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最悪な結果

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最悪の結果にならないようにと、 がんばっていたことがありました。 そうなってしまうと大変なことになると、 いろいろ調べものをし、考えに考えぬいた末、 それでも防げないかもなあ・・・と覚悟を決めた。 その覚悟の後に、 もしかしたらなんとかなるかもしれない?という事態が起き、 自分の中に、そのなんとかしたいものが変化していることに気づきました。 一度あきらめたものが、 あきらめなくてもいいのかも!って希望が見えた。 それならもっと自分の感情は騒ぎまくるのかと思いきや・・・ 一旦、違うものを選んだ自分は、 ただその違うものを選んだ(仕方ないな~と思った)だけではなく、 自分が行動する動機そのものが変わっているんだと思いました。 何だかもう成るようにしかならないというか、 最悪の事態だと思っていたけど、最悪ではないのかもしれない。 最悪になった方が、むしろいいのかもしれない。 他人がつらい立場になる、苦しんでいると、 それにかかわる自分もつらく、苦しくなってくる。 非難をあびるだろうし、誤解もされるだろうし、他にも影響が出るかもしれない。 まったく嬉しくない事態になるのですが、 かといって、それが魂的に見たらどうなんだ?と思った。 今の自分をめいっぱい使って悩み、良心にそって考え行動したのだから、 あとはもう、本当に成るようにしかならず、 今々の判断でいいとか悪いとか決めつけるのは、 意味がないんじゃないかと思いました。 そこに自分も苦しくなりたくないから、 『最悪の結果』だけは避けたいと思っていたのかもしれません。 それはやはり保身でした。 相手のことを考えていたと思っていたけれど、 それを一緒に受け止めていこうという覚悟をするまでに、 じたばたしていただけだったんだと。 魂が成長することって何だろう。 こういうところ(苦しいこと)から気づいていくことなんだろうか。 苦しい中にいると、 そこにいるからこその、小さな感謝が何度も現れます。 右往左往して生かされていることそのものが、 すごく大事な体験(魂がやりたい体験?)をさせてもらっているんじゃないかと。 また、苦しさもグレードアップしていて、 それはそれで自分がそれに向き合えるかもしれないから・・・ そういう意味で、ほんの少し温かさみたいなものも感じます。 うーん、 喜び?までの表現ではないかもしんないけど・・・ 楽しん

独り言が出たとき~

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自分で自分に言うって、 気づくと普通にやっているなと思います。 自分を励ましたり、褒めたり、 また、一喝したり、自分を律するような言葉をかけたり。 そして私の癖として、 気づくと結構独り言を言っているな~と思うことがあります。 特にテレビを見ているときは、 本当に誰としゃべっているのかと思うほど、 え~すごい!とか、えーーーマジで?とか、だよね〜って普通に出てきます。 それくらいは可愛いもんですが、 もやもやした頭の中を声に出して、 一生懸命に整理しているときもあります。 さっき言った自分の発言がもう少しこんなふうだったらな~って、 ぶつぶつ言い直しをしてみたり、 もう一度違う言い方で言ってみたり。独り言にしては、長い。 先日、車を運転していて、 そんな感じで本当に無意識でしゃべっていることに、はたと気づきました。 これ、パターンがしゃべっているなと・・・。 心の中でパターンが、 本当に自分勝手にエゴ丸出しで、理想を掲げて、 さもそれが自分かのようにご満悦で堂々としゃべっていた(怖っ)。 優越感に浸るパターンだったのです。 褒められて、うれしい。まではいいけれど~ しゃべり始めたら止まらない・・・ パターンに対して言いました。 こらっ!もっと謙虚になれ!と。 地声で強くはっきりと「私」が言う。 パターンはそこにそのまんまでいていいものとはいえ、 野放しにして無視をしての、そのまんま~ではないのです。 ちゃんと収まるところに収めてあげる。面倒をみる。 それをやっていくのが「私」の役目であり、 「私」が語る、話すって、 ここへの誘導なんだなあと思いました。 喜ぶパターンは本当に調子にのってしまうから。 浮ついた独り言や、つぶやき、 時に演説しそうになることがある自分に、一喝できるのも自分。 また、誰が褒めなくても、褒めまくってあげられるのも自分。 自分一人で、いろいろやっているんだなあ。 今日もお疲れさま! 秋田のワンカップといえば、美酒爛漫

意識的に動く

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その時(パターンが騒いだとき)自分がどうありたいのか。 とっさの反応としては、 イラッとしたり、ムカッとしたりということはいいんだけど、 大事なのはその後の行動です。 イラッ、ムカッ、をそのまま行動で現すと、 怒った人がやりがちな、何かに誰かにあたったり責めたり攻撃したり、 また、嫌味な仕返しみたいなことをしたくなる。 そうではなくて、違う行動を取れる私はいないのか? これを日々練習しているように思います。 感情はパターンが生み出していることだから横に置いておいて、 後からでもゆっくりケアをすればいいけど、 今、リアルに目の前に起きているこの事態をどうするのか?なんだなあ。 まずは、変えられるものなのか、そうではないものなのかを考えます。 変えられないものなら一旦それをジャッジをせずに、 そうなのかあ〜と見届ける。 これが口で言うほど簡単ではないけれど、注視してみようと思うのです。 そして、自分の捉え方ひとつで変わっていくもの、 変えられるものだとわかれば(この見分け方が難しいのだが)変えていく。 ここで自分が取る行動と、心の中の本当の変化とは少しズレというか、 タイムラグがあるような気がします。 なんというか、 良心で動こうっていう、今自分ができる思いつく精一杯の行いは何だ?と考えているんだと思う。 それが反射的に取れるというより、 一瞬考えてからやっている感じがあったので、 その中には偽善のようなものもあるのかもしれないなあと。 かたちとしての行動があって、遅れて心がついていくような。 でも、それでもいいから、 感情のままには動くのはやめたい。 要するに、どうありたいか?という時、 今の自分の精神性が追いついていないとしても、 こうする私でありたいと考える自分で意識的に行動してみる。 それを意識的に選ぶ。 練習ってそういうことなのと感じました。 今日も何かしらパターンは騒ぐだろうけど、 それでお前はどうするんだ? って聞いて、 本当に気持ちよく軽く清々しくいられる自分はどれか?どの行動なのか? 感じて選べる1日にしたい。 絶対モンスターボールに入らないピカチュウ

心のことを学びあう

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今日は岩手クラスの勉強会でした。 『勉強会』は、できてないことを勉強しあう場、練習の場、です。 まず、ここへの意識を持つことが私には大事なこと。 先月からの私の目標であった、自己開示は何とかやれて、 やってみると、怖いものでも何でもなく、 以前よりも軽さと温かさがあることを感じました。 この以前との違いも感じられて良かった! この場で言うところの開示って、 あなたのその言葉に引っかかるんだと、打ち明けることです。 でもそれはあなたのせいではなく、自分がケアを怠ってきたせい。 だから、教えてくれてありがとう・・・ 何も知らない人に言ったら、ケンカ売ってんのか? と誤解されてもおかしくないことをやっています。 もちろん、相手を否定したくて言えば、 その通りの結果を自分がもらうだけで・・・ なぜそれを相手に言うのかをちゃんと考え、 どんな気持ちで開示するのか。 ケアができる相手を信じているからこそ話せます。 そこがとても大切で、 自分のパターンに気づけたこと、本当にありがとうって思いました。 自分の成長は、 自分自身を見ない限り有り得ないわけで、 それは、グループ内での人間関係に表れてきます。 自分を見れていないうちは、他人も見れていないし、 自分へできていないことは、もちろんグループのみんなへできるわけがない。 あたり障りのない言葉ほど、 パターンがそれをやっていることが、お互いにわかってしまうのだ。 そういうことを感じながらも、 ここは職場ではないし、家庭ではないし、 月1回ほど、セミナーと勉強会で会うだけの人たち(ドライに言えば)。 でも、心のことを学びあう大切な仲間なのです。 やるのは自分(個人)だけど、 本来なら共に学ぶの仲間には何でも話せるってなりそうなものなのに、 これがこんなに難しいことになってしまい、 本当に不思議な関係。 誰々より自分の方がちゃんとやっているとか、 できるとか、 またはその逆で、 誰々より自分はやれてない、できてない、それらを知られたくないとか。 他人に引っかかる自分の心も責め、またモヤモヤしている。 それでもこの場が終われば、 喉元過ぎれば熱さを忘れるでいつもの日常へ。 パターンの対象は、なぜかいつもグループ以外の人ばかりだったように思う。 そうやって、 後回しにし続けて10数年経ってしまった。 が、しかし・・・ 今回はブスッと風穴が

いつでも道場

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最近読んでいる「禅語」についての本。 禅語って、四字熟語のようなものもあれば、漢詩のようなものもあり、 中学生の頃にはじめて習った漢文を思い出します。 最近は大河ドラマ「光る君へ」にも出てきて、 文の意味が謎解きみたいで、今ならまた勉強してみたいなあと思ったりします。 仏教から生まれた言葉なのでしょうが、 全て(それこそ、ゼン=全=ALL)の真理を集約しているかのような表現が、 短い言葉に詰まっています。 その本の中で、 歩々是道場(ほほこれどうじょう)っていう禅語があるんですが、 意味は、 自分次第で、どこにいても、どんな状況でもこの場所で悟ることができる。 おーーー、まさにそうだな。 何でこんな大変なことばかり起きるんだと思うことがありました。 こういう時、頭がぐるぐるしてきます。 感情は見ているものの、どのパターンに語りかけようか?と、 気づくとまた思考をめいっぱい使って、解決方法を考えている自分がいます。 でも、こういう時は、いつもより増して、 自分はどうありたいか?と問いていくこともできます。 そして、今の自分がいるこの状況が、場所が、まさに道場だということ。 環境や条件や、自分が動くことで状況を変えようとしているけれど、 その中にどっぷりと浸かって今のままで、 苦しみと共にいながら、 もう、成るようになるさ!と軽い心で感じていこう。 そう思えてくる、歩々是道場です。 そして、直心是道場(じきしんこれどうじょう) っていうのもありました。 真っ直ぐな心をもってすれば、 こんなとこにいては自分はダメになる~ではなく・・・ どんな職場であろうと、家庭であろうと、自分が成長することはできるのです。 真っ直ぐな心での努力。 それをやってから、そこを脱してもいいのかもしれない。 そこを去るべきか、逃げた方がいいのか、 手放す前に、 やりきってみればその時がいつなのか分かるのかもしれません。 うお~、そうだそうだ。 禅語を読んで唸っては、力をもらっています。 南部もぐり 水の中でも道場