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心と魂を震わせて

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今年は・・・というより、 去年の後半くらいから、新しいことへの挑戦が続きました。 本当にずーっと走り続けていた一年だったように思います。 かといって、すごく自信が持てた、ということでもなく、 恐る恐るどきどきしながらやっていて、 感情はたくさん騒ぎました。 そんな自分をひたすら観察していると、 それでもいいと思えるようになり・・・ やはり自分のしたいことへ、心を魂を震わせていきたい。 来年も、心と体のケアをしながら、 みなさんと学んでいきたいです。 今年一年、日記をお読みくださり本当にありがとうございました。 よいお年をお迎えくださーい! 桜山神社の烏帽子岩

愛おしい人へ

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昨日は仕事納めで、利用者さんたちと一緒に食事をしたりゲームをしたりと、 とても楽しい時間を過ごしました。 普段、あまり話さない人ともお話をしたり、笑ったり、 まるで大家族の中にいるような、 そういう環境に自分はいたんだなあとあらためて思いました。 そして、楽しいだけではなく、お別れもありました。 それは本当に寂しくて悲しくて・・・ これまでの感謝の気持ちと、 もっとたくさん関わりたかったという後悔のような気持ちと、複雑な思いでした。 その人が望まなくとも、出会わせてもらって、 そこにたまたま自分がいて親しくさせてもらいました。 やさしさ、たくましさ、勇気、ひたむきさ、謙虚、自然体、思いやり 誠実さ、質素、素直さ、ユーモア、あきらめ、成長、責任感・・・ といった「私」の資質に影響をあたえ、 自分が知らず知らずの間、 その人からたくさんのことを教えてもらっていたことに、今更ながら気づかされます。 よく一緒に大笑いしたので、 これから、その笑顔が奪われるようなことにはなってほしくない。 それだけをすごく願いました。 でも・・・ 笑顔でいること、明るくいること、前向きになれること、 そういうことだけが人の成長を促すものではないということもわかっている。 せつない気持ちを持ちながら、 もっと、これから自分は、愛おしい人へ素直になっていこうと思いました。

興味のないことへの変化

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興味のないことはもうできなくなってきている。 年を重ねるごとにそれは顕著に感じていて、 そこへ使うエネルギーがなくなってきているような気がします。 でも仕事だと、そうはいかないことが多く、 仕事だから無理してやっているという方は多いと思うのです。 でも、なんでこれやんなきゃいけないんだろって思うと、 もう、頭が回らなくなるというか、やる気がおきないというか。 何もかもストップしてしまうような。 あとはもう、早く済ませたい一心でやっている。 つまり、 そこに自分がいない。 興味がないことに対しては、 心ここにあらず。 もちろん、体力的にもきつく感じるものもあるし、 自分の得意不得意も、向き不向きもわかってくるので、 そこへの努力というか、がんばりが効かなくなっているというのはあります。 好きなことをやるのとは全然違う。 でも、このやる気のない状態。 一体どうしていこうか? (どうもしなくていい、という答えもあるかもしれないが~) やりたくないけど、やるか!と、 心と不一致のまま突き進むのか・・・ やはり、それをする『動機』の部分がカギをにぎると思いました。 なぜ、それをしようとするのか(または、しないのか)。 動機のところをよくみていくと、 自分のことがよくわかってくるように思います。 ずっと、この興味がないことをしなければならないことへの息苦しさがありました。 一貫して私は、好きなことだけをやっていきたいという思いが強かったのです。 できれば、それだけにエネルギーを注ぎたいって。 それは今も変わってはいないのですが、 それをする理由、しない理由を考えるようになってからは、 少しだけ見方が変わってきた感じがあります。 普段、他人を優先している人は、自分第一でいいと思うのです。 ですが、今の自分は、 自分を優先しすぎてしまっているのではないか?と。 一方で、 自分のことを大切にするのと同じように、 自分以外の人も大切に思えてきている・・・ この頃それを感じることが増えてきました。 この感覚は、まだとてもか弱く小さなものですが、 か弱いがゆえに大事にしていきたいのです。 だから、興味のないことも、 自分以外のこと(人)へ目を向けるということがしたくなっているのだから、 そこには興味があるのです。 ここを感じると、心にじんわり温かさが広がるのがわかります。 それはきっと新し...

奉仕って何だろう

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奉仕とは、一般的には他人に対して自分の利害を考えずに尽力することをいい、 宗教的には神に仕えるという意味もあります。 どちらの意味でも、 見返りなど求めず、自分を失くして、 心の底から誠意をもって自分以外のものに尽くす(働く)ということなのですが、 これって、すごいことだと思いませんか? これほど尊い行いは、この世にはないのではないかと思います。 そこにあるのは、愛だけ。 自分はそういうものを一生かかっても持てるものだろうか・・・ 先日、夜に一人で過ごしていたとき、 その、奉仕という言葉が頭に浮かんできました。 奉仕をする、奉仕の精神で・・・ なんて自分に似つかわしくない言葉だろうって思いました。 これまで、そういう経験ってあっただろうか。 家族が病気になったりしたとき、 何も考えずに必死に看病したということはあった。 でもそれは、自分にとって大事な人だからできることだし・・・。 言葉の深い意味を追求したいのではありませんが、 奉仕って何だろう・・・と考えています。 一番ぴんとくるものは、 あまりにも崇高すぎてできると思えないもの。 だから、その言葉が浮かんだ時に胸のあたりがざわざわしていました。 うっ・・・怖い、なんだか怖い。 何というか、 それが自分にとって、これから向き合うべき課題のような気がしたのと、 まったく見返りを求めずにやっていくということが、 どんなに難しいことかを自分自身がよく知っていると思ったからです。 小学校の道徳の本に、奉仕するという話が出てくるたびに、 いい話なのにどこか苦しくなってしまうような感覚がありました。 例えば、道に落ちているごみを拾ったり、 困っている人がいたら声をかけたり、 そういうことができないわけではないけれど、 そういう人間は、無理しているということが本当にまったくないものなのだろうか。 という疑問があったのです。 また、自分のような人間がそんな尊いことができるはずがない。 そんな背伸びをしてはいけない。 と思っているふしもあるかもしれません。 なんといっても ●自分が中心でいたい(ちやほやされたい) というパターンもあるくらいですから。 でも、本当はもっと成長したいと思っている。 それなのにできるはずがないというところへ意識を向けていたら、 自分が自分に制限をかけていくことになります。 あれこれ言い訳をして(パターンの...

嫌いという感情について

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カウンセリングを学ぶようになってすぐ、 なぜか自分の周りにいる人たちがどんどん嫌いになっていく・・・ ということがありました。 今でこそ、その現象は不思議なことではないのですが(自分に正直になっただけ)、 当時は、どうしてこうなってしまうんだろうと、 人に対していちいち鼻につき、 怒りの感情や不快感がわいて仕方がなかったのです。 何よりそんな自分自身がとても嫌でした。 そんな自分、というのは、 他人からよく思われたい自分。 誰とでも仲良くできる自分、他人を嫌わない自分ではないことを突きつけられていくような感じがして、 ものすごくつらかったのです。 そういう自分ではないものがどんどん出てきたのは、 心というより、 自分という存在全体から何か毒でも吐き出しているような感じだったと思います。 これらは、みなパターンであって本当の「私」ではないのですが、 はじめはそこがはっきりと分離されていないので、 すぐに感情にふりまわされてしまいます。 頭では、大丈夫(嫌っていいんだよ)と言い聞かせても、 やはり他人を嫌うということにとても抵抗があったし(嫌っているのは事実なんだけど)、 それを他人に悟られるということも怖かったし、 嫌っていないふりをする自分も、 はらわたが煮えくり返るように怒っている自分も、 どちらも最低だと思っていたと思います。 パターンへの語りかけや、いろいろなワークをしながら、 一歩進んで二歩下がるようなスローペースでしたが、 他人をどうしようもなく嫌いだと思う自分自身(←パターン)を、 それが今の私なんだから、いいのかな・・・ とやっと少しづつ受け入れられるようになっていったように思います。 『嫌い』に対する捉え方も変わってきて、 何に対する拒否感、抵抗感、恐怖心なのか、 自分の中にあるパターンの傾向がそういうことを通して少しだけわかってきた。 そんなような感覚を持つようにもなりました。 あの人のこういうところが受け入れられない、というのは、 全部、自分がされたくないパターンが反応しています。 だんだんそこが冷静に分析されるような、分離されるような、 自分とは全く別のところで起きている・・・ そう感じられることが増えてきたように思います。 この頃また新たに感じられているのは、 なぜ嫌いだった人がそうではなくなっていくのか?という事には、 単なる自分の中のパタ...

友達、仲間、同士

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思いがけず友人からクリスマスプレゼントをもらいました。 包み紙をあけると、そこには手編みのカエルが・・・笑。 彼女の作ったものならば何でも自分は好きかも?と思いました。 広辞苑での『友達』の定義は、 親しく対等に交わっている人、だそうです。 自分は友達があまりいない方だと思っていますが、 この定義の視点ならば、 結構な人数があてはまるような気がしました。 上司と部下、先生と生徒、先輩と後輩、年上年下など、 人としてはどんな人でも、みな対等だと思うからです。 親しくなればなるほど、相手との距離が一定になっていくような、 ちょうど良い空間ができるような感じがします。 唯一、少しだけ関係性が違うと感じるのは、 自分にとって多くの気づきを与え、導き、私の先を歩く人。 身分や立場や年齢ではなく、 魂の領域が自分とは違う・・・という感じを受ける人がいます。 自分が見えていないものを見ているような人。 自分が何か悩んでいるときや、迷うことがあったとき、 自分がいる領域では、決して気づけないことがあると思うのですが、 そのときに、そういう人からどうにかして教わりたいと思ったりします。 直接教えを乞うということができなくても、 自分の目に耳にそれを知ることができるよう、アンテナを張っていたいなあと思います。 そういうためにも、普段親しくお付き合いする人というのは、 誰でもいいわけではないかも。 この人といると楽しいおもしろい、っていうのは共通しますが、 一緒にいると、自分に正直でいられるという感覚を大切にしているかもしれません。 それは、たくさん愚痴を言い合える仲、超仲良し、というのとはちょっと違います(たまにはあっていいけど)。 以前は、自分のパターンを満たすために付き合っていた交友関係がほとんどでした。 一緒にいてパターンが騒がないからいるというよりは、パターンが喜ぶことをしてくれる相手を選んでいたのです。 今はもうそういう関係は、自分自身が疲れてしまうし長続きしないことを知っています。 逆に自分がどんな動機でその人と関わっているかによって、 関係性が良い方へ変わっていくことも経験としてわかってきたように思います。 相手の言動に自分のパターンは引っかかりながら、 そこに一人でちゃんと向き合える自分でありたい。 それが「私」の望むことなのだと思います。 どんな性格でもどんな生き方で...

幸運なときの謙虚さ

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【夜と霧】の著者、精神医学者のフランクルが言った言葉の中に、 気になったものがありました。 ―――――――――――――――――――――― 真の勇気が試されるのは逆境の時ではない。 幸運な時どれだけ謙虚でいられるかで試される。 ―――――――――――――――――――――― 一度だけ読んだときは、 え・・・、逆境のときの方が、人間っていろいろ試されるんじゃないの? と思ったのです。 でも、自分自身を振り返ってみると、 苦しいときこそ、何かをするという覚悟はしやすいような気がしました。 真の勇気というところを、もう少し深く考えてみたいです。 普通では考えられないようなことをやれた・・・ そのために勇気をふりしぼった・・・ という経験は、 何かから逃れたいという気持ちが強ければ強いほど、 そこへ向かえるのではないかと思います。 そのために必要なのは、むしろ勇気しかない。 でも、それに対し、 幸運を感じているときは、何を私たちは試されているのでしょう。 あえて勇気をもつ覚悟をするようなこともなく、 何かを変えたいという緊迫感もなければ、 自分が変わっていきたいともあまり思いません。 苦悩がない幸せというのは、そこには成長というものがあまりないのかもしれないですね(苦悩がある幸せ、とは違うから)。 人間が成長したい生き物である限り、 幸福感だけでは、自分の人生を生きたとは言えないような気もします。 成長していきたいというのはとても大事な感覚なのだと思います。 その大事な感覚が、 幸運を感じているときは捉えにくくなっていて、 大事なものが本当に目を凝らさないとよく見えなくなっているのだと思います。 よく聞こうとしないと聞こえず、 「自分が、自分が」では、本来感じらるものも感じられなくなっていくものなのだと思いました。 また、不運なときよりも、 幸運なときの方が、傲慢になりやすくもあります。 すべてが奇跡ではなく、すべてがあたりまえのように感じてしまうからです。 この状態で深く物事を捉えたり、 感謝の気持ちを持ったり、自分が生かされて生きているという実感を持って毎日を過ごすような境地には至らないのかもしれません。 謙虚とは、 自分よりも相手を優先し、相手を思いやり、相手のことを考えること。 そして、それは自分が引く、控える、慎む、負ける、退く、陰となること。 幸せを感じているときこ...

こころのケア講座 ~オガール開催~

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2024年1/6と1/21に『こころのケア講座』を開きます。 場所は、建物も素敵な紫波町 オガール 。 少しでも、今ある悩みへのヒントとなるよう、 自分で自分のこころをケアする方法を、 心をこめて~お伝えしていきたいと思っております。 前回、ご参加いただいた方の声をご紹介します。 ↓↓↓ たくさんの感情があるということから始まり、 「心のカラクリ」の説明はとてもわかりやすく 興味深かったです。 感情を生みだし、 人それぞれ違うというパターンの存在。 自分にはどんなパターンがあるのかを ワークシートを使い 具体的に知る事ができて面白かったです。 細やかな説明のもと、 もっと他 のワークも学びたいと興味がわきました。 目に見えない心の中を垣間見た楽しい時間となりました。 (50代女性) あらためて、自分自身がとても励まされ、 来年もコツコツと講座を開いていきたいと思いました。 講座後に、ふり返りのお時間を個別で10分ほどお取りします。 ミニミニカウンセリングとして体験していただけたらと思っています。 小さな会となりますが、皆さまのご参加心よりお待ちしております!

苦手なことに慣れていく

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小さい頃どんな子どもだったかというと、 元気でいつもケガが絶えない子でした。 でも、もっと重大なこと(特徴的なこと)を思い出しました。 それは、いつもちやほやされていて調子にのっていた子だったということ。 その発端は、おそらく幼稚園や小学生のころの発表会で、 出し物の主役になった頃からだと思います。 たまたまそういう役ばかりに選ばれていたので、 何かやる(発表とか、ちょっとした出し物とか)というときに、 当然のように自分がその中心にいると思うようになっていました。 そして、友達といても、〇〇ごっこで遊ぶときにも、 やはり自分が中心であることが前提。 そうでないと思うように楽しく遊べない感じがあったんですね。 他の子は楽しくても自分はつまらない、となると耐えきれず。 遊ぶのやめる・・・ そんな子どもだったように思います(性格わるっ)。 小さい頃、両親以外にも、 近所の大人たちがとてもかわいがってくれた記憶があります。 可愛がられることがあたり前になっていて、 今思うとやりたい放題だったと思うのです。 いろんなお宅に遊びに行っては、またそこでもちやほやされていたように思います。 だから、そうではない環境の中では、 とても居心地が悪く、窮屈で、不機嫌になったり悲しくなったりしてしまうのでした。 今もそういう、●自分が中心でいたい というパターンは無くなるということはありません。 何かをきっかけとして、感情が騒ぐか騒がないか?というだけで、 ずーっと心の中に居続けています。 それなのに、あまりそのパターンをケアしてこなかったと思いました。 自分が優先されなかったり、自分よりも誰かが大切にされたり、 自分はなんなら忘れられているし・・・ということに、 もっと慣れていく必要があるなあと思います。 そういうことをあまり自分はやってきていないのです。 自分から引き下がる、ゆずる、控える、負ける。 そういうことが苦手な自分。 もっとできるようになっていきたい。 自然にできることをするのは、簡単です。 「私」の資質としてこれまでたくさん使ってきているから得意なのです。 本当に苦手であること、さけていることは何なのかを見定めていく。 楽しいとか嬉しいとか、 そういうものではないことにも慣れていきたいと思いました。 練習していこう! つかの間の青空

流れを創る

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去年の今ごろ は、『勇気』を持ち続けることに焦点をあてて毎日を過ごしていました。 「私」の中にある勇気。 これをやり切ったという実感を持って年を越したいと思い、 そして何とかその一歩を踏み出せたことが、 一年経った今につながっているように思います(結構がんばっていた自分)。 それで、今年はどうかというと・・・ 『流れに逆らわない』『流れに乗る』ということに意識が向いているように思います。 思い通りになっていかないことがあり、 あれ?これ、パターンが思っていることなんだと気づく。 何が正しくて何が間違っているのかなど正解はないと思っていたけれど、 思い通りにいかないときは、やはり何かが違うのだと思うのです。 パターンでやっている可能性が高い。 そうなると、 むしろ思うようにいってはいけないんだなあと思う。 だからこそ、 うまくいかない・・・ということに逆らわず、そのままでいてみます。 現実を見て、もがき苦しむ自分をそのままに受け容れていく。 そうやってちょっとずつ進んだり止まったり、パターンのケアもしながらいると、 必ず状況も変わってくるように思います。 よく変わるということに期待をせず、でも「私」を信じて、 流れるがままに(たとえ、うまくいかなくとも)それと共に過ごしてみる。 そうやっていい流れとは、自分から生みだし創っていくものなんだと思いました。 受け身ではなく、自分が変えられることをやりながら軌道修正していく。 そうやって新しい年を迎えたいです。 南部家の家紋ってかっこいい

いろいろメンテナンス

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このところデスクワークが続いてて、体がガチガチです。 出勤してから一度も外に出なかった・・・という日もあり、 そういう時は、なるべく立ち歩くようにはしているけれど、 体だけでなく頭の中も固まってくるような感じがします。 普段、外に出ては空を見上げ、新鮮な空気を吸い、 四季の移り変わりをたのしむということが、 どんなに自分の心と体を解放させていたのか~と気づかされます。 同じところにずーっといるというのは、 集中できるというよい面もあるけれど、 やはり動かないことが続くと、自然と動きたくなってきますね(動物だ!)。 昨日は予定より早めに仕事をきりあげ、 最近母の往診に来てもらっている歯医者さんのところへ行って来ました。 こちらの歯医者さんとっても美人な先生で、且つやっていることも飛んでます。 はじめて聞く口内マッサーというものを、興味津々で体験してみました。 これが、思いのほか気持ちよかったです! お口をぐわーーーっとひっぱられ、 意外とあちこちに伸びる自分の口にちょっとびっくりしましたが、 お口の中の世界が広がった感じがあります(実際口の中が広くなる)。 歯茎にもたくさんのツボがあるらしく、 マッサージのあとは体がポカポカ、なんだか疲れもすっきりとれて・・・ 夕飯後は、すぐに寝てしまいました。 このところ気づくと、 いろいろ体のメンテナンスをするようになったなあと思います。 それだけ普段頭を使うことが多く(だからといって、大したことはやっていないが) 真逆のことがしたくなっているのかな。 ストレッチもぼちぼち。 自分の弱いところ(肺機能)を重点的に教わっているのですが、 呼吸が前よりも少ししやすくなっている気がして、いい感じです。 ヨガのように体に意識を向けるところは同じですが、 なんとなく動き方が自分にあっているというか、 ヨガをやっていたときよりも、無理なくできるものが多い。 そして、気が楽です。 この、気が楽というのは結構大事なポイントですね(気持ちが楽しむと書く!)。 体のことなのに、 心の声にしたがってやっている感じが、またおもしろく、 頭で考えずに、心で体が動かされているような感じってなんだかいいです。

愛されたい

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●あんな言い方されたくなかった というパターンがあるとき、 じゃあ、どう言われたかったんだろうって考えます。 もうちょっとだけ優しい言い方してくれたらなあ~ って思うことがあります(←私の場合)。 他にも・・・自分のことを邪険にしていない、粗末にしていない、 乱暴ではなく、冷たい感じではなく、無関心ではなく、見下した感じでもなく、 自分のことをちゃんと尊重しているような、信頼しているような、 そういう言い方だったらいいって思っている。 要するに、自分のことを少しでも大切に扱ってほしいのだと思います。 そんなとき、 言ってほしかった言葉を相手は言ってくれなかったので、 そこをあえて自分に向けて言ってみます。 「そうだよね、あなたは、〇〇〇〇〇って言ってほしかったんだよね」 そうすると、 心の中でほっとしているパターンがそこにいたということがわかります。 でも・・・ほっとしたのもつかの間。 その言われたかった言葉を何度か自分に向けて言っていると、 これはこれでまた、今度は気持ち悪さが芽生えているのも感じます。 言ってほしかったはずなのに、それはそれで落ち着かなくなる。 この相反する感じは、 本当は他人から言ってもらいたいと思っていない「私」がいるからだと思いました。 本当の「私」は、そういうものは何も求めていない。 「私」って愛そのものだからです。 パターンはとにかく他人で自分を満たそうとします。 もっと自分を大切に扱ってほしい、尊重してほしい、信頼してほしい、 褒めてほしい、認めてほしい、かわいがってほしい、愛してほしい・・・ 愛してほしいなんて、 まさかそこまで要求していないよと思うけれど、 確かにそういうものがあるので騒ぐのです。 小さいころに、 親や先生、周囲の大人たちから愛をたくさんもらったという体験がないと、 そういうパターンが刻まれることがあります。 でも、たくさん愛されて育ったという体験があってもなお、 愛されたいというパターンは人にはあるように思います。 それも、『自分が思うような愛され方』をのぞんでいる。 何をもって愛されているかという判定は、 自分の(パターンの)基準なのです。 自分が思うような言葉、話し方や表情、態度、行動、感じるものがほしいのですね。 あんな言い方をされたくなかったと思うときは、 寂しがっているパターンに気づいてあげることができ...

愛しく語りかける

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久しぶりに騒いでいるパターンがあり、語りかけをしています。 久しぶり・・・というくらい、以前はしょっちゅう引っかかり、 そのパターンは本当に小さな子どものように、 母には母であってほしいと、 自分の知っているお母さんでいてほしいというパターンが騒ぎました。 人は、赤ちゃんだった頃は何をしても可愛いし、 反抗期は大変だけれど、またいろいろ物事がわかるようになると、 その成長はとても微笑ましいものです。 日々の変化を楽しみに子どもの成長を見守れる、幸せな満ちた気持ちがそこにあります。 なのに、大人が老いていくということに対して、 これも人として自然な変化ではあるのに、受け入れがたいものがあるのはなぜなのでしょう。 どうして、子どもは喜ばれ、老いた年寄りはそうではなくなっていくのか。 老いていくこと、できないことが増えていくこと、わからなくなっていくこと。 そうなることに本当に喜びはないのだろうか? 変わっていく老いていく母を見ていると、 悲しみ、虚しさ、寂しさ、いらだち、悔しさなどいろいろな感情がわきますが、 それらの中にも、喜びや笑い、幸せに満たされている自分を感じていることがあります。 老いていく母がいるからこそ、そういうものを感じられるようになった気がします。 (自分のパターンの)思い通りにならないことがあっても、 その中にもいわゆる自分にとっての『いい感覚』を抱くことはたくさんあるのです。 それは、忘れていたと思っていたことが忘れていなかったり、 出来なかったことがやれていたりということでなく(それもたまにあるが)、 変わってしまった中にも、母であることに変わらない部分もより感じられるからかもしれません。 顔にあるシワを見たり、 手をにぎり体温を感じたり、息づかいを感じたり、 そういうものを通して私が満たされている感覚があります。 パターンが騒ぐのも人間だけれど、 いい感覚を持って生きられるのも人間の特技なのかもしれません。 パターンのケアをしていくと確かに心は落ちつきを取り戻し、 そしてまた白パターンの感覚(母を自由にしていこう、自由な母のままを見守っていこう) を選んでいく。 パターンが騒いでも騒がなくても、 この自分だけのいい感覚というものは、本来自分が持っているものなんだと思いました。 きっといつかは、 私も自由奔放なおばあちゃんになる日が来る。 その準...

人間らしさ

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『今日、誰のために生きる?』 ひすいこたろう×SHOGEN 著 道場の仲間もブログで紹介しておりましたが、 ブンジュ村でSHOGENさんが体験した話が、 今これほど多くの方に響くのは、それらがすべて、 私たちの祖先、日本人から教わったというところにあるのではないかと思います。 日本人が自分を大事にすること、 心にゆとりを持ち、心を満たすことを大切にしてきたこと、 幸せに生きる日々の心のあり方をアフリカの小さな村に、 今も伝わっているということの驚きです。 YouTubeでもたくさんのお話を聞けますが、 今の自分に響いたもの、一つ選ぶとしたら、 『人間らしさ』という言葉です。 自分が何かしでかしたり、問題を起こしたり、失敗したり、 とにかく、あ~やってしまった・・・と思ったときに、 ああ、自分はなんて人間らしいんだ! と思うというところ。 大人になるにつれて、だれも完璧な人間になっていくわけでもなく、 なんでもできるようになっていくのでもなく、 ただただ人間らしくなっていくということなのです。 だから、この村では、何か間違ったり失敗したときに、 相手を非難するような感覚は持たず、 とても人間らしいなあと思う(かわいいなあ、とも言う)。 この感覚ってとても心にゆとりがあっていいなと思いました。 しょっちゅう何かしら抜けている私にとって、 また、つい相手に自分の正しさをおしつけてイラっとしてしまった時など、 人間なのだということを思い出せる、本当に腑に落ちる言葉だと思いました。 また、このブンジュ村の日常には、 日々の具体的な言葉の発し方や、考え方、 心のあり方を考えさせられる話がいっぱいあります。 この本、実のところ、 ちょうど夫とケンカした時に読んだ本でした(まさかケンカに役立つと思ってもみなかった)。 そうか・・・私は、夫との共同生活をあたり前だと思い、 感謝の気持ちも薄れ、なんと温かみのない言葉を平気で使ってしまったんだ。 早速ブンジュ村に習って、 大自然に身を置き(そう想像して、夜空を見る)、 その雄大さや美しさにしばし浸ってみます。 圧倒的な自然に包まれると、人はもう許されるしかないようです。 これは、パターンで言えば、 白パターンの感覚に全身浸ることと同じだと思いました。 「相手のことを抱きしめるように」 大事に温かな言葉を交わせた(謝れた)感覚がありました...

プロの仕事

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白髪が年々増えてきて、美容室でカラーをしています。 カレンダーを見ながら予定を立てるのですが、 一つだけ憂鬱なことが・・・ それは、皮膚にカラー剤が付着するときに、 じりじりとしみてしまう、あの痛みです。 そう、しみるというより、痛い・・・ 私は、いつのころかカラー剤やスタイリング剤の匂いに過敏になり、 美容室には行きたいけれど、 あの空間にいるということが結構つらく感じるようになりました。 スタイリング剤はつけなければいいだけなのですが、 カラーリングはそうはいきません。染めたい、しかも明るい色に。 染めない派の人から見れば、 そんなに苦痛なら、やらなきゃいいだけじゃんと思うかもしれませんが、 うーん、それはイヤなんですね~ だからもう、自分の好きな色にするためには、 ひたすら我慢しかなかったのです。 美容師さんも、地肌にオイルを塗ってくれたり、 なるべく肌にふれないぎりぎりのところで施術してくれたりと、 ありがたいほどにいろいろ工夫をしてくれていました。 自分が美容師だったら、 明るい色をオーダーしておきながら、 「しみます!」って顔をしかめる客って、超やりずらいに違いない。 ところが・・・ いつもの私の状態を不憫に思ってくれていたのか、 刺激が弱くてちゃんと染まるものはないか? とずっと探してくれていたのです。 そしてついに・・・ あれ?全然しみない。 いやいや、まったくしみない、ということは無いだろうなあと思ったけれど、 本当にしみません。 目にも地肌にもツーンととしたあの刺激はなく、 しみないし、痛くない!! うそ~~、感動・・・。 カラー剤って、化学薬品ですから、 体にいいものでは当然なくて、そこはそうなんだと思います。 それでもなんとか、不快な思いをしないでおしゃれを楽しんでほしいと、 何かいい方法はないかと考えてくれていた美容師さん。 そして、この方法なら、髪の毛も傷みにくいし苦痛も少ないし色も近い。 私が来店したら試したい!と思っていたそうです。 自分の知らないところで、そんな努力をされていたんだなあと思うと、 本当にうれしかったです(ちょっと泣きそうになった)。 そして、さすが、プロ。 いかにそのお客様の希望を叶えてあげるのか、 少しでもその人のいい感覚(センス)を大切にしながら、 元気にいつまでも美容室に来てほしいと願ってくれているのでしょうか...

年季の入った夫婦

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先日、しばらくぶりに父と会って来ました。 もう一年くらい前からでしょうか、 私のことが分からなくなっているような感じがあり・・・ それを実感するのがちょっと悲しくて、 父には会いたいけれど、会いたくないような複雑な気持ちになり、 しばらくホームへの足が遠のいてしまったことがありました。 毎回、どなたですか?的な顔をされると、 私も慣れてきたようでいて、まだやっぱり慣れないです。 (今日は、調子が悪かっただけなんだと思いたい) でも今回は、母を一緒に連れて行ったので、少しだけ期待がありました。 いかにも、母娘で来ました!私はあなたの娘ですよ~ という雰囲気を見た目で出してみたのです。 すると母は、それでも私にピンときていない様子の父に向かって、 「ほら、まーちゃんでしょ!わかるでしょ」と、 こちらが思う以上に父に気合をいれます。 妻ってすごい・・・ 夫の今の状態がどうであろうと、 夫婦の力関係って不動なんですかね。 父は母の言葉に押されて、 わかったふりをしているような感じになって、とりあえずうなづいていました。 絶対、わかっていない・・・ お父さん、いいよ、無理しなくて・・・ と思う私のそばで、まだ母は容赦なく父にげきを飛ばす。 そんな年季の入った夫婦の姿を見ていると、 逆に父を励ましてあげたくなりました。 一緒に暮らしていたころの、 母の強引さにいつも負ける(負けてあげる)優しい父が今もここにいます。 父が自分を見ても名前を言わなくなったり、 顔をじーっと見た後にそっぽを向いたり、 いろいろショックにはショックだったのですが、 それでも思ったよりは、自分自身がこういう事態によく適応しているなと感じます。 もっと、泣き狂うとか、現実が受け入れられないかと思っていましたが、 そうでもなかったです。 これは、今までもうたくさんパターンへの語りかけをしてきた賜物だと思いました。 父は、歯が結構無くなってしまったので(年を取ると歯って抜けるんですね)、 あまり食べれなくなったということもあり、 しばらく見ないうちにまた痩せて小さくなっていました。 でも、それ以外は、顔色はとてもよく、心は穏やかそうに見えました。 そして、何と表現したらいいのか・・・ とても幸せそうな、仏様のような顔をしているなあと(耳たぶもでかいし)。 手をにぎると、 私の手がとても温かったからなのか、 び...

自由なあり方

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子育てでのあり方、妻としてのあり方、仕事でのあり方など、 その時によって行動としては違うものがあるかもしれませんが、 でも大もとのところは、 パターンではなく本当の「私」が選ぶもので生きたいと、自分は思います。 でも、自分のあり方は自分だけのもので、 他人からしてみれば、 それは違うもの、正しくないものだったりします。 人によってどうありたいか?という問いの答えは、自由なんだと思います。 表現方法は違えど、「パターン」と「私」を分離させ、 何かのきっかけがあって、自分の真のあり方を考えるようになる人もいると思います。 どうしてもパターンって引き寄せるエネルギーが強力なため、 それとは思わず、パターンがこうしたいということを、 本当の自分の生き方のように思ってしまうことがあります。 そうした方が自分は幸せ、それが無難、今までもそれでやってきたんだ。 だからこれからも、これでいい・・・ というような過去の自分の延長で、思いこみをもってしまうこともあります。 そういうものを見てしまうと、 自分自身が少しざわざわしてくるのがわかります。 何のざわざわか・・・? きっとこの人の本音は違うところにあるのではないかと感じるとき、 それをほっとけなくなってしまうような感覚です。 そうじゃないものがあるとか、それは本来のあなたではないとか、 私の心の中はざわめく。 これこそ、自分のパターンなんだと思う。 その人によりよく生きてもらいたい。 こんな風になってほしい、気がついてほしいと思うパターンがあるのだと思いました。 つまりは、自分のあり方が正しく、 あなたのは間違っているということを言っているんですね。 他人が決めた選択を、自分のパターンで見ているんだと思いました。 それは、相手ではなく、自分が自分を見失っている状態ともいえます。 自分と天をつなぐパイプの中に、他人を入れているのです。 おそらく、幸せになってほしいと思うような相手であるからこそ、 自分のパターンが発動してしまうのだと思いますが(どうでもいい相手では、たぶんならない)、 それは結局、自分のエゴに過ぎないので、 かえって相手の進む道を妨害しているようなものだと思いました。 どんなあり方であっても、その人であって私ではないのだから、 何一つ関われるものではないだと思います。 ただただ自分の意識だけを、自分にとっていい感覚...

ひとときの時間

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今日の勉強会は、 『簡潔に話すこと』につながるワークをしました。 Kちゃんが外で習ってきたことを私たちに教えてくれたのですが、 いつもと趣向が違ってとても新鮮でした。 勉強会のあとは、FさんとK子さんとでランチ。 私は、この一か月いろいろあった話を聴いてもらいたかったので、 ランチに行く!となっただけで、 散歩に行くと言われてしっぽが全開になる犬のようになっていました。 道場のセミナーでもそうなのですが、 本題の後のお食事時間というのが、毎回楽しみで好きなんですね。 その続きの話や、そのときにしか出ない話、ときにプチセミナー的な内容もあったり。 今日は、最近の心身の変化や、今悩んでいることに対してどうありたいのか、 また、相手への自分が持つパターンなどの話をしました。 これらの話って、いわゆる世間話とはちょっと違います。 悩みごとの相談とも違うし、他人の愚痴でももちろんないし、 きれいごとでも、自分を責める話でもない。 起きた事に対しての、自分の感情を素直に正直に話している・・・感じです。 これは、あたり前のようでいて、あたり前ではないのだと思いました。 普段も、人に気持ちを伝えることってありますが、 相手にそれを言うことによって、 本当は相手に変わってほしいとか、何か返してほしいとか、 また逆に自分を卑下してそれを否定してほしいとかいう気持ちが混じります。 でもそういうものが混じらない、 話す動機に不純なものがないと言ったらいいでしょうか、それがあたり前ではないと感じたのです。 いいも悪いもなく、そのまんま思ったことを言い、 それを聞いて、そうなんだ~と今の状態のその人を見る。 その感じが、なんだかとても楽で自然で、そして特別なことだと感じました。 そして、みんなも自分も、 それぞれの課題に向かってがんばっているんだなあ・・・と。 私自身、話していると、頭の中が少し整理されていく感じがありました。 また、いろいろ緊張した体験も口にしてみると、 自分がいかにおかしいことをやっていたんだろうと笑えていました。 ほんのひとときですが、力をもらったり与えたり、そういうものが通う時間だったように思います。 お互いに切磋琢磨しながら(←この言葉がぴったり) また次へ進んでいきます。

深いところにいるパターン

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自分の感情(気持ち)はわかっても、 その引っかかるパターンが、どういうものなのか。 よーく観察しないとわからないときがあります。 いくつか、該当しそうなものを出し、 こんな感じかなと、それに語りかけをしますが、 しっくりきていないことがあります。 少し時間がたってもう一度みていく。 なぜ不快になったのか、悲しくなったのか、つらくなったのか。 どうしてそう思ったの? どういうところが嫌だった? すると、今起きていることに対しての表面的な部分ではなく、 もうずっと前から、そこには触れられずにいたパターンがありました。 触れられていない、気づいてもらっていない。 だから、かたちを変えて現れていた。 パターンにしてみれば、ずっと気がついてもらえないということは、 どれだけ深く傷ついていることか・・・ その深い傷を思うとき、 再び感情があふれ、涙が出ました。 そして、あなたをひとりぼっちにしてきてごめんなさいと、 本当にパターンに対して申し訳ない気持ちと、 もうこれからは「私」がちゃんと守っていくから大丈夫だよと、 温かくやさしく抱きしめ、 「私」がちゃんと守っていくと伝えました。 おびえている小さな子ども。 言葉が出なくて、無表情で固まっている。 そんなパターンがいました。 深いところでずっと黙っているパターン。 さわぐパターンばかりではなかったのです。 そういう我慢しているパターンもあるんだと思いました。 だからこそ、怒りも悲しみも深く、複雑になっていたのかもしれません。 やっとそこに目を向けられた・・・よかった。 感情があるからこそ気づくことができます。 どんな感情もあっていい、というのはそういうことなんだと思いました。 感情があって、パターンを見つけられて、 本当にあなたがいてくれてありがとう・・・です。

腹を立ててほしい

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自分だったら腹を立てて怒るようなことを、 どういうわけか怒らない人っています。 そういうとき、 え~嘘だ~、そんなはずはない・・・と疑ってしまいます。 言葉や表情、態度から、全然怒っているようには見えないその姿をみて、 今自分に起きている感情って何なんだろうと考えました。 まず、怒っていない(そう見えない)理由は3つほど。 ①自分にはあるパターンがその人にはないから。 ②本当は腹を立てているけれど、平気なふりをしているから。 ③腹の立て方(表現方法)が違う。 このうち①だけは、腹が立っていないということなんですがー 自分が何とも思わないことを、他人は腹を立てているというのは、 よくあることだし、許せるものなのですが、 その逆は、どうも引っかかります。 自分が怒るようなことは、他の人にも怒ってほしいんですね。 できれば、自分以上に・・・ どうしてかと問えば、 怒りの感情は人として、レベルが低いと思っているからです(←これ、自分のパターン)。 すぐ腹を立てるというのは、子どもっぽいし、 人間ができていないような、修行が足りないような、 浅はかな人間のようにパターンは思っているんだと思います。 そんな人間で自分があってほしくないのです。 もっと、客観的で冷静で、落ち着きがあって、 ちょっとのことでは感情的にはならない。 そんな、できた人になりたいのですね、パターンは。 だから、目の前の他人には、せめて自分よりも劣っていてほしいのだ。 小さなことでも腹を立てたり、感情的になったり、取り乱してほしい・・・ そういう人を見たらきっとパターンは、 ほっとして、安心して、優越感に浸って、 自分ってすごい!って思うのかもしれません。 ここまで書くと、なんだかとても恥ずかしい気持ちになります。 もういいわ~・・・って思う。 でも、こういう恥ずかしいという感情がわくまでは、 パターンは真剣になって、腹を立てない相手の謎を解こうと、 自分を観察せずに他人ばかり見てしまうのでしょう。 以前、黒パターンが叶えたいこと(相手から言ってほしいこと)をとことん書いてみる、 ということをやったことがありました。 自分に言ってほしい言葉(台詞)をずらっと並べ、 実際に声に出して言ってもらうのです。 そうするとはじめは、たっぷりとパターンにとっての安心感と優越感に浸っていたりするのですが、 すぐに、もうい...

したいことを決める

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先日受けたカウンセリングで、 「どんなチャンスも見逃さないように」 と言われたことが心に残っています。 チャンスとは、何か大きな夢みたいなものだけでなく、 自分が今したいと思っているちょっとしたことも対象です。 それらは、チャンスだと明らかにわかりやすいものとそうではないものとがありますが、 少し強引かもしれないけれど、 自分のためになる可能性があるものは、すべてそうなのかなと思いました。 そう思うことに慣れてくると、 不思議に今自分がしたいと思っていることへ、 つながるようなことが多く起きてきます。 逆に今不要なものというのもわかってくる感じがあり、 そぎ落とされていくような、 限定されたところに意識が向かうような感覚もあります。 したいことが決まると、 全身がアンテナになって、そこへ向かっていくんですね。 自分の口から発する言葉も、 何も知らない他人との会話もそうですし、 家族も心なしか、なんだか協力的なようにも感じたり、 見えてくるものも、今までと違ったものに目が向いたりします。 意識を向けるというのは、こういうことなのか? 今朝は一気に冷え込みまして、 盛岡はとうとう初雪が降りました。 急に冬がやってきたことを感じ、 その準備が整えば、あっという間にやってくるものなんだと思いました。 そして、来てしまえば、もうそういうモードに入る。 チャンスもそんな感じなんだと思います。

【ミステリと言う勿れ】とパターン

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菅田将暉さん主演【ミステリと言う勿れ】観てきました。 少しネタバレになってしまったら、すみません・・・ あ、これ、パターンのことだと思ったセリフがあったのです。 「子どもは、乾く前のセメントのようだからー」 心無い大人たちからの言葉、 決めつけや押しつけ、お前も大人になったらこうなる的なことを言われたら、 それはそのまま、その子の心の中にとどまり、 セメントのように固まってしまうということ。 乾いてしまったセメントはどうやっても壊れず、 そのまま大人になって、そういう自分になっていくんだと・・・ でも、この心無い言葉は、自分の中から創られたものではなく、 自分が外から刷り込んでしまったものなので、 どうにでも選び変えることができるのです。 このからくりに気づけるのかどうかで、 この先の人生の小さな選択一つ一つが変わっていくのですね。 映画では、主人公が呪縛に苦しむ高校生の女の子にさとしていました。 「君はまだ、子どもだから大丈夫だよ」 まだ、大人になっていないから、 セメントは乾ききっていないから間に合うんだよと、 教えたかったのだと思います。 大人になってしまっても、 それに気づいた時からでも、全然遅くはない。 充分間に合うのだと、映画を観ながら心の中で思いました。 もう固まってしまった考え方や信念は変えられない、 自分の人生はもう変えられないんだ、 と思う必要はないのです。 大人が、子どもに与える影響というのは計り知れず、 大きな傷を残すことがありますが、 でも、そこに自分が居続けたいと思うのかどうかの選択は、 誰にでも平等に与えられています。 そのことを実感するために、 パターンを知るという一つの方法があるのですね。 他にも何か違う方法があったり、 それを知らずとも、自分の人生を歩いていける人もいるのかもしれませんが、 今の私は、この方法がとてもしっくりきている。 そういうことなんだなあと思いました。 この映画、すごくおもしろかったと言っている人が多いのですが、 しばらく観ようかどうか迷ったのは、 犬神家の一族的なシーンがあったらどうしよう・・・って思ったのです。 そういう怖さはめっぽうダメなのです。 でも、違う怖さとおもしろさでよかった。 一ツ橋 如水会館

違った景色を見たい

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自分の殻を破ろう・・・と思うとき、 それを叶える方法として(簡単ではないかもしれないが)、 今までとは違う選択、違う行動をとってみるといいです。 いつもなら、こういう選択は自分はしないというものを、 あえてやってみるのです。 殻を破ってどうなりたいのか?というと、 今までと違った景色が見たいのかもしれません。 今まで感じられなかったものを、感じてみたいのです。 そういう好奇心が自分にはあります。 それで、いざ、いつもと違った選択、 苦手なことや、やりたくないこと、やったことがないことをしてみる。 そこで何が起こるかといえば、 意外にも、あ、こんな感じなんだ・・・ と、かなり拍子抜けするほど、 もうすでに過ぎ去ったものになっているんですね。 もうこの先どうなっていくのか? ということはどうでもよくなってしまうような、 もう次に進んでいるような・・・そういう感じがあります。 どんな人も、 こんなふうなことを大なり小なり繰り返しながら、 これまでやってきたんだと思います。 子どもの頃は、その展開がとても早く、 成長のスピードもめざましかったと思う。 でも、大人になるとどういうわけか、 展開は遅いどころか、 停止してしまっているかのように感じてしまうこともあります。 なんだか全然成長していないし、変わっていない・・・と。 それで大人は、 子どもよりも意識的にこの体を使って、 行動するということをやっていった方がいいのかもしれない、と思いました。 その結果を期待せずに、思い描かずに、 今をたのしむような感じで子どものようにやれたらいい。 そうやって一つのいい体験が、また次のいいものを呼びよせ、 そして、結果が付いてくるときもあるし、 ないものもある(時間を経過してくるときもあり)。 だから、プロセスに重きを置く。 違う景色というのは、この過程でもう見れているんだと思います。 皇居のお堀 まるで鏡!

審美眼

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ずっと気になっていた 茅ヶ崎美術館 。 8月に行ったときは時間がなく、建物の入り口までだったのですが、 今回はちょうど『小津安二郎の審美眼』が開期中で観てきました。 美術館にたどりつくまでの、 高砂緑地と呼ばれるお庭が、なんとも気持ちのいい場所となっています。 茅ヶ崎駅から海までの途中、このあたりに名前の通り砂地があったそうで、 足元の土には砂が混ざって名残がありました。 さて、小津安二郎監督の映画『東京物語』は観たことがありますが、 それ以外は何にも知らないので、 タイトルにある、審美眼ってなんだ?? と思って入りました・・・が、 なんと、なんと、 私にとってはちょっと感動的な出会いとなりました。 映画で使われたものが展示されていたのですが、 その味のある素晴らしいものたちに釘づけになります。 生活品や小道具、絵画など、そこに意味なくおいているものなど無いのです。 例えば、ちゃぶ台の上においてある湯吞一つとっても、 小津さんの民藝を愛するこだわりがつまっていて、 生活の中の美に、なんともいえない品を感じます。 この、ちょっとしか映らないものの色と形を映画の構図と合わせているんですね。 俳優の衣装も、役柄の性格に映えるものを考えたり、 それぞれの小道具に、物語の内容、 そのセリフにふさわしいものを随所にちりばめるというすごさ。 民藝館に展示されていてもおかしくないような逸品が、 さりげなく映画のワンシーンに起用され、 時にほっこり、時にきりっと締まるような感じがありました。 「芸術のことは自分に従う」 と言った監督の感性。 とてもよくわかるような気がします。 映画のワンシーンで映った、茅ヶ崎海岸のモノクロ写真もありました。 当時はまったく何もないただの砂浜で・・・ 美術館の高砂緑地と景色がつながり、 今見えているもののうしろに、昔の自然豊かな茅ヶ崎を想像しました。 海岸まで続く道のりも、さぞかし美しかったんだろうなあ。 そう言えばよくカウンセリングの先生が、 そこに美しさがあるかどうかで話されていることがあります。 審美眼って、見た目的なものだけではないし、 あり方というところにも感じられるのかもしれません。 そういう感覚を何にでも持つことが、自分はとても安らぎを感じて好きです。 芸術を堪能したあとは~ 館内の陽当たりのいいカフェでランチをしました。 野菜がびっくり...

学ぶ姿勢、学ぶ動機

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学ぶことについて、中立ワーク(意味付け)をしてみます。 +プラスは、 成長する・生きやすくなる・人生をおうかできる・可能性が広がる・希望・楽しさ・おもしろさ・知識が増す・自分が磨かれる・自分を知る -マイナスは、 頭でっかちになる・なった気になる・思考に偏る・行動が伴わなくなる・慎重になりすぎる・プライドが高くなる・それ以外を否定する そして、中立(中庸)にあるものは、 学ぶというただ一つの体験です。 学ぶことが好きな自分ですが、 その動機の中に、 ⚫︎学ばなければ生きていけない というパターンを見つけました。 なぜならば、 自分は何の才能もないし、 学んでいるからこそやっと生きていられているし、 学ばなければ、何かつらいことがあったとき自分は乗り越えられない。 ってパターンは思っているんです。 だから学ばないというのは、あり得ないこと。 そしてある意味、学ぶことで安心を得たいと思っているのかもしれません。 このパターン、今回Mさんのカウンセリングを受けるまで、 ちょっと気づけなかったかもしれません。 茅ヶ崎、東京と、道場で学ぶ仲間たちと、 この2日間でいろいろなお話しができました。 このパターンのように一人では気づけなかったものがあったり、 核心にふれて胸がじーんときたり、 あまりの真剣さに笑えたり・・・ 自分はこういう時間がなによりも楽しいのだと思います。 でも、その学び方というか実践のしかたは人それぞれで、 何を思って感じてそこへ向かうのか・・・ 自分の弱い部分や、恐怖と不安があることを許しながらも、 その反対側にあるものを意識してやっているんだなあと感じました。 自分と向き合うというのは、 白パターンで取り組むことが一番大事なことかもしれません。 そして、学ぶ動機がどこにあるか、常にそこです。 いつもカウンセリングの先生や、他人から何か学びたいと思うとき、 あらゆる場面で、これってこういうことかな? とその意味を考えるクセが自分にはあるようにも思いました。 仲間のMさんから言われて、ハッとしたのですが、 その人の『ただある一つの体験』として捉えずに、 何かすごくいちいち意味を持たせ、複雑に思考していたんだと思いました。 そこから感じることより、そこから考える、考える・・・ ということを結構やっていたんです。 先ほどの中立ワークのように、プラスとマイナスはたし...

あたたかな気持ち

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先日、お天気がとても良かったので、訪問先へ早めに向かい、 少し遠くの駐車場に車をとめて歩きました。 あっという間に今年は紅葉がきた感じがあります。 山の紅葉を見に行こうと思っていたけれど、 もうとっくに里にも鮮やかな色の木々が目にとまるようになりました。 本当に見るものすべて、陽の光を浴びた自然の色って美しいです! 今年は、ニューヨークタイムズの記者に選ばれた街ということで、 たしかに外国人の方や観光客の方を見かけるようになりましたが、 やっぱり盛岡は盛岡で・・・ いつもの山、いつもの川、いつもの街並みで、 のんびり四季を感じる風景はほっとしますね。 自分が仕事のときに、 ラフな格好で休日の街歩きをしている風の人を見かけると、 「どうぞ、たのしい一日になりますように!」って、願う自分がいます。 そして、 自分が休みのときに働いている人たちを見ると、 「お~、今日もお仕事がんばってね」 とエールを送りたくなってしまいます。 こうして人間ウォッチングをして散歩しながら、 また自分へ意識をもどし、 あたたかい気持ちでいっぱいになっているなあと感じる。 このいい感覚で、 今日もいってみようと思うのでした。

その声は・・・

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昔、ほとんど声が出なかった期間があり、ふとその頃のことを思い出しました。 話すことにとてもエネルギーを使っていたなあ、と。 声がかすれる、呼吸がしずらい、咳がでる等々。 病気の後遺症なのですが、 なかなかあきらめきれないものがありました。 当時は、ナースコールで呼ぶにも看護師さんは私の声が聞き取れず、 一年くらいは、話の途中で何度も休憩をとっていたような調子でした。 そうなる前は、単なる声を出す、話す、というあたり前のことに、 意識を向けることなどなかったと思います。 でも、今は昔とは比べものにならないくらい出るようになりましたが、 人前で話すことがあるときは、 いつもより少し無理がかかるため、 自分の全神経がそこに注がれる感じがあります。 『がんばって声を出すぞ』と、勝手に体が集中するような感じです。 先日、いつも声が小さい方に、 就労支援の場面で指摘しなければならないことがありました。 もっと相手に聞こえるように意識して話さないと、 それは話していないことと同じになってしまうよ・・・と。 自分が声が出なかったときにいやだったことは、 身体的な苦しさや、音としての声質もいやだったですし、 人と意思疎通ができなくなることもつらかったと思います。 聞き取れなかった相手は、 だんだん聞き返すのも面倒になって、 話すことをあきらめてしまうこともあるし、 自分も、ま、いっか・・・であきらめるようになる。 そんなふうに周囲との関係性が悪くなってしまっては、 と思い言ったのですが、 自分がちゃんと声を出したい、相手に話を聞いてほしい、 と本当に思わなければ、それはできないことかもしれないと感じました。 声への指摘って、なぜかしずらかったりしませんか?(自分もたまにある)。 声が小さくて全然聞こえなかった~ って後から聞かされることがありますよね。 自分の耳が遠いだけなのか、 話を折ってはいけないと思うからなのか、 それとも、声は体の一部であるからそこを指摘するのは失礼なように感じるのか? 全部パターンが思っていることです。 また、声が小さい人は、比較的耳がよいというか、 聞こえるという感覚が過敏な人が多いようにも思います。 だから、自分自身も小さな声で十分聞こえていると感じているかもしれません。 どんな声の人であっても、その人の話を聞きたいのかどうか、 自分側の問題なのでしょう...

快から不快に転じるとき

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自分の感情がわからないときに使う、 「快」か「不快」か?という問いかけですが、 これは、対人にも言えることで、 自分にとっていい感じの人なのか、そうではない人なのか? と直観的にざっくり分けられていたりします。 自分にとって「快」と感じていた人が、 一転して「不快」に感じてしまう・・・ということがあるのですが、 それは、ほとんどの場合、相手が(状況が)自分の思い通りにいかなかったときです。 そもそも、人は、 自分の思い通りにいかないことに対して、 怒ったり、悲しんだり、寂しがったり、もやもやしたりしているんだと思います。 かたや思い通りにいかなくても、 まったく気にならないということもあります。 それは、相手に何の期待もしていないとき、しなくてもいいときかもしれません。 人に何かしらこうなってほしい、こうなるだろう、 という思惑はすべて、 そうでないと自分が困るようなことがあるからです。 そして、ひそかにどこか人に対して期待をしているのです。 人間関係を不快なものにしたくないというより、 自分の気分がよいようにしたい(自分を不快にさせたくない)。 だから、自分の思い通りであってほしいのだ。 人がどんなパターンを持ち、どんな選択をしていくのか、 そこにもちゃんと自由意思があります。 その意思を否定し、自分のパターンで、こうあるべきだと、 コントロールしようとしていた自分がいたんだなあと思いました。 これも、感情が動かなければ気づけないことでした。 いくら、その人を理解しているとか、 その人を尊重してきたとか思っていても、 自分のパターンに触れたとたん、感情が暴れだすということは、 ただ単に、今までは、 その人が自分のパターンにたまたま引っかかるようなことをしなかった、 だけなのかもしれません。 感情は正直なので、他人には気づかれなくても「私」はちゃんと冷静に観察しています。 ●自分の思い通りにしたい というのは、黒パターンの王様。 このパターンが、人としての苦しみの根源としてあり、 これがいろいろ、パターンの名前を変え、すがた形を変えて現れるのです。 でも、この王様パターンのとなりには、 〇自分の思い通りでなくても、もういいのかもしれない もあります(相反するものがある)。 もしも、思い通りでなくても自分が大丈夫であるのなら、 そこには自由があり、すがすがしい関係性が...