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7月, 2022の投稿を表示しています

審査員

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ある競技会の審査員を頼まれました。 審査員というと、緊張感高まる会場で必死にやっている選手たちを横目に、 悠々と採点しているちょっと偉そうな人をイメージするかもしれませんが(自分がそうだっだ)、 そんな余裕をかましている心境ではまったくなく・・・ 選手以上にもがいてました。 競技課題の作成も担当していたこともあって、 数か月前からすでに大会が始まっているかのように、落ち着かない状態。 できた課題は、知的障害のある選手たちにちゃんとわかるものであるだろうか。 難しすぎないか・・・いや、意外と簡単なのか、目的からずれてはいないだろうか等々、 一番苦手なことを、自分やっているなーと思いました。 考える(いつも思考で頭がぐるぐるしていた)ことが圧倒的に多かった昔と比べると、 今はぐるぐるして止まらない・・・ということはなくなり、 ●考えるのはよくないこと、というパターンすらあったのかもしれません。 そのせいなのか、何なのか、 考察する、熟考して何かを作り出す、という作業が長きに渡ると、 頭も体もとても疲れてくるのです(試験勉強がそうだった)。 よ~く考えなきゃと思うほどに、 体に不快感が走り、息詰まってしまう自分がいます。 でも、今回はまずよ~く考えて作ろうと思ったのです。 課題を作るなどこれまでの人生ではほとんどないことだったと思うので、 本当に頭を使いました。 それが、ある程度やってみて気がついたのですが、 考えると言いながらも、 そこには想像力、判断力、知識、知恵、意思力、集中力、柔軟さ、美的センス、効率性など、 たくさんの自分の中の資質を使っている、使わないと考えられないんだなと発見。 そして、思考錯誤する中でも大切なことは、 それをやるときの自分の感覚や感情も必要な要素なのです。 そこに清々しさはあるか、軽さはあるか、すっきりとした感じ、柔らかさ、広がりを持てるか(窮屈さはないか?)。 やはり、感情と感覚が自分を後押ししてくれるのだと思いました。 大会では、勝ちたい選手と、その選手を応援する側、選手を公平に審査する側、 大会を無事進行したい運営する側、それを補佐する側、 それぞれの立場があり、それぞれの気持ちが交差するような場だったように思います。 おもしろいなと思ったのは、 発せられる言葉を聞いていると、 あたり前ですが、みんな自分の立ち位置で話をしているだけな

間がもつ

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やっと岩手も梅雨明けし、猛暑となっています。 猛暑といっても夜は涼しい風があり、過ごしやすいです。 昨日は久しぶりに娘が泊まりに来たので、家の外で焼肉をしました。 お腹はぺこぺこでしたが、なかなか炭をおこすまで時間がかかり、 その間、沖縄名物の島らっきょうをつまみながらお酒を飲んでいました。 本題にいくまでの、この、『間』というもの。 思えば、自分は随分となにかを待てるようになっている気がしました(焼肉で気づく)。 以前は、早く美味しいものが食べたい、早くこれがしたい、 早くなんとかしてほしい、早く反応してほしい・・・などなど、待てないことが多かったなあと思うのです。 表面的には待てる振りはできても、 心の中ではせかせかしていたり、何か間がもたないような感じがあり・・・ 不安や焦りや、苛立つこと自体が嫌であるため、 もう別のことをして回避しようとしていることもありました。 特に、会話がそうです。 話が盛り上がらずに、しーんとなってしまう時間が長いと、 なんだかむずむずしてきて、妙に不安になってしまうのでした。 こちらが話したことに対して、思ったよりも返ってきた言葉が少ないときも、 自分の話がおもしろくないからなのかなとか、 自分のことが嫌いなのかなとか、 いい方向には考えない癖がついていました。 そういう事態はなるべく避けようと、がんばってしまうのです。 それがいつの間にか、話さなくても大丈夫なんだ、間が長くても大丈夫なんだ、 という経験を積んでいくうちに、 その『間』はむしろ必要だから存在していると思うようになりました。 そして、大丈夫というのは、相手ではなく(相手のことはわからないため)、 自分が大丈夫なんだと感じ、またそれでいいと思えるようになった気がします。 間があることで、無意識に、自分の心の状態を観察する時間に使っている気もします。 考えてみれば、家族といるときは、 間=沈黙があっても平気だという方は多いのではないでしょうか。 それは、話がつながらなくても、反応がなくても、何もそこに意味がないから、大丈夫だから、 ということを知っているからできるのだと思います。 何か話さなければならないということもないし、どうにかしなければということもない。 あったとしても、それをそのまま表現するだけなので(「早くやってよー」などと言う)、 それが良い悪いと考えることも

初・クラシックコンサート

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辻井伸行✕三浦文彰 ARKシンフォニエッタ 生まれてはじめて、クラシックのコンサートに行きました。 行ってみて、どれだけクラシックに対しての思い込みがあったのか、 あらためて、思い込みってすごいなと思いました。 まず、お客さんたちの服装が、思ったよりも普段着なのにびっくり。 てっきり、黒いドレスとか、シックなワンピースとか、 首にスカーフとか、セットのイヤリング&ネックレスをしているとか、 とにかく普段滅多に着ることのない服を着ていくものだと思っていました。 はあ、こんな感じでいいんだ・・・なんと敷居が低かったんでしょう。 それから、子どもたちが結構いたことにびっくり。 こういう音楽を聞いてわかるのか? 確かに、小さい時からピアノやバイオリンなど習っていたら、 こういうコンサートにも来るのかもしれません。 黙って座っておりこうさんに聞いているというのが、すごい。 男性の方も結構いました。 ご夫婦だけでなく、若い男性が一人で聞きに来ている、という感じの方も多かった。 そして、これは思い込みというより、戸惑ったことなのですが、 拍手のタイミングがよくわからない。 一曲終わって拍手をしてしまいましたが、わかっている方はしません。 ちゃんと、演奏者が立ち上がったとき、また、指揮者がお辞儀をしてはじめて拍手なんですね。 この、するべきではないタイミングでの拍手を、 会場の結構な数のお客さんが間違ってしてしまったときに、 辻井さんが何となくクスっと笑ったように見えました。 そして、人は学習する生きもの。 最後の曲と曲の間では、とうとう会場のお客さん誰一人として、 間違って拍手する人はいませんでした(←これ、ひそかに感動)。 自分のようにクラシックコンサートにも行ったことがない人たちも、 今回は多数来ているということなんだなあと思いました。 また、アンコールが必ずあるのかなと思っていましたが、 そうじゃないんですね。 拍手を長くすれば、また演奏してくれると思い、手が痛くなるまでがんばりましたが、 これはちょっと残念に思いました(そういうものなんでしょうか)。 初めてのことというのは、とにかく新鮮です。 テレビやYouTubeでしか見たことのない辻井さんの生の演奏は、圧巻でした。 音楽に乗ってゆれる、体の動きがわたしは好きなのですが、 ピアノを全身で弾いているような、それはそれは楽

覚悟を持つとは

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先日の岩手クラスのセミナー。 茅ヶ崎よりMさんが参加してくださり、 いつもに増して明るく開放的な学びの時間となりました。 ありがとうございました。 魂にはそれぞれの持ち味、個性があるんですね。 本当に気持ちいいほどの正直さがMさんの魅力です。 竹を割ったほどにさぱっとした裏表の無さ。 一緒にいると安心感があり、心が開放されていく自分を感じました。 そうだよね~、なんだよね~と、たくさんうなずいてくれるので、 気づけば、話が止まらなくなっていました(特に仕事の話がね)。 また、次にお会いしたときは、その後の変化を語り合えたらいいなあと思います。 そんなMさんの爽やかなエネルギーも相まって、 セミナーでは、いつも以上にたくさんの気づきがありました。 一週間経って、心にしっかりと刻まれたもの。 それは、「覚悟を持って・・・やる」という言葉。 刻まれてはいるけれど、一体覚悟って何? 正直、先生の言わんとしていることが理解できていませんが、 今感じていることは、これまで曖昧にしているものを変えていきたいという気持ちです。 今日一日、これだけはやっていこうというものを 毎朝、宇宙へ向けて、天に向けて、祈りと共に宣言をしています。 その宣言したことを一つ一つ丁寧にやっていく、ということなのですが、 今までは、○○をやった、誰かのためにやった、目標持ってやった、達成できた・・・ で、終わっていた(良しとしていた)ような気がします。 ここが、自分にとっての曖昧さだったかもしれません。 それをどういう気持ちで、どういう感覚を持ってやるのか? やったことの結果ではなく、やっていたときの自分はどんなだったか? やり遂げるということの意味(中身)が変わってきます。 考えた通りにできました、では終わらないようにしたいのです。 何かをするときに、良い感覚にひたるということを大事にする。 そこだけを意識してやってみよう。 それへの覚悟を持つ。 今の自分ではここまでの理解になっています。 普段、先生はわたしたちへ分かりやすく分かりやすく教えてくれますが、 それでもなお、理解できないこと、想像が追いつかないことがでてくる・・・というのも、 何か初めての体験だったような感じがしました。 今はまだ分からなくとも、いつの日か、 こういうことだったのか! と気づける日が来ることを楽しみに、いろいろ試していこう

テスト後

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試験、終わりました! 数日前からの大雨で、通る予定の道路が冠水し、到着まで冷や冷やでした。 到着後は、お腹が痛くなり時間ぎりぎりまでトイレにこもったり、 また、隣りの席のおじさんが、試験中何度も試験管に注意されたりと(なんで?)、 いろいろありましたが・・・何とか終わりました。 今回、勉強をしてみて感じたことは、 こういう詰め込み式の暗記勉強ではなく(←これは疲れた)、 専門の大学に入り、じっくり心理学を一から学んでみたかったなと思いました。 日常の、何気ない心の動きにも、 心理学でいえば、こういう現象が起きているということなんだとわかると、 少し冷静になってより自己観察ができるということもあり、 興味のあることばかりを存分に学べるって、本当に楽しいだろうなあと思いました。 でも・・・ 自分の教わってきたカウンセリングというものは、そことは違うのです。 それらの知識を持ってしても、 日々の実践でしか意味を持たないものであると、 学ぶほどに、実践でこそ人は創られる、ということを感じました。 知っている・・・だけでは、自分の心は変わらないのだと。 心のからくりを知っている、話せる、だけでは、何も変っていかないのと同じですね。 心についての何かを知っているからと言って、 その人自身が、自分自身を観察し、受容し、行動を変え、 何度も良い心での実践をこころみているかといえば、 決してそうではない。 けれど、不思議なことに、 そういう知識があって、そういう話ができるというだけで、 その人があたかもそれを実践して生きている人、 なにかとても優れた人に見えてしまうということがあります(中には実際に実践で生きている方もいるでしょうが)。 勉強する側も、同様の錯覚があって、 知識をたくさん得ると優れた人になれる、と思ってしまうのではないかと感じました。 もちろん、知識は必要だし、 そこから発展させるということは大事なことだけれど、 そこで終わってしまう、満足してしてしまいがちではないかと。 仕事の場面では特に、 「知っていること」をまずは重視する傾向があるため、知識量に走ってしまうのかもしれません。 自己探求は、そことは真逆の世界にいます。 頭でわかったということではなく、 心でわかる、実感する、行動に表れる、というものがあります。 それが熟成されていくと、 「根拠はないけれど、大丈夫

テスト前

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学生の頃、テスト勉強を必死でやっているのに、 全然やっていないよーって、 嘘をついたことがありました。 勉強していて点数が悪かったらかっこ悪いから、そう口が言ってしまうのです。 でも、今はもうそんな嘘をつく必要もなく・・・試験まであと4日。 猛烈に勉強しています!!! 全然やっていないわけがないです。 そして、心の奥底には、 落ちたらどうしようという怖さもあり(←パターンだな)、 落ちたら死ぬわけでもないし、仕事を辞めなければいけないわけでもないし、 多額のお金を払うわけでもないし、 誰かにひどく怒られたり、ののしられたりするわけでもありません。 がしかし・・・ 落ちるのが怖い、落ちたくない、落ちたら人生が終わらないけれど、 かなり落ち込むだろうなとパターンは思っています。 でも、みんなこれら「私」ではなく、パターンであるため、 ケアをしているところです(勉強の合間に)。 大変な時ほど、他にも大変なことがこれでもかと重なることってありますよね。 あれもこれも、頭を悩ませること、 気力も体力も使ってくたくたになることが・・・ まさに、今そのような感じに近いのですが、 起きることそれぞれが、どんな結果であっても、 それがわたしにとって、みんなにとって、良いものになることを信じて、日々過ごしています。 こういう試験勉強ははじめて。 いろんなことをやりながら、 いろんなことを誰かに相談しながら、 できない日はできないままに、できるときは集中して・・・ いろんなことが同時進行していく。 体調管理も、心のケアも、実際の生活も、仕事も、家族のことも・・・ バランスを取りながらやっていく、 また、『自分で立て直す』ということを学んでいるような気がします。 それにしても、日を追うごとにこの緊張感といったら独特です。 この緊張と共にやっていこう。

尊敬している先生

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尊敬している学校の先生がいます。 やっていることは教育というより救助です。 泥沼にはまってもがいている生徒のところに駆けつけるレスキュー隊のような存在です。 はじめて先生とお会いしたとき、なんて強引な人なんだと思いました。 教師とは思えない言葉遣いで、一言でいえば、おっかない・・・(怖い)。 支援者へのダメ出しがまずはあって、無茶な要望、無茶なスケジュール。 こちらも勤め人ですから、やれることとやれないことがある。 って迷っていたりすると、先生はその迷いにばっさりと言います。 「(支援者)失格だな・・・」 わたしもそうつぶやかれたときは、背筋がぞーっとしました。 先生を見ていると、他人からどう思われてもいいという域を超えているため、 今のこちらの心の状態をそのまま言葉で返され、腹も立つのだけれど、 その正直さに一周回って納得してしまう、ということが多々あります。 年がら年中、生徒のために動いているようにも見えますが、 意外と自分の時間も持っていて、自分を犠牲にしているようなところは微塵もない。 思い立ったが吉日、周囲を振りまわしているかのようでいて、そのタイミングが絶妙。 先生曰く、このタイミングが大事なのだそう。 その先生と久しぶりに会い、 元生徒と話す様子を横で見ていて、 本当にその子の悲しさを受けとめている・・・と思いました。 でも、受けとめているばかりではなく、必ず強さも引き出してあげているのです。 ここが本当に生徒にとっては、自分の力を信じてみようと背中を押してもらっているのだと思う。 受けとめるというのは、理解があって共感がある。 嘆きや怒りの根底にある孤独や悲しさは、 そこにただ耳を澄ませ、ただ隣りに座り、わかっているからもう安心していいと、一人じゃないと言ってあげる。 そこが充分に伝わると、 やはりここからは、一人で生きていく力がほしいのです。 どんなに傷ついていても、その力が、あなたにはあるんだよと言ってあげる。 自分がこのやり取りを見せられたのも、 今のわたしに合ったタイミングだったんだなあと感じました。 10代のときに自分を理解してくれる大人がいたというのは、大きいです。 自分で自分がわからなくなってしまう、ということがあったときに、 他人が自分を理解しようとしてくれていることがきっかけとなって、 自分が見えてくるということがあるからです。 こ

救いの音

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あんなにポップスが(昭和歌謡含め)大好きだったわたしが、 クラシックを聴く日々がやってくるなんて・・・信じられません。 先日の勉強会でも、芸術がテーマでした。 音楽だけでなく、絵画や陶芸、子どもが描いた絵から野に咲く花にいたるまで、 感動する心はあらゆるものから自分を解放させてくれます。 そして、本当につらいときは何も考えず、 ただただそこに身を置くだけで心と体と魂があらわれていくような気がします。 芸術というと、どこか非日常的な感じがありました。 特にクラシックは、特別なときに聴くような音楽。 本当にこれは思い込みでしかありませんが、 ピアノを習うような感性豊かな人でないとわからない音楽というか、 クラシックが好きな人は、きっと自分にはない何か特別なものを持っているような気がしていました。 自分の世界にはないもの、『別世界のもの』。 そう、この別世界へ、 苦しさでいっぱいのとき、つらいとき悲しいとき、 今見えている世界とは違う、別の世界に触れてみたいと思うときがあります。 それが、わたしにとって、 クラシックが聞きたい・・・だったのです。 自分がまだ見ていない、まだ感じられていない、 そういう触れてこなかった世界、知らない世界から、自分に向けて何かを教えてもらいたいと思いました。 その領域にしかない、大きな優しさ、豊かさ、癒す力、 自分をはるかに超えるような高次の世界観が広がっているのかもしれない。 YouTubeでいろいろな曲を聴きまくりました。 一つ一つの曲に涙があふれました。 はじめてなのに(はじめて最後まで聴いた曲)、 まるでこの曲が、自分を理解しているかのように、包みこんでくれているような感覚がありました。 心が震え、心が救われていくのがわかりました。 何百年も前に作られた音楽が、自分と共鳴している。 自分が思っていた意味の『別世界』ではなく、 むしろ遠い記憶の懐かしさにあふれ、 深い悲しみへの共感と、深い喜びへの共感、どちらも感じられるような、 人間の生きる美しさのようなものを感じました。 音楽を聴いていると、 苦しさの中にやすらぎを見出す、という言葉を思い出します。 苦しいからこそわずかな変化、柔らかな変化、流れが変わるきざしに気づけるのかもしれません。 それこそが、自分の求めているものでもあります。 安心できる場所だから、安心するのではなく、 どこ