どう思われるかの世界
人からどう思われているか気になってしかない、という方は多いと思う。
というより人の目が全く気にならない人などいない、人間ですから。
どう思われるか、というのは、
嫌われたくないとか、いい人だと思われたいとか、
できる人だと思われたいとか、バカだと思われたくないとかいろいろあると思いますが、
それは、これまでその方がどんな体験をしてきたか、
そこでどんなことを他人から言われてきたのか、
自分はどんな思い(感情や感覚)をその体験で抱くことが多かったのか、
そうなりたくない、傷つきたくない、という恐怖から逃れたいために生まれる感情と思考なんだと思う。
他人がただあなたのことを勝手にそう思っているだけなのだが、
それが自分のすべてとなってしまい、他人に自分という人間を決めさせている状態。
そして、本来の自分ではなくてもいいと、そう思われるために必死に演じている場合もある。
本当は違う意見を言ってみたいけれど、
出しゃばらない人、協調性がある人と思われたいから本当の自分を抑えたりする。
自分を知られたくないと思うときも恐怖は生まれている。
どちらにしてもやっかいなことは、
どう思われるかと考えることが呼吸をするかのごとく、自分の一部となり、
そう考えることに何の疑問も違和感も持たず、それが自分の性格なんだと思い込んで生きているということ。
そうならない自分(気にとめず生きられる自分)は自分ではないかのように信じているのだ。
どうしたら、その世界から抜け出せるのか。
その世界は、本来の自分のありたい生き方を取り戻すために、気づいてもらうために見せられているのだと思う。
だとすれば、もうここの世界は充分やり尽くしたと思えるかどうか(もうわかりました〜って)。
他人を気にしない日はないかもしれないけれど、
他人とは関係なく生きてみたい自分がいることを感じられる時も必ずあると思う。
一人でいるときのすっかり安らいでいられる自分、
何かをして楽しくて大笑いしてしまう自分、
失敗したけど、まあがんばってるなあと身体をさする自分。
どっちの感覚を持って生きたいのか、ふと立ち止まり、
どちらが心地よいのか無理がないのか感じてみる。
それは、こう思われて良かったという恐怖から逃れた安心感ではなく、
こう思われたことに傷ついたから、今度はもっと気にかけて生きようとがんばることでもない。
もっと普遍的な心地良さがある世界だ。
他人の観察ではなく、自分をもっともっと観察して知っていきたい。
人から言われたことで、そこに深く傷つくことがあってもいい、
だって傷ついているのは本当の「私」ではないのだから。
「私」以外の誰が「私」を知ることができようか・・・
自分を知るというのは、決して他人にはできないことです。
でもやっぱり傷つく・・・というときは、
冷静さを持って、もしかしたら「事実を言われた」だけかもしれないと、
自分をまた観察すればいいだけです。
そうやって何度でも繰り返し練習していきたいです。
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