友達、仲間、同士

思いがけず友人からクリスマスプレゼントをもらいました。
包み紙をあけると、そこには手編みのカエルが・・・笑。
彼女の作ったものならば何でも自分は好きかも?と思いました。

広辞苑での『友達』の定義は、
親しく対等に交わっている人、だそうです。
自分は友達があまりいない方だと思っていますが、
この定義の視点ならば、
結構な人数があてはまるような気がしました。
上司と部下、先生と生徒、先輩と後輩、年上年下など、
人としてはどんな人でも、みな対等だと思うからです。
親しくなればなるほど、相手との距離が一定になっていくような、
ちょうど良い空間ができるような感じがします。

唯一、少しだけ関係性が違うと感じるのは、
自分にとって多くの気づきを与え、導き、私の先を歩く人。
身分や立場や年齢ではなく、
魂の領域が自分とは違う・・・という感じを受ける人がいます。
自分が見えていないものを見ているような人。

自分が何か悩んでいるときや、迷うことがあったとき、
自分がいる領域では、決して気づけないことがあると思うのですが、
そのときに、そういう人からどうにかして教わりたいと思ったりします。
直接教えを乞うということができなくても、
自分の目に耳にそれを知ることができるよう、アンテナを張っていたいなあと思います。

そういうためにも、普段親しくお付き合いする人というのは、
誰でもいいわけではないかも。
この人といると楽しいおもしろい、っていうのは共通しますが、
一緒にいると、自分に正直でいられるという感覚を大切にしているかもしれません。
それは、たくさん愚痴を言い合える仲、超仲良し、というのとはちょっと違います(たまにはあっていいけど)。

以前は、自分のパターンを満たすために付き合っていた交友関係がほとんどでした。
一緒にいてパターンが騒がないからいるというよりは、パターンが喜ぶことをしてくれる相手を選んでいたのです。
今はもうそういう関係は、自分自身が疲れてしまうし長続きしないことを知っています。
逆に自分がどんな動機でその人と関わっているかによって、
関係性が良い方へ変わっていくことも経験としてわかってきたように思います。
相手の言動に自分のパターンは引っかかりながら、
そこに一人でちゃんと向き合える自分でありたい。
それが「私」の望むことなのだと思います。

どんな性格でもどんな生き方でも何をしていても、
みな一生懸命がんばって生きていることには変わりありません。
それぞれ課題が違うので、生き方も違います。
そしてまた、魂の成長を目指すという意識がなくたって、
みんなそこを目指すためにこの地球に誕生した仲間、同士なのだ。

今そばにいる縁のある友達を、
大切にしていきたいなあと思います。


カエルを眺めながら、ワインで乾杯!



















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