愛しく語りかける

久しぶりに騒いでいるパターンがあり、語りかけをしています。
久しぶり・・・というくらい、以前はしょっちゅう引っかかり、
そのパターンは本当に小さな子どものように、
母には母であってほしいと、
自分の知っているお母さんでいてほしいというパターンが騒ぎました。

人は、赤ちゃんだった頃は何をしても可愛いし、
反抗期は大変だけれど、またいろいろ物事がわかるようになると、
その成長はとても微笑ましいものです。
日々の変化を楽しみに子どもの成長を見守れる、幸せな満ちた気持ちがそこにあります。

なのに、大人が老いていくということに対して、
これも人として自然な変化ではあるのに、受け入れがたいものがあるのはなぜなのでしょう。
どうして、子どもは喜ばれ、老いた年寄りはそうではなくなっていくのか。
老いていくこと、できないことが増えていくこと、わからなくなっていくこと。
そうなることに本当に喜びはないのだろうか?

変わっていく老いていく母を見ていると、
悲しみ、虚しさ、寂しさ、いらだち、悔しさなどいろいろな感情がわきますが、
それらの中にも、喜びや笑い、幸せに満たされている自分を感じていることがあります。
老いていく母がいるからこそ、そういうものを感じられるようになった気がします。

(自分のパターンの)思い通りにならないことがあっても、
その中にもいわゆる自分にとっての『いい感覚』を抱くことはたくさんあるのです。
それは、忘れていたと思っていたことが忘れていなかったり、
出来なかったことがやれていたりということでなく(それもたまにあるが)、
変わってしまった中にも、母であることに変わらない部分もより感じられるからかもしれません。
顔にあるシワを見たり、
手をにぎり体温を感じたり、息づかいを感じたり、
そういうものを通して私が満たされている感覚があります。

パターンが騒ぐのも人間だけれど、
いい感覚を持って生きられるのも人間の特技なのかもしれません。
パターンのケアをしていくと確かに心は落ちつきを取り戻し、
そしてまた白パターンの感覚(母を自由にしていこう、自由な母のままを見守っていこう)
を選んでいく。
パターンが騒いでも騒がなくても、
この自分だけのいい感覚というものは、本来自分が持っているものなんだと思いました。

きっといつかは、
私も自由奔放なおばあちゃんになる日が来る。
その準備を母がいることで自然に身につけられている。
それは気づきにくいことですが、実感できること、安心できることでもあるかもしれません。

●母らしくいてほしい、というパターンを愛しく語りかけていきます。








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