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ダイレクトにそのままに

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●自分は他人より劣っている というパターンの語りかけ。 やっていて、ふと思ったのは、 いつも何事かに対して、他人と比べる思考になっている。 だから、自分はその人と比べて〇〇が劣っているな、 その人の〇〇には及ばないな、と感じているのだと思います。 対象者があってのこのパターン。 自分一人の存在で見ていけば、 自分自身という人間が劣っているかと言えば・・・どういうところが?何が劣っているんだろう。 って、パッと答えが出てこない感じがあります。 そもそも「劣る」というのは、 昔の自分に比べて体力が劣ってきたとか、 若い時のような情熱がちょっと衰えてきたとか、 そういうことはあるかもしれませんが、 人として優劣をつけることって、 自分一人に対してはあまりそんなふうには思っていないような気がしました。 だから、今日は少し言葉を変えて、 ●自分はいつも誰かと比べて劣っている というパターンにして語りかけをしてみました。 なぜならば~のところは、より具体的になり、 パターンが言いたかったことがダイレクトに伝わり、 私も代弁しやすくなった気がします。 そうやってありのままで、 パターンの言う言葉を変えずに(きれいに整えずに) そのまんまをケアをしていくことも大切だと感じました。 木があるとちょっと涼しい

感情をすくいあげる

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羨ましいという感情がわいたパターンのケアをしていくと 気づいたことがありました。 この人大嫌いっていうパターンのケアをたくさんしてきた私。 それらを振り返ると、 怒り、イラ立ち、悔しさ、苦しさ、悲しみ、憎しみ、不快感の他に そうかあ、羨ましいという気持ちもあったなあ と思い出しました。 (っていうより、今気づいたかも・・・) その人と自分との比較で、 パターンが思う優れているとところを発見し反応していました。 その優れているとパターンが思っているところ。 じゃあ、そうなりたいの?と聞けば、 いやいや、あんなふうには絶対になりたくない!と言う。 だけど、どこかその人の能力とか外見的なものとか、 表面上現れている一般的に優れていると判断されるところを見て、 パターンはその領域の中での憧れなようなものを抱いていたのかもしれません。 なんていつも身勝手なんだろうと思っても、 ストレスなくていいだろうな~と どこか羨ましくパターンは思っていたのかもしれません。 でも、自分にはそういう能力というか器用さはない。 「私」はそうなりたいと思わないのだけど、 パターンとしてはちょっとそうなったら楽なんじゃないかって思っている。 パターンはとても小さな子どもなので、 表面的なわかりやすい部分には飛びつきやすい。 しかも、周囲がその人を否定すれば憧れることはないかもしれませんが、 褒められていたり評価されたりしているところを目撃してしまうと、 あんなふうに自分もなれたらいいなと感情が騒ぐ。 それがパターンというもの。 あなたをずっと一人ぼっちにさせてきて、本当にごめんね。 小さな感情もちゃんと感じていきたい。 緑がいっぱいの中庭

過去の意味付け

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他人を羨ましいと思うパターンは、 「私」ではなくパターンの考える素敵な人です。 パターンが考える頭のいい人、人とうまく関われる人、 地位があり成功している人、 おしゃれな人、マイペースな人、苦労がなさそうな人、 したいことをしていて楽しそうな人などなど。 どれもこれも、過去の意味付けのままで、 パターンは思っているんだと思います。 他人との比較って、 なにか時が止まっているかのように、 全てが更新されないものの中での話なのでしょうね。 息苦しく狭い領域の中に住みつづけている・・・そんな感じがします。 これら全部、また新しく言葉の意味や捉え方を考えてみたいな。 でもまずは、 羨ましいと思ったパターンの気持ちを今は大切にしよう。 それから意味付けを考えてみます。 入り口は低めの天井 ちょっとどきどきします

羨ましさ

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今、何を感じている? と問えば、昨日は、 これまであまり出てこなかった感情を見つけました。 羨ましいと思う気持ちです。 苛立ち、不快感の中に、 少し羨ましさを感じていて、 それは、そうなれないと思っているパターンの寂しさ のような感じでもあるのかな。 そっかあ・・・ あなたは羨ましいって思っているんだね。 そうつぶやくと、ざぶーんとした心の波が、 少しゆらゆらとしたものになるのを感じました。 大波ではなく、小波。 ミナペルホネン初めて行くの巻

初心という心

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引き続き「禅マインド」を読んでいたら、 だんだん頭に内容が入ってこなくなり・・・ それで、読み進めるのはやめて最初のページに戻ってみました。 禅の修行は難しいとよくいわれます。しかし、その理由については、誤解があるようです。禅の修行が難しいのは、長い時間ひざを組んで座る座禅の姿勢を保つのが難しいからでも、また悟りを得るのが難しいからでもありません。それが難しいのは、私たちの心を、根本的な意味で、混じりけのないものにしておくこと、そして、修行も混じりけのない、純粋なものにしておく、ということが難しいからなのです。 今の自分の状況を教えてくれるようなことが書かれてありました。 自分はこの本を読んでいるうちに何かここから得たいとか、 自分が知っていることと共感をしたいとか、 今度は最後まで読み切りたいとか思っていたことに気づきます。 修行の目的は、この初めての心をそのまま保つことにあります。 たとえば、たった一度の般若心経を唱えたとしましょう。その時とてもよく唱えられたかもしれません。けれども、2度目、3度目あるいはそれ以上唱えたときはどうでしょう。だんだん初めて唱えたときの心を忘れていきます。同じことが、禅のほかの修行でも起こります。しばらくの間は初心者の心を保ち続けますが、2年、3年と修行を続けていくうちに、向上するところもあるかもしれませんが、初心の持っている無限の可能性を失いやすくなるのです。 ー中略ー 禅の修行で一番大切なことは、「二つ」にならない、ということなのです。私たちの初心は、その中にすべてを含んでいます。それはいつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。これは心を閉ざすという意味ではなく、常にどんなことも受け容れる用意がある心です。心が空であるとき、、それはどんなことも受け入れる、どんなことにも開かれている、という状態であります。初心者の心には多くの可能性があります。しかし、専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。 この「二つ」というところは、 「私」と「パターン」という解釈ができます。 読書すら、時間の経過と共に「パターン」で読んでいるということがわかります。 自分がこの学びをしたときの心は、 純粋とまでは言えなかっとしても、初心だったと思う。 知ることすべてに素直だったのではな...