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もう一度思い出す

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同じ景色を見ていても、 毎日、全く違うものが見えていて感じています。 自分の世界とは、そのときの自分だけが見えているものなのだと思います。 らせんの上を歩くように人が成長していくとしたら、 以前にもこんな悩みがあったなあと思うときも、 以前と全く同じ場所にいるということではない。 これまで歩いてきたらせんの上の、新たなこの地点での悩み。 以前よりももっと、 今の自分に必要なものが用意されているとわかる感じがあります。 その「わかる」を感じてみる。 悩んでいるときは、 そこには明らかに引っかかっているパターンがあります。 そのパターンは、これまで何度も顔を出してはケアしてきたものだったりします。 ずーっとそこにいたパターン。 ●自分をわかってほしい 〇自分をわからなくていい わかってもらう、わかってもらえない、という世界ではないところにいこう。 もうここから自由になっていこう。 それを「私」は感じて選ぶ。 もう一度思い出す。 本当の「私」が選びたいものをちゃんと感じて、 そうしてやってきた自分を確認していこう。 食後のプリン

雪の魅力

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今日は、骨董品を見に出かけてきました。 雪の結晶や雪輪(ゆきわ)と呼ばれる模様の入った、 着物や短刀、茶道具や生活用品がずらーっと並んでありました。 博物館のガラスケース越しにしか見れないような貴重な品々。 この道50年以上の収集家高橋雪人さんのはからいで、特別手に取って見ることができました。 雪人さんのお父様は、高橋喜平さんといって岩手では有名な雪崩研究家でエッセイスト。 私も喜平さんの雪の写真集が大好きでした。 雪の模様って、可愛らしくとても美しい。 形もいろいろで、こんなところにも雪が!と見つけていく楽しさもありました。 こんなにときめきながら描かれた雪を探したことはありません。 何百年も前に誰かが使っていた道具。 持ち主もまた、時にうっとりとしながらこの雪模様を眺めたりしていたのかなあ。 雪の結晶は、顕微鏡が外国から入ってきた江戸時代に証明されたものだそうで、 それ以前の平安時代の頃から人々は雪のことを「六花」と呼び、 花鳥風月と並び描かれてきたそうです。 それら(約50種類もの図案)が並ぶと、まるで家紋のようなかっこよさもありました。 特に、雪輪は、雪が降ってきて植物などに積もったときの、 あのふんわり雪が乗っかるさまを図案化したもので、 雪の結晶のような(雪印マークを思い出す)凛とした感じとは違い、 ふんわり感がなんともいえない親しみを感じます。 今年の冬は、本当に暖かく雪が全然積もらないので楽なんですが、 当時の生活に雪は「降ると大変なもの」ではなく、 「必要なもの 心を豊かにするもの」だったんだなあと思いました。 雪の下で甘くなるキャベツ、大根、白菜などの野菜もあるし、 飲み水としてももちろん、生活には欠かせないもの。 今とはだいぶ雪に対する見方が違っていたのではないかと思います。 写真を撮っていいものかどうか、 手に取るものがあまりに貴重すぎて、最後までなんだか聞けませんでした(もしかしてマナー違反なんだろうか?と)。 そこにいた皆さんがそうでしたので、 タイムスリップしたあの中でだけ楽しむ。 そんな贅沢な時間だったのかなと思います。 唯一撮った写真は、おやつにご馳走になった黒糖胡桃が入ったお餅。 何気ないこの漆塗りのお皿も、 なんと100年以上前のものだそうです!レコードじゃないですよ~ これから骨董品を見たら、雪模様を探してしまいそうです。 柏

だれを責めるかの違い

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自分を責めることも、他人を責めることも、 だれを責めているか?の対象の違いだけで、 起きていること(していること)は同じなのかもしれません。 自分を責めるというのは、 そんな自分であってはならないという、 それを許さないと決めている、頑ななものが心の中にあります。 だから、自分を懲らしめ責めなければならないのです。 他人を責める場合も、 自分を許せないことから始まっています。 無能な自分、できない自分、さえないパッとしない自分が嫌で、 そんな自分の中にある大嫌いなものが、他人を通して感じてしまうと、 自分自身(←これ、パターン)は耐えられなくなってしまうのです。 だから、他人を責めるという行為で、代わりに自分を責めている。 だから、あの人のこういうところが許せない、嫌だ、ムカつくという時、 ほとんどが、自分の中にも同じようなところがあって、 手を変え品を変えそんな自分ではないと隠してはいるのですが、 結局自分が許せていないので、他人の中にそれを見るなり反応してしまうのです。 もしも、自分のそういう許せない部分があるということを少しずつ理解し、 許せないということを明らかにさせていくことができれば、 それ自体がすでに許そうとしている行為であり、 「許せる」ことに意識が向けられ状況が変わり始めます。 自分の中に許されて存在しているものは、 他人の中にそれが見えても、やはりそこにあっていいと思えるようになる。 存在していることが気にならなくなる。 他人の中にあるそれももう責める必要はなくなってくるだと思います。 少しややこしい話になりましたが・・・ 自分にないものは相手の中にも見えず、 また、自分にあるものは、相手の中にもそれを見つけることができる。 久々に雪、降りました

いくらか、ましに

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今、父の関係の諸々の手続きをしているのですが、 我ながらあきれてしまうほど、抜けてるな~と思います。 仕事の合間に休みをもらいながらですので、 あちこち出向いては最短の時間でできれば終わらせたいのですが、 なかなか終わりません・・・ その原因が自分にあると、もう確信してます。 本来、性格というか気質というか、 おっちょこちょいなんですね(少し可愛らしく言うと)。 いろいろ考えているわりには、いや考えているからこそ? 注意力が欠け抜け落ちるのだと思います。 一つに集中すると何かを忘れている・・・ということが多い。 先日も、免許証をコピーしてそのままコピー機に置いてきたり、 証明書は写しでもよかったのに、何枚も購入してしまったり(もったいなかった!)、 たくさん書いた書類のハンコが間違えていたり(はい、やり直し~)、 もう本当にあきれます。 これもみな、今始まったことではないし、 小さい頃からいろんなものを忘れ、失くし、間違え、怒られてきました。 ずーっとこんな調子だったなあと思い出す。 それでも、いくらかましになっている部分もあります。 スムーズにできていないことは、 誰のせいでもなく自分がしたことという認識です。 (抜けるという部分は、残念ながらほぼ変わっていないが) 教えてもらわなかったから、相手がミスしたから、不親切にされたからこうなった、 という他人のせいにして苛立つことがなくなっているなと思いました。 以前は、自分のおっちょこちょいを棚にあげて、 こうなるのは周りも悪い的な感じが常にありました。 自分も反省するけれど、あの人のあれも悪い・・・みたいに。 できないことを素直に認めたくないパターンが強かったのです。 だからこの苛立たなくなったというのは、ちょっとうれしい変化。 まだまだ手続き関係は続きます。 そして、完了したとしても、 誰にも何もほめられもしないこと・・・というのがまたポイント。 誰にもほめられないという、これこそが、自分には必要な経験なのです。 いかにも、自分、やってます~すごいでしょ~大変だったんだから~ というところではないところでやる、という経験。 そして、できる限り注意力もあきらめずに育てたいところです。 自分にしかわからない達成感を目指して、 また頑張ってやっていこう。 甘すぎないケーキ(ちひろ)最高!

過去の自分を見る

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これからどうありたいのかを考える時、 じゃあ、今までの自分はどんなだったのか? 自分のやってきたことを明らかにしていくことも大切だと感じました。 過去はもう関係ない・・・のではなく、 なぜそういう自分であったのか、 認めたくない部分や、自分が悪かったとは思いたくない部分、 間違っていたと他人から思われたくない部分など、 必ず過去にはそういう見たくないところがあるのです。 何となくそうしてきたというものでさえ、 ちゃんと深く丁寧に見ていくと、そこには恐怖と不安があったりします。 その恐怖と不安から逃れるために、 感じないように、また深く考えないようにしてきたのだと思います。 でも本当は、何かは感じていて、 どうにかしたいと思っていることはたくさんあるのです。 勇気がないから(という理由をつけて)やらなかったことや、 他人へばれるのが嫌でわかったふりをしていたことなど、 もうそんな自分ではいたくないと思っているのです。 人はなぜか、どこまでも自分を正統化しようとします。 できれば間違っていないと、仕方なかったんだと思いたいところがある。 また、自分自身を責めることも得意。 責めて責めて、何か許しでももらいたいと思っているのか、 自分を卑下するのも保身。 そんな弱い自分であることを、もう隠さなくてもいい。 怖かったから、不安だったから、 だから自分をちゃんと見ることができなかったと認めていいのです。 もうそこではないあり方をしたいのなら、 もっと強烈に、過去の自分は嫌だ!って思わなければ変わりません。 もうわかったふりをしなくてもいいのだ。 わからない時は、自分は本当は何一つわかっていないんだと言っていい。 全然わかっていない自分を明らかにして、そして見ていこう。 どんな気持ちも全てわかってあげられるのは「私」だけです。 これからどうありたいのかを考えるのなら、 どうありたくないのか(これは絶対嫌なんだー!!) こっちも心に刻んでいきたいと思いました。 フリマで、焼き魚皿買った

自分だからやる

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なんでこんなこと、自分がやらなければならないんだ・・・ って思う時、 他の人ではなく、なんで自分だったのかの理由を考えてため息をついていたりします。 そこに納得ができなかったり、 納得できたとしても、 だとしても自分じゃなくたっていいはずだと考えます。 最近、こういうところに頭を使うことが本当に嫌だなあと感じます。 いつまでも気が重いというのが嫌なのです。 そんな時、 自分だからこそこれをするんだ、自分はそれをやるに値する人間なんだって考えるようにしています。 そうすると大抵のことは、まあやってもいいかと思えるような、できないことはないことが多い。 この考え方、結構気に入っていて、 もうなんで自分がやらなきゃならないんだー! ってところから、 いや、自分しかいない! むしろ自分がやった方がいい! にガラッと変換されるところに気持ち良さを感じるのです。 なんでもう自分だけが・・・と思っている時は、 それをすることがすごく面倒だったり大変だったり、 苦手なことだったり、時間が取られる、疲れる、損をする・・・と決め込んでいるだけなのだと思います。 不満は不満を呼び、本当は大したことないことでも大変に感じ、 シンプルなことなのに複雑にしてしまうのでしょうね。 なんで自分がやるの?と思うのか、 自分だから、だからやろう!の違いは大きいです。 一旦決めると、 もうそこに「私」がはじめから準備万端で待っていたかのように、知恵と工夫が集結されます。 そしてだんだん自分を信頼するようになり、問題が起きてもそれもやろうって思えてきます。 そういう過程を楽しんでいけるのもいい。

依存する

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依存について意味付け(中立ワーク)を考えてみます。 マイナスの意味付けとしては・・・ 泥沼の関係、自力では抜け出せない、気づきにくいもの、苦しいもの、不幸なこと、弱い人がなるもの、寂しい人がなるもの、愛に飢えている人がなるもの、人として大事なものを見失っていく、それがないと生きていけない、破綻する、地獄を見る。 プラスの意味付けとしては・・・ その時の自分を助けてくれるもの、安心できるもの、支えてもらえるもの、頼れるもの、そこから始まるもの、一時的に必要なもの、人生を変えるもの、自分を知る材料、成長の材料。 そして、本来は中立としてそこにあるのは、 ただ一つの体験です。 いいも悪いも意味もなく、依存という体験があるだけ。 依存といえば、アルコール依存やギャンブル依存、 最近では薬物依存(簡単に手に入る市販薬とか)、ゲームやネット、スマホ依存もあります。 物ではなく、パートナーや子供、親への依存という場合は、 少なからずお互いにそうである場合が多いです。 依存症から抜け出せなくなって生活が成り立たなくなったり、 精神に支障をきたして入院したりと深刻なケースを見てきたこともあり、 いい意味では捉えていませんでした。 でもこうしてワークをしてみると、 プラスの意味付けも結構出てくる・・・。 それがあったからこそ、今があるということもあるだろうし、 そこにどっぷり漬かるということがあってはじめて、 真逆な世界に行きたいと思うのかもしれません。 子供のころはみな、母親依存ではないでしょうか。 親から好かれたい、愛してもらいたいと必死になったり、 自分が産まれてきたその体にしがみつき、体温を感じ、 安心感を得たいというのは自然なことでもあります。 依存があって、それがあってこそ自分の足で立とうとする・・・というのもありそうです。 オガール広場

サクッとした感じで

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アイーナではじめての、 こころのケア【はじめて講座】(ちょっとネーミング変えました) ご参加くださりありがとうございました。 少人数制です、とうたっているものの、 「え、これだけ(私だけ)ですか?」と毎回始まるときに言われております。 もはや講座というネーミングもどうなのかなと思いますが(ほぼマンツーマンですね)、 本来はカウンセリングの中でお伝えしていきたい内容でしたので、 しばらくこのスタイルでやっていきたいと思います。 3/2、3/17のオガールもどうぞお一人でも気軽にご参加いただけますので、よろしくお願い致します! 講座を受けていただくと、 こんな話、はじめて聞きました~・・・という感想を持たれる方が多いです。 はじめての話って、まずはよくわからないというのがあると思います。 そして、本当にそうなんだろうか?と疑ってみると思いますし、 そうは思わないとか、ピンとこないとかあって当然です。 私もはじめは、どの部分がよかったとか、 どの話にビビビッときたかなどまったくなく、 ただ何となく、「そうかもしれない・・・」という感じでした。 でもこの、なんだかそうかもな、という感じ。 日常で起きていることに対しての判断、選択も、 こんなふうな感じできているのかもしれません。 理由を深く考えたり、正しいのかそうではないのかと判断したり、 そういう理論めいた絶対という感じではなく、 なんとなくそうかも・・・いいかも・・・ みたいなサクッとした軽さで毎日が成り立っている。 それは「私」だけが知っている「私」の正解というか、 「私」が選んでみたいと思えることがやはり一番腑に落ちる、という感覚なのかもしれません。 今日は実家の片付けをしていましたが、 捨てるもの、残すものに分けていく作業が、思いのほかはかどりました。 片付けであっても、あれこれ考えるパターンではなく、 「私」でやることもできるのだと感じます。 触れた瞬間に、どうしたいかサクッと決める。 そばで見ていた母親から、 よくそんなに素早く仕分けられるわね~とほめてもらい(あまりに潔いから?)、 こういうところにも「私」が選ぶという習慣が現れるのかなと思いました。 講座に参加していただく方にも、 このサクッとした感覚を感じていただければいいなあと思います。 なんでバックが真っ黒になったのかがわからない!

自分を救う

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今年ももうひと月が過ぎました。 荒波にもまれながらものすごい勢いで、 変化することから避けられないところに突入している感じがあります。 本当に龍神が空を飛び交っていてもおかしくないくらい、 あちらこちらでいろいろなことが起こっています。 能登地震からもひと月が経ちました。 昨日まで普通にそこにあった日常、家族、友人たち。 そんなあたり前はまぼろし。 すべてがもう、明日には消えてなくなってしまうこともあるのだと知った。 無情でもあり、そのあたり前の日々に感謝をしたひと月だったと思います。 人を支えることができるのは人です。 でも、人を救うということは、人ではなく神の領域のようです。 救いたくても救えない。 それどころか、救ってはいけないものなのだと、 遥か昔に仏陀がそう教えを説いていました。 救ってはいけない・・・というのは、 今の私には理解が追いつかないのですが、 自分の人生は自分にしか生きられないということだと捉えています。 だから仏陀がしたことは、人々を救うためにしたのではなく、 自分で自分を救う、その方法だけを人々に説いていった。 そんな話を知った後に、 自分の心の中にあるパターンのことを思いました。 心のからくり(仕組み)を深く知っていくことは、 自分という人間がどんな人間であるかを知るということ。 どんな人間か・・・それはどんな闇を持っているのかということにもなります。 自分にしかわからない(いえ、自分でもわかっていない)、 深いその闇をこの学びで救っていけるのではないだろうか・・・と思いました。 そこにはさわやかな風が吹き、温かなまぶしい光がたくさん差しこみ、 真っ暗な道をやさしく照らしてくれます。 これが自分が歩く道だとわかり、 本当の「私」で生きられるようになっていくのだと思います。 自分で自分を救うことができれば、 そこからすべてが始まりすべてにつながっていく。 だから、自分を、「私」を、今日も磨いていこう。 岩手山にだけ雪

人と関わる仕事

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仕事柄、精神保健福祉士や看護師の方、 また支援者という肩書がついている方たちとよく話をします。 いろいろ大変な話の最後に、 でも、この仕事っておもしろいですよね~ってなるのですが、 これって共感しているようでそうではないかも、と思いました。 そのおもしろさとは、人に関わるところを言っているのだと思いますが、 もっと深く細かいところでは、 どこにどうおもしろさを感じているかは、人によって全く違うのではないかと感じます。 看護や支援がむずかしい人だからこそ、 その方の症状が安定してきたり、人とのトラブルがなくなったり、また仕事に就いたり、 以前よりもよい状態になっていることを確認して、 自分たちも幸せな気持ちになる(ほっとする)というのは当然あると思います。 でもその幸せとは、相手が望んでいること以上に自分が願う幸せのような気がします。 本当のところは本人にしかわからないけれど、 かたちとして、落ち着いていることが何となくいい感じということではないか、と。 落ち着いているというのは、 自分たちへの相談や訴えが減ったり、関わる時間が以前よりもなくなってきて、 つまりはサポートから遠のいていくというのが一つの目安かもしれません。 少し引っかかるところは、 自分も含め、人に頼られる、誰かをサポートするという仕事が、 その頼られることをどこか期待していたり、 サポートがその人の本当の望むものや、為になるものではない、 自己満足的なものとなってはいないかということです。 自分ではなく他の人を頼るようなった時に、少し寂しく感じたり、 頼られていないのに、ここを助けたい、サポートしたいと考えをめぐらせていたり、 相手の方がそうは受け取っていないとしても、 それを自分はやってしまってはないだろうか?と。 相手は関係なく自分の問題。 いつもいつも純粋な動機で仕事をするって本当にむずかしいなと思います。 また、動機に、自分を満たすためのものが入り混じっていたとしても、 結果的にその方の為になるということもあります。 その人にとっていいか悪いかは、極端に言えば人生最後の日までわからないですし、 どう感じているかは、ご本人もわかっていないかもしれません。 いわゆる『落ち着いている』という結果がすべてではなく、 全然落ち着いていないけれど、 本人が選択したことならそれでよかったんじゃないかって思

自分を主として考える

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人を嫌うことに抵抗を持つ方は少なくありません。 そう思うことはよくないことで、 その人をもっと嫌いになりそうで、 正直な気持ちを認めるというのはとても怖いことだと思っていました。 だから、一生懸命に、いいところもあるんですよ~とか、 すごく感謝しているんです~とか、 悪い人じゃないんですけどね~とかいろいろ言って、 嫌いだと自分は言い切っていないように保険をかけるのです。 こんな時、よくあるアドバイスに、 相手のいいところを見ましょう!というのがあります。 でも・・・ イヤだと思っている相手のいいところを見る? これにすごく違和感を感じたら(私はめちゃめちゃ感じた)、 自分には健全な心があると思って大丈夫です。 そもそも相手のいいところが冷静に見て理解できていたら、 こんなに苦しくはならないのです(それができないから困っている)。 相手のいいところを見ようと努力するのが悪いわけではありませんが、 それをやってしまうと、 自分の正直な気持ちに蓋されてしまうような気がします。 気持ちを無視して、頭で無理やりいいところを認めようとしても、 それはパフォーマンスでしかありません。 自分にとって本当のことが何なのかわからなくなってしまう。 それよりは、 この人がいることによって自分にどんないいことがあるのか? ここを考えてみたい。 あくまで自分にとってのプラス(利点)に注目してみる。 世間一般的に見たその人の長所ではなく、 あくまでも自分にとって、自分だけを対象として、自分に気づきを与えてくれるものは何なのか? これは損得勘定ではなく、自分を第一に、大事にするという視点なのだと思います。 例えば、私だったら、 嫌いだと思う人がいるから、自分という人間をより深く知ることができる。 これにつきます。 また、自分のパターンをケアする題材にもなってくれる、という利点があり、 自分のパイプの中にその人を入れない、という練習にもなります。 現実的には、その人と関わらずに済むように(何か言われないように)、 知恵と工夫と、何かを身につけるという努力も講じられるかもしれません。 自分を主とした見方になると、 自分はその人を介して、何を怖がっているのか、何が不安なのか。 嫌うことで自分を防御していたことも見えたりします。 自分をおびやかすものは何なのか? きっとそこに、 自分が最も見たくないも

性格について

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自分はどんな性格なのか? 性格というのは、 どんなパターンをもっているかによって、 どう感じやすく、どう考えがちで、行動はどうすることが多いのか。 それらが強いて言えば性格という表現になるのかなと思います。 パターンを知っていくと、 物事に対しての自分の傾向(考え方、捉え方の傾向)は何となくわかってきます。 反応の仕方もそうですし、反射的にとってしまう行動は、 考え方の癖がそうさせています。 自分はこういう性格なんだと言い切れない部分がそれです。 傾向=パターンがあるだけで、それをどうしたいのかが変わっていくからです。 パターンとは・・・ 小さい頃、親や身近な大人たちから言われてきたこと、影響を受けてきたこと、 また、育った環境や教育、つらい体験などから刷り込まれた考え方や捉え方の癖、価値観、思いこみ、こだわり、(自分だけの)常識、エゴなどを言います。 そのパターンが何であるのかはワークをしていくとわかりますが、 一つや二つではなく、いろいろなパターンを誰しも心の中で育てています。 そう・・・育てているのだ、今も。 本来は、本当の「私」には素晴らしい資質がたくさんあるのですが、 まだまだ「私」が未熟であるため(その存在すら実感がないため)、 パターンの勢力に押されて成長できずにいます。 でも、ここが実感として理解できると、 「私」の方に意識が向かい、使い、鍛え、育て、 自分の軸となってパターンを守り、自分自身を「私」が支えていくようになります。 親や他人のせいで、こんな性格になった! と思う方もいるかと思いますが、 それは、きっかけや出来事としては親や他人が生み出したものだったとしても、 それを自分で日々刷り込み、そこに注目し続け、 そこを拡大させるような行動パターンを取り続けてきたのは自分自身なのです。 そうは言っても、 そうしなければ生きてこれなかった、 そうすることで自分を保ってきた、ということもある。 選択が間違っていたということではありません。 ただ、いろいろなパターンが自分の心の中にあり(いいも悪いもなくある)、 その時「私」はどちらを選んできたのだろう・・・その結果が今の自分なのです。 そういう意味では、性格は変わります(きっぱり)! パターンは理解されることでそこに存在主張はなくなり、 パターンの大きさも内容そのものも変わっていきます。 こうだ!とい

感覚が教えてくれるもの

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お昼にナポリタンを食べた時、 アツアツでうっかり舌を焼いてしまいました。 出来立てなんだから熱いのは当然なのに、 早く食べたくて(しかも大口で)こうなってしまいました。 でも、ふと気づいたのですが、 ここのところずっと食欲がなかったのが、 舌を焼くほどの食い気が戻ってきた・・・という証拠。 昨日、恵方巻を食べたあたりから、 食べ物が美味しいと感じるようになり、 いつもの、食べるの大好きな自分に戻ってきている感じがします。 ほんの少しずつですが、寂しさが癒えてきたのでしょうか。 体ももうそこには留まらず、 元気になっていこうとしているのがわかります。 人間が肉体を持って、この地球に誕生しているということは、 体の変化で心の状態を察知していくことにも一役買っています。 肉体があれば、寒い、暑い、痛い、かゆい、だるい、気持ちいい、 そして、太った、痩せた、病気した、疲れた、肩こった等々 毎日、体のどこかを感じている部分があり、それが感覚というもので、 感情と同じように自分だけのセンサーになります。 例えば、胸が締め付けられるように感じるのは、 実際に心臓を締め付けてはいないけれど、 精神的にぐっと押さえつけられるようなものを自分には感じられているということ。 手に汗にぎるのも、自律神経の反応でもあるけれど、 心の緊張や不安が反映されているということだったりします。 そうやって、心の状態とつながり、いち早く反応していると考える方が自然なのかもしれません。 もちろん、人間の人智を超えたところの肉体の変化もありますが、 治るもの(治療や手当てができるもの)であれば、 おそらく心の中にも、 直りたいもの、変わりたいもの、気づきたいもの、癒されたいものがあって、 肉体を通して表現されている。 そこへの万能な薬は、自分への愛です。 誰かから送られる愛というのもありますが、 まずは、自分が自分へ向けて、どれだけ愛おしく大切に思う心があるかどうか。 自分を理解する、認める、謝る、ねぎらう。 つらいんだね、不安なんだね、嫌だったんだね・・・と言ってあげる。 そんな気持ちを、私がちゃんとわかっているからねって。 自分を愛すると言っても、 とても漠然としていて測れないものがありますが、 そこに指針となるものが、感覚です。 清々しく、軽く、広がりがあり、希望がみえ、心が温かくなっていく。 そんな

何ひとつ変えないで

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今日から出勤でした。 なんだか下界に降りていくような感じがありました。 地に足をつけてちゃんと立っていられるだろうか。 いつもの街の様子、いつもの風景を見たとき、 もうここに父はいないんだ・・・と思うとやはり悲しくなります。 悲しいときは悲しいままに、涙があふれるままに、 それでも自分はどうありたいか?と問いかける。 寂しがるパターンには語りかけをしています。 どんなあなたであっても、そのままのあなたでいていいよ・・・と。 しかし、パターンはパターンでいいのだけれど、 「私」はそういうパターンを超えて、 少しでも清々しく、さわやかに、軽さと明るさをもって今日一日を過ごしていこう。 そのためにどうするのか?自分。 たんたんと、休んでいた間の仕事を片付ける。 相手のことを考えてやっていく。 分からないものをちゃんと分かるようにする。 そして今一番思うのは、 いろいろなことに対して、そのまんまをあるがままに受け容れていくこと。 それが、今自分にとって大事にしたいことのように感じました。 短い間だったけれど、何ひとつ父のあり方を変えることなく、 そのまんまをずっと受け容れていたように思います。 (実際は、受け入れざるを得ないといった方がいいかな) 状況も、状態も、その表情も、反応も、なにもかも。 その感覚は無力感はあったけれど、 逆らえないような逆らってはいけないような、 そしてとてもそのままが自然なことであって、 そこに自分が合わせていく(変えられるものがあれば動いていく)だけでした。 今思うと、とても大きなものの中に自分が包まれていたように思う。 何ひとつ変えないし、変えなくていい。 変えられないものを変えないまま、あるがままで見る。 そういう体験をさせてもらえて、 ほんの少し、それでも何とかやっていけるかもしれないと思えたし、 たとえ悲しく寂しいことであっても、全てを受け容れるということの、 そこにある清々しさ、というものを感じたのだと思いました。