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4月, 2020の投稿を表示しています

鏡にうつしだす

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仕事帰り、さくらまつりで賑わうはずだった公園のそばを通りました。 夕暮れの電灯に照らされる桜は、特にさみしさも物足りなさも、感じることなく、 おまつりの時の桜と同様、何も変わらず咲いているように見えました。 人間の気持ちによって、植物は可憐に見えたり、明るく元気に見えたり、 また、さみしげに見えたり、何も感じないときもあります。 そのときの自分の心が映し出されている、ということを思います。 ものを言わぬ植物たちがそうなのですから、 感情のある人間を見て、人が自分をうつしだす鏡であることはよく分かります。 その鏡を見るって、ときにちょっと怖さを感じたりします。 見えたものがマイナスのものだったりすれば、それが自分だとは思いたくないからです。 相手の言動に強く反応した自分には、 少なからずその反応と同じものが自分の中にもある、だから感情が動くようです。 相手が誰かを責めているとき、自分も誰かを責めていた、または自分を責めているということがある。 怒りを感じている相手が気になって仕方ないとき、自分も心の奥深くに怒りを抱えていた、ということもあります。 最近、自分の口から、あーまた出たなって思うことば、 かわいそう・・・というのがありました。 これも、相手を見てかわいそうと思うから口に出るのですが、 今の自分にかわいそうだと感じるものがあって同調したくなっているのかもしれません。 そうそう、「なんてかわいそうな自分」って思っていたことが正直ありました。 この目で相手の言動を見て、自分のしていることをまざまざと見せつけられたとき、 軽いショックを覚えますが、妙に納得してしまいます。 今日見た桜は、夕暮れと共にだんだんとグレーがかり、とても静けさを感じました。 一日が終わり、ほっとするような静けさ。 ということは、自分の心はそのとき落ち着いていたのか、ほっとしたかったのか? 桜と月と空と・・・今日も一日ありがとうございました。

共感できなかったときは

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一日の中でコロナの話題が出ない日はありません。 その話題になると、少し前までは、ただ自分が感じているままに話していたのですが、 この頃は、相手が感染について、どのような捉え方をしているのかを探るようになりました。 そこを知らずして、自分が思っていることを話すと、場の空気感が重くなったり、ピリピリさせていたりすることを感じたからです。 普段、会話の中で、たとえ共感できなかったことがあったしても、 そんなに相手を構えさせたり、苛立たせたり、不安にさせたりすることってあっただろうか、 と思うほど、コロナの話題は、この共感するかしないかということにものすごくフォーカスされているように思います。 少しでも共感していないことが伝わったり、対策が不十分だったりすると、 『分かっていない人』『非常識な人』『無責任な人』という扱いになってしまっているような感じさえ受けます。 恐怖心と正当化って、どこか似ている。 情報を人より多く持ち、話し、相手より自分の方が知っているというだけで、自分の方が正しい、になっているような・・・ 自分の考え方に、じわじわと相手を誘導していこうとする人もいます(そうかな?とは言わせない)。 最もらしい言葉で、自分の恐怖心をやわらげているつもりなのかもしれません。 恐怖の中に一緒にいることが、安心だったり常識であったりするかのように、変な団結が組織の中で生まれているような気がします。 もちろん、経営者の立場ならば、会社を存続させるためというそもそもの観点の違いはあるかもしれません。 どっちが正しくてどっちが間違っているということも、大きな意味でいうとない。 あたえられた肉体があっての人間ですから、コロナでなくとも病気の予防はとても大事。 でも、今思うことは、 自分は今どう感じているのか、本当はどうしたいのか、という感覚だけは大事にしたい。 誰かに合わせることもしなくていいし、違うことをアピールする必要もない。 もし、他人に合わせなければ、組織の中で生きられないというのであれば、 『ここでは、最低限の話を合わせる』という選択を本当の「私」がすること(自分もやった!)。 日本人は特に田舎では、村八分にされる(非難され、仲間外れにされる)ことが最も恐れることではないかと思うのです(これ、自分のパターンかもしれない

ベニシアさん

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築100年の古民家で、ベニシア・スタンリーン・スミスさんの手づくり暮らしを綴った番組『猫のしっぽ カエルの手』。 この番組を、かれこれ何年?楽しみに見ています。 高気密高断熱の今どきの家とは違い、雪深い京都大原での古民家暮らしは、 うらやましいとは簡単には言えない大変なことが、たくさんあるのだろうなあ~と想像しつつも、 花とハーブに囲まれたおしゃれなエコライフを、いつもあこがれて見ています。 家の手入れに庭の手入れ、ハーブを取り入れた手作り料理に手作りお菓子、そして作れるものは何でも手作りする。 これだけでもすごいのに、 イギリス人のベニシアさんが、大原の伝統の中で生きる仲間たちと交わすエネルギーは、 互いの暮らしの中の大事なものを、ますます輝かせていきます。 そんな、大好きなベニシアさんの番組が、このところ再放送が続いていて、 最近の様子が放送されないことが、少し気になっていました。 実は病気をされていて、目が見えなくなっているとのこと。 髪は真っ白になり、背中が曲がり、一見ベニシアさんだと分からないくらい姿が変わっていました。 それでも、友人たちに愛され、家族と静かに暮らす様子は、 以前よりもましてそこにいるだけで人を安心させてくれるような、存在感を消した存在のように感じました。 病気、老い、という人生の中で避けては通れないものを、 どんなふうに受け取っているのだろうか・・・ 番組の中でベニシアさんからのメッセージがながれ、涙がでました。 ーーーーーーーーーーーーー 苦労は人生を磨く 人生は月のように満ち欠けするもの いいこともあれば、悪いこともあります 次に何が待ち受けているかわかりません 予想もしなかったことが起きたり、愛する人を突然失うこともあるでしょう ありのままに受け入れる術(すべ)を、ゆっくりと身につけていくのです そして運命は偶然ではなく、自ら選びとっているのだと気づくのです その瞬間を一生懸命に生きることが、人生を楽しくしてくれる 心を静めれば、美しい世界に囲まれていることに気づくでしょう 幸せは、自分の心次第です ーーーーーーーーーーーーー 「ありのままに受け入れる術(すべ)を、ゆっくりと身につけていくのです」 そうなれるようにと、いろんなことがある人生。 そし

初エアロビ

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いつもブログを見て下さってありがとうございます。 運動不足は今はじまったことではないけれど、 さも、コロナの影響で、体を動かすことができずにいるかのように言ってしまったわたし・・・ こんなぐーたらなわたしでも、ひそかに楽しんでいることがあります。 じゃーん、エアロビです。 はじめは踊らずずーっと見ていました(さすがだ、自分)。 そのうち、marinaさんの元気で楽しそうにやっている姿につられ・・・ https://www.youtube.com/watch?v=R8yGSd7FTSg 終わった後の達成感、爽快感がはんぱない。 というほど、ちゃんと踊れていませんがー そして、還暦前のおかんと一緒にやってるのも・・・いい。 https://www.youtube.com/watch?v=tMS7SWB0H8E ヨガ派だと思っていたわたしも、ダンスに魅了されています。 それにしても、息がきれる・・・けど、楽しい!

春だった!

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盛岡にも桜前線がきています。 雨が降ったりやんだりの寒い日が続いていますが、雨に濡れた桜もしっとりしてきれいです。 空が晴れてくると、ピンク色の花びらがもりもりっと開いて、うわあ~~~ 思わず声が出てしまうほどきれいで、本当にうつくしい。 桜を見ていると、やさしい気持ちにもなるし、力もわいてくるし、大好きです。 テレビでどこかの桜並木が映っていたのですが、そこへおばあちゃんが歩きながら 花をうれしそうに何ともいいお顔して眺めていました。 「はあ~きれいだごと」 テレビの前のわたしも、 「ほに、ほに」と相づちを打ちながら、笑顔になってしまった。 そして、さわやかな若い男女も来ました。 「なんだか、人がいなくて寂しいですねえ」 「来年はもっとにぎやかにお花見ができるといいですね」 いつも出店が出て、たくさんの人でにぎわうところでの桜を毎年見ているのでしょう。 同じ場所にいても、桜、人、その場所のにぎわい、 それぞれ目に映るものが違っていて、感じるものも違う。 わたしは、このおばあちゃんと同じ。 どんなに冬が長くても、必ず春がやってきて、桜のつぼみがふくらみ、まだかまだかと咲くのがすごく楽しみで、 やっと咲いたなあ、きれいだなあ、幸せだなあと感じられる人でこれからもありたい(出店のタコ焼き食べながら見る桜も好きですけどね)。 今日は、実家の母のところに寄ると、「水仙の花、きれいに咲いていたよ」 と言って、何本か取って新聞紙に包み持たせてくれました。 桜と水仙、春と言えば・・・の、お花。 最近、テレビをなんとなくつけてしまっていることが多く(毎日、コロナテレビを見ている自分)、 本当に見たいものではないのに見ていたかもしれないなと思いました。 そんな合間にも、季節はめぐっていましたね。 待ち遠しかった春が来ていたのに、あぶなく味わい方が雑になってしまうところでした。 今、自分の目の前にあるもの、目の前で感じているものを大事にしていきたい、 と思い出させてくれた花たち。

そういう自分が嫌

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「こんなことで辛いと思う自分は、だめな人間だ」 ●自分はだめだ というパターンとの付き合いはかれこれ、うん十年。 でも、今回はちょっと違う形で現れたパターン。 「こんなことで・・・」という部分が、胸をしめつけ悔しさがにじみます。 まだそんなこと言っているの?とパターンがパターンを責めます。 これは、●そういうパターンが嫌、というパターンがあるということ。 パターンの二重構造(ちょっとややこしいが)。 理想のパターンとか、あっても恥ずかしくないものとか、まあまあこういうパターンなら許せるとか、そんなものはありません。 全部、本当の「私」は受け入れているのですから(OK,OK~と手を伸ばしている「私」)、 これはいいけど、これはダサいからパターンとして認めない、なんてより好みはしないのです。 でも、パターンがあること自体が、それ自体がものすごく許せない、嫌いだ、ってときがあります。 語りかけをしても、その語りを否定する(嫌っている)パターンがいる。 そんなときは、もう一度、 どうしてそう思うの?って、丁寧に、そして徹底して聞いていくのがいい。 そういう自分が嫌なんだよなあ・・・と思ったら、 パターンを嫌うパターンがあるかもしれないので、ちょっと集中して自分をみていきたいと思います。

離れていても大丈夫

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今日はオンラインで岩手クラスの勉強会をしました。 久しぶりにみんなの顔を見ながら話しができて、なんだかすごくうれしかったです(結構、みなさん、はしゃぎましたね)。 話題は、やはりコロナウィルスでした。 自分がコロナにかかってしまうことよりも(自分が死ぬことよりも)、 誰かに移してしまうこと(誰かの命を奪ってしまうこと)への怖さを感じている方が多かったです。 だから、できる限りのことをして気をつけながら暮らしているんだと。 家族だからといって、その考え方は微妙に違うでしょうし、 その中で自分の気持ちを伝えていくことは、今この不安なときだからこそとても大事にしていきたいです。 離れて暮らす家族がいれば、普段よりもそうしたい気持ちになる。 現実的にどんな行動をとっていくかで、その人の考え方、人生観が垣間見え、 そこにどちらが正しいかとか本当に宇宙レベルになってしまうと、判定は出せない。 でも自分の身に、誰かの身に危険を感じたら、それをはっきり伝えたり、回避への協力を求める意思表示も必要になってくると思う。 緊張と安らぎのバランスをとりながら、どちらかに偏りすぎないように毎日を過ごしたいです。 それにしても、オンライン上で一度にみんなの顔がいっせいに見えるためか、 声を発していないときでも、自分はここにいる、ということを感じました。 今日気づいたのですが、 わたしは話している人がいれば、その人以外の方の表情って、あまり見ていないんだなあって思いました。 本当はどんな顔をして聞いているのか見たいけど、人の顔をじろじろ見るのは良くないと思っているパターンがあったのかもしれないです。 そのパターンとは反対に、人の顔を見るのが好きなんだわたし、という発見もありました。 顔に集中しているため、たまに話の内容がまったく入ってこなくて、困ったことがあるなあと気づく・・・ 日常を振りかえってみても、わたしのあるあるでした。 また、画面には、話しているときの自分の表情を見ることができるので、 化粧変だなとか、口がへの字になっているなとか、 結構うなずくんだなとか、結構ふき出すな(笑ってしまうな)とか、思いました。 仕事ではよく使っていますが、 はじめて仲間うちでやる、今日のこれは、まったく気分が違っていました。 すごく精神的な距離

正直に生きるって

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人の心は複雑です。 頭にくること、くやしいこと、悲しいことがあっても、 何かの拍子にちょっと笑えたり、ほっとしたり、そして思いきり幸せを感じることもできます。 感情が大きく動くのは、パターンがなせるわざ。 小さな心の波も、パターンであるため、放っておくとしっかりとその存在感を表し、 ああ、これってパターンだったんだと後から気づくこともあります。 パターンを、本当の自分だと思って生きている人はあたり前にいます。 むしろ、パターンだとか本当の「私」とか、分離させなくても自分は前向きに生きているから大丈夫と思っている人もたくさんいると思う。 そう、知らなくても生きていける・・・ 生きてはいけるのだけれど、 ではなぜ、 人には感情(頭にくる、くやしい、悲しい、可笑しい、ほっとする、うれしい等々)があるんだろう。 そう感じたことはないでしょうか。 人間にだけ与えられた、感情(動物にもあるが、ここは割愛)。 自分の中に存在している感じるという生きもの、そこに目を向け、観察し、認め受け入れていくことで、 人として成長していくこと、生きる意味までもがここに隠されている、と考えてみたら...。 この感情をコントロールできれば楽に生きられる、と思うかもしれませんが、 コントロールすることを身につけると、本来そこにあるべきものが抑圧されていくことに鈍感になります。 頭の中で感情をすり替えていくことにも、違和感を感じなくなってしまいます。 たとえば、 「自分の気持ちに正直に生きています」 とても自然体で無理のない生き方に聞こえますが、 それをやっているのは、本当の「私」ではなく、 パターンがしていた、パターンの言い分に従うことが正直さだと捉えていることがあります。 毎日よくよく自分の心の動きを観察し続けていないと、ただの我欲だった、自分に都合よく生きていた、ということもあるかもしれません。 そして、正直に生きられないことを責めるパターンに気づかない、ということもあるでしょう。 もしここで、パターンと「私」の分離がされていたとしたら、この心のからくりに気づくことができます。 今何かの感情がわきおこったのは、本当のあなたではなく、パターンというものですよ、 本当の「私」は別にちゃんといますよー、 という、離す(区別する)という

仕事の中の可能性

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すべての人が未知数で、可能性に秘めている・・・と昨日思ったこと。 『可能性』ということだから、 それは、自分では想像できないこと、自覚がまったくないことだったりします。 今、与えられている仕事(障害のある方の就労支援)は、入社以来なんだかんだで、ずっとやっている業務です。 異動があったり業務が変わったりということはありましたが、そこからまた戻ったとき、 「水を得た魚のようだね」 と言われ、なんとも自分ではぴんと来ないことばで、 水を得ているのか?わたし・・・どの辺が?と思いました。 自分がどんなふうにこの仕事と向き合ってやっていたのか、わかっていなかった。 なぜ、その業務が今も自分に与えられているのか。 それは、続けてきたからそうなった、と思うところがあります(決して得意とかではなく)。 『続けてきた』という、ただそれだけが自分の可能性を広げてくれたように感じるのです。 また、続けてきたおかげで、この仕事がとても好きだと思う自分もいる。 人が変わっていく様子、人の秘めたる力、人が成長していく姿、元気になっていく姿を身近で見られること。 それが心底おもしろいし、うれしいし、その方の幸せを願う気持ちでいっぱいになります。 その幸せも、いいことばかりではなく、大変なこと、つらいこと、いろんなことが起きて、もっと世界が広がっていってほしいなあと思うのです。 そう思うと確かに、水を得たかのように、自分が生きる力を得られているということになるのかもしれません。 もしも、今、自分の可能性がまったく見えなかったとしても、 みんな、心の奥底では知っているように思います。 早くそれを見たい、知りたい、確かめたいと思うと、不安や恐れという感情にのみこまれてしまう。 だから、自分にも可能性はある、ということだけ知っていればいいのだと思います。 たとえ見えたとしても、そこがゴールではないのですから・・・ これからは、働くことの意味を本当に問い直す時代になると思う。 就職したいという個人の願望と障害者を雇いたいという企業の都合、 そしてわたし自身の仕事のあり方も、自己満足が優先していることに気づけない危険性がでてくるかもしれない。 はじめて、ウィルスという見通しのつかないものの中で、何を大事にしてやっていくのか。 自分の仕事が、微力な

考えるな、感じろ

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魂の道場「岩手クラス」でともに学ぶ仲間が、HPをアップしましたのでご紹介します。 葛巻文枝さん  こころの間(ま) とてもほんわかとして、まさに間(ま)を大事にしたいと思う気持ちになります。 ちょっとどきどきしながら(わたしが緊張してどうする)、 じっくりと一字一句かみしめながら文枝さんの言葉を受け止めました。 同じクラスで学んできて、同じようにワークを日々行いながら自分を見つめ、 パターンの存在を大事にしながら、本当の「私」を育てていく・・・ 魂の成長をめざしていきたい、という人生の向かうべき方角は同じであっても、 それらを受け取る感性、表現はこんなにも違うんだなあって思いました。 このそれぞれの『違い』というところが、魂の個性。 いろいろな個性が響き合い、成長の糧となっていくって、うれしいです。 わたしの背中を押してほしいことなど、知らないはずですが・・・ぽんっと、しっかり押された気がしました。 ひらめいたこと、構想していたこと、どうしようか迷っていたこと。 それらがつながり、よし、やってみようか。 ほんわかしているけれど力強い文枝さんから、パワーもらいました。 ありがとうございます。 すべての人が未知数で、可能性に秘めているんだなあと感じます。 どんな状況の人であっても、現実はここしかないと思っている人であっても、 まさかね、って思うことを考えてみたり、 それはできない、って思うことをやめてみたり。 一度しかない人生を今より少しでも、おもしろくて幸せなものにしたいと思うのならば、 いろいろなことが停止してしまった今、もう一度感じてみるときかもしれません。 考えるな、感じろ・・・ ブルース・リーの映画は観たことありませんが、そういう感じのときです。

育てられている

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今年に入ってはじめての土いじりをしました。 半年以上、庭の隅にそのままにしていた植木鉢を移動させると、例外なくクモや虫さんたちが出てきて、 おーーーーっい、とのけぞってしまうのですが、びっくりしたのはクモ&虫のほうだよなと思い直しました。 平和に気持ちよく眠っているところ、いきなり布団はがされた感じですよね、きっと。ごめんなさい。 今日やったことといえば、去年のうちに片付けなかったものを片付け、抜かなかった草や役目を終えた野菜を抜く、 といった後回しにしたことばかりでした。 ああ、わたしらしい・・・ ここへ引っ越してきた当時、自分の趣味はガーデニングだ、 とはじめて趣味らしいものが自分にもできたなあ、と思ったのを思い出します。 お水をあげるのも、花がら摘みも、夏は秋に向けての切り戻しや植えかえ、お世話するって楽しい~。 今まで庭というものがなかったので、たとえ猫の額ほどの狭さであっても土があるということがすごく嬉しかったのです。 その気持ちは今も変わってはいないのですが、 現実には、 毎日お世話する(同じことをする)ということが、こんなにも大変で自分が苦手としていることだったんだと知るには、そんなに時間はかかりませんでした。 「どうせ、やるのは始めだけなんだから、庭は作らないほうがいいんじゃないの」 と言っていた夫の観察力はするどかった。 また、そうでも言わなければ、作ったはいいが、たちまちジャングルになってしまうことを懸念しての発言だったのかもしれません。 土を触ったり、お花を植えたり、のびのび育っていく植物たちの様子を見ることはとても癒されます。 なのにー、 あんなにきれいに咲いていたお花を、あっという間に枯らしてしまうこともできるわたし・・・ 今年こそは、お花も植物も少しの野菜も、全部いのちを全うできるように、育てたいです。 と言っている、わたしが植物たちから育てられている・・・

嘘をつくか、つかないか

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毎朝、今日一日をどんな日にしていくのか、宇宙に向けて宣言をしています。 といっても、空に向かって叫んでいるわけではなく、 静かに自分に言い聞かせるように、つぶやく・・・という感じで。 その内容は、なるべく考え込まないように、パッと頭に思い浮かんだものにしています。 その浮かんだものを自分は今日一日がんばってみよう、大事にしようと思い、やっています。 ここのところ何度か登場しているのが、 『自分に嘘をつかない』というもの。 嘘をつかないで、自分に正直に一日を過ごすことって、どれくらいできるかな。 なんて言うと、 えーーーそんなに普段、嘘ついているんですか? と言われそうですが、 そうです・・・ついています、人間だから。 ちゃんと自分をみてみると、大なり小なり自分にそれをやっていることがわかります。 この『自分に』・・・という部分が胸にずしっとくる。 嘘をつかないというのは、白パターンで行動するということ。 たとえば、誰かの意見に対して、自分は違うかなあと思うことがあったら、 周りの人たちみんなが賛同していたとしても、一緒になってそうそう私もそう思ったなどと言わなくてもいい。 空気を読んで合わせたほうがいいとか、思わなくてもいいのです。 わかっているのに、本心と逆のことをする自分がいたりする(パターンのなせる技)。 本来は、気持ちよいものではない、はずなんですが、 自分へ嘘があっても感じない人間になっている人は多いかもしれません。 ただ、意識的に「この場では、嘘をつくぞ」と選んでしたことならば、それはそれでいいです。 嘘自体は、悪いものでもなんでもないですからね(ただの一つの体験であるだけ)。 そのとき選んだものが自分にとって、心が軽くなるものなのかどうか、ただここだけを感じとっていけばいい。 たったこれだけのことを、今日一日やっていこう、というもの。 今日は、周囲が共感しあっていたことに、自分一人しっくりこないものがありました。 それは何かのパターンなのかもしれませんが、 『共感しているふりをする』は選択せずに、じーっとただ黙ってそこにいてみました。 正直、一人違うということに、居心地がとてもいいというわけではなかったけれど、 後から変な重さは感じませんでした。 習慣化している小さな嘘の積み重ね。

応援されている

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夢の話です・・・ いつものように遅刻して会社へ向かう途中(夢では大体、遅刻している)、 坂道を自転車で上がっていくのですが、ペダルが軽すぎて前へなかなか進んでいきません。 それから、サドルも高くて不安定で、乗り心地が良くないまま、もう何年も乗っているようでした。 もういい加減にこの乗り心地の悪い自転車、どうにかしないと・・・ そう思い、少しくらいペダルが重くたって前に進めた方がいい、と変速を変えてみました。 そして、自転車から降りてサドルを下げ、足のつま先が地面にとどくようにしました。 これでかなり安定して走れるようになった・・・すごいうれしい。 いつも何となく我慢してきたけれど、思い切って変えてみて良かったなあ、と思いながら坂を上っていきました。 その後、会社へ向かうのですが、 ここからが、やはり夢・・・ 何をしに自分が会社へ行くのか思い出せないのです。 昨日までどんな仕事をしてきたのか、今日は何しに行くのか、人は変わっていないようだけど何の会社なのか、覚えていないのです。 夢の中ではよく、仕事の続きを体験することがありますが、 これほどまでに、今までしてきたこと、これからしていくことが分からなくなっているなんてこと、ありませんでした。 夢はもっと現実的なはず(目が覚めたときに夢だったんだ、と気づくくらいの現実さ)だと思っていたところがあった。 だから今回の夢には驚きでした。 自分の解釈ですが、自転車は今の自分の心の状態だと思ったし、 思い出せないという部分は、いったん考えることを止めてみようということなんだと思いました。 考えることを止めたとき、自分の中から出てくるものって何なんだろう。 そういうことが、今必要で、自転車を直したように今の自分にはできるよ、と言ってもらっているような気がしました。 こうして、自分にしかわからなくていい意味付けをし、いいように捉え、いい方向へ進んでいくのだと感じる。 そして、応援されていると感じる。 この守られている、応援されているという感覚は、自分を信じる力にもなっていくように思いました。

シュミレーション

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本当の「私」が深い理解と愛情をもってそのパターンの存在に対して語る、伝える。 「あなたは、何も変わらずそのままでそこにいていいからね」 と信頼関係ができた、次の段階は・・・ 黒パターンと白パターン、これから本当の「私」はどちらを選びたいのか感じとります。 この時の白パターンは、思考を使って(ここはよく考えるところ)、 より「私」がしっくりくる白パターンを作り上げてから、感じて選ぶ。 選んだら、これを次の行動へと移す。 選んだら実行。というところまでが、白パターンを選ぶという意味です。 この実行って、 何をどのように話すことなのか(もし、誰かに話す必要があれば)、 どのような行動を自分は取るのか、 気持ちはどうありたいのか等々、 これらの具体的な部分がとてもとても大事になってきます。 行動しない白パターン選びでは、何も変わっていかないからです。 まったく変わらないわけではないけれど(気持ちは大分落ち着くのだが)、 本来自分が生まれながらにもっている数々の資質が、生かされていかない。 だから、資質を意識して使うということが、白パターンを選んだ行動、ということになる。 まずは、もう黒パターンのままで行動しない、という『意志力』が必要。 次に、具体的な白パターンの行動をシュミレーション。 これは最近になって、『想像力』が生み出す『実行力』という、この連動するものの力を実感することがあり、 感情・感覚で違和感なく想像できたものは、実現しやすいかもしれないと感じました。 もちろん、白パターンを選んだときから、自分が取る行動はもう決まっているぞ、という場合もありますが・・・ 白パターンを選ぶということは、すがすがしさや軽さ、ほっとする感じがあると思うのです。 シュミレーション(行動する自分を想像)でそこを感じ取っていければ、実際の行動でもその感覚を持って行動できるような気がします。 これまでと違う行動を取る、ということは勇気がいります。 その緊張感も少しやわらいでいく感じがします。 大人のコミュニケーションを具体的に言葉で言ってみたり、 そのとき自分はどんな表情で、どんな声のトーンで発するのか。 それをやってみたときの自分の気持ちはどうだろう・・・と想像して、感じて、白パターンで行動する自分への準備をしていく。

こんなところでも・・・

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もうここは絶対に安全、といえる場所は日本にはなくなってしまったのかなと思ってしまいます。 それでも・・・ 新鮮な空気を思いきり吸いたくて、山に行きました。 天峰山から見る岩手山は、とても美しいです。 この場所にいると、今、地球上で起きていることを一瞬忘れます。 夕陽が沈む岩手山は、いつもと変わらずどっしりしていました。 まだ雪も残っていて、冷たい空気と静かに吹く風がとても心地いい。 でも・・・ 山からおりれば・・・ マスク着用。 新型ウィルスという大惨事に、自分はどうあるのか・・・ ということより、 他人の行動はどうなっているのか・・・に注目している人は多いと思います。 コロナに対してどんな受け止め方をし、どう行動をとっているのかで、物事の価値基準をはかっているようなところもあるかもしれません。 自分と同じ考え方ならば、共感し、 自分と違っているところ、違う行動を取っている人を見ると、それはよくない、間違っているなどと完全否定することも・・・。 こんなところにも、パターンはあるんだなと思いました。 自分が病気になっていなくても、 自分が死んだらどうなるのか、ということをこれほど考えさせられることは、そうそうなかった。 自分が感染することで、両親の面倒を見てあげられなくなるとか、感染者の家族ということで残された家族は差別を受けるかもしれないとか、 自分のそばにいただけの知らない人まで感染させてしまう(命を奪ってしまう)かもしれない、という怖さ。 そういった緊張感と共に、 普段と変わらず、湧き起こるパターンを見つけては語りかけをする「私」もいます。 これを機に、一人一人が『死』に対して(または、『生きること』に対して)の哲学を考えていくこともあるかもしれません。 体を守るための実践と、心のバランスを保つための哲学。 こんなときでなくても、大切なことはいつも変わりないのだと感じます。 今週末も、免疫がアップしそうなこと、家にいるからこそできることを楽しんで過ごしていきたいです。