パターンにはできない

●平気なふりをしてはいけない
というパターンの頭のままに人と接してしまうと、
平静を装うあなたは間違っている、
だからこうした方がいいああした方がいいみたいな言葉が出てきて、
単なる説教になりかねない。
相手の苦しさを何とかしてあげたいと思う気持ちがあったとしても、
「平気なふりは苦しいでしょう」
「無理しない方がいいよ」
と、優しい言葉の裏にも相手のやっていることをどこか批判したいのだということがわかる。

よく言われる課題の分離で考えたとしても、
他人である自分には本当は何の関係もないこと。
その方がどんな態度で臨もうと(平気を装うのか、ありのままでいくのか)、
それは自分の問題ではないとわかる。

けれど、
自分の問題としてそこに注目してしまうのは、
相手を見て感じるこの胸のざわざわがあるから。
自分の中で起きている確かな動揺に、いろいろ考えずにはいられなくなってしまうのです。
例えば、課題の分離は頭でやっていることで、
パターン(胸のざわざわ)は心と身体で起きていることだから、ここには嘘をつけない、ということでもある。

もしも、パターンに引っかかっているとすぐに気がついていたら、
相手に何か言えるような状態ではないと、自覚することが必要だったかもしれません。
自分のパターンのケアして、心を定めていくことの方がずっと大事だったんだと思う。
心が定まったら、自然にいいと思える言葉(その人にかけたい言葉)が出てくるものだし、
そうやって言葉と共に、純粋な気持ちも伝わっていったと思う。

ただただ話を聞くということは、
パターンにはできないことなんだとあらためて思いました(表面的には聞いてるようにできたとしても)。
だからさ〜とか、
それで本当にいいの?とか、
わかるわかる、わたしも経験してきたよーとか、
心の内ではなんと、耳障りな合いの手が入ることか。

このあたりの違いをはっきりと感じ取りたいものです。
「感じる取る」ということは、とてもシンプルなことだからそこに理屈はない。

もう少しこのパターンには語りかけていこうと思います。












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