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1月, 2022の投稿を表示しています

顔のシミ

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鼻の横のあたりに小豆3個分くらいのシミがあったのですが、 突然痒くなったと思ったらあっという間に赤く腫れあがってしまいました。 その後、悪性なものではないらしく、薬で一旦は治ったのですが、 以前よりもシミが濃くなって目立つようになってしまいました。 顔のほぼ真ん中にあるシミ・・・ 鏡を見るたびに、気になって気になって仕方がありません。 このシミを何とか薄くしたいと皮膚科に行って相談。 「レーザー治療で消えますよ」と言われ、 「えーーーー!これ消えるんですか!それでお願いします!」 と自分でも少し意外だったけど、その場で即答してしまいました。 レーザー治療は、思ったほど痛くはありませんでした。 パチンパチンとはじかれるような感じが何発かあって終了。 その後は大きな絆創膏を貼られ、 そうか、今日から絆創膏生活になるんだ・・・ と今ごろ気づくと同時に、マスクがなかったら大変なことになっていたなと思いました。 今日でレーザー治療から5日が経過。 「色が濃くなっても、びっくりしないでくださいね」と先生から言われた通り、 びっくりするくらい赤黒くなっています。 ここから2週間くらいでかさぶたになって剥がれ落ちるらしいのですが、 本当にそうなるんだろうか? ちょっと信じがたいほど、不安な見た目になっています。 それにしても絆創膏がデカい。 治療後はやけどのような感じになっているので、触らないようにしておかなければなりません。 何かのひょうしにマスクを外すと、 ん??? このまぬけな顔を見てしまった相手と、 見てはいけないものを見てしまったかのような空気が漂うのを感じてしまいます。 さらにこのタイミングで、来週受講する研修に必要な顔写真を撮らなければならず、 なんで治療する前に写真を撮っておかなかったのか・・・ 普段の行い(動くまで遅い)がこういう時に出るのでしょうね。 むかしむかし、祖母から、 「面疔(顔の真ん中に手をあてて手で隠れる範囲のところ)はいじってはいけないよ。跡が残るからね」 と言われたことを思い出します。 その言い伝えを、子どもの頃からちゃんと守ってきて、 どんなにニキビをつぶしたくなっても我慢し続けた10代。 面疔なんだからさわってはいけない、 そんなことをしては大変なことになると信じて疑わなかったのに、 なのに、さわるどころかレーザービームをかけてしまった・・・

純粋な心

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毎日お寒い日が続いていますが、 皆さまいかがお過ごしでしょうか。 久しぶりによく晴れた休日の朝、 窓から見える真っ白い山々を見ていたら「遠野に行きたい!」 思い立ったが吉日。 盛岡から車で約一時間半くらいのところにあります 『こども本の森 遠野』 に行ってきました。 まあなんと、この図書館は見るにも読むにも過ごすにも素晴らしい場所です。 元は老舗呉服三田屋さんだった建物を改築し、 町家風情をそのまま生かした空間は、宿場町だった遠野の街並みにもしっくりきます。 当時の梁(はり)や柱も使われ、電気配線の白いがいしも残されてありました。 靴を脱いであがるので、 はじめて田舎のおばあちゃんちに行った子どものように、 こっちに行くと何があるのかなって、家の中を探検するような感じもあります。 あの安藤忠雄さんが手掛けたというだけあって、 民話が多くある遠野にふさわしいまさに創造力と想像力がかきたてられる空間でした。 天井まで高く並んだカラフルな本たち。 どんな本に出会えるのか、どきどきしながら森の中を見渡しながら歩く感じです。 子どもの頃大好きだった本、読んでみたかった本、装丁がきれいな本、タイトルに興味が注がれる本・・・ もう、わくわくがとまりません。 おとなと子どもの境界線って、好きなものの前では消えてしまうようです。 目をきらきらさせながら読みたい本を探し、 ページをめくる指の感触、紙のやさしい匂い、読み終えたときのぱたんと閉じた本の音、 そして新しい知識と、発見。 五感すべてでその『好き』を捉えているんですね。 そういうアナログな空間がなんとも気持ちよく・・・ たくさん本があって、何を手にしたらいいか迷ってしまうのですが、 ちゃんとわかりやすくテーマごとに本が分けてありますので、 視覚で捉えてもいいし、興味のあるテーマから探してもいいし、 気になる表紙を見つけては手に取り、気に入った場所で読むことができます。 自分を大事に、そして今より少しだけ楽に生きていくための、 やすらぎと気づきをあたえてくれる体験。 本能に根差したもの。 複雑さのない、わかりやすくシンプルなもの。 子どもが喜ぶものには、誰しも昔は子どもだったその純粋な部分が反応してしまうのかなと思いました。 子どものため・・・は、 実は子どもの純真さを思い出すことが下手になったおとなのためでもあるかもしれません。

安心と不安

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先日、知人がサプリメントがやめられないと言っていました。 どうして飲んでいるかといえば、飲むとなんだかとても安心するそうです。 安心できるのなら、それはその方に合っている、良いものなんだと思います。 ただ、続けてみて良かったというものには次の段階として、 じゃあ、それを飲まないとどうなるの? もうそれが無いと私だめなんだろうか、という壁にぶつかってしまうこともあります。 自分も体調不良のときに、サプリメントに助けられたことがあったので、 これさえ飲んでいれば大丈夫という安心感に包まれる感覚は、よくわかります。 これをしていれば大丈夫、というものって人それぞれ何かしらあるかもしれません。 今の自分にとっての安心は何だろう。 これは「もの」ではなかなか思いあたらないのですが・・・ やはり、自分自身をじっくりみていくということが、 なんだかんだ言って自分を一番安らかに穏やかに、安心させることにつながっているのかもしれないなー と思いました(やっぱりここにたどり着く)。 安心と不安は、真逆な意味を持つもののはずですが、 この違いが昔のようにはっきりと分かれたもの、差があるもの、いいこと悪いこと、幸せと不幸せ、 という感じではなくなってきたように感じます。 安心と不安というつながっている一つの輪を、実はぐるぐる回っているだけの感じもあります。 もちろん不安でいるよりは安心できた方がいいのだけれど、安心ばかり求めていくと、 安心したいはずなのに、その安心を失うことに大きな不安を感じ、 その不安が無い状態を保とうと意識していくように思うのです。 だから不安になっていないかという自分を意識することで、 心は緊張し警戒しかえって休まることがない状態だったりします。 ほっとした~という感覚は、不安だったからこそ味わえる感覚でもあるから、 いつも不安がある人は、何か自分をほっとさせてくれることはないかと、 日常の中にいつも求めたくなってしまう・・・ということはあるのかもしれません。 そうなってくると・・・ 安心でも不安でも、もうどちらでも、今ある「それ」と共にいられるようになったら、 これはもう一番楽なことなのだと思います。 そこに至るまでの自分のケアとして、自分自身をみる・・・ということなのだ。 不安でたまらないとき、不安を感じているパターン(自分自身)を観察します。 じーっと包みこむ

記録の中のパターン

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先日、仕事で過去の記録を取り出すことがありました。 自分がどんなことを書いていたのかさかのぼって読んでみると、 気づいたことがありました。 自分で書いたものは、自分が感じた内容になっているということ。 あたり前なんだけどー でもそれがちょっとあんまりな文章で笑えてしまいました。 事実を時系列に簡潔にわかりやすく記録する。 それはわかっていたつもりでしたが、 自分が書いたものって、後から読むと何だか視点がずれているようなものもあったり、 結構余計な情報が多いんじゃないかと思うものもありました。 事実も確かに書かれてはいますが、 そこに互いの感情の記録が必ず書かれてあり、 これは自分が物事のどこに注目してしまいがちなのか、ということが記録を読んでいくとよくわかります。 自分の中で感じるだけに終わらず、書き留めてしまう・・・ というのは~、 書かずにはいられない、自分のパターンがこの時あったんだなと思いました。 例えば、こういう発言やこういう表情、この後のこれこれこういう言動などから、 「このように○○さんは感じていた様子」というようなことが書かれてあるものがありました。 コミュニケーションが苦手な方もいるので、 気持ちを聞いて、的確に表現できるかといえばそうではない場合もあり、 あくまでこれまで自分が見聞きしてきたことをふまえて、今の印象、ということになります。 相手に対しての印象も同じように、細かいしぐさなど描写している箇所もありました。 どうしても自分の目がいって仕方ない・・・という自分のこだわりポイントがあるんだなあ。 記録一つで、 自分がどこの部分に注目していて、どこの部分がさほど重要ではないと思っているかがわかります。 誰が書くかによって、事実は一つであるかのように思いますが、 自分が感じる事実と他の人が見ている事実は違うことがあります。 いろんな捉え方があるので、いろんな人が読む記録ってむずかしいです。 出てきたパターンを都度、ケアできていたとしたら、 もう少したんたんとした内容になるような気がするし、 感情のところを書くというのは、自分のパターンの視点になって書いているため、 気をつけていかなければと思いました。 このとき自分はこんなパターンを持っていたから、こう感じたんだなと、 まさか仕事上の記録をみて、自分のパターンの歴史を読むことになるとは・・・ 今

受け容れて聴く

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岩手の冬を味わうような今年初のセミナー。 道路も凍って、いかに先生を骨折させず(転んだらもうやばい)に歩いてもらうか・・・ 見ている方ははらはらでした。 毎回思うことですが、 心のからくりを知って、それぞれの学びを見聞きすることができて、 さらに新しいものを教わる・・・その一連の喜び。 このような喜びというのはすぐには感じられず、 凍てつく寒さの中の帰り道(といっても運転しているんだが)、 後からありがたさがじわじわとこみあげてきます。 セミナーでは、参加者一人一人の近況報告からはじまるのですが、 今回は、もしみんなが自分のクライアントさんだったら? と想像しながら一人一人の話を聴いてみました。 どうしてそんなことをしてみたかというと、 この時間に時々引っかかるパターンがあったなと思い出したからです。 そのパターンがまた表れるのかどうか、 どういう姿勢でのぞんだら、そのパターンに振り回されずに話を聴けるのだろうかと考えます。 何に引っかかり、どう感じて、それは何の黒パターンで、語りかけはどうやったのか? その後どんな白をつくり、どんな行動をとり、自分としてはどんな感想があったのか? それを早く聴きたいというせかせかする自分(パターン)がいます。 状況説明が長ければ長いほど、 その説明いる?とつっこむパターンの声もあり。 要は、自分が知りたいことだけ聴きたいと思ってしまうのです(みんな、ごめん・・・)。 でも、話す側にしてみれば、 その説明がしたいからしている、というところで、なぜそういう話し方になってしまうのか? その心情がそこに含まれている、表れているのかなとふと感じました。 話す側の、知ってほしい、理解してほしい、共感してほしい、助けてほしい・・・ という気持ちが、内容だけでなく話し方、間の取り方、言葉の選び方、 全てに表れてくるのだと感じました(上手下手とかではなく)。 他にも自分であったら、 こんな大変なことがあったと知らしめたいから説明が長くなる、もあるかもしれないし、 ケアをしていないから他の部分の話をするしかない、ということもあるかもしれません。 いつも自分はノートを開き、ペンを握りながらすぐに大事なことを書ける体勢で聴いているのですが、 全部を感じ取るために、 いつもよりも手元には目を向けず、顔や全身を見てみました(たまに宙を見る)。 すると、やはり

黒を選びたがっている

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前回の日記 のつづきです。 早く解決したい、なんとかしなければならない、という気持ちの裏側には、 そうしなければ今度は自分が責められる、自分の不甲斐なさが目立ってしまう、 とそこを恐れるパターンが潜んでいました。 少しでも早く両者にとって(この場合対象者が二人いるため)よいきざしが見えてこなければ、 間を取り持つ自分の力不足でそうなってしまったのではないか・・・ と思われてしまうかもしれない。 そんな非難を浴びるのは絶対に嫌だと、責められるのが怖くて仕方なかったのです。 黒を選びたがる自分には、 『責められる』ということに対して、自分だけはそうあってはならないという、 責められることを自分にゆるしていけない、という頑なな思いが顔を出します。 お互いがもめるのは仕方がないにせよ、それが解決されない原因が自分にあってはならないのだ。 対応の完璧さを求めているわけではないのだけれど、 自分が原因で事態を悪化させたくない、と思う気持ちがとても強いのです。 恐怖心、不安感、緊張、あせり、喉の奥が苦しくなる感覚・・・ それらを感じ取ることで、 責められないうちに早く解決したいというパターンが自分の中にいるんだと、 語りかけをしていくと感じます。 もしも、結果的に責められたとしても、 お互いの話をよく聴いて、それぞれの状況が理解できて、 どんな気持ちでいるのかを本当に深いところで理解できたら・・・ その結果で(言いにくいことを言うという行動をとることなのかもしれないが)責められたとしても、 本当の「私」ならば、責められた原因が自分にあってもいいと思うのではないかと、 むしろ、そうなったとき何が自分の中で起きるのか見てみたいと思いました。 例えば、「ああ、言わなければよかった」 と思うのかどうか、ということ。 白パターンを選ぶということは心がふわっと軽くなること。 今ある心の重さから解放されるということです。 『解放される』という白を選びたい自分は、 責められないうちに早く解決したいと思う黒パターンがとっている行動、 『そこから解放されたい』となんら変わらないような気がします。 黒から白を選ぶ動機がこれであるうちは、まだ黒のままでいたいのだと感じました。 こうしてケアをしている間にも、時間は経ち、事態は変わらず(むしろ悪化している?)・・・ でも焦らないで自分の内を見ていこうと思い

疲れの原因

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ううう、疲れた・・・ 家に帰ると、頭も体も心も全身が限界に達したかのように疲れきってしまい、 このものすごい疲れの原因は何なんだろうと考えました。 まずすぐに思いつくのは、自分の本意ではないことをしていたときに、大抵こうなります。 苦情の対応が続き、 対応している自分自身も、どうしたらいいのかわからないので困っているという状態。 後から思ったことは、問題に打ちのめされ、 それ以前にやるべき、相手の話をちゃんと聴くことができていなかったんじゃないかと感じました。 もう少しゆっくりと、丁寧に、時間をかけ、小さな疑問、あいまいさを質問し、 自分の心に引っかかったところを丁寧に拾いながら聴いていけたらよかったのに・・・ と思った。 あとの祭りになってしまいましたが、 なぜそんな風にちゃんと聴くということができていなかったのだろうと考えると、 自分の中に、●早く解決をしなければならない、というパターンがいたのだと思います。 苦情であるから早く解決をするのはあたりまえ。 ・・・それはそうなんだけれど、 話の根っこがなかなか見えてこなかったというか、 なぜそこまでのことを言うんだろうという部分が、自分には感じ取れていなかったように思いました。 だから、お互いにとってのいい方法、というのが見えてこなかったのかもしれません。 だからこそ、話をよく聴いて、そこを感じ取って対応できたらよかったのに、 途中からもう、 無事に決着ついてめでたしめでたしと早くなってほしい自分がいたのだと思う。 パターンは決着をつけることに向けて急ぎだし、 でも相手は、深いところでの共感を得られていないと感じていたのか、 なかなか気持ちが動かず・・・ そして、(自分の)パターンと(相手の)パターンのぶつかり合いとなってしまった。 これは本当に疲れます。 まるで狭い空間(世界)の中にいて、 話せば話すほど酸欠になっていくような感覚でした(実際に頭も痛くなった)。 身体も反応するくらい、なんとも強引だったんだなあと反省。 言葉だけ聞けば、もっともらしいことを自分は言っていたかもしれません。 でも、本当に自分が大事にしたいと思うことを大事にしないでいることの、 このダメージはこんなにも大きいものかと思い知らされた気がします。 しかも、自分だけでなく、相手にも影響があるのだと思うと、 気づいたときに勇気をもって違うもの

氏神様からのおことば

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今年のお正月も、ご近所の神社に参拝しお札を買いました。 家に着いて早速神棚へ祀ろうと思ったら、 な、な、なんとお札が2枚重なっていたのです。 もう~~~、まさかのびっくり。 返しに行ったらいいものか、 さてこのお札どうしよう・・・と悩んだ結果。 神様へ返すというのもなんだかなあと思い、 そのまま自分の家の神棚と、実家の神棚にそれぞれありがたく祀らせていただいています。 父がホームに入ってから実家の神棚も手つかずのままだったのですが、 大晦日に何となく掃除でもしようかと思い、お神酒もあげてちょうど拝めるようにしてありました。 昔はよく、しめ縄飾りも父と一緒に作ったものでしたが、そこまでは新調できず。 それでも何年ぶりかで準備が整ったところでお札を神様からいただいた、ということになりました。 また、毎年お参りしていた神社なのに、 今まで一度も目に入らなかった『天満宮』と書かれたお札。 手に取ると、 「こちらは学問の神様になりますよ」と言われこちらをいただいたのでした。 なるほど、受験生だったらこっちの神様なんだ。 恥ずかしながら、この歳にして天満宮の意味さえも知らず・・・ そして、ある試験を今年受けようかどうか迷っていた自分は、このお札が目に入ったことで、 もう受けるしかないなと覚悟を決めました(しかも2枚いただいたのだし)。 このような偶然を『縁』だと、 自分に都合よく捉えるということでいいかな、と思いました。 おみくじの方はというと、小吉。 学問:甘く考えてはならぬ うーん、やっぱしそうか。 この言葉も心にしかと刻みながら勉強していこう。

心と行動の一致

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心の深いところで感じているものをどんなに隠そうとしても、 自分の取った行動をふりかえると、 本当は何を感じていたのかがわかるときがあります。 周囲に心の内を悟られたくないと思っていても、 そう思えば思うほどに自分にとってはぎこちなく、 動きの些細なところに表れてしまっているのではないかと思うのです。 選択肢がいろいろある中で、 今は何を選び、どんな環境や状況を自分から作りだそうとするのか。 (または、与えられたものの中でするのか) 何をしたら、心の内と行動がちぐはぐなものにはならずに一致していくのか。 ここの一致性は今となれば、何をするにも本当に大切な指針となっているように思います。 でも時には、 「本当は~したくない(したい)」があって、 どうしても白黒はっきりさせられない、というときもあります。 こういう場合、自分の心が中心にはなっておらず、 これをしたらどう思われるだろうか、という周囲からの視点に気が向いてしまっているときなのです。 人の目を気にしながらずーっと生きてきた人ほど(←自分)、 心と行動を一致させるって簡単には言うけれど実際は大変なことだし、 ごまかさないというのは勇気がいることなのだと思う。 パターンへの語りかけやワークというものは、 その一致しない葛藤に対して、自分が今葛藤していることを理解することからはじまるのだと思います。 葛藤する、違和感を感じる、何だかよくわからない気持ち悪さを感じる、 そこを感じれるということは、 ある意味自分の本心を探るきっかけとなってくれているので、 これはこれであっていい感情なんだと思います。 一見、悪いものと分類されそうな感情も、 これがあってこそ自分はここから脱したいと願い、ワークを続けられたように思います。 でも、やってみると、 そういう気持ち悪さ以上に、 心と行動がピタッと一致したときのあの心が軽くなる感じと世界が広がる感覚は、 本来人が生まれもった神聖な感覚であって、誰しもそこから全てがはじまっているように感じます。 ということで・・・ 今年もコツコツと自分のケアをしていくことには何ら変わりなく・・・。 心にピタッとくる行動を日々増やしていきたいです。

2022年スタート

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新年あけましておめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願い致します。 『きぐるみの中の私』も少しイメージチェンジさせていただきました。 大晦日は、娘と母との3人で実家で年越しをしました。 母の大好きなカレイの煮付けと(やはり母の味には叶わない)、 自分が大好きなホヤ酢をつくり、 娘の大好きなとろろとイクラをのせたお蕎麦も用意し、 ささやかながら、みんながそれぞれに食べたいものを食べれてよかったなあと思いました。 「みんなで食べると美味しいね」という母のことばに、 こうしてこれからも自分のできること、 みんなが嬉しいことを楽しみながらやっていったらいいんだなあ、って思います。 先日放送を終えた大河ドラマ『青天を衝け』の一場面で、 渋沢栄一の母が言った言葉、 「あんたが嬉しいだけじゃなくて、みんなが嬉しいのが一番なんだで」 本当にそうありたいと願う年明け。 一番身近にいる人を大切にする。 何度となく聞くことばですが、忘れがちになったり過剰になったり・・・ 自己満足でやってきたことをもう一歩前進し、全体を見渡す目を持っていきたい。 これまで学んできたことを、大事な人たちへも返していきたいし、 まだまだ自信はありませんが、 いつかパターンが嫌う相手に対しても、その人の為になる何かを、 自分が関わる縁ある人たちに向けてすることができたらいいなあと思います。 自分が嬉しくて、楽しくて、感動するもの、 楽に生きられると思うこと、ありのままでいいと思えること、 本当によかったなあと思えることを、 自分だけの喜びと学びだけに終わらせずに、ほんの少しでも広げていきたいです。