補聴器、するしない

母は耳が遠いです。
母としては、聞こえていないことへの不便さを普段感じていないので、
耳が聞こえていないよーという話になると、とても嫌そうな顔をします。
以前、補聴器屋さんに行って試しにちょっと入れてみたのですが、
その時も、今にも泣きそうなくらい耳がいずくて(違和感がすごいという岩手の方言)、
なんでこんなにいずいことしなきゃならないのか、と訴え、
母には補聴器は無理なんだと思いました。

母は聞こえていないことに何のひっかかりもないので、
本当にごく限られた自分へ届いている音の世界の中で暮らしている、といえます。
他に誰かが何か話しているように見えても、
聞こえていないその内容を知りたいとか気になるとか、そういうことがあまりないようです。
一人暮らしですので、
テレビを見るにもボリュームを全開にして聞けばいいし、
たとえ誰かが家の中に入ってこようとしても、
驚きはしてもそれは困ったこととか危険なこととは思っていない様子。
そんな母を何年もみてきて、
危なっかしいところもありますし、
それで人から誤解を招いたり(一方的にしゃべる人みたいに)、
時にはわからないままにすることで、損をすることもたくさんありました。
ですが、自分の耳に入ってきた情報だけで生きていくというのも、別に悪いことではないのかも・・・
と思うところもありました。

でも一方で、
今のわたしは、母と一緒にいて会話をすること自体が身体の負担になってきていることも感じています。
大きな声をずっと出し続けて喉が痛くなってしまったり、
そうでなくても理解力が落ちてきている母へあれこれと大事な用事を何度も伝えたりしていると、
もうぐったり疲れてしまうこともある。
そして思ったのが、
白の感覚を選びながら、補聴器をつけてもらうということはできるだろうか、ということ。

一般的には、防犯の面や認知症の進行具合を考えて、
耳はやっぱり聞こえていた方がいいという話になるのかもしれませんが、
わたしのためにつけてもらいたい(母との会話を楽しみたい、自分の体の負担にならないようにこれからもお世話をしていきたい)、
という気持ちを母に伝えてみようと思いました。

母に対してのこれまでのパターンには、
●ちゃんと話を聞いてほしい
というものがあります。
それに対しては、
〇自分がカバーしていこう(大きな声で話していこう)
というところを選んできました。
それで何とかやってきましたが、
今は●補聴器をつけてほしい、というパターンがあります。

これは、つけようとしない母を責めたり、苛立ったり、
つけてもらわないと自分は母の面倒が見れない、耐えられないと思っている自分(パターン)がいます。
だから、ちゃんとつけれるようになって、ちゃんと話を聞けるようになってほしいと。
少し時間をかけてケアをし、
〇もしかしたら、つけてもつけなくても幸せに暮らせるのかもしれない
〇もうそこにこだわるのはやめよう(母が嫌だったらやめよう)
というところを今選んでいます。

母は何度も同じ話「補聴器は本当はいらないんだけどね」を繰り返しながら、
それでも耳鼻科に行き、補聴器屋さんにも行き、
そしてわたし自身は、なるべく白を選びながら母の付き添いをしていきました。
行動としては、補聴器をつけることを進めていっているけれど、
心の中では、白を選びながら行動をとっていく、ということをしていたように思います。

そして昨日、補聴器をつくることを決め、
耳型を取ってひと段落して家へ帰る途中、
「今まで迷惑かけたね」と母が突然わたしに言ってきたのです。
迷惑だなんて思っていないのに・・・
でも、自分の取った行動は、
母にしてみればもう迷惑かけないでね、と言われているようなことだったのかもしれません。
わたしの方が「お母さんごめんね、本当はしたくないんだよね」と謝りました。
補聴器って結構お値段するものなんですが、
それでももし、母が「もうこんなの付けるの嫌だわ~」と、
つけることに慣れていかないようだったら、もう迷わずやめようと思っています。

やってみることもするし、やらないこともできる。
どちらも「私」が選択できるし行動に移せられると思ったら、大分気持ちが楽になりました。






















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