀が言っていたこと、 古代の哲学者や現代の心理学者、歴史上の人物や小説家、 医者、経営者、そして何の肩書も持たない人など この世に生きた人たちの多くの言葉がありました。 そして、芸術にもたくさん触れています。 感じる心を道場の中で育て(お寺に行ったり、社会科見学みたいなこともした~) 芸術、音楽、自然美、創作など、 その中で感じることもたくさんやっていました(って、今もだけど)。 また、体が弱いというパターンを持つ私たちのために、 細胞へ意識を向け量子を動かしていくことの大切さなど、 健康という意味付けを大きく広げられたのもワークのおかげです。 それらすべて非現実的なものは何一つなく、 すべてが現実に生きる自分の糧になっていったのだと、 それらを「私」は使って育っていったのだと心から感じました。 しかし・・・ それらの尊い教えを今、どう受け止め実践しているだろうか? どんなに正しいもの(真善美)であっても、 受けとる側の人間がそのときどう捉えるのか、 黒パターンで捉えればその結果を受け取り、 正しさの中身が別ものに変わっていきます。 正直、難しすぎて、 いまだによくわからないものもありますし、 少しだけこんな感じなんだろうなと感覚的にわかるようなもの、 そして、実際に自分が経験してきたことであれば理解できるもの。 今の自分のエッセンスとして、 その時その時の自分が必要なものを選んでいるように思いました。 当時の自分には通り過ぎていっただけの資料が、 今読み返すとこういうことだったんだって、 以前よりすーっと入ってくるものもあります。 これが意識の変容というものなのか。 日々のワークを大切にする中で、 こんなに自分の引き出しに宝ものがたくさん詰まっていたことを思い、 これぞ、宝の持ち腐れにならないように パターンではなく、ちゃんと「私」で生きていきたいと思った。

こころ忍術 ポポまるっ!

 今朝テレビを付けたら、 『こころ忍術 ポポまるっ!』という子ども向けの番組をやっていました。 忍者の話かな~と思って見ていたら、 感情リテラシーの話でとてもおもしろかったです。 主人公の小学生の女の子が、 学校で友達とのやり取りで「やばい」という言葉を使うのですが、 その「やばい」という表現で誤解を招いてしまいます。 普段「やばい」を何気に使いすぎて、 自分の本当の気持ちが見えなくなっていることや、 自分の気持ちがわからないとどうしたらいいのかも わからなくなってしまうということに女の子は気づくのでした。 心理学的な解説はなく、 学校生活で普通に誰もが子ども頃に体験する、 もやもや、いらいら、しょぼーん、といった感情を 小さいときからちゃんと感じていくことが、 人間としての成長(ここでは、こころ忍者になるための修行)というようなお話が、 とてもわかりやすく、また次回も見てみたいなと思いました。 もしも子どもの頃からずーっと、 今、どんな気持ち?と自分に問くことをあたり前にやっていたとしたら、 自分にとても素直に生きられるのではないかと思いました。 (そして友達の気持ちも自然に想像できるようになる) 番組では、人間離れした忍者も、 はじめから何でもできていたわけではなく、 練習に練習を重ねていろいろな術を身につけていったと女の子に教え、 その子も素直に、ノートに感情を一つ一つ書き出し、 最後に友だちに気持ちを伝えるということをしていました。 AIで何でも知識が増やせ、答えを見つけてもらえる時代。 でも、自分を知る手がかりは、 自分の中にしかないということを教えてくれます。

ちゃんと見ているよ

 一番最初にわいた感情。 その感情は、 何かしらのパターンに引っかかり、表に現れます。 表に現れて、そしてわかってもらうのを待っている。 もしも子どもが困って動けなくなって泣いていたら、 その子のところに駆け寄って、 「ちゃんとわかっているよ、大丈夫だよ」と言ってあげたい。 子どもがいる人にしか、 その感覚はわからないというものではなく、 自分が小さかった頃を思い出してみても、 自分自身に、「ちゃんと見ているよ、ひとりじゃないよ」と言ってあげたくなる。 パターンのケアってそういうことなんだなと思った。

それ、誰が考えているのか?

先延ばしにしていた仕事をやってみて、 ああ、これで良かったかもしれないと思いました。 期日も過ぎていたので先方にはその旨も伝え、 今日はじっくりとまとまった時間をとって取り組んでみたら、 スムーズに終えることができました。 これだけの時間で終われるものだったのなら、 期日を過ぎることもなくやれたのではないかと思うところですが、 自分にとっての優先を考え、 自分にとっての期限で選び、 丁寧にやれたということが体験できて良かったと思いました。 誰がそれを考えているのか? をふいに問いかけ、 仕事中には、誰がそれを言いたがっているのか? ということも感じられたり、 誰が喜んでいるのか?ということも感じ取りました。 そうすると・・・ ほぼ・・・ほぼ、頭がぐるぐるしているというのは、 黒パターンが考えていると気づかされます。 黒パターンの使用頻度多すぎです。 だから仕事が滞る。 気づいたときは、「黙りなさい」と言い、 黒板消しでその思考をサササと消すようにしてみる。 本当の「私」は全然そうは思っていないけどねーって、 明るくつぶやいてみる。 これらの感覚は軽さがあっていいです。 でも、今までだって「黙りなさい」と言ってはいた。 ということは~、 パターンというプライドが黒パターンに対して 叱っていたのかもしれないなと思いました。 自分で何をするか選び、 誰がやっているのかを問いかけていこう。 そして、黒パターンがやっていたら、 家に帰って語りかけをしよう。

本物にふれる秋

イメージ
ガルシア・ガルシアさんのピアノの余韻。 言葉を発することがないのに、 たくさんの言葉がそこにあるようでもあり、 また無言だから感じられる「私」の世界。 春秋あわせて全国20か所をまわったコンサートだったようですが、 東北はこの福島だけ。って何で? 何かのご縁があったのかもしれませんが、 やはり、日本屈指といわれる 素晴らしい音響を誇る場所だったから選ばれたのでしょうか。 木製の床、タイルの壁、高い天井に目がいきます。 盛岡のマリオスホールにあるパイプオルガンとはまた違った雰囲気のあるオルガンに見守られて、 ガルシアさんのピアノが真ん中に置かれ、 休憩時間には調律師の方がピアノに触れていました。 天才が選んだ場所。 なんか一流って本気度が違うんだなと感じます(それはそうだよ!)。 数年前まで、自分は凡人だという認識がうすかったことを思うと、 本当にどうすればそんなふうにパターンは思っていたのか・・・ ものすごく恥ずかしい。 それが自分(パターン)というものなんだ。 素朴な福島は、方言もやさしく、 歩いている人たちの速さもゆっくり、のんびり。 宿泊したビジネスホテルでは、 朝食で残ったキノコの炊き込みご飯をおにぎりにしてくれたり、 地元のお豆腐の味噌汁もおいしかった。 なんだか、 民宿にでも泊まったかのような気分になりました。 そして、福島って果物大国なんですね。 岩手にもガスタンクに滝沢スイカが描かれていますが、 こちらは、可愛いらしい桃でした! 翌日は、カウンセリングを受けに茅ヶ崎へ。 これまで何か月間、 今、何感じている?とワークの日々でしたが、 そこは大分感じられてきているので(そういうところも素直に確認)、 これからは、 今、誰が言っている?とワークの日々へと進化していこうと思います。 やはり、先生とのカウンセリングは、 今の自分にとってはなくてはならないものです。 毎回、えーそうなんですか!と、 さも始めて聞いたかのように勘違いを正す作業。 もしかしたら、 考えてばかりいる自分はダメだって、 もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・ すぐに考える自分をダメだと責めるパターンに語りかけ。 これだけなんだよ、これだけ!と思い家路に着きました。