コロナ、再び

ZOOMで岩手クラスの勉強会をしました。
今日は日中でも気温が上がらず、すごく寒そうな感じだったので(一歩も出てないけど)、
温かい部屋でぬくぬくとコーヒーを飲みながらできるオンラインはありがたいです。

勉強会では、先月の振りかえりをみんなでして、
その後、語りつくしているようでどこか語りつくされていないような、
コロナに関わるパターンのケアの話題になりました。
今の自分はどうかと、
最近はほとんど考えることもなくなってきたと思っていましたが、
●コロナのせいにするな(してはいけない)
というパターンがありました。

確かに、物理的にそうなってしまったという事はあるかもしれないけれど、
本当にそれだけが原因か?
それがなかったらすべて順調にいっていたのか?
と自分にも他人にも突き詰めてみたくなるパターンがあります。
そのせいで仕事ができないとか、何かができないとか、
人間関係がぎくしゃくするとか、ストレスがたまるとか、不安定になるとか、
もうあきらめようとか、どうせやってもうまくいかないとか・・・
ここにつなげるのはもうやらない、と思っていましたが、
自分や他人が、ここにつなげようとするのを感じ取ると、
このパターンが反応していたかもしれません。

常に自分以外の何かのせいにしたくなるというところから、
自分以外のものには一切原因はない(すべての答えは自分の内にある)というところへ、
みんなが気づき、向かいはじめているように思います。
その移行期に、
まだ自分はこんなところで迷っているのかと、
やっぱり自分はダメな人間だというところにしがみつきたいパターンもいるように思う。
そしてそのダメだと思うパターンの方を選んでいる自分や他人を、
また否定したくなるパターンがあるのだと思います。
その時、本当の「私」はそこには不在で、パターン同士であっちに行ったりこっちに行ったりしているように見えます。

現実的にはいろいろあっても、それでも何とかやっていかれる・・・
という『大丈夫』と、
何があっても大丈夫、と思える現実的な根拠がある・・・というのとでは違います。
はっきりとした根拠や理由がないことへの不安が募るということは、
「私」以外のところに頼りたいと思っているからで、
言い返すと「私」のことは信じられないからということにもなります。

本当の「私」よりも、テレビで言っていること、
専門家が、師と仰ぐ人が、職場の上司が、親しい友人が家族が・・・・
「私」以外の誰かと同じ方が今は安心していられる、
という自分がいるのならば、今はその気持ちを大事にすればいいと思うのです(この『今は』がいい)。

自分が今年のはじめに抱いたコロナへの恐怖は、
●仕事を失いたくない、でした。
仕事なんかより家族にうつしてしまうとか、
世間からの非難をあびるとか、死ぬかもしれないとか、そっちの方が怖いでしょと思う方もいるでしょうが、
これは何と言おうと自分のパターンだから、よくわかります。
それほど、今のところで働けなくなったらどうしようって、
言われたことを守らずに感染したらそれはやばいでしょうと、
職場から見捨てられた自分はもう他ではやっていけないし耐えられないだろう、と思う気持ちがすごく強かった。
でも、ケアをしていくうちに、
〇仕事を(または何かを)失っても、もしかしたらやっていけるかもしれない
この感覚があれば大丈夫だと、これを選べると思ったときにとても安心したことも覚えています。

一般的なコロナ対策をしながら、
どこまでを一般的には、と捉えるか。
そこも自分の感覚を信じていいと思うのです。
もしかすると、話せば話すほどに誤解を招いてしまいやすいテーマかもしれませんが、
誰の何という捉え方が正しい、というものはないのですから、
今のこの何十年と生きてきた自分と過去生を生き抜いてきた自分の、
すべての「私」を使って感じたところで、今現在はどうするかを選べはいいと思っています。

どんなパターンの話も話すことができる仲間に感謝です。
みなさん、また来月会うときまで~ありがとうございました!














コメント

ふみえ さんのコメント…
先日はありがとうございました!

やっぱり自分はダメな人間だというところにしがみつきたいパターン

というのはなるほどと思いました。

また、よろしくお願いします(◍•ᴗ•◍)
pyon さんの投稿…
ふみえさんいつもありがとう!
そうなの、いまだ自分はしがみつきたいの・・・です。
強力ですね。
また語り合いましょう!