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癒しの持続

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今日はシェービング(顔剃りのことで~す)へ行ってきました。 もうこれが、あまりにも気持ち良くって、 途中記憶がないほど脱力して寝てしまいます。 これはもう、私にとっての「癒し」なんだと思います。 感覚的な気持ち良さ、そしてその最中の安心感、終わった後の爽快感。 それに浸る前と後では、気持ち入れ替わったように続く。 他にも、犬を見かけるとそれだけで癒しをもらうし、 緑があるところで空気をめいっぱい吸ったりするのも地球からの癒しです。 特に自然から受け取るものは、 そこに人として生かされているという実感がどこからともなくわいてくるので、 そのありがたさで涙が出そうになることがあります。 (これが、大地への感謝なんだろうな) 一般的には癒されるって、一時的なもので、 しかも誰かに何かにしてもらうことが多いと思いますが、 そこに浸り、軽さを感じ続けることができるのは自分の意思なのかも。

一歩踏み出す

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誰かの役に立つことをしたい・・・で思い出したのは、 先日、友人が困っている様子をみて、 たまたまそれが自分にできそうなことだったので、 代わりにやってみたということがありました。 それをするのに自信があったわけではなかったし、 よくわかっていないこともたくさんありました。 でも、少しでも力になりたいという気持ちだけでやってみたら、 思いのほか一歩前進した感じがありました。 以前の自分であれば、 こんなふうに自信がないことをやってみようとは思わなかったと思います。 後から間違っていたら迷惑もかかるし、 ちゃんとわかっていないことには手をつけたくない(ってパターンが言う)。 でも、少しずつですが、 わからないことに対しての怖さがあまりなくなってきている気がしました。 少しでもできそうなところがあればやってみればいいし、 違っていたとしても、今の自分の持てるものは出したほうがいいと、 (たとえ、後から言うほど頼りにならなかったと思われても~) そういう軽さを以前より持てているように思います。 自分にできることしか神さまは与えない・・・ということもよく言われますが、 その「できる」をどう意味付けるかにもよります。 自信があって、他人に誇れるもので、得意なことだけではない。 一歩を踏み出すことも、自分にとってできること。 そういう意味付けもいつの間にか自分の中に付け加えられてあったのかもしれません。 まだ結果として役に立てたと言えるかどうかは微妙ですがー でも、これからも誰かの役に立てそうなことがあったら、 もう完璧さはいらないとわかったので~やってみようと思います。 雪解け水で北上川の水量が増えてました(大槌の山にかけたい…)

自分のできること

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大槌町の山火事がTVで流れて、この火の燃え方を見ていると、 昨年の大船渡の山火事以上ではないかと思ってしまいます。 自分の家の近くまでせまってくる火は、 さぞや怖いだろうし、でも逃げなければならないし、 こういうとき自分はどうするのだろうかと思ったりします。 天災がない、または、小難で済んでいるということが、 本当に大きなことであり、 これこそ地球に感謝することでもあったのですね。 自分の家が目の前で焼けてしまった様子を見ていた男性は、 本当に信じられなかったと言っていました。 信じられないことが、これからの地球には起こるのかもって感じます。 ただ見ていることしかできませんが、 どうか一日も早く鎮火することを祈ります。 そして、直接的に自分ができることではなくても、 もし今、誰かの役に立てることがあればそれをしたいと思いました。 ご近所のしだれ桜は満開🌺

目を合わせる

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最近、話をするときに、 相手の目をじーっと見て話している自分がいます。 え、普通じゃないの?と思うかもしれませんが、 これって自分的にはあたり前なことではなかった。 恥ずかしがりやとか、そういうことではなくて、 いわゆる苦手な人、嫌いな人には、 その気持ちが何だか相手に伝わってしまいそうで、 以前は目をずーっとは合わせられなかったのです。 また、嫌いだから顔もできるだけ見たくなかった。 それが、 この頃はじーっと顔も目もいくら見ても、 あれ?大丈夫になっている。 もちろん全て毎回そうとは限らないと思うのですが、 それでも今は、嫌いであっても(好きではないけど)顔を見ても不快な気持ちにならない。 そういう変化を感じています。 他人の顔を凝視していると、相手の心を見ているような感じがあって、 それは、「私」がその人の心の中にあるパターンを見ている(見せられている)んだなあと思う。 他人も、「こういう人」ではなく「こういうパターンがある人」です。 made in iwate ♪

察知する「私」

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今、どんな感情がわいている? と問うことについてですが・・・ そういうと、何かすごく大きな出来事によっての大きな心の動きを言うように 聞こえるのかもしれませんが、全然そんなことないです。 本当に些細なこと、一瞬で通り過ぎてしまうようなこと、 そういうちょっとしたことでも「感情」を察知している私がいることに気づきます。 それくらい、小さな心の動きにも意識が向けられているということ。 これまでは、そういう小さな心の動き(ネガティブさ)は何かをすれば忘れるだろうとか、 気にしない気にしな~いと変なおまじないのように言い聞かせていることもあった。 また、逆に気にする自分(パターン)もいて、 くよくよといつまでも考える。 また、朝から晩まで寝ているとき以外はずっとそこから離れられず、 考えぬいて何とか答えを出そうとして自分で自分を苦しめたり、 また頭(これも別なパターン)で納得させたりしていたのだ。 今、どんな気持ちでいる?という問いには、 その時の正直な自分がいます。 そう感じさせる何かしらのパターンがあって、 その何かしらのパターンに寄り添う「私」は空気のようにそこにいつでもいるのでした。 些細な動きさえも察知できる「私」には嘘はありません。 ということは~ 「私」自身の感度も上がってきているということなのかな。 地域の安全!非難経路の確認!