でも、軽いわけではない

昨日の続きになりますが、
身体の不具合にパターンは反応しなくとも、
別の事態には反応するパターン(昨日でいえば、ちょっと落ち込んだというところ)が出てくるのは、
何も不自然なことではないです。
どこがどう不自然じゃないかというと、
パターンって、その時々で、もっと言えば一瞬一瞬で顔を出すものが違ってくるからです。
体調不良のときは、もうここがパターンの出処だと、ここが原因と決めつける感じを持っていて、
全部微妙に違うパターンをひとくくりにしようとしていたことが多かったように思う。
身体の不調こそが、パターンの大元なんだと。
どんな感情も、全部そこにくっつけやすいのかもしれません。

パターンのケアって、
出てきたものをとにかく一つずつ語りかけていくところから始まるのですが、
どこか人間って効率性をこんなところにも求めてしまって、
そんな小さなものよりも、根本的で大きなもののケアをしなければ何も変わらないと思ってしまうのでしょうか。

今回、軽いわけではないけれど重いわけでもないというところをよく感じてみました(考えるのではなく、感じる)。
やはり軽さがない(足りない)のならば、
これまでのパターンらしいパターンではないのかもしれないけれど、
小パターン(小さめのパターン)がそこにはあるのだと思います。
引っかかり方が弱い、ごくわずかに感情が動いた、といった感情の波が小さなパターンです。

こういうとき思うのが、
『快ですか?不快ですか?』という二者択一。
これが一番シンプルでわかりやすい。
パターンが大きかろうと、小さかろうと、ほとんど感じない(重くもないけど軽くもない)状態であっても、
やはりパターンはパターンであって、「私」ではないのですから・・・。
ここを曖昧にしないで行けばいいって思いました。












コメント