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自分は正しい、というパターン

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今語りかけをしているパターンの中の言葉をとって、 いろいろ意味付けワークをしています。 その中で、パターンっていかに自分が楽に生きていけるのかだけを 考え続けているんだなあと思いました。 ここで言うところの楽とは、 まったく嫌な思いをすることなく、あなたが正しいです、 一番です、素晴らしいですと、 称賛をあびては自分をかえりみずに守られて生きる。 という意味の楽。 (言葉にしてみると、なんかすごい・・・) 「正しさ」の意味付けのプラスで出てきたものに 「文句を言われない」というものがありました。 これが出てきたとき、あ~なるほど!と思いました。 そう、パターンって、ちょっとの文句も言われたくないんですよ。 自分の正しさは最強で、 それさえあれば他人からも納得してもらえるし、 とやかく言われないし、堂々としていられる。 とパターンは思っています。 でも、それらの弊害として何がおこるかと言えば、 「そこが絶対だと思ってしまう」 というマイナスの意味付けも出てきました。 正しさはプライドとなり、 自分を守るために盾となって立ちはだかるのだ。 考えてみると、 ●あんな言い方されたくなかった、 というパターンがちょいちょい出てくるのは、 大事にされたいというのもありますが、 パターンの正しさを否定されたと感じた際に出てくるもの。 パターンは、ちょっとの否定もゆるさんぞと、 正しさという盾をかざして戦っているんだなと感じました。 これは苦しい。 ●自分は正しい、というパターンのケアをしっかりやって、 この苦しさからパターンを救っていこう。 きっとこのあたりが自分の(魂の)課題なんだなあって感じます。 先日のピザは、紫波フルーツパークで作りました 秋はぶどう狩りも楽しめます!

『かくかくしかじか』私の場合

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映画『かくかくじかじか』を観ました。 漫画家の東村アキコさんがまだ高校生だった頃、 地元の絵画教室の恩師との9年間の日々を描いた作品。 東村さん役を永野芽郁さん、師匠の役を大泉洋さんが演じていました。 大泉洋ファンの私としては、 どうしても役柄以上に本人の素も出ているように感じてしまい・・ とても面白くて泣けるいい映画でした。 とにかく無謀な教え方をする先生。 その時はどんなにか怖くても、 なぜかついていってしまう生徒の気持ち、わかる気がしました。 温かくて優しくて真っすぐで・・・という先生の本当の心を感じているから。 そしてそこに来る人はみな、 1つの目的(絵がうまくなりたい、描きたい) というだけで先生の言うことを黙って聞いています。 映画の中で、とにかく 「描け(かけ)ーーー!」 「考えずに描けーーー!」 と主人公が何度もげきを飛ばされるシーンが出てきます。 これ、道場の先生と重なってしまいました。 「ちゃんとやりなさい!(パターンへの語りかけ)」 「考えるんじゃなくて、感じる!」 って言われているのと同じではなかろうか。 (いろんな言い方をしますが、中身はこれ) 竹刀こそ振りかざしませんが、 会ったときからずっと、先生は私に(私たちに)、 自分を見ることだけを言い続けています。 自分との関係を作らずして他人との関係は築けないということを ずっとしつこいくらい、ダメ出しを毎回しながら、 何度でもあきらめずに言ってくれる。 それがどんなに大事なことであるのか・・・ そしてそこからすべてが始まっていくことも教えてくれています。 (まだまだ自分は道の途中) 映画のように多感な時期に出会っているという話ではなく、 私の場合は40も過ぎてからの出会いです。 いい大人になってから、 「先生」と言える人が今いるということ、 学びたいと思うことがあるということが すでに恵まれているのではないかと感じました。 来月は茅ヶ崎に行きますが、 とにかく毎日語りかけ。 その他もろもろ毎日自己探求。続けていきます!

自分が中心でいたい

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自分が中心でいたいと思うパターン。 意味付けワークを「中心」でやってみたら 広くなりすぎて分かりづらくなってしまったので、 「中心にいる(人)」で意味を考えてみました。 プラスは、 大事にされる・人が集まってくる・守られている・認められている・尊敬されている・ムードメーカー・象徴・重要・核・何もしなくても物事が進む・楽・人に(良い)影響を与える 中立は、 中心にいるというただ一つの事象。 マイナスは、 何をしているのか本当のところが見えにくい・(逆に)していることが目立つ・責任が重い・そこにいると見えないものがある・周りの人あっての自分だということが気づけない・うぬぼれやすい・偉くなったかのように勘違いしやすい・中心にいないと何をしたらいいのか分からなくなる・人に(悪い)影響も与える 意外なところでは、プラスの意味付けに、 何もしなくても物事が進むという捉え方がありました。 中心にいるということは楽なことだと パターンは思っていたんだなあ。 でもマイナスをあげてみると、 周囲へのありがたみとか分からなくなったり、 そもそも周囲と中心と、別エリアに分けて捉えているため、 その楽エリアから外れたとパターンが認識してあわてふためき、 苦しくなっているのかもしれないと思いました。 どちらがいいとか悪いとか、 もうそこではないエリアがある。 そこには、人を介しての自分ではない清々しさがあるように感じました。 「もしかしたら・・・自分が中心でいたいって、 もう、決めつけなくてもいいのかもしれない・・・」 これを空を見て唱えます。 ピザ作り体験

感情のキャッチから

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毎日いろいろなパターンをキャッチするんですが~ 自分は特別で一番だと思うパターンの親戚? 自分が中心でいたい、と思うパターンがいることを感じます。 同じような系統のものは他にもあって、 大事にされたい、尊重されたい、というものあります。 自分が中心でいたいんだねー ってパターンがいることはわかるけれど、 いつも語っている、自分は特別で一番というパターンでは、 なんかしっくりこない感じがありました。 なぜならば~以下の語りかけが、 やはり違うからなんだと思います。 なぜ中心じゃないとダメなのか? 中心という意味付けはこれからですが、 他のエリアにいる自分のことを、 大事にされてない・尊重されていないエリアにいるのだと パターンは思っているように思いました。 不安、緊張感、寂しさ、いらいら などといった感情。 どう対処したら、どう自分が居ればいいのかわからない。 だからそういう感情や感覚がわくのだと思うけど・・・ 以前の自分にくらべたら、 少しづつその中心ではないエリアにいれるようになっているような気はします。 でも不意に留まれなくなってしまうのはなぜか? パターンがさわぐ瞬間を感情をキャッチして、 もっと観察していこうと思います。 シンプルなカップに上品な量

たましいのどうじょう

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昔、「魂の道場」で学んでいることを聞かれたら何と説明するのか? ということを考えたことがありました。 そのとき、本当に何と言ったらいいのかわからず、 自分を知るための方法を実践することだったり、 全て自分の中に答えを見いだしていくものだったり、 確かにそうなんだけれど、 もっとスキルやノウハウではない表現はないものだろうかと考えました。 「道場」という言い方もなんか古くて固くて(先生すみません)、 しかも「魂」が付くと、ちょっとなんか怪しくないですか?とたぶん思う人もいる。 でも今や、 若い人たちに絶大な人気をほこるミュージシャンでさえ、 ごく自然に「魂」という言葉を使ってファンに語りかけ音楽を表現する時代なのです。 なのに、カウンセリングや、自分を知る方法の中で、 「魂」という言葉が入ると、 受け入れ難くなってしまうのはどうしてなのだろうって思う。 魂が肉体を持って生まれてきて、 肉体を使って自分の課題に挑戦していくためにこの世があるとすれば、 その挑戦は、自分とは何かを知ることでもあり、 その自分というのは愛のかたまりであり、 人も花も動物たちも地球もすべてそうであることを知るために、 自分だけの課題(人生のテーマ)があたえられていると思うのです。 自分はつくづく出来が悪いため、 そういう学びを通して自分を知る練習を時間をかけてやっているのだと思います。 人がうらやむような幸せを望むならば方法はたくさんあるし、 自己理解の方法だっていろいろあふれています。 でも、自分はこれだった。 一歩進んで二歩下がるような道。 根拠などなく、私=魂だけがいいと感じられるもの。 それが道場の教えにはあるんだなと思っています。