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人が集まると出てくるパターン

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今日はわらしべマーケットの日でした。 お客さんの秋田なまり、方言がすごくって・・・外国語のようだった。 意味が時々わからなくなりフィーリングで聞いていたように思います。 こんな感じで例えば認知症の方とか、 耳が聞こえにくい方とか、 話題がむずかしすぎて理解できないときとか、 なんとな~くで聞いていることって結構あるんだろうな。 楽しいときでも、本当はどういうことを話しているのか? 楽しいからこそ知りたくなります。 よくテレビでお笑いの人のセリフが早すぎて聞き取れなかったりすると(でも会場は爆笑) え~~今なんて言ったの?と気になります。 ここでもやっとしたり、不快感がわいたりするのは、 内容をすべて把握していたい、わかっていたい、 というパターンが自分にはあるからかも。 仕事でも、自分だけ知らないようなことがあるともやっとするのは、 このパターンです。 自分だけのけものにされたくない、みんなのように理解をしたい。 そして、わかっていないことがあると認めたくない、というのもありそうです。 なぜならば、わかっていれば安心できるから。 わかっている自分がいいと思っているから(パターンがね)。 なぜ、それが安心なのか、いいと思うのか? そこをもっと考えてみよう。 数人集まると出てくるパターン。 ここもみていこうと思います。 友達がつくった海鮮ビーフン♪

私の冷静さ

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前回はじめてお会いした方ともう一度会うことになり、 一度目のときの印象と随分違っていることに気づきました。 はじめてのときは、 誰がその相手の方を見ているのかと言えば、 パターンが見ていたのだと思う。 パターンで反応し、パターンでいろいろ考え、 パターンが受け答えをしていたのかも。 今回はそうした前回の自分が鮮明に思い出され、 ああ、あのときは「私」が見ていたのではなかったんだなと思えたのでした。 でも、今回は何のジャッジもせず、いたって静かで、 へえ~そうですかと、 相手も何かしらのパターンで話していることも見えたりしました。 自分が冷静でいられるとこんなにも楽です。 小学生のころ遊んだ川

今やれること

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まだ見ていないものがあります。 その見えない先にあるものに、自分はたどり着いてはいないし、 そこへ向かう道をひたすら歩けているのかどうかもわかりません・・・ けれど、今まで見えなかったものを見たい(不思議な力とかそういうものじゃないですよ)と思う気持ちがあるため、 いつかはきっとそんな日がくるのではないかと信じているところもあります。 もちろん、何もしないでただカウンセリングをして、ワークやって、セミナーに出ていればそうなれるということではない。 けれど、自分がしていることは、もしかしたらそういうことに近いのだと思う。 語りかけをしていれば、ワークを丁寧にやっていけば、中立ワークで意味付けを広げていけば・・・って思っている。 そうじゃないんだろうなと思いつつも、今の自分にはそれしか思いつかないのです。 そういうレベルに今いる私。 それだけは理解している。 如実知見(現実をありのままに見抜くことという意味)のように、 とにかく今は何もわからないから、 だから正しい(と思う)ワークをやっていく。毎日。 現実の自分をそのまま見ることをやっていくしかないし、 それをする自分はちょっと幸せだなと思います。 早いけど虫刺され対策…アロマスプレー

普遍的な意識でできている

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白黒ワークの中に出てくる言葉に、 今さらながら、本当にそうだなあと思った。 「私」は脳でもなければ、思考でもない。 パターンでもなければ、肉体でも感情でもない。 普遍的な意識でできているのが、「私」です。 ここを言うたびに、「私」とパターンだけでなく、 そうか、自分というのは単なる個体(肉体)ではないことを ずっと昔から知っていたかのような気持ちになります。 まだ生まれてもいないもっともっと以前からあるもの。 その意識が宇宙の流れにのっていけたら、それでいいのだけれど、 そうじゃない自分だから、 だから「私」へ意識を向けることが必要なんだなあって思った。

何も問題はなかった

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夫の母の施設でケア会議なるものがありました。 夫が母の代弁者として出席し、 私も聞いているだけでいいからと言われて同席しました。 なんですがー、 仕事柄というか、そばで聞いているうちについしゃべりたくなる自分。 点数的に(使えるサービスが限られていること)こうだとか、 夫のまわりくどい言い方へも通訳したくなったりとか、 スタッフさんの対応はこうすべきだとか・・・ いろいろ思考が走り感情もわきました。 いろいろわく感情は全部自分の問題。 ということは・・・ そこに自分以外には何も問題はないということになります。 そう思うと気持ちが少し楽になります。 そのこと自体へ信頼を寄せるからこそ黙っていられるのかもしれません。 集まった方々は、 みなどうしたら母が安心した生活を送れるかいろいろ考えてくれていました。 もう少し様子をみましょうというのもあるし、新しい試みもある。 そうやって話し合ってくれたことならば、それでいい!と思いました。 なんだか成るようになっていきそう。 自分の問題だけを引き受けると、 周りには何も問題がなかったかのように見えました。 そして、成るようになっていくのは、自分が余計なことをしなかったからなのか! 黙って参加した会議で教わりました。 皆さん、ありがとうございました。