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2月, 2020の投稿を表示しています

ちょっと時間をおく、離れる

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悩んでいることがあるとき、 何を悩み、恐れているのか、自分に向き合うことは根本的なところで大事なことですが、 そこからしばし離れてみる、ということもちょっといいです。 完全にそちらへ頭が働かないようなことをしてみると、再度思い出したときに、前とは少しだけ違う感覚・感情を持った自分がいることがあります。 わたしの場合は、特別なことではないのですが、 ひとりで喫茶店に行ったり、ヨガしたり、本を読んだり、料理を作ったり、片付けしたり、などなど。 仕事での悩みのときは、それとは関わりのない方の仕事をやるというのもあります。 対象が人の存在そのものであれば、 物理的に距離をおく、そばに行かない、言葉をかわさないということもできます。 そうしているうちに、前と少しだけ変わることは、深刻さが感じられなくなっているということ。 あれだけ、自分の体全体にかけめぐっていたものが(これはパターンにのみこまれている、ということだが)、 全部がそれじゃないという感覚というか、少なくとも頭に酸素がまわっているような、 深呼吸がしっかりできるような感じになります。 一気にどうにかしようと、早く楽になりたいと思ってしまいがちなのですが、 ときどき、このちょっと時間をおく、離れる、ということが、自分に向き合う準備を整えてくれる手助けになってくれています。

実は奥が深かった

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年をとると、子どもに戻っていく、と言われます。 口から出てくることばや、行動がとても大人とは思えないなあって、私自身も母をみていて感じることがあります。 母は80を超えていますが、この年齢になると、本当に思い通りにならないことが増えていきますよね。 体一つとってもそうだと思います。 頭で分からないことや、今までできたことができなくなったり、 一年ごとに困ることが増えているのだと思う。 大人という理性を身につけた存在を意識して動けているうちは、 体の動きは変わっても、 相手を気遣ったり、自立した行動をとったりできるのかもしれません。 周りに気を配れる状態であるということ。 それがいつしか、周りよりも、自分自身のことで精一杯になり、 今、一番困っている自分をどうにかしたいという気持ちが、ことばや行動となってあらわれているのかなあと思います。 母から、何度も同じ内容の電話がかかってきて、 「そうか、そうか、わかったよ。大丈夫だよ」 と、何回でも言ってあげられたらいいのですが・・・ 自分に余裕がないとき、 同じことばであっても、気持ちがまったくこもっていないと、たぶんわかるのでしょうね、 その不安を母は手放すことができずに、何度も同じ話を繰り返して自分を落ち着かせようとしているように見えます。 わたしの返すことばや態度で、母が不安になったり安心したり。 こんなにわかりやすいと、話を聞くというやり取りをもはや適当にはできません。 わたしのそんな日常が、役に立つ?ことがありました。 相手は、何度か同じ話を困惑しながら話していました。 そのたびに、「そうじゃないですよ、本当はこうですよ」 と教えてあげること二度三度・・・ やっと話が通じたとき、側で見ていたもう一人の人が、 「よく、何回も同じ話を説明できるねー」 と、自分のようにはたんたんと話せない、と感心していました。 そうなのか、母といつもあたり前にしていることってこういうことか。 このやりとりって、確かにはじめの頃より、腹を立てずに落ちついて繰り返せるようになってきているのかも。 やっぱり年寄りってすごい・・・年寄りから教わることは深い、と思いました。 子どもに戻っていくといっても、どこかたくましさを感じる母。 わたしに与える影響は、わたしがたくましく

軽い気持ちでさくさくと

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何年かぶりで、前髪を切りました。 後ろで髪を束ねられるくらいまで伸ばしていたのですが、そろそろこのスタイルにも飽きてきて、 ほんの少し切ったら、なんかとてもすっきりしました。 でも、この前髪、切りたいと思ってから一年かかりました。 遥か遠い昔、高校生だった頃、 ヘアスタイルって結構、その日一日の運気を左右させるほどの、重要度がありました。 特に、「前髪いのち」という言葉がはやったほど、前髪の長さは大事。 朝は鏡の前で遅刻ぎりぎりまで格闘し、友達を待たせておいては、そのあと猛スピードで自転車をこいで学校へ行っていました(あのころ付き合ってくれた友人って、今思うと偉い)。 それが・・・年齢と共に、したい髪形というより、手入れが楽な髪形へと冒険心がなくなってきているように思います。 たった、前髪を切りたーい、と思っただけなのに、一年も放置していた自分にびっくりです。 女性は見た目のところでモチベーションをあげたり、気持ちを変身させたりするのが上手いと言われます。 そういう単純さって、ちょっと最近遠のいていました。 これから、この単純さを復活させていきたいなあって思います。 ヘアスタイルのように、ちょっと変えてみたらちょっと気持ちが明るくなった、ということは日常にあふれています。 でも、そのうちやろう、来るべき時がきたらやろう、という『とくに変わらなくてもいい癖』もついています。 冒険は進んでしなくてもいいというか、 変化して得られるものへの期待よりも、現状維持への安心のほうが勝ってしまっているのでしょうか(これもパターン)。 もっと軽い気持ちで、さくさくと、 やってみたいと思うことをやればいいですよね。 ひらめいたことや、何となく良さそうなことも、重く考えすぎてしまう前にさくっと。 変化といっても、ちょっとしたところを生活の中に取り入れてみて、いつもずーっと同じになっていることがあったら、そこを変えてみるとか、 停滞しないように、よどまないように暮らしていきたいです。

時間をかけて

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生まれて初めて味噌をつくりました。 安代(岩手の左上のほう)にある 麹屋もとみや さんの『こうじ南蛮』がすごく美味しくて、 その後、『麹ソルト』にもはまり、 つまりは麹屋もとみやさんのファンになり、味噌も作りた~い、となったのでした。 行く途中、先がまったく見えなくなってしまうほどの猛吹雪にあい、ひさしぶりに真冬を実感しました(さすが、安代)。 お味噌の材料は、大豆(ユキホマレ)、米麹、水、塩。 この麹が米なのか、麦なのか、豆なのかで、米味噌とか麦味噌とか言い方が変わってくるのだそうです(知らなかったー)。 大豆はやわらく蒸かしていただいたものを、ぎゅっぎゅと手でつぶしていきます。 これがなかなか力が必要で、すべてをつぶしきれない、が無心でやる。 そういえば子どもの頃、味噌汁を飲みほすと、お椀の底にのこったこれ(豆)を食べるのが好きだったなあ、と思い出しました。 あのときの、お椀の底にあったもの・・・この過程でできるものだったとは。 できた味噌はただしょっぱいだけで、白っぽくて、まだまだ若いねーという感じです。 ここからタンパク質が分解され、甘味が少しずつ出始め、時間をかけてうま味へと発酵、熟成されていくのだそうです。 人みたいですね。 一年半後が食べごろみたいですが、家の環境によって変化するので、首をなが~くして待つことになります。 参加された方の中には、毎年つくりに来ているベテラン主婦の方や、なんと東京から来ているという男性の方もいました。 「大丈夫、ほっておいても美味しくなるからね」と、初心者組のわたしと娘に、みなさん自信もって言ってくれました。 その家にしかない味が出せるのは、その家に住む人の手で仕込みその場所で寝かせた味噌ですから、家族みんなの口に合うのはあたり前なんだそうです。 それを聞いた娘は、自分の分をアパートに持って帰りました(自分の口に合うように、ってことで)。 感動しまくりの体験教室でした。 帰りに食べた味噌ソフトも、キャラメルみたいな味がしてすっごく美味しかったです。 味噌も醤油もお酒も、この麹によって作られるんだ、と思うと、 麹って体にはいいし、日本人の口にはあうようになっているし、ほんと素晴らしいですね。

他人の反応が気になる

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このところ毎日、V字になって飛び立つ白鳥の群れを見かけます。まだ2月なのに。 白鳥たちも、季節のペース早いなあって感じながら飛んでいるのでしょうか。 少し心配になりつつ、 元気でね~と手を振って見送る。 最近、パターンが膨れ上がっているなあ、と思うことがあります。 周りと違う意見や気持ちを打ちあけたり、 今まで話してこなかったようなことを話してみたり、 不特定多数の人に自分の体験を伝えたり、 意識的に自分から話す、ということをしていって(まだ数にすれば少ないが)、 いかに自分は、他人の反応が気になってしまっているか。 発信すれは、何かしらを受信する。 その受け取る何かしらを、気にしているパターンがあるのですが、 ●批判されたくない ●嫌われたくない ●褒められたい 等々 これらが以前よりも、大きくなっている感じがしました。 発信した後に、相手の反応を見て、聞いて、何だか胸がざわざわしてくる・・・ ということなのですが、これは結果であってー 本当はすでにもう発信する前に、何かしらのパターンが存在していた。 その存在を薄々感じながら進んだ結果、話す前のざわつきを(このざわつきを無いものとした結果)、ただ一層大きくしてしまった。 原因と結果の法則。 小さなパターンをちょっと軽視している感じがありました。 それから、『発信する』などという言い方もなんか固い・・・と最近感じています。 伝えることに力入りすぎていたように思う。 もっと肩の力を抜いて、純粋に、素直に、等身大の自分になって再びやってみよう。 湧き上がるパターンはちゃんとケアをしよう。

内容よりも、伝え方が大事

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例えば、何か新しいことがスタートし、 みんなが同じ方向を向いている(士気が高まっている状態)の時に、 それと逆行する(士気を下げてしまうような)、「同じ考えではない」という、一人温度差のある発言をするのはとても勇気が要ります。 自分だけがそんなことを思っているなんて、とても言えない。 言ってはいけない空気を肌で感じている。 でも、言ってしまった・・・ 自分一人くらいが、違う考え(感じ方)を持っているということを言ったとしても、だから何かが変わるわけではないと知っているのですが、 それでも、言わないまま、話を合わせていくことがもう辛くなってしまったのです。 言った後、さぞかしわがままな奴だと思われたのではないかと思う(実際はわからないが)。 でも、 言う前よりは、心がちょっと軽くなったように思いました。 それが、今練習している、大人の自己開示だったかどうかは自信がありませんが、 自分の正直な気持ちを伝えながら、何でそんな気持ちになるのか理由を伝え、それでもやってみる方向でいることを伝えました(そう、結局やるのだが)。 人と違う意見や感じ方があることは、ごく自然なことなのに、 どうしてこうも、違っていることを伝えることに、こんなにためらいがあるのか。 それはやはり、相手をわざわざ不快にさせたくはない、と思うからなのでしょう。 そして、角が立たない『やわらかい伝え方』が自分にはできないと思っていることもあります(これはパターン)。 伝える内容よりも、伝え方の方に実は問題があって、自分のストレートすぎる言い方さえ、もう少し何とかなればなあと思うのです。 これは練習(意識した経験)が必要。 いきなり仕事の場でここを練習するのは、無謀だと思うのですが、 選択する間もなく、その機会はやってきてしまった、という感じでした。 それほど、思っていることとやっていることが違うということに耐えられなくなっている自分がいます。 軽くなった心は、その後にまたまたいろいろ思考がめぐり、 軽いままで持続しているわけではありません。 それでも、次はもうちょっと『やわらかい伝え方』に近づけるようになりたい、と思うこの気持ちは軽い・・・。

結果を見て、動機に気づく

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一生懸命やったけれど、結果は残念なものだった・・・ということがあります。 その時、一生懸命頑張ったから後悔はない、という場合と 頑張ったからこそひどく落ち込む、という場合に分かれます。 今の私は後者。 『現実を知る』って、分かっているようで分かっていない。 こういう自分だと思いたい、というのがどこか頭の中にあったのだと思う。 現実の自分をありのまま見ていなくて、理想(できる姿)がちょっと混じっている。 『できるようになりたい』と頑張っていたのが、いつの間にか『できるはず』に変わっていた。 自分にはできるはずだ(だって、こんなに頑張ってるんだから)があるからこその、意気消沈。 これって、一見いいことのように思えるのだが・・・ なぜ、もやもやが止まらないのだろう。 一体、私が一生懸命頑張った理由って何だったんだろう。 一生懸命やった結果ならば、伝わる(褒めてもらえるはずだ)と思ったのか? すごいね、って言われたいだけに頑張ったのか・・・? どちらも、自分の頑張る理由の中にありました。 そして、このような動機では、本当の「私」は頑張らないはず・・・ パターンで頑張っていたのだと思う。 頑張るって、ちょっと危うい感じがあります。 頑張る=無心、でやっていたような気になっていました、その時は。 でも、全然、無心どころか野心のかたまりで頑張っていた。 そういう意地が必要なときもあるのでしょうが、何かしらのたくらみがあってはやはり、それなりのものを受け取るのだと思いました。 自分のしたこと、これが現実です。 この結果に逆らわず、ゆがんで見ないように、 これから、現実がもたらしたものを、自分は受け止めていかなければと思いました。

やわらか~い、が欲しい

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朝、いつもと違うチャンネルを回すと、 歌が流れてきました・・・それもかなり、気のぬけた歌が。 『やわらか~いください』 皆さんご存知でしょうか。 なんと、自動販売機で「やわらか~い」が売ってあるんですよ。 一瞬、耳を疑いました。 Eテレの『シャキーン!』で聞くことができます(YouTubeではアップされていないみたいで、残念)。 ♪くだらない あらそい やめて、 「やわらか~い」いかがですか?♪ 核心ついている歌詞ですね。

話、聞いてもらいました

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自分のパターンを理解することに徹する。 これを『魂の成長をめざすカウンセリング』ではやっています。 ●上手に話したい ●評価されたい これらのパターンをケアしていた数日間があったのですがー、 再びパターンが暴れ出してしまっていました。 緊張と不安でいっぱいの自分(これ、パターンです)。 自分のパターンを理解することに徹することが・・・私・・・なんか・・・できない・・・白、選べない・・・かも。 それで、 今日は道場の仲間に、話を聞いてもらいました。 こんな風に今自分に起きていることを、あーだこーだと話すって、久しくなかったなあと思いました。 「それって自分のパターンなんだから、ちゃんと自分でケアしなきゃ」 とは言われませんでした。 黙って、うんうんと聞いてもらい、 最後は、●上手に話したいという、その話すべき内容自体までも一通り聞いてもらいました。 私より一回り年下のKちゃんが、 「いいと思うよ」 と、まるで母親が子どもを励ますように言ってくれたこと、本当に感謝しかなかったです。 後から、たぶん安心顔になっていたと思われる自分を思い出すと、ちょっと笑えるのですが、泣きそうにもなりました。 聞いてもらうって、いいですね。 帰宅後、上手に話せていないのならば練習をしよう。 話す内容をもう一度相手に伝わるように見直そう。 できていない自分がそこにいた現実をやっと認められたような気がしました。 そして、もくもくと実行。 白パターンをもう一度しっかり選ぼう。 今日助けてもらったことは、おまけなのだ。 ここからは本当の「私」を使っていこう。 そう思う気持ちに、とても温かさを感じました。

本日の発見

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今日は岩手クラスの勉強会。 午前中のいくつかの用事をマッハで終わらせ、無事参加することができました。 2か月に一度のこの時間は、皆さんと会って勉強したり近況を話したり、何より毎回自分にとっての新発見があるので、そこがとても楽しみでもあります。 多数の意見があってそれをどうするのか。 こういう場合、多数決の意見で従うというのが、常でした。 だから、たくさん意見があるほど自分の意見は通らない可能性が高いので、他の意見を聞いてもあまり意味がないような、 意見が多数分かれた時点で、何かどれでもよくなってしまうところがありました。 そんな中、本日のファシリテーターは、じっくりと一人一人の話を聞き、細かい部分を確認しながら話をまとめてくれました。 これは、私には真似のできない技です。 どれでもいい(どうでもいいに近い)、なんてことを微塵も感じさせない、丁寧さと慎重さ。 おかげで、みんなの意見を聞いているうちに、あーそれもいいかもと思うことがありました。 それぞれの意見の理由を聞き、そこから他の可能性を広げ、ゆっくり時間をかけて何度も確認し合うという、根気のいる作業でした。 この根気、このゆっくり時間をかける、が自分には難しい・・・ 何かを決める、という時、 あまり時間をかけず(ものによりますが)、良くも悪くもぱぱっと決める習慣がかなり身についてしまっています。 案の定、時間をかけて話し合いをするということに、集中力は途切れ、いかに自分が慣れていないかを実感。 もしくは、気が短くなっているのでしょうか(年か?)。 兎にも角にも、もし自分が今日のような話し合いが必要となったときに、どう対応していくのだろうと考えたりします。 そしてもう一つの発見。 これは、ちょっと微笑ましい発見となりました。 「語りかけって、いつどういう時にやっている?」この問いに、 お風呂、車の中の狭い空間、散歩しながら、夜空を見ながら、夫のいない時間で、夫が別の部屋にいる時に、そして職場ではトイレに座りながら・・・ 語りかけは、一人の時間に隙あらば~で、皆さん工夫してやっているんですね。 ここを想像できたのは、自分にとってとても良かった(あ、やっぱりそうですか!という感じで)。 決まった時間に毎日する、という方もいて、それは語りかけが完全に生活の一部となっ

命をもらって元気になる

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何年か前に、食肉処理工場の現場を見学させていただいたとき、 足を踏み入れたその瞬間から、もうその場にいることが精一杯で、 説明をされながらもそれを見ることができず、とにかく一刻も早くこの場を離れたいと思ったこと、思い出します。 その後、スーパーのお肉売り場を通れなくなり、数か月間鶏肉は食べることができませんでした。 これまで、普通に美味しく食べてきたお肉が、別ものに感じてしまい、 どうしてこのような職場で働くことができるのか、不思議でたまらなく理解できなかった(働いている方々、本当にすみません)。 ところが・・・です。 熱心な責任者の方とお会いする回数を重ねていくうちに、これはただ単に残酷な辛い仕事で語られるものではなく、 尊い命に敬意を払いながら、誰かがやらなければならない、そんな現実を知る仕事であると、見方が変わっていきました。 自分には決してできない仕事。 でも、それをしている方たちがいるから、私たちは食べることができる。 ラインに流れてくる肉の一部や臓物を丁寧に取り分ける。 それらに病気がないか、工場には獣医さんも一緒に働いています。 残念なことに病気が見つかれば、処分しなければならず、それは生き物にとても申し訳ない気持ちになるそう。 大事に育ててきた生き物の命すべてを、少しも無駄にすることなく食べてもらうことが自分たちの使命。 この話を聞いたときに、私なんかよりもずっと生き物の命を大事に思っていることを感じました。 今はこの仕事に就くことに、その方が精神的な苦痛を感じないのであれば、堂々と紹介しています。 作業性の向き不向きはあるでしょうが、命をまのあたりにする経験として貴重な職場であると思いました。 とは言っても・・・あれ以来、見学は遠慮させていただいておりますが、 工場を後にするときは「いつもありがとうございます」と、働いている方々とお肉になった生き物たちに感謝して帰るのでした。

ガツンと言わない理由

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昨日は自分に向けられた言葉について、意識して一日を過ごしてみました。 その中で、気になるもの・・・ありました。 一つは、相談というかお願いされたというか、頼まれごとです。 その人が困っていることに対して、何とかその困らせてくる相手に注意、改善するように私から言ってほしいという話。 自分も、同様のことを日々感じてはいたので、その人の言いたいこともよく分かります(その人は、若干腹を立てていた)。 たぶんその場ですぐ相手に注意したら、感情的になって怒ってしまうと思い、自分が言うより私に言ってもらった方がいいと判断したんだと思いました。 そのやりとりを聞いていた周囲の人たちも、 「そうそう、わかるわかる」「もうここらで、ガツンと言った方がいいよ」 と共感し合い、ますます私に責任がかかってくるような雰囲気になってしまいました。 あー、ガツンとね・・・言えるかな、私。 確かに、注意するって苦手だ。 相手から良く思われたいというのがあるからだと思うし、そもそもいずれ困るのは本人だ、くらいに思っていてほっときたい、というのもある。 でも、みんなが注意したり、改善策を考えたりしているときに自分はどうだったのだろうと考えると、どこか他人事だった。 自分のやり方で接していくから、とここで、●自分の方が正しい、のパターンがあるなと思いました。 結局今回は、純粋にその人に注意すべき点(改善できたらその人にとって良いと思える点)を伝えることに徹してみました。 そのときの様子(結果)を報告をすると、私がどういうふうに注意したかという内容よりも、 どうしてその人がそうなっているのかということを、私から聞きたかったんだと思いました。 私に言ってもらって、はい終わりではなく、私の考えを知りたかったのだ。 この出来事で、もしかしたら自分はこれまで、自分の考えとか、どうしてそういう行動をとったのかとか、あまり話さずきていたのかもしれないと感じました。 言わなければわからないことですから、 そういう話を周囲にしてこなかったために、今日のようなお願いをされたのだと・・・ ●自分の方が正しい、があると、 そっちのやり方は良くないよと思っている、上から目線ですよね。 自分のやり方の方が正しいと思っているわけですから、相手には言ってもわからないことだという考

他人の成長から、自分を考える

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今までは、注意されたこと指摘されたことには極力ふれず、さらーっと流してきた人が、 何度もそこがあなたの弱点だと、流さないようにと言われ続けて、そうなのかなあと向き合い始める。 向き合うことがどういうことなのか、よくわからなかったとしても、 他人の言葉に耳を傾け、自分の弱点を自覚し、あれ?っと思いはじめると、それはその人の強味へと変身していく。 言われたことを、ちゃんと立ち止まって受け入れる力がついていく・・・ これができるようになるって、すごいです。 またさらに、注意されたときに、ありがとうと言えたり、 指摘されたときに、もっとそれがどういうことなのか知りたいと聞いてみたり、 思うだけではなく、行動できた自分に確かな自信も生まれる。 今より少しでも成長したい、そう思っているからそれができるのか。 自然と他人の言葉が素直に入ってくるようになったからなのか。 どちらもあるのでしょうが、 こういう場合、『自分はそんなに正しくはない』という謙虚さ、寛容な姿勢がその人にあるからだと感じます。 そう言えば、最近他人から注意されたこと指摘されたことってあったかなと考えてみるのですが、たぶん何かあったような気はするのですが、具体的に思い出せない。 もし、されているのに忘れているとしたら、自分が正しいという前提でこのところいたのではないかと思う。 そうだと、他人の言葉って入ってこないですね(聞こえていなーい)。 ●自分の方が正しい、というパターンが暴れていないから居ないというわけでもない。 パターンのゆるぎない思い込みで、自分が正しいのだから迷うことはない、という落ち着きを払っている状態だということもあります。 この落ち着き(勘違い)が、他人の言葉に耳を傾けるときの『壁』となっているのかもしれない。 自分は正しい、間違っていない、分かっている、だから他人が何を言っていても、はいはいはい・・・という感じに(はいは、一回で)。 成長をしたその人と、今の自分との違いは何だろうと考えたくなりました。 他人の成長をきっかけに、自分のパターンについて考えてみる、というのはこれまであまりなかったことでした。 明日は、自分に向けられる周りの声に耳を傾けて一日を過ごしてみよう。

甘い誘惑の習慣

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夫の治療の一環として、食事指導を受けてきました。 思ったよりは、今の食生活をガラッと変えなくてもいいような印象だったのですが(塩分とか食べているものの種類とか)、 一番これはつらいかなあ~と思うことは、夕食後に食べる甘いもの系(夕食後だけに限っていないが)。 夫は、お酒は一滴も飲めませんが、甘いものは大、大、大・・・大好物なのです。 私にとっても、TVを見て、甘いものを食べて、他愛のないおしゃべりをする今宵のひとときは、くつろぎの時間でもありました。 ちょっとだけ食べてもいいような、体の負担にならないものを何か考えてあげたい。 習慣を変えるって、簡単ではない。 特に、これまでそれで幸せを感じていたとか、楽だったとか、好きだったと思うことであれば、 それを捨ててでも叶えたい、ってよっぽどな事態。 この先の人生、やりたいことをやるための肉体、それを守るために捨てる・・・そういう強い意志が夫にあるかどうかわかりませんが、 こんなに身近な人が、習慣を変えようとがんばっている姿を見ていると(まだ今日、はじまったばかりだが)、 あまり弁当を作らなかったことも反省し、なるべく家で作ったものを食べさせたいなと思いました。 そして、コンビニのデザートがいくら美味しいからといって、わざわざ夜コンビニに買いに出かけるなんて・・・ これこそ、考えよう。 50代に入って、肉体の変化は大きいですね。 そして、肉体に対する考え方、捉え方も変わってきました。 『健康』っていつまでも元気なこと、疲れにくい体とか、病気のない体とかいうものでしたが、 そこまででなくてもいいから、それなりに体を動かして、自分ができる労わり方がいつもできて、疲れたあといいながら少しずつ回復していく体であればいい。 『健康』とは、老化や劣化のある肉体を労われる、健やかな心にあると感じます。 体なんだけど、心・・・ 60代、70代となっていったら、どんな『健康』を叶えるのだろう。

発信することに慣れたい

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これまではなかった、初めて体験する仕事がありました。 ある企業研修で、一時間ほどお話をする機会をいただきました。 今年の目標にも掲げた『発信していくこと』 去年の後半あたりから、これからの自分にとって、それがとても大切になってくることを感じていたので、 願うとチャンスはこんなにも早くやってくるのか、と願った超本人なのに、いざ現実を前に腰が引けていた自分がいました。 話す内容を何度も何度も直しながら、時間を計り、練習をしてきました。 当日の緊張は、もう目にみえていたので、準備だけはこれ以上できないと思うくらいやりきって行こうと思いました。 それでも、かなり声は震え裏返り、表情はどうだったのかなあ 最後の方は、私の体が動くという癖が出てしまい、たぶん揺れながら話していたと思います(直立不動って難しい)。 慣れていないことをすると、自分の使っていない部分がとても鍛えられます。 発信していくことの責任でより勉強もするし、 非言語のコミュニケーションのとり方とか、 下手でも何でもまずは一生懸命伝えることの大事さ(伝えることに集中)など、 本当にいろんなことが試された。 まさかの(いえ、もしかしたらとは思っていたが)パソコンがなかなかつながらない・・・という開始早々のハプニングもあり、ますます焦りながら、 何とか終えたときは、また反省点がたくさん出てきました。 初めてだったんだから、あれが精一杯だったよねー、とは思えませんでした。 私の後に話した人は、なんとまあ場慣れした話し方で。 自分の緊張と、たぶん肩に力の入ったであろう感じが滑稽に思えてしまいました。 これって、緊張することではなかったんだ・・・ もっと自分が楽しんで良かったんだと、自分自身が創り出した緊張の場であったことがわかりました。 緊張が悪く、場慣れすることがいい、というものではないと思いますが、 ここは今の自分には必要過程で、慣れながら自分の表現ができるようになりたいです。 チャンスをいただいたこと、天に感謝し、 次も、ぜひ宜しくお願い致します・・・と願いました。